それが僕らの隠れ蓑
三葉 空
原稿
1
「せやから、俺は言うてやったんや。何でコロッケに醤油をかけるんやって!」
身振り手振りで大仰に話す彼の周りでは、多くのクラスメイト達が腹を抱えて笑っていた。おしとやかな女子は口元を押さえながら、それでも必死に笑いを噛み殺しているようだった。
「そしたら母ちゃんが『良いじゃない、和風テイストで』って言うんやで? 何が和風テイストや。それっぽいこと言って誤魔化すんやないっての! 素直に自分が間違ごうた言うて謝れば済むことやのに」
「まあまあ、そんなに母親を責めるなよ」
「そうだよ、大人げねえぜ」
「いやいや、大人げないのは俺の母ちゃんの方やろ。自分がソースと醤油を間違えたこと、素直に謝ればええのに。ていうか、どんだけベタな間違えしてんだっつーの」
「んで、結局その醤油かけたコロッケのお味はどうだったの?」
クラスメイトの男子が興味深そうな視線を彼に投げた。
「あん? 美味かったで」
直後、彼を中心に爆笑の嵐が巻き起こった。クラスメイト達は腹を抱えてヒーヒーと喘ぎ、涙目になっている。あまりにも笑い過ぎて、呼吸困難になる者もいた。
「おいおい、何でそんなに笑うてんのや? ただ美味かったって言うただけやんか」
「いや……そうだけどさ……三太の間の取り方が……絶妙過ぎて、ウケる」
男子生徒が腹を抱えて、未だ押し寄せる笑いの渦を堪えながら言う。
「そうか?」
「ああ、さすが明石家三太(あかしや さんた)。あのさんまの後継者だぜ」
「はは、何を言うてるんや。照れるやん」
「でもさ、三太って関西出身じゃないよな? それって、エセ関西弁じゃね?」
「お前、何を言うとるんや! 俺はエセ関西弁言われるのが嫌で、ごっつ勉強したんやで」
「どれくらい勉強したの?」
「あん? 三十分や」
何食わぬ顔で三太は言った。
「それ全然勉強してないじゃんか!」
「うるさいわ、ボケ! 関西弁言うのはごっつ奥が深いんや。きちんと喋ろうと思ったら、生半可な勉強じゃ身に付かん。せやから、俺はあきらめてノリで喋ることにしたんや」
「だったら、結局エセ関西弁じゃねえか」
「まあ、そうなるな。ええやん、それでみんな笑うてんのやから」
「うわ、こいつ最低だ! マジで最低の野郎だ!」
「そうや、俺は最低の野郎や! せやから最低ついでに、この場におる女子のおっぱい揉みまくったる!」
三太が両手の指をワキワキと動かすと、女子達はたちまち悲鳴を上げた。
「おらぁ! 大きいのも、小さいのも、俺がまとめて可愛ごうたるわ!」
逃げ惑う女子達は更なる悲鳴を上げ、男子達はそれを見て爆笑する。
ギャハハ、ギャハハ、ギャハハハハ! 巻き起こった爆笑の嵐は留まる所を知らず、二年B組の教室内で局地的な猛威を振るう。クラスのほぼ全員が三太の話術の虜になっていた。
「おーい、ちょっと良いか?」
そんな爆笑の嵐が吹き荒れる教室内に凛とした声が響き渡る。振り向けば、教室の入り口にスーツ姿の男が立っていた。彼の姿を視界に捉えると、女子生徒がにわかに黄色い歓声を上げた。
「きゃあ、笹山先生よ」「今日もかっこいい」「素敵だわ」
さらりと黒髪をなびかせる男性教師に、女子達はすっかりメロメロのようだ。うっとりした顔で彼を見つめている。
「いやー、相変わらずモテモテやね、笹山先生! そのイケメンさ、ちょっと俺にも分けてくれませんかね? そうすれば、女子達も喜んで俺におっぱい揉ませてくれるんやけどな~」
陽気な笑みを浮かべながら、三太はそんな軽口を飛ばした。
「そんなことより、明石家。大切なことを忘れていないか?」
「え、大切なことっすか? あ、そういえば今日は夕方から見たいドラマの再放送があるんやった! 先生、あざす! 俺これから速攻帰りますわ!」
三太はぴょんと腰かけていた椅子から飛び降りて、颯爽と教室から去ろうとした。
「待て」
「ぐぇっ!?」
直後、笹山に襟元を掴まれて喉がひっくり返ったような悲鳴を上げた。
「げほっ、ごほっ……ちょっ、先生いきなり何するんですか!? 首が絞まってお陀仏しそうやったわ!」
「お前が大事なことを忘れているからだ」
「せやから、夕方からやるドラマの再放送を見なきゃなんですって!」
「アホか。今日の放課後、国語の補習をやるから俺の所に来いって言っただろ?」
笹山は肩を落としてため息を吐く。
「ホシュウ……? それって、食ったら美味いんすか?」
三太の脳天に固い拳が突き刺さった。
「イッテェ! おい、ちょっとこれ体罰やないすか? 暴力教師って訴えますよ!?」
「男のくせにヒステリックに騒ぐな。今のは暴力じゃない、愛のムチだ」
「いやいや、男に愛とか言われても萎えるだけっすよ~」
口の端を歪めて三太が言うと、その頭上に愛のムチ二発目がかざされたので、大人しく口をつぐむことにした。
「全く、お前は本当に世話が焼ける男だな。ほら、無駄口を叩くのはやめて大人しく付いて来い。そうすれば、もう痛い目に遭わなくて済むぞ」
「はいはい、分かりましたよ」
「『はい』は一回でよろしい」
「はーい」
再び脳天に響き渡る衝撃。愛のムチ、もとい拳が突き刺さった。
「……つぅ~」
猛烈に痛む頭を抱えながら、三太は涙目で抗議の視線を笹山に送った。
「そんな恨みがましい目で俺を見るな。これも不必要な軽口を叩いているお前がいけないんだぞ。自業自得ってやつだ」
「いや、そんなこと言うてもね、先生。俺は喋ってないと死んじゃうんですよ。まぐろと一緒なんですわ」
「お前のような不出来な男が、まぐろと同等な訳ないだろ。良い所いわしだ」
「あ~、いけないんや。そうやって生徒を侮辱するようなことを言うて。謝れ、俺に対して! そして、いわしに対して! こちとら頑張って生きとるんや!」
「悪いが、お前にもいわしにも謝るつもりは毛頭ない」
笹山はあくまでも冷静に切り捨てた。
「きぃ~、何やムカツクぜこのイケメン教師! そのさらりとした黒髪に墨汁ぶっかけてやりたいわ! より真っ黒で艶々になりまっせぇ!」
「あっはっは、言ってくれるな。じゃあ俺は生意気なお前に醤油をぶっかけてやろう」
「あ、先生。もしかしてさっきの俺のトーク聞いてたのん?」
「まあな」
「いやん、何だかんだで俺のトークを楽しんでたんでしょ? もう先生ってば、ツンデレなんやから」
「はは、殺すぞ」
「今殺すって言うた!? すみませーん! ここに可愛い生徒を虐げる悪辣な教師がいます!」
三太は両手で拡声器を作って叫び散らした。
その声に釣られて振り向いた女子生徒達が、またしても「きゃあ、笹山先生だわ。素敵!」と目をハートマークにしていたので、がっくりと肩を落としてしまう。
「はあ、やるせないぜ。イケメン何でも許されるんかいな。ほんま、クソみたいな世界やな」
「まあまあ、モテないからって落ち込むな」
「いやいや、先生何を言ってんすか。俺ってば超人気者やから、女子とか俺のトークでマジ笑ってるから!」
「さっきは悲鳴を上げていたじゃないか」
「さっきのは……そ、そういうネタの流れになったからしゃあなかったんや」
「じゃあ、そんな超人気者の明石家くんは、この高校に入学してから何人の女子と付き合ったのかな?」
笹山が目を細めて尋ねると、三太ははうっ、と言葉に詰まってしまう。
「……ゼ、ゼロ人です」
「あっはっは! やっぱりモテない三太くんじゃないか!」
腹を抱えて笑い出す笹山を、三太は赤面状態で睨む。
「うわ、この教師やっぱりマジ最悪や! 生徒を苛めて楽しむ最悪の教師や! PTAに協議にかけられて、さっさとこの学校から追放されちまえ!」
「悪いが、俺はPTAの奥様方とすこぶる仲良くしてもらっているから、お前の望みは到底叶わないと思うぞ?」
「むきぃ~!」
三太は見えないハンカチを噛み締めて唸った。
一方、笹山は余裕の笑みを浮かべたまま、指先でさらりと前髪を掻き上げた。
「……さて、下らない与太話はここら辺で切り上げて、さっさと行くぞ」
笹山はスタスタと歩き出す。
「あ、ちょっと待ってよ~」
「キモい小芝居はやめろ」
「うわ、マジひどいわこの教師」
三太はふくれっ面になり、渋々といった様子で笹山の後を追う。
「ていうか、先生。どの教室使うんすか?」
「ん? ああ、旧校舎の教室だよ」
「え、何でわざわざ旧校舎なんて行くんすか? 隙間風とか吹いて寒いでしょ?」
「外はぽかぽか春の陽気だよ」
「いや、そうやけど」
「あ、分かった。お前お化けが出そうで怖いんだろ?」
笹山が意地の悪い笑みを浮かべて言うと、三太はびくりと肩を震わせた。
「な、なな何をおっしゃいますのん! 俺は歴とした日本男児、つまりは侍魂の持ち主です! そんな幽霊ごときにビビる訳ないやろうが!」
「へえ、すごいね」
