第9話 奈落への開幕

僕が放った呪いの粉末は王城の空調システムに乗り、音もなく色もなく匂いもなく、祝宴で満たされた大広間の隅々まで行き渡っていった。

それはこれから始まる惨劇の静かな、静かな開幕の合図だった。


眼下では貴族たちが高級なワインを片手に談笑し、楽団が奏でる華やかなワルツに合わせて優雅に踊っている。

誰もが幸福に満ちた笑顔を浮かべ、この国の未来と英雄たちの栄光を祝福していた。

僕の呪いが彼らの肺を満たしその血に溶け込み始めていることなど、誰一人として知る由もない。


そしてついにその時が来た。

国王による褒賞の授与が終わり、祝宴は主役である英雄たちを称える時間へと移る。

民衆や貴族から選ばれた代表者たちが次々と三人の前に進み出て、感謝と賞賛の言葉を述べていた。


最初の標的はアレクだった。

彼は全ての賞賛を一身に浴び、傲慢なまでの自信に満ちた笑みを浮かべていた。

その手に握られた聖剣、その鍛え上げられた肉体、そして数多の死線を乗り越えてきたという経験。

その全てが彼の揺るぎないプライドの源泉となっていた。

僕が処方した呪いは「敗北」。

その絶対的な自信を根底から覆すための悪夢だ。


一人の少女がアレクの前に立ち花束を差し出した。

「勇者様、おめでとうございます! かっこよかったです!」

アレクは満面の笑みで少女の頭を撫でようと、その手を伸ばした。


その瞬間だった。


アレクの動きがピタリと止まった。

彼の顔から血の気が引いていくのがバルコニーの上の僕からでもはっきりと見えた。

彼の瞳が目の前の可憐な少女ではなく、その背後、何もない空間を恐怖に見開いて凝視している。


「な……んだ……あれは……?」


アレクの唇から震える声が漏れた。

彼の目にはもはや華やかな祝宴の光景は映っていなかった。

国王も貴族たちも目の前の少女さえも消え去り、代わりに彼が今まで対峙したどのモンスターよりも巨大で禍々しい何かがそこに立っていた。

それは奈落の底で僕が屠った晶鱗のバジリスクの幻影。

その水晶の鱗はシャンデリアの光を不気味に反射し、その瞳は紛れもない殺意を持ってアレクただ一人を射抜いていた。


「化け物だ! なぜ、こんなところに化け物がいるんだ!」


アレクは絶叫し腰に差していた聖剣を狂ったように引き抜いた。

キンッと甲高い音が響き渡り、大広間の陽気な喧騒が一瞬で静まり返る。

音楽が止み全ての視線が主役であるはずの勇者へと注がれた。


「アレク!? あなた、何を……」

隣にいたリリアが怪訝な声を上げる。

だがその声はもはやアレクの耳には届いていない。

彼の世界では彼はたった一人、神話級のモンスターと対峙しているのだ。


「うおおおおおっ!」


アレクは雄叫びを上げ聖剣を構えて幻影のバジリスクへと突進した。

だがその足はもつれ、彼の自慢であるはずの剣筋は恐怖で乱れきっている。

空を切った聖剣が豪華な料理の並んだテーブルクロスを引き裂き、銀食器とグラスがけたたましい音を立てて床に散乱した。


「ひぃっ!」

貴族たちが悲鳴を上げ我先にと逃げ惑う。

「衛兵! 衛兵は何をしている! 勇者様がご乱心だ!」


アレクは周囲の混乱など意にも介さず、ただ彼にしか見えない敵に向かって無様に剣を振り回し続ける。

やがて彼は何もないところで足をもつれさせ、床に置かれていたワインの桶に頭から突っ込んだ。


ドッシャーン!


