こうして世界は必然性を失った

三葉 空

原稿

      ◇




 街は緩やかな喧騒に包まれていた。

 ガスを吐きながらアスファルトを突き進む車の音と、雑談を交わしながら歩き行く人々の声が混ざり合い、都会の街を彩っている。ただ都会とは言っても、大都会ではない。言うなれば中都会だろうか。まあ、そんな言葉はない訳だが。とりあえず、適度な都会。それが関東の一都市である修誠(しゅうせい)市だ。その街を歩いていた。

「ねえ」

 ぼんやりとした思考を回していた時、澄んだ声に呼ばれてハッとする。

 視線の先には一人の少女がいた。いや、彼女はただの少女ではない。長い亜麻色の髪はどこまでも艶やかであり、身体の均整も抜群に整っている。ただ、胸と尻の辺りは少しばかりふくよかであるが、しかし確かなバランスを保っている。平均を明らかに超えた素晴らしく均整の取れた身体。それを包み込む衣服はしっとりと落ち着いていて、彼女の雰囲気にとてもよく似合っている。そして何より、柔らかな微笑みを湛えるその顔は、この世界で一番可憐で美しい。冗談ではなく、お世辞などでもなく、本気でそう思っていた。

「どうしたの、ボーっとして?」

 柔らかな表情で、柔らかに尋ねてくる。

「ああ、お前に見惚れていたんだよ」

 キザで自分にたっぷりの自信を抱いた男なら、軽々しくそう言ってしまうのだろう。

 けれども、彼にはそれが出来なかった。

「……いや、まあ。何でもないよ」

 ダサく口ごもって、そんな気の利かない返しをするので精いっぱいだ。

「そう」

 けれども、彼女はそんな情けない彼に対して、優しく微笑んでくれる。包み込むように微笑んでくれる。そんな彼女に、この身を全て預けてしまいたいと思ってしまう。だが、そんな風に甘えてはいけない。全面的に彼女に甘えてしまったら、自分はダメになってしまう。今しがた頭に浮かべた幸せな膝枕の光景は、ぶんぶんと頭を振って払ってしまわないと。

 気合で何とか煩悩を払った後、彼は改めて隣を歩く彼女を見た。正面だけでなく、どの角度から見ても彼女は完璧だ。完璧な美少女だ。それは最早度を越して、完璧の壁さえ壊して、その先領域にまで行ってしまいそうだ。実際、彼女は同じ学園の生徒達から『女神』と呼ばれている。その名が易々と決まってしまうくらい、彼女は素晴らしい美少女、素晴らしい女性なのだ。高校生にして既に、完璧を超えた女神なのである。

 そんな彼女と、こうして並んで街を歩いている。恋人として。

 さして顔立ちが良い訳でもない。頭が良い訳でもない。スポーツが出来る訳でもない。強いて言うなら、少しばかり腕っぷしが強いくらいだ。それも、何も無かった自分に少しでも価値を持たせるために、彼が必死に身に付けたものだった。彼女を守りたいがために。

 けれども、相変わらず彼女は遠い存在のように感じてしまう。こうして隣り合って歩いているというのに。どうしようもなく不安な気持ちを抱いてしまう。

「……なあ、千穂」

 声をかけると、完璧な美少女である彼女――高峰千穂(たかみね ちほ)は振り向く。その振る舞いの一つ一つがどこまでも可憐で、いちいち見惚れてしまう。

「なに、清人くん?」

 微笑んで聞き返され、冴えない彼――雪成清人(ゆきなり きよと)はまたぞろ口ごもってしまう。元々が口下手な彼であるが、千穂の前だと余計に症状が悪化してしまう。

「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど……その、何で俺に告白してくれたんだ?」

 千穂は立ち止まる。声と同質に澄んだ瞳が、じっと清人の顔を捉える。彼はたじろいで、一歩身を引いた。こんな街中でいきなり何言ってるの? そんな風に罵声を浴びせられても仕方がない。

 しかし、彼女はまたしても優しく微笑んだ。

「清人くんのことが好きだからだよ」

 彼女は言う。一切の躊躇なく、一切の淀みなく、そう言ってくれる。こんなにも冴えない自分のことを、好きだと言ってくれる。

 瞬間、清人は喜びと悲しみを同時に味わう。こんなにも素敵な千穂が自分のことを好きだと言ってくれる喜び。そして、そんな彼女がこんなにも冴えない、取り柄のない、ダメな自分をそう思ってくれることに対する悲しみ。いや、悲しみというよりも罪悪感という方が適当だろうか。彼女なら、自分なんかよりも、ずっと素敵な男と結ばれることだって出来るだろうに。

「何で……俺のことなんか好きなんだよ?」

 つい荒っぽい問いかけになってしまう。そもそも、清人は平素から口が悪いのだが。口下手な上に口が悪いとか、本当に最低最悪な男だと自負してしまう。

「だって、清人くんはかっこいいし、強いし、優しいし」

「待て、それ以上言わないでくれ」

 清人は左手で自らの顔を覆い、右手で千穂を制す。

「何で? 清人くんが聞いたんでしょ?」

 千穂は小さく頬を膨らませる。そういった仕草もまた、可憐である。いちいち自分をトキめかせないで欲しい。清人はしばし間を置いて、顔の火照りを冷ます。

「……まあ、そうだな。悪い。けどさ、俺なんて全然かっこ良くないし、強くないし、優しくもないし……」

 後ろ向きな言葉を発する内に、自然と顔を俯けてしまう。

 その時、ふいに柔らかな感触に包まれた。

「え……?」

 清人は目を丸くして顔を上げる。

「そんなことないよ」

 そこには、相変わらず優しい千穂の微笑みがある。弱々しい自分を包み込んでくれるような、温かな母性に満ち溢れている。『女神』と呼ばれるだけのことはある。というか、むしろ彼女は本当に女神なのではないだろうか。そうだとすれば、彼女の完璧なまでの素晴らしさにも納得が行く。

「清人くんは、素敵な男の子だよ。自分で思っているよりもずっと。小さい頃からずっと見て来た私が言うんだもの、間違いないわ」

 微笑みを湛えたまま言う千穂に対して、清人はそっぽを向いてしまう。

「そ、そうかよ……つーか、俺はもう『男の子』なんて年じゃねえ」

「そうね、ごめんなさい。清人くんは、とても魅力的な男性よ。少なくとも、私にとっては」

 その時、清人は身を焦がされるような思いだった。最高に可愛い千穂からそのようなことを言われた喜びで身体がとにかく熱い。その微笑みもさることながら、こんなにも身を焦がされるような思いをするなんて。まさしく太陽のようだ。自分みたいな矮小な男は、本来近付くことさえ出来ない。このままそばに、いたら燃やされてしまう。けれども、分かっていても離れたくない。彼女が……千穂が好きだから。離れたくない。例えこの身が焦がされて灰になろうとも、彼女のそばにいたい。偶然、運よく彼女と幼なじみになれただけの自分だけど、ずっと彼女と一緒にいたい。このまま、いつまでも。

「……まあ、その、何だ……ありがとな」

 ぼそりと、掠れるような声で言う。

 すると、千穂は一瞬目を丸くして、再び微笑んだ。

「どういたしまして」

 そして、軽やかな足取りで前を行く。いつもしとやかに落ち着いている千穂が珍しく、弾むような足取りでアスファルトを駆けて行く。

「清人くん。早く、早く」

 途中で立ち止まって、千穂は笑顔で振り向く。

「分かったって。ガキみたいにはしゃいでんじゃねえよ」

 口調とは裏腹に、清人の口元は微笑んでいた。千穂に向かって、一歩踏み出す。

 瞬間、かすかな揺らぎを感じた。

 それは本当にかすかな、小さな変化。違和感。

 けれども、清人は確かに感じ取った。

「清人くーん? どうしたの?」

 前方にいる千穂が、不思議そうに小首を傾げる。もしや地震かと思ったが、どうやら彼女は何も感じていないようだ。まあ、小さな地震だと人によっては気が付かないこともままあるし。気のせいだろう。それよりも、今は彼女との幸せな時を噛み締めていたい。

「待っていろ、今行く」

 この後はどうしよう。ちょうどお昼時だし、まずは美味しい物を食べに行こう。その後はショッピングをして、二人でボーリングとかやったりして、疲れたらお茶をして、その後は……

 幸せな時の中で、幸せな思考に浸っていた。優しく微笑む彼女を見つめながら――

 彼女が黒い影に覆われた。

 美女の絵画に過って黒の絵の具を引いてしまったような、そんな無粋な黒い影に彼女は覆われた。ふっと視線を上げると、その影の主がいた。体長三メートルほどの、黒い化け物が立っていた。意味が分からなかった。そいつは当たり前のように、その場所にいたのだ。この平和な街中に、明らかに場違いな異形の化け物がいたのだ。

 突然のことに、清人が呆気に取られていたのはほんの数秒間。

 その間に、黒い化け物は赤い目をぎらりと光らせ、獣のように出っ張った口元がにやりと裂けて、鎌のような手で千穂を串刺しにした。

 鮮やかな血が舞った。それはとてもきれいで。千穂は本当に何もかも美しいんだと、イカれた思考を抱いてしまう。でも仕方がない、その瞬間に清人の思考はイカレたのだから。

 貫かれた腹部から鮮血が滴り落ちる。その美しい口元からも、真っ赤な血がつつ、と垂れている。化け物の凶刃に貫かれた彼女自身も、信じられないといった目をしていた。

「清人……くん……」

 いつもは澄んでいる彼女の声が、微かに濁っていた。その声で名を呼ばれて、清人はイカレた思考の輪から解き放たれる。

 直後に突き付けられる、現実。

 目の前で最愛の恋人である千穂が、化け物に襲われ、凶刃で貫かれたという事実。

 そして、その化け物の凶刃が引き抜かれた後、糸が切れた人形のように地面に沈む彼女が、既に事切れているであろうこと。

 その過酷な現実が、唐突に、突如として、清人に突き付けられたのだ。

「……千穂?」

 無駄だと分かっていて、その名を呼ぶ。

「なあ、千穂。起きてくれよ……」

 ゆっくりとした歩みで、地面に血まみれで沈んでいる彼女に近寄る。うつ伏せになっていた身体を抱き起こす。その顔はとてもきれいで。だから、彼女は死んでいる訳がないと胸の内で叫んだ。こんなきれいな状態で死んでいる訳がないって。確かに腸(はらわた)は貫かれてグチャグチャになっているかもしれないけど、彼女の美しさは死んでいない。だから、彼女が死んだなんて嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ――

「……嘘だよな、千穂?」

 返事はない。グチャグチャにやられた腹部は見ない。彼女の美しい顔だけを見ている。

「千穂。おい、悪ふざけをしていると怒るぞ?」

 努めて優しい声で、清人は呼びかける。もちろん、返事はない。

 分かっているんだ、そんなことは――

 そばで足音が鳴った。

 気が付けば、黒い化け物が目の前に立っていた。

 清人は虚ろな目を向ける。黒い化け物の鎌の先から、千穂の血が滴っていた。

 黒い化け物はおもむろに鎌を持ち上げる。口元に運ぶと、彼女の血を舌先でちろりと舐めた。

 直後、口の端をにやりと吊り上げる。

「……ohu……cbibisimu」

 ふいに、黒い化け物が声を発した。それは粘っこく嫌味ったらしい声だった。当然、その言葉の意味は分からない。

「kurennsyouzyozu……ikiti……ikiti……biimi」

 けれども、なぜだろう。奴が言わんとしていることが、不思議とこちらに伝わって来る。

 千穂の血を、美味そうに啜ってやがる。千穂の……俺の千穂の血を……

「……おい、テメエ」

 清人は高ぶる感情で狭窄した喉から、掠れた声を発する。

 黒い化け物は彼を見据えた。

「自分が何をしやがったか……分かってんのか?」

 震える声で、清人は問いかける。

 黒い化け物は、しばし逡巡するように挙動を止めていた。

 その間、清人は血走った眼で睨み付ける。あまりの怒りに、全身の血が沸騰しそうだった。

 やがて、黒い化け物が身を動かす。

 ゆっくりと、小首を傾げて見せた。嫌味ったらしく、口の端を吊り上げた状態で。

「kufufufufu! onnmanokannzyononotexi……beriumakataze! saikoudattaze!」

 あくまでも愉快気に喋り続ける黒い化け物を見て、清人は吐息を漏らす。

「分かった、もう良いよ……テメエは、ぶっ殺す」

 清人は、抱きかかえている千穂を見た。

「ごめんな、少し待っていてな。すぐに千穂の仇を取って来るから」

 血濡れた千穂を優しくアスファルトに置き、清人は黒い化け物と対峙する。

 改めて見ると、その姿は世にも恐ろしくおぞましい。情けないことに、かすかに足が震えてしまう。

 けれども、目の前で大切な、最愛の千穂が奪われた。

 男として、そんな状況で怯えている訳にはいかない。ブルっている訳にはいかない。

 握り締めた拳も震える。だが、それは恐怖によるものではない。圧倒的な怒りによるものだ。

「半殺しじゃすまねえぞ……クソ野郎が」

「bababa! ouikakuttekuru? koufaurujau!」

「あぁ? 何言ってんのか分かんねえよ」

 清人は駆け出した。アスファルトを強く踏み締めて、黒い化け物に突進する。

「うおおおおぉ!」

 雄叫びを上げる清人を、黒い化け物はあざ笑うように見ていた。鎌の手をゆらりと振り子させる。

 次の瞬間、俊敏な動きで鎌を振るった。鋭利な切っ先が、今度は清人の腸を抉ろうとして迫る。清人は息を詰めた。

 血潮が飛び散った。清人は目を見開いて、きつく歯噛みをする。

 強靭な鎌で抉られた左脇を押さえる。指の隙間からぽたぽたと血が流れて、アスファルトを汚す。

「……ぐっ」

「babababa! ukiguattatukurudeomaetutatuhtahaoniioufa! kuroaufhauiufdiouahfau!」

 黒い化け物は両手を大きく広げて天を仰ぎ、哄笑を漏らした。対する清人は、抉られた左脇を押さえて、身を屈めている。

 その時、清人の目がぎらりと光った。

「油断してんじゃねえよ……」

 ぼそりと呟いた後、清人は再び駆け出した。

「ra?」

 一瞬の間、黒い化け物が呆けた隙を突き、肉薄する。

 アスファルトを強く蹴り、跳躍した。

「うらああああぁ!」

 握り締めた拳を黒い化け物の腹部に叩き込む。

「gahua……!?」

 黒い化け物は呻き声を上げて仰け反る。口の端から黒い液体がこぼれた。

「はあ、はあ……どうだ、この野郎」

 荒く吐息を漏らしながら、清人は黒い化け物を睨む。

 顔を仰け反らせていた黒い化け物は、ブルブルと顔を振った。獣のような口から、鋭利な牙を覗かせる。

「omuaezetainihfyu……gfahrua!」

「良いぜ、怒ってんだろ? やろうぜ、殺し合い。俺から大切な千穂を奪った罪がどれだけ重たいか分からせてやるよ……この黒公がぁ!」

 清人の叫びに呼応するように、黒い化け物もまた叫びを上げる。

 両者は睨み合い、己の武器を構えた。

 同時に相手へと突進を仕掛ける――

「――《不安除去(ブラッシュアウト)》」

 その時、清人に向かっていた黒い化け物の巨体が、後方に吹き飛んだ。

「guhetu……!?」

 黒い化け物は喉がひっくり返ったような悲鳴を上げた。

 突然の事態に、清人は行き場を失った拳を垂れ下げて、呆然とする。

「大丈夫?」

 落ち着いた静かな声がすぐそばでした。

 顔を振り向けると、そこには一人の少女が立っていた。黒髪のショートヘア、そしてどこまでも黒い瞳を持っている。そして、その背中には黒い翼が生えていた。

「……誰だ、お前は?」

 清人はおぼつかない口調で尋ねる。

「わたしの名前はリルエ。堕天使だよ」

 あくまでもクールに、さらりと少女は言う。

「堕天使……?」

「そう。この『崩れた世界(クランブル)』を管理・監視するために派遣されたの」

 堕天使の少女が発する言葉の意味が分からず、清人は混乱してしまう。

 堕天使? 崩れた世界? 何のことだ、さっぱり分からねえ。

「良い? 落ち着いて聞いて」

 堕天使の少女は言う。

「たった今この時より、世界は必然性を失ったの」




      ◆

      第一章




 自分は今、何を見せつけられているのだろうか。

 つい先ほどまで、賑わう街並みの中にいて、愛しの彼女とデートをしていたはずだ。

 しかし、今この眼下に広がる景色は、荒廃していた。

 つい先ほどまで色鮮やかだった世界が、急激に色褪せてしまった。

 あちこちで、黒い化け物が人々を襲い、殺し、果ては食らっている。その過程で、道路や建造物を破壊していた。

「あれは『プルキャスト』だよ」

 黒い翼を羽ばたかせて、堕天使の少女、リルエは言う。

「人の醜い心の塊みたいなもの。この世界は『プルキャスト』達によって蹂躙され、崩れてしまう。だから、『崩れた世界(クランブル)』なの」

 黒翼で飛ぶリルエに抱えられる形となっている清人は、虚ろな表情のまま反応を示さない。

「もしかして、怒っているの?」

 そんな彼の様子を見て、リルエが問いかける。

「あなたの彼女の死体を置き去りにしたことを。けれども、仕方がないの」

 リルエの力で黒い化け物――『プルキャスト』が退けられた時。

 清人は我に返ったように、千穂に駆け寄った。既に亡骸と分かっていても、彼女の温もりを求めて必死に抱き締めた。

「ねえ、あなた」

 背後から歩み寄ったリルエが声をかける。

「ここに留まるのは危険だよ。わたしと一緒に行こう」

 髪や瞳、翼は真っ黒であるが、その肌は病的に白く細かった。差し出された手を睨み付ける。

「……嫌だ。俺は千穂から離れない」

「けど、ここにいたら死ぬよ? 今吹き飛ばしたあいつも、すぐに復活するだろうし」

「良いよ、構わない。千穂がいない世界で生きても、意味がねえ……」

 嗚咽交じりに清人は言う。リルエは小さく肩をすくめた。

「聞き分けのない子だね」

「あぁ?」

 怒って清人が振り向いた直後、その身体がふわりと浮き上がる。

 いつの間にかリルエが清人を抱きかかえ、黒い翼を羽ばたかせたのだ。

「お、おい……ちょっと待て。千穂が……千穂が……」

「彼女はもう死んでいる。生き返らない。あなたはあきらめて、次の段階に進むべき」

「ざけんな! 離せ、この野郎!」

 清人は必死に抵抗するが、その細腕からは想像も付かない膂力によって、ねじ伏せられてしまう。しかし、尚も抵抗を続ける。

「いい加減、聞き分けなさい……《鎮静化(テンスダウン)》」

 リルエが唱えると、猛り狂っていた清人の感情が、急激に沈んだ。いつの間にか抵抗の意志は大きく削がれ、そのままうなだれてしまう。

「よし、良い子だね。しばらくそうやって、大人しくしてなさい」

 たしなめるようにリルエに言われた。

 それからずっと、清人は荒廃、崩れて行く世界を虚ろな目で見つめていた。

「あの辺りにしよう」

 リルエは徐々に高度を落とし始めた。周辺の様子を警戒しながら、地面に降り立つ。

 清人は未だ虚ろな瞳の状態で地面に立たされた。

「あの建物の中に隠れよう。歩ける?」

「あぁ? バカにすんな。それくらい……」

 瞬間、清人は自らの足が今さら震え上がっていることに気が付く。一歩、二歩と踏み出してみるが、その足取りは覚束ない。

「やっぱり、肩を貸そうか?」

「だから、大丈夫だって言ってんだろ!」

 怒鳴る清人に対して、リルエはあくまでも冷静な顔をしていた。震える足でたどたどしく進む彼の後ろに付いて歩く。

 二人はデパートの前にやって来た。恐らく、オシャレで華やかな雰囲気に包まれていたであろうそれは、見るも無残に荒廃していた。入口のガラスは木っ端微塵にされ、店内の売り場も嵐が過ぎ去ったかのように荒れて、そして何より静かだった。その光景を目の当たりにして、清人の足取りは増々危ういものとなったが、リルエに余計なお節介を焼かれたくない一心で、強がって歩き続けた。

 トン、とつま先で何かを蹴った。

 清人は立ち止まり、視線を下ろす。

「……っ!?」

 悲鳴を上げなかったのも、彼の下らない意地の賜物だろう。

 死体だった。それも小さな男の子の。死体だった。

 今しがた、清人はその頭を蹴ったのだ。蹴ってしまったのだ。

 驚愕、恐怖、戦慄、悲哀。様々な感情が混ざり合い、清人は苛まれる。自然と吐息が荒くなってしまう。恐る恐る周囲に視線を向けて見れば、他にも死体が転がっていた。それは血まみれであったり、土気色に染まっていたり、あるいは一部が欠損していたり。よく考えてみれば、今日は休日だ。それならば、もっと多くの死体が……人がいるはずだ。しかし、思いのほか数が少ない。

「プルキャストに食われちゃったんだよ」

 清人の思考を読み取ったように、リルエが言った。

 人を殺して、その上食らう。本当に、おぞましい化け物だ。ということは、あの場に置き去りにしてしまった千穂も今頃、あの化け物に……ダメだ、考えるだけで吐き気を催してしまう。

「大丈夫?」

 問われて、清人は無言のまま再び歩き出す。覚束ない足で、またいくつもの死体を蹴ってしまった。何だここは、地獄か。いつの間にか自分は死んでしまって、地獄にいるってのか。

「あなたはちゃんと生きているよ」

 またしても、リルエが清人の思考を読み取る。

「……お前、もしかして人の心が読めんのか?」

 清人はぎろりと彼女を睨む。

「ううん。ただ、あなたの表情とか今の状況から、わたしなりに推測しただけ」

「そうかよ」

 清人は吐き捨てるように言う。

「ねえ、あそこで休もう」

 リルエが指差す先には、有名なコーヒーチェーン店、の残骸があった。まるであつらえたように、図ったかのように、二人掛けのテーブル席が一つだけ残されていた。

 二人はすっかり寂れてしまったその店に入り、テーブル席に向かい合って座る。直後、清人は一気に脱力した。これまで強がって気を張り続けたせいだろうか。今の危機的状況を一瞬忘れて、人心地ついてしまう。

「少しは落ち着いた?」

 リルエが尋ねると、清人は眉をひそめて彼女を睨む。

「……おい、今一体何がどうなってんだよ? 何だよ、あの化け物は? ていうか、お前は何なんだよ?」

「わたしは堕天使のリルエ」

「それはさっき聞いた。何でお前みたいな堕天使がいんだよ?」

「神の命令で、この世界を管理するために派遣された」

「あぁ? 神だぁ?」

「ちなみに、今のこうした状況を生み出したのは、造り出したのは神だよ。神によって、世界は必然性を失ったの」

「必然性……? そういえば、そんなこと言ってやがったな。どういうことだよ、説明しやがれ!」

「落ち着いて、きちんと順を追って説明してあげるから」

 そう言うと、リルエはふいに親指をパチンと鳴らした。

 直後、瓦礫が散乱する奥のカウンターから、カタカタ、フツフツ、と物音が鳴る。

 異変を察知してかすかに目を開く清人が口を開こうとした時、目の前に二つのティーカップが置かれた。というか降って来た。あるいは舞い降りた。

「……お前の仕業か?」

 清人が尋ねると、リルエはこくりと頷く。

「これを飲んで、少し気持ちを落ち着けて話そう」

 リルエはおもむろに少し欠けてひび割れたティーカップを持ち、一口飲んだ。

「ほら、清人も飲みなよ」

「うるせえ。ていうか、名前で呼ぶんじゃねえよ」

「良いじゃない。わたしのこともリルエって呼んで良いから」

 ティーカップを片手にリルエが言うと、清人は小さく舌打ちをして、それから淹れたてのコーヒーに口を付けた。不覚にも美味いと思ってしまった。少しほろ苦いけど。

「清人。全ては必然、世界は必然性を持っていたの」

 唐突に、リルエが切り出した。

「必然とは、そうなる以外にありえないこと。世界における全ての事は必然。そもそも、世界は一つしかなかったから。一つの決まりきったレールしかなかったから。神によって定められたそのレールを、皆が無意識の内に進んで行く。皆が偶然だと思う事も、全ては必然。そう、世界は必然性を持っていた」

 リルエはそこで、また一口コーヒーを飲む。

「けれども、神は突然、いくつもの平行世界を造った。それにより、単一だった世界の必然性は失われた。個人の必然性も失われた。世界が増えた分だけ、個人に色々な可能性が生じたの。ただし、それはあくまでも神の視点で見た場合。結局の所、各々の世界ではそれぞれ決まったレールが敷かれているから。必然性に縛られたままなんだよ」

 リルエの語りを聞いている清人は、憮然とした表情だった。それは彼女に対する嫌悪感もあるが、そもそも何を言っているのかさっぱり理解出来ないのだ。

「わたしが何を言っているか分からなくて、イライラする?」

 清人は露骨に舌打ちをしてしまう。

「だから、人の心を読んでんじゃねえ」

「さっきも言ったけど、わたしは心を読んでなんていない。あくまでも推測しているだけ。ていうか、清人が分かりやす過ぎるんだよ」

「単純な野郎だって言いてえのか?」

「うん、そうだね。単純で可愛いよ」

 清人は飲みかけていたコーヒーを噴き出す。

「は、はぁ? 俺が可愛いだと? ぶっ殺すぞ!」

「照れなくて良いよ。あの彼女は、清人のそういう所が好きだったんだろうね。太陽のようにみんなを照らして愛される彼女にとって、その対照である月みたいな清人は、特別な存在。そう、だからあなた達が結ばれることは必然だった」

「あぁ? うるせえ。偉そうに俺と千穂を語ってんじゃねえよ!」

 荒く鼻息を鳴らし、清人はそっぽを向く。

「ねえ、清人はゲームはよくやる?」

 またしても唐突に、リルエは聞いてくる。

「あ? まあ、人並みには。それがどうしたんだよ?」

「ゲームの物語って、選択肢とかその他の要素によって、ルート分岐するでしょ? 今まさに、それが世界規模で、というか宇宙規模で生じているの。神によっていくつもの平行世界が宇宙に生まれて、その分だけ個人のルートが生じた」

 認めたくないが、今の説明で少し分かりやすくなった。ただ、胸の内はすっきりしない。むしろ、耐え難い怒りが湧いて来る。

「……つまり何だ? その神ってのがゲーム感覚で人間を弄んだおかげで、千穂が死んだってことか?」

「うん、そうだね。正確には、この『崩れた世界(クランブル)』における高峰千穂は死んだってことになるね。他の平和な世界では、あのまま街で、別の清人とデートをしているはず」

「別の……俺?」

「うん、そう。無数の平行世界が生じた際、それに応じて個人もその数だけ分裂し、抽選され、振り分けられた。もちろん、清人と彼女も例外に漏れず。だから、彼女は死んでいないよ。他の世界では幸せに生きている。他の世界の清人と一緒に。それは神視点でしか分からないことだけど」

「じゃあ、今ここにいる俺は……とびきり運が悪いってことか?」

「まあ、悪い方だね。けど、もっとひどい世界もあるよ。突然、各国で核が爆発して、未曾有の危機に瀕している世界とか、大地震が発生して陸が全て海に沈んでしまう世界とか……この世界は『崩れた世界』なんて言うけど、まだ救いようがあると思うよ」

「どこがだよ! 見たこともねえ黒い化け物に殺されて、食われて、あっという間に街が荒廃しちまって、千穂が殺されちまって……どこに救いようがあるってんだよ!」

「少なくとも、清人は生きている。確かに辛い世界、辛いルートに振られてしまったかもしれない。けれども、あなたは生きている。生きていれば、何だって出来る」

「出来ねえよ!」

「出来る。清人、この世界で生きて行くために『プルキャスト』を駆逐しよ」

 その黒い瞳で真っ直ぐに清人を見据えて、リルエは言った。

「駆逐……?」

「清人風に言うと、『ぶっ殺す!』……ってやつだね」

 あくまでも平坦な口調でリルエは言う。

「いや、そんなの……出来る訳ねえだろ」

「でも、清人はあの『プルキャスト』に向かって行ったでしょ? だから、きっと戦えるよ」

 リルエの言葉を聞いて、清人は思わず目を伏せてしまう。

 あの時は、目の前で最愛の千穂が殺されたことで人生最大の怒りが湧き上がり、『プルキャスト』に向かって行くことに何ら躊躇しなかった。

 けれども、改めて思い出す。そのおぞましい立ち姿。

 黒い異形の化け物。その凶刃で、千穂は殺された。

 そのことを思うと今も激甚な怒りが湧いて来てしまう。

 ただそれと同じくらい、怖いのだ。

 強烈なアドレナリンが切れたことで、今さらになって当たり前の感情が湧き上がって来たのだ。

 出来ることなら、清人だって千穂の仇である『プルキャスト』を駆逐したい。いや、ぶっ殺してやりたい。

 けれども、ただの人間である清人に、そんな力はない。

「わたしと血の契約を結ぼう、清人」

 ふいに、リルエが言う。

「血の契約……?」

「そう。堕天使であるわたしとそれを交わすことで、清人は力を得ることが出来る。『プルキャスト』と戦うための力を得ることが出来るの」

「はあ? そんな訳の分からねえ契約なんてするか」

「でも、そうしないと『プルキャスト』を駆逐出来ないよ」

「うるせえ、黙れ!」

 清人は頑とした姿勢を崩さない。

 すると、リルエが小さくため息を吐いた。

「本当に聞き分けのない子だね、清人」

「あぁ?」

 がたりと椅子を鳴らし、清人は身を乗り出す。向かいの席に座るリルエをぎろりと睨んだ。

 しかし、リルエは一切怯んだ様子を見せない。

「ねえ、清人。また彼女に会いたい?」

 出し抜けにリルエは言う。清人は一瞬言葉に詰まった。

「……会いてえ。会いてえに決まってんだろうが!」

「元の幸せな世界に、ルートに戻りたい?」

「戻りてえよ!」

「『プルキャスト』を駆逐すれば、その望みが叶うかもしれないよ」

「え……?」

 清人は目を丸くした。

「それは本当か?」

「正直、確証はない。けれども、全ての世界は神にとってゲームの舞台。遊興の対象。そこで目覚ましい活躍をし、成果を上げた者には、もしかしたら褒美をくれるかもしれない」

 ゲーム、遊興。それらのワードは非常に癇に障った。しかし、今はそれを脇に置いて、清人は考える。考え込む。

「……少し時間をくれ」

 掠れるような声で清人は言った。

「良いよ」

 リルエは頷くと、静かにコーヒーをすする。

 対する清人は、その水面をおぼろげな瞳で見つめる。

 崩れた世界の崩れたコーヒーショップは、不気味な静寂に包まれていた。







      第二章




「清人くん。朝だよ、起きて」

 非常に澄んで耳触りの良い声によって、意識が覚醒した。

「……ん」

 目元をこすり、まだぼやける視界で辺りを見渡す。そこは、自宅の部屋だった。

「おはよう、清人くん」

 すぐそばで、柔らかな笑みを浮かべる美しい少女がいた。その姿を見て、清人は絶句する。

「……千穂?」

 かすかに震える声で呼びかけると、千穂は「どうしたの?」と小首を傾げて聞き返す。

「お前……無事で……生きて」

「もう、清人くんってば。寝ボケていると、学校に遅刻しちゃうよ」

 そう言う千穂は、制服姿だった。それは二人が通う修誠(しゅうせい)学園の制服である。

「あ、ああ。悪い、すぐに支度をするよ」

「うん」

 頷いた千穂は、おもむろに自分の身体に視線を這わせる。どこか浮かない表情だ。

「どうかしたのか?」

「あ、うん。ちょっと、制服がきつくなっちゃって……」

「あー……太ったんじゃねえか?」

「もう、清人くん。そんないじわる言わないでよ」

「わ、悪い」

「けど、そうだね。やっぱり太ったのかも。特に胸の辺りとか、苦しいし……」

 千穂の言葉に、清人は思わず敏感に反応してしまう。

「そうだ、清人くん。お願いがあるんだけど」

「お、おう。どうした?」

「その……私が太ったかどうか清人くんにも直に確かめてもらいたくて……胸を触って欲しいの……」

 数拍の間、清人は目をぎょっと剥いていた。

「は?」

「お願い、清人くん。私の胸を触って」

 そう言って、千穂はずいと胸部を差し出して来る。

「い、いやいや。お前は何を言ってるんだよ? そもそも、俺はまだお前の胸を触ったことないから、前より太ったとか分かんねえし……」

「あ、そうだよね……」

「おう、そうだよ……」

 どことなく気まずい沈黙が、室内に漂う。二人は頬を赤く染めた状態で、互いに顔を俯けていた。

「……ねえ、清人くん」

 ふいに千穂が声を発すると、清人はびくりと肩を震わせる。

「そういえば私達はまだ、キスまでしかしてないよね」

「え……あ、うん。そうだな」

「清人くんは、その……もう少し先までしてみたいとか、思わない?」

 潤んだ瞳で千穂が見つめると、清人は思わずたじろいでしまう。

「も、もう少し先って……?」

「言わなくても、分かるでしょ? それとも女の私に言わせるつもり……?」

「いや、そんなことは……でも、良いのかよ?」

 激しい頬の火照りを感じながら、清人は問いかける。

「うん、良いよ……私を、清人くんだけの物にして」

 その甘美な台詞が、清人の理性を掻き乱す。自然と、呼吸が荒くなってしまう。

「じゃ、じゃあ……胸を触っても良いか?」

「いちいち聞かなくても良いよ。清人くんの好きにして……」

 千穂は頬を赤らめた状態で、真っ直ぐに清人を見つめて言う。彼は改めて、制服越しにも分かる豊かな膨らみに視線を向けた。ごくり、と喉を鳴らす。落ち着け、と自分に言い聞かせて、ゆっくりと右手を伸ばす。なるべく優しくを意識した右手が、彼女の胸に触れた。