「うわ、マジ冷めた目線とか……それ生徒に向ける目やないからね。ていうか先生、幽霊的な悪寒とかそういうんじゃないけど、俺ちょっと足震えて来たわ。てか、トイレ行きたい。行って来て良いすか?」
「良いぞ。旧校舎に着いたらそこのトイレを使え」
「ダメなの、もう漏れるぅ!」
「あっそう、じゃあ漏らせば。俺は悲しいよ、高校二年生にもなる自分の教え子が、よもや廊下で無様に小便を垂らすなんて。実に悲しいことだ」
笹山は目元を片手で覆って、わざとらしく落胆の色を見せた。その様を見て、三太はがっくりと肩を落とした。
「……はあ、分かりましたよ。ていうか、別にトイレとか行きたくねえし」
「知っていた。下らない逃亡を図るのは止せ」
「分かりましたよ。悪辣な教師の下僕となった哀れな三太くんは、大人しくあなた様の言うことを聞きますよーだ」
「はは、本当に可愛くないガキだな」
「今ガキって言った!? ホント、教師の風上にも置けないよこの性悪教師!」
三太の戯言なんて何のその、笹山はそよ風のごとく受け流してスタスタと廊下を歩いて行く。三太は尚もふくれっ面のまま彼の後を付いて歩く。
この美野(みの)高校は十数年前に校舎が新築された。その際、旧校舎は取り壊される予定であったが、諸々の事情でそのまま残ることになったらしい。新校舎とは吹き抜けの渡り廊下で繋がっている。コンクリート造りの小奇麗な新校舎から一転、木造のすすけた旧校舎に足を踏み入れると、どこかじめりとした空気に包まれるようだった。まだ季節は梅雨でもないのに。
「マジで湿っぽい校舎っすね、色々な意味で」
「まあ、古いからな」
二人が歩みを進める度に、ギシギシと音が鳴る。これだけ老朽化が進んでいるなら、とっとと壊してしまえば良いのに。まあ、色々な思い出が詰まっているとか何とかで、手放すのが惜しいのだろうか。そんなことを考えながら歩いている内に、前を行く笹山の歩みが止まった。
「ここだ」
それは旧校舎の奥にある教室だった。じめっとした旧校舎の中でも、よりじめっとした空気が漂っている。正直、近寄りたくない。
「先生、マジでここで補習するんすか?」
「ああ、そうだよ」
「いや、何て言うか、こんな環境じゃロクに勉強も捗らないと思うんですけどね~。俺は普通にきれいな校舎の教室で勉強したいな~、って思うんすけど。」
まあ、そもそも勉強自体したくないのだが。その一言は心に胸にしまっておく。
「はは、そう言うなって。ここでしっかりと頑張って勉強をすれば、お前にとってきっと良いことがあるから」
「はあ、そうっすか」
三太は気の無い返事をした。そんな彼にふっと微笑みかけ、笹山は教室の扉の取っ手に指をかける。建付けが悪いせいか、軋む音を立てながら扉は重苦しく開いた。
三太はかったるい気持ちでいっぱいになり、頭をぽりぽり掻きながら教室に入った。
「ん?」
直後、目を丸くした。そこには先客が三名いた。
長方形のテーブル席、その右側には華やかなメイクをした少女が腕組み状態で座っていた。その向かい側の席には爽やかな笑みを浮かべる少年、さらにその隣には小動物のように愛らしい少女がいた。彼ら彼女らを見て一瞬言葉を失う三太だったが、すぐに息を吹き返した。
「あれあれ、そちらにいらっしゃるのはカリスマギャルの武藤咲輝(むとう さき)さんじゃありませんか。その上爽やかイケメンの春日井健人(かすがい けんと)くん、そして可愛い小動物系の百瀬日向(ももせ ひなた)ちゃんまでいらっしゃるやん」
彼らの姿を一通り眺めて、それから三太は横にいる笹山を見た。
「何なに、学園の人気者達が揃い踏みやないか。まあ、俺が一番人気者やけど。先生、わざと?」
にやにやと笑う三太の問いかけに対して、笹山はおもむろに口を開く。
「ああ、そうだよ。学園で人気者の君達を集めたんだ」
「ちょっ、マジか先生? 一体、何をするつもりなん? これから補習をやるんやないの?」
「ああ、ちゃんと補習をやるよ。君達にとって、大切な補習をな」
含みのあるその物言いに、三太は首を傾げた。
「俺達にとって大切な補習?」
眉をひそめる三太から視線を外し、笹山はテーブル席に座っている三人の生徒を見つめた。
「ねえ、先生。あたし放課後マジで忙しいんで、早く帰してもらいたいんですけど」
派手な茶髪の毛先をくるくる指先で弄びながら、武藤咲輝が言う。
「そうだね。俺もこの後予定があるから、なるべく早く済ませてもらえるとありがたいです」
爽やかかつ柔らかな笑みを浮かべながら、春日井健人も同意する。
「なあ、君もそう思うだろ?」
その笑みを湛えたまま、健人は隣に座っている少女に声をかけた。
「へっ? あ、えと……わ、わたしも出来れば早く終わると嬉しいかなって……思います」
ただでさえ小さな身体をより縮こまらせて、俯き加減で百瀬日向は言った。
「ほらぁ、先生。みんなもマジで萎えてる感じじゃん。もうさ、とっとと解散しちゃおうや?」
両手を水平に掲げて、呆れたように三太が言う。
「ダメだよ、明石家。俺はこれ以上、可愛いみのむしである君達を放って置くことは出来ないんだ」
淡い苦笑を浮かべながら笹山が放った言葉を、三太はすぐに飲み込むことが出来なかった。
「……え? いや、みのむしって何すか?」
三太は半笑いしながら尋ねた。
だが、笹山はその問いかけに答えず、彼以外の生徒達をじっと見つめていた。その焦点がやがて、身を縮こまらせている日向を捉えた。
「百瀬」
笹山が呼ぶと、その華奢な肩をびくりと震わせた。おずおずと顔を上げる。
「まずは君からだ。その隠れ蓑を脱いでくれないか?」
その笹山の発言に対して言われた当人は元より、三太達も困惑の色を示した。
「へっ? か、隠れ蓑っていうのは……?」
「とぼけないでくれよ。君自身も分かっているだろ? 今の君は本当の姿を晒していない」
「そ、そんなことはありません。わたしは何も隠してなんか……」
「いや、君は隠している。その実体を隠し続けている。今までも、そしてこれからもずっと隠し通すつもりか? それはとても息苦しいことなんじゃないのか?」
笹山はあくまでもにこやかに微笑みながら言った。しかし、そこには得体の知れない威圧感が潜んでいるようで、傍から見ていた三太達も思わず息を呑んでしまう。当人である日向は、身をより一層縮こまらせて顔を俯けてしまった。
「……ちょ、先生。何か怖いっすよ。ていうか、百瀬さんも嫌がっているみたいやし。その辺にしておきなって」
三太がたしなめるように言った直後、がたりと椅子が鳴った。
ハッとして振り向くと、それまで椅子の上で縮こまっていた日向が立ち上がっていた。改めて見ると、小動物系として人気を博すだけあって、小柄で起伏に乏しい身体のラインをしている。それがまた女子にとっては愛らしく、一部の男子の熱視線を集めて止まないのだろう。
日向はその小さな拳をぎゅっと握り締め、小刻みに震わせている。三太達はそんな彼女の様子を見開いた目で見つめていた。
するとふいに、日向が制服の胸元に手をかけた。ゆっくりとそのボタンを外して行く。突然のことに、三太達はぎょっと目を剥いた。日向の頬は既に真っ赤に染まっていたが、彼女はその手を止めることなく、開いたブラウスの胸元に自らの手を差し入れた。自分の胸元をまさぐって、一体何をするつもりだろうか? すると、シュルルと何かが解ける音が聞こえた。彼女の胸元から出て来たのは白い布のような物だった。三太達は首を傾げたまま、両腕で胸元を覆い隠している日向に視線を注いでいた。
「百瀬、ここまで来たんだ。もう自分の実体を晒しなよ」
どことなく威圧感を孕んだ柔らかい口調で、笹山が言った。
日向は顔面を真っ赤にしたまま躊躇していた。
しかし、やがて観念したように、その両腕を取り払った。
次の瞬間、三太達の視界に飛び込んで来たのは、制服のブラウスを押し上げる豊かな二つの膨らみだった。開いたその胸元には、深い谷間が生じている。そこから突発的に大いなる引力が働き、視線が釘付けにされてしまう。
「こ、これは……」
三太達はにわかに衝撃を受けて、ろくに言葉を紡ぐことが出来なかった。それまで起伏に乏しかった日向の身体のラインに、メリハリが生まれた。多少アンバランスではあるが、一部分が突き抜けてメリハリしていた。
「まさか、あの小動物系と言われていた百瀬さんが……実は巨乳ちゃんやったってことか?」
にわかに慄く三太の横で、笹山がこくりと頷いた。
「そうだ。これが彼女の実体だ」
そして、羞恥に震える日向を手で指し示して言った。
「……って、いやいや。先生あんた何言ってんすか!?」
三太は目をひん剥いて笹山に食って掛かる。
「何澄ました顔で『これが彼女の実体だ』……とか言っちゃってんすか? これ百瀬さんに隠れ巨乳晒させてストリップさせたいだけでしょ? あんた実は変態なんすか?」
