第5話 …………ありがとう

 錆びついた、見るからに悪趣味な鉄の塊。

 猟師が仕掛けたトラバサミだ。

 それが、一人の小さな少女の足に、無慈悲に食い込んでいやがった。

 まだ幼さの残る、小さなエルフの少女が、血を流して地面に倒れ、苦痛に顔を歪めている。


 なんで、こんな森の奥に、エルフの子供が?

 しかも、猟師の罠なんかに……。

 様々な疑問が頭をよぎるが、今はどうでもいい。


「おい、大丈夫か!」


 俺が駆け寄ろうとした、その瞬間だった。


「……っ、くるな!」


 少女が、絞り出すような声で俺を威嚇した。

 その翡翠色の瞳。

 そこには、ただの恐怖だけじゃない。俺たち人間という種族そのものに向けられた、底なしの憎悪と絶望の色が、どす黒く浮かんでいた。


 まるで、親の仇でも見るような目だ。

 その目に射抜かれて、俺の足が思わず止まる。


 面倒なことになった……。


 まただ。

 また、俺の平穏は、目の前の小さな命によってかき乱されようとしている。

 クータルを拾った時と同じ、厄介ごとの匂い。


 だが。

 血を流して、それでも必死にこちらを睨みつけてくるこの小さな生き物を、このまま見捨てて帰れるほど、俺は薄情な人間じゃなかった。


「落ち着け。あんたをどうこうしようってわけじゃねえ」


 俺はゆっくりと両手を上げて、敵意がないことを示す。

 背中のクータルが、もぞりと動く気配がした。


「動くな、傷が開く。ただの通りすがりの冒険者だ。見ての通り、赤ん坊連れのな」


 ぶっきらぼうに、だが、できるだけ優しい声色を意識して言う。

 少女は警戒を解かない。


 だが、俺はもう構わずに、その足元に膝をついた。


 トラバサミの構造は単純だ。

 だが、下手にこじ開ければ、刃がさらに肉に食い込む。

 痛みを最小限に、一瞬で終わらせる。


 ――昔、仲間が罠にかかった時も、こうやって処置した。


 蘇る、懐かしい記憶。

 歯を食いしばり、俺はそのイメージを頭から追い出す。

 今は、目の前の命に集中するんだ。


「少し痛む。我慢しろ」


 俺は少女の細い足首をしっかりと掴むと、トラバサミの蝶番部分にナイフの柄を差し込み、全体重をかけて、一気にこじ開けた。


 ギチチッ……バキンッ!


 鈍い金属音と共に、鉄の顎が解放される。

 少女が「ひっ」と息を呑んだが、叫び声は上げなかった。

 気丈なガキだ。


◇◇◇


 罠から解放された足の傷は、思ったよりも深かった。

 ざっくりと裂けた肉から、赤い血がじわりと滲み、土を汚していく。

 このままじゃ、破傷風か出血多量で死ぬ可能性もある。


「動くなよ」


 俺は背負い袋から、いつも持ち歩いている応急処置セットを取り出す。

 清潔な布、消毒用の安物の酒、そして薬草。

 まず、水筒の水で傷口の土を洗い流す。少女の体がびくりと震えた。


「しみるぞ」


 次に、止血効果のある薬草の葉を数枚口に放り込み、ガムみたいに噛み砕く。

 それを、唾液と混ぜてペースト状になったものを、傷口に直接塗り込んだ。

 上級ランクの冒険者が見たら眉をひそめるような、荒っぽい処置だ。

 だが、これが一番効くことを、俺は経験で知っている。


 少女は、ただ目を見開いて、俺の手際を呆然と眺めていた。

 その瞳から、さっきまでの憎悪の色が、ほんの少しだけ薄れている。


 最後に、清潔な布で傷口をきつく、だが血が止まらない程度に縛り上げる。


 よし。

 完璧とは言えねえが、当座の処置はこんなもんだろう。


◇◇◇


「……終わったぞ」


 俺がそう告げても、少女は何も言わない。

 ただ、じっと俺の顔を睨みつけている。

 まだ、俺を信用しちゃいないらしい。


 ふぅ、と俺はため息をついた。

 さて、どうするか。

 処置はしたが、このまま森に置いていけば、どうせすぐに野犬か何かの餌食だ。


 連れて帰る……?

