鈍足人形と毒草師の僕、勇者パーティを追放されたので、大迷宮の主になって世界をじわじわ蝕むことにした

龍月みぃ

第1話 役立たずの追放


壁から天井へ、そして床へと。


視界の全てを埋め尽くすのは、生きた肉のようにぬらぬらと脈打つように見える岩肌だった。まるで巨大な生物の体内を歩いているかのような、不気味な錯覚。


時折、壁の裂け目から漏れ出す燐光を放つ苔だけが、この永遠に続くかのような闇の中での唯一の光源だった。



じめり、と粘りつくような空気が澱み、一度吸い込むごとに肺が重くなる。


永い歳月をかけて染みついた苔と腐臭、そして時折、風に乗って運ばれてくる獣の血の酸っぱい匂いが混じり合い、吐き気を催させる独特の瘴気を生み出していた。


鼓膜の奥で微かに響くのは、どこか遠くで滴る水滴の音か、あるいは壁の向こうを這いずる何かの息遣いか。


それとも、この迷宮そのものが発する、低いうなり声のような地響きか。



五感を絶え間なく、じわじわと嬲るような不快感こそが、ここ『大迷宮タルタロス』が、単なる洞窟ではなく、意志を持った生命体であるかのような錯覚を抱かせる所以だった。



「おいジン! ぐずぐずするな! 足手まといが!」



背後から突き刺さったのは、勇者アレクの苛立ちを隠そうともしない怒声。


まるで硬い石を投げつけられたかのような衝撃に、僕は「は、はい! すみません!」と情けない声を絞り出した。


巨大な背嚢の革紐が、汗で湿った肩に深く食い込んでいる。


中には武具、食料、ポーション、野営道具と、パーティの生命線が詰まっている。


その重さは、僕一人の命より遥かに重いのだと、嫌というほど思い知らされてきた。


痛みで軋む全身に鞭を打ち、僕は必死に足を前に進めた。



これが勇者パーティにおける僕の役割。『荷物持ち』だ。



僕の名前はジン。パーティの末席を汚す、しがない斥候……というのは、あまりにも上等すぎる肩書だった。


実態は、誰よりも先に危険な道を進まされ、誰よりも重い荷を背負い、誰よりも価値のない存在として扱われるだけの便利屋だ。



「まったく、ただでさえお前のスキルは戦闘の役には立たないんだから、荷物持ちくらいまともにこなしてもらわないと困るんだがな」



吐き捨てるように言ったのは、パーティの魔術師であるリリアだ。艶やかな長い銀髪を揺らしながら、僕を路傍の石ころでも見るかのような冷たい視線で一瞥する。


その瞳には、侮蔑や怒りといった感情すら見当たらない。


ただただ、そこに僕が存在しているという事実そのものが不快で仕方ない、といった色のない光が宿っているだけだ。


まるで、完璧に整えられた数式の間に挟まった、意味のない染みを見ているかのように。


彼女の言う通りだった。

僕の持つスキルは、この英雄たちの集団において、無価値も同然の代物だ。



僕の持つスキルは二つ。

【人形生成 LV.1】と【植物育成 LV.1】



【人形生成】は、魔力を込めて泥やガラクタから人形を作り出すスキル。聞こえはいいが、僕が作れるのは動きが絶望的に遅く、見た目も不気味な泥人形だけ。


モンスターの気を引く囮にも、かろうじて壁役になることすら叶わない、まさに出来損ない。


そして【植物育成】。植物の性質を見抜き、その成長を促すスキルだが、僕がその力を及ぼせるのは決まって毒草や、何の役にも立たない粘菌ばかり。


解毒草や薬草を見つけられたことは、これまで一度としてなかった。


「まあまあ、リリア。ジンも頑張ってはいるのですから」



ふわりと、聖なる香油の匂いが鼻をかすめる。慈愛に満ちた声でとりなしてくれたのは、神官のセラだった。陽光を思わせる金色の髪、聖母のように穏やかな微笑み。


聖女とまで呼ばれる彼女の言葉に、一瞬だけ、凍てついた心が救われるような気がした。


……だが、それも本当に、一瞬だけ。


セラは他のメンバーには聞こえないよう、僕の耳元にそっと顔を寄せると、吐息に紛れるほどのか細い声で、くすくすと笑いながらこう続けた。



「ねえ、ジンさん。役に立たないのなら、せめて私たちを苛立たせないように努力してくださらないと。あなたがいるだけで、この神聖な探索が穢れてしまうような気がいたしますわ。神の御加護が濁ってしまいますもの」



