第七話:広がる波紋と、小さな信頼
猛の「うまい」という呟きと、それに続いたゴルンの驚愕の表情は、食堂の喧騒の中に、確かに小さな波紋を広げた。ゴルンが自分の皿に目を落とし、信じられないものを見るようにシチューを凝視している姿に、周囲の兵士たちがざわめき始める。
「どうしたんだ、ゴルン? 何かあったのか?」
「まさか、あの新入りが何かしたってのか?」
数人の兵士がゴルンに問いかけ、猛の皿と、彼が塩を掬った場所へと視線を向ける。ゴルンは、まだ信じられないといった顔で、スプーンを口から離し、ゆっくりと猛に顔を向けた。
「おい、てめぇ……本当に、これ、食えるのか?」
ゴルンは、そう言いながらも、その言葉には先ほどまでの嘲りや呆れの色はなく、純粋な疑問と、わずかな期待が混じっていた。猛は静かに頷いた。
「はい。これは……元の世界では、料理の味を調えるのに使うものです。これを加えると、料理が美味しくなります」
猛の説明は、この世界の兵士たちには理解の範疇を超えていた。料理の味を調える?そんな発想自体が彼らにはないのだ。しかし、ゴルンの反応は彼らの好奇心を刺激した。
「本当に美味くなるってのか? なら、俺にも試させろ!」
ある兵士が、そう言って猛の皿から直接、塩を少しだけすくって自分のシチューに加えた。別の兵士も、それに倣う。食堂の片隅で、奇妙な実験が始まったのだ。
そして、次々と、驚きの声が上がる。
「な、なんだこれ!? 全然違う味になったぞ!」
「嘘だろう!? いつものシチューが、こんなに……!?」
「くそっ、何だこの粉は!?」
兵士たちの顔には、驚きと興奮が入り混じっていた。彼らが何年も食べ慣れてきた、あの無味乾燥なシチューが、猛が加えた白い粉一つで、まるで別の料理になったのだ。中には、興奮して立ち上がり、食堂の隅にある「清掃用の粉」の場所へと駆け出す者まで現れた。あっという間に、白い粉の周りには人だかりができ、皆が自分のシチューにそれを加えるべく、殺到し始めた。
食堂は、先ほどまでの喧騒とは全く異なる、驚きと喜びのざわめきに包まれた。
ゴルンは、その光景を呆然と見つめていた。彼の顔には、疑念と、理解できないものに対する戸惑い、そして、どこか複雑な表情が浮かんでいる。彼は、猛の隣で、再び自分のシチューを一口。そして、やはりその「美味しくなった」味を確かめるように、何度か頷いた。
「……信じられねぇ。こんなもの、ただの石ころみてぇな粉だとばかり思っていたが……」
ゴルンは低い声で呟いた。そして、改めて猛を見た。その視線には、もう侮蔑の色はない。代わりに、まるで不思議な生き物を観察するような、あるいは、何か未知の可能性を秘めた存在を見るような、そんな興味の色が宿っていた。
猛は、食堂の興奮した様子を眺めながら、心の中で安堵した。そして、この「スキル」の持つ可能性を改めて実感した。彼は、ただ単に言葉を理解しただけでなく、この世界の「当たり前」を覆すような発見を、このスキルによって成し遂げたのだ。記憶のない自分にとって、この能力は、この異世界で生き抜くための、強力な武器になり得る。
食事が終わり、兵士たちが三々五々、食堂を後にする。皆の顔には、今日の食事の衝撃が色濃く残っていた。中には、猛にちらりと感謝の視線を送る者や、不思議そうに見つめる者もいる。
「おい、行くぞ。明日も馬小屋の仕事は変わらねぇからな」
ゴルンが、いつものぶっきらぼうな口調で猛に声をかけた。だが、その声には、以前のような冷たい響きはなく、どこか連帯感のようなものが感じられた。ゴルンは猛を連れて、兵士たちが寝泊まりする大部屋へと向かう。そこは簡素なベッドが並べられているだけの場所だったが、猛はそこで、疲れた体を横たえることができた。
一日を振り返り、猛は静かに息を吐いた。初めての異世界での労働、そして、初めての大きな発見。ゴルンの厳しい指導は続くだろうが、この塩の発見によって、彼との間に、そして他の兵士たちとの間に、ごくわずかながらも「理解」と「興味」の橋が架かったように感じられた。この小さな繋がりが、やがて彼が記憶を取り戻し、元の世界へ帰るための、大きな一歩となるのかもしれない。
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