「あっ……!」

 千穂が小さく矯正を上げ、びくんと肩を震わせた。

「ご、ごめん! 痛かったか?」

「う、ううん。少し驚いただけ……だから、もっと触っても良いよ」

 目の端に薄らと涙を浮かべて千穂が言うと、清人の理性は一気に崩れ去った。

 無言で彼女をベッドに押し倒す。「きゃっ」と悲鳴を上げる彼女に覆いかぶさった。

「後悔しても知らねえぞ……」

 清人は言う。

「後悔なんてしないよ……だから、来て……清人くん」

 その健気な言葉が、最後の後押しとなった。

清人は自分でも驚くくらいの勢いで彼女の胸を鷲掴み――




      ◆




 右手に柔らかい感触が走った。どこか夢現の中で、自分は千穂の胸を掴んでいるのだと清人は思っていた。

 しかし、そのボリューム感が少し物足りないように感じた。先ほど目の辺りにした千穂の胸は、もっとこう、ずっしりと重たそうだった。その見た目の印象と、今の手触りがどうにも一致しないのだ。

 まあ、そんなことはこの際どうでも良い。千穂が生きていた。彼女が死んだなんて事実はやはり嘘で、本当は生きていた。今まで自分は悪い夢を見ていた。千穂とこうして身体を触れ合わせられる、その喜びを噛み締めよう。

「清人」

 ふいに、冷たく平坦な声がした。

「清人、痛い」

「わ、悪い千穂! 俺少し調子に乗っちゃって……」

 その時、清人の視界に映ったのは千穂ではなかった。

 黒いショートヘアに黒い瞳を持つ少女。太陽のような輝きを放っていた千穂とは正反対の、月のように冷たく掴みどころのない少女。

「……うお!」

 清人は叫んで思わず後退った。

「びっくりしたよ。清人の様子が気になってそばに近寄ったら、いきなりわたしの太腿を触るんだもん」

 驚く清人に対して、リルエは淡々として言う。

「え、太腿……?」

 清人は目をぱちくりとさせた。

「どうしたの?」

「いや……俺は千穂の胸を触って……」

 言いかけた所で、清人は口をつぐんだ。何が悲しくて、今しがた自分が見ていた最高に幸せであり、また最高に恥ずかしい夢の内容を話さなくちゃいけないんだ。

「そっか。彼女と乳繰り合う夢を見ていたんだね」

 事もなげにリルエは言った。

「乳繰り……お前、もっと言葉を選べ!」

「良いでしょ、事実なんだから。ていうか、清人は彼女の胸を触る夢を見ていたんだよね」

 清人は無言になる。だが、リルエはそれを肯定と受け取ったようだ。

「その間、現実ではわたしの太腿を触っていた。ということはつまり、その彼女の胸とわたしの太腿が同じ質量に感じたってことだよね?」

「は?」

「一番大きな肉を持つ太腿で、ようやく彼女の胸と互角なんだね。何だかすごくプライドを傷付けられるよ」

 どこかジトっとした目で、リルエは言う。

 清人は突然そんなことを口走った彼女と言葉を交わすことが億劫になるも、一つだけ訂正しておきたかった。

「いや、お前の太腿は千穂の胸よりも少しボリューム不足に感じたぞ」

「は……?」

 それまで至って冷静だったリルエの表情に、わずかながら亀裂が生じた。眉をひそめて、清人を睨む。

「どういうことか説明して?」

「あぁ? まあ、その何だ……お前は痩せているっていうか、ガリガリっていうか……起伏に乏しい、いわゆる幼児体型っていうか……」

「つまり、どういうこと? ハッキリ言って。じゃないとぶっ殺すよ」

「殺す!? 今殺すって言ったか!?」

「清人もよく言うでしょ? 良いから、早く結論を出して」

 リルエの深く黒い瞳が、がっちりと清人を捉えて離さない。正直、こんなバカバカしい話なんて彼女としたくないが、これ以上グダグダ引き延ばすのはもっと嫌なので、早々に事態の収束を図ることにした。

「結論から言うと、お前は千穂のようなセクシーさが微塵もない。女性としての魅力に欠けている」

 自分が抱いたありのままの感想を清人は述べた。リルエがそう望んだから。

「……ふーん、そうなんだ」

 低い声で呟いて、リルエはおもむろに立ち上がった。地べたに座ったままの清人を見下ろす。

「ねえ、清人」

「な、何だよ?」

「お願いがあるの」リルエは言う。「ぶっ殺させて?」

「いやいや、お前何言ってんだ!? きちんと自分の感情を伝えたじゃねえか! お前が望んだ通りに!」

「言ったね、確かに。ハッキリ言ってよって、確かに言った」

「そうだろ?」

「けどだからって、正直な感想を言うとか、神経を疑うよ。仮にもわたしは女の子だよ? 別の女と比べられて、揶揄されることがどれくらい辛いことか、清人には分からないの?」

「いや、それは……」

「謝って」

「は?」

「わたしに謝って。誠心誠意を込めて、わたしに謝って」

「あぁ? 何で俺が謝らなくちゃいけねえんだよ」

「謝らなかったら、ぶっ殺す」

「おい、ちょっと待て。ていうか、お前は俺に生きろみたいなこと言っておいて殺すとか、意味が分からねえよ」

「そうだね。女って意味が分からない生き物だから。ごめんね」

「お前が女を語んな。堕天使のくせによ」

 清人が毒づくと、途端にリルエが顔を俯けた。急に弱々しい姿になった彼女を見て、ばつが悪い気持ちになってしまう。

「わ、悪かったよ。少し言い過ぎた。だから、しょげてんじゃねえよ」

「……本当に悪いと思っている?」

「ああ、思っているよ」

「じゃあ、『リルエは最高にセクシーな女だ。俺の彼女になって下さい』って言って」

「いや、それは無理。ていうか、後半の台詞が意味不明なんだけど」

「分かった。それなら『リルエは最高にセクシーな女だ』だけで良いから」

「いや、それでも嫌だから。自分の気持ちに嘘は吐けねえ」

 清人が言うと、リルエはわずかに頬を膨らませて彼を睨んだ。

「分かったよ、もう……じゃあ、せめて名前で呼んで」

「え?」

「わたしのことを『リルエ』って、名前で呼んで」

「そんなに名前で呼んで欲しいのか?」

 大方、親しみでも求めているのだろう。

「その方が、親しみがあるから」

 ほら、やっぱりな。清人は内心でため息を漏らす。

「それに……わたしは『リルエ』って名前が嫌いだから」

「は?」

 予想外の一言に、呆気に取られたように目を丸くしてしまう。

「だから、お願い。清人にわたしのことを『リルエ』って呼んでもらいたいの。そうすれば、この名前も好きになれるかもしれないから……」

 相変わらず、どこかでも深く黒い瞳。だが、その奥底で彼女の感情の揺らぎが見えた気がした。

 今度は実際に、ため息を漏らす。

「……分かったよ。お前のことを『リルエ』って呼んでやる」

「本当に?」

「ああ」

 仕方なしに清人が頷く。

「じゃあ、呼んで」

「あ?」

「ほら、早く」

 急かすリルエに対して、清人は舌打ちをする。何だから癪に触って仕方がないが、また機嫌を損ねても面倒だ。

「……リルエ」

 かぼそく不明瞭な声で清人は言った。こんな言い方じゃ、彼女にテイクツーを食らうかもしれない。

「……ありがとう」

 それは無かった。意外にも、彼女は素直に礼を言った。

 その時、リルエの口元がかすかに微笑んだように見えて、清人は思わずハッとしてしまう。これまでほとんど笑った顔を見ていなかったから、不覚にも動揺してしまったのだ。

「あ、そうだ。清人」

 ふと何かを思い出したように、リルエが口を開く。

「何だよ?」

 清人は顔をしかめて聞き返す。

「そういえば、覚悟は決めた?」

「あ? 何のことだよ?」

「わたしと血の契約を結ぶ覚悟は出来たの?」

 リルエの問いかけに、清人は一瞬身を硬直させた。

「……もう一度確認しても良いか? 俺がお前から堕天使の力をもらって、あの黒い化け物をぶっ殺せば、本当に神が元の幸せな世界に帰してくれんのか?」

「絶対、ではない。あくまでも可能性があるということ」

「そうか……」

 清人はおもむろに顔を上げる。天井にぶら下がっているガラスが割れて光を失った照明をぼんやりと見つめた。今の自分はどうしようもない喪失感を抱えている。取り戻したい、何としてでも。どんなことをしても――

「……分かった、結んでやるよ。その血の契約とやらを」

 地べた立ち上がった清人は言う。

「本当に良いの? 言っておくけど、純粋な人間じゃなくなっちゃうよ。一部、もしくは半分くらい堕天使になっちゃうんだよ?」

「構わねえよ。また千穂と幸せに過ごせるなら、そんくらい安い代償だ」

「よほど好きなんだね、その彼女さんが」

「ああ、好きだ。愛している」

 ふっと微笑んで言う清人を、リルエは静かに見つめていた。

「……そう、分かった。じゃあ、早速始めても良い?」

「良いぜ」

 清人が頷くと、リルエは彼に歩み寄った。

「ごめん、少し痛むよ」

 瞬間、リルエの指先に黒い刃先が生じる。それが清人の右手の甲を小さく切り裂いた。続けざまに、彼女は自らの手の甲も同じ様に切り裂く。

 清人は痛みと困惑で呆然と立ち尽くす。そんな彼の手の甲から溢れ出す鮮血を指先ですくい取ると、リルエは彼の唇に塗った。そして、また自分に対しても同様の行為を施す。

「これで良し。後は、最後の仕上げだけ」

「そうなのか? んで、後は何をするんだ?」

「うん、キスをするんだよ」

 瞬間、空白の時が生じた。

「……はい?」

「キスをするの。わたしと清人が、キスをするの」

 事もなげに言うリルエに対して、清人はにわかに動揺する。

「おいおい、ちょっと待て。それは一体どういうことだ?」

「血の契約。それは文字通り互いの血を交わす契約。自らの血を唇に塗って、その状態でキス……口づけを交わすことで、その契約は完了するの」

「いや、それは出来ねえ。俺は千穂のことが好きだし、あいつの彼氏なんだ。そんな浮気みたいな真似なんて出来ねえよ」

「キスをしただけで浮気だなんて、清人も可愛らしいね」

「あぁ?」

「浮気とは書いて字のごとく、浮ついた気。心持ちがしっかりしていれば、行為なんて問題じゃない。清人はその千穂って子のことが好きなんでしょ?」

「ああ、そうだ。愛している」

「だったら、問題ないよ。その気持ちをしっかりと持っていれば、例えわたしとキスをしたとしても、それは浮気にならない」

 正直、中々にメチャクチャな理屈、というか屁理屈である。

「どうしても、キスをしないとダメなのか?」

「うん、そういうルール。仕方がないの。従って」

 リルエはブレない瞳で見つめてくる。

 清人は千穂が好きだ。千穂だけを愛している。例え何の気が無くそれが形式的な行為だったとしても、別の女とキスをするなんて、抵抗が無い訳がない。彼女に対する裏切り行為だと、強く自責の念を抱いてしまう。

 けれども、今の自分は何よりも大切なその彼女を失ってしまっている。取り戻したい。何としても取り戻したい。そのためには、目の前にいるリルエとキスをして、その力を授かり、『プルキャスト』を駆逐しなければならない。千穂のため、千穂を救うため。そして何より、自分のため――

「……分かった。してやるよ、お前とキスを」

「本当に? 良いの?」

「ああ。仕方がねえだろ、こんちくしょう。けどな、俺は千穂のことが好きなんだ。お前のことなんて、これっぽちも好きじゃねえからな」

「うん、分かっているよ……じゃあ、キスしよ」

 リルエがそのか細い手先で、清人の両手を握る。彼もまた、そんな彼女を見つめた。

 今しがた宣言した通り、清人はリルエに対して好意を抱いていない。むしろ、嫌悪を抱いているくらいだ。キスなんてしたくない。

 けれども、どんなに嫌な相手でも、仮にも女の子とそういった行為に及ぶ。

 否が応でも、心臓が落ち着きなく跳ねてしまう。くそ、静まれこのバカ野郎。

「緊張しているの?」

 またしても、リルエが見透かしたように言う。

「バッ、緊張なんてしてねえよ! 別にキスとか初めてじゃねえし! 千穂とも何回かしてっから、緊張とかしねえし!」

「そんな風に焦っちゃって。清人は本当に可愛いねぇ」

「テメェ、バカにしてっとぶっ殺すぞ!」

「はいはい、ごめんね。じゃあ、さっさとしてよ」

「ぐっ……」

 清人は悔しさの余り唇を噛み締め、拳を握り締めた。だが、すぐに思い直して解く。いつまでもグダグダやっている場合じゃない。自分は一刻も早く、千穂に会いたいんだ。

 両手をリルエの肩に置いた。ほっそりとしていて、下手をすれば折れてしまいそうに頼りない。けれども、清人は力強く握ってしまう。やはり、緊張しているのだ。

「い、行くぞ」

「うん……来て、清人」

 リルエがすっと両目を閉じた。心臓の高鳴りは最高潮に達する。

 俺が好きなのは千穂。俺が好きなのは千穂。俺が好きなのは千穂。

 頭がぐちゃぐちゃになるくらい、何度も心の中で唱えて。

 ついに、血濡れた両者の唇が重なり合った。

 口の中に鉄の味が広がる。当然であるが。

 しかし、不思議なことに。それと同じくらい、あるいはそれ以上に広がる得も言われない感覚。頭がクラクラとして、仕方がない。何だこれ、気持ちが悪い。

 数秒間唇を重ねた所で、リルエから身を引き剥がした。荒く呼吸をして、唇をごしごしと手の甲で拭う。

「ねえ、清人」

「あ? 何だよ?」

 少し息が切れた状態で、清人は聞き返す。

「ちょっとキスを止めるのが早かったから、まだ契約が完了していないの。だから、もう一回ちゃんとして」

「はあぁ!? お前ふざけんじゃねえよ! 俺がどんな思いでキスしてやったと思ってんだ!」

「そんなに怒らないでよ」

「怒るわボケ!」

「冗談、嘘だから」

「へっ?」

 清人はきょとんとした。

「血の契約は問題なく完了した。これで、清人も堕天使の力を得た。だから、『プルキャスト』と戦えるよ」

 リルエは落ち着いた声音で言う。

 からかわれたことを知り、清人はまた憤りを感じるが、この性悪堕天使にこれ以上怒りを覚えても詮無きことなので、奥歯を噛み締めて堪えることにした。

「おい、俺はもう堕天使の力を手に入れたんだよな?」

「そうだよ。右手の甲を見て」

 清人は先ほど、リルエに切り裂かれたその箇所に視線を向ける。そこには黒い翼を象徴するような刻印がなされていた。

「これか?」

 清人は右手の甲をリルエに見せて言う。

「うん、それが証。清人がわたしの眷属になった証だよ」

「ふぅん、そうなんだ。俺がお前の眷属に……」

 清人はぎょっと目を剥いた。

「おい、ちょっと待て。お前今何て言った?」

「清人がわたしの眷属になったの」

「眷属ってあれか? 俺はお前の手下ってことか?」

「そうだよ」

「ざっけんじゃねえ!」

 清人は大声で叫ぶ。

「何で俺がお前の手下になんなきゃいけねえんだ!」

「手下が嫌なら、子分にしよう」

「同じ意味だろうが!」

「良いでしょ。子分って、何か可愛いし。清人にぴったりだよ」

「お前、マジでぶっ殺すぞ。そうだ、ちょうど堕天使の力ももらったことだし、この力でぶっ殺してやるよ」

「本当に、清人は血気盛んだね。良いよ、ぶっ殺して」

 相変わらず、平坦な口調でさらりと言ってくれる。

「とりあえず、あそこにいる奴をぶっ殺してよ」

 リルエが清人の後方を指差して言う。彼は「あぁ?」と不機嫌な声を漏らして振り返った。

 黒い化け物が立っていた。その造形はパッと見て、牛を思わせた。ただし、本来の牛のようにのんびりとした雰囲気はない。人間のように二足で立ち、荒く吐息を漏らしている。口の端からは涎が垂れていた。

「あいつも随分と血気盛んそうだから、今の清人の相手には打って付けでしょ?」

 すぐ近くに黒い化け物――プルキャストが姿を現したというのに、リルエは全く慌てた素振りを見せない。恐らく、彼女にとっては問題なく倒せる相手なのだろう。清人と初めて会った時も、千穂を殺したプルキャストをあっという間に吹き飛ばしていた。

「言っておくけど、これは単なるストレス発散じゃない。試験も兼ねているから。わたしが見込みないと判断したら、清人はこの場に捨てて行くから」

「人を助けたり、死地に送り込んだり……本当に訳が分からねえ奴だな」

「ごめんね。清人は本当に可愛いけど、だからって甘やかしたりはしない」

 清人はちらりと背後にいるリルエを見た。彼女の黒い瞳が、じっと清人の姿を捉えている。

 なるほど、試験ね。

「……上等じゃねえか」

 清人は口元でにやりと笑う。

「あの黒公をぶっ殺せば良いんだな?」

 リルエはこくりと頷く。

 清人は改めて牛型のプルキャストを見据える。奴は開戦の火蓋が切って落とされるのを、今か今かと待ち侘びているようだった。

「んだよ。そんな風に興奮しているなら、自分から来いよ。デカイ図体して、本当は憶病なんじゃねえか?」

 清人はあざけるように笑う。

 すると、興奮のあまり肩で息をしていたプルキャストが、ぴくりと反応した。

「numetennnka……kura! koruaziureia!」

 鼻息を荒くして、何かを喚き立てる。当然、その言葉は分からない。

 けれども、相手が怒っていることは、手に取るように感じた。

「じゃあ、始めようぜ。殴り合い……ってか、殺し合いってやつをよ」

 清人は半身の態勢になって拳を構えた。プルキャストは相変わらず息を荒くしたまま、彼を睨んでいる。

 先手必勝。その言葉が清人の脳裏に浮かぶ。

 正直に言って、相手は化け物だ。堕天使の力を得たとはいえ、元は人間である自分が、おいそれとは勝てない。そう、向こうは強者。自分は挑戦者という立場なのだ。そのことを肝に銘じて、しかし、怯まない。確実に勝利を狙う。そのために、あえて先手必勝。こちらから仕掛ける。要するに、ビビっていちゃ始まらない――

「――うらあああああぁ!」

 唸るような雄叫びを発し、清人は駆け出す。

多くの死体を横切り、血濡れた床を走り抜ける。

清人の激情に呼応して、プルキャストも地を這う様な唸りを上げて突進を始めた。

 清人を遥かに上回る体格で、地響きを鳴らしながら迫って来る。

 しかし、清人は怯まない。真っ直ぐにプルキャストへと向かって行く。

 プルキャストに接近した時、奴がその豪腕を振るった。当たれば間違いなく即死。

 極限の緊張感の中、清人は身を屈めてかいくぐった。その豪腕は大きな脅威であるが、その分外した際、大きな隙を生み出す。その隙だらけの腹部に、清人はありったけの力を乗せて拳を叩き込んだ。

 確かな手応えを感じた。もし、奴が人間と同じような器官を持っているのだとしたら、口の端から無様に胃液を垂らしてもおかしくない。清人は渾身の一撃を決めた余韻に浸りつつ、顔を上げた。

 プルキャストは、無表情だった。先ほどまでの猛りが嘘のように。やはり、清人の拳が効いているのだろうか。

 だが直後、その口角がにやりと吊り上がった。

 何を笑ってやがんだ。ふざけんじゃねえ。

 そんな胸の内の毒づきは、次の瞬間には吹き飛ばされていた。

 清人自身と共に。

 全身に今まで経験したことのない衝撃が走った。

 痛い、というか意識が飛ぶ、というか……死ぬ。

 散々意気込んでいたくせに、結局は自分も化け物に殺されてしまうのか。

 大切な千穂と再び会うことも叶わず、死んでしまうのか。

 ちくしょう……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……

「ちくしょう!」

 自らの叫びに、清人は驚いた。

 あれだけの豪腕を食らって、即死だと思ったのに。

 生きている。全身は壊れそうなくらいに軋んでいるが。生きている。

 清人は確かに生きていた。

「そう簡単には死なないよ」

 気が付けば、壁に減り込んでいる清人のそばにリルエが立っていた。

「え……?」

「清人はわたしから堕天使の力を授かった、わたしの眷属。力もそうだけど、耐久性も人間の比じゃない」

 リルエの腕が伸びてくる。清人の身体を掴むと、強引に壁から引き抜いた。

 本当に、その細腕のどこにそんな力があるのか。それも堕天使の力というやつなのだろうか。

「まだやれるよね? それともギブアップして、わたしと代わる?」

 リルエが小首を傾げて問いかける。

 清人は露骨に顔を歪めた。

「ざけんな、これは俺のケンカだ。余計な手出しはすんじゃねえ」

「分かった。じゃあ、あの雑魚をさっさと倒してよ」

 さらりと言うリルエを睨み、清人は再びプルキャストと対峙する。

 清人をその豪腕で吹き飛ばしたことで、その口元には笑みが浮かんでいた。

「調子こいてんじゃねえぞ、黒公が」

 清人は拳を握り締めた。気合の呼気を発し、駆け出す。

 強者の余裕だろうか、プルキャストは鷹揚な構えで彼を迎え撃つ。

 ざけんじゃねえ、この野郎。

 胸の内で毒づく。今度こそ、ぶちのめしてやる。

 その時、清人はふと思い至る。彼は堕天使の力をリルエから授かった。しかし、その力の使い方を教わっていない。先ほどの拳は、恐らく堕天使の力を使えていなかった。だから、プルキャストを沈めることが出来なかったのだ。

 どうすれば良い? 今さら引き返して、リルエに教えを請うなんて、そんなダサい真似は出来ない。それに、恐らく彼女はわざと教えなかったのかもしれない。あくまでも、実践で学べと。自分は与えるものは与えてやった。それを使いこなせるかどうか、お前次第だ。そう言われているような気がした。本当にムカツク女だ、ぶん殴ってやりたい。

 ただ、彼女を殴るのは後回しだ。今は目の前の、調子こいているプルキャストに渾身の一撃を叩き込んでやらなければならない。

 改めてプルキャストに視線を向けると、尚も清人をあざけるように笑っている。

 その笑みが、非常に気に食わない。激しい憤りが体内で迸る。

 瞬間、右手の甲がズキリと疼いた。ちらりと視線を落とすと、そこに刻まれている刻印が、淡い輝きを放っていた。

 もしかして、清人の怒りの感情に反応したのだろうか。

 行けるかもしれない。己の怒りに力が反応するのなら単純明快。

 ありったけの怒りをこの拳に乗せて――

「――ぶち殺してやらああああぁ!」

 突進の勢いを活かして、清人は高く跳躍した。天井すれすれのラインを飛び、プルキャストの頭部に迫る。

 空中で拳を握り締めた。すると、その周りに黒いオーラのようなものが漂う。不思議と、力が漲ってくるようだった。

 清人の拳が、プルキャストの鼻っ柱に叩き込まれる。

「puraghda……!?」

 プルキャストは喉の奥が絡まったような呻き声を発した。

 床に降り立った清人は、自らの拳に残る感触を噛み締めていた。

 ぜえぜえ、と荒く息を吐いていたプルキャストは、赤く輝く瞳で清人を睨む。

「まだやんのか?」

 好戦的に清人は睨み返す。

 プルキャストがその身を揺らすと、清人もまた拳を構える。

 だが次の瞬間、プルキャストが天井を仰ぐ。

「pugyafajfhaoaafjk!」

 まるで断末魔のような悲鳴を上げた直後、その巨体は床に沈んだ。天井から屑がさらさらとこぼれて、プルキャストにかかった。

「……やったのか?」

 半ば呆然自失とした状態で、清人は呟く。

「よくやったね、清人」

 リルエがそばに歩み寄って来る。

 清人の隣に立つと、口の端から黒い液体をこぼして倒れているプルキャストを見据えた。

「《不安除去(ブラッシュアウト)》」

 リルエが唱えて指を振ると、プルキャストの巨体が吹き飛ぶ。壁に激突すると、そのまま霧散した。塵一つ残すことなく、消え去ってしまう。

「おい、その技便利だな。俺にも教えてくれよ」

 清人が言うと、リルエがおもむろに振り向く。

「ん? 清人には無理だよ。魔術の才能なさそうだし」

「あ?」

「清人はメチャクチャに暴れ回る方が似合っているよ」

「お前、俺のことをバカにしてんのか?」

「そんなことないよ。元気にはしゃぎ回って、すごく可愛いと思う」

「やっぱりバカにしてんじゃねえか!」

 清人は目を怒らせて叫ぶ。

「落ち着いて。けど良かったね、無事に試験は合格したよ。だから、正式に私の眷属として認めてあげる」

「誰がお前の眷属になんてなるか。俺はあくまでも、お前と対等だ」

「はぁ、本当に聞き分けのない子だね。良いよ、それで」

 やれやれと肩を竦めるリルエ。

 清人はやはりこの堕天使の少女が好きになれないと思った。







      第三章




 初めてプルキャストを倒した後。

 清人とリルエは軽く食事を済ませて外に出た。食事はデパートの食品売り場から調達した。

 快晴という訳ではないが、程よく雲が浮かんでおり、ある意味最良の天候だった。リルエに連れて来られた当初は気が付かなかったが、ここは清人が住んでいた修誠市から離れた、いわゆる地方都市なのだろう。デパートの周りにはそれほどの建物の数はない。その代わり、と言っては何だが、近くに緑豊かな公園があった。

「ちょうど良い、あそこに行こう」

 リルエに先導される形で、清人はその公園にやって来た。

 風がそよりと吹き、草木の揺れを感じると、本当にここは荒廃した世界なのかと疑問を抱いてしまう。

「多分、プルキャストが現れた時、この地域では雨が降っていたんだよ。ほら遊具が少し湿っているでしょ? だから、みんなデパートに集まっていた。そこをプルキャストに襲われたんだね。あそこが地獄だとしたら、ここは天国、というか砂漠のオアシスみたいなものだね」

 またしても、リルエが清人の心理を見透かしたように言う。彼女曰く人の心を読む力なんてないそうだが、あくまでも清人が単純だから分かりやすいらしいのだが、気に食わない。

 まあそれにしても、それは色々な意味で僥倖だった。もしその時にこの地域が晴れの天気であったなら、この公園は多くの親子連れで賑わっていたことだろう。そうだったなら、この公園は幼い子供や両親の死体で埋め尽くされていただろう。考えただけでもゾッとしてしまう。

 そして何よりこの緑豊かな光景は、荒んだ清人の心に、ほんの少しばかり潤いを与えてくれるようだった。

「じゃあ、清人。始めようか」

「あ? 何をだ?」

「決まっているでしょ? 清人の特訓だよ。力を使いこなすための、特訓。さっきは何とかプルキャストに勝てたけど、清人はまだまだ全然ダメ。弱過ぎ」

 彼女の言っていることは最もだ。先ほどは気合で何とか勝利を収めることが出来たが、非常に粗い戦い方だった。荒っぽい戦闘スタイルだとしても、粗かった。

「つーか、お前が先に力の使い方を教えておかなかったのが悪いんじゃねえか……」

「そうやってすぐ他人のせいにしないの」

 リルエが人差し指を突き立てて言う。

 清人は苛立った。その物言い自体もそうだが、何よりどちらかと言えばロリ体型なリルエが、まるでお姉さん、というかお母さんのような立ち位置から物を言ってくるのだ。

「ほら、そうやってすぐ反抗的な目をする。全く、清人は本当に仕方がない子だね」

 ついに、堪忍袋の緒が切れた。

「おい、ちょっと待てコラ。ていうか、お前は何でそんな偉そうな物言いなんだよ。お前は俺の保護者か?」

「そうだね、わたしは清人の保護者だよ」

「あっさり認めてんじゃねえよ! ていうか、お前はそんな幼い見た目で威張りやがって! 何歳だよこの野郎!」

「ざっくり千六百歳かな」

 事もなげに、あっさりと、リルエはそう言った。

「……は? せんろっぴゃ……へ?」

「清人。忘れているかもしれないけど、わたしは堕天使だよ。人間の清人よりも、そりゃ長生きしているよ。ああ、でも清人は元人間だね。今はわたしと血の契約を交わして半分堕天使だから、かなり長生き出来るよ」

「せんろっぴゃく……」

 清人は未だに虚ろな目で、その数字を呟いている。

「まあとにかく、清人はわたしの眷属。わたしの子供も同然。基本は厳しく、けれどもたっぷりと愛してあげるから、そのつもりでね」

「う、うるせえよ……」

 何だか彼女との歴然とした差を痛感させられたことで、反骨精神が急激にすり減ってしまった。清人はどうすれば良いか分からず、とりあえずそっぽを向いてしまう。

「本当に可愛いね……それじゃ、清人。特訓を始めるよ」

 リルエが言うと、清人はそっぽを向いたまま、目だけでちらりと彼女を見る。

「……具体的には、何をすれば良いんだよ?」

「あそこに遊具があるでしょ? まずは、あれを破壊してもらうから」

 リルエが指差す先には、大きなドームがあった。見た所、コンクリート製の頑丈なものだ。常人の力であれば、破壊することは不可能だ。けれども、今の清人は常人ではない。うざったい堕天使のリルエと契約を結んだ半堕天使なのだ。その力を使いこなせれば、あの固く大きなドームも破壊出来るということだろう。

「良いぜ、やってやるよ」

 沈んでいた清人の心が、少しばかり湧き上がった。他人を傷付ける暴力はそれほど好まないが、それでもやはり身体を動かすことが好きなのだと改めて自覚する。

「やる気だね。やっぱり、清人は単細胞だから魔術なんてスマートな真似は似合わない。魔力を拳に宿らせて相手を殴りまくるやり方が似合っているよ」

「はっ、言ってやがれ。この技を極めたら、まずはテメエの顔面に食らわしてやるからな」

「良いよ。その時は、お尻千叩きの刑に処してあげるから」

 どこまでもこちらをガキのように扱いやがる。本当に気に食わない野郎だ。

 清人は内心で毒づきつつ、そのドームに歩み寄る。

 手の甲で叩いてその表面の具合を確かめる。やはり、固い。だが、これくらいぶち破らなければ、これからプルキャストを駆逐することなんで出来やしない。また千穂と会う事なんて、出来やしない。清人は覚悟と共に、拳を握り締めた。先ほどのプルキャストとの戦闘を思い出し、握り締めた拳に魔力を注ぎ込む。右手の刻印がズキリと反応し、黒々としたオーラが溢れ出す。歪で、しかし確かな力が清人の右拳に宿る。

「――うらああああああぁ!」

 雄叫びを発して、ドームに渾身の力で拳を叩き込む。

 鈍い音が鳴った。ドームの表面が崩れ落ちる。

 そこには、ちょうど清人の拳大の亀裂が生じていた。

 彼は己の拳を見つめる。若干のしびれはあるが、痛くはない。しかし……

「しょぼいね」

 リルエが言った。

「うるせえよ! 今のはあれだ……そう、ウォーミングアップだ!」

「なるほど。今のでウォーミングアップは終了した?」

「ああ、したよ。これからが本番だよ」

「そう。期待しているから」

 平坦な顔と口調で、リルエは言った。

 くそ、そんな風に澄まし顔をしていられるのも今の内だ。

 清人は気合を込めて、再び拳を放った。

「うらああああああぁ!」




      ◆




「……はあ、はあ」

 清人は地べたに仰向けに倒れていた。

「ねえ、もう終わりなの? 早いね。わたし、全然満足していないんだけど。もっとわたしを満足させてよ、清人」

 つんつん、とそばでしゃがんでいるリルエが、清人の頬を突く。

「……るせえ……よ」

 息も切れ切れになった状態で、清人は言う。

 彼の前にあるドームは、いくつかの小さなひび割れはあるものの、相変わらずどっしりと構えていた。まるで破壊されていなかった。

「力が分散している。余計な所に回っちゃっているから、余計に疲れて、こんな風に無様に寝転がっているんだよ」

「お前……ちょっと俺のことディスり過ぎだろ……?」

「言ったでしょ? 基本厳しく、たっぷりと愛してあげるって」

「ムカツクな……マジで」

「この程度のことも満足に出来ない、未熟な清人が悪いんでしょ?」

 尚も清人をディスり続けるリルエに対して、またしてもプッツンしてしまう。

「じゃあ、お前がやってみろよ! どうせお前なんて魔術を使わないと何も出来ないお嬢ちゃんなんだろ?」

 寝転がったままニヒルに笑って見せると、数秒間、リルエの表情が停止した。

「……かっちーん、と来ちゃった。清人、目上の立場であるわたしの対してそんな物言い、万死に値するよ。謝って。今すぐ謝ったら、デコピンで許してあげるから」

「嫌だね。誰がお前みたいな奴に謝るもんか」

「本当に、聞き分けのない子だねぇ」

 リルエはやれやれとため息を漏らす。その仕草に対して清人が苛立つを覚えた時、彼女はおもむろに立ち上がった。

「そこで寝そべって見ておきな、クソガキ」

 平坦な口調でさらりと暴言を吐く。

「誰がクソガキだ、コラ!」

 清人はかっと目を見開いて叫ぶ。

「全く、清人は本当によく吠えるね。憶病な犬ほどよく吠えるんだよ」

 またしても自分をバカにするリルエの物言いに対して、清人が叫ぼうとした時。

「《魔拳(まけん)》」

 静かな声と共に放たれた静かな拳は、直後に凄まじい衝撃音を鳴らす。

 一瞬、砂埃が舞い、次の瞬間にはもう硬いドームは脆くも崩れ去っていた。

 その光景を見て、清人はぽかんと口を開く。

「このドーム、表面はとても固いけど、中身は無いから。簡単に壊せるよ。まるで清人みたいだね」

 こちらに振り向き、歩み寄って来るリルエに対して、清人は呆然としたままだ。

「強がって、強い振りをして。けど、その中身は空っぽ。しょうもない。だから、容易く壊れてしまう……まあ、人間なんて、大方そんなものかもしれないけどね」

 その黒い瞳に見据えられて、清人は初めて彼女に対して恐怖心のようなものを抱いた。

「けれども、そういう所が可愛いんだけどね。特に、清人は可愛いよ」

「……だから、可愛いとか言うな」

「ごめん、ごめん」

 リルエはまた清人のそばでしゃがんで、彼の頭を優しく撫でた。それが何だかとてもむず痒くて、彼は逃げる様にそっぽを向いた。それを彼女はどこか楽しげに見ている。

「――うわあああああああぁ!」

 突然、どこからか悲鳴が響いてきた。

 清人はとっさに地面から飛び起きる。辺りを見渡した。

「何だ? 何が起きたんだ?」

 軽くパニックを起こす清人の肩に、リルエが手を置いた。

「清人、あっち」

 リルエはある方角を指差し、それから背中に黒翼を生やした。少し乱暴に清人を抱えると、そのまま飛び立つ。突然のことに、清人は目を白黒とさせてしまう。

「いた」

 リルエの声に反応して眼下に目を凝らすと、道路のアスファルトを破壊しながら突き進むプルキャストと、逃げ惑う一人の男性がいた。その姿を見て、清人は目を見開く。今まで多くの死体を見て来たので、自分以外の人間はもうみんな死んでしまったのかと思っていた。けれども、生き残りがいた。その事実が嬉しい。