「はっはっは! 嫌だな、この俺がそんな変態な訳ないだろう」
「いや、でも現に……」
「変態は俺じゃないよ。……なぁ、春日井?」
呼ばれた当人は、一瞬表情を強張らせる。それから、わずかに困惑の色を浮かべて微笑んだ。
「あの、先生。何をおっしゃるんですか? 俺は別にそんな変態じゃありませんよ」
「そうっすよ、先生。だって春日井くんは超さわやかイケメンボーイで通っているんすよ? 女子にはモテまくりだし、マジ羨ましい限りやわ~」
三太は援護射撃をするように言った。しかし、笹山は不敵な笑みを崩さない。
「良いんだよ、春日井」
「え?」
「もう、我慢する必要は無いんだ。ほら、解放してごらん。本当のお前を」
その声は相変わらず囁くように優しく、それでいて相手を服従させるような膂力を兼ね備えていた。三太は背筋がゾッとした。
気が付けば、それまで爽やかな微笑みを浮かべていた健人が顔を俯けていた。
「おい、春日井くん? どないした?」
三太が声をかけても彼は俯いたままだ。首を傾げた三太は再び声をかけようとした。
「――おっぱいいいいいいいぃ!」
次の瞬間、けたたましい声が鳴り響いた。
ぎょっと目を見開く三太の視線の先では、ハアハアと肩で息をしている健人がいた。
「おい、春日井くん……?」
声をかける三太を無視して、健人がぐりんと顔を向けて見据えたのは、胸元をはだけている日向だった。彼女はびくりと身体を震わせる。
「……いや、正直マジでビビったよ。百瀬さんってマジで可愛いけど、俺はどちらかと言えばむっちりセクシーな子がタイプだからさ。それほど眼中に無かったんだけど……そのおっぱい、何で今まで隠していたんだよぉ!」
それまでの爽やかな笑みはすっかり崩壊し、血走った眼で日向に迫る。口の端からはハア、ハアという、嫌らしいオスの吐息が漏れていた。
「すっげえ、そのおっぱい何カップあんの? ていうか、ちょっとアンバランスじゃね? けど、それがまたそそるぜ!」
「あ、あの……」
「なあ、一つお願いがあるんだけど。そのデカい胸で『おっぱいドリブル』させてくれないか? なあ、良いだろ!?」
「ひいっ!?」
すっかり変態の本性を晒した健人に対して、日向は完全に怯えきった表情で後退った。
そんな彼女に対して、健人はじりじり迫って行く。
「ダメだ、もう我慢出来ない……」
彼は顔を俯けて、力を溜める様にぐっと膝を曲げた。次の瞬間――
「――うおおおおおおっぱいいいいいいいいぃ!」
健人はダイブした。彼の求める胸に向かって。
「……ひゃっ」
突然のことに日向は叫び声も上げられず、怯えて身を屈めた。
本能剝き出しの変態がそのふくよなか胸に飛び込む寸前――立ちはだかった笹山にいなされて床に転がった。勢い余ってそのまま入口の扉に激突する。
「ぐはああぁ!」
悲痛な呻き声を漏らし、健人はそのまま床に沈んだ。身体中がピクピクと痙攣している。
「……あ、ありがとうございます」
にわかに大いなる恐怖に襲われた日向は、涙目で笹山に礼を言った。
「はは、当然のことをしたまでだよ」
そんな日向に対して、笹山は優しく微笑んだ。
その様を見て、この人も何だかんだで教師なんだと三太は思ったが、しかし日向を危機的状況に追い込んだのもまた彼であることから、やはり最低の教師ということに違いなかった。
「……うわぁ、マジでキモ」
それまで場の様子を静観していた咲輝が、ぼそりと呟いた。相変わらず、憮然とした表情で髪の毛先を指でくるくると弄んでいる。
「爽やかイケメンボーイが実は超弩級の変態とか、ファンの女子達がさぞかし失望するでしょうね。まあ、あたしは最初(はな)から興味が無いからどうでも良いけど」
「おやおや、武藤。随分と冷めた物言いだな」
笹山が言うと、咲輝はふんと鼻を鳴らした。
「てか先生、もうこの空間から解放してくれないかな? あたしマジで帰りたいんだけど。友達が駅前のバーガーショップで待たせてるし。買い物とかも行かなきゃなんだよ」
腕組みをした状態で、きつい視線を笹山に突き刺す。
彼は薄らと微笑んだ。
「そうだな、帰って良いぞ」
「え、マジで?」
咲輝はわずかに目を丸くする。
「ああ、その前に……」
咲輝に歩み寄った笹山は彼女の肩にぽんと手を置き、すっと耳元に口を寄せた。
「……今この場で、君の実体をきっちり晒すことが出来たらな」
直後、つけまつげに縁取られた彼女の目が大きく開いた。
「は、はあ? 先生、マジで何言ってんの? あたし、別にこいつらみたいにキモい本性とか、何も隠してないし」
咲輝はそのまま、笹山から視線を背ける。だが、彼は執拗に彼女に迫る。
「本当か?」
笹山はすっと目を細めた。
「本当に君は、何も隠していないのか? いや、本当の君は隠れていないのか?」
「あたしは、別に……」
それまで強気の姿勢を保っていた咲輝の言葉に、勢いが無くなっていた。すっかり尻すぼみしてしまう。ギャル特有の言葉の刺々しさが削がれつつあった。
「なあ、もう観念して本当の自分を晒したらどうだ? そうすれば、楽になるぞ」
またしても彼女の耳元で囁く。その姿は今の笹山の不気味な雰囲気も相まって、悪魔めいたおぞましさを感じてしまう。傍から見ていても震えてしまうのだから、直にその囁きを受けている咲輝の精神には多大なるプレッシャーがかかっていることだろう。
咲輝は顔を俯けたまま、黙り込んでしまった。
「恥ずかしい自分を晒したくないのは分かる。けど、今この場にいるのは君と同じ境遇、同じ穴の狢たちばかりだ。だから、恥ずかしがる必要なんて無いんだよ」
優しく、諭すように、笹山は言う。
それは硬く縮んでしまった心を解きほぐすような、危険な温もりを孕んでいた。
時代の流れに取り残されてしまった旧校舎の教室に、まさしく時間が止まってしまったかのような静寂が訪れた。グラウンドの方から、野球部のかけ声が響いて来る。
ふいに、咲輝が顔を上げた。テーブルの上に置いていた鞄を開き、ごそごそとその中身をまさぐる。数秒後、その手が握っていたのは小さなスタンド鏡と両端がきゅっと締まっている袋だった。
咲輝はテーブルに鏡を立てると、じっと自分の顔を見つめた。それからおもむろに目元へ手を伸ばし、つけまつげを外した。そして、袋から一枚の濡れたシートを取り出す。一つ深呼吸をした。
次の瞬間、目にも止まらぬスピードで自らの顔面を拭き始めた。しゃかしゃかと忙しなく右手が動き回る。あまりの高速作業に、三太達は何が起きているのか把握出来なかった。
やがて、咲輝の右手がスローダウンして動きを止めた。
すっと右手が下りて、その顔が露わになる。三太達は目を丸くした。
「え……?」
それまで華々しくギャルギャルしかった咲輝の顔が一変していた。つけまつげが取れたことで痛烈な印象を与えていた目元は柔らかくなり、またチークやラメ、その他諸々の化粧品が消え去ったことで、どこかあどけない顔立ちになっていた。
呆然と佇む三太達を見て、咲輝は大きくため息を吐いた。
「……あ~あ、やっちゃった」
そう言った直後、ぐったりと身体を傾けて、テーブルに頬から寄りかかった。
「どうせなら、髪も崩したらどうだ?」
笹山がきれいに整えられている咲輝の茶髪を見て言った。
「ん~、でも何だか面倒くさいから良いです」
ぐったりとした様子で咲輝は力なく答えた。
三太は自らの本当の姿を晒したことで彼女が精神的にショックを受けているのかと思ったが、どうやら違うようだった。彼女はむしろどこかリラックスしているように見えた。
「あ~……枕欲しい。先生、枕ちょうだい」
それまでの気丈な声質とは打って変わって、甘えるような口調で咲輝は言う。
「そんな物は無いよ」
笹山は笑顔で切り捨てた。
「え~? マジでありえないんですけどぉ」
口の先を尖らせて不満を漏らす。その口調にはまだギャルの名残があるものの、言葉の鋭さは一切無い。有体に言って、今の彼女は平常の華やかなカリスマギャルとしての尊厳を完全に失っていた。
「うっわー、マジかいな。あの武藤咲輝が、まさかこんな奴やったなんて。これを知ったら憧れている奴らはみんな幻滅しちゃうやろな~。ああ、悲しい悲しい」
三太はけらけらと笑いながら、からかいの言葉を投げた。
すると、笑顔を浮かべていた笹山の瞳が一瞬冷徹な光を孕み、彼を刺す。
「おい、明石家。さっき俺が言ったこと、聞いていなかったのか?」
「はい?」
「ここに集まった奴らはみんな同じ穴の狢だって言っただろ? あ、もしかしてその言葉の意味が分からなかった? 悪い、悪い」
小馬鹿にされた三太は、むっとした顔付きになる。
「いや、分かるし。ていうか、先生。そうは言うても俺は違うからね。こいつらみたいに隠している本性とか、そんなものは無いからな?」
「ふーん、そっか」
