第2話 始まりの苗床
完全な闇と静寂。
勇者たちが去ってから、一体どれくらいの時間が経っただろうか。
肌を刺すような冷気だけが、時間の経過と共に僕の体温をじわじわと奪っていく。
恐怖は、腹の底で燃え始めた復讐心という名の熱によって、どこか遠くへ追いやられていた。
今はただ、この身一つで生き延び、あの三人に最大級の絶望を届けるための、冷静な思考が必要だった。
僕はまず、現状を整理することにした。
場所は、大迷宮タルタロスの第十五階層。
並の冒険者なら足を踏み入れた瞬間に命を落とす魔境だ。
装備は、このみすぼらしい村人の服だけ。
武器も、食料も、水も、そして光もない。
あるのは、二つの役立たずなスキルと、ポーチに入っていた歪な泥人形だけ。
客観的に見れば、状況は絶望的の一言に尽きる。普通なら、発狂して闇雲に走り出し、最初のモンスターの餌食になるのが関の山だろう。
だが、僕には斥候として、嫌々ながらも彼らにこき使われてきた経験があった。
モンスターの気配の読み方、安全な通路の見つけ方、そして何より、この迷宮の構造に関する最低限の知識。
それは、僕が価値のない存在ではなかった、ささやかな証明でもあった。
「……まずは、拠点だ」
呟きは、誰に聞かせるでもなく闇に溶けた。
この階層を徘徊するモンスターは、縄張り意識が強く、定期的に同じルートを巡回する習性を持つものが多い。
逆に言えば、その巡回ルートから外れた、モンスターが寄り付かない「淀み」のような場所が必ず存在するはずだ。
僕はゆっくりと立ち上がると、壁に手をつき、慎重に歩き始めた
。視界は全く効かない。頼りになるのは、聴覚と、肌で感じる空気の流れ、そして足の裏から伝わる地面の感触だけ。
ポーチから取り出した泥人形――僕が「ノロイちゃん」と心の中で呼んでいるそれを、僕は自分のすぐ後ろに置いた。
命令せずとも、僕の魔力に引かれるように、それはゆっくりと後をついてくるはずだ。
どれくらい歩いただろうか。
何度か、遠くでモンスターの咆哮のようなものが聞こえ、そのたびに息を殺して壁の窪みに身を潜めた。
すると、不意に空気の流れが僅かに変わったことに気づいた。
そして、微かに、本当に微かに、甘いような、それでいて腐りかけの果物のような匂いが鼻腔をくすぐる。
これだ。
僕は匂いの源を探り、やがて人が一人、やっと通れるくらいの小さな亀裂を見つけた。躊躇なく、その狭い隙間に身体を滑り込ませる。
中は、意外にも少し開けていた。
広さにして六畳間ほどだろうか。
外の通路とは遮断されており、モンスターが入り込んでくる心配もなさそうだ。まさに、うってつけの隠れ家だった。
「ふぅ……」
安堵のため息をつくと、どっと疲労が押し寄せてきた。
しかし、休んでいる暇はない。次なる問題は、光の確保だ。
僕は記憶を探り、この階層に自生する『燐光苔』の存在を思い出した。
パーティにいた頃は、リリアに「魔術師の灯りがあれば、そんな原始的なものに頼る必要はない」と一蹴された、ありふれた苔だ。
僕は隠れ家の壁を丹念に手で探った。
湿った感触、ざらりとした岩肌。
そして、指先に、ビロードのようになめらかな感触があった。間違いない、燐光苔だ。今はまだ、僕の目には見えないほど微弱な光しか放っていない。
ここに、僕は初めて、自分の意思でスキルを行使した。
「【植物育成】」
手のひらから、ごく僅かな魔力が苔へと流れ込んでいくのを感じる。
しかし、何も起こらない。相変わらず、辺りは漆黒の闇に包まれたままだ。
「……そうか」
僕は自嘲気味に笑った。
僕のスキルは、いつだってそうだ。すぐに結果が出るような、便利なものじゃない。
焦るな。時間は、敵じゃない。今の僕にとって、時間は最大の味方だ。
僕はその場に座り込み、ひたすら待った。
体力を消耗しないよう、呼吸を浅くし、思考を巡らせる。
アレクの顔、リリアの顔、セラの顔。
三人が僕を嘲笑う顔を、脳内で何度も何度も再生する。
その屈辱を、憎しみを、腹の底の炎にくべて、さらに燃え上がらせる。
すると、どれくらい経った頃だろうか。
ぽつり、と。
目の前の壁に、小さな緑色の光点が灯った。
それは瞬く間に隣の苔へと伝播し、さらにその隣へと広がっていく。
まるで、闇という名の黒いキャンバスに、緑色の絵の具を一滴ずつ落としていくように。
やがて、僕が手を触れた一帯の燐光苔が、ぼんやりと、しかし確実に、緑色の光を放ち始めた。隠れ家全体が、夢の中にいるかのような幻想的な光に満たされていく。
「……きれいだ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
誰かに強制されるでもなく、自分の力で成し遂げた、初めての「成果」。
それは、絶望的な状況下で、僕の心に小さな、しかし確かな希望の灯をともしてくれた。
光を得たことで、僕は隠れ家の全貌を把握できた。壁際には、僕が見つけた燐光苔の他にも、いくつかの種類の植物が自生している。
そして、隅の方には、岩の裂け目から清水がこんこんと湧き出ている泉まであった。水の問題も、これで解決だ。
僕は泉の水を一口飲み、渇ききった喉を潤した。
次に、自生しているキノコの一つに手を伸ばす。斥候の知識によれば、これは『ドクケシダケ』という毒にも薬にもならない、ただ食べられるだけのキノコだ。
