③ 予選会スタート

「そもそも、ヘンだと思わなかった? 神宮寺さんってダントツの持ちタイムなのに、なんで私たちと同じ1組にいるのさ?」

「えーっと……それって珍しいの?」


楓が問い返すと、ラギちゃんの饒舌ギアが二段階ぐらい入ってしまった。


「珍しいよ! 普通、みなと駅伝の予選って、遅い順に1組から4組に振り分けられるの。神宮寺さんが最終組じゃないとかありえない!」

「へぇ。本当、よくそんなことまで知ってるね」


感心する楓に、ラギちゃんが得意げに胸を張る。


「そりゃ、駅伝オタクですから? この予選だって、もう何十年と見てきているわけよ」

「何十年って……。ラギちゃん、私と同じ十八歳でしょう?」

「言葉のアヤよ。それくらい何度も見てるってこと!」


この予選では、各チーム八名の代表選手が二名ずつで走り、上位七名の合計タイムで競う。総合4位以内に入れば、晴れて10月の横浜みなと駅伝本戦への出場が決まる。


色々教えてもらっておいて悪いけど、スタートが迫る今、エリカさんの謎について考えている余裕はなかった。


「ハイ。それじゃ1組の選手、どんどん入場してくださーい!」


スタッフの人の声が響くと、選手たちが一斉に駆け足でトラックへ飛び出していく。周囲の空気の切り替わりように、新人二人は首をキョロキョロさせながらまごついてしまった。


楓が一歩踏み出そうとした瞬間、何人かの肩が通り際にぶつかった。けれど、誰一人振り返ることもなく、足早に通り過ぎていく。


——雑音が流れ込んでくる。


「やっだー、ワタシ、カメラに撮られちゃったー」

「ブスのくせにね」


それは誰に言うわけでもなく、空気中に吐き捨てるような言い方だった。だが、楓はすぐに気づいた。これは自分に向けられたものだ。


(まただ……)


一度気になってしまうと、耳が全ての音を拾ってしまう。ヘッドフォンをつけられたみたいに、一つ一つの言葉が鮮明に聞こえてくる。コソコソ話も、くぐもった笑い声も、全部。


「調子乗んな」

「てか、どこのユニフォーム?」

「知らなーい、弱そっ」


陰口は刃物だ。鋭く胸に突き刺さり、振り払おうとしても、染み込んだ音は消えてくれない。


心がざわつく。呼吸が浅くなる。音が増幅して、頭の奥まで響いてくる。


(やめて……やめて……)


バチバチバチッ! そのとき、突如何かの破裂音が連なり、波のように押し寄せてきた。響き渡る轟音が楓の鼓膜を激しく揺さぶる。


(えっ、なんの音?)


一瞬、何が起こったのかわからなかった。頭の中を支配していた悪い呪文を、まるごとさらうような強烈な音の波。飲み込まれそうになりながらも、必死に自分の足で踏みとどまった。


(これって、まさか)


スタジアム全体が一つの生き物のようにうねり、渦を生み出している。バチバチバチ……パチパチパチ……。耳に流れ込んでくる音の輪郭が、次第にはっきりしてくる。


渦の周りを見渡す。音の正体は、スタンドの観客たちの拍手喝采だった。それだけじゃない。応援団の太鼓、声援、トランペットの音——。この人たちは、ずっと選手の入場を待っていたんだ。


「〇〇大学、行けぇぇぇ!」

「がんばれよぉ!」


(すごい……)


各大学の応援合戦も始まり、スタジアムのボルテージは最高潮に達している。ここにはエネルギーがある。圧倒的な熱量がある。たとえ楓たちの大学を応援しているわけじゃなくても、スタジアムの空気そのものが背中を押してくれている気がした。


ぐいっ。ラギちゃんがたくましく楓の腕を引く。


「ほら、私たちも行こっ」


光が差し込んだように、ノイズが遠のいた。



57、56、55……。会場の巨大スクリーンでは、すでにカウントダウンが始まっていた。フットギアを履いて走るレースでは、スタート前に「一分間の試走時間」が設けられている。選手たちはここで短いダッシュや動作確認を行い、フットギアの設定を微調整する。


(グリップサポート、オン。クッションはソフト。ソールはフラット。ピンは……一番長いやつだったよね)


フットギアを履いて間もない楓には、設定と言われてもまだ手探り状態。監督からアドバイスされた通りの典型的な初心者向け設定のまま、トラックの端をウロウロするだけの時間になった。


前方では、エリカさんが第1コーナーへと勢いよくダッシュしていくのが見えた。ずっと見ていたいと思うほど、美しいフォームだった。


実力が違いすぎる。すぐに置いていかれるのは明白だった。そう考えると、さっきのやりとりが最初で最後の接点だった。もしエリカさんと接近できるとすれば、せいぜい周回遅れにされるタイミングぐらいか。


「Ready」


スターターの声に、選手たちは一斉に動きを止め、それぞれのスタート位置へと戻る。楓もスッと深呼吸し、両の頬を軽く叩いた。


「On your marks——」


スピーカーから、位置について、の合図。17チーム、34名の選手たちが一礼をしてから、グッと身をかがめ、走路を見つめる。会場の空気が静まり返る。しばしの無音の時間、張り裂けそうな自分の心臓の鼓動だけが、くっきりと耳の中で反響していた。


(行くぞっ!)


パァン!


ピストル音が鳴り響くと同時に、張り詰めた空気が一気に弾けた。全国大学女子横浜みなと駅伝・関東地区予選、第1組のレースが始まった。


選手たちは反時計回りに、一周400メートルのトラックを12・5周し、5000メートルを走る。アウトレーンのグループでスタートした楓は、最初のコーナーが終わるまでは、縁石えんせきの外側を通らなければならない。


(えっと、最初のカーブは縁石を踏まないようにして……っと、痛っ!)


横から肘がぶつかり、体がぐらつく。あまり足元ばかり見ているわけにもいかない。しかし、次は後ろから押され、今度は左右からも。


(ねぇ、わざとやってない?)


足が絡まりそうになり、思わず前の人を押してしまうことはある。でも一度だけじゃなくて、二度、三度。これ、絶対に偶然じゃない。


縁石の区間が終わり、オープンレーンに変わると、外側と内側のグループが合流する。楓は囲まれ、集団の中に埋もれる形になった。すると、それを待っていたかのように、周囲の当たりがますます強くなった。


(痛っ、もう! 隠れとるからって、好き放題しとんじゃろ!)


ラギちゃんはおそらくこのゴチャゴチャの集団よりもさらに後方を走っているはずだが、いかんせん周囲がよく見えない。


エリカさんとの夢のような時間。今思えば、あれが災難の始まりだった。チームの予選突破がかかっている大事なレースで、こんな子どもみたいなことをしてくる人たちには呆れるが、それだけ楓が反感を買ってしまったのだろう。


誰もが憧れるトップスター。そんな彼女と、どこの誰とも知れない選手が二人きりで話していたら、面白くないと思う人がいるのは当然だ。


楓を襲っているのは、痛みだけじゃない。四方八方を悪意のあるランナーに囲まれた、閉塞感と恐怖。最後までちゃんと走り切れるのだろうか。チームに迷惑をかけてしまったらどうしよう。気持ちが、今にもひしゃげてしまいそうだった。


最初の一周の半分――200メートルを過ぎた頃だった。周囲の視線が、一斉に斜め右前へと向いたのを感じた。楓には、みんなが何に気を取られているのかわからなかったが、わずかな人垣の隙間から、目を疑う光景が飛び込んできた。



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