「そうだよ、先生。せやから、もうこんなくだらない集会はやめてとっとと……」
「――あっはっはぁ!」
唐突に、笹山が高笑いを発した。
「は、はぁ? あんた、何がおかしいんや?」
三太は困惑しつつ彼を睨む。
「いや、随分とまあ白々しい嘘を吐きやがるなと思ってさ」
「あん? 俺は嘘なんて吐いてないで」
「いや、吐いている。お前は大嘘を吐いているよ、明石家」
笹山は不敵に微笑んだ。それが三太の癇に障った。
「う、うるせえんだよ! ていうか、訳分からねえっすよ! 俺はいつだってお喋りで、周りのみんなを笑かして、そういう奴なんや!」
三太は叫んだ直後、ぜえぜえと肩で息をした。
対して、笹山はあくまでも余裕の表情だった。乱れた三太の呼吸が整うのを、黙って見守っていた。
「……なあ、明石家。お前、本当はそんな奴じゃないだろ?」
ゆったりと溜めて放たれたその言葉が、鋭く三太に突き刺さる。巨大な氷柱に心臓を射抜かれるようだった。
ハッとして顔を上げると、笹山が三太に微笑みかけていた。だが、その目は笑っていなかった。冷たい眼差しが彼を捉えていた。
「な、何を言うて……」
「お前、本当はそんな奴じゃないだろ?」
笹山は同じ言葉を繰り返した。
優しく冷たいその言葉が、三太の抵抗心をじわじわと削いで行く。それでもわずかに残った気力で、必死に抗う。抗う。抗う。抗う。
「……俺は嘘なんて吐いていない。俺はいつだってありのままや。ありのままの三太くんや!」
唇を噛み締めて息巻く三太の下に、笹山が歩み寄った。
その手が三太の肩にぽんと置かれる。
「明石家……もう無理をしなくても良いんだよ」
優しく囁かれたその言葉が、とどめとなった。
三太は身体の芯を抜き取られたように脱力し、その場に膝から崩れ落ちる。そんな彼の姿を見て、他の三人の生徒達は一様に驚愕の表情を浮かべた。彼はそのまま這うようにして、教室の隅っこへと向かい、三角座りでその場に固まった。
「おい、明石家。大丈夫か?」
笹山が声をかけると、三太はうずくまった状態でちらりと彼を見た。
「…………放って置いて下さい。僕は、僕は……」
その声には、先ほどまでの快活さも軽快さも無かった。
「ようやく、解放したな」
笹山は噛み締める様に言った。自らの殻に閉じこもってしまったような三太を見て、むしろ満足げに微笑んでいた。しんと静まり返った教室内をぐるりと見渡し、軽やかに口を開く。
「さて、本題に入ろうか」
2
武藤 咲輝
その整った顔立ちと抜群のファッション、メイクのセンスでカリスマギャルとして名を馳せている。多くの女子達から羨望の眼差しを集めている。放課後は専ら、同じギャル友達と駅前をぶらつき、ショッピングやファーストフード店で過ごすことが多い。
春日井 健人
爽やか雰囲気とイケメンっぷりに多くの女子達から人気が高い。ファンクラブも存在している。彼の誕生日が十二月二十四日、クリスマスイブであることから、毎年その時期にはファンクラブの女子達によって『春日井 健人の生誕祭』が開催されるほどだ。
百瀬 日向
愛くるしい小動物系として人気が高い。同じ女子からは可愛がられ、一部の男子からは熱狂的な視線を送られている。また、普段から顔色があまり優れないため、小動物系でその上病弱キャラということで、これまたコアな男性層に人気を博している。
明石家 三太
いつも多くの生徒達の中心にいる存在。その饒舌で巧みな話術により、周りの生徒達を爆笑の渦に巻き込んで行く。いつもバカ騒ぎを起こしているため、教師から叱責をもらうことしばしば。だが、その明るい性格で評判は決して悪くない。エセ関西弁はご愛敬。
「そんなものは真っ赤な嘘だ」
笹山は下らない書類を投げ捨てるように言った。
「今この場で晒している姿こそ、君達の本当の姿だ」
両手を大きく広げて笹山は言う。だが、集められた生徒達は反応しない。その様子を見て、彼は小さく吐息を漏らした。
「初めに断っておくが、俺は決して君達を苛めるためにこの教室に集めた訳じゃないんだぞ」
「じゃ、じゃあ……何のために集めたんですか?」
大きく膨らんだ胸元を隠しながら、日向が問いかけた。
「それはもちろん、将来君達が健やかな生活を送るためだよ」
「健やかな生活? それ本気で言っているんですか? こんなキモい本性を晒して、そんな生活を送れる訳ないでしょうが」
ぎろりと睨みを利かせて言うのは健人だ。
「そうか、キモいって自覚はあるんだな」
「当たり前でしょうが」
「まあ、そりゃそうか。だからこそ、君達は隠れ蓑を作った。本当に可愛らしいみのむしちゃん達だ」
「ねえ、さっきからあたし達のことを『みのむし』とか言って、何なの? バカにしているの?」
机にぐったりと頬を押し付けたまま、咲輝が笹山を睨んだ。
「そんなことはないさ。言っただろ、可愛らしいみのむしちゃんだって」
「ウザ、ムカツクんだけど」
「そんな風に干物状態で言われても、何の迫力も無いぞ」
笹山がにこりと微笑んで言うと、咲輝は眉根を寄せたが、すぐに力なく表情を緩めた。せめてもの抵抗心だろうか、口の先を尖らせている。
「君達はみんな隠れ蓑を作った可愛らしいみのむし達だ。今まで頑張って一生懸命作ったであろうその隠れ蓑。申し訳ないが、俺は脱ぎ去って欲しいと思っているんだ。これから君達には、そのための活動をしてもらいたい。そして、今ここに『みのむしクラブ』を発足する。顧問はもちろん、この俺だ」
親指で自らを指し示し、笹山は言う。
「はあ? 何勝手に決めてるの? あたしはそんな訳の分からないグループに所属するなんてごめんだから」
「俺も同感だ。そんなのやってられるかよ。ねえ、百瀬さん?」
「へっ? あ、はい。そうですね……」
三人の生徒達から反対されるが、笹山は余裕の微笑みを浮かべていた。
「まあ、そうだな。君達の反応は最もだ。言っておくが、俺は決して強要しない。あくまでも、決めるのは君達自身だ。そのことを肝に銘じておくんだな」
笹山の言葉で、また水を打ったように教室内が静まり返る。
「だったら、あたしはもう帰るし」
咲輝はおもむろにテーブルから顔を起こし、椅子から立ち上がろうとする。
「そうか。けど、そんな顔でこの教室を出ても良いのか? まあ、俺としてはむしろ推奨したいくらいだが」
笹山に言われて、咲輝は自分の顔を擦った。目を見開き、再び着席すると、鞄からメイク道具一式を取り出し、勢い良くメイクを開始した。その様子に触発されたのか、日向も泣きそうな顔になりながらさらしを胸に巻こうとする。
「あ、あの……」
その最中、日向が何かもの言いたげな視線で男性陣を見つめた。だが、二の句が継げずに押し黙ってしまう。
「ちょっと、男子。いつまでそこにいんのよ。女子がお色直しするんだから、察して出て行くのが礼儀でしょうが」
メイクを施しているためか、咲輝の言葉に鋭さが戻っていた。健人は喉元にナイフを突きつけられたように呻いた。
「あ、そうだね。けど……」
身を引きつつも、健人の視線はせわしなく前が開いたブラウスから覗く豊満な日向の胸に向けられていた。自然、ハア、ハアと息が漏れてしまう。
「出て行け、このクソ変態野郎」
刺すような咲輝の視線と言葉を受けて、健人は観念したように立ち上がった。
「わ、分かったって」
冷や汗をかきながら、彼はそそくさと教室の扉へ向かう。
「よし、じゃあ今日はこれで解散にしようか。それから、明日の放課後もこの教室に集まるように。良いな?」
笹山の問いかけに、生徒達は答えなかった。だが彼は特に気分を害した様子もなく、口元に微笑を湛えた。
「さて、それじゃあ我々男性陣はとっとと教室から出ようか。……おい、明石家。いつまでもそんな風に隅っこに固まっていないで、行くぞ」
笹山が声をかけると、三角座りをしていた三太はびくっと震えた。それからおもむろに立ち上がると、生気を失ったような顔で笹山の下に歩み寄る。男性陣は教室を後にした。
「それじゃあお前ら、気を付けて帰れよ」
廊下に出ると、笹山がそう言った。三太と健人は複雑な面持ちのまま会釈をして、その場を後にした。旧校舎の軋む廊下を歩き、吹き抜けの渡り廊下を進んで行く。
「なあ、あのさ……」
気まずい沈黙を打ち破るように、健人が声を発した時だった。
「……いや~、参ったでほんまに!」
突然、三太が威勢の良い声を張り上げた。健人はぎょっと目を剥く。
「あんな古臭い旧校舎の一室に閉じ込められて、ほんまひどい目に遭うたで。やっぱり笹山先生は悪辣な教師やで。本格的に訴えてやろうかしらん。なぁ、春日井くんもそう思わんか?」
健人は目を見開いたまま固まっていたが、
「あ、ああ。そうだね。笹山先生も良い年なんだから、あんな悪ふざけはやめて欲しいよ」
「ほんまやな。せや、今日のこと職員室で言いふらしたろか」