柔らかな声色とは裏腹の、氷の刃のような言葉。悪意を砂糖で幾重にもコーティングしたような、こういう種類の暴力が、心の一番柔らかい場所を抉るのだ。


直接的な罵倒よりも、遥かに深く、いつまでも残り続ける傷となる。


どうせ僕なんて。


生まれた時からずっとそうだ。


何をやっても駄目で、誰からも期待されず、ただ息をしているだけの存在。


勇者パーティに拾われた時だけ、人生で初めて何かの役に立てるんじゃないかと愚かな夢を見たけれど、現実はこれだった。



思考という名の泥沼に足を取られ、現実への注意が散漫になっていたのだろう。ぬるりとした粘菌を踏みつけたことで、僕は無様に体勢を崩した。


「わっ……!?」


世界が、スローモーションになる。傾く身体、悲鳴を上げる背嚢、そしてそこから滑り落ちていく一本の青い小瓶。伸ばした指先が、虚しく空を切った。


あの小瓶は確か、リリアが「緊急時以外は絶対に使うな」と念を押していた、最高級のマナポーション。街一つ分の税収に匹敵するとかなんとか、自慢げに語っていた顔が脳裏をよぎる。


ガッシャーン!


甲高い破壊音が、迷宮の湿った静寂を引き裂いた。その音は異常なほど大きく響き渡り、僕自身の心臓が砕けたかのような錯覚さえ覚えた。


パーティの全員が、ピタリと足を止めて一斉に振り返る。その三対の視線が、凶器のように僕に突き刺さった。


背嚢の隙間から、鮮やかな青色の液体がじわりと染み出し、汚れた床石の上に小さな池を作っていく。それはまるで、僕の命が流れ出しているかのようだった。


「……お前、何してくれてるんだ?」


地を這うような低い声で、勇者アレクが言った。


その目には、もはや侮蔑の色すらなかった。道端で得体の知れない虫の死骸でも見つけたかのような、ただただ、無機質な光が宿っているだけだ。


「す、すみません! わざとじゃ……」


「貴様のミスが、わざとかどうかなんて関係ない。結果が全てだ。リリアのポーションを無駄にした。違うか?」


「そ、それは……そうですけど……」


「そうだろうな」


アレクは大きく、これ見よがしにため息をつくと、まるで肩についた埃を払い落とすかのように、僕にこう宣告した。


「ジン。お前は今日でクビだ」


空気が、凍った。


クビ。その一言が、意味を伴わない音の塊として、頭蓋の内側で何度も反響する。



「まあ、当然よね。こんな致命的なミスをするなんて、斥候としても荷物持ちとしても失格よ。存在価値、ゼロね」


リリアが嘲笑う。


「これも神の思し召し、なのでしょう。これ以上、パーティに災いが及ぶ前に、腐った部位は切り捨てるべきですわ」


セラが冷ややかに、しかしその口元には恍惚とした笑みを浮かべて微笑む。



僕が何かを言う前に、話は決まってしまった。


いや、僕に何かを言う権利など、このパーティに加わった瞬間から、最初からなかったのだ。



アレクは僕の背中から背嚢を荒々しく引き剥がすと、中身を地面にぶちまけた。


そして、僕が着ていた装備の中から、パーティの備品である革鎧やブーツを無言で剥ぎ取っていく。


残ったのは、みすぼらしい村人の服と、腰に下げた小さなポーチだけ。


中には、僕が暇つぶしに作った、歪な泥人形が一つ、虚ろなボタンの目でこちらを見つめているだけだ。



「いいか、ジン。ここがどこか分かっているな? 大迷宮の第十五階層だ。ここから地上まで、モンスターに一度も遭遇せずに辿り着ける確率はゼロに近い。つまり、生きて帰れると思うなよ」


「そ、そんな……殺す気ですか!?」


「人聞きが悪いことを言うな。俺たちは仲間を見捨てたりはしない。だが、お前はもう仲間じゃない。ただの役立たずだ。自分のミスで死ぬ。それだけのことだ。自己責任、というやつだな」



それが、僕が最後に聞いたアレクの言葉だった。


彼らは一度も振り返ることなく、迷宮の闇へと消えていく。遠ざかる松明の光が、僕のちっぽけな希望を一緒に連れて行ってしまったかのように、辺りは完全な暗闇と、墓場のような静寂に包まれた。