「おい、リルエ。あの人を助けるぞ」

 飛翔するリルエに、清人が呼びかける。

「了解した。良かったね、またすぐに実戦が出来て」

「うるせえ。良いから、さっさと行け」

 リルエは一気に高度を落とし、荒れたアスファルトに降り立つ。清人は慌てて彼女の腕を振りほどき、前方を見据えた。こちらに男性と、その後を追うプルキャストが向かって来る。そのプルキャストは、兎のような姿をしていた。ぴょんぴょんと忙しなく跳ねまわり、どこか楽しむようにして男性を追い回している。

「うわああああああぁ!」

「hfyaoufa! hfoaufafuao! foaofamofaoufaou!」

 悲鳴を上げる男性を、兎型のプルキャストは執拗に追い回す。

「リルエ!」

 清人が叫ぶ。リルエは既に構えを取っていた。

「《不安除去(ブラッシュアウト)》」

 リルエが指をくいと曲げると、それに呼応するように、プルキャストは横に吹き飛んだ。

「hgaoufaojjfahfoa!?」

 近くの建物に激突したプルキャストは、悲鳴を上げた。

 その様を見ていた男性は、目を見開いている。

「危ないから、こっちに来て!」

 清人が叫ぶと、男性はびくりと肩を震わせて反応する。突然のことに動けないでいる彼をじれったく思い、清人は駆け出そうとする。

「《黒引力(プルパウ)》

 リルエが唱えると、男性の身体が一気に引き寄せられた。彼女の手元にやって来る。

 呆けている男性をその場に立たせた。

「あのプルキャストに襲われていたんだね」

 リルエが問いかける。男性はその黒翼に目を奪われつつも、小さく頷く。

「あ、ああ……あいつらが、皆を殺したんだ」

「あいつら?」

 リルエが小首を傾げる。

「あの兎みたいな奴の以外にももう一体、化け物がいるんだよ」

 苦痛に顔を歪めて、男性は言う。

 その時、遠くの方から地響きが聞こえてきた。三人は一斉に振り向く。

 真っ直ぐに続くアスファルトの向こう側から、巨大な四足歩行の塊がやって来る。それはとてつもない化け物。だが、見覚えがある。

「亀……?」

 清人が声を漏らしたのとほぼ同じタイミングで、建物に減り込んでいた兎型のプルキャストが、よろよろと起き上がった。亀型のプルキャストは鈍重な足取りで、奴に歩み寄る。

「guraughaoa……?」

 その姿に似つかわしい低く重苦しい声を、亀型は発した。

「ppouifaup! pruaprau……」

 ひと際キーの高い声で喋り、うなだれる兎型。

 すると、亀型は首をぐっと伸ばし、鼻先で兎型の鼻を突く。

「gyufa……gurauray」

「puraouraiu……purauraura、purpaurajrap!」

 すると、しょげていた兎型はまた元気よくぴょんと跳ねた。そして再び、赤く輝く瞳をこちらに向ける。清人は身構えた。

「清人」

 リルエが呼びかける。

「わたしがあの兎型を押さえてあげる。だから、清人は亀型をやって」

「ああ、良いぜ」

「奴が相手なら、良い特訓になるでしょ?」

 リルエに言われて、清人は先ほどまでの苦い特訓風景を思い出す。軽く舌打ちをした。

「余計な気を回してんじゃねえよ」

「素直にお礼を言ってくれても良いのに」

 軽く口の先を尖らせて言うリルエを睨んでから、清人は前に向き直る。

 兎型は忙しなくぴょんぴょんと跳ねまわり、亀型はどっしりと構えている。対象的な二体のプルキャストと相対する。化け物を相手にする訳だから当然、恐怖心はある。だが、倒さねばならない。駆逐せねばならない。大切な千穂と、再び会うために。この胸に抱きしめるために。

 清人は力強くアスファルトを蹴った。

「うおおおおおおぉ!」

 荒れたアスファルトを駆けて、一直線に亀型に突進する。

 すると、兎型が機敏に反応して、清人に飛びかかる。

「jfapkrayrua!」

「《不安除去(ブラッシュアウト)》」

 リルエの指の一振りで、兎型はまたして吹き飛ばされてしまう。しかし今度は建物に直撃する寸前、宙で身を捻って態勢を整え、足から建物の壁面に着地した。その際に膝のバネを目一杯活かし、猛烈な勢いでリルエに迫る。

「《落下道(セツロウ)》」

 リルエの目の前で、兎型はアスファルトに沈んだ。

『《黒引力(プルパウ)》』

 兎型の足元に黒い影が生じる。それが、同じく黒い奴を吸い付ける。抵抗を試みても、捉えて離さない。

「約束通り、こいつは押さえておくから。清人はさっさとあの亀型をぶっ殺してよ」

「いちいち命令すんな。ていうか、お前も大概口が悪いぞ」

「可愛いでしょ?」

「はぁ? ナルシストかお前は」

 清人は露骨に表情を歪めて毒づく。それから再び前方を見据え、亀型に向かって行く。

 鈍重な亀型にあっさりと肉薄した清人は、拳を握り締めた。

「おらあああぁ!」

 気合の一声を発し、拳を放つ。魔力を宿したその拳は、甲羅に激突する。

 瞬間、清人は拳に未だかつて感じたことのない、鈍い衝撃を食らった。

「ぐっ……!」

 思わず拳を押さえる。恐らく堕天使の力を得ていなかったら、今頃清人の拳は砕け散っていただろう。それくらい、この亀型の甲羅が硬い、硬すぎるのだ。金属や鉱物なんかよりもよほど硬い。地球上のありとあらゆる物質よりも硬いのではないだろうか。前にリルエがプルキャストは人の醜い心の塊だと言っていたが、こうなると地球外の化け物に思えてならない。こんな奴らを、駆逐することなんて出来るのだろうか。

 清人は頭を強く振った。弱気を発した自分に喝を入れるため、両頬を思い切り叩く。

 亀型は鷹揚に首を持ち上げて、こちらを見据えている。

 とてつもなく硬い甲羅ではなく、あの首を狙えば容易く清人の拳の威力は通るかもしれない。

 しかし、それでは意味がない。この拳で、あの硬い甲羅を打ち破らなければ、この先、プルキャストを駆逐することなんて出来やしない。

 落ち着け、考えろ。今の自分に足りないものを、考えろ。

 ――力が分散している。

 リルエの一言が脳裏に蘇る。

 体内にある魔力を、一転に集中させる。この拳一点に集中させる。

 清人は改めて己の右拳を見つめた。

 集中、集中、集中、集中、集中、集中集中集中集中しゅうちゅうしゅうちゅちゅう……

 亀型がもたげていた首を一度引っ込める。直後、アスファルトに佇む清人に対して、猛烈な勢いで突き出された。

「――ふっ!」

 清人は素早く反応し、ぎりぎりのラインでその頭突きをかわす。そのまま伸びた首に沿って突き進み、再び亀型に肉薄する。

 握り締めた拳には、先ほど以上に、確かな力が宿っているような気がした。全身の力を、魔力を、余すことなくこの拳、ただ一点に注ぐ。集中させる――

 清人の拳が、亀型の甲羅に激突した。先ほどはあまりの硬さに、殴りつけたこちらが逆に骨の髄まで痺れるような思いをした。

 けれども今度は、確かな力を宿した清人の拳が、硬い甲羅に亀裂を生じさせる。

「うおおおおおおおぉ!」

 雄叫びが、清人の拳に更なる力を上乗せする。小さい亀裂はやがて広がって行き、甲羅全体にまで行き届いた。

 そして、その甲羅がとうとう砕け散った。

「gyaugaygaufa……!?」

 それまでどっしりと、鷹揚に構えていた亀型はびくんと首を震わせた。清人を見るその赤い目は、どこか恐怖に震えているようだった。

「ghaygaoufagayogagagayoaaaaa!」

 亀型は天を仰いで悲鳴を上げた。

 直後、その黒い身体は霧散し、跡形も無く消え去った。

「……ふぅ」

 清人は一つ息を吐いた。あれだけ巨大で硬い拳を砕いたというのに、それほど息が切れていない。先ほどの公園での特訓の際にはバテバテだったというのに。

「余計な力を使わなかったおかげだね」

 リルエがそばにやって来る。

「兎野郎は?」

「もう始末したよ」

 あっさりと言うリルエの背後で、黒い霧が舞っていた。

「そうか」

「清人、よくやったね。練習はダメダメだけど、本番できっちりと決める。本番に強い男の子は、素敵だよ」

 そう言って、リルエは俺の頭に手を伸ばし、撫で始めた。二人はそれなりに身長差があるため、リルエがつま先立ちの格好になる。

「だから、テメエは俺のことをガキ扱いしてんじゃねえよ!」

「まあまあ、そう怒らずに。清人だって、本当は嬉しいでしょ?」

「はっ、冗談。お前みたいな奴に撫でられても全然嬉しくねえ。千穂の温かみには到底及ばねえよ」

 頬の辺りを歪めて清人は言う。すると、リルエはムッとした顔付きになる。

「……あの、君達」

 ふいに、背後から声をかけられる。先ほど助けた男性が、戸惑いの表情を浮かべていた。

「助けてくれてありがとう。けど、君達は一体……?」

 男性に尋ねられて、清人は口ごもる。自分達の身の上を、何と説明したら良いのか。

「えーと……」

 清人が喋ろうとした時、リルエが片手で制す。

「とりあえず、さっきの公園に戻ろう」

 リルエは背中の黒翼をバサリと羽ばたかせる。

 戸惑う清人と男性の二人を両脇に抱えると、天に向かって飛翔した。







      第四章




「桜場秀樹(さくらば ひでき)だ。よろしく」

兎と亀のコンビから救った男性――秀樹は快活な笑みを浮かべて言った。

 あれから、リルエに抱えられて公園に舞い戻った。そして、秀樹に大まかではあるが今の世界、ひいては宇宙規模で起きていること、そして自分達が何者であるかを清人は説明した。堕天使と半堕天使なんて、嫌悪の念を抱かれるかと思ったが、秀樹はそんな素振りなど一切見せず、むしろ好意的に接してくれた。

「君達は命の恩人だ。それに対して、嫌悪感を抱く訳ないだろ?」

 またしてもにこりと快活に笑って言う。

 秀樹は短髪でがっしりとした体格を持つ、スポーツマンのような男だ。故に、その笑みがどこまでも似合っている。

「えーと、桜場さんは……」

「秀樹で良いよ。俺も君のことを、清人くんって呼んでも良いかな?」

「あ、はい。別に構わないっす」

「そうか、ありがとう。よろしくな」

 ちらり、と白い歯がこぼれる笑みはどこまでも爽やかだった。やさぐれ気味の清人からすれば、彼はどこまでも眩しい。性別もタイプも違うが、千穂と同じ太陽のような人だと思った。

 それから、秀樹はくるりと振り返り、リルエに視線を向けた。

「えっと、リルエちゃんだっけ? 堕天使なんだよね? ごめん、俺って学生時代からそういうの全然知らないスポーツバカだったんだ。けど、君も命の恩人だ。これからよろしくね」

 太陽のように眩しい笑みを前にしても、リルエはいつもの姿勢を崩さない。

「うん。ところで、あなたはこれからどうするの?」

「え? うーん……どうしたら良いかな?」

 少し困った様に、秀樹は聞き返す。

「とりあえず、危機は脱したから。ここでお別れ。後はあなたの好きにすれば良い」

 リルエは淡々として言う。その口調はいつものことだが、今回はより事務的に感じた。

「おい、ちょっと待てよ。秀樹さんを一人で行かせるつもりか?」

 清人が割って入る。

「いけないの?」

 リルエは小首を傾げる。

「当たり前だろうが。秀樹さんは何も戦う術を持っていないんだぞ?」

「それがどうしたの?」

 尚も小首を傾げて言うリルエに対して、苛立ちを覚える。

「お前な……別れるにしても、せめて秀樹さんに力を与えてやったらどうだ? ほら、血の契約ってやつで。半分堕天使になっちまうけど、無力で死んじまうよりはマシだろうしさ」

「それは無理な相談だね」

 バッサリと、リルエは切り捨てる。

「あぁ? 何でだよ?」

「血の契約は、一人としか交わせない。わたしは清人とそれを交わした。だから、彼と交わすことは出来ない」

「そうなのか?」

「そうなの」

 答えて、リルエはぷいとそっぽを向いてしまう。その訳がさっぱり分からなかった。

「あはは。俺、何か嫌われちゃっているみたいだね」

 あくまでも爽やかな笑みを浮かべながら、秀樹は言う。

「ああ、すいません。そんなことはないと思うんすけど……でも、このまま秀樹さんを一人にする訳にもいかないし……」

 清人がどうしたものかと思い悩んでいた時、リルエがため息を漏らす。

「そんなに彼が心配なら、清人が力を与えてあげれば良いよ」

「は? 俺が?」

「そう。まあ、清人は半堕天使だから、与えられる力は小さいけど。何もないよりはマシでしょ?」

「つまり、俺が秀樹さんと血の契約を結ぶってことか?」

「そういうことだね」

「なるほど、そんなことが出来んのか。じゃあ、早速……」

 言いかけた所で、清人は停止した。

 ふいに思い出す。リルエと交わしたキスのことを。

 途端に、こめかみの辺りから脂汗が垂れる。

「どうしたんだい、清人くん?」

 秀樹が不思議そうに首をかしげる。

「あ、いや、その……」

 やべえ、どうしよう。

 清人は内心でとても焦った。リルエの言うことに従うなら、清人が秀樹と血の契約を交わす必要がある。秀樹をこんな危険な世界で何の力も持たず一人にさせるのは、あまりにも危険だし忍びない。

 しかし、その契約を結ぶためには、あの行程が必要だ。それは男同士で易々と出来るものではない。もちろん、男女でもそう易々とは出来ないが。とにかく、やべえ。

 内心で清人が焦りまくっていた時、またしてもリルエがため息を漏らす。

 リルエはすっと清人に歩み寄ると、その指先から小さな黒い刃を出し、手早く彼の手の甲を切った。それから同様に、秀樹の手の甲も切り裂く。二人が呆気に取られている間に、リルエは切り裂かれて血が流れるそれぞれの手の甲を重ねた。

「我、堕天使のリルエ。血の契約の見届け人。問題なく遂行することを、ここに示す」

 リルエが静かに言葉を紡ぐと、一瞬黒い光が迸った。

 直後、リルエは二人の手を引き離す。

「はい、これで完了。お疲れさま」

「は?」

 清人はきょとんとした。

「どうしたの?」

「いや、お前……確か、血の契約を交わすためにはキ、キスをする必要があるって……」

「あれ、そんなこと言ったっけ? まあ、これで彼に力を与えられたんだから、良いじゃん」

 そう言って、リルエはまたぞろそっぽを向いてしまう。そんな彼女を見て、清人は無性に殴りたくなってしまう。

「おー、何か手の甲に模様が出来たよ」

 声を発したのは秀樹だ。

「上手く行ったみたいだね。おめでとう」

 どこか投げやりな口調でリルエが言う。清人の怒りは増々煽られた。しかし秀樹の手前、拳を握り締めることで何とか堪える。

「じゃあ、力も与えたことだし。これからは一人で頑張ってね」

 リルエが言うと、秀樹は頬をぽりぽりと掻く。

「ああ、そのことなんだけどさ……やっぱり君達と一緒にいても良いかな?」

「は?」

 リルエが低い声で聞き返す。

「情けない話だけど、一人だと心細いんだよ。だから、お願いだ。君達と一緒に行かせてくれないか?」

「それは話が違う。あなたは力を得たのだから一人で……」

 リルエが喋っている途中で、清人はその細い肩を掴み、ぐいと後ろにやった。

「良いですよ」

 清人はあっさりと言う。

「本当かい?」

「はい。俺は目的があってあの黒い化け物を駆逐しなくちゃいけないんです。だから、一人でも戦力が加わってくれるなら、ありがたいです」

 清人は笑みを浮かべて言う。すると、服の袖を引っ張られた。

「ちょっと、清人。どういうこと? 何で勝手に決めるの?」

「あ? 別に良いじゃねえか。なるべく仲間がいた方が、心強いじゃねえか」

「そういう問題じゃない」

「はぁ? 何が言いてえんだよ、ハッキリしろ」

「……清人って、本当に単細胞のオタンコナスだね。嫌い」

 ぷい、とリルエはそっぽを向いてしまう。その仕草を見て、清人は非常に苛立った。

「とにかく、秀樹さんにも一緒に来てもらうからな」

「勝手にすれば?」

 この堕天使、その内絶対にぶん殴ってやる。

 密かに決意と拳を固める清人だった。

      第五章




 背中に担いだリュックの重みを感じながら、清人は抉れたアスファルトを歩き続ける。

「しかし、ひどいな」

 眉をひそめて声を漏らすのは、新たに仲間となった秀樹である。彼もまた、清人と同じくリュックを背負っていた。

「これが全部、あのプルキャストって化け物の仕業なんだろ?」

「はい。そうみたいです」

 清人は頷く。道中でいくつかの死体が転がっていた。中には食いちぎられてバラバラになったものもある。それを見つける度に、秀樹が悲しげな顔をした。

「奴らはなぜ、人間を殺して食らうんだろうな? 本当にひどい奴らだ」

「同感です」

 またしても、清人は頷く。

「それがプルキャストに与えられた役割だからだよ」

 静かな声が会話に割って入る。二人は同時に少し離れた場所を歩くリルエを見た。彼女はリュックを背負っていない。不公平だと清人は言ったが、いざという時に黒翼を展開しづらくなるため、背負わないのだと言う。

「役割って?」

 秀樹が尋ねる。

「人間を殺して、食らって、この世界を崩す。そして、その様を見て楽しむ奴がいる」

「それは誰のことだい?」

「神だよ。さっきも言ったでしょ? 神が遊興のために色々な世界を造って、その様を見て楽しんでいるって」

「何で、神はそんなことをするんだい?」

「わたしは知らない。知りたくもない」

 リルエは相変わらず起伏に乏しい表情だったが、どこか苦虫を噛み潰すような物言いだった。

 その様子を察知したのか、秀樹はそれ以上追及をしなかった。

「あ、そうだ。少し休憩しないかい?」

 淀んだ場の空気を整えるように、秀樹は言った。

「どうかな?」

 秀樹は爽やかな笑みを清人に向ける。

「良いと思います」

「じゃあ、あの辺で休もうか」

 秀樹は比較的損壊の少ない建物を指差して言う。特に断る理由も無いので、一向は秀樹の提案に従ってその建物の下にやって来た。堕天使の力を得て身体的にも能力は向上している。しかし、重いリュックを背負って長時間歩いたことで、それなりに疲労していた。清人はリュックを背中から降ろして、地べたに座って一息吐く。

「ちょっと待ってくれ。適当な軽食を見繕うから」

 そう言って、秀樹は地べたに下ろしたリュックの中身を漁る。その中身は、数時間前にデパートで調達したものだ。多くの死体が転がる中で、非常に心苦しい思いをしながら、リュックに必要な物資を詰め込んだ。

「これにするか。はい、清人くん」

 差し出されたのは、ソーセージパンとお茶だった。

「ありがとうございます」

 清人は頭を下げる。秀樹はにこりと笑った。

「おーい、リルエちゃん。何か食べたい物はあるかい?」

 離れた位置に立っているリルエに対して、秀樹は呼びかける。彼女はしばらくの間、口を閉ざしていた。

「……特にない。二人で仲良く食べたら良い」

 投げやりな風に言うリルエに対して、しかし秀樹は気分を害した様子を見せない。

「そうか。もしお腹が空いたら言ってくれよ」

 秀樹は快活な笑みで言うが、リルエは返事をしなかった。

「すいません、秀樹さん。あいつ、愛想が悪くて。まあクールな奴なんで、勘弁して下さい」

「いやいや、俺は気にしていないよ。それに、彼女はクールなんてことはないと思うよ」

「え?」

「意外と熱い思いを胸に秘めている。俺にはそんな気がするけどね」

「はあ、そうなんすかね」

「まあ、あくまでも勘だけど」

 リュックから取り出したカツサンドを片手に、秀樹は笑う。

 ビニール袋からパンを取り出し、二人は頬張った。

「うん、美味いね。天気も良いし、最高だ」

 言った所で、秀樹は表情を歪めた。

「なんて、そんなこと言ったら不謹慎だな。俺は運よく生き残れたけど、他のみんなは苦しんで死んでいったのに……あいつも」

「あいつ?」

 清人が聞き返すと、秀樹はハッと目を見開いて、それから破顔した。

「何でもないよ。まあ、あれだな。空を見ていれば良いか。空に死体は転がっていないからな」

「その言い方は、結構ひどいと思いますよ」

「あはは、そうだね。まあ、あれだ。今は生きている喜びを噛み締めよう。それが死んだ人達に対する、俺なりの報い方だ」

 そう言って、秀樹はカツサンドをかじる。それに倣って、清人もソーセージパンにかぶりつく。

「美味いっすね」

「だろ?」

 片目を閉じて言う秀樹を見て、清人は自然と笑った。

 その時にふいに、そばで気配を感じた。

「うおっ!」

 顔を向けると、いつの間にかリルエがそばに立っていた。

「ねえ、清人」

「な、何だよ?」

「ちょっと聞きたいんだけど……清人って、もしかしてホモ?」

 唐突に、とんでもない質問を突き付けられる。

「……はい?」

「だって、清人が彼ととても楽しそうに話しているから。わたしと話す時よりも、何だか楽しそうにしているから」

 黒い瞳で清人をじっと見つめて、リルエは言う。

 否定をしようかと思ったが、実際の所、クールで暗くて何を考えているか分からないリルエよりも、ホットで明るくて気持ちが通じ合う、秀樹と話している方が楽しくて気が楽だった。

「ああ、そうだな。秀樹さんと話している方が楽しい」

 だから、清人はそう答えた。

 リルエは特に表情を変えることなく、その黒い瞳で尚もじっと清人を見つめている。相変わらず、何を考えているのかさっぱり分からない。ひどいことを言うようだが、気味が悪い。

「……ふぅん、そうなんだ」

 そう言った切り、リルエは押し黙ってしまう。せめてその場から離れてくれれば良かったのだが、彼女はなぜか無言のままその場に留まっている。おかげでひどく居心地の悪い空間が形成されてしまう。

「あのさ……」

 あまりの気まずさに清人が苦言を呈しようと思った時、近くで足音が鳴った。

 振り向いた先には、プルキャストがいた。トカゲのような姿で、二本足で立っている。その口からはチロチロと忙しなく舌が出し入れされる。

 それまで場を支配していた緊張感は一気に上書きされた。清人は息を詰め、トカゲ型のプルキャストを睨む。

「秀樹さん、下がっていてください。ここは俺がやります」

 清人は固く拳を握りしめ、そばにいた秀樹に声をかける。

「その必要は無いよ、清人」

 冷たく響く声で、リルエが言う。

「あ?」

「ここは彼にやらせよ」

 清人は驚きと、直後に湧いた怒りで目を見開く。

「お前、何言ってやがるんだ? 秀樹さん一人で戦わせられる訳ないだろ?」

「彼は貴重な戦力なんでしょ? だったら、少しでも実戦を経験して、強くなってもらわないと。あんなトカゲ野郎一匹ぶっ殺せないようじゃ、使い物にならない」

「お前……マジで口が悪いな」

「清人には言われたくない」

 そう言うリルエの顔と声は、どこまでも冷めていた。清人は彼女に対して、尚も反論をしようとする。

「大丈夫だよ、清人くん」

 秀樹の明るい声が割って入る。

「彼女の言う通り、俺もきちんと戦力にならないと。それに俺は大人だから。君達のような子供を盾にしていたら、カッコ悪いだろ?」

 バチリと片目を閉じて秀樹は言う。それを聞いたリルエが小声で「わたしはあなたよりもずっと年上よ」とぼやいている。だが、彼は全く気付いていない。この危機的状況においても、ニコニコと笑っている。

「秀樹さん、怖くないんすか?」

 清人は初めて彼に会った際、プルキャストに追われて悲鳴を上げていたことを思い出す。

「怖いさ。ガクブルってやつだよ。けど、今の俺は君から力をもらったから。大切な人達を殺したあの化け物に、一矢報いてやりたい。今はその気持ちが恐怖を掻き消してくれるんだ」

「秀樹さん……」

 清人は彼をじっと見つめた。

「だから、ここは俺にどーんと任せてくれ」

 秀樹は快活な笑みを浮かべて、自らの胸を叩く。少しお調子者のような気もするが、その明るさが清人には眩しく、どこか羨ましかった。

「分かりました。けど、ヤバくなったら助太刀しますんで」

「ありがとう。助かるよ」

 にこりと笑みを浮かべた後、清人は前方に立つトカゲ型を見た。

「さてと、行きますか」

 秀樹は前傾姿勢で身構える。トカゲ型は相変わらず忙しなく舌を出し入れしていた。

 先に動き出したのは秀樹だった。彼は足場の悪いアスファルトを強く踏み締め、トカゲ型に向かって行く。その動きは素早かった。

「うおおぉ!」

 秀樹は拳を放つ。二mほどの身長を持つトカゲ型の腹部に、その拳が炸裂した。常人であった頃、彼は為す術もなくプルキャストに追い回されていた。しかし、力を得た彼の拳は、その化け物に確かに通じた。

「purafaupahf……!?」

 トカゲ型は小さく悲鳴を上げた。その口から黒い液体が飛び散った。

「凄いじゃないすか、秀樹さん!」

 清人は思わず叫んでいた。

「ありがとう。俺は学生時代陸上部で、社会人になっても定期的に走って鍛えていたから。そのおかげもあるんだろうな」

 秀樹はこちらに振り向き、にかっと笑う。その背後で、ダメージから回復したトカゲ型が動く。身を一度右方向に捻った。

 次の瞬間、秀樹の後頭部に黒い尻尾が巨大なムチのようにしなって迫る。

「秀樹さん!」

 清人が叫ぶと、彼は寸前の所でかわした。風圧が、清人の方にまで伝わって来る。あれをまともに食らったら、ひとたまりもないだろう。

「大丈夫ですか!」

 清人が呼びかけると、秀樹は笑顔で手を振った。

「ああ、何とかね」

 その直後、返す刀でしっぽが繰り出される。秀樹はまたしても何とか回避するが、風圧でよろけてしまう。その様を見て、清人は思わず一歩踏み出す。

「ダメだよ、清人」

 釘を差すように、リルエが言う。

「彼が一人で倒さなくちゃ。彼はいつまで経っても強くなれない」

「確かにそうかもしれないけどよ……けど、やっぱり放っておけねえよ!」

 リルエが制止する間もなく、清人は駆け出していた。

 特訓のため、秀樹が自分の力で奴を倒すという案自体は清人も賛成だ。けれども、正直な所彼一人では荷が重いこともまた事実。だから、せめてそのアシストくらいはしてあげたい。

 清人は荒れたアスファルトの一部を掴んだ。血の契約によって得た堕天使の力によって、それを一気にめくって剥がす。巨大なアスファルトの塊を両手で掲げる格好となった。そのまま、清人はトカゲ型に迫る。奴は反応するが、清人の動きが一瞬速かった。

「おらあ!」

 振り下ろされたアスファルトの塊が、トカゲ型の尻尾を根元から切断した。鋭利な刃物と違い、歪な形のアスファルトの重みで強引に切断されたことで、その断面はズタズタだった。そこから、黒い液体が迸る。

「よし……秀樹さん、うざってえ尻尾はぶった切りましたよ!」

「ありがとう!」

 秀樹は白い歯をこぼす笑みを浮かべ、トカゲ型に向かって再度突進を試みる。元陸上部の鍛え上げた健脚、そこに堕天使の力も加わり、あっという間にトカゲ型との距離を詰める。

 サイドからその様を見守っていた清人は、直後に目を疑う光景を見た。

 ズタズタに切り裂かれたトカゲ型の尻尾の断面がグチャグチャと蠢く。

 次の瞬間には、あっという間に元の尻尾が再生していた。

「はっ……?」

 再生したばかりの尻尾は大きくしなり、トカゲ型に対して向かって行く秀樹に繰り出される。

「え……?」

 秀樹もその事態は予想していなかったようだ。

 今度は回避する間もなく、その尻尾の直撃を受けてしまう。

 彼は後方に大きく吹き飛んだ。

「ぐああああぁ!」

 アスファルトに背中から強く打ち付けられたことで、彼は身動きを取ることが出来ない。

「秀樹さん!」

 清人は慌てて駆け寄ろうとするが、その時、トカゲ型が再生した尻尾を振るった。

「くっ」

 避け切れず、清人は尻尾を食らってしまう。何とかガードだけは試みたが、吹き飛ばされて近くのビルに激突した。

「か、は……っ」

 呻き声を上げて、その場に崩れ落ちる。

「babababa! prauryaora!」

 トカゲ型は天を仰いで哄笑する。

 人をいたぶって、喜びやがって。思えば、今まで対峙したプルキャスト達は、みなどこか楽しげだった。人をいたぶって、蹂躙することに喜びを感じているようだった。千穂を殺した奴も、そうだった。思い至った瞬間、身体中の血が沸き立つ感覚を得た。

「……調子こくなよ、黒公共が」

 ぱらぱらと瓦礫を落としながら、清人は立ち上がる。

 前方に立つトカゲ型は、舌をチロチロさせ、小躍りするようにステップを踏んでいる。

 許せねえ。人のことを散々弄びやがって。許さねえ。

 身をぐっと屈めた直後、清人は駆け出した。

「hfayofa! phgapuaoujffao!」

 興奮するようにトカゲ型は清人を迎え撃つ姿勢を取った。

 怒りに焦がれて突き進む最中、清人は地面に転がっていた尻尾を掴む。

「おらあああぁ!」

 突進の勢いをそのままに、トカゲ型の尻尾を振るった。それは大振りな攻撃であったが、トカゲ型の意表を突いたようで、見事に顔面に直撃した。

「jfati……!?」

 トカゲ型はくぐもった悲鳴を漏らす。足下がよろめき、覚束なくなる。だが、清人は攻撃の手を緩めない。

「うらああぁ!」

 先ほどのお返しと言わんばかりに、返す刀の要領で尻尾を振るう。トカゲ型を殴る。尻尾を振るう。トカゲ型を殴る。それを延々と繰り返す。怒りの余り我を忘れて、殴り続けた。