「やめておきなって。まあ、先生も悪気があった訳じゃないみたいだし」
「いやいや、あの教師はああ見えて、悪意の塊やで。イケメンにはほんまロクな奴がおらん。あっ、春日井くんは別やで」
「あはは、俺もそんな良い奴じゃないよ」
「うわ、眩しい。その笑顔ホンマ爽やかで眩しいわ」
「よせって」
二人の笑い声が重なって辺りに響き渡る。
下らない時間を過ごしている。なぜだかそんな思いが胸の奥底に湧き上がって、紡ぐ言葉がどこまでも上滑りして行くようだった。
3
昇降口で内履きシューズに履き替えて歩き出す。
「おっ、明石家。おはよう」
「おう、おはようさん。今日もお日柄がよろしいこって!」
「あはは、何言ってんだよ」
廊下を歩き同級生と顔を合わせる度に、軽快な喋りをして笑かす。
「健人くーん、おはよう」
「ねえねえ、一緒に教室に行こうよ」
「あっ、ズルイ。抜け駆けしないでよ」
振り向けば、女子達に囲まれている爽やかイケメンがいた。
「じゃあ、みんなで一緒に行こうか」
その爽やかなスマイルを見せられ、女子達はすっかり骨抜きにされていた。そんな女子達を伴って歩く彼と視線が合った。一瞬、空白の時が生じる。
「いやぁ、相変わらずモテモテで羨ましいな~。そのハーレム要員、一人くらい俺に分けてくれんか?」
にこにこと明るい調子で三太が言う。
「あはは、ハーレムとかそんなんじゃないよ」
「うわ、眩しい。その爽やかスマイル眩しい。男の俺でも惚れてしまいそうやわ~。もういっそのこと、俺も君のハーレムの一員に加わってええか? ほらたまには変わった趣向も楽しんだらええやん」
「おいおい、明石家。何朝っぱらからホモ宣言してんだよ」
「そうだよ、三ちゃん。ゲロ吐きそうになるから勘弁してよ」
「何を言うてんねん。そら、男くさい奴らがホモってたら気色悪いけど、俺らイケメン二人の絡みなら全然アリやろ。むしろ、トキめくやろ。ほら、最近流行りのBLって奴や!」
「いやいや、明石家がイケメンとか無いわ。明石家は良いとこ三枚目だろ」
「だよね~」
「っておい! 何言うてくれてんねん!」
ギャハハハ! 三太を中心に爆笑の渦が巻き起こる。
にわかに生じた喧騒の脇を、縮こまった身体で通り抜けようとする少女がいた。
「どうしたの、日向? そんな怯えなくても良いよ。またB組の明石家がバカやっているだけだから」
「う、うん……」
日向はこくりと頷く。
「おいおい、そこの女子さん! 誰がバカやっているって?」
三太はビシッと女子を指差して言う。
「だから、あんたよ!」
「何を言うてるんや。俺の喋りは全て計算付くや。ただバカみたいな喋っている訳ちゃうわ!」
「あー、もううるさいな。ほら、日向も怯えちゃってるじゃない」
「おー、よしよし。大丈夫だからね」
友達の女子に撫でられる日向は、まさしく小動物のようであった。そんな彼女の姿を見て、男子達は口元を綻ばせる。
「いやー、マジで和むわ。俺ロリ趣味とか無いけど、癒されるわ~」
「だよなー。うちの学校のロリコン層はみんな日向ちゃんを狙っているからな。気を付けた方が良いぞ」
「分かっているわよ。もしうちらの日向に手を出したら、タダじゃおかないから」
女子達は鋭い眼光を放ち、そのまま日向と共に廊下を歩いて行った。去り際、日向がちらりとこちらを見たような気がした。そしてさらに視線を巡らせると、健人がじっと日向を見つめていた。
「健人くん? どうしたの?」
取り巻きの女子が尋ねた。
「あ、いや。何でもないよ」
健人は爽やかな微笑みを浮かべた。すると、女子はうっとりと顔を綻ばせる。
「ええな、春日井くん。イケメンは笑うだけで女を落とせる。俺みたいな三枚目は、死ぬほど喋り倒してようやく見向きしてもらえるんやで」
「てか、結局三枚目って受け入れてんじゃねえか」
「本当だね~」
「そうや。俺は素直な良い子、明石家三太くんやで!」
ぐっと親指を立てて三太が言うと、友人達だけでなく、健人やその取り巻きの女子達も笑っていた。
「ねえ、ちょっと邪魔なんだけど」
ふいに、鋭い声が背中に突き刺さる。振り返った三太の視界に、華やかなギャルの集団が映った。その集団を率いているのは、カリスマギャルの咲輝だった。今日もバッチリと決めたメイクに、オシャレに着崩した制服姿からカリスマのオーラを放っている。それに気圧されたせいか、他の生徒達はたじろいで脇にずれた。そんな中で、三太だけは堂々と立っていた。
「これはこれは、朝っぱらからギャルギャルしいこって」
「はあ? 意味分かんないんだけど。つーか、どいてくんない?」
咲輝は刺すような視線を三太に向けた。
「言われなくてもどくで。下手に反抗して、そのやたらにキラキラした爪に引っかかれたらひとたまりもないからな」
「うっせ。苦労して施したネイルでそんなことする訳ないでしょ」
「そうでっか。ん? ていうか、今日もバッチリメイク決まっているけど、よく見ると目元にくまが出来てるで。ああそっか、そのネイルをしていたせいで寝入る時間が無かったんやな。何つって、ヒャハハ!」
三太が下らないオヤジギャグを飛ばすと、他の生徒達もゲラゲラと笑い出した。しかし、直後に咲輝が鋭い眼光を放つと、一様に大人しく口をつぐんだ。
「明石家、あんた相変わらずうざいわね。目障りだから消えてくんない?」
「おおきに、それはむしろ褒め言葉やで。俺はどこまでもうるさく、うざったい男や。今後とも、どうぞごひいきによろしくお願いしますわ!」
「はぁ……頭痛くなって来た」
咲輝はため息交じりに呟き、後ろに控えていたギャル友達に「行くわよ」と言ってスタスタと歩き去って行った。
「いやー、おっかなかった。おい、明石家。お前本当に怖い物知らずだな」
「ていうか、曲がりなりにもあの武藤と会話出来るとか、お前のコミュ力には本当に脱帽だよ」
「ヒャハハ、おおきに。まあ、この俺にかかれば余裕ってことやな」
大きく胸を反らし、三太は高笑いをした。
そうだ、これで良いんだ。
僕達は、これで良いんだ。
今の自分達で、上手いこと日常を送れている。
だから、このままで良いんだ。
◇
放課後を告げるチャイムが鳴ると、三太はぐっと背伸びをした。
「なあ、明石家。今日の放課後、何か予定あるか?」
クラスメイトの男子が声をかけてきた。
「ん、いや放課後は……」
――明日の放課後も、この教室に集合だ。
「特に予定は無いで」
「そっか。だったら、駅前で遊んで行こうぜ。カラオケとかどうよ?」
「おっ、ええな。そしたら、早速行こうや」
三太は勢い良く立ち上がると、クラスの友人達と共に廊下に躍り出た。
「でもカラオケとか久しぶりやな。よっしゃ、今日は俺の美声をとくと聴かせたる」
「あはは、何言ってんだよ。普段から喋り過ぎてガラガラ声のくせに」
「何を言うてんねん。とりあえず、ドリンクバーで飲みまくれば喉は潤うし問題なしや」
「あまり飲み過ぎると、小便行きたくなっちゃうよ」
「そしたら、お前らにひっかけたるわ。三太汁をブシャアァ! ってひっかけたるわ」
「うげぇ、マジで最悪だよこいつ」
ギャハハ! 三太を中心にして笑いが湧き起こる。
その時、前方から足音が聞こえたのでとっさに振り向いた。
静かな歩調でこちらに歩いて来るのは、笹山だった。
どくん。なぜだか、心臓が跳ね上がった。
表面上では笑顔を浮かべて友人達と談笑しつつも、心臓は落ち着きなく跳ね続けていた。
笹山とすれ違う瞬間、ひときわ大きく心臓が跳ね上がる。
だがしかし、笹山はこちらに声をかけることなく、静かに歩き去って行った。
「ん、どうしんだよ三ちゃん? 呆けた顔をして」
「……いや、何でもないで」
「そっか。じゃあ、早く行こうぜ」
階段を下りて昇降口に向かう。友人達が靴を履き替えている間、三太は自分の下駄箱に虚ろな視線を注いでいた。
――俺は決して強要しない。あくまでも、決めるのは君達自身だ。
なぜか、先ほどから笹山の放った台詞が何度も脳内でリフレインする。その言葉通り、自分が好きなように、今の日常を送れば良いのだ。このまま靴を履き替えて、友人達とカラオケに行って大いにはしゃぐ。そうすべきなのだ。それが自分の在り方なのだ。
「明石家」
声をかけられて、ハッと振り向く。友人が怪訝な目で三太を見ていた。
「どないした?」
「いや、それはこっちのセリフだよ。今日の明石家、何か少し様子が変だぜ」
「だよね。何か、時々ボーッとしてるし」
「そないなことあらへんで」
「そうか? なら良いけど。ほら、やっぱり明石家が元気に喋ってくれないと、何か盛り上がりに欠けるからさ。しっかり頼むぜ」
ポンと肩を叩かれた。
「おう、任せとけや」
三太はにこりと笑った。
そうだ、彼らもみんなそういう僕を期待しているんだ。
その期待に応える義務がある。彼らのために。何より、自分のために。
自分のため?
