第8話

「【poca】」


 その詠唱は以前、櫂に仕掛けたものだった。黒い煙が辺りを支配する。配信していることもお構い無しだ。コメントも何が起こっているのかわからないと言う様子。

 夢の行動に呼応するように、マルコシアスは冷気を強める。辺りに氷の粒ができる程の極低温。その中でも、夢は問題なく動くことができる。


「こと程度で私を縛れると思わないで欲しいな。」


 配信に乗る声量でそう言って、夢は寸分の狂いなくマルコシアスに対し踏み込んだ。今の夢に見えているのはマルコシアス本体ではない。魔力の流れ、空間の歪み、次の行動。その全てだった。まさしく闘うことに魅せられた神。

 そして夢のその一撃は、確実にマルコシアスの心臓を捉え貫いた。それと同時に煙は晴れる。全てが見えるようになったときには、なにもかも終わっていた。


「…あ、そうか配信中だった。楽しくてつい…。」


 なんて笑って見せるが、リスナーとしてはそれどころの話ではない。マルコシアスのソロ討伐は前代未聞だ。もっとも、その瞬間自体は録れていないわけだが。


「次はちゃんと映るようにするね!まだまだこれからだよ!」


 そう言って、夢はまたダンジョンの探索へと戻る。騒然とするコメント。つい先日までの『茜』とは全く違う目の前の存在。明らかにおかしいことは明白だ。だが、本人としか言い様はない。この数日に何があったのか。彼女のリスナーは知るよしもなかった。

 その後も彼女は次々とモンスターを撃破し階層を下っていく。マルコシアス以外に心踊らされる者とも出会うことなく、夢は若干退屈していた。


「うーん………ん?」


 4階層にて、その足は止まる。今までとは一線を画す気配。徐々にそれはこちらに近づいてきている。


「皆、ようやく楽しめるみたい…。」


 そうして、夢は臨戦態勢を取る。


「【tezcatl】」


 その詠唱でまた刀身は黒く変化する。その姿がカメラに映るのを待つ。そうして、現れたのはモンスターではなかった。


「…人間?」


 驚いた。自分以外に、ソロでこの場所に来ているものがいることに。そして、その顔にどこか見覚えがあることに。だが、名前までは思い出せない。

 ただ、その風貌。黒衣を纏った青年は、今まで見てきた何より強いことだけはわかる。その青年は呟く。


「…ほんとう…不便だよ。」


「あなた…相当強いね?」


「さあな。」


「隠しても無駄だよッ!!」


 相手が人であるにも関わらず、夢は容赦なく襲いかかる。


「まったく…本当に厄介だな。テスカトリポカ…。」


 その一撃を、大我は緋い剣で受け止めた。夢の剣は砕け、また宙を舞う。その破片が大我の心臓を撃ち抜こうとして─────。


「チッ…。」


 舌打ちをして夢は距離を取った。頭上には、蒼い槍。いつでも落とせるようにしてある。


「今日はやめにしよう。またいずれ、会うことになるんだから。」


 大我はそう提案する。


「いいや、この機会を逃すことはしないね。闘えって、心臓が煩いんだよ。」


「…大分飲まれてやがる…なら、こっちも手加減は無しで行く。ギルドにあんたを縛ってもらうためにもな。」


「ふ、ふふ…もとより手加減できないでしょッ!!」


 跳ねるように、黒い破片と共に夢は飛び出した。その後を蒼い槍は追走する。


「淀め…双蛇!!」


 あの黒騎士を捕らえたときのように変化する槍。だが、それすらも構う様子がない。


「こんなもので縛れるかッ!!」


「式じゃやっぱり無理だよな…。」


 格が違いすぎることはわかっていた。


 今できる最大限を…大我は決心する。


「死ぬなよ。」


 それだけ言い残し、左手の人差し指を立てて見せる。


「【今 唱え奉る蟲壺魔神呪ここましんじゅは 古今東西百鬼悪凶の諸々を宿す壺なりてことばなり】」


 一節、説いただけで夢の体は動けなくなる。立てた指の先には小さな黒い点が存在した。その奥に存在するのは紛れもない悪意の塊。この世の全ての善をひっくり返し煮詰めたような絶対悪。


「【呪いならば言の葉として 悪鬼ならば躯を持ちて 壺に入り さも蟲の如く互いを喰い合い また産まれることを業と知れ】」


 少しづつ、悪意は大きさを増していく。おおよそ、プリーストと呼べる者が扱うものではない。


「【殺すことも容易かろう 堕とすことも容易かろう 壺の前に地獄は温い所業なりて 魔は壺に伏す】」


 重圧がその場を支配する。指の1本さえも動かせない。上位化…いや、それ以上に純度の高い、言ってしまえば神に近い体となった夢でさえ膝をつく。

 あの場に存在するのは、この世に渦巻く悪意その物。


「…なんだ…それは………!!」


「思うんだが、神も悪魔も望んで祈れば力を与えると言う点ではなにも変わらない訳だ。だからこれも、この悪意さえも祈りだよ。」


『祈り?それが祈りだと言うのか?ワタシの知っている祈りとはまるで…あれではただの…。』


「邪悪の間違いしょ。」


「ああそうだ。邪悪な祈りだ。【これを持ちて 蟲壺魔神呪を成すものとする】」


 詠唱の後、その黒い『壺』を放り投げる。直後、夢の視界は、その配信は黒く染まった。


 配信はそこで途切れた。


 ─────大我にとって、今回の遭遇はイレギュラーであった。大我の見た景色はこれから3日後の話であるからだ。そして、今回戦ってわかった。まだこれは発展途上だと。そして、あの景色は避けられない未来なのだと。夢を抱え、大我はダンジョンを後にした。

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