「puigyaaaaaa!」

 トカゲ型は悲痛な叫びを発する。

「どうした? 苦しいか? 俺はな……もっと苦しい思いをしてんだ!」

 大振りの一発で殴りつけた後、清人は尻尾を投げ捨てた。勢いを付けて跳躍をし、散々殴られてよろめくトカゲ型の頭部に迫った。

「くたばれや!」

 今度は自らの拳でその顔面を打ち抜いた。亀型との一戦で磨かれた拳が、その憎き顔面に炸裂する。

「pfuagyaaaaaaaaaaxjfap……!!」

 トカゲ型は天を仰いで、今度は絶叫した。口からは大量の黒い液体が溢れ出す。どろどろと、流れてアスファルトを汚す。

「舐めてんじゃねえぞ、この野郎」

 清人は拳を鳴らし、とどめを刺そうと歩み寄る。

「……uiyuda……syuniraranacai……」

 先ほどまでの威勢を失ったトカゲ型が、弱々しい声を発した。

 次の瞬間、勢い良く身体を起こし、清人に背を向けた。素早い身のこなしでビルの壁面に向かって飛ぶと、そこに貼り付く。

「あっ」

 思わず呆けた声を漏らす清人から逃げる様に、トカゲ型はビルの壁面を這い上って行く。

「おい、この野郎! 逃げてんじゃねえ! 潔くぶち殺されろ!」

 そんな呼びかけに応じる訳もなく、トカゲ型は逃げ続ける。清人は思わず「ちくしょう!」と叫んで自らの膝を叩いた。

 その時、背後でバサリと音がした。

 振り向こうとするが、その前に黒翼を展開したリルエが、飛び立っていた。

 勢い良く羽ばたき、あっという間にトカゲ型に迫った。

「射抜け――《黒矢(ダークアロウ)》」

 突如として巨大な黒い弓矢が出現し、そこに番えられた同じく黒い弓が放たれる。ビルの壁面を這い惑うトカゲ型の胴体を射抜いた。

「pfjaufadpoufpoafjapo……!?」

 先ほど以上に苦痛の叫び声を発した。リルエは表情を一切変えない。

「《黒引力(プルパウ)》」

 矢に貫かれてビルに磔にされたまま、トカゲは猛烈な引力によって急激に落下し、地面に激突した。

 大きな衝撃音が響き渡るが、トカゲ型は何も悲鳴を上げなかった。

 直後、その身体が黒い奔流を放ち、消失した。

 リルエが上空から降り立つ。目を丸くしている清人に振り向いた。

「清人がグダグダやっているから、結局わたしが殺しちゃったよ」

 あくまでも冷静な表情のまま、リルエが言う。

「……う、うるせえよ。別にグダグダやってねえし。あの野郎が逃げるなんて卑怯な真似しなきゃ良かったんだ」

「あっそう」

 怒る清人に対して、リルエはとことん冷めている。それにますます怒りを煽られるが、清人は先ほどやられた秀樹のことを思い出す。

「秀樹さん!」

 清人が慌てて叫んだ時、秀樹がこちらに向かって歩いていた。

「……あはは、やられちゃったよ」

 気恥ずかし気に後頭部を掻きながら、秀樹は言う。

「大丈夫ですか? ケガとか……」

「ありがとう、心配してくれて。大したケガはしていないよ」

 秀樹はにかっと爽やかな笑みを浮かべて見せる。その様子を見て、清人はホッと胸を撫で下ろした。

「大したケガが無いなら、早く行こう」

 明るく話す二人の間に、リルエの冷たい声が割って入る。

「いや、ちょっと待てよ。大したケガは無くても、一息吐かせろよ」

 清人が苦言を呈する。

「そんなことをしている暇は無いでしょ? 清人は一刻も早くプルキャストを駆逐して、愛しの彼女に会いたいんじゃなかったっけ?」

 元々、淡々とした中に毒を孕む口調のリルエだが、ここしばらくの会話でその毒がより一層増して、嫌味ったらしさを感じさせる。思えば、秀樹を仲間に加えてからだ。

「お前さ……秀樹さんのことが嫌いなのか?」

 単刀直入に清人は問いかける。リルエは口を閉ざして答えようとしない。

「おい、何とか言えよ」

 苛立って清人が詰め寄ろうとした時、背後から秀樹に止められた。

「まあまあ、落ち着いて。俺はそんなこと気にしていないから」

「秀樹さん。でも……」

「それに、彼女の言うことは最もだ。この荒廃した世界で、あまり休んでもいられないからな。日が昇っている内は、なるべく足を進めた方が良いだろ」

 相変わらず、爽やかな笑みを浮かべて秀樹は言う。清人は、そんな彼が器の大きい人間だと思った。どこかの嫌味ったらしい堕天使の女とは違って。




      ◆




 崩れた世界に夜の帳が降りた。辺りが暗くなれば、その荒廃した光景の見える範囲が小さく済むので、精神的に少しは楽になるかと思った。しかし、そんなことはなかった。むしろ、この暗闇に荒廃した世界が沈んですぐそばにあるかと思うと、途端に心細い気持ちになってしまう。闇に紛れてプルキャストが襲撃を仕掛けて来る可能性だってある。ほんのわずかに月が照らす程度のほぼ真っ暗闇の中、清人はすっかり寂れたビルの一角で、うずくまっていた。

「清人くん、大丈夫かい?」

 そばで秀樹の声がした。

「そんな所にいたら、風邪を引いちゃうよ」

 秀樹は言う。清人がうずくまっていたのは、ガラスが砕け散って隙間風が吹きすさぶ場所だった。

「ちょっと、夜風に当たりたい気分なんで」

「あはは、そうか」

 笑いながら、秀樹が隣に腰を下ろす。

「ほい、これ」

 差し出された物を受け取る。

「缶コーヒー。冷めちゃっているけどな」

「ありがとうございます」

 清人は礼を言って、プルタブを開ける。ごくりと喉を鳴らして飲むと、缶コーヒーながら豊かなブレンドの味が広がった。これで温かかったら尚良かっただろう。口には出さないが。隣で秀樹もまた缶コーヒーを開けて飲んでいた。

「ふぅ……なあ、清人くん。ちょっと聞いても良いかい?」

「あ、はい。何ですか?」

「トカゲの奴を倒した時にリルエちゃんが言ったこと……プルキャストを駆逐して、愛しの彼女に会うっていうのは……どういうことだい?」

 その問いかけに、清人は小さく唇を噛んでしまう。

「あ、いや。ごめん、嫌だったら話さなくても良いから」

 秀樹は苦笑した。

「……俺の恋人が、目の前で殺されたんですよ。プルキャストに」

 重々しく清人が語り出すと、隣で秀樹が息を詰める音が聞こえた。

「平和な街で、仲良くデートをしていたはずなんですけどね。いきなり黒い化け物が現れて、あっという間に彼女が……千穂が殺されちゃって……本当に訳が分かんないっすよ。神によっていくつもの平行世界が生じて、俺は取り分け辛いこの『崩れた世界』に振り分けられて……別世界の俺は千穂とそのまま楽しくデートしているとか言われたけど、そんなこと知るかっつーの……」

 訥々と語る清人の言葉に、秀樹は黙って耳を傾けている。

「そんでこの世界のプルキャストを駆逐したら、褒美に神が元の幸せな世界に帰してくれるってあの性悪堕天使が言いやがるから、俺はプルキャストを駆逐することにしたんです……まあ、本当に褒美をもらえるか確かじゃないんすけどね」

 清人は自嘲するような笑いを漏らした。

「そっか、辛かったな……」

 平素の明るい声を潜めて、秀樹は言う。

「……実は俺もさ、清人くんと同じなんだよ」

「え?」

 清人は目を丸くして振り向く。

「俺も殺された……何よりも大切な恋人が、殺されたんだ。あのプルキャストにな」

「そう……だったんですか」

 衝撃を受けた清人は、顔を俯けて押し黙ってしまう。

「……やっぱり、悲しかったですか?」

「ああ、そうだね。でも、悲しむ間もなく、次々とプルキャストが襲って来て、他の仲間達も殺されちゃって……俺は一人ぼっちになったんだ」

 秀樹はわずかに憂いを含んだ声で言う。

「でもそんな時、清人くん達に出会えて、俺の心は本当に救われたんだ。実際に、化け物から救ってもらったしね」

「いや、大したことはしてないっすよ」

 妙に照れ臭くなって、清人は頬を掻く。

「でも、本当に感謝しているんだよ。ありがとう」

 振り向けば、秀樹が笑みを浮かべていた。それは暗闇の中でも、よく映える笑みだと思った。

「……俺の方こそ、秀樹さんには感謝しています」

「俺にかい?」

「はい。秀樹さんは明るいから、話していて楽しいし。こんな辛い世界でもそんな風に明るく前向きで、本当に尊敬します」

「やめてくれよ。照れるじゃないか」

 あっはっは、と秀樹は笑って言う。

「でもそうだね。いつまでも落ち込んでいても仕方がないし、この世界で今の俺が出来ることを精一杯やるだけだ。とりあえず今は、君とプルキャストを駆逐して行くよ。そうすれば、俺も七海(ななみ)に会えるかもしれないし」

 語る二人の間に、柔らかな月明かりが差す。暗い闇の中で、絶望の中で、わずかに希望の光を見出すようだった。











      第六章




 包まった毛布越しに朝の日差しを感じると、おもむろに目を開く。

 軽く目をこすって毛布を払い、ガラスの割れた窓枠に歩み寄る。こんな風に人気が無くなり建物が荒れて荒廃した世界においても、朝日は不思議と心を穏やかにしてくれる。それは、昨夜に秀樹と会話をし、今後の希望を見出したおかげかもしれないが。

「よっ、清人くん」

 声をかけられて、一瞬びくりとなる。

「あ、秀樹さん。おはようございます」

「おはよう」

 振り向くと、秀樹は明るい笑みを浮かべていた。

「よく眠れたかい?」

「ええ、おかげさまで」

 二人は笑い合う。

「しかし、あれだな。昨日ここにたどり着いたのは夜だったから気が付かなかったけど……」

 ビルの室内を見渡して、秀樹は表情を曇らせる。乱れたデスク。そこら中に血潮の飛び散った跡が残っていた。

「そうっすね……」

 清人もまた、暗い顔になる。

「……って、悪い悪い。せっかく爽やかな朝に水を差すようなことを言っちゃったな」

 気を取り直すように、秀樹は景気よく笑う。

「じゃあ、朝食にしようか」

「そうですね」

「悪いけど、リルエちゃんを呼んできてくれるかい?」

 その名を聞いた瞬間、清人はまたしても暗い表情になってしまう。

「俺が行っても来てくれそうにないから。お願い出来るかな?」

 両手を合わせて秀樹は言う。

「……分かりました」

 清人はぎこちない笑みを浮かべて頷き、部屋を後にする。

 被害の爪痕が残る廊下を歩き、別の部屋にたどり着く。

 軋むドアを開けると、まず目に飛び込んで来たのは、大きな黒翼だった。

 室内に入った清人がしばし黙っていると、デスクに座っていたリルエが振り向く。

 彼女もまた無言のまま、黒い瞳で清人を見つめていた。

「……朝メシ食うぞ。さっさと来い」

 低い声で伝える。リルエはその後もしばし押し黙っていたが、やがてデスクから飛び降りた。黒翼が消失し、こちらに歩み寄って来る。

「よく眠れた?」

 清人の下にやって来ると、途端にリルエは口を開く。

「あ? まあな」

「そう、良かったね」

 相変わらず表情を変えることなく、淡々として言う。だから、全然心に響かない。

 清人は踵を返して部屋を出る。その後からリルエが付いて来る。

「おう、リルエちゃんおはよう。朝ごはんの準備出来ているよ」

 部屋に戻ると、秀樹が笑顔でそう言った。だが、リルエは返事をしない。そんな彼女に清人は咎めるような視線を向けてから、「ありがとうございます」と礼を言った。

「じゃあ、食べようか」

 各々が適当に座ると、デスクの上に置かれている食事に手を伸ばす。

「しかし、あれだな。こう出来合いの食品ばかりだと、どうにも身体に悪いような気がするね」

 ソーセージパンをかじりながら、秀樹が言う。

「そうですね」

「ほら、俺は社会人になっても身体を鍛えているって言っただろ? 健康には気を遣っていたんだ。まあ、食があるだけありがたい話なんだけどさ。どうしても七海の手料理が恋しくなっちゃうんだよ」

 苦笑して秀樹は言う。

「俺も……千穂の手料理が食いたいです」

「清人くんの彼女も、料理が上手だったのかい?」

「はい。千穂は完璧な女でしたから」

「そうか。じゃあ一刻も早くプルキャスト共を駆逐して、彼女に会わないとな」

 にかっと、弾けるスマイルを浮かべる秀樹。それを見ていると、清人の心に明るい光が灯るようだった。

 そんな風に仲良く会話する二人脇目に、リルエは黙々と食事を取っていた。




 朝食を取り終えた一行は、一晩明かしたビルを後にする。

「でも、夜の内にプルキャストは襲って来なかったな。警戒していたんだけど」

 先頭を歩く秀樹が言う。

「そうっすね……もしかしたら、俺達のことをあざ笑って楽しんでいたのかもしれませんよ。秀樹さんも知っているでしょ、奴らの底意地の悪さを」

「ああ、そうだね。嫌と言うくらい思い知らされているよ」

 今日もまた穏やかな天気だった。地上は凄まじく荒廃しているにも関わらず。道路のアスファルトは相変わらず所々がめくれ、建物のガラスは砕け散って、また血の痕跡がそこかしこにある。プルキャストという化け物によって崩れてしまった世界、『崩れた世界(クランブル)』。幸せだった日常から突然、こんな世界に送られてしまった。その主犯者である神に対して、怒りの情念を燃やす。ただ、今はその怒りを全てプルキャストの駆逐に向けよう。そうすれば、その神から褒美として、元のルートに戻してもらえるかもしれないのだから。確定事項ではなく、あくまでも可能性の話に過ぎないが、今はそれを心の支えとするしかなかった。

「ん?」

 途端に、秀樹が足を止める。

「どうしたんですか?」

 清人が尋ねた。

「いや、あれ……」

 秀樹が指差す方に、清人は視線を向ける。

 そこには小さな猫がいた。ただし、色は真っ黒で、赤い目をしていた。

「プルキャスト……」

 清人は息を詰める。警戒心を一気に高めた。

「……にゃあ」

 すると、猫が鳴いた。それは鈴を転がしたように愛らしい鳴き声だった。

 二人はきょとんとしていた。やがて、秀樹がおもむろに歩み寄る。

「秀樹さん」

 清人が声をかけると、秀樹はにこりと笑って「大丈夫」と片目を閉じる。

「よしよし、おいで」

 膝を曲げて低い姿勢となり、猫を迎える態勢を取った。猫はどこか怯えるような仕草を見せながら、ゆっくりと秀樹に歩み寄って行く。

「どうしたんだ、こんな所で?」

「にゃあ」

 猫は尚も愛らしく鳴く。それに対して秀樹は頬を緩めるが、清人は傍から見ていて警戒心を解く気になれなかった。

「秀樹さん、そいつは恐らくプルキャストですよ。見た目に騙されたらまずいですって」

「そうかな? こんなに可愛らしいから、そんな害はないと思うけど」

 確かに、その猫からは愛らしい魅力がたっぷりと放たれているが。だからこそ、直感的に危険だと思った。プルキャストに対する強い怒りがなければ、うっかりその魅力に捕まっていたかもしれない。けれども、それは秀樹も同じはずなのだが。

「お腹空いているか?」

 秀樹は背負っていたリュックを地べたに下ろし、そこからコッペパンを一つ取り出す。ビニール袋を開けると、それを猫に差し出した。

「ほら、お食べ。遠慮しなくても良いんだぞ」

 秀樹はにこりと笑みを浮かべる。

「にゃあ」

 猫が嬉しそうに鳴き声を上げると、秀樹はより一層笑みを深くした。

 唐突に、猫の身体が脈を打った。ボコボコと黒い皮膚が激しく隆起する。

 次の瞬間には、目の前に巨大な黒い化け物が立っていた。その姿は虎を思わせる。

「え……?」

 秀樹は笑顔のまま固まった。

「babababa! pofauoau! pruarapua? pruaorua!」

 虎型のプルキャストはその牙を荒々しく剥き、高笑いをする。

 直後、秀樹の笑顔が裂けて、その表情が悲痛に歪んだ。

「ひ、ひいいいいいぃ!」

 尻もちを突いて、後ずさりをする。

 虎型はその赤い目をぎらりと輝かせて、大きく口を開いた。

「や、やめろ……」

 それから、秀樹に迫る。

「やめてくれええええぇ!」

 絶叫する秀樹の身体に、虎型はかぶりついた。

「ぎゃああああああああぁ!」

 さらに悲痛な叫びが秀樹の喉を引き裂く勢いで飛び出す。

「秀樹さん!」

 清人は目を見開いて叫ぶ。目の前で、秀樹が食われてしまったとばかり思った。

 しかし、彼はまだ生きていた。

「……へ?」

 そのことに、本人が一番驚いていた。涙が溢れる瞳を丸くして、事態を飲み込めずにいるようだ。虎型は彼を噛み砕くことをせず、適度な力で甘噛みすることでくわえていた。

 虎型は秀樹を加えた口の端から吐息を漏らす。

 すると、踵を返し、その場から駆け出した。

「お、おい! 待ちやがれ!」

 清人の叫びも虚しく、虎型は秀樹をくわえて颯爽と去ってしまった。

 その場に取り残された清人は、呆然と立ち尽くす。

「ねえ、清人」

 ふいに、背後からリルエが声をかけてきた。そんな彼女に、清人はきつい視線を向ける。

「おい、お前。何をボーっとしてやがった? 秀樹さんが連れ去られちまったじゃねえか!」

「ごめん。寝不足だったから、反応が遅れた」

「はあ? お前、マジでふざけんなよ!」

「ふざけてなんかいないよ。わたしはいつだって、真面目だよ」

「どの口がほざきやがるんだ」

 怒りの余り、清人の声は醜く掠れてしまう。リルエを鋭く睨んでから、前に向き直る。

「もしかして、後を追うの?」

 リルエが問いかける。

「当たり前だろうが」

「やめておきなよ」

「は?」

 清人は眉をひそめて、リルエに振り向く。

「彼にはもう関わらない方が良い。あきらめて、清人」

「さっぱり意味が分かんねえんだけど」

「彼を助けに行ったところで、良い思いはしない。むしろ、今後に支障をきたす。彼のことはあきらめて、一時のきれいな思い出として胸にしまっておきなよ」

 淡々と言葉を紡ぐリルエの冷めた表情が、清人の激情を煽る。

「だから、何言ってんのかさっぱり分かんねえんだよ! 俺は絶対に秀樹さんを助ける! お前はそんなに秀樹さんのことを死なせたいなら、来なくて良いよ! 俺が一人で行く!」

 息を巻いて、清人は再びリルエ背を向ける。

「待って、清人」

 背後からリルエが呼び止める。

「勘違いしているようだけど、わたしはあくまでも、清人のために言っているんだよ?」

「ああ、そうか。どうもありがとう。頼むから、これ以上喋らないでくれ。本気でぶん殴りたくなっちまう」

 清人が固く拳を握りしめて言うと、リルエは口をつぐんだ。

 今度は振り返ることをせず、清人は駆け出す。

 魔力を足に注ぎ込むことで加速し、虎の尻尾を必死で追い求める。

 待っていて下さい、秀樹さん。必ず助けます。

 昨晩に語り合ったことで、清人はより一層、秀樹のことを大切な仲間、そして兄貴として慕うようになった。彼もまた、自分と同じように最愛の恋人を失ってしまった。その悲しみを背負いつつも、明るく前向きに生きている。そんな彼を、こんな所で死なせて良い訳がない。

 清人は荒廃した街を駆け抜ける。全力で走り続けた結果、ようやく前方を行く虎の尻尾を視界に捉えた。

「見つけたぞ、野郎」

 清人は舌なめずりをして、更に加速する。

 ビルが立ち並ぶ市街地を抜けると、開けた土地に出た。恐らく、以前は豊かな緑が生い茂っていたのだろう。しかし、今は土壌がめくれ上がり、辺りに黒ずんだ染みがそこかしこに飛び散っていた。

 中央付近で、虎型は足を止めた。秀樹をくわえた状態で、清人に振り向く。

 その表情は相変わらずふてぶてしく、こちらを嘲笑するようだった。この世界に蔓延るプルキャストという化け物は、みんなそんな風にいけ好かない奴らばかりだった。

「……おい、テメエ。秀樹さんを離しやがれ」

 ドスを利かせた声で言う。虎型は尚も嘲笑じみた表情を崩さない。

「ああ、分かってるよ。テメエをぶっ殺して、力づくで取り返すさ」

 清人は前傾姿勢を取り、硬い拳を作った。意識を集中して、その拳に魔力を注ぎ込む。

「おらあぁ!」

 荒ぶる雄叫びを発し、清人は動き出す。足にも魔力を注ぎ込み、一気に相手との間合いを詰める。その勢いを活かして拳を繰り出した。虎型はその巨体に似合わぬ軽やかな身のこなしでバックステップ踏んで回避した。

「うおおぉ!」

 清人は勢いそのままに、拳を振るい続ける。その度に、虎は軽やかにステップを踏んでかわした。

「ちょこまかと、この野郎……」

 ぎり、と歯噛みをして睨む。必死の形相の清人に対して、虎型は余裕の表情だった。

 次の瞬間、それまで回避する一方だった虎型が、急激に両前足で襲いかかる。

 とっさに反応した清人は後方に飛んだ。バランスを崩して地面に倒れてしまう。

 ハッとして見れば、先ほどまでいた地面は虎の爪の形に深く抉られていた。

「bababababa! praugaup? pfaufaoufa?」

 相変わらず、何を喋っているのかは分からない。けれども、人を小ばかにするようなその笑い方にはいい加減うんざりだ。

「うおらあああぁ!」

 立ち上がった清人は、再び虎型に接近する。固く握り締めた拳を放つ。何度も、何度も。しかし、虎型の軽やかなステップにかわされてしまう。

 清人自身も気が付いていた。こんな力任せ、怒り任せの拳が通じるはずがないと。

 けれども、止めることが出来ない。こうやって拳を振るい続けていないと、それこそ気が狂ってしまいそうで。

「うあああああああぁ!」

 愚かな拳の雨を止めることが出来ない。

 拳を放った直後、蓄積した疲労がたたったのか、足下のバランスを崩した。

「しまっ……」

 次の瞬間、清人の身体は宙に浮いていた。鮮血が散っている。虎型に切り裂かれ、吹き飛ばされたせいだろう。ゆっくりと見えた景色は瞬時に加速し、地面に強く叩きつけられた。

「……がはっ」

 口からも鮮血が溢れ出た。苦い鉄の味が広がる。清人は苦悶の表情を浮かべる。

「rararara! puraourairea! pfafpa?」

 虎型が嘲るように挑発する。すぐにでもぶん殴ってやりたいが、身体が言うことを聞いてくれない。思いのほか深く身体を抉られたようで、力が入らない。どくどくと身体から血が抜けて行く。意識が遠のいて行く――

「――おやおや、中々楽しそうなことになっているじゃないか」

 突然、聞き覚えのない声が辺りに響き渡る。それによって、失いかけた意識が引き戻される。

「おーい、そこで寝転んでいる君。もう少し頑張って、僕を楽しませてくれよ」

 ぼやける視界で辺りを見渡す。

 清人は頭上に浮かんでいる人影を見た。それは小柄な、少年の姿をしていた。

「お前は……誰だ?」

 掠れた声で清人が問いかける。

「ん? そうだね。誰よりも世界を、君達を愛している者だよ」

 少年は荒唐無稽なことを口走る。

「もしかして……この黒公をお前が操ってやがるのか?」

「まあ、そんなとこかな」

「秀樹さんを離しやがれ」

「んー、そうだねぇ……」

 少年が虎型に目配せをした。虎型は小さく唸った後に、口にくわえていた秀樹を高く放り投げた。それから、少年はパチンと指を鳴らす。直後、天から大きな十字架が降って来た。そこから飛び出した縄が空中で秀樹を磔にし、そのまま地面に突き刺さった。

「……何の真似だ?」

「あれ、見て分からない? 十字架って言ったら、罪人が背負うものでしょ?」

「罪人って……秀樹さんのことを言ってんのか?」

「うん、そうだよ」

 少年は飄々とした姿勢を崩さずに言う。

「訳が分からねえ。秀樹さんが何をしたって言うんだ?」

「お、知りたいかい?」

 少年は小首を傾げる。清人は無言のまま彼を睨む。

「分かった。じゃあ、特別に教えてあげるよ……彼の罪を」

 いつの間にか、少年が清人の眼前にいた。ぎょっと目を剥く。

だが、少年は瞬時に十字架のそばに戻った。

「おーい、起きなよ。これから君が主役のショーを始めるんだから」

 少年が気絶していた秀樹の頬をぺちぺちと叩く。すると、彼はおもむろに目を見開く。それから今の自分の状況を把握して、取り乱す。

「な、何だこれは? おい、俺に何をするつもりだ!?」

「ん? まあこれから君の罪を暴こうと思って。言い換えれば、君の恥部を晒しちゃうみたいな。キャハハ!」

 少年は愉快げに笑って言う。

「つ、罪? 俺の?」

 秀樹は裏返った声を発する。

「おやおや、とぼけるつもりかい? 心当たりがある、というか今も胸に刻まれているはずだろう。君の罪は……さ」

 にこりと満面の笑みで少年が迫ると、秀樹はその額から脂汗を垂れ流す。

「あの、秀樹さん……? 罪とか、どういうことですか?」

 地面から身を起こして清人が問いかけるも、秀樹は答えようとしない。

「あ、やっぱり興味ある? 知りたい? 知りたいよね? 彼の恥部をさ。僕はそれを盛大に晒すために、ここにやって来たんだ。これは君だけに見せるショーだ。存分に味わってくれたまえ」

 饒舌に語る少年に対して、清人は叫ぼうとする。

 その時、突然頭上にもやが発生した。

 何が起きたのか理解出来なかった。

 やがて、そのもやは何かの映像を流し始めた。




      ◆




 平和な街に突如として現れたプルキャスト。

 人々は逃げ惑う。プルキャストは暴れ回り、人々を殺し、そして食らう。

 あの時、清人も見た絶望的な光景。それと同じものを見せつけられる。

『きゃああああああぁ!』

 ひと際甲高い、女性の声が響き渡った。

『七海!』

 次に男の声が叫ぶ。声の主は秀樹だった。ということは、一緒に逃げているこの女性が、彼の最愛の恋人なのだろう。セミロングの髪にパッチリとした猫のような目を持つ、魅力的な美女である。二人は他に数人の仲間達と共に、襲い来るプルキャストから必死に逃げていた。

『逃げろ逃げろ逃げろぉ!』

『ぐああああああぁ!』

『倉田ぁ!』

『ぐぅ……秀樹、お前達は逃げろぉ!』

 一人、また一人と仲間がプルキャストに食われて行く絶望の中、秀樹は七海の手を取って必死に走る。

『babababa! poruaoreua! poiuraruaoipoau!』

 プルキャストは哄笑を発しながら秀樹達を追い回す。地面を抉り、建物を破壊し、徐々に彼らへと迫って行く。映像越しにも、その緊迫感が伝わって来る。

『きゃっ!』

 隆起した地面に足を取られて、七海が転んでしまう。

『七海!』

 秀樹は振り返り、すぐさま彼女の下に駆け寄ろうとする。

 その時、いつの間にかプルキャストが二人のすぐ目の前に立っていた。

 その黒くおぞましい姿を見て、二人は絶句して身動きが取れない。七海に駆け寄ろうとしていた秀樹の表情からみるみるうちに血の気が引いて行き、絶望に迫って行く様子が傍目にも分かった。

 彼は一歩後退した。それから二歩、三歩と後退って行く。

『秀樹くん……?』

 七海はわずかに目を見開く。

 そんな彼女に対して絶望に歪んだ表情を向け、直後に秀樹は踵を返して駆け出した。

『秀樹くん!? どこに行くの? 秀樹くん!』

 必死の形相で叫ぶ七海に背を向けたまま、秀樹は走り続ける。

 その背後でグチャリ、と人がただの肉塊に変わる音がした。

 だが、それでも彼は必死に走り続けていた。

 目の前の現実から逃げる様に。

 ひたすら、必死に。




      ◆




 そこで映像は途切れた。

 辺りはしんと静寂に包まれる。

「どうだった、今の映像は? 中々面白かったでしょ?」

 少年はにこにこと笑いながら尋ねてくる。

 清人はしばし唖然としていたが、顔を振って気を持ち直す。

「……おい、お前。今のは何の真似だ? そんなインチキの映像を見せられて、俺が騙されるとでも思ってんのか?」

「おやおや、心外だな。この僕がそんなインチキフィルムを上映したとでも思っているのかい? 屈辱だねぇ。僕はありのままの彼の姿を流したっていうのに」

 十字架に磔にされている秀樹の脇を小突いて、少年は言う。

「うるせえ。ていうか、秀樹さんが大切な恋人を見捨てる訳がねえだろ」

「何でそう言い切れるんだい?」

「秀樹さんは頼れる俺の兄貴分だからだ」

 真っ直ぐな瞳を向けて清人が言うと、少年が直後に噴き出す。

「キャハハ! 兄貴分か。随分とまあこの男のことを信頼しているんだねぇ」

「そうだよ。秀樹さんはこの辛い世界でも、明るく前向きに生きているんだ」

「そうなんだね~……けどさ、彼ってプルキャストと対峙した時、何かビビってない?」

「あ? まあ、最初に会った時、確かに怯えて逃げていたかもしれないけど……でも、仕方がねえだろ。目の前で大切な恋人が殺されたんだから、多少はトラウマになっちまうだろ。それに戦える力を手に入れた後は、きちんと逃げずに戦っていたし」

「でも、このプルキャストにさらわれた時は、大層怯えていたじゃないか」

「それは、不意打ちで驚いただけだろうが」

 清人が反論を続けると、少年はため息を吐き、首を横に振った。

「全く、愚かだね。変に憧れたりするから、その本質が見えなくなるんだよ」

 眉根をきつく寄せて、清人は少年を睨む。

「……お前、さっきから何なんだよ? ていうか、何者だ?」

「僕のことは良いからさ、今は彼の話をしようよ。醜く憶病な、彼の話をさ」

「秀樹さんは醜い臆病者なんかじゃない」

「あちゃー、これは大分肩入れしちゃってんね。全く、何でこんな男に惚れるんだろうね。騙す方も悪いけど、騙される方も本当に愚かだよ」

 くすくすと少年は笑う。それが非常に癇に障る。

 これ以上、奴と話をしても埒が明かない。

「秀樹さん」

 清人は十字架に磔にされている秀樹に呼びかける。

「あれ、嘘ですよね? 秀樹さんが大切な恋人を見捨てて逃げるなんて真似、する訳がないですよね?」

 清人は問いかける。秀樹は笑顔で否定してくれると思った。

 だが、彼は顔を俯けたまま、何も答えようとしない。

「秀樹さん? どうしたんですか?」

 彼は無言を貫く。

「言える訳がないよね~。自分を慕ってくれる可愛い弟分に対して、『俺は大切な恋人を見殺しにするような根性無しでーす』……なんて、言える訳がないよね~」

「テメエは黙ってろ! 秀樹さん、答えて下さい!」

「だから、彼は答えないって。今はもう心臓バックバクの身体ガックブル状態だから。このまま行くと、良い年して小便漏らしちゃうかもね~。そしたらマジで傑作! 最高傑作が出来上がっちゃうよ! キャハハ!」

「だから黙れって言ってんだろうが!」

 激昂した清人は拳を握り締め、少年に向かって行こうとする。

「――本当だよ」

 ふいに、澄んだ女性の声が響く。

 秀樹がハッとして顔を上げた。

「七海……?」

 辺りを見渡す。

「秀樹くんは、私のことを見殺しにしたの。だから、私は一人で殺されちゃったの。秀樹くんは一人で生き延びちゃったの」

 彼が視線を巡らせた時、その先には虎型のプルキャストが静かに彼を見ていた。

「……まさか」

 秀樹の表情がさっと青ざめる。

「おっ、分かっちゃった?」

 少年がおかしそうに笑う。

「これさ、君の彼女なんだよね」

 虎型を指差して、少年はさらりと言った。

 清人はその言葉に衝撃を受けた。だが、当の秀樹はその比ではない。まさかこんな形で、最愛の恋人と再会することになろうとは。磔にされた身体が、傍から見ても分かるくらいに震えていた。

「ねえ、秀樹くん。何で、あの時に私を見殺しにしたの?」

 虎型――七海は問いかける。

「いや、それは……」

「ひどいよね。まさかあんな風に見殺しにされるとは思ってもみなかったから」

 秀樹はまたしてもうなだれてしまう。

「けど、私は何となく気が付いていたんだよね、秀樹くんの本性。明るくて、スポーツマンで、みんなから人気のある秀樹くん。そんなあなたは私にとっても自慢の恋人だった。あなたも私のことを愛してくれた……でもね、結局あなたが一番愛していたのは、自分なんだよ。自分のことが可愛くて、可愛くて仕方がないんだよ」

 七海は尚も問いかける。

「だからあの時、私のことを見殺しにしたんだよね? 自分が助かるために。何よりも大切な自分が助かるために」

 七海は冷静な声音で言う。

 すると、それまで黙って耳を傾けていた秀樹が、おもむろに顔を上げた。その表情は平素の彼の明るさを感じさせない、歪んだものだった。

「……ああ、そうだよ。俺は自分が助かるためにお前を見殺しにした」

 一瞬、七海が息を詰めた。

「けどさ、それの何が悪いんだ? だって、仕方がなかったんだよ。まさかあんな黒い化け物が現れるなんて思わないじゃないか? そんなのからお前を守ることなんて絶対に無理だ。だから、俺は生き延びるためにお前を見殺しにした。生き延びれば、その内どこか平和な街にたどり着けると思っていた。けどさ、この世界はもうダメだ。どこもかしこま荒廃しちまっている。全部を見た訳じゃないけど、もうダメだ」

 明るく爽やかなスポーツマン。今のやさぐれた彼にそんな言葉は全く似合わない。

「……秀樹さん。じゃあ、本当なんですか? 秀樹さんが恋人を見殺しにしたっていうのは、本当なんですか?」

 恐る恐る、清人は尋ねる。

「ああ、そうだよ」

 秀樹は頷く。

「なあ、清人くん。そんなことよりも、俺のことを助けてくれよ。君は可愛い俺の弟分じゃないか。なあ、助けてくれよ。早く、早くしてくれよぉ!」

 最早恥も外聞もなく、秀樹は喚き散らす。

 清人の心を支えていた物が一気に崩れ去った。ぐらりと、揺らいでしまう。そのまま、膝から地面に崩れ落ちた。

「……秀樹くん。あなたって、本当にどうしようもない男ね。良い格好しいの、見栄っ張り。その癖、肝心の所で逃げ出す臆病者で……」

 七海が震える声で言う。秀樹は彼女を睨む。

「私ね、あれからずっとあなたを恨んでいたの。殺したい、秀樹くんをこの手で殺したいって……今ようやく、その願いが叶うよ」

 七海は右前脚を構える。そこから鋭利な爪が飛び出すと、彼女を睨んでいた秀樹は途端に怯える顔付きになった。

「お、おい。本当に俺を殺す気なのか? 嘘だろ? 俺達は愛し合った恋人じゃないか!?」

「愛し合った恋人を見捨てたのは誰だったかな?」

 静かな怒気を孕んだ声を発し、一度顔を俯けた。

「――babababababa! poufaouar9! oprauorauai! hidekiowfaiuwia! kofaupura! koraupra! koaufparwa9ea!」