「よーし、じゃあ早く行こうぜ」
既に靴を履き替えた友人達は、連れだって昇降口から出て行こうとする。
「おーい、三ちゃん。早くしなよ」
笑顔でこちらに視線を向けて来る友人達に対して、三太もまたとびきりの笑みを浮かべた。
◇
建付けの悪い扉を開くと、そこには昨日と同じ面子が揃っていた。
「よう、明石家。よく来たな」
微笑みながら歓迎してくれたのは、笹山だった。
「けど良かったのか? 友人と遊びに行く予定だったんだろ?」
笹山が問いかける。
三太は一瞬間を置いてから、にかっと笑う。
「いやぁ、その予定だったんすけどね~。何か先生のこと思い出しちゃって、このままスルーしたら可哀想やなって思ったんすよ。せやから、あいつらとの遊びは断って来ました」
「そうか、そうか」
「けど、その心配は必要無かったみたいやな。何や、みんなも来とるみたいやし」
三太は長テーブルを囲んで座っている三人の少年、少女達を見て言った。
「いや、そんなことは無いよ。お前が来てくれて、俺はとても嬉しい」
「いやん、何なに? まさか先生、俺のことがそんなに好きなん? これは禁断の恋の始まりやで~!」
三太は両頬を押さえてわざとらしく身をくねらせた。
「明石家」
「何かしら、ダーリン?」
「この教室内において、隠れ蓑をかぶるのは禁止だ。本来の自分を晒せ」
「そんな、ダーリン。冷たいことを言わないでよ……」
「良いから、さっさと脱げ」
あくまでも微笑みを浮かべながら、笹山は言った。その言葉には、例の如く威圧的な力が込もっており、三太は気圧されてしまう。顔に貼り付けていた笑顔は脆くも崩れ去った。
それまでのハツラツとした雰囲気は跡形もなく消え去り、暗く陰鬱な表情になる。三太はそのまま、ふらふらと覚束ない足取りで教室の隅っこに向かい、三角座りでうずくまった。
「よし、良い子だ」
そんな三太の様子を見て、笹山は微笑む。それから、他の三人の生徒達を見た。
「という訳だから、この『みのむしクラブ』、略して『みのクラ』の教室において、隠れ蓑をかぶることは禁止とする。この場所では、本来の自分をさらけ出すこと。これは絶対条件だ」
笹山は言った。
「ほら、お前達もさっさと蓑を脱げ」
「はあ? 何命令してんの?」
鋭い目つきで笹山を睨むのは咲輝だ。
「おっと、失礼。俺は教師、君達は生徒という立場から、ついそういった口調になってしまうな。だが、改めて言っておく。俺は君達に強要をするつもりはない。あくまでも決めるのは君達自身だ。そして、君達は自分達の意志でまたこの場所に集まった。違うか?」
微笑む笹山に対して、咲輝は憮然とした表情になる。
「なあ、武藤。君はカリスマギャルでいることに疲れているんだろ? 本当は干物女としてぐうたら過ごしたいんだろ? そんな自分を晒すことが出来るオアシスとして、この場所を求めて来たんじゃないのか?」
一瞬、咲輝の表情が硬直した。
「は、はあ? 冗談じゃないわ。誰があんたみたいな性悪教師の下に好き好んで来るもんですか」
「じゃあ、君は何でここに来たんだい?」
「それは……あたしは先生なんて全然タイプじゃないけど、他の子達は先生のことが好きみたいだからね。この機会にアドレスでもゲットして、それをエサにあたしのグループを拡大しようと思っただけよ」
「へえ、そりゃ光栄だね。それじゃあ、アドレス交換をするかい?」
「え、マジで?」
「ああ。俺はこの『みのクラ』の顧問だ。今後、君達と連絡を取る必要が生じて来るだろう。そのために、アドレスを交換しておこうじゃないか」
笹山はスーツの胸ポケットからケータイを取り出した。
「さあ、赤外線通信しようじゃないか」
「うわ、先生と赤外線通信とか、何かキモいんですけど」
咲輝は露骨に表情を歪めた。
「はは、そんなこと言わずに。ほら、春日井と百瀬も」
笹山に促されて、健人と日向もおずおずとケータイを取り出した。
「ほら、明石家。お前ともアドレス交換するぞ。こっちにおいで」
笹山に促されても三太は隅っこでしばし固まっていた。やがて、おもむろに立ち上がると、陰鬱な表情でみんなの輪に近付いて来た。
「さて、じゃあ楽しいアドレス交換と行こうか」
その場で笹山だけが快活に微笑んでいた。
『脱みのむし計画』
黒板の真ん中に図太く書かれたその言葉を、長テーブルに横一列で座った生徒達は呆けた目で見つめていた。
「先生、何ですかその『脱みのむし計画』って?」
いの一番に口を開いたのは健人だ。
「その名の通り、可愛いみのむしである君達がその隠れ蓑を脱ぎ去り、美しい蝶となって羽ばたくための計画だ」
「ていうか、みのむしって蛾の幼虫でしょ?」
指摘をしたのは咲輝だった。メイクを落としたためかその口調は若干丸みを帯びたが、それでもまだ鋭さが残っている。
「おや、意外だな。武藤のくせにそんなことを知っているのか」
「バカにしないでくれる? てか、それくらい一般常識でしょ」
咲輝は頬杖を突いた状態で笹山を睨む。
「それは失礼した。まあとにかく、その『脱みのむし計画』を実行し、隠れ蓑を脱ぐことがこの『みのクラ』の目的だ。君達はそのメンバーとして、精一杯頑張って欲しい」
笹山は微笑んで言う。
「つーか、あたしまだ入るとか言ってないんですけど。こんな得体の知れないクラブに」
「そうか。まあ、何度も言っているが俺は決して強要はしない。決めるのはあくまでも、君達自身だ。……ただ、今からまたバッチリメイクをするのは正直億劫じゃないか?」
笹山が言うと、咲輝はむっと顔をしかめた。そのまま不機嫌な顔で黙ってしまう。そんな彼女の横顔を三太はちらりと見るが、その時に彼女と視線が合ってしまう。
「何よ?」
咲輝が不機嫌な表情のまま尋ねてくる。
「いやぁ、いつものバッチリメイク決めた顔も素敵やけど、メイクを落としたそのあどけない顔もまた素敵やで。そそるわぁ!」
普段の三太であれば、こんな風に軽快な口調でまくし立てることだろう。
「あっ、いや、その……」
しかし、今この場において三太の饒舌な喋りは封印されている。それが出来る隠れ蓑は奪われてしまった。そんな無力な彼に、為す術は無い。
「……ごめん」
「はぁ? ていうか、あんた本当にそれが素なのね。そんなキモい本性は隠しておいて正解よ」
「こらこら、武藤。今の発言は次からレッドカード出すぞ」
「良いわよ。退場してやるから」
「そうか。じゃあ、その可愛らしいスッピン姿のまま退場してくれ」
口の端を吊り上げて笹山が言うと、咲輝は苦い表情を浮かべて唇を噛み締めた。
「……あの、先生」
その時、かぼそい声がした。小さな手を小さく上げていたのは、日向だった。
「ん、百瀬。どうした?」
「その、先生が言っていたわたし達の隠れ蓑(?)を脱ぐために、具体的に何をすれば良いんですか?」
おずおずとした口調で日向が問いかける。
「百瀬、良い質問だ。『脱みのむし計画』における最初の活動として、君達には学生チャットをしてもらいたい」
「学生チャット……ですか?」
日向が小首を傾げた。
「そうだ。俺の知り合いが運営している学生のネットコミュニティがあってな。君達もそのチャットに参加してもらいたいんだ」
「でも先生、何でチャットなんですか?」
日向の隣に座っていた健人が尋ねる。
「ネット上のチャットなら、君達も本当のプロフィールを紹介しやすいだろ? 巨乳、変態、干物、そして根暗……本来の君達で他の学生達と交流することが可能だ」
「うーん、なるほど」
健人は腕を組んで小難しげに唸った。
「わざわざ『学生』に限定しているのは何で?」
気だるげな声で言うのは咲輝だ。
「ほう、またまた武藤のくせに良い質問だ」
「うるさい、死ね」
「おいおい、その発言もレッドカードものだぞ。ていうか、俺は仮にも教師なんだから、もっと敬いたまえ」
笹山は微笑みながらそう言った。朗らかだが、そこはかとない威圧感がある、彼独特のたしなめ方だ。咲輝はわずかにたじろぎ、口を開く。