 クータル一人だけでも手一杯だってのに、もう一人?

 しかも、人間を嫌ってる、エルフのガキを?


 冗談じゃねえ。


 心の底から、そう思う。

 だが、頭の片隅で、別の声がする。


 お前、本気で見捨てられんのか?


「……ちっ」


 俺は悪態をつきながら、ガシガシと頭を掻いた。

 もう、答えは出てるじゃねえか。


「文句は後で聞く。とりあえず、家に来い」


 俺はそう言うと、有無を言わさず、衰弱しきった少女の体を横抱きに抱え上げた。

 想像以上に軽い。

 ちゃんと飯を食ってこなかったんだろう。


「……はなせ」


 少女がかすかに抵抗する。

 だが、その声にはもう、力は残っていなかった。


 家に着くと、俺は少女を俺のベッドにそっと寝かせた。

 普段、俺しか使わない、汗臭いベッドだ。

 文句の一つも言われそうだが、今は仕方ねえ。


 すると、背負い籠から降ろされて自由になったクータルが、てちてちとベッドに近づいてきた。

 そして、興味津々といった様子で、ベッドに横たわるエルフの少女の顔を、じっと覗き込む。


「あー?」


 クータルが、無垢な声を発した。

 その瞬間、ずっと氷みたいに硬い表情をしていた少女の頬が、ほんのわずかに、緩んだ気がした。


◇◇◇


 少女は眠っているのか、気絶しているのか。

 とりあえず、何か腹に入れさせねえと。

 俺は台所に立つと、今日採ってきたばかりの『清流の雫草』と、戸棚の奥にあった干し野菜、それと塩漬けの干し肉を少しだけ取り出した。


 トントントン、とナイフで具材を細かく刻んでいく。

 鍋に水を張り、それらを放り込んで、暖炉の火にかける。

 コトコトと、鍋が心地よい音を立て始めた。


 病み上がりの体にも優しいように、薬草で滋養をつけ、塩気はごく控えめに。

 ただ生きるために覚えた料理の腕が、今は他人のために振るわれている。

 我ながら、おかしな話だ。


 やがて、部屋に優しい匂いが立ち込める頃、スープは完成した。

 木の器によそい、ベッドの脇に持っていくと、少女はいつの間にか目を覚ましていた。

 そして、スープの入った器と俺の顔を、交互に、疑いの目で見てくる。


「食え。毒なんざ入ってねえよ。食わなきゃ死ぬだけだ」


 俺はそれだけ言うと、器とスプーンをベッドの横の小机に置き、部屋の隅の椅子にどっかりと腰を下ろした。

 無理強いはしねえ。

 食うか食わねえかは、こいつが決めることだ。


 沈黙。

 パチパチ、と暖炉の薪がはぜる音だけが響く。


 五分か、十分か。

 やがて、少女の腹が、くぅ、と小さく、情けない音を立てた。

 それに観念したように、少女はゆっくりと上体を起こすと、おそるおそる、器に手を伸ばす。


 そして、スプーンでスープを一口、警戒しながら口に運んだ。


 その瞬間。

 少女の翡翠色の瞳が、大きく見開かれた。


 温かい味が、何日も、あるいは何週間も、凍てついていた彼女の心と体に、じんわりと染み渡っていく。

 張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。


 ぽろり。


 ぽろ、ぽろり。


 少女の大きな瞳から、大粒の涙が、後から後からとめどなく溢れ出す。

 少女は、声を殺して泣きながら、それでも、夢中でスープを飲み続けていた。


 やがて、器が空になる。

 少女は空になった器を胸に抱きしめたまま、しばらくの間、静かに肩を震わせていた。


 そして。


 俺の方を見ようとはしないまま、か細く、消え入りそうな声で。


「…………ありがとう」


 そう、呟いた。


 べつに感謝されたくてやったわけではないが、それでも、嬉しいのは事実だった。


――――――――――――――――――

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