一人、残された。


死の匂いが満ちる迷宮の底で、僕はその場にへたり込んだ。


寒い。怖い。悲しい。


単純な言葉が頭をよぎるが、感情はもう、その言葉の形すら保てないほどにごちゃ混ぜになっていた。


涙すら出てこない。喉がカラカラに乾き、心臓だけがやけにうるさく脈打っている。


どれくらいの時間が経っただろう。


一分か、一時間か。闇の中では時間の感覚さえ曖昧になっていく。


「……あはは」


乾いた笑いが、唇から漏れた。


なんだ。なんだよ、これ。


クビ? 追放? 僕が何をしたっていうんだ。


ポーションを一つ、割っただけじゃないか。


それまで、どれだけ文句を言われながらも、必死に荷物を運び、夜は眠らずに見張りをし、危険な斥候役をこなしてきたと思ってるんだ。



脳裏に、これまでの日々が浮かんでくる。


アレクが強力なモンスターにとどめを刺すたびに、仲間たちは彼を称賛した。その影で、僕が必死に罠を見つけ、安全なルートを確保していたことなど、誰も気に留めない。


リリアが新しい魔法を習得すれば、パーティの戦力アップだと皆が喜んだ。


僕が夜なべして彼女の貴重な魔術書を雨から守っていたことなど、当たり前のように忘れ去られている。


セラが傷ついた村人に施しをする姿は、聖女そのものだと人々は噂した。


その施しのための薬草を、僕が泥まみれになりながら一日中探し回っていたことなど、彼女の記憶にすら残っていないだろう。


僕の膝の上で、ポーチの中から転がり出た泥人形が、虚ろなボタンの目でこちらを見ている。


動きが遅い? 不気味?


当たり前だ。お前たちの身勝手な都合で振り回され、溜まりに溜まった僕の鬱憤と呪詛を、毎晩毎晩、粘土をこねるように練り込んで作ったんだから。


お前たちの寝顔を見ながら、いつかこいつがお前たちの喉を掻き切ることを想像しながら、作ったんだから。


鑑定できるのが毒草ばかり?


当たり前だ。

いつか、お前たちの喉に、こいつらをすり潰して作った極上の毒を流し込んでやることを想像しながら、毎日毎日、飽きもせずに鑑定を続けてきたんだから。


この毒草がどんな苦しみを与えるのか、どんな風に顔を歪ませるのか、詳細に思い描きながら。



口に出したことは一度もない。


行動に移したことも一度もない。


ただ、心の奥底で、ずっと、ずっと、反芻し続けてきた。


アレクの傲慢な視線。リリアの侮蔑の言葉。セラの偽善に満ちた笑顔。


あいつらが僕に向けた悪意の全てを、僕は一日たりとも忘れたことはない。一つ一つの言葉を、その時の表情を、声のトーンを、僕は完璧に記憶している。



「……アレク。リリア。セラ」



僕は、三人の名前をゆっくりと、一音一音確かめるように呟いた。


不思議と、あれほど身体を支配していた恐怖は、いつの間にか消えていた。


代わりに、腹の底から、どす黒くて、熱いマグマのような何かが込み上げてくるのを感じる。


それは怒りというにはあまりに静かで、憎しみというにはあまりに粘り強かった。


「絶対に許さない」


それは、神に誓うような神聖さも、英雄が誓うような悲壮感もない。


もっとじめじめとしていて、陰湿で、底意地の悪い、僕だけの復讐の誓い。


アレク、お前のその自信に満ちた顔が、理解不能な恐怖に歪むのを見てやる。


リリア、お前のその理屈っぽい頭脳が、解析不可能な呪いで狂っていく様を見届けてやる。


セラ、お前のその偽善の仮面を、本物の絶望で引き剥がしてやる。



「お前たちが僕にしたこと、全部、全部、利子をつけて返してやる。お前たちが僕から奪ったものよりもっと多くのものを、お前たちから奪ってやる。ゆっくり、じっくり、時間をかけて。僕がどれだけ役立たずじゃなかったか、その骨の髄まで、後悔と共に思い知らせてやる」



僕は立ち上がると、震える手で泥人形を拾い上げた。


今までただのガラクタだと思っていたそれが、今は唯一の武器であり、唯一の仲間だった。


見捨てられたこの暗闇は、もはや僕を殺すための檻じゃない。


誰にも邪魔されずに、僕だけの力を育て上げるための、巨大な苗床だ。



虚ろなボタンの目が、迷宮の深淵の闇を反射して、ほんの少しだけ、血のような赤黒い光を宿したような気がした。

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