「……ごめんなさい」
「よろしい。素直で可愛い生徒を持って、俺は幸せだよ」
快活に笑う笹山に対して、咲輝は悔しげに唇を噛み締めていた。その横顔を見つめていると、また視線が合った。
「だから、何よ?」
「あっ、いや……な、何でも」
キョドる三太に対して、咲輝は苛立ったような表情で口を開きかけるが、またぞろ笹山に注意を受けるのが癪に障ったのか、軽く鼻息だけ鳴らして大人しく口をつぐんだ。三太の心臓は落ち着きなく跳ねていた。
「さて、話を戻そうか。なぜ『学生』に限定しているかという話だが、それはチャットメンバーでオフ会を開くからだ」
「オフ会……って、ネットで知り合った人とリアルで会うやつですよね?」
健人が尋ねた。
「そうだ。学生に限定しないと、良からぬ大人もオフ会に来てしまうからな。特に社会人のおっさんなんて、女子高生を見ただけでハァハァ言い出すからな」
「キモ。先生もそうなの?」
咲輝が問いかける。
「はは、俺はそんなことしないさ。あくまでも可愛い生徒だからね」
「はん、どうだか。案外、ムッツリなんじゃないの?」
「何か言ったか?」
笹山が微笑みを浮かべると、咲輝はばつの悪い様子で押し黙った。
「でも、先生。ネットではいくらでも身分を誤魔化せるから、オフ会の時に学生の振りをした大人の人が来ちゃうんじゃないですか?」
遠慮がちに日向が言った。
「大丈夫だ。オフ会の際には、学生証の提示を義務付けているからな」
「ふぅん。それでも変質者が来たらどうすんの?」
頬杖を突きながら咲輝が尋ねる。
「その時は、俺が守ってやるよ。この命に代えてもな」
唐突に放たれたその言葉に、咲輝は目をぱちくりとさせた。
「……まあ、俺はオフ会に行かないんだけど」
「は、はあ? マジで意味不明なんだけど」
顔をしかめる咲輝に対して笹山は微笑み、生徒達を見渡す。
「じゃあ、改めて内容を整理しよう。まず、君達には知り合いが運営している学生チャットに参加してもらう。その際、嘘偽りない自分のプロフィールを紹介する。そして、チャットで交流をした学生達とオフ会でリアルに会い、そこで本来の自分達を晒す。良いな?」
生徒達は笹山の問いかけに対して、複雑な面持ちをしていた。
4
『そうなんだ、大変だね~』
『まあ、後輩が出来たことは嬉しいんだけどね』
『先輩風吹かすなよw』
『大丈夫、可愛がってるって』
『本当かよ~?』
『陰で苛めてたら、マジでダサいからやめとけよ』
『だから、そんなことしないって』
『ところで、来週の日曜日はオフ会ですね』
『そうですね。すごく楽しみです』
『早くみんなに会いたいな~』
『あたしはせっかくの日曜なんだし、家でゴロゴロしていたいです』
『はは、武藤さんは干物女なんだよね(笑)』
『そんなこと言わずに、来て下さいよ。最近加入した人達にはぜひ来てもらいたいです』
『わ、わたしは行きます』
『お、百瀬さん』
『ねえねえ、こんなことを聞くのもアレだけど……百瀬さんって巨乳なんだよね?』
『はう……そ、そうです』
『マジですか? 早く会いたいです。ちなみに、何カップあるんですか』
『あ、それ俺も気になるーw』
『ちょっと、男子。セクハラ発言は控えて下さい』
『いやいや、春日井くんの発言に比べたらマシでしょ?』
『うおおおおっぱいぃぃ!www』
『ちょっと、ちょっと、そんな俺をピックアップしないで下さいよ』
『春日井くんは変態なので来ないで結構です』
『うわ、ハブられてやんのw』
『あ、あの……僕も参加します。仲良くしてくれたら、嬉しいです……』
『明石家くん、ぜひ来てください』
『ここのメンバーはみんな良い人ばかりだから、人見知りの君もきっと馴染めるよ』
『あ、ありがとうございます……』
『……さて。じゃあみなさん、来週の日曜日にお会いしましょう』
◇
ギィ、と椅子の軋む音がした。
背もたれに寄りかかった状態で、天井を仰ぐ。
「……はあ」
三太はため息を漏らした。
これまで決して他人には見せなかった本性。見せるつもりなど無かった本性。
それを限定的ではあるが解放してしまった。笹山のせいで。あの悪辣教師め。
――俺は決して君達に強要はしない。
彼はあくまでもそう繰り返していたが、その言葉には形容しがたい威圧感があった。決して逆らえない、相手を服従させるような威圧感があった。恐らく彼のような人種をナチュラルSと言うのだろう。何だか無性に怒りが込み上げて来た。
三太は椅子から立ち上がると、おもむろに歩みを進めた。たどり着いた先は部屋の隅っこである。彼はそこで三角座りになった。湧き上がる怒りの根源である笹山、彼に対する恨みつらみを延々ぶつぶつと呟く。自分でも根暗な奴だと思う。ドン引きだ。こんな自分の姿、絶対に晒すべきではないのだ。けれども、賽は投げられてしまった。
「……はあ」
先ほどよりもひと際大きなため息を漏らす。
くそ、笹山め。上手いことやっていた僕の生活を狂わせやがって。
尽きることのない怒りの情念。その源泉たる笹山を自分の脳内世界で百回殺した後、三太はベッドに這い上って布団をかぶった。
◇
日曜日の朝。三太はバスに揺られていた。
オフ会が行われるのは駅前のコミュニティーセンターらしい。先日、登録していたアドレス宛てに案内メールが届いた。笹山の知り合いである草壁というチャットの運営者から送られて来た。その文面によると、草壁氏は積極的に仕切らず、あくまでも監督役として見守る立場にいるらしい。オフ会の進行は基本的に学生側に委ねるそうだ。そのことを知り、三太はますます気が重たくなった。大人が仕切ってくれる方が良かった。そうすれば、ただ呆けているだけでも時間は過ぎて行く。それが学生側に委ねられるとなれば、何かしらのアクションを起こさなければならない。見ず知らずの初対面の人達と。考えただけでも吐き気を催しそうになったので、バスの窓を開け放った。春の清涼感を抱いたその風によって、ほんのわずかばかり気分が楽になった。
バスが終点の駅前に着いた。三太はふらふらとした足取りで降りて、重い足取りでコミュニティーセンターへと向かう。同じ学校の知り合いに会わないかひやひやしながら、肩を縮こまらせて歩いて行った。
コミュニティーセンターには徒歩五分ほどで到着した。中に入ると『学生チャットオフ会』という看板が立ててあった。そこには笹山と同じ年くらいの男性が座っていた。
「オフ会の参加者ですか?」
視線が合うと、朗らかな笑みで声をかけられた。
「あ、はい。そうです……」
「どうも、チャット運営者の草壁です。お名前は?」
「えと、明石家三太です」
三太が答えると、草壁の眉がぴくりと跳ねた。
「そうか。君が明石家くんか。笹山から話は聞いているよ」
「え?」
「可愛い教え子だからよろしくってね。悪いけど、念のために学生証を提示してもらっても良いかな?」
「あ、はい……どうぞ」
「ありがとう、確認させてもらったよ。じゃあ、会場は一階にある三号室だから。このまま真っ直ぐに進んで、左奥の扉の部屋だよ」
「分かりました。ありがとうございます」
三太はぺこぺこと落ち着きなく礼を言って、言われた会場に向かおうとする。
「明石家くん」
ふいに、背後から草壁に呼び止められた。
「健闘を祈っているよ」
朗らかに微笑んで言う彼に対して、何と答えて良いか分からなかった。だから、曖昧に笑みを返して再び歩き出した。
オフ会の場には三十人ほどの学生が集っていた。オフ会の開始前から、彼ら彼女らは隣り合った者達と談笑している。幸いなことに三太はコの字型に並べられたテーブルの一番隅っこであり、隣の席にはまだ誰もいない。まだ誰からも干渉されることなく、息をひそめて空気のようになっていた。ちらりと視線を巡らせると、向こう側の席に健人と日向の姿を見つけた。二人は時折気まずい表情で相槌を打つばかりで、積極的に会話しようとしていない。無理もないだろう。今の自分達は居心地の良い隠れ蓑を失っているのだから。