滑稽な音と共に赤ワインを頭から被ったアレクが、大広間の真ん中で無様に四つん這いになっていた。

かつての威厳など見る影もない。

その姿はただの恐怖に怯える哀れな男だった。

民衆の歓声は当惑へ、そして失笑へと変わっていく。

「敗北」の呪いは彼の肉体ではなくその魂を確かに殺したのだ。


次に呪いが牙を剥いたのはリリアだった。

彼女は目の前で起こった信じられない光景に冷静さを失いかけていた。

だが賢者を自負する彼女はすぐにこれが何らかの精神攻撃であると判断したらしい。


「落ち着きなさい、アレク! それは幻覚よ! すぐに解呪してあげるわ!」


彼女はアレクに駆け寄りながら高速で呪文を詠唱し始めた。

彼女の専門である解析と解呪の魔法。

世界の法則を解き明かしその理論に基づいて奇跡を再現する彼女のプライドそのものだ。

僕が処方したのは「混沌」。

その揺るぎない理論を内側から破壊する知性のための毒。


リリアは魔法を発動させるため両手に魔力を集中させた。

だが。


「……え?」


彼女の指先から生まれたのは秩序正しい魔法陣ではなかった。

それはまるで子供が描いた落書きのように歪で無意味な線の集合体。

魔力は制御を失いパチパチと静電気のような火花を散らすだけで何の現象も引き起こさない。


「そん……な……。

私の、術式が……?」


リリアは自分の両手を見つめ愕然とした。

彼女が人生の全てを捧げて学び探求してきた魔法理論。

その絶対であるはずの法則が今、彼女の世界の中だけで意味をなさなくなっていた。

1+1が3にもリンゴにもなるような冒涜的な混沌。


彼女はパニックに陥りながらも別の魔法を試みようとする。

だが口から紡がれる詠唱は意味不明な音の羅列となり、頭の中に浮かぶ術式はぐにゃぐにゃと形を変えて彼女を嘲笑うかのように消えていく。


「違う……。

なぜ……。

法則が……。

因果律が……。

ああ、あああ、ああああああ……!」


リリアは頭を抱えてその場にうずくまった。

その瞳からは知性の光が完全に消え失せ、ただ理解不能な恐怖だけが映っている。

偉大な賢者は世界の真理を見失い、己の精神という迷宮の中で永遠に彷徨うこととなった。


そして最後はセラ。

彼女は二人の仲間が次々と崩れ落ちていく様を一瞬呆然と見つめていた。

だがすぐにいつもの慈愛に満ちた聖女の仮面を被り直す。

これこそ彼女が輝くための最高の舞台だとでも思ったのだろう。


「お二人とも、お気を確かに! 邪悪な何かが、この場を穢しているのですね! ですが、ご安心ください! この私が、聖なる光で、全てを浄化してみせます!」


彼女はそう高らかに宣言すると倒れたアレクとリリアの間に跪き、祈りの姿勢を取った。

集まった人々は最後の希望を彼女の姿に託した。

おお、聖女様ならきっとこの惨状を救ってくださる、と。

僕が彼女に処方したのは「露悪」。

彼女がひた隠しにしてきた醜い本性を白日の下に晒すための真実の薬。


セラは両手を天に掲げ癒やしの奇跡を発動させようとした。

彼女の身体から眩いばかりの聖なるオーラが立ち上る。

人々はその神々しい光景に安堵のため息を漏らした。

だが。


彼女の口から紡がれたのは癒やしの祈りではなかった。


「あはっ! 何、この様! 最高じゃない!!」


鈴を転がすような、しかしどこまでも下劣な歓喜の声が大広間に響き渡った。

人々は自分の耳を疑った。


セラは恍惚とした表情で狂乱するアレクとリリアを見つめている。

「見てよ、アレク! いつも偉そうにしてたくせに、幻に怯えて、ワインまみれ! みっともなくて、ゾクゾクしちゃうわ!」

「リリアも! その理屈っぽい顔が、絶望に歪んでる! もっと! もっと壊れていくところが見たい! ああ、神よ! この素晴らしい光景を、ありがとうございます!」


彼女の身体から放たれる光は聖なるものではなく、他人の不幸を喜ぶどす黒い欲望のオーラへと変質していた。

隠しきれない本性が呪いの力によって彼女自身の意思とは関係なく、その口からその表情から溢れ出してしまっているのだ。


「え……?」

彼女の信奉者であった貴婦人たちが絶句する。

彼女に花束を渡した少女が恐怖に顔を引きつらせて後ずさった。


セラはそんな周囲の変化にも気づかず二人の仲間を指さし、腹を抱えて笑い続けている。

その姿はもはや聖女などではない。

他人の苦しみを糧とする醜悪な悪魔そのものだった。


大広間は完全なパニックに陥った。

英雄たちの突然の狂乱。

人々の悲鳴と衛兵たちの怒声が入り乱れる。


僕はその全ての光景をバルコニーの闇の中から静かに見下ろしていた。

僕の口元には満足に満ちた冷たい笑みが浮かんでいた。

ざまぁみろ。

それがお前たちの本当の姿だ。

僕がしたことはただその化けの皮をほんの少しだけ剥がしてやっただけだ。


僕の復讐の第一幕は終わった。

僕は誰にも気づかれることなく静かにその場を後にする。

これから王都は堕ちた英雄たちのスキャンダルで大騒ぎになるだろう。


だがこれはまだ序章に過ぎない。

僕の復讐は始まったばかりなのだから。

僕は再び王都の闇の中へと溶けていった。

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