 七海は――虎型は天を振り仰いで哄笑した。秀樹にとって訳の分からない言葉でまくし立てる。

 次の瞬間、その爪が秀樹を切り裂いた。

「ぐああああああああああああぁ!」

 秀樹の右腕が肩からちぎられた。虎型はそれを拾うと、口元に運ぶ。

「rarararara! poruariau!」

 虎型は奴にとって小さなその右腕を、じっくりとしゃぶって唸る。

 それから虎型は、大きな爪で小さな彼の身体を、器用に刻んで行く。

 即死させてもらえない。じっくりと、切り刻まれ、しゃぶられ、また切り刻まれ……その繰り返しだ。その執拗な攻め方から、彼女の怨念じみたものを感じて、背筋が凍り付いてしまう。

「……殺せ……殺してくれ……」

 両手両足をちぎって食われ、惨めなだるま状態となった秀樹は、血と汗が混ざり合った液体を目や口から垂らしながら、そう懇願する。だが、虎型は応じる様子を見せない。次は彼の腹に爪の先を当てて、ゆっくりと切り開いていく。

「ぐっ……ぎゃああああああああぁ! お母さあああああああああん!」

 聞くのも痛々しい、秀樹の絶叫が響き渡る。

「……本当にひどいな、秀樹くん。自分大好きナルシストな上に、お母さん大好きマザコンだなんて。あーあ、私はあなたに処女をあげてから、そのままずっと一途にあなたのことを思ってあげたのに……こんなことなら、他の男と遊んでおけば良かった。何度かアプローチも受けていたし。ぶっちゃけ、本番直前までならヤッたし……あんたって肝っ玉も小さいけど、アレも小さいから……本当、女としてロクな経験も出来ずに死んじゃったよ。あぁ、可哀想な私」

 黒い虎の姿で、七海は溜まりに溜まっていた本音をぶちまける。秀樹はすでに許容量を遥かに超える絶望を味わっているため、ただ無様に涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしているだけだった。

「あ、これが秀樹くんの肝臓か。私ってレバー苦手だったけど、これなら美味しく食べられそう~」

 七海はその赤い瞳を輝かせて、じゅるりと舌なめずりをする。涎が垂れる口に放り込んだ。じっくりと咀嚼をする。

「……う~ん、最高。秀樹くんの……クソ彼氏のレバー、最高ぉ」

 恍惚に蕩ける瞳の状態で、七海は言う。

「……頼む、七海……もう許して……」

「ダメだよ、秀樹くん。まだまだ味わっていない所がたくさんあるんだもん。せっかくだから、全部味あわせてよ」

 七海は秀樹の腹から小腸を引き出す。彼は絶叫した。

 七海は引き出した小腸をうっとりと見つめ、指先で器用に切り開いていく。

「うふふ。今度は、どんな風に食してやろうかしら……」

 その時、彼女はとっさに反応し、横に飛んだ。

 次の瞬間、十字架に磔になっていた秀樹の身体に、黒い矢が突き刺さる。

「かっ……は……」

 秀樹は口から血を噴き出す。

 身体を矢で射抜かれ、しかしどこか安心したような笑みを浮かべ、彼は絶命した。

「……ちょっと、誰よ? 私のお楽しみタイムを邪魔した奴は!?」

 七海はかっと赤い目を怒らせて振り向く。

「わたしだよ」

 振り向いた先には、黒翼をはためかせて宙に浮くリルエがいた。

「何で私の邪魔をしたの? 秀樹くんにはもっともっと苦しんでもらいたかったのに!」

「見ていて胸糞悪かったから」

 端的にリルエは言う。

「胸糞が悪いのは……」

 七海は両前足の爪を剥いた。

「……こっちの方だボケエエエエェ!」

 狂気に駆られた彼女は、血眼になってリルエに迫る。

 リルエはすっと右手を伸ばした。

「《粉砕除去(クラッシュアウト)》」

 直後、七海の身体が粉々に砕け散った。

 ほんの一瞬のことだった。

 吹き抜けた風にその塵が拾われ、遠くに運ばれて行った。

 その様を呆然と見た後に、清人は顔を上げた。

 リルエはあくまでも、冷めた表情で宙に浮かんでいる。

 すると突然、パチパチと音が鳴る。

「いやー、見事だったね。さすがだよ」

 少年が手を叩いて賞賛を送った。

 リルエは無言のまま、反応しない。

「それにしても久しぶりだね。元気にしていたかい、リエル……っと、今はリルエだったか」

 少年は軽く舌を出した。リルエは静かな瞳で彼を睨む。

「……今回のこと、全部あなたが仕組んだのね?」

「まあね。ていうか、気付いていたんだろ?」

「うん。けど、想像以上にひどいやり方で、ドン引きだった」

「あはは! ドン引きか! 大いに結構なことじゃないか!」

 少年は高笑いをする。

 二人の会話を黙って聞いていた清人が、身を震わせながらリルエを睨む。

「おい、お前……何で秀樹さんを殺したんだよ?」

「言ったでしょ? 胸糞悪いからって」

 またしても端的に、リルエは答える。

「確かにそうかもしれないけど……まだ、助かったかもしれないじゃねえか」

「無理。彼はもう死に体だった。あれ以上活かしておく方が酷だよ」

 リルエの言うことは正しい。正しいのかもしれないが、清人は素直に受け入れることが出来ない。

「おいおい、僕を仲間外れにしないでくれよ」

 少年が声を発した。清人は彼を睨む。

「……ていうか、あいつは誰なんだよ? お前の知り合いか?」

「うん、まあ」

 リルエは曖昧に頷く。

「誰なんだよ、あいつは」

 清人が更に問いかけるも、リルエは珍しく答えあぐねているようだった。

「そんな照れずに言っちゃえば良いじゃん。あの人はわたしの愛しい神様ですって」

 清人はその言葉をすぐに飲み込めなかった。

「神様……?」

「そっ。僕が神様。世界を手玉に取る唯一神だよ」

 得意げな様子で少年――神は言う。

「正確には唯一神ではなく、実質的唯一神。神は複数存在するけど、みんな前線から退いている。そんな中で、そいつだけがしゃしゃり出て、いきがっているの」

「はは、リルエ。ひどい物言いだな。天使の時からちくりと刺すようなことを言う子だったけど、堕天使になってからその毒舌にますます磨きがかかったんじゃないか?」

「うるさい」

 リルエは鬱陶しそうに手を振って言う。

 一方、神はあくまでも愉快げだ。

「おい、お前……本当に神なのか?」

 震える声で、清人が問いかける。神は振り向いた。

「ああ、そうだよ。雪成清人くん」

 にこりと笑って神は頷く。

 清人は唇を噛み締めた。

「……何笑ってんだよ。お前のせいで、俺は大切な千穂を失ったんだぞ……?」

「ああ、そうだね。この世界における君はそうだね。でも、別の世界では仲睦まじく一緒にいるよ?」

「知っているよ、そんなことは!」

 清人は激昂した。

「けど、今ここにいる俺には、千穂がいねえ……いねえんだ」

 がっくりとうなだれる清人の下にリルエが歩み寄る。その肩に手を置くが、彼は強く振り払った。

「うーん、お気持ちは察するけど……まあ、仕方がないからね。僕は色々なパターンの世界を造りたかったから。中には辛い思いをする子もいるよね、君みたいに」

「ふざけんな! 何でテメエのくだらねえお遊びに付き合わされて、俺がこんな辛い思いをしなくちゃいけねえんだ!」

「まあ、確かに遊び心もあるけどさ、それだけじゃないよ。僕は様々な特色を持つ平行世界を造り出して、いずれはその平行世界の間で物資のやり取りとかを実現出来たらと思っているんだ。まあ、今の所は色々な世界を見て回って楽しんでいるだけだけど」

「テメエ……!」

 清人は固く拳を握りしめて、神に向かって歩み寄ろうとする。

「一つ、お願いがある」

 ふいに、清人の背後でリルエが声を発した。

「お願い? この僕にかい?」

「そう」

 リルエは小さく頷く。

「う~ん、どうしようかな~。君は僕に仇を為した堕天使だからね~」

 神は嫌味ったらしい物言いをする。リルエはかすかに眉をひそめた。

「何て……冗談だよ、冗談。良いよ、可愛い君のためだもの。何でも一つ、お願いを聞いてあげるよ」

「わたしと清人がこの世界のプルキャストを駆逐したら、清人を元の幸せな世界に帰してあげて」

 リルエの言葉に、清人は目を丸くした。

「ほほう、そんなにそこの彼のことが心配なんだ? 入れ込んでいるんだ?」

「余計なことは言わなくても良い。イエスかノーで答えて」

「全く、君は相変わらず失礼な物言いをするね。僕は神だよ? 唯一神だよ?」

「実質的唯一神」

「ああ、はいはい。実質的、実質的」

 神は面倒くさそうに手を振る。それから、しばし黙考した。

「……うん、良いよ。そのお願いを聞いてあげる」

「本当に?」

 リルエはわずかに目を見開く。

「ああ、可愛い君の頼みだからね。けどその代わり、君にはそれ相応の責任を負ってもらうよ。それでも良いなら、願いを叶えてあげる」

「責任って? 何をすれば良いの?」

「それは後のお楽しみさ」

「そう……分かった。それで良い」

「よし、契約成立だね」

 神はパチンと指を鳴らして言う。

「じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ。他の世界の様子も見て回らないといけないからね。リルエ、僕に何か言っておくことはないかな?」

「とっととわたしの前から消えて」

「キャハハ! 本当に、可愛らしい奴だよ君は……いずれ、たっぷり可愛がってやるからな」

 含みのある物言いを残して、神は宙に舞う。

「それでは諸君、また会おう」

 ひらりと手を振った直後、神の姿は霧のように消え去った。

 後に残ったのは抉られた地面と、辺りに飛び散った血と腸だけだった。

「清人」

 背後から、リルエが呼びかける。

「きちんとあいつに約束させたから。プルキャストを駆逐すれば元の幸せな世界に帰れるよ」

 リルエが片手に手を置くが、またしても振り払う。だが、それでも彼女な清人に歩み寄る。

「ねえ、清人……」

「……もう、訳分かんねえよ……」

 清人は喉の奥から掠れた声を漏らす。リルエは伸ばしかけた手を止めた。

「神とか、堕天使とか、プルキャストとか……もう訳分かんねえよ。何だよ、『崩れた世界』とか。いきなりそんな世界に振り分けられて。俺はただの人間だっつーの……もう理解出来ねえよ。お前らが何をしたいのか……マジで訳分かんねえ」

「清人それは……」

「ああ、分かっているよ。さっき、あの野郎が言ってたもんな。けどさ、理解は出来たとしても到底受け入れらんねえよ。そんなこと。結局の所、俺達人間は奴の玩具に過ぎないってことだろ。恋人を失うなんていうこっちに取ったら世界の終わりみたいな出来事も、あいつにとったら愉快なイベントの一つに過ぎないんだろ? マジでふざけんじゃねえよ!」

 清人はそばにあった瓦礫を蹴飛ばす。それは勢い良く飛んで、先ほどまで秀樹が磔にされていた十字架を砕いた。

「……ていうかさ、お前って神の使いなんだよな?」

「まあ……天使に比べたら、位は大分低いけど……」

「けど、結局の所はあいつの仲間なんだろ?」

「違う」

「違わねえだろ」

「違う。わたしはあいつのことが嫌いだから」

「けど、この世界を管理するために派遣されたんだろ?」

「それは……でも、わたしは……」

 まだ何か言おうとするリルエを片手で制す。

「もう良い、喋らなくても良い。つか、喋んな。不愉快だ」

 清人はリルエに背を向けたまま、おもむろに歩き出す。

「どこに行くの?」

「決まってんだろ? 黒公共をぶっ殺しに行くんだよ」

「わたしも一緒に行く」

 リルエは清人の後を追って歩き出す。

「付いて来んな」

 刺すような言葉を放つ。

「え……?」

「ここからは俺一人だけで行く。お前の力はもう借りねえ。だから、とっとと失せろ」

「でも、清人。一人でプルキャストを駆逐するなんて無理……」

「良いから、失せろって言ってんだよ!」

 清人の叫び声が、辺りの大気を揺るがした。

「……頼むから、もう消えてくれ、俺の前から……一人にしてくれ」

 憤怒の叫びから一転、今にも泣き出しそうな声で清人は言う。

 そんな彼に対して、リルエはかける言葉を失ってしまう。

 清人は再び歩き出す。

一度も振り返ることをせず、ただ真っ直ぐに荒廃した大地を進んで行く。

「……清人」

 だから、どこか寂し気な彼女の声が耳に届くことはなかった。

















      第七章




 握り締めた拳が黒い身体を貫く。

 化け物は仰け反って天を仰ぎ、くぐもった呻き声を発する。

 直後に、黒い奔流が生じて、その身体は霧散した。

 魔力を帯びて黒くなった自らの拳を見て、清人は再び歩き出す。

 今の彼は、崩れた世界を一人で歩み進んでいた。普通ならば、異形の化け物が跋扈するこんな世界で一人きりになったら、正気を保つことは難しいだろう。ひたすら恐怖に怯えて、逃げ惑い、やがて食い殺されてしまうだろう。

「riukurawaiet!」

 彼は正気を失っていた。だが、化け物に対して怯えてなどいない。むしろ、次々と溢れて来る憎悪の感情に駆られて、ぶち殺したいと思ってしまう。何よりも大切な千穂を自分から奪い取った奴らを、殺してやりたい。

「うらあああああぁ!」

 魔拳がプルキャストの身体を貫く。先ほど始末した奴と同様に断末魔の悲鳴を上げるが、せめてもの抵抗か、最後に清人の胸を爪で切り裂く。溢れた血を啜って、恍惚の笑みを浮かべる。

 その行為は清人の怒りに更なる油を注ぐ。魔力を脚に宿し、回し蹴りを食らわした。プルキャストは悲鳴を上げて消え去る。

 辺りを見渡せば、多方面からプルキャストが迫って来る。恐らく、大好物である人間の血の匂いを嗅ぎつけて来たのだろう。ただ、今の清人は純粋な人間ではなく、堕天使の血が混じっっているのだが。散々人間離れしたことをやってのけて来たが、どうやらまだ人間と認めてもらえるらしい。なぜか口元でにやけてしまう。

 多方面から一気にプルキャスト達が迫って来ても、清人は怯えない。むしろ血沸き肉躍った。魔拳と魔脚(まきゃく)をこれでもかというくらいに暴れさせ、プルキャスト達をなぎ倒して行く。逃げずにほぼノーガードで戦うため、当然ながら清人もダメージを食らう。鮮血を迸らせる。それによって、プルキャスト達が更に殺到して来る。地面に両手を突き、逆立ちの姿勢を取る。その状態で身体を捻り、独楽のように回転しながら魔脚を炸裂させた。殺到していたプルキャスト達はまとめて吹き飛ばされてしまう。すかさず体勢を整えると、地面に倒れているプルキャスト達に次々ととどめを刺して行く。辺りに黒い奔流が連続して発生する。その様を冷めた目で見つめていた。

 襲い来るプルキャストをあらかた始末した後、清人は辺りを見渡す。荒廃した街には自分以外、人の姿は見当たらない。今の戦いでこの辺のプルキャスト達は恐らく壊滅させた。

 不愉快な話であるが、彼は堕天使である女からその力を授かった。そのおかげでプルキャスト達を駆逐する力を手に入れた。戦闘手段は主に拳や脚に魔力を宿すものであり、魔術の類は習っていないのでロクに使えない。しかし、それは構わない。思い切り拳を振るうスタイルが、彼には合っていた。おもむろに、背中に視線を向ける。

 今の自分の戦闘スタイルに不満はない。けれども、より多くのプルキャスト達を始末するために、更なる力が必要だ。翼が必要だ。不愉快だが、あの女のように黒い翼が。

 具体的な方法なんて分からない。だから、思い切り背中の方を睨み付けて、念じるだけ。

 生えろ、黒い翼。生えて来い。

 黒翼は生えて来ない。

 生えろ。生えろ。生えろ。生えろ。生えろ。生えろ。生えろ。

 念じる。尚も念じる。

 更なる高みへと上るため。いや、むしろ堕ちるためだろうか。

 とにかく、今の自分にはその力が必要だ。

 力を寄越せ、寄越せ、寄越せ、寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ……

「――寄越しやがれ!」

 孤独な大地の上で、清人は叫ぶ。

 背中で、何かがどくりと脈を打った。

 振り向くと、そこから黒い羽が小さく顔を出していた。

 清人は身体を左に捻り、右手でその羽を掴む。強く引っ張ると、鋭い痛みが走った。唇を噛み締める。さらに強く引っ張ると、その羽が徐々に姿を現す。

「うおおおおおおおぉ!」

 気合の雄叫びを上げて引くと、黒い翼がその全貌を露わにした。

 まだ背中は痛むが、今度は右に身体を捻る。左手でもう片方の羽を掴み、一気に引き抜く。

 またしても、黒い翼がその姿を露わにした。

 清人の背中に、黒い両翼が姿を現す。

「はあ、はあ……」

 荒く吐息を漏らしながら、鋭く上空を睨んだ。

 自分の背中で産声を上げたばかりの黒翼。今までの自分が持ちえなかった器官のため、当然のことながら動かし方なんて分からない。

 だから、またしても念じる。

 動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。

 バサ、と黒翼が小さくはためく。

 その瞬間、黒翼に自らの神経が通った気がした。

 羽ばたく、羽ばたく、羽ばたく。

 清人の胸の叫びに呼応する形で、黒翼はバサリ、バサリと動き出す。更に強く叫び続けると、清人の足が地面から浮いた。初めての体験。宙でバランスを保つことは難しい。身体がふらつき、安定した姿勢を取ることが出来ない。

 それでも、地面に下りようとはしない。

 もっと高く、速く飛びたい。

 尚も黒翼を羽ばたかせる。徐々に、空気を掴む感覚を得ていく。空中でふらついていた身体もしっかりと芯を通されたように安定し始めた。

 天を仰ぎ、更に上空へと羽ばたく。そして、前に進む。

 眼下に広がるのは、相変わらず荒廃した景色。この光景を初めて見たのは、リルエに抱えられて飛んだ時だ。あの時は千穂を失った直後で、虚ろな目で見ていた。

 けれども今は自分の力で飛び、自らの目にその光景をしかと焼き付けている。

 憎き敵を倒し、大切な物を取り戻すためにどうすれば良いのか。

 胸の内に激しい憎悪を抱きながらも、不思議と心の水面は凪いでいた。

 もしかしたら、もう自分の心は壊れてしまったのかもしれない。

 堕天使の血が流れることで、人の心が壊れてしまったのかもしれない。

 それは嘆かわしいことだが、大切な千穂を取り戻すための代償と思えば、安いものだ。

 彼女と再会した時、自分はきっと元の人間に戻れる。

 仮に戻れなかったとしても、彼女を取り戻すことが出来ればそれで満足だ。

 ここ二、三日で、都市部の人々は大多数が殺され、食われてしまったようだ。生きている人の影がまるで見当たらない。あるのは最早人としての形を失った残骸のみ。地面や建物には乾き切った血の痕がそこかしこにある。プルキャスト達はその残骸をちびちびと食べ、乾き切った血をぺろぺろと舐めている。大好物の人間の血肉を満足の得られないようで、どこか寂し気で元気が無いように見えた。

 狙いを定めた清人は急降下した。黒翼を畳み、地上にいるプルキャスト目がけて一直線に向かって行く。奴が反応した時、清人の拳がその腹部を貫いていた。

「pfoauoufaiufiudaiou!?」

 プルキャストは断末魔の悲鳴を上げて霧散した。

 それに反応した他のプルキャスト達がこちらに寄って来る。

 清人は冷静な表情のまま、次の標的に向かって行く。魔力を宿した拳と脚で、襲いかかって来るプルキャスト達を次々となぎ倒していく。その度に黒い霧が振りかかる。自分がどんどん汚れて行くような気がしたが、それが今は心地良かった。これくらいぶっ壊れた方が、この世界で生きて行くにはちょうど良いから。

 清人は再び飛翔する。

 思いの他、プルキャストの数は少なかった。やはり人がいなくなった分、もう都市部にはあまりプルキャスト達はいないのかもしれない。

 清人は飛行している間、プルキャスト達の姿を目撃する。その多くは、都市部から移動して別の場所を目指していた。先回りしてその場所に向かうと、そこには小さな田舎の村があった。荒廃したこの世界において、まだほとんど荒れておらず、比較的きれいである。あのデパート近くの公園以上に豊かな緑が広がっていた。オアシスのように見えた。

 ゆっくりと滑空をして、少しずつ高度を落として行く。

 地上に降り立つと、立ち並ぶ木々を通り抜け、村の入り口に向かう。

 眼前に、鉄の凶器が現れた。

「おい、お前。何者だ?」

 鍬を構えた男性が、鋭い目で詰問してきた。

 一瞬目を丸くした清人は、

「怪しい者じゃない」

 と答える。

「背中にそんな黒い翼生やして、怪しくない訳がないだろうが! お前、都市部を襲っている化け物の仲間なんじゃねえか?」

 清人は背中に生えた黒翼を見て、かすかにしまったと思った。しかし、すぐに気を持ち直す。

「いや、それはない。むしろ、その化け物と敵対している。つまり、あんたらの味方だ」

「俺達の味方だって……?」

「ああ。村長はいるか? 会って話がしたいんだ」

 清人が言うと、鍬を持つ男は小難しい顔で押し黙った。恐らく、突然現れた怪しい奴を村長に会わすべきかどうか、激しく思い悩んでいるのだろう。

「……分かった、会わせてやる。その代わり、ちっとでも怪しい動きをしたら、その首を切り落とすからな」

 男は鍬を清人の首筋に付けた。顎をくいとしゃくらせる。このまま進めということらしい。清人は大人しく指示に従い、首筋に凶器を当てられたまま、村を進んで行く。

「他にも村人はいるんだよな?」

「ああ。けど、みんなテレビのニュースで化け物のこと知ってから、家にこもりっきりだ。そん中で何人かは村の周りで見張りをしている」

「あんたもその一人って訳か」

「そうだ。おかげで、お前みたいな怪しい奴を捕まえることが出来た」

「良いのか、そんなことを言って? 俺はこの状況からお前達を救ってやる存在なんだぜ?」

「は? 何を言ってるんだ? 画面越しでもあの化け物は恐ろしかった。お前も化け物みたいな姿しているけど、勝てっこないだろ?」

「何を言ってやがるんだ。俺はこれまで、あの黒公共を何体も倒して来たんだぜ」

 清人の言葉を受けて、男は目を丸くした。

「嘘を言うんじゃねえよ。あんな化け物に勝てる訳ないだろうが」

「分かんねえおっさんだな。とにかく、村長と話をさせろ」

 首筋にひやりと冷たい鉄を感じながら、清人は歩みを進めて行く。

 やがて村の奥までやって来ると、ひと際大きな家屋が目に飛び込んで来た。恐らく、あれが村長の家なのだろう。その家の門前までやって来ると、

「村長、いらっしゃいますか!」

 男は大きな声を張り上げた。

 それから待つこと数十秒、家の玄関の扉が開き、老齢の男がゆっくりと歩んで来た。

「何じゃ、八十吉(やそきち)。騒々しい声を出しおって。インターホンを鳴らせ。近くに化け物が来ておったらどうするんじゃ。刺激してしまうじゃろうが」

「す、すみません。つい気が急いてしまって……」

 八十吉と呼ばれた男は、恐縮した様子で頭を下げる。彼を見て村長はため息を漏らすが、その目で清人の姿を捉えると、目を見開いた。

「何じゃ、そいつは? まさか、例の化け物か?」

「だから、化け物じゃねえよ」

「おい、お前。村長に対して失礼な口を利くな」

 八十吉が咎める。

「うるせえ、事態は一刻を争うんだ。今この村に、その化け物が向かって来てるんだ」

「なぜ、そんなことが分かる?」

 村長は眉をひそめて言う。

「空を飛んで来たからな。それでプルキャストがこの村に向かって来ているのが分かったんだ」

「プル……何じゃって?」

「プルキャスト。あの化け物の名前だよ」

 清人が端的に答えると、村長はそのまま口をつぐんでしまう。

「……それで、お前さんは何の目的があってこの村に来たんじゃ?」

「俺がプルキャストから、あんた達を守ってやるよ」

 村長はまたしても眉をひそめる。

「お前さんはあの化け物を倒せるのか?」

「ああ。こいつにも言ったが、俺はこれまでに何体かのプルキャストを倒して来た」

「それが本当だとしても、なぜわしらを守ろうとする?」

 問われて、清人はふっと悲しげな表情を浮かべる。

「俺は元々、人間だからさ。これ以上、同じ人間が死ぬ所を見たくないんだよ。だから、あんた達を守らせてくれ」

 そう言って、清人は深々と頭を下げた。

 その様を見て、八十吉は目を丸くする。一方、村長は静かな眼差しを清人に向けていた。

 ふいに、その目元が和らぐ。瞳に満ちていた疑念の感情が消え去った。

「分かった、お前さんを信じよう」

 村長が言うと、清人は顔を上げた。

「本当か?」

「ああ」

 すると、呆けていた八十吉が口を開く。

「村長、本当にこんな奴を信用するんですか? そんな風にご決断を急がず、他の奴らにも相談を……」

「事態は一刻を争うのじゃろう? それに正直な所、わしらにはそのプルキャストとかいう化け物を倒す手立てはない。そうなれば、頼ることが出来るのはこやつだけじゃ」

「しかし……」

「もう決めたことじゃ。八十吉の気持ちも分かるが、わしはこやつに頼ることに決めた。案外、根は良い奴かもしれんしの」

 村長に言われて、八十吉は複雑な面持ちで口をつぐむ。

「よし、決まりだな。とりあえず、俺から一つお願いがあるんだ」

「何じゃ?」

「村の一ヶ所に村人を集めてくれ」

「なぜじゃ? 各々が家に籠っていた方が安全じゃろう?」

「隠れた所で無駄だ。プルキャストに嗅ぎつけられちまう。村人がバラバラに散っていたら、守るもんも守れねえ」

「じゃから、村人を一ヶ所に集めろと言うのか?」

「そういうことだ」

 村長はしばし腕組みをして黙考する。

「分かった……おい、八十吉。村人を中央の広場に集めてくれ」

 八十吉は怪訝な目で清人を見て、どこか渋る様子だったが。

「……分かりました」

 頷いて、その場から離れて行った。

「わしも支度をしたら広場に行こう」

「そうか。じゃあ、俺は一足先にその広場に行っているからな」

 清人が言うと村長は頷き、自宅に引っ込んで行った。

 その場に一人残された清人は、口元に薄らと笑みを浮かべていた。




      ◆




 日が暮れた頃。

 村の中央にある広場には、ざっくり数えて二百人ほどの村人達が集まっていた。

「みなの者、聞いておくれ」

 檀上に立った村長が、しわがれた声で村人達に呼びかける。

「知っていると思うが、都市部の方で黒い化け物達が人を食らっておる。そして、その化け物達がとうとうこの村にもやって来るそうじゃ」

 その言葉を聞き、村人達は明らかに動揺していた。

「静まれ! ……安心せい。この危機を救ってくれる助っ人がおるんじゃ」

 そう言って村長が隣に立っている清人に目配せをした。彼はすっと前に出る。

「雪成清人だ。俺があんた達を守ってやる」

 清人はきっぱりと端的に言った。

 当然、村人達は困惑する。中には、怒りの表情を浮かべる者もいた。いきなり現れ、そんな傲慢な物言いをされたら無理もないだろう。

「お前みたいな奴が俺達を守れんのかよ?」「そうだ、そうだ!」「威張ってんじゃねえ!」「ていうか、お前は何者なんだよ!」

 騒ぎ出す村人達を前にして、清人はあくまでも冷静だった。くるり、と彼らに背中を向ける。

「俺が何者かだって?」

 次の瞬間、清人の背中から勢い良く黒翼が展開された。

 その様を見て、騒ぎ立てていた村人は途端に口をつぐむ。

「俺はプルキャストを駆逐するために堕天使の力を得た。この力で、あんた達を守ってやるって言ってんだよ」

 変わらず傲慢な物言い。しかし、今度は反論する者はいなかった。常人とは明らかに異なる、異形となった清人の姿を見て絶句していた。

「みながこやつを訝しむ気持ちはよく分かる」

 村長が口を開く。

「わしとて、まだ完全にこやつを信用した訳ではない。ただ、今のわしらが頼りに出来るのはこやつしかいないことも、また事実じゃ。だからみなの者、どうかこのわしに免じてこやつを信用してくれ」

 頭髪の薄い頭を下げて村長が言う。村人達はしばしの間困惑していたが、やがて覚悟を決めたような表情で頷き始めた。

「……では、お前さん。頼んだぞ」

 村長に声をかけられ、清人は鷹揚に頷いて見せる。

「ああ、任せろ。俺がきっちりプルキャストを駆逐してやるよ」

 清人は笑みを浮かべて言った。

 その時、遠くの方から殺気を感じた。

「どうした?」

 途端に引き締まった清人の表情を見て、村長が尋ねる。

「奴らが来た」

 村長の顔がさっと青ざめる。

「そう心配すんなって。今言っただろ、俺がきっちりプルキャストを駆逐してやるって」

「あ、ああ。そうじゃな」

 恐怖のためかぎこちなく頷き、村長は村人達に振り向く。

「みなの者! 化け物達がやって来たようじゃ!」

 すると、村人達の表情が一気に強張った。中にはパニックに陥って、この場から逃げ出す者がいた。

「おい、ここから動くな!」

 清人が叫ぶも、恐怖のあまりまともな思考を失った村人は、広場から脱兎のごとく逃げ出す。

 ふいに風を切り裂くような音がなる。

 次の瞬間、逃げ出そうとしていた村人の顔が大きく孤を描いて飛んだ。地面に落下する。

「bababababa! Iopraurau!」

 異形の黒い化け物、プルキャストがその姿を現した。

村人達の恐怖心は一気に上昇する。一様に顔を引きつらせ、激甚なる恐怖に震え出す。

「う、うわあああああぁ!」「出たあああああぁ!」「殺されるうううううううぅ!」

 村人達はその場から逃げ出そうとする。

「だから、動くなって言ってんだろうが!」

 清人が叫ぶと、村人達は涙目になって足を止めた。

「あちこちに行かれちゃあ、守るもんも守れねえ。まあ、死にたければ勝ってに動いて、食われちまえ!」

 そんなことを言われて、逃げ出す訳にもいかない。村人達は大人しく清人の指示に従い、恐怖に震える足でその場に留まった。

 その様子を確認してから、清人は現れたプルキャストを見据える。それは鋭い牙と爪を持つ、狼のようだった。それが二本足で立っている。その爪の先端から血が滴っている。今しがた首をはねられた村人の血だろう。狼型のプルキャストは爪を口元に運ぶと、その血をちろりと舐めた。

「ou……hfiaafuissa……bimibjao!」

 その赤い瞳がとろんと蕩ける。恐らく、久方ぶりに人間の血を味わったことで、甘美な気持ちを抱いているのだろう。本当におぞましい化け物だ。

 清人は力を溜める様に低く身構えた。脚のバネを活かして加速し、黒翼を羽ばたかせる。低空飛行の状態で狼型に突っ込む。甘美の食に浸っていた狼型は、清人の拳に身体を貫かれる。

「gyguaoauora!?」

 狼型は断末魔の悲鳴を上げて霧散した。黒い霧を浴びることで、また清人の心も黒く染まるようだった。

 その光景を目の当たりにし、村人達は呆然としていた。しかし、清人が実際にプルキャストを倒せる力を有していると知り、その瞳にわずかながら希望の光が宿っていた。

 助かるかもしれない。化け物達相手に、助かるかもしれない。

 狼型を倒したそばから、村にまた別のプルキャストが姿を現す。一体、二体、三体……その光景を目の当たりにすれば、普通ならパニック状態に陥ってしまうだろう。しかし、村人達は怯えつつも、どこか安心しているようだった。清人が守ってくれると安心し切っていた。

 そんな彼らを脇目でちらりと見る。

「……悪いな」

 清人は誰にも聞こえない声でぼそり、と呟く。

 日が地平線に沈み、月が昇り始めた天を仰ぐ。

 次の瞬間、清人は飛翔した。天高く、昇って行く。

「え……?」

 村人達は一応に目を丸くする。そんな彼らに対して、人の血肉に飢えたプルキャスト達が殺到した。

「ぎゃああああああぁ!」「来るなあああああああぁ!」「助けてくれえええええぇ!」

 村人達が必死の形相で叫ぶ。

 しかし、清人は宙に浮かんだ状態で事態を静観していた。村人達が襲われているにも関わらず、すぐさま助けに向かおうとしない。

「ぐあああああああぁ!」

 プルキャストが村人を食らう。辺り一面に鮮血が飛び散る。

「bababababa! piisukuwaitetto!」「ikiti! hfiaaiuranohitonoikiti!」「bimi! bimiraira!」「poraiuruauiar!」

 久方ぶりの人間の血肉に、プルキャスト達は大いに興奮しているようだった。

 それまで事態を静観していた清人が急降下した。

 村人の血肉に夢中になっているプルキャスト達に肉薄し、魔拳と魔脚を嵐の如く繰り出す。

「pagaypaufia!?」「pgauoiaufirpa!?」「potauiuraipuraieae!」「priaopugaobababababababababaaaaaa!」