再び、【植物育成】のスキルを使う。
今度は、さっきよりもはっきりと、キノコの成長が目に見えた。
かさがみるみるうちに大きくなり、肉厚になっていく。
これもやはり時間はかかったが、数十分後には、僕の掌ほどの大きさになっていた。
生のままかじりつくと、土臭くて味気なかったが、空腹は何よりのスパイスだった。こうして、僕は光と水、そして食料を確保した。生きるための最低限の基盤が、この迷宮の底に出来上がったのだ。
生活基盤を整えた僕は、隠れ家の隅々まで探索を始めた。
すると、泉の近くの土が、他よりも黒く、そして湿っている一角があることに気づいた。何気なくその土を指で掘り返してみると、硬い何かに指先が触れた。
取り出してみると、それは小指の先ほどの大きさの、黒くて歪な形をした種だった。
「【植物育成】」
鑑定の意図を込めてスキルを使うと、脳内に直接、情報が流れ込んできた。
《怨嗟草(おんさそう)の種。周囲の負の感情を養分として成長する。
成長期間が長いほど、その茎、葉、花、そして種子に至るまで、複雑で強力な呪毒を宿す。呪毒は対象の精神に作用し、悪夢、幻覚、猜疑心、絶望感など、様々な状態異常を引き起こす》
――これだ。
僕は、その種を握りしめ、歓喜に打ち震えた。
これこそ、僕のために存在するスキルであり、僕のために存在する植物だ。
解毒草? 薬草? そんなもの、僕には必要ない。僕が求めていたのは、まさしくこれだ。
人を癒す力じゃない。人を、心を、内側からじわじわと蝕み、壊していく力。
僕は隠れ家の一番奥、誰の目にも触れない場所にその種を植えた。そして、土を被せたその上から、そっと手を置く。
僕は目を閉じ、これまでの人生で受けてきた全ての屈辱を、憎悪を、怨念を、魔力と共にその一点へと注ぎ込んだ。
アレクの傲慢な眼差し。リリアの冷たい声。セラの偽善に満ちた笑み。僕を馬鹿にし、見下し、踏みつけてきた全ての人間たちの顔。
「育て。僕の憎しみを吸って、世界で一番、悪意に満ちた花を咲かせるんだ」
種が、僕の感情に呼応するように、微かに脈打った気がした。
その時だった。
ガリガリッ!
隠れ家の入り口の方から、岩を引っ掻くような鋭い音が聞こえた。
しまった。油断していた。僕の魔力に引き寄せられたのか、それとも偶然か。
どちらにせよ、招かれざる客が来てしまったらしい。
息を殺して入り口を見ると、亀裂の隙間から、赤く爛々と光る二つの目がこちらを覗いていた。
大きさからして、この階層に生息する『グレイブ・ラット』だろう。単体では大した強さではないが、今の僕にとっては死神に等しい。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
だが、あの誓いを立てたばかりの僕が、ここで震えているわけにはいかない。
僕は傍らに控えていたノロイちゃんに、意識を集中させた。
「行け」
命令は、ただ一言。
僕の魔力に反応し、ノロイちゃんがゆっくりと、本当にゆっくりと動き出す。
一歩、また一歩と、入り口のラットに向かって進んでいく。
その歩みは、カタツムリが這うよりも遅い。
グレイブ・ラットは、最初、こちらを警戒していた。
だが、あまりにものろまなノロイちゃんの動きを見て、脅威ではないと判断したらしい。苛立ったように牙を剥き出し、一直線にノロイちゃんへと突進してきた。
鋭い爪が、ノロイちゃんの泥の身体を切り裂く。
しかし、泥人形に痛みはない。傷口から泥が少しこぼれただけで、ノロイちゃんの歩みは止まらない。ただひたすらに、前へ、前へと進み続ける。
ラットは何度か攻撃を繰り返したが、手応えのなさに飽きたのか、標的を僕へと変えた。僕を殺せば、この不気味な人形も動きを止めると思ったのだろう。
ラットが床を蹴り、僕めがけて跳躍する。
もう駄目だ。そう思った瞬間。
ずっと歩き続けていたノロイちゃんが、ついにラットの真横に到達していた。
そして、それまでただ歩くだけだったその腕が、滑るように持ち上がり、ラットの胴体目掛けて振り下ろされる。
それは、振り下ろされたというよりは、ただ「置かれた」と表現する方が正しいような、力のこもらない動きだった。
しかし。
ゴシャッ!
鈍い、水袋が潰れるような音が響いた。
ラットは悲鳴を上げる間もなく、その勢いのまま床に叩きつけられ、二度と動かなくなった。
僕は、目の前で起こったことが信じられなかった。
ノロイちゃんの、あの一撃。遅く、重く、そしてあまりにも致命的な一撃。
分かった。
ノロイちゃんの力は、速さじゃない。「時間」だ。僕が命令してから、目標に到達するまでにかかった時間。
その時間が長ければ長いほど、その歩みが遅ければ遅いほど、その一撃は、必殺の威力へと昇華されるのだ。
僕は、自分の隠れ家を見渡した。
ぼんやりと光る燐光苔。ゆっくりと、しかし確実に育ち始めているであろう怨嗟草。そして、一体のモンスターの死骸の傍らで、静かに佇むノロイちゃん。
これらが、僕の新しい世界の全てだ。
ここはもう、ただの隠れ家じゃない。
僕の復讐のための、始まりの苗床だ。
僕は、闇の中で、生まれて初めて、心の底から笑みを浮かべていた。
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