 断末魔の悲鳴を上げて、次々と霧散して行く。その瞬間、辺りは黒い霧に覆われる。

 清人は辺りを見渡す。今の襲撃によって、村人のほぼ全員が致命傷を負っていた。誰しもが血を垂れ流し、地面に這いつくばっている。

「お前……さん……どういうことじゃ……」

 清人の足元に這いつくばっていた村長が、虫の息で問いかける。

「……悪いな。俺には端からあんたらを守る気なんて無かったんだ。むしろ、利用したんだ。あいつらをおびき寄せて、そして駆逐するためにな」

「何……じゃと……」

 村長の目には、ありありと後悔の念が浮かんで見えた。

 ただ、それでも清人の心は揺れなかった。

 くるりと踵を返す。辺りを見渡せば、また次々とプルキャスト達が姿を現す。

 清人はまた夜天に飛翔する。人に血肉に群がるプルキャスト達に目がけて急降下し、嵐の如く連撃で始末して行く。

 行ける。このままの調子で行けば、多くのプルキャスト達を駆逐出来る。

 千穂に会うことが出来るんだ。

 瞬間、左肩に鋭い痛みが走った。

 いつの間にか背後にいたプルキャストに一撃を食らったようだ。

 清人は振り返り、渾身の一撃を放つ。プルキャストは悲鳴を上げて霧散した。

 舌打ちをしようとするが、また敵の気配が迫る。今度は寸前の所でかわす。清人は思わず後退した。

 気が付けば、辺りは暗闇に覆われていた。わずかに月明かりが差す程度で、ほとんど何も見えない。そんな中で、プルキャストの赤い瞳だけが爛々と輝いて見えた。

 一瞬焦りを覚えた清人だったが、すぐに気を持ち直す。あの赤い瞳を目がけて攻撃を仕掛ければ良い。完全に敵の姿を見失った訳ではない。それに、時間が経過すれば夜に目も慣れる。行ける。俺はやれるんだ。

 拳を握り締めて、赤い瞳を目がけて特攻する。暗闇の中で、魔拳を振るう。確かな手応えを感じた。行ける。

 だがその直後、別方向から攻撃を受けた。

「……っ!」

 振り返り、反撃を食らわす。プルキャストは悲鳴を上げて倒れた。

 しかし、息を吐く暇はない。人の血肉によって誘われたプルキャストはその数を更に増していた。気のせいか、夜の色合いが増してから、奴らの動きが活発になっているような気がした。堕天使の力を得た影響か、人間だった頃よりも早く夜目が利くようになるも、その動きに対応出来ない。

思えば、夜にプルキャストと対峙するのはこれが初めてだった。昨晩、ビルに寝泊まりをした時は、プルキャストが襲って来ることはなかった。ぐっすりと睡眠を取ることが出来た。

瞬間、朝日を浴びていた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。どこか気だるげだった彼女の姿が。

想定外の事態に、それまで平静を保っていた、あるいは装っていた清人の心臓は跳ね上がる。

 拳を放てど、放てど、放てど、相手を捉えることが出来ない。闇の中で、化け物相手に必死にもがく。一方、プルキャストはそんな清人を攻め立てる。

「くっ……」

 たまらなくなった清人は黒翼を羽ばたかせ、空に逃げた。

 一旦この場から離脱しよう。初めて知ったが、プルキャストは夜になるとその力がより高まるらしい。歯噛みした清人は遠くへ飛んで逃げようとする。

 だがその時、近くに気配を感じた。

 振り向けば、翼を生やしたプルキャストが清人に迫っていた。

「なっ……」

 両手を組んで、ハンマーのように振り下ろされた。

 清人の背中はくの字に折れ曲がり、一気に地上へと堕ちて行く。

 砂塵が舞った。衝撃を受けて身動きが取れない。痺れるような感覚に陥ってしまう。

 そんな清人に、赤い瞳をらんらんと輝かせて、プルキャスト達が迫って来る。

 ああ、このまま俺は食われちまうのか。

 思えば、自分はひどいことをした。いくら自棄になったからといって、ひどい手段を取ってしまった。謝っても許されることではない。いっそここで死んだ方が、ほんの少しでも償いになるのかもしれない。もしかしたら、千穂にも会えるかもしれない。何だか、もう疲れてしまった。

「――ダメ、清人」

 闇夜の中で、聞き覚えのある声が鼓膜を揺さぶった。

 次の瞬間、清人の周りを囲んでいたプルキャスト達が、次々にその身を切り裂かれて行った。

「pugaygaugapguagaga……!?」

 悲鳴を上げたプルキャスト達は、続けざまに霧散して行く。

 清人は一瞬、何が起きたのか理解することが出来なかった。

「全く、清人は本当に仕方のない子だね」

 血まみれで地面に横たわっていた清人のそばに、一つの影が歩み寄った。

 暗い夜闇の中でも、より一層の黒さで存在感を露わにしている。二つの瞳がじっと清人を見つめていた。

「……お前……何で、ここに……?」

 途切れ途切れの言葉で、清人は問いかける。

「本当にバカだね、清人は。わたしが清人のことを放って置く訳がないでしょ」

 彼をじっと見つめていたリルエは、その細い腕で彼を抱きかかえる。背中に展開した黒翼を大きく羽ばたかせると、夜空に向かって飛翔する。

 半ば虚ろな状態のまま、清人はリルエに身を委ねるしかなかった。

 やがて、リルエがゆっくりと滑空をして、地面に降り立つ。清人を抱えたまま彼女が向かった先には、洞窟があった。リルエは歩みを進める。

 洞窟の中ほどにたどり着くと、リルエは清人を優しく地べたに下ろした。

「ここで一晩眠れば、傷は治るから」

 静かなリルエの声を聞いた所で、清人の意識がようやく覚醒して来た。

 そして、改めて思い出す。つい先ほどの凄惨な光景を。

それは自分が画策したことによって生じた、悲惨な光景だったということを。

先ほどのおぼろげな意識の中で感じたものよりも、ずっと重い罪悪感に押しつぶされそうになってしまう。

「……俺は、何てことをしちまったんだ」

 両目を強く閉じて悔やむ。罪のない村人を犠牲にしてまで、プルキャストを駆逐しようとした。そうまでして、千穂に会おうとした。自分の醜さが憎い。何より、恐ろしい。自分自身が怖い。壊れて行く自分が、怖い。耐え難い自責の念、そして恐怖に落とし潰されそうになる。

 その時、ふいに柔らかい感触に包まれた。

 ハッとして前を見れば、いつの間にかリルエがいた。彼女はその大きな黒翼で、清人を包み込んでいたのだ。

「大丈夫だよ、清人。そんな風に自分を責めないで」

 その声は相変わらずクールだ。

けれども、不思議と温かみが込められているような気がした。

「……責めない訳にはいかねえだろ。俺は人殺しも同然なんだ……」

「そうかもしれない。清人はどうしようもない悪に堕ちてしまったのかもしれない」

 リルエは言う。

「でも、大丈夫。わたしがいるから。例えこの世の果てまで堕ちようとも、わたしがそばにいてあげるから」

 リルエの小さな手が、清人の頭を撫でる。

 こんな小柄で子供じみた外見の彼女にそんなことを言われても、心に響かない。

 響かないはずなのに……目の縁からじわりと何かがこぼれて、熱くなった。

「よしよし、泣くほど辛かったんだね」

「なっ……泣いてなんかいねえよ」

「強がらなくても良いよ。今はたくさん泣いて、スッキリして。わたしが全部受け止めてあげるから」

 本当に生意気な女だ。何でこんな奴に慰められなければならないんだ。

 けれども、不思議と、硬く縮んでいた心がゆっくりと解きほぐされるような、温もりが染み渡って行く。自然と、涙が溢れてしまう。

 清人はしばらくの間、すすり泣いていた。そんな彼を優しく包み込み、リルエは頭を撫でていた。

 泣いた所で、彼の罪悪感は消えない。それはこれからずっと背負って行くべきものだろう。しかし、心は平穏を取り戻しつつあった。悔しいが、性悪だと思っていた堕天使のおかげで。

「……なあ、一つ聞いても良いか?」

 おもむろに、清人は口を開く。

「何?」

 横たわった状態で、リルエは小首を傾げる。

「お前は……元々は天使だったんだろ?」

「そうだね」

「何で、堕天使になっちまったんだ?」

 尋ねた直後、清人は思わず口をつぐむ。いきなりこんなことを聞いたら、さすがにまずいだろうか。後悔してしまう。

「悪い、変なこと聞いちまって……」

 清人は詫びる。しかし、リルエは特に気分を害した様子を見せない。

「別に気にしなくても良いよ。それに、清人には話しておきたいし。わたしのことを」

 黒い瞳で清人を見つめて、リルエは語り出す。

「ミカエル、ラファエル、ガブリエルと並ぶ四大天使の一人、ユリエル。わたしはその娘として生まれ、『リエル』と名付けられた。いずれ、立派な天使になった時、『ユリエル』の名を継ぐことになっていたの」

 そういった方面の知識にさして詳しくない清人でも、ユリエルの名は知っていた。目の前にいる彼女がその娘だと知って、少なからず動揺してしまう。

「四大天使は神の御前に立つより高貴な天使。自分で言うのもなんだけれど、わたしはその一族として、天界でもかなり高い地位にいた。この上なく汚れのない美しい天使と言われ、みんなに愛されていた」

「そんな奴が、何で堕天使になるんだよ?」

「拒んだから」

 リルエは言う。

「神の寵愛を拒んだから。わたしは堕天使になったの」

「寵愛って……偉い奴がその下の奴を可愛がる……的な意味だったよな?」

「うん、そうだよ。天使はみんな神の僕(しもべ)。四大天使もその例外に漏れず。その中でも紅一点のユリエル、ましてやその娘ともなれば、当然の如く神から寵愛を受ける立場にあった」

「神って秀樹さんが殺された時にいた、あいつだよな?」

「そう。あのイカれた奴だよ」

「つか、お前本当にちょいちょい言葉が汚ねえぞ」

「だから、清人に言われたくない」

 リルエが少しムッとした顔付きになる。

「とにかく、わたしはあいつの寵愛なんて受けたくなかった。だから拒んだ。そうしたら、堕天使にされた。至ってシンプルな話だよ」

「そうか……お前も色々あったんだな」

 清人はリルエに気を遣うようにして言った。

「そうだね」

「辛くないのか? 堕天使になっちまって」

「まあ、最初はそれなりに辛かったけど、割とすぐに慣れたよ。本当はもっと醜い名前を付けられるはずだったけど、お母さんが神に頼み込んで、神を意味する『エル』を反対にして『ルエ』にする程度に留めてくれたから」

「良いお母さんなんだな」

「うん、大好き……もう、会えないけど」

「え……?」

 清人は目を丸くした。

「会えないって、どうしてだよ?」

 清人の問いかけに対して、リルエはしばし口をつぐむ。

「わたしは堕天使だから。いくら親子とはいえ、四大天使であるお母さん……ユリエルに会うことは叶わない。そもそも、天界に立ち入ることも許されていない。だから、わたしはお母さんと会えないの」

「そんな……だって、お前は神の寵愛を拒んだだけだろ? それだけで堕天使にされて、母親にも会えなくて……ひど過ぎだろ」

 その目に怒りの感情を浮かべて清人が言うと、リルエは一瞬虚を突かれたように目を見開く。

「ありがとう。そんなことを言ってくれるのは、清人だけだよ」

 ふいにそんなことを言われて、清人はこれまでの自分の発言も含めて、無性に恥ずかしくなってしまう。

「まあ、あれだな。今すぐは無理かもしれないけど、いつか母親に会えると良いな」

 リルエに対して背中を向けて、清人は言う。そんな彼を見て、彼女はくすりと笑みをこぼす。

「うん……でも、大丈夫。清人がそばにいてくれれば、それで良いよ」

「バッ……お、お前! 何言ってやがるんだ!」

 清人は思わず身を起こして叫ぶ。

「やーい、照れてやんの」

「お前、いつか絶対にぶっ飛ばしてやるからな……!」

 荒く息を巻いて、清人は再び地べたに横になる。リルエに背を向ける格好となった。

「おやすみ、清人」

 そんな彼の背中を優しく抱き締めて、リルエは微笑んでいた。
























      第八章




 黒い化け物、プルキャストによって荒廃した世界には、ほとんど人の姿は見当たらない。皆その血肉を食われてしまった。奴らが人間を襲う際に暴れ回ったことで、都会では建物が損壊し、次に田舎では草木が踏みにじられ、またへし折られていた。ただ、そこになっている実は、踏まれたりして潰れているものはあっても、食い荒らされている形跡は無かった。

 外面に擦り傷があるリンゴを、がぶりとかじった。なっていた木が根元から折られて、地べたに転がっていたものだ。近くに流水もないので、手の平で丹念に汚れを落とし、かじりついた。わずかに砂利が付いていたが、食料にありつけるだけありがたかった。以前、デパートで調達した食料は、騒ぎの最中に放り出してしまった。

「ねえ、清人」

 岩の上に座っているリルエが、その下でもたれかかっている清人を呼んだ。

「何だよ?」

「一つ聞きたいことがあるんだけど」

「聞きたいこと?」

 しゃり、とリンゴをかじりながら眉をひそめる。

「うん。昨晩の感想を聞かせてもらいたいの?」

「は?」

 一瞬意味が分からず、清人は呆けてしまう。

「昨晩、わたしに抱かれてどうだった?」

「ぶふっ!」

 清人は思い切り噴き出してしまう。

「どうしたの?」

 リルエは小首を傾げる。

「おまっ……いきなり何を聞いてんだよ!」

「だって、気になったから。わたしの黒翼に包まれて、どんな気持ちだった?」

「いや、どんなって……」

「そんな風に口ごもっていないで。さっさと答えなよ、トロくさいな」

 シャリシャリ、とリンゴを咀嚼しながらリルエが言う。

「だから言葉が汚ねえんだよ!」

「清人の方が汚いよ。せっかく調達したリンゴを吐き出しちゃって」

「誰のせいだと思ってんだ!」

 清人は思わず立ち上がって叫び、ぜえぜえと荒く吐息を漏らす。

 一方、リルエはなぜかその口元に微笑を湛えていた。

「何を笑ってんだよ?」

 清人はぎろりとリルエを睨む。

「ふふ、だって可愛いんだもん。清人が、あまりにも可愛いから」

 つい、笑っちゃったの。

 蠱惑な表情で、彼女は言ってのける。

 清人は一瞬、目を見張った。なぜか分からないが、頬の辺りが紅潮するのを感じた。

「……ちっ、お前は本当に訳が分からねえな」

「ミステリアスで魅力的でしょ?」

「あぁ? 調子こいてんじゃねえぞ、性悪女が」

 また舌打ちをして、そっぽを向く。そんな清人を、リルエはどこか楽しそうに見つめていた。

 その時ふいに、微笑んでいたリルエの表情が引き締まる。彼女の様子が変化したことを敏感に察知した清人は、眉をひそめる。

「どうした?」

 問いかけるも、リルエは答えない。

 直後、リルエは下にいた清人の腕を掴み、ぐいと自分の方に引き寄せる。清人は訳が分からないまま、岩の反対側に身を潜める格好となった。

「おい、どうしたってんだ?」

 尚も清人が問いかけると、リルエが口元で人差し指を立てた。

 納得行かないが、清人は指示に従って大人しく口をつぐんだ。

 すると、リルエは岩から顔を覗かせ、何かの様子を伺っている。清人も彼女に倣って、辺りの様子を把握しようと試みた。

 二人の視線の先には、プルキャストがいた。三体のプルキャストが大地を駆けている。

「おい、あいつらぶっ飛ばそうぜ。ちょうど良い腹ごなしだ」

 肩をぐるりと回して、清人は立ち上がろうとする。

「待ちなさい」

 リルエの指先が清人の服の裾を掴む。がくりと膝が折れてしまう。

「何すんだよ」

 清人は刺すような目をリルエに向ける。

「敵を見つけたらすぐにケンカ売るとか、清人は本当に単細胞なんだから。もう少し頭を使えるようになりなさい」

 相変わらず清人を子供扱いするような口調だ。おかげで、彼の頬は苛立ちの余りぴくぴくと反応してしまう。

「ほら、見て。あいつらを見て、何か気付かない?」

「あ?」

 言われて、清人は怒りつつも目を凝らして見る。

 大地を駆けるプルキャスト。その腕は何かを抱えていた。

 人間だった。しかも、生きている。悲鳴を上げる者、恐怖に震える者、呆然と目を見開いている者……それぞれの反応を示している。そんな人間を、一体のプルキャストが二、三人抱えていた。やはり、地方の田舎ではまだ生存者がそれなりにいるということか。いや、そんなことを考えている場合ではない。助けなければ。

 拳を握り締めて、清人は立ち上がる。

「待ちなさい」

 またしても、リルエに服の裾を引っ張られてがくり、と膝を折ってしまう。

「何すんだよ!」

「むしろ、何してんだよ。無闇にケンカを吹っかけるなって言ったでしょ? 清人はおバカさんだな」

「うるせえ! 俺はあの人達を助けようと思っただけだ」

「そう。でも、やめて。本気で愛しの恋人に会いたいなら、やめて」

 思いもよらぬ一言で、清人は口をつぐんでしまう。

「いつまでもチンケな奴らを駆逐していたって仕方がないから」

 リルエは言う。

 二人は岩に隠れたまま、プルキャスト達が過ぎ去るのを待った。奴らの姿が遠目になった所で、リルエはおもむろに立ち上がる。

「行くよ、清人」

 リルエは黒翼を展開した。すぐに羽ばたかせて、飛翔する。

「おい、待てよ!」

 清人も慌てて黒翼を展開する。リルエのようにスムーズに行かないが、同じように飛翔した。

「これからどうするつもりだよ!」

 清人が問いかける。

「あまり大声を出さないで。奴らに気付かれる。そうなったら、尾行が出来ない」

「尾行……?」

「そう」

 頷くと、リルエは再び前を向いた。空を切り裂き、進んで行く。清人はその後を必死で追う。ただがむしゃらにスピードを出すのではなく、相手に気付かれないようにして飛ぶことは難しかった。少し落ち着いて見ると、リルエはスピードを出しつつも、羽ばたく音がほとんど聞こえない。一方、清人の黒翼はバサバサと音を立てている。その技術の差が悔しい。

 しばらく飛び続けていると、前方に街が見えてきた。いや、それは街と呼ぶにはあまりにも荒んでいた。今まで見てきた街も荒んでいたが、その街はより一層荒廃していた。ビルの多くは倒壊し、その瓦礫が道路を完全に塞いでしまっている。何よりも、遠目にも赤黒い染みがそこかしこにあることが伺える。言うまでもなく、人間の血だろう。恐らくあそこは、地方都市の入り口なのだろう。人が多いことでプルキャスト達に貪りつくされてしまった市街地なのだろう。その荒廃した市街地に、人間を抱えたプルキャスト達は向かって行く。リルエと清人もその後を追って、荒廃した市街地に入る。

 徐々に降下して、荒れたアスファルトに降り立つ。リルエは黒翼を背中に収めた。清人もまた、ぎこちないながらもその動きに倣う。それから、プルキャスト達の姿を求めて視線を巡らせる。

「清人、あそこ」

 リルエが指差す先では、倒壊したビルの角を曲がって進むプルキャスト達がいた。それぞれが個性的な姿の奴らが、きれいな隊列を成して市街地を進んで行く。二人はなるべく息を殺してその後を追って行く。

「……とっ!」

 途中、足場の悪いアスファルトで清人は躓いてしまう。

「気を付けて。相手に気付かれちゃう」

「分かってるよ」

 二人は尚も息を潜めて進み行く。瓦礫の山を乗り越えて、プルキャスト達の後を追う。奴らの後を追ってビルの間の路地に入ろうとした時、前を行くリルエが立ち止まった。

「どうした?」

「この先……今まで以上に血の臭いがする」

 リルエはかすかに目を細めて言う。

 清人も彼女の隣に並んで鼻に神経を集中させてみると、確かに今まで以上にきつい血の臭いが鼻腔に突き刺さった。二人は慎重に、プルキャスト達が張り込んだ路地を見る。その先は薄暗く、遠くまで様子を伺うことが難しい。

「行こう」

 再びリルエが歩き出す。緊迫を増した現状において、清人は下手に反抗することなく、大人しく彼女の指示に従う。薄暗い路地を、今まで以上に慎重な足取りで進んで行く。

 途中、物音がしてびくりとなる。その犯人はネズミだった。この荒廃した状況下においても生きながらえているとは、その生命力というか渋とさには驚かされてしまう。気を取り直して、先に進む。その度に、鼻を突く血の臭いが濃くなっていく。自分の体内で絶えず流れている血の臭いだというのに、なぜこんなにも不快な思いをするのだろうか。つい、素朴な疑問を抱いてしまう。その時、前方からかすかな光が差す。どうやら、路地の終わりが見えたようだ。

 路地の出口までやって来た所で、慎重に顔を覗かせる。

 そこには巨大な黒い塊があった。いや、いた。その黒い塊にはぎらりと輝く赤い目があった。黒い身体に、赤い目。プルキャスト。そう、巨大なプルキャストがそこにいたのだ。

 清人は絶句した。いや、元々口を閉ざして、息を潜めて、息を殺してここまでやって来た訳だが。その瞬間、息を殺された。

 今まで見たプルキャストの体長は約二、三メートルぐらいだった。

 しかし、今清人の目に映っているそのプルキャストは、体長が二十メートルくらいあった。正確に測った訳ではなく、あくまでも目算ではあるが。とにかく、馬鹿デカいのだ。どうしようもなく、途方もなく。

 その巨大なプルキャストの下に、今まで追いかけていたプルキャスト達が向かって行く。

「ifoafaipofa! ifiaopfapfaking!」

 人間を抱えた状態で、プルキャストが声を上げた。

 すると、巨大なプルキャストの瞳がそちらに向いた。

「ngenoipgau?」

 低く唸るような声で、巨大なプルキャストは何かを言う。並のプルキャストは頷き、抱えていた人間を差し出すようにして置いた。その場から退くと、深々と頭を下げる。

「goyukkuri」

「ugao、poguaiugau……」

 その巨大なプルキャストはでっぷりと肥えており、首は無い等しい。だが、鷹揚に頷いていることが分かった。その赤い目が地面に横たわる人間達を捉える。それまで叫んでいた者も、静まり返っていた。度を越した恐怖が目の前に迫ると、人間の脳は思考を停止、いや放棄してしまうようだ。そうなれば、彼らはただの血肉。その身は食料と成り果てる。

 丸みを帯びた黒い塊から、にゅるっと腕が伸びる。それは巨大な身体に対して、幾分か頼りない。しかし、ただの人間にとっては大いなる脅威。その手でさらわれて来た人間達を鷲掴みにすると大口を開け、一気に放り込んだ。

 バキ、ゴリ、メリ、グチャ……聞き耳を立てるのもおぞましい、破砕の音がその場に響き渡った。

 巨大なプルキャストは、その口の周りに飛び散った血をぺろりと舐めた。

「puraopuiurarupoa?」

 並のプルキャストが何かを尋ねる。

「piruaoiugauo……piruairua……poruaioura?」

「pirua……piruaporia.oiruapoura……」

「plgaiuopigua!? pgauopugaua! tinnhkuugukunaria.mesi……mottomesiwoyokose!」

 彼らの言語を理解している訳ではないが、大まかな内容は分かる。下っ端のプルキャスト達が持って来た人間……食料の量に満足出来ず、ボスのプルキャストが癇癪を起している。もっとメシを寄越せと叫んでいる。その短い手と足をバタバタとさせている。まるでワガママな王様、あるいは赤ん坊である。とにかく性質が悪い。プルキャストは皆憎むべき相手であるが、今この時ばかりは、その下っ端のプルキャスト達が少しばかり可哀想だと、不覚にも思ってしまった。

「heika、onozyouaromroiajra」

 その時、また別の声がして、プルキャストが姿を現す。

 その姿を見た瞬間、清人は大きく目を見開いた。

 獣のように獰猛な口先。そして、凶刃な鎌の手。

 そう、清人の目の前で千穂を殺したプルキャストが、そこに現れたのだ。

「あの野郎……!」

 瞬間、清人の理性は吹き飛んだ。声を張り上げてその場から飛び出そうとする。

「《沈静化・強烈(テンスダウン・レギア)》」

 リルエの声が聞こえたと思ったら、身体が一気に脱力した。その場に崩れ落ちてしまう。今しがた抱いた激甚な怒りは、急激に衰退した。

「気持ちは分かる。でも、今は落ち着いて」

 地べたにへたり込んだ清人に対して、リルエはたしなめるように言う。正直、彼は納得行かないが、彼女の言うことは最もだ。ここで無闇に復讐に走っても仕方がない。

 そんな彼の葛藤など露知らず、鎌のプルキャストは大きな袋をずるずると引きずり、恭しく巨大なプルキャストの前で頭を垂れた。それから袋の口を開き、中身を出す。

 ごろごろと、大量の人間がその袋から転がり出した。二、三十人はいるだろうか。全員がまだ息をしていた。

「pfau! poiafuoufa?」

「syua.heikaniorapura.purizuroaura」

 鎌のプルキャストがまた恭しく頭を下げると、巨大なプルキャストは途端に上機嫌となる。その手でまだ呆けて地を這っている人間達を掴んだ。大きな口に放り込む。

 バキ、メキ、グチャ、ボキ、グキ、グシャ、ゴシャ、メキメキメキ……!

 その巨大な力によって、人間達は容易く食料へと堕ち、嚥下されてしまう。その後も鼻腔をくすぐる血の臭いに、心地よい陶酔感を得ているようだった。巨大なプルキャストのとろんとした目が、その心情を雄弁に物語っている。

「giaprai、heika?」

「oupu……poiruaoiura.gpoauga、fklaufopa!」

「pouraoura」

 どうやら、鎌のプルキャストは大いに褒められているらしい。奴はどこか誇らしげにしている。その面をすぐにぶん殴ってやりたいが、リルエの魔術で身体が動いてくれない。

「清人」

 リルエが声をかける。

「ここは一旦引こう」

「は? 何でだよ?」

「一度冷静になって、作戦を練ろう」

 静かな声でリルエは言う。

 正直不満だった。今すぐにでもあいつをぶん殴ってやりたい。

 けれども、奴らを相手に無策で挑むのは、あまり良い手では無い。いくらリルエが強いからと言って、易々と倒せる相手ではない。というか、自分の力で奴らを倒さなければ意味がない。

「……分かったよ」

 清人はゆっくりと頭を垂れた。

 そんな彼を見て、リルエが指を鳴らす。

 直後、心身を拘束していた気だるさは取り除かれる。

 清人立ち上がると、リルエと共に一度その場を後にした。




      ◆




 廃屋となりかけているコンビニの中に、二人は身を潜めていた。

「何だよ、さっきの奴は……」

 食べかけのカレーパンを片手に、清人は声を漏らす。

 先ほどの巨大なプルキャスト。路地を抜けた先、ビルに囲まれたあの広場に鎮座していた化け物、というよりは怪物だ。今まで遭遇したプルキャスト達よりも遥かに大きかった。その風格によって、他のプルキャスト達を従える存在。

「端的に言えば、ボスだね」

 ハムパンをかじりながらリルエは言う。

「ボス……」

「そう。今まで戦ったプルキャスト達よりも、強い。その上、部下として他のプルキャスト達を従えている。正直に言って、わたしも倒すのは簡単じゃない」

 淡々と語るリルエを見て、清人は少しばかり動揺していた。これまで一緒に戦って来た彼は、彼女の強さをよく知っていた。その彼女が、そんな風に言うのだ。

「じゃあ、このまま逃げるってのかよ?」

「そんなことは言っていない。確かに苦戦は強いられると思う。けれども、わたし達ならやれる。だから、作戦を立てよう」

「作戦……」

「うん。何か良い案はある?」

 リルエが尋ねる。清人は小さく唸った。

「……とりあえず、俺にあいつをぶっ殺させてくれ」

「あいつって、彼女を殺した奴のこと?」

「そうだ。何が何でも、あいつだけは俺がぶっ殺す。そうして勢いづいた所で、ボスもぶっ倒す」

「それは作戦とは言わない。単細胞のしょうもない思考に過ぎないよ」

「うるせえ。しょうもないとか言うな」

「ごめん。……でもまあ、清人らしくて良いと思うよ」

 リルエが口元でふっと微笑む。清人はふいを突かれて目を丸くしてしまう。

「じゃあせめて、敵の呼び名を決めようか。その方が何かと都合が良いし、気合も入るでしょ?」

「ああ、そうだな。お前にしちゃ良い提案だな」

「余計な茶々は入れないで」

「悪い、悪い」

 適当に謝る清人に対して、リルエは軽く頬を膨らませる。

「あのボスのプルキャストに関しては、良い名前を考えてあるの」

「へえ、どんなの?」

「『ビックベイブ』」

 リルエは言った。

「ベイブって、確か赤ちゃんって意味だっけ?」

「そう。デカい図体して、ワガママ放題して周りを困らせる、赤ちゃんみたいなクソ野郎。だから、『ビックベイブ』だよ」

 さりげに汚い言葉を交えて相手を罵倒するのは、リルエの得意技だ。

 清人は思わず噴き出してしまう。

「ぶはっ……『ビックベイブ』……赤ちゃん野郎ってことか……良いじゃねえか」

「ありがとう。清人に褒めてもらって嬉しいよ」

「じゃあ、あれだ。千穂を殺した鎌野郎に関しては、俺に名付けさせてくれよ」

「良いよ」

 リルエが頷くと、清人は腕を組んでしばし黙考した。

 奴はクソ野郎だ。千穂を殺したクソ野郎だ。とんでもない、クソ野郎だ。

「……テラファック」

 ふいに、そんな言葉が口を突いて出た。

「そうだ。クソ野郎の名前は『テラファック』だ」

「『テラファック』……良い名前だね」

「ああ、サンキュー。お前の提案のおかげで、俄然やる気が出て来たぜ」

「それは良かった」

 リルエは薄らと微笑む。

 清人は残りのカレーパンを一気に頬張った。

「……じゃあ、腹ごしらえも済んだことだし……行くか」

「うん」

 二人は立ち上がると、共に荒れたコンビニを後にした。




      ◆




 日は傾き、夕暮れ時を迎えていた。

 その時間帯になれば、都市部では飲み屋街がのれんを掲げ、ちらほらと電飾が灯り、賑やかな雰囲気が漂い始めていたことだろう。

 しかし、プルキャストという化け物によって人間が食いつくされたこの『崩れた世界(クランブル)』において、そのような光景は微塵もない。ただ、崩れたビルの瓦礫が夕日に照らされることで、目の前のクソみたいな光景もどこか情緒じみて見えるのだから不思議だ。

 二人は無言で目的の場所に向かっていた。荒れたアスファルトを進み、瓦礫を乗り越え、薄暗い路地に足を踏み入れる。二人分の足音が、狭い壁の間で反響する。やがて開けた場所に出た。そこには相変わらず馬鹿デカい、黒い塊が鎮座していた。常人ならその姿を一目見ただけで逃げ出すことだろう。しかし、二人は平然とした様子のまま歩みを進める。

 すると、それまですやすやと寝息を立てていた巨大な黒い塊が、薄らとその赤い目を開く。おぼろげなその目で、二人の姿を見た。

「よう、気持ち良くお眠していた所悪いな。そんなお前に素敵な名前をプレゼントしに来たぜ……ビックベイブ」

 口の端をにやりと吊り上げて、清人は言う。

「gyapoufa……oguaioupaoa?」

 巨大な黒い塊――ビックベイブは、低い唸り声を上げた。お互いに言葉は通じないが、言わんとしていることは伝わったようだ。赤い目がどこか不機嫌そうに歪められる。

「puboooooooooo!」

 ビックベイブの唸りが周りのビルに反響した。

 すると、周りから陰に身を潜めていたプルキャスト達が姿を現す。ビルの陰から、わらわらと這い出て来る。あるいはその中から飛び出して来る。

 二人はあっという間に、大勢のプルキャストに囲まれた。

「囲まれちゃったね、清人」

 リルエが言う。

「もう逃げ道は無いけど、大丈夫?」

「今さら何を言ってんだ。上等じゃねえか。こちとら、このケンカに命をかけてんだ」

「ケンカ……うん、そうだね。これはケンカ。思い切り暴れなよ、清人」

「ああ、サンキュー」

 不敵な笑みを浮かべて、清人は拳を握り締めた。体内を魔力が駆け巡っている。それと同時に、血も激しく巡っていた。血沸き肉躍るとは、正にこのことだ。

「うおおおおおおおおぉ!」

 雄叫びを上げて清人が駆け出すと、プルキャストの軍勢も動き出す。ビックベイブを護衛するために、立ちはだかろうとする。

「うらあぁ!」

 清人の魔拳がプルキャストの腹を打ち抜く。そこから黒いしぶきが飛び散り、直後に身体が霧散した。

 すぐさま別のプルキャストが襲いかかる。清人は魔脚で吹き飛ばした。

「《不安除去(ブラッシュアウト)》」

 宙に浮かぶリルエの魔術によって多数のプルキャスト吹き飛ばされ、ビルの壁に叩きつけられた。

「やるな」

「清人こそ」

 二人は互いに笑みを浮かべ、再び敵に向かって行く。

 荒ぶる血をたぎらせて、清人はプルキャスト達をなぎ倒して行く。

 そんな彼の前に、一体のプルキャストが立ちはだかる。

 ゆらり、と両手の鎌が揺れる。

「出やがったな、鎌野郎……いや、テラファック」

 清人がその名を呼ぶと、鎌を持つプルキャスト――テラファックは首を傾げた。

「テメエの名前だよ。俺が名付けてやったんだ、感謝しな」

 清人はハッ、と口を歪ませて言う。

「kglapufa? pgoauuaifa! omaenogaikitimofapfau!」

 テラファックは天を仰いで哄笑した。清人はより一層、固く拳を握りしめる。

「テメエは……テメエだけはな……」

 清人は駆け出した。

「絶対にぶっ殺す!」

「zyourauorua!」

 清人の叫びに応じて、テラファックも動き出す。両手の鎌を鋭く振るった。

「ふっ!」

 清人は鋭い呼気を発し、その鎌をかわす。そのまま相手の懐に飛び込んだ。

 以前、奴を殴った時はまだ生身の人間だった。しかし、今の清人はリルエと血の契約を交わして堕天使の力を得ている。その魔拳が、テラファックの腹部に放たれる。

「うらああああああぁ!」

 気合の雄叫びと共に、テラファックの腹を貫こうとする。

「pugaouifa!?」

 テラファックは拳が突き刺さる寸前の所で、身を捻って力をいなした。しかし、清人の魔拳はかすっただけでもダメージを与えたようで、その腹部から黒いしぶきが飛んだ。

「ちっ、直撃は避けたか。けどあれだな、つまりは俺の攻撃にビビったってことだよな?」

 口の端を吊り上げて清人が言うと、テラファックはどこか悔しげな表情になる。

「どうした? かかって来いよ」

「gjakpougoaiutyaousniarou! oitaoruaoakldfaoaf!」

 テラファックは怒りの叫び声を発し、清人に突進を仕掛ける。二つの強靭な鎌をクロスさせ、前傾姿勢で向かって来た。

「gopaugiaorau!」

 テラファックは強靭な両の鎌を振るう。

 だが一瞬早く、清人はその場から飛び退いていた。

「今のは良い攻撃だったぜ」

 清人は黒翼を展開した。テラファックは獣の口を歪めて、彼を睨み付けている。また鎌による斬撃を放つ。しかし、彼は飛翔してかわした。

「お前が背負った罪は重い。俺から世界で一番大切な千穂を奪ったんだからな」

 宙を飛びながら清人は言う。地上でテラファックが何かを喚いている。

「そんなお前は……」

 清人は翼を折りたたみ、急降下する。

「絶対にぶっ殺す!」

 急降下の最中、清人は拳を握り締めた。体内の魔力をありったけ注ぎ込む。

 自分から大切なものを奪った悪夢の元凶を、今ここで打ち砕く――

「――死ねやこらあああああああぁ!」

 今さら自分が正義の味方だなんて思わない。むしろ、ドロドロに汚れた最低の男だ。あくまでも自分の欲望を求める最低の男だ。

 けれども、この思いは真っ直ぐだ。

奴らを駆逐して、絶対に取り戻す――

「――うおらあああああああああああぁ!」

 急降下の勢いも加わったことで、その拳は絶大なる威力を得た。

 テラファックのどてっ腹に突き刺さる。そのまま、身体を貫いた。

「gpaouoaufioaoapura……!?」

 その赤い目を見開き、テラファックは口から黒い液体を垂れ流す。貫かれた自分の腹部を見つめる。とどめに清人がその腸を掴んで引きちぎると、天を仰いで悲鳴を上げた。

「gaougaopduoaugaaaaaouaofuaaaafiaaaa!」

 直後、奴の姿は霧散した。

 その叫びの残響が、清人の鼓膜を揺らしていた。

「……ふぅ」

 清人は一つ息を漏らす。

 憎き千穂の仇を仕留めたことでもっと高揚した気分になると思ったが、存外腑抜けてしまう。奴を殺した所で、千穂が戻って来る訳ではない。そのための礎にはなるだろうが。復讐なんていうのはどこまでも愚かしく、醜い行為なのだと身を持って知った。

「清人、油断しないで」

 上空で魔術を駆使するリルエに呼びかけられる。

「分かってるよ。次は、あのでっかい赤ん坊をぶっ殺すんだろ?」

「そう。あのボスを倒せば、状況はより大きく進展するかもしれない」

「だと良いんだけどな」

 清人は前方にいるビックベイブに目を向けた。夕日を浴びた所で、奴に情緒が宿ることはない。どこまでも醜く肥えた、怪物に過ぎない。

「お前の魔術で、あいつを吹き飛ばせないのか?」

「さすがに無理。デカ過ぎる」

「そっか。じゃあ、俺の拳をお見舞いしてやるかな」

 拳を鳴らしながら、清人は歩みを進める。

「あのデカブツの身体、俺がぶち抜いてやる」

 清人は鎮座するビックベイブに対して駆け出す。周りのプルキャスト達が反応して、彼の行く手を阻もうと立ちはだかる。

「どけや!」

 荒々しい言葉で魔拳と魔脚を放つ。まさに縦横無尽の立ち回り、プルキャスト達を葬って行く。最早、並のプルキャストは自分の敵ではない。

「うらあ!」

 並のプルキャスト達を蹴散らして、ついにビックベイブの眼前に迫った。

 魔力を拳に注ぎ込む。より加速するため、足にも魔力を送り込む。心臓が高鳴り、全身に熱い血をたぎらせる。

「おらああああああぁ!」

 清人の放った魔拳が、ビックベイブに突き刺さる。その見た目から予想していたが、かなり厚い肉を持っている。容易には突破出来ない。

「うらああああぁ!」

 少しずつ、拳に魔力を注ぎ込んで進み行く。身体を貫こうと試みる。

 しかしその時、背後で殺気を感じた。

 複数体のプルキャストが、清人に迫っていた。今の体勢から回避するのは無理だ。

「《不安除去(ブラッシュアウト)》」

 清人を食らおうとしていたプルキャスト達は、一斉に吹き飛ばされた。

「ケガはない?」

 リルエの問いかけに対して、清人は頷く。

「悪い、助かった」

「気にしないで。それよりも、一旦離脱をして……」

「――guarpaoraoaaaaopauaaa!」

 瞬間、ビックベイブが腹の底から低い唸り声を上げた。

 直後、清人の身体は大きく弾き飛ばされた。

「ぐああああぁ!」

 その身体を、リルエが宙で受け止める。

「清人、しっかりして」

「……あ、ああ。大丈夫だ」

 清人はリルエから離れて、自らの黒翼で羽ばたく。

 そんな二人の姿を、ビックベイブは赤い目でぎらりと捉える。

「puruaaaaaaaaaaaaaaaaaa!」

 ビックベイブの巨体から、黒い波動が放たれる。ダメージのせいで反応が遅れた清人の腕をリルエが引っ張り、ギリギリの所で回避した。その黒い波動が周りのビルを揺さぶる。砂塵が辺りを覆った。

「……ちくしょう。さすがにボスだけあって手強いな。おまけに周りで雑魚共もうろちょろしてやがるし」

「落ち着いて、清人。必ず打開策はあるはずだよ」

「んなこと言われてもよ……」

 清人は少しふてくされたように俯く。

「分かった、清人はしばらくここで頭を冷やしていて」

 そう言った直後、リルエは猛スピードでビックベイブに向かって行く。

「我、天から堕ちし者。反逆の意志を持ちし者。目の前の現実に抗う者」

 突き出した両手に黒いオーラが纏う。それはやがて大きな波動となる。

 その波動を纏ったまま、リルエはビックベイブの巨体に突進した。

「gyauououououououououou!?」

 ビックベイブは悲鳴を上げた。衝撃の余韻が冷めた後、その身体の一部が大きく抉れていた。

「ちっ、貫けなかった。さすがにボスだけあって、一筋縄ではいかない」

 ビックベイブから距離を置いたリルエは、珍しく歯噛みをして悔しがっている。彼女の強さを知っている清人も、少なからずショックを受ける。あれだけの威力をもった攻撃でも貫けない。倒せない。このままでは、こちらが体力を消耗するばかりだ。またしても、撤退せざるを得ない状況となってしまう。

 にわかに焦りの感情が湧いてきた清人は、辺りに視線を巡らせる。ボスであるビックベイブの周りには、まだプルキャスト達がわらわらと群がっている。このまま時間が経てば日は沈み、奴らが活性化してしまう。そうなればこちらの勝機が薄くなってしまう。どうすれば良い。どうすれば、自分達の力で奴を倒せる……

「……っ」

 ふいに、清人は天啓を受けたように顔を上げた。

「おい、リルエ」

 清人が呼ぶと、彼女は振り向く。

「どうしたの?」

 今まで彼女をほとんど名前で呼ぶことが無かったので、それも含めて目を丸くしているようだった。

「あいつを倒す良い案を思い付いたぜ」

「嘘でしょ?」

「本当だよ」

「だって、単細胞の清人にそんな作戦が思い付くはずないじゃん」

「お前、マジでぶっ殺すぞ!」

「冗談、落ち着いて」

 あくまでも落ち着いた姿勢を崩さないリルエを睨み付けてから、清人は気を取り直して口を開く。

「とにかく、俺が奴を弱らせる。本当は自分の力で最後までやってぶっ殺したいけど……その時、俺にはその力が残っていないから。悪いけど、お前がとどめを刺してくれ」

「どういうこと?」

 リルエは眉をひそめて問いかける。

「とにかく、お前は黙ってそこにいろ」

 そう言ってから、清人はビックベイブに向かって行く。

「清人!」

 背後で叫ぶリルエの声を無視して、突き進む。

 ビックベイブへと突進する最中、清人は先ほど倒した憎きテラファックの姿を思い浮かべていた。具体的には、その鎌の手を思い浮かべる。それから、自分の手を見つめた。そこに魔力を注ぎ込む。その手が徐々に変容する。人の手から、鎌の形となる。

「……ちっ、あの野郎をイメージするのは癪だけど、仕方がねえ」

 鎌となった自らの手に視線を落とし、清人はビックベイブに向かって行く。その頭上に到達した時、鎌を構えた。

「うらあぁ!」

 気合の雄叫びと共に鎌による斬撃を放つ――

 直後、激甚なる痛みが清人の腹部を貫いた。ぱっくりと裂けた腹部から、大量の血が溢れ出す。大量とは言っても、ビックベイブの巨体においては、わずかな量に過ぎない。

「gpauara?」

 清人の鮮血を浴びたビックベイブは、状況が読めず戸惑う様な声を発した。

 すると、奴の周りを囲んでいたプルキャスト達が、一斉にその巨体を見つめた。その巨体の、血濡れた箇所を、じっと見つめていた。初めは冷静だったその口元が徐々に荒い吐息を漏らす。ぴくぴくと、その身体が痙攣を始める。

「gpauga? pouaopiuta!」

 恐らく、清人を始末するように指示を出しているのだろう。しかし、ビックベイブの言葉に部下のプルキャスト達は従わない。尚も奴の血濡れた箇所を見つめている。

 次の瞬間、プルキャスト達が一斉に動き出した。それまで服従していたビックベイブに対して飛びかかる。その血で濡れた箇所に飛びかかる。

「gpaougoauoafuoa!? toapuroauroauoriau!?」

 ビックベイブが驚きと困惑の入り混じった悲鳴を上げる。だが、プルキャスト達は構うことなく、彼の身体に食らい付く。

 その様を見ながら、宙を漂っていた清人は地面に落下した。

「pogauoua! ioruaporua!」

 恐らく、清人を始末しろと叫んでいるのだろう。しかし、プルキャスト達は全く言うことを聞かない。ビックベイブの身体にかぶりつく。その血濡れた箇所が既に食われてしまっても、尚その巨体を食らい続ける。それはきっと、これまで自分だけ人間の血肉を味わっていた奴に対するプルキャスト達の不満が爆発しているのだろう。

 清人はリルエと血の契約を交わし、今は純粋な人間ではない。しかし、その血はまだ人間の成分もある。だから、初めはその血に誘われてビックベイブに食らい付いた。そして、それを口実に、尚もビックベイブを食らい続ける。これまでの恨みを晴らすかのように。

「pugyaaaaaaaaaaaaaa! oguaoiugaoi9! giaab!」

 惨めに泣き喚くビックベイブの声に耳を傾ける者はいない。プルキャスト達はひたすら、奴の身体を食らっていた。その巨体は既にボロボロだった。

「……リルエ、頼む」

 地面に伏していた清人は、掠れる声で言った。その声が聞こえたかは定かではないが、リルエは既に動き出していた。

「滅するべきは、醜き者……我が力の全てを以て、愚かな存在を滅殺する――」

 リルエの両腕から、先ほどと同様に黒い波動が生じる。だが、今度はそれが彼女の身体全体を覆った。禍々しくも美しいその波動を纏って、真っ直ぐにビックベイブへと突き刺さる。

 凄まじい衝撃音が辺りに響き渡る。黒い閃光が幾重にも折り重なり、炸裂音が辺りに鳴り響いた。

「pugyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!」

 ビックベイブは断末魔の悲鳴を上げながら、その身を滅ぼした。奴に食らい付いていたプルキャスト達もろとも、一気に霧散した。

 その場に残っていたのは、黒いしぶきを被って汚れた、リルエだけだった。

 彼女はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて歩き出す。

 地べたに伏している清人の下に歩み寄った。

「全く、無茶をするね」

「……お前こそ……な」

 清人は苦笑しながらかすれた声を漏らす。そんな彼を、リルエが優しく抱き起した。

「けど、カッコ良かったよ。自分の腹をかっさばいて、その血をビックベイブにぶっかける清人の姿は」

「ありがとうよ……ていうか、マジで血を失くし過ぎて意識が……朦朧として来たわ」

「大丈夫」

 そう言って、リルエは自らの指先をかじった。そこから裂かれた清人の腹部に血を垂らす。

 すると、温かいものが清人の腹部から全身に伝わるようだった。

「これで応急処置は完了。あとはこのまま一晩、わたしの膝枕で寝ていれば回復する」

「膝枕である必要があるのか?」

「もちろん。最重要事項だよ」

「はっ、そうかよ……」

 これ以上何を言っても仕方がないと悟った清人は、悔しいが、柔らかく心地良い彼女の太腿に身を委ねることにした。

「――お楽しみの所、失礼するよ」

 ふいに響いた声に、二人は振り向いた。

 日が沈み、月が昇り始めた空に、一人の少年が浮かんでいた。

「お前は……」

 リルエの膝から頭を起こして、清人は目を見開く。

「やあ、元気にしていたかい? 今の戦いぶりは中々見事だったよ。実に楽しませてもらった」

 少年の姿をした神は、愉快げに笑って言う。

 一方、清人は以前の秀樹の一件もあり、刺すような目を彼に向ける。

「そんな怖い顔するなって。今回は君に朗報を伝えに来たんだ」

「朗報……だと?」

「そうだよ」

 神は微笑んで頷く。改める様にして、咳払いをした。

「おめでとう、雪成清人くん。ゲームクリアだ」

 直後、神が何を言っているのか、すぐに理解出来なかった。

「……どういうことだ?」

「あれ、伝わらなかった? 君はあのボスのプルキャストを倒した。だからその褒美として、元の幸せな世界に帰してあげるって言っているんだよ」

「え……?」

 清人は目を丸くした。

「どうしたんだい? そんな呆けた顔しちゃって。それは君が何よりも望んでいたことだろ?」

「いや、そうだけど……何か実感が湧かないって言うか……」

「あはは、そうかい。まあ、とにかく君はもうこの『崩れた世界』とおさらば出来るってことだよ」

「そっか……そうなのか……」

 遅れて湧いて来た喜びを噛み締める。この世界で過ごしたのはほんの数日だったが、とても濃密に辛い時間だった。それを乗り越えて、ようやく元の幸せな世界で、千穂に会えるんだ。胸の内で歓喜の雄叫びを上げる。

だが、そこでふと、清人は思い至る。

「お前は……これからどうするんだ?」

 目の前にいるリルエを見て言った。

「わたしは……」

 リルエは口ごもる。

「ああ、彼女にはこれからも『崩れた世界』にいてもらうよ。この世界を管理することが、彼女の義務だからね。今までは君にべったりで他のみんなに任せきりだったから、その分働いてもらわないと」

 にこりと笑みを浮かべて神は言う。

「そうか……」

 清人は改めてリルエを見る。その表情から、彼女の感情を読み取ることは出来ない。

「それで良いよね、リルエ?」

「……了解」

 一言そう答えて、リルエは頷く。

 すると、神は満足そうに笑みを浮かべて、清人の下に降りて来た。

「じゃあ、早速元の世界に戻してあげるよ。あっという間だから」

「あ、ちょっと……」

 清人はわずかに焦って制止する。

「ん、どうしたの?」

 神は不思議そうな顔で小首を傾げる。

「いや……」

 清人はちらりとリルエを見た。すると、彼女は薄らと微笑む。

「わたしのことなら、心配しなくても大丈夫だよ」

「なっ……別に、心配とかしてねえし……」

「そう」

 いつもなら何か言い返されそうなものだが、リルエは大人しく引き下がる。その歯応えのなさに、なぜか一抹の寂しさを感じてしまう。

「じゃあ、清人くん。元の幸せな世界に帰ろうか」

 神は彼を導くように、手を差し伸べた。

 またしても、彼女を振り返ってしまう。だが、彼女は何も言わず、静かに彼を見つめていた。

 やがて、神の手を握り返すと、その場が暗転する。

「……さよなら、清人」

 最後に聞いたその声は、どこか切なく、それでいて清人の心を揺さぶる。

 すぐに彼の意識は飛んだ。




      ◇




 目の前に、緩やかな喧騒に包まれる街の情景が広がった。

 それは先ほどまでいた荒廃した世界とは明らかに違う、元々自分が住んでいた世界の光景。もうずっと昔の思い出のように感じていた光景が、目の前にあった。

「どうしたの、清人くん?」

 澄んだ声に呼ばれて、ハッと目を見開く。

 目の前には、最愛の恋人がいた。失ったはずの、彼女がいた。

「……千穂?」

 震える声で、呼びかけると、彼女は小首を傾げる。

「どうしたの、清人くん? 何か目が充血しているけど、もしかして具合が悪いの?」

 心配そうな表情で首を傾げると、亜麻色の髪がさらりと下りた。

「いや、大丈夫……大丈夫だ」

 気が付けば、目元から熱いものがこぼれていた。

「え、どうしたの? 何で泣いているの?」

 慌てた様子で千穂は清人に駆け寄った。泣き面になっている彼の顔を覗き込む。

「悪い……せっかくまた会えたのに、いきなりカッコ悪い所を見せて……」

「え? どういうこと?」

「何でもない……こっちの話だ」

 清人は再会の喜びを噛み締めながら、千穂の身体を抱き締めた。

「清人くん?」

 人通りが多い街中で、周りの視線も気にすることなく、清人は千穂を抱き締め続けた。





      第九章




 カーテンの隙間から差し込む朝日で、目が覚めた。

 背中に感じるのは柔らかなベッドの感触。そして、柔らかな布団に身体は覆われている。おかげですこぶる快眠が取れ、スッキリと目覚めることが出来た。

 ベッドから下りて部屋を後にする。階段を下って、ダイニングに向かう。そこには出勤前の父と、朝食の支度をする母がいた。

「あら、清人? 珍しいわね、こんな早起きをするなんて」

 テーブルに食事を並べていた母が、目を丸くして言った。

「ああ、まあ……」

「何か用事でもあるの?」

「いや、そんなことはねえけど……」

 清人はぽりぽりと頬をかきながら曖昧な返事をする。

「そう。まあ、せっかく早起きしたんだから、きちんと朝ごはん食べて行きなさい」

「ああ」

 清人は頷いて食卓に着いた。

 それから朝食を取り、身支度を整えて、家を出た。普段、朝はだらしない清人にとって、久方ぶりに随分と健康的な時間を過ごした。

「おはよう、清人くん」

 家を出てすぐ、千穂と会った。穏やかな朝にふさわしい、穏やかな笑みを浮かべて清人を迎える。

「ああ、おはよう」

 清人は優しい声音で言った。

「今日は早起きだね。いつも私が家に迎えに行っても、まだ寝ていたりするのに」

「まあ、その何だ……たまにはな」

「ふぅん? そっか」

 千穂はにこりと微笑む。

「それは結構なことだけど、でも少し寂しいな」

「何が?」

「清人くんが何か大人になっちゃったみたいで。寝癖で学校に行く清人くん、可愛かったのに」

「可愛いとか言うな。普通に恥ずかしいことだろ、それ」

 清人は口の先を尖らせて、ふて腐れたように言う。そんな彼を、千穂はくすくすと笑いながら見ていた。

 そのまま、二人は仲良く並んでアスファルトを歩く。

 やがて、二人が通う私立修誠学園にたどり着いた。

「千穂ちゃん、おはよう」

 他の女子生徒が千穂に声をかける。

「おはよう」

 千穂はにこりと微笑む。

 そんな千穂の周りには、気が付けば多くの生徒達が集まっていた。女子は仲睦まじく喋り、男子は羨望の眼差しを向けている。やはり千穂は太陽のような存在だと、改めて実感する。そして、そんな彼女と自分が恋人同士で本当に良いのだろうかと、少し不安になってしまう。

 昇降口を上がり、自分達が所属する二年A組の教室にたどり着いた。

「じゃあ、清人くん。またね」

 教室内で二人は席が離れているため、千穂は小さく手を振って言った。

「ああ」

 清人は照れ臭く思いつつも、口元を綻ばせながら自分の席に着いた。

「はぁ~、良いなぁ、清人は」

 席に着くと、前の方からクラスメイトの男子、岡野が声をかけてきた。

「何がだよ?」

「あの高峰さんと幼なじみで、おまけに恋人とか……マジで羨まし過ぎるわ」

「ああ、そう」

「あー、そんな風に透かして。言っておくけどな、高峰さんは全校生徒の憧れなんだぞ? 美人で可愛らしくて、性格も良くて、おまけにスタイルも抜群。同じ制服を着ているのに、他の女子とは明らかに輝きが違う。そんな彼女を、お前は好き放題に出来る立場にあるんだぞ!」

「別に、好き放題とかしてねえし……」

「でも、キスはしたんだろ?」

 問われて、言葉に詰まってしまう。

「……ま、まあ」

「じゃあ、その先は?」

「は?」

「セックスしたのかって聞いてんだよ」

 岡野が言うと、清人は目を見開いた。

「そ、そんなことする訳ないだろうが!」

「は? 何でだよ? あの大きなおっぱいとか、揉まなきゃ損だろ?」

「別に、俺は千穂の胸目当てで付き合っている訳じゃねえ」

「あ、清人って尻派だった?」

「だから、そういう問題じゃねえ!」

 思わず大声を出してしまった清人は、ハッとして口をつぐむ。

「……とにかく、俺は千穂と清らかな交際がしてえんだ」

「ハッ、清らかとか。本当は高峰さんのナイスバディを抱きたくてムラムラしてんだろ?」

 直後、清人は岡野を殴り飛ばした。

「いい加減にしねえと、ぶっ飛ばすぞ」

「いや、もうぶっ飛ばされてるから……」

 床に仰向けになった状態で、岡野はぴくぴくと痙攣している。

殴った今となって気が付くが、清人の力は元通りになっていた。そうでなければ、今頃岡野の顔は跡形も無く吹き飛んでいただろう。全く笑えない話だが。

 清人は椅子から重い腰を上げて、床に倒れている岡野を起こしてやった。

「全く、清人は力強いんだから手加減しろよな」

「悪かったよ。けど、茶化すお前もいけないんだ」

「へいへい、すいませんね。けど、あんな素晴らしい彼女を持って幸せなお前もいけないんだからな」

 岡野は口の先を尖らせて不満げに言う。

「幸せか……」

 その言葉を繰り返し呟く。

 確かに今の清人は幸せだった。本当に幸せだ。一度あんな地獄みたいな世界を体験したことで、この平和な日常が広がっている世界が、たまらなく幸せだと思う。

 けれども、心のどこかにぽっかりと、小さく穴が開いているような気がするのはなぜだろうか? これだけの幸せを手に入れて、自分はこれ以上何を望んでいるというのだろうか。

 おもむろに、右手の甲に視線を落とす。そこにあったはずの刻印は消えていた。

「どした、清人?」

 岡野が訝しげに見つめてくる。

「いや……何でもねえ」

 清人は視線を逸らして、窓から外を見つめた。

この青空の向こうに、あの世界もあるのだろうか。

そんなことを考えてしまう自分に苛立った。




      ◇




 学校からの帰り道、清人は今朝と同様に、千穂と並んで歩いていた。

「それでね、美紀ちゃんと新しいお洋服を買いに行く約束をしたの」

「へえ、そうなんだ」

「清人くんは、どんな服が好みかな?」

「ん? ああ……千穂ならどんな服を着ても可愛いと思うよ」

 我ながら随分とキザな台詞を言ってしまったと思う。けれども、なぜか恥ずかしいという気持ちは湧いて来ない。今の世界における幸せを噛み締めつつも、どこか空虚な気持ちを抱く自分がいた。

 そんな清人のことを、千穂はどこか不安げな瞳で見つめる。

「……ねえ、清人くん」

「どうした?」

「今日これから、清人くんの部屋に遊びに行っても良い?」

「え? ああ、別に良いけど」

「良かった。断られたらどうしようかと思ったよ」

 千穂は両手を胸の前で合わせて言う。

「そんな断る理由なんてないだろ」

「うん、そうだね……」

 千穂はなぜか言葉が尻すぼみして俯いてしまう。

 清人は首を傾げるが、何となく尋ねることがためらわれたので、そのまま自宅に向かって歩いて行く。

 しばらくして家にたどり着いた。玄関の鍵を開けて、千穂を招き入れる。

「お邪魔します」

 千穂はしとやかな声で言い、丁寧な所作で靴を脱ぐと、家の中に上がった。傍から見ていた清人は感心してしまう。

「じゃあ、部屋に行くか」

 階段を上がり、二階の自室に向かう。

 部屋の前に来ると、ドアを開けて千穂を中に通す。

「清人くんの部屋に来るの、久しぶりだな」

 鞄を持ったまま後ろ手を組んで、千穂は言う。

「そういえば、そうだな」

「うん。清人くんと恋人になってから来るのは、初めてだよ」

 ふいに、千穂の言葉に色香が漂う。

 ハッとして振り向くと、彼女は頬を赤らめて俯いていた。

 そこで、清人はふと思い至る。今この家には、自分達以外、誰もいない。つまり、二人きり。恋人である千穂と、二人きり。

「……ねえ、清人くん」

「お、おう」

 呼ばれて清人はびくりと反応する。

「お願いがあるの」

「お、お願い?」

 千穂は床に鞄を置くと、清人に抱き付いた。

突然のことに、胸がどきりと高鳴ってしまう。

「……キス、して欲しいの」

 その一言で、心臓はより高鳴ってしまう。情けなくも、清人は固まって動けないでいる。

「ごめんね、いきなりこんなこと言って」

「いや、謝る必要なんてないけど……」

 清人はおもむろに千穂を見た。彼女のきれいな瞳が、わずかに潤んでいる。やがて、その瞼がゆっくりと下ろされる。男として、女にここまでさせて何もしない訳にはいかない。

 清人は意を決して、千穂に顔を寄せる。

 そして、二人の唇が重なり合った。

 しばらくそのまま唇を重ねた後、ゆっくりと離れる。

「……嬉しいな、清人くんとキスが出来て」

「……俺も、嬉しいよ」

 無性に照れ臭くなった清人は、頬を赤らめて視線を逸らしてしまう。

「清人くん」

「ん、どうした?」

「あのね……今日は、ここで終わりたくないの」

 一瞬、彼女の言葉を飲み込めなかった。

「もっと先まで……して欲しいの」

 一度落ち着きかけた心臓が、またしても暴れ出す。

「そ、それって、つまり……」

 動揺して呂律が怪しくなる清人。千穂は頬を赤らめたまま、深く頷いた。

「このベッドの上で……私を抱いて」

 あまりにも大胆なその発言に、清人の思考はパニックを起こしてしまう。千穂は元から肝の据わっている所はあったが、まさかそんな真っ直ぐに求めて来るなんて。

「いや、でもさ……」

「やっぱり、嫌かな?」

「そんなことはない! ……けど、本当に良いのか?」

「うん、良いよ。清人くんに、私の全てを捧げたいの」

 愛する千穂にそこまで言われて、何もしない訳にはいかない。

 清人は彼女をベッドに押し倒した。

「きゃっ」

 千穂が小さく悲鳴を上げる。

「わ、悪い。痛かったか?」

「ううん、少し驚いただけ。大丈夫、私はそんなヤワな女じゃないから。清人くんのしたいようにして?」

 ベッドに仰向けになった状態で、千穂は悩まし気な視線を清人に向けてくる。

 夢にまで見た光景が目の前にある。行くしかない。

「千穂!」

 清人は叫び、彼女に覆いかぶさった。再びキスをして、ゆっくりと首筋に這わす。制服の上からでも分かるくらいに豊かな胸を掴んだ。

「痛っ……」

 千穂が目をきつく閉じた。

「ご、ごめん!」

「ううん、気にしないで。清人くんの好きにして良いって言ったのは、私だから」

「ああ。でも、次からはなるべく優しくするから」

「ありがとう」

 千穂は柔らかく微笑む。

 清人は夢中で彼女の身体を求めていた。

 本当に、千穂は美人で、その上スタイルも抜群だ。あの女とは、大違いだ。

 ――清人は本当に可愛いね。

 ふいに、彼女の声が脳内で響き渡る。何だってこんな時に、あいつのことを思い出すんだ。清人は頭を振って、余計な思考を振り落とそうとする。それから、再び千穂にキスをしようとした。

 ――血の契約を交わすためには、キスをしなければダメなの。

 またしても、彼女の声が響き渡る。

 清人は動きを止めた。

「……清人くん?」

 千穂はわずかに目を見開き、彼を呼ぶ。

「いや、その……何か、頭の調子が……」

「え、大丈夫?」

「ああ。大丈夫だよ」

 額を押さえて清人が言うと、千穂はベッドから身を起こす。

「風邪の引き初めかもしれないね。今日はもうベッドで横になって、安静にしていて」

「でも……」

「大丈夫。心配しなくても、続きはまたいつでもしてあげるから……」

 自分で言って恥ずかしくなったのか、千穂は頬を赤くして視線を逸らしてしまう。

「ごめんな、せっかく来てくれたのに」

「ううん、気にしないで」

 そう言って、千穂はベッドから下りて鞄を手に持った。

「じゃあ、今日はもう帰るね」

「悪いな。この埋め合わせは、必ずするから」

「うん。楽しみにしている」

 優しい微笑みを残して、千穂は部屋から出て行った。

 一人部屋に残された清人は、そのままベッドに仰向けに倒れた。

 しばらくの間、虚ろな目のまま、天井を見つめていた。




      ◇




 深夜。

 あれから、ずっとベッドで横になっていた清人は、おもむろに身体を起こした。

 どうにも落ち着かない気分だ。理由は定かではないが。

 ベッドから下りると、上着を羽織り、忍び足で部屋を後にする。軋む階段を下りて、家を出た。昼間は温かい春の陽気が漂っているが、さすがに夜はまだ肌寒い。上着のポケットに手を突っ込んで、歩き始める。特に目的地はないが、小腹も空いていることだし、近くのコンビニまで歩こう。そのように決めて、清人は歩みを進めて行く。

「――やあ」

 ふいに声がして、思わず肩を揺らす。だが、その声には聞き覚えがあった。振り返ると、そこには一人の少年の姿をした者が立っていた。

「お前……何でここに……」

 清人は一気に警戒心を高め、相手を睨む。

「嫌だな、そんな風に警戒しないで。僕は神として、君がきちんとこの世界に適合しているか、チェックしに来ただけだよ」

「そうかよ……」

「ちなみに、元々この世界にいた君には、別の世界でドッペルゲンガーの役回りを与えてあげたよ。そちらも問題なく適合しているみたいだし……うん、一件落着ってやつだね」

 神はにこりと笑って言う。正直、その笑顔は見ていて虫唾が走る。だが、変に機嫌を損ねたら何をされるか分かったものじゃない。清人は「そうか」と小声で呟き、足早にその場から立ち去ろうとする。

「あ、そうだ。君に見てもらいたいものがあるんだけど」

「何だよ?」

 清人は顔をしかめて聞き返す。

 神は不愉快な笑みを浮かべたまま指を振った。

 すると、いつぞや見たもやが現れる。それがスクリーンの形となり、何かの映像を流し出す。

 その世界の光景に、清人は見覚えがあった。ほんの少し前まで、自分がいた世界だった。

「そう、これは『崩れた世界(クランブル)』の様子を映しているんだ」

 神は言う。

「何で、そんなもんを俺に見せるんだ? まさか、俺をここに逆戻りさせようってのか?」

「いや、違う違う。言ったでしょ、君に見てもらいたいものがあるって」

 くすくすと笑う神に対して、清人は眉をひそめる。彼が何をしたいのか理解出来なかった。仕方なく、その映像に視線を向ける。

 相変わらず、荒廃した世界だ。ほんの少し前まであの場所にいたかと思うと、ゾッとしてしまう。荒廃したその世界では、黒い化け物、プルキャスト達が跋扈し、暴れ回っている。恐らく、人間の多くが死に絶え、その血肉を食えないことで暴れ回っているのだろう。

 ただそんな中で、暴走するプルキャスト達を相手にしている一人の少女がいた。その姿を見て、清人は目を見開く。

 そこに映し出されたのは、『崩れた世界』で共に歩んだ、リルエだった。彼女は黒翼で宙を飛び回り、魔術を駆使して、時には拳を振るって、プルキャスト達を相手取っている。彼女の強さなら、プルキャスト相手に苦戦することはないだろう。しかし、さすがに相手が多すぎる。しかも、暴走している。相変わらずクールな顔をしているが、どこか疲弊しているように見えた。心なしか、黒翼も萎んで見える。

「あの『崩れた世界』はね、みんなリルエに任せることにしたんだ」

 神は言う。

「どういうことだ?」

「あの世界はもうすぐ完全崩壊する。だから、その後処理を彼女に任せたんだ」

「任せたって……何で……」

「ほら、君を幸せな世界に戻すための条件として、彼女に代償を払ってもらうって約束しただろ? これがその代償さ。いやー、汗水たらして頑張ってくれているよ」

 どこか楽しそうに語る神を見て、清人は胸の内が疼くのを感じた。

「これから、あいつはどうなるんだ?」

「んー? そうだね~。完全崩壊する世界もろとも、消えちゃうかな」

 清人は一瞬、頭が真っ白になった。

「まあ、でも仕方がないよね。彼女は堕天使だから。神である僕に対しておイタをしちゃった悪い子だから。それ相応のお仕置きが必要だよね」

「……それは、あいつがお前の寵愛を拒んだからか?」

 すると、神はわずかに肩を揺すった。それから、笑顔で清人に振り向く。そこには無言の圧力と問いかけがあるように思えた。

「あいつが教えてくれたんだよ」

「……ふ~ん、そっか。リルエは随分と君に心を許していたみたいだね」

 神はあくまでもにこやかに笑っている。けれども、その奥底からは不穏な気配が漂っていた。

「まあでも、そうなるように仕組んだのは僕なんだけどね」

「は?」

 清人は一瞬きょとんとして、すぐさま神を睨む。

「どういうことだよ?」

「君とリルエを引き合わせたのは僕だ。僕が仕組んだ必然だ。出会った二人は過酷な世界で共に戦い、時にいがみ合いながらも徐々に心を通わせる。そして、彼女から君を引き離す」

「……何で、そんな真似を……」

「言ったでしょ? 悪い子にはお仕置きが必要だって」

 神は尚も満面の笑みを浮かべて言う。

「とにかく、君はせっかく愛しい彼女がいる幸せな世界に戻れたんだ。波風立てず、このまま大人しくしている方が良いと思うよ?」

 神の言葉に対して、清人は答えず押し黙っていた。それを肯定と受け取ったのか、神は笑顔のまま頷く。

「じゃあ、僕はもう行くから。短い間だったけど君には楽しませてもらった。感謝しているよ」

 そう言って、神は貼り付けたような笑みを浮かべたまま、その場から去って行く。

「――ちょっと待てよ」

 清人は神の腕を掴んで引き止めた。

 すると、神はぐりんと顔を向ける。

「おいおい、清人くん。僕を誰だと思っているんだい?」

「神だろ?」

「そうだ。その神である僕に、おいそれと触れて良いと思っているのかい?」

「んなことはどうだって良い。それよりも、お前に話がある」

「話? これ以上、君と何を話すって言うんだい? こう見えても僕、色々と忙しいんだけど」

「そうだろうな。お遊びに忙しいんだよな?」

「キャハハ! ……君、ぶっ殺されたいの?」

 笑顔を貼り付けたまま、神は言う。

 だが、清人は怯むことなく彼を睨む。

「ああ、良いぜ。殺してくれて構わねえ」

 不敵な笑みを浮かべて清人が言うと、神は片眉を歪めた。

「君は一体、どういうつもりなんだ……?」

 初めて戸惑いの表情を見せる神に対して、清人は尚も不敵に笑っていた。




      ◆




 一体、どれくらいの敵を殺しただろうか。

 途方もないくらい魔術を放って、途方もないくらい拳を振るって。

 殺しても、殺しても、殺しても。次から次へと湧いて来る。

 どうしよもない。堕天使になった時よりもひどい地獄を見ている。

 そんな風に思ってしまうのはほんの少し前まで自分の隣にいた、彼を失ったせいだろうか。

 もし仮に今も隣に彼がいてくれたら、このクソみたいな地獄でも生きようとする活力が湧いたのだろうか。

 まあ、今となっては意味のない思考だ。

 彼はもう二度とこの世界には戻って来ない。戻って来るはずがない。

 何よりも愛する彼女の下に帰ることが出来たのだから。その幸せをわざわざ捨てて、この世界に舞い戻って来るなんて、そんな奇跡みたいなことが起きる訳ない。

「babababababa! poriuarua! krpauria!」

 このクソったれな化け物と一緒に、このクソったれな世界と一緒に死んでしまうのだ。

 それも良いのかもしれない。もう疲れてしまった。

 どうせなら盛大に崩れて、全てを飲み込んで、そのまま消し去って欲しい。

 穿たれてボロボロになった黒翼。最早、飛ぶことは出来ない。

 堕天使である自分にはふさわしい末路。

 襲い来るプルキャスト達を倒す手段など、最早残っていない。

 ここが、自分の死に場所なのだ。そう悟った。

 それは構わない。その方が、むしろ楽になれるから。

 けれども、出来ることなら。

 最後に、彼に会いたかった――

「――何へたれてやがんだ、バカ野郎!」

 突然、背後で自分を罵倒する声が響き渡った。

 振り向こうとした時、身体を持ち上げられた。唐突に現れた誰かに抱かれた。その誰かは彼女を抱えたまま、間一髪の所でプルキャストの攻撃を回避する。

「……はあ、はあ。全く、危ない所だったぜ」

 荒く息を吐くその人物を見て、彼女は目を見開く。

「何で、ここにいるの……?」

 問いかけると、彼は口ごもる。

「まあ、その何だ……そんなことよりも、またアレを頼む」

「アレって?」

「ほら、血の契約。幸せな世界に戻って力を失っちゃったから。今のままじゃ、あの黒公共をぶっ殺せねえし。だから、頼むよ」

 彼の言葉を聞いて彼女はしばし呆けていた。

「……前からずっと思っていたけどさ……やっぱり、清人ってバカなんだね」

「何でだよ?」

「だって、せっかく手に入れた幸せを放り投げて、何でまたここに戻って来ちゃうの? バカなの? 死にたいの?」

「俺だって、こんなクソったれみたいな世界、二度と来たくなかったよ」

「じゃあ、何で……!」

「大事なもんを忘れて来ちまったからな」

「え?」

 彼の言葉に、弾かれたように目を見開く。

「大事なもんって……?」

 彼女は問いかける。

「んなことよりも、さっさとしてくれよ!」

 彼はそっぽを向き、赤面した状態で言う。

 その様子を見て、自然と口元が綻んでしまう。

「清人は、本当に可愛いね」

 直後、リルエは自らの手の甲を、魔術で形成した黒い刃で切り裂く。同様に、清人の手の甲も切り裂く。溢れ出た血を、各々の唇に塗った。

「のんびりしている時間は無いから。今回はキスぐらいで動揺しないでよね。童貞野郎みたく」

「うるせえよ! 良いから、早くしろ」

 清人が言うと、リルエは彼に抱きかかえられたまま、互いの顔を近付けた。

 そのまま、唇が重なり合う。

 清人に堕天使の力を与える過程で、リルエは自らの体内にも力が注ぎ込まれる感覚を得た。自然と、温もりも溢れてくるようで、何だかこそばゆい。

「……血の契約は完了した」

 そう言って、リルエは清人の腕から地面に降り立つ。

「ねえ、清人」

 彼に背を向けた状態で、リルエは問いかける。

「何だよ?」

「本当に後悔していない?」

「今さら何を言ってんだ。後悔なんてしてねえよ」

 振り向いて見た清人の目は、真っ直ぐにこちらを見つめていた。

「そっか……」

 リルエは再び前を向く。

「清人」

「何だ?」

 リルエは一瞬間を置く。その間、自然と口元が綻んでいた。

「愛しているよ」

 直後に駆け出したため、彼がどんな表情をしていたのか分からない。

 ただ、きっと呆けた顔をしているのだろうと思ったら何だかおかしくて。

 先ほどまで死にかけていた身体が、心が、一気に蘇った。




      ◆




 突然の言葉に、清人は一瞬呆然とした。

 だが、眼前に敵が迫って来たので、すぐさま思考を振り払い、駆け出す。

 背中に黒翼を展開した。痺れるような感覚を得た。それが心地良い。

 握り締めた拳に魔力を注ぎ込む。低空飛行で真っ直ぐにプルキャストに向かって行く。

「うおおおおおおおぉ!」

 魔力を、気合を込めた拳は、プルキャストの身体を打ち抜く。

「pigaupoiuaggua……!?」

 悲鳴を上げたプルキャストは霧散する。

 だが一体倒しても、次から次へとプルキャストは湧き上がって来る。

「上等だ……テメエら全員、ぶっ殺してやるよ!」

 雄叫びを上げて突っ込んで行く清人。そんな彼を見て、リルエはどこか嬉しそうに微笑んだ。

 二人は迫り来るプルキャストの軍勢に怯むことなく、縦横無尽に戦場を駆け回る。激しい戦いの中で、当然身体も悲鳴を上げる。それでも胸の内から湧き上がる圧倒的な闘争心がそれを掻き消す。

 戦いたい。戦って、奴らを駆逐して。それから……

 清人は共に戦場を駆るリルエを見た。ふっと口元を綻ばせる。

「うおらあああああああああぁ!」

 魔拳と魔脚を嵐のように連続させ、迫り来るプルキャスト達をことごとく葬って行く。

 やれる。自分達なら、やれる。

 複数体のプルキャストが一斉に清人に飛びかかる。彼は拳を構え、迎え撃とうとした。

 瞬間、奴らの身体が一斉に霧散した。

「え……?」

 突然のことに、清人は目を見張った。

「――いや~。随分とまあ、楽しそうなことをやっているね」

 飄々とした声が、天から降って来た。

 慌てて振り仰ぐと、そこには少年の風体をした、神がいた。

「お前……何でここに?」

 清人は眉をひそめる。

「ん? ああ、君に突然この世界に戻して欲しいとか言われて、僕は驚いちゃった訳よ。それで、何か面白いことになりそうだなと思って、来ちゃった」

 からからと笑って、神は言う。

「そうかよ。悪いけどな、俺達はプルキャスト共を駆逐しなくちゃいけないんだ。だから、お前に構っている暇なんてねえ」

「あ、ひどいな~。そういうこと言っちゃうんだ……」

 一瞬、神の目が怪しい輝きを帯びた。すると、彼は指をパチンと鳴らす。

 次の瞬間、周囲にいたプルキャスト達の身体が一斉に爆散した。

 辺りに黒い霧が立ち込める。だが、それも束の間のことだった。

「なっ……」

 清人は絶句していた。

「これで邪魔者は消えたね……じゃあ、僕と遊ぼうか?」

 にこりと笑うその表情の奥には、おぞましい情念が渦巻いている気がした。

「……やっぱり、そういうつもりだったんだね」

 いつの間にか、清人のそばにリルエがやって来た。

「あなたがわたしに恨みを持っていて、この世界もろとも滅ぼそうとしていることは分かっていた。そして、そこにまた清人を送り込むということは……」

「そっ、君達二人をまとめて始末しようと思ったんだよ」

 神はあっけらかんとして言う。

「だって、君達はとても仲が良いみたいだからね。一緒に死んだ方が幸せでしょ?」

 つらつらと語る神を見て、リルエは瞳を歪めた。

「わたしはどうなっても構わない。けど、清人まで巻き込むなんて、許さない」

「じゃあ、僕と戦ってみるかい? もし僕に勝つことが出来たら、彼の命は助かるよ。まあ、到底無理な話だけどね」

 神は天を仰いで高笑いをする。リルエは悔しそうに唇を噛み締めた。

「……なあ、リルエ。一つ聞いても良いか?」

 ふいに清人が声を発すると、リルエはぴくりと反応する。

「お前が堕天使になって、母親に会えなくなったのは、みんなあの神のせいなんだよな?」

「え? あ、うん。そうだけど……」

 リルエはぎこちなく頷く。

「そうか。じゃあ、二人であいつをぶっ殺せば、お前はまた母親に会える訳だ」

 清人が言うと、リルエは目を丸くした。

「……おやおや~? 今、僕をぶっ殺すみたいな言葉が聞こえたんだけど……気のせいだよね?」

「ああ、確かにそう言ったぜ。俺達はこれからお前をぶっ殺す。そして、何もかもを終わらせて、平和を取り戻す」

 真剣な眼差しを向けて、清人は言った。神は虚を突かれたような顔をしていた。

「……ぶっ! キャハ、キャハハハハハハ! 清人くん、君は本当に面白いね」

 神は宙で笑い転げて、目の端に涙を浮かべている。

「面白すぎて、面白すぎて……ぶっ殺したくなっちゃうよ」

 満面の笑みを浮かべて、神は言った。

「良いぜ、来いよ。これから互いの全てを賭けた殺し合いをしようぜ」

 清人はあくまでも好戦的に、挑発するように言った。

「あはは……人間風情が調子に乗るなよ?」

 ふいにドスの利いた声を神は発した。

「僕は神だよ? 全てにおいて最強の神だよ? そんな僕に勝てるとでも思っているのかい? 勝機は? 勝機はあるのかい?」

「んなもん、気合で何とかする」

「いやいや、無理だから。気合で神を倒せたら、みんな宇宙の覇者になれるよ。何様だよ君、マジで死にたいのか?」

「いや、死にたくはねえ。新しくやりたいことも出来たし、俺はまだ死ぬ訳にはいかねえ」

「だったら、今すぐ僕に命乞いをしろよ。そうすれば、まあ、少し痛めつける程度で許してあげるよ」

「誰がテメエみたいな女々しいカスに命乞いするかよ」

 一瞬、神の表情が止まる。

「女々しいって、この僕が?」

「ああ、そうだろ。フラれた女に対して、こんな大がかりな仕返しをするとか、女々しいにも程があんだろ。神だか何だか知らねけど、テメエの器も底が知れてんな」

「――黙れぇ!」

 鋭い波動が放たれる。清人は寸前の所でかわした。

「はは、そんな風に怒るってことは図星だな」

 清人はにやりと笑う。それが余計に神の怒りを煽ったようだ。血走った眼で彼を睨んでいる。

「ねえ、清人」

 そばにいたリルエが、彼の服の裾を引っ張る。

「本当に良いの?」

「あ? 何が?」

「ここまで来たら、もう本当に後戻り出来ないよ」

 リルエは心配するような表情を浮かべて言う。

 数拍間を置いてから、清人は彼女の額を小突く。

「安心しろよ。端からその覚悟で、この場所に戻って来たんだ」

 きょとんとするリルエに微笑みを浮かべ、清人は前に向き直る。

「そういう訳だから、俺はこれからテメエをぶっ殺す」

 背中に黒翼を展開した。力強く羽ばたいて見せる。

「……ああ、そうかい。良いよ、来なよ。君みたいに目障りな奴は一瞬で塵にしてやるからさ!」

 清人は飛翔した。宙に浮かぶ神に向かって行く。

「うおおおおおおおおぉ!」

 神が波動を放つ。周辺の大気を震わすその一撃を何とかかわし、一直線に迫る。

 握り締めた拳を神に向かって放つ。

 だが、見えない障壁に阻まれてしまう。それは分厚く、大量の魔力を注ぎ込んでも突破することが出来ない。

「キャハハ! 粋がった所で、君はこの僕に触れることさえ出来ないんだ」

 神はあざ笑う。それが、清人の闘志を煽る。

「くっ……うおおおおおおおぉ!」

「キャハハ! だから、無駄だって言ってるだろ?」

 神が余裕の笑みを浮かべていた時、見えない障壁にわずかながら亀裂が生じた。

「らあああああああぁ!」

 そこから清人の拳が侵入し、高笑いをしていた神の頬を殴り飛ばす。

「がはっ!?」

 神の口から血泡(けっぽう)が飛び出す。彼は信じられないといった表情で清人を見つめた。

「はは、ざまあねえな。テメエのそのいけすかねえ面に、俺の拳が届いたぜ?」

 清人は不敵に笑って見せる。

 神は顔を俯けた。

「……よくも、この僕の顔に傷を付けてくれたな。よくも、よくも、よくも、よくも……」

 顔を上げた神はかっと目を見開く。

「貴様ごときが、この僕に触れるなああああぁ!」

 瞬間、神と清人の間に膨大なるエネルギーの塊が生じた。

 直後、それが清人に放たれる。彼は今までに感じたことのない衝撃によって、一気に地上まで吹き飛ばされた。激しく砂塵が舞った。

「ぐああああああぁ……!」

 身体中の骨がへし折られてしまったかと思うくらい、凄まじい衝撃だった。地面に深く減り込んだ状態のまま、身動きが取れない。

「……あーあ、この僕に歯向かうからいけないんだよ」

 天からこちらを見下ろして、神は歪んだ冷笑を浮かべる。

「……るせえ……勝った気でいるんじゃねえよ」

 切れ切れの言葉で、清人は反抗する。

「ふぅん、あっそ。じゃあ、そのまま死ねば?」

 神が清人に向かって手を突き出すと、地面に減り込んだ状態の彼に多大なる重圧が加わった。

「ぐああああああああぁ!」

「清人!」

 リルエが叫んだ。

「やめて、清人を傷付けないで」

「何を言っているのさ。彼は僕に殺し合いを申し込んだ。僕はそれに応えて、全力で彼を殺そうとしてあげているのさ」

 にかっと、場違いにも爽やかな笑みを浮かべて神は言う。

「良いから……やめて」

 リルエは尚も叫ぶ。だが、神は全く応じようとしない。彼女は歯噛みをすると、すっと指を構えた。

「《不安除去(ブラッシュウト)》!」

 清人を押し潰そうとしていた圧力が霧散した。

 すると、神がリルエに視線を向ける。

「邪魔をするなよ」

 見えない波動がリルエに襲いかかる。

「ああああああぁ!」

 一瞬にして、リルエの身体はズタボロにされてしまった。その場に崩れ落ちる。

「……ふふ。アッハッハ! 神であるこの僕に歯向かうから、そんな目に遭うんだ。ざまあみろ、リルエ!」

 神は甲高い声で叫び散らす。

「今さら謝っても遅いよ。君達はこれからたっぷりと可愛がった上で、殺してやるから。二人仲良く、肉体は愚か一片の魂も残らないくらいに、殺してやるから!」

 高笑いする神をリルエは睨む。ふらつく足で、清人の下に歩み寄る。

「清人……」

 リルエの声に、彼は反応する。

「良かった……まだ、生きていた」

「……当たり前だろうが……こんな所で、死ねるかよ」

 清人は掠れた声で言う。

「……ごめんね、清人。わたしのせいで、こんな目に遭わせちゃって」

「バカか、お前は……? これは……俺が仕掛けたケンカだ……お前に責任なんてねえよ」

 清人は優しく微笑んで言う。そんな彼を、リルエは悲しげに歪んだ瞳で見つめていた。

「……わたし、あいつを……神を倒したい。そして、清人と一緒に生きたい」

 普段は感情をほとんど見せることのない彼女が、今はその瞳にたっぷりの涙を浮かべていた。そんな彼女の頭を、清人は優しく撫でてやる。

「大丈夫だ。その願いはきっと叶えてみせる……」

「清人……」

 その時、涙をこぼしていたリルエの身体から、白いオーラが漂い出す。同時に黒いオーラも溢れる。互いは反発し合っていた。

「これは……」

 リルエは目を見開いていたが、ふと何か思い至ったようで、固く目を閉じた。

「我、堕天使のリルエ、元は四大天使が一人、ユリエルの娘、リエルなり。聖と魔は相容れず、互いに反発し合うもの、しかしその理の壁を破り、互いが手を取り会った時、我は神にも至る力を有す者となる……」

 両手を合わせてリルエが唱えると、それまで反発し合っていた白と黒のオーラが混ざり合い、眩い黄金の輝きを放つ。

「リルエ……?」

 その眩さに目を細めていた清人に、リルエの手が触れた。

「清人……一緒に神を倒そう」

 次の瞬間、二人を包む黄金の輝きは天を貫く勢いで昇って行く。

「何だ、これは……?」

 神は目の前の光景に対して、呆然としていた。

「何が起きたっていうんだ!」

 やがて天を衝く光の奔流が静まる。

 そこに立つ二人の傷は完全に癒えていた。

 背中に生える翼や髪の色は黄金に染まり、また身体からも黄金のオーラが漂う。あまりの眩さに、彼ら自身が驚いていた。

「何だか、金ピカ過ぎて恥ずかしいな、これ……」

 自らの身体を見えて、清人は言う。

「そうだね、目がチカチカする。でも、カッコイイと思うよ」

「ああ、そうかよ」

「わたしも可愛い?」

「は? バカ言ってんじゃねえよ」

 そっぽを向く清人に対して、リルエが小さく頬を膨らませる。

「……何だ、その姿は? 何だ、その力は?」

 神は呆気に取られた状態で問いかける。

「これは神力だよ」

 リルエは端的に答える。

「何だと……? 神でもない君達が、神力を使える訳ないだろ!」

「堕天使となったわたしは、魔力を扱う。けど、元々が高位の天使だったから、その聖力も残っていたの。本来ならば相容れないその二つの力が合わさることで、神力に至った」

「なぜ、そんな真似が出来たんだ?」

「うーん、何でだろうね? まあ、あんたをぶっ殺したいって気持ちが強かったから。そして、それ以上に、清人と一緒に生きたいって気持ちが強かったから。奇跡が起きたんだよ」

「奇跡だと……? そんなものはない! 全ては必然! 神である僕が定めた運命に従っているんだ!」

 神は息を荒くして叫ぶ。

「じゃあ、そんな必然性なんて……ぶっ壊してやるよ」

 固く拳を握りしめて、清人が言った。

 神は目を見開き、それから身体を震わせる。

「貴様らは塵一つ残さず葬ってやる!」

 天から神が波動を放つ。その逆鱗によって、激甚なる破壊の音を響かせながら、二人に迫る。

 二人は互いの手を握り、天に向かって掲げた。

「「《浄化の一手(ピュアリス)》」」

 二人の手から、黄金の波動が放たれる。

それは神の波動を打ち破り、真っ直ぐ伸びて行く。

「嘘だろ……」

 神は唖然とする。そのまま、黄金の波動が直撃した。

 叫びを上げる暇も無く、彼の姿は消え去った。

 黄金の輝きはそのまま天へと昇って行った。

 二人はしばしその光景を見て呆然としていたが、やがて脱力し、地面に仰向けに倒れた。

「……やったのか?」

 清人が掠れた声を漏らす。

「……うん、やったんだよ」

 リルエが答える。

「はは、マジかよ。俺達、本当に神を倒しちまったんだな」

 清人は乾いた笑い声を漏らす。

 その時、天地の揺れを感じた。

 清人は慌てて身を起こす。

「何だ? どうしたってんだ?」

 清人は辺りを見渡す。地面がひび割れ、崩れかけていた建物が崩壊して行く。

「多分、神が死んだから、平行世界が滅ぼうとしているんだよ」

 リルエが言う。

「嘘だろ? せっかく神を倒したっていうのに、結局俺達は死んじまうのかよ……」

 清人はがっくりとうなだれる。その肩に、リルエが優しく触れる。

「大丈夫だよ、清人。わたし達は死なない」

「え?」

 清人は弾かれたようにリルエに振り向く。

 その瞬間、唇に柔らかい感触が走った。

 二人の唇が、重なり合っていた。

 崩壊する世界の中で、そこだけ時間の流れが停止したようで。

「……い、いきなり何すんだよ?」

 清人は赤面して言う。

「何って、キスをしただけだよ」

「お前は本当に……」

 清人はまたしてもうなだれる。だが、その口元は綻んでいた。

「ねえ、清人」

 リルエに呼ばれて、顔を上げる。

「愛しているよ」

 その時、彼は初めて彼女の満面の笑みを見た。

 そして、世界は崩壊した。

















      終幕




 目が覚めた時、見覚えのある天井がそこにあった。

 清人は自分の部屋のベッドに仰向けになっていた。

「俺は……一体……」

 あれからどうなったのか? 

 崩れ行く世界で、最後まで彼女と一緒にいた。

 そして、世界が崩壊した後、どうなったのか、さっぱり分からない。

 目をこすり、かすかにおぼろげな視界に喝を入れる。

 右手の甲の刻印はまたしても消えていた。まだ状況の整理がついていないため、喪失感を味わうどころではない。清人は辺りに視線を巡らせる。ベッドの枕元に置かれているデジタル時計を捉えた。

「え……?」

 清人は目を見開く。その時計の日付は、三月の終わりを示していた。その日付が正しいのであれば、自分は高校一年生の春休みに戻ってしまったということになる。その理由は定かではない。

 部屋を飛び出して、リビングに向かう。既に出勤した父に放り投げられていた新聞を掴み、その日付を凝視する。そこにも、同じ日付が記されていた。

 つまり、いくつもの平行世界が消滅した後、単一に戻った世界は、時間が巻き戻った。

 高校一年生の春休み、三月三十一日。

 その日付に、清人は強い印象が残っていた。

 階段を上り、再び自室に向かう。机に置いていたケータイを手に取る。一通のメールが届いていた。


『清人くんへ


 大事なお話があるから、緑の丘に来て下さい。


                   千穂』


 そのメールを見て確信する。

 それは、前にも一度もらったことのあるメール。それを見た時、激しく動揺し、胸が高鳴ったことを覚えている。今はまた、別の意味で胸が高鳴っていた。

「そっか、なるほどな……」

 清人は後頭部をかいた。

 今日これから、清人は千穂に告白を受けるのだ。




      ◇




 軽く食事を済ませ、身支度を整えて家を出る。

 空は抜ける様に青く、太陽の日差しが地上を優しく照らしていた。

 ぽかぽかと漂う春の陽気は、眠気を誘うようだ。

 しかし、今はそんな場合ではない。

 清人は確かな決意を固めて、アスファルトの道を進んで行く。

 緑の丘は、清人が住む町にある、その名の通り緑豊かな丘だ。そこに行けば町全体を一望することが出来る。そして、そこにある木の下で結ばれたカップルは、永遠に添い遂げるという言い伝えもあった。

 緑の丘に向かう道中、千穂と過ごした日々の記憶が蘇る。

 清人は彼女の告白を受け入れ、付き合うことになり、そして、幸せな時間を過ごしたのだ。

 そして、これから――

「――清人くん」

 吹き抜ける風が草木を揺らし、彼女の美しい亜麻色の髪をなびかせる。

「ごめん。待たせたな、千穂」

 声をかけると、彼女は微笑んだ。

「ううん、大丈夫。ごめんね、突然呼び出して」

「いや、大丈夫だよ。それで、話って何だ?」

 我ながら意地の悪い問いかけだと思ってしまう。しかし、目の前にいる千穂にとっては、これが初めての告白なのだ。

「うん、あのね……」

 千穂は豊かな胸に、自分の手を置いた。緊張を解きほぐすように、深呼吸をする。

「――私、清人くんのことが好きなの。だから、お付き合いをして下さい」

 頬を真っ赤に染めて、千穂は言う。

 我が幼馴染ながら、千穂は本当に可憐で、スタイルが良くて、温かくて、とにかく素晴らしい美少女なのだ。女神と呼んでも全く差支えの無い、素晴らしい女性なのだ。そんな彼女に告白されて、断る理由なんてない。告白された男はみなすべからく頭を垂れて、受け入れるだろう。清人もそうだった。かつての清人は、そうだった。

「――ごめん、俺は千穂と付き合えない」

 たったその一言を紡ぐために、とてつもない罪悪感に苛まれた。それでも、清人ははっきりと告げた。真っ直ぐに彼女を見つめて。

「……どうして?」

 震える声で、千穂は尋ねる。

「私のことが嫌いなの?」

「そんなことはない。俺は千穂のことが大好きだ」

「だったら……」

 千穂はすがるような目で清人を見つめる。

「……千穂はさ、本当に素晴らしい女だと思う。みんなが女神って言うのも、当然のことだと思う。そんでさ、ずっとそばで見てきた俺は、千穂って太陽みたいだと思うんだよ」

「太陽……?」

「そう。みんなを明るく照らす、太陽。一人でも強く輝き続ける、太陽」

「私はそんな強い人間じゃないよ。今だって、清人くんにフラれて泣きそうだし……」

「……ごめん、そうだよな。そんな体の良いことを言って逃げようだなんて、甘いよな」

 清人は空を仰いだ。改めて、その抜けるような青さに目を細める。

それから、強い眼差しで千穂を見つめた。

「俺さ、他に好きな女がいるんだ」

 清人の言葉を聞いて、千穂は目を見開く。

「……それって、私の知っている人?」

「いや、知らない奴」

「そう、なんだ……」

 千穂は暗い表情で俯いてしまう。

 本当に心苦しかった。清人はかつて、本気で彼女を愛していたから。

 けれども、今の自分の気持ちに嘘は吐けない。吐きたくない。

「千穂、俺は……」

 ふいに、清人は柔らかい感触に包まれた。

「え……?」

 気が付けば、千穂に抱き締められていた。

「千穂……?」

「……そっか、清人くんも私の知らない所で恋をして、成長していたんだね」

 千穂は優しい声音で言う。

「正直、とても悲しい。私は清人くんのことが大好きだから。私の全部を捧げても良いと思っていたから」

「千穂……」

「でも、仕方がないよね。清人くんが決めたことだもの」

 千穂は清人から身を離す。

「私はずっと昔からそばにいた幼なじみとして、清人くんの門出を祝うよ」

「千穂……ありがとう」

 自然と、目から涙がこぼれてしまう。

「もう、そんな風に泣かないで。泣きたいのは、こっちなんだから」

「わ、悪い」

「なんて、冗談よ」

 珍しくおどける仕草をする千穂を見て、清人は思わず笑みをこぼしてしまう。

「……じゃあ、清人くん。私はもう行くね」

「ああ……気を付けて帰れよ」

 清人の言葉に、千穂は頷く。その表情は切ない悲しみを抱えながらも、明るく微笑んでいた。彼女はどこまでも強い女の子だと、清人は思った。

 小さく吐息を漏らす。

「――何で、彼女の告白を断ったの?」

 ふいに声がした。振り向くまでもなく、誰か分かる。

「お前、ずっと聞いていたんだから、分かるだろ?」

 清人が言うと、木陰に身を潜めていたリルエが姿を見せる。

「あれ、お前天使に戻らなかったのか?」

 黒い髪と黒い翼の彼女を見て、清人は言った。

「うん、まあ。清人と出会ったのはこのわたしだったから」

「そうか」

 清人は小さく頷く。

 向かい合ったリルエは、どこか気まずそうな顔をしていた。

「……ごめん、清人。わたし、清人に謝らなきゃいけないことがある」

 語り出そうとするリルエに対して、清人は手を突き出して制止する。

「神が死んで平行世界が消滅した後、世界の時間をここまで巻き戻したのは、お前の仕業なんだろ?」

 清人が言うと、リルエは目を見開く。

「気付いていたんだ……」

「まあな。ちなみに、俺だけ記憶が消えずにいるのも、お前の仕業」

「……何でそんなことをしたか、聞かないの?」

 リルエは俯き加減で問いかける。

「ん? ああ、まあ野暮な真似はあまりしたくねえんだ」

 そう言って清人がリルエの頭を撫でた。

リルエは小さく頬を膨らませる。

「……清人のくせに生意気だよ。わたしの下僕のくせに」

「良いじゃねえか。前にも撫でたんだし」

「そうだけど……」

「ていうか、俺ってまだお前にとって下僕なんだ? 右手の刻印は消えちまってるし、また血の契約でも結ぶか?」

 清人は右手の甲を示しながら問いかける。

「……清人、意地が悪い」

「お前に言われたくねえよ」

「うん、そうだね……ごめん」

「別に、謝る必要なんてねえよ。それよりも、これから俺が言うことをよく聞いておけ」

 清人はリルエの細い肩を両手で掴み、真っ直ぐに彼女を見つめる。

「――俺はお前のことが好きだ。これから、ずっと俺のそばにいて欲しい」

 瞬間、風は凪いでいた。

 清人の言葉は真っ直ぐに、リルエに突き刺さる。

「……それじゃ、嫌だな」

 思わぬ一言に、清人はにわかに動揺してしまう。

 まさか、自分はこのままフラれてしまうのだろうか。

 足元が揺らぎそうになってしまう。

「好きじゃなくて……愛しているって言って」

「へ?」

 清人はつい呆けた声を出してしまう。

「ふふ、その泣きそうな面は可愛いね。やっぱり、清人は可愛いよ」

「う、うるせえ! 人が真剣に告白してるんだから茶化すんじゃねえ!」

「ごめん」

 口元で微笑んだまま、リルエは言う。

 清人はがっくりと肩を落とすが、気を取り直すように咳払いをした。

 気が付けば、心臓の高鳴りは最高潮に達している。

「俺はお前を……リルエのことを愛している。だから、ずっと……」

 言いかけた所で、唇を塞がれてしまう。

 リルエがつま先立ちをして、清人にキスをしていた。

「……ふぅ」

 一息吐くリルエに対して、清人はぷるぷると震えている。

「お、お前! いきなり何しやがるんだ!」

「良いじゃない。別に初めてのキスって訳じゃないんだし。もう何回もしているじゃん」

「うるせえ! ていうか、結局俺の告白をきちんと聞いてないだろうが!」

「うん、そうだね」

「お前、何開き直って……」

「でも、ちゃんと響いたよ。清人の告白、気持ちは、ちゃんとわたしの胸に響いたよ」

 その言葉に、清人は呆気に取られる。

 再び、彼女の満面の笑みを見ることが出来て、すっかり溜飲は下がった。

「……ったく、本当に仕方がねえ奴だ」

 自然と、清人の口元は綻んでいた。

「ねえ、清人。これから一緒に、わたしのお母さんに会いに行こう」

 リルエが言うと、清人はぎょっと目を剥いた。

「え、いきなり? 何つーか、それはちょっと心の準備が必要っていうか……」

「どうしても、愛する人をお母さんに紹介したいの……ダメかな?」

 不安げに小首を傾げる彼女が、この上なく可愛いと思ってしまう。

清人は小さくため息を吐いた。

「……分かった。会ってやるよ」

 照れくさくなって、そっぽを向いてしまう。そんな清人の様子を、リルエはからかうように見つめている。腹立たしいが、自然と許してしまえる。自分は心の底から彼女を愛しているのだと、清人は感じた。

「じゃあ、行くぞ……リルエ」

 神が死んだ今、この世界の必然性は失われた。

 決まっていた運命は失われてしまった。

それは元から知り得なかったことだけど。

もしかしたら、支柱を失ってしまったのかもしれない。

 そんな世界でこれから先、どんな未来が待ち受けているのか分からない。

 正直、怖いという気持ちもある。不安でいっぱいになってしまう。

 けれども二人が一緒なら、どんな苦難も乗り越えられる。

 そう信じて、歩み始めた。

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こうして世界は必然性を失った 三葉 空 @mitsuba_sora

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