会場の扉が開き、草壁がやって来た。
「おぉ、いっぱい集まったな」
テーブルに着席している学生達を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「みんな注目して下さい。改めて、簡単にごあいさつだけさせてもらいます。私はみなさんが利用してくれている『学生チャット』の運営者である草壁です。普段は主に学生向けのカウンセラーとして働いています」
カウンセラー。その言葉を聞いて、三太は胸の内がわずかにざわついた。もしかして、笹山は隠れ蓑をかぶる自分達が精神疾患者であり、カウンセラーによって治療してもらうために彼と引き合わせたのだろうか。勘ぐり過ぎかもしれないが。被害妄想が激し過ぎるかもしれないが。
「それでは、まず初めに一人ずつ自己紹介をしてもらいたいと思います。じゃあ、こちらからお願いします」
自己紹介は三太の間向かいから始まるようだ。つまり、三太はトリということになる。よもや、いきなりこんなプレッシャーを突き付けられようとは。
他の学生達はリアルで会うのは初めてにも関わらず、堂々と自分達のプロフィールを述べて行く。きちんと聞かなければいけないのに、湧き上がる吐き気を堪えるのに必死で、それどころではなかった。
「……以上です、よろしくお願いします」
パチパチパチ、と拍手が脳内で不快に反響する。
あぁ、もう帰りたい。今すぐ帰りたい。
三太が本気でこの場から退散したいと思っていた時、健人が椅子から立ち上がった。
「どうも、春日井健人です」
名前を述べると、会場内が少しざわついた。恐らく、変態の春日井くんが来た、とでも言われているのだろう。三太はじっと健人を見つめた。彼は他の学生達を見渡して、しばし口をつぐんでいた。やはり彼もまた、極限のプレッシャーと戦っているのだろうか。
すると、固い表情で口を閉ざしていた健人が、ふいに弾けるような笑みを浮かべた。
「今日はみなさんと会えてとても嬉しいです。こんな僕ですが、仲良くしてくれたら嬉しいです」
ちらりと白い歯がこぼれると、その笑みはより一層輝きを増す。その場を爽やかな風が過ぎ去ったような清涼感が溢れ出す。
そこには「うおおおおっぱいぃぃ!」などと叫ぶ変態性など微塵も感じさせることのない、とびきり爽やかな美少年が立っていた。
再び会場がざわついた。だが、それは先ほどのものとは質が違った。黄色い成分が何倍にも増していた。
「ウソ、かっこいい……」「超イケメンなんだけど」「爽やか……ステキ」
気が付けば、その場にいる女子達の目はすっかりハート型に変わっていた。彼の完璧に作り上げられた爽やかな微笑みは、一瞬で女子全員を落としてしまったのだ。
一方、男子達は戸惑っていた。
「え、ちょっと待って。もしかして、春日井くんって変態じゃないの?」「マジで? いじりまくってやろうと思ったのに……」「ていうか、イケメンとかふざけんなよ」「女子がみんなトキめいちゃってんじゃねえか」「一緒に『うおおおおっぱいぃぃ!』って叫びたかったのにな……」
そんな男子達の悲しげな声をよそに、健人はその完璧な爽やかスマイルですっかり女子達を虜にしていた。
健人は微笑みを浮かべたまま会釈をして、その場に腰を下ろした。
三太は他の男子と同様に、いやそれ以上に動揺していた。彼はチャットで語っていた自らの本性を晒すことをしなかった。直前で逃げたのだ。
ショックから冷めやらぬ内に、今度は日向が立ち上がった。彼女は胸元を隠すようにして、おどおどしている。
「は、初めまして。百瀬日向です……あの、その、み、皆さんに謝りたいことがあります」
日向の言葉に、全員が首を傾げた。
「じ、実はわたし……」
日向はぎゅっと目を瞑り、胸を覆い隠していた腕を取り払った。そこには、たわわに実った果実が姿を――見せることはなかった。真っ平だった。
「……きょ、巨乳じゃないんです。嘘を吐いてごめんなさい……」
突然のカミングアウトに、その場はしんと静まり返った。当然のことであるが、非常に反応に困ってしまう。助け船を出してやりたいのは山々であるが、三太も色々な意味でショックを受けて絶句していた。
「……いや、良いよ」
ふいに、男子の一人が声を漏らした。
「え?」
日向が泣きそうな顔で振り向く。
「確かに巨乳じゃないのは残念だけど……」「小動物系の貧乳少女……」「それもまた良い……」
男子達はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「自信を持って、百瀬さん。君はとても魅力的だ。可愛いよ、世界一可愛いよ」
気が付けば男子達は一致団結して、日向を愛で始めていた。先ほど健人が女子を虜にしたように、日向は男子を虜にしていた。ただ、その時と違う事態が生じていた。そんな日向に対して女子は嫉妬をせず、むしろ男子と同じように愛でる視線を送っていた。
「やん、あの子可愛い~」「妹にしたい」「抱きしめたい」「撫で撫でしたいよ~」
そんな声が溢れ出す。女子と言う生き物は不思議なもので、可愛い女子にとても好印象を抱いたりする。場合によってはその端正な容姿によって爪弾きにされてしまうこともあるが、日向の場合はその愛くるしさによって、良い方向に転がったようだ。
「ふぇっ……あ、あの……よ、よろしくお願いします」
いつの間にか、その場の雰囲気が和んでいた。日向という百獣の王さえも服従させてしまいそうな小動物ちゃんに、全員がメロメロになっていた。可愛いは正義とはよく言ったものである。
そんな中で、三太は絶句していた。日向まで土壇場で蓑を被ってしまったのだ。
想定外だったと言えば、嘘になる。彼らが直前で怯えて、隠れ蓑を被ってしまう可能性は十分にあった。むしろ、その可能性の方が高かった。それでも、やはり動揺してしまう。
呆然とする三太をよそに、めいめいの自己紹介は進んで行く。盛り上がった雰囲気の波が、次第に彼の下に押し寄せて来る。
一体、僕はどうすれば良いんだ。
三太は胸の内で叫ぶ。他の二人が隠れ蓑に逃げたのだから、自分もそうしたって文句は言われないはずだ。けれども、脳裏に浮かぶ笹山の微笑み。それが異様なまでの威圧感を放ち、三太を崖っぷちへと追いやる。他の二人は逃げたけど、お前は逃げるなよと。すぐ耳元で囁かれているような錯覚に捕らわれてしまう。くそ、何で僕ばかり。あの性悪教師め。
「じゃあ、次の人……っと、武藤さんはまだ来てなかったか」
草壁が苦笑交じりに言った。三太はそこでようやく、咲輝が来ていないことに気が付いた。それは決して彼女の存在感が薄いという訳ではない。あまりの緊張感に、つい失念してしまったのだ。
しかし、咲輝はどうしたのだろうか。彼女は隠れ蓑を被る以前に、そもそもこのオフ会をバックれたのではないだろうか。チャットでもそのような発言をしていたし。というよりも、彼女が欠席ということは、残る学生は三太だけだ。まだ気持ちの整理が付かない状態で、自己紹介の番を迎えてしまった。
恐る恐る視線を巡らせると、他の学生達の目が三太に集中していた。思わず身を引き、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。心臓の高鳴りは最高潮に達していた。
ここまで来たら、行くしかない。行くしかないのか。嫌だ。怖い。死にたい。いっそ殺して。
極限の精神状態に追い込まれた三太は、死刑囚のような面持ちで立ち上がろうとした。
その時、会場の扉が勢い良く開いた。にわかに全員の視線がそちらに集中する。
「……すみません、遅くなりました」
小さく頭を垂れて言うのは、咲輝だった。その姿を見た瞬間、他の学生達は明らかに戸惑っていた。
「……あの、どちら様ですか?」
男子の一人が恐る恐る尋ねた。
「武藤咲輝ですけど、何か?」
咲輝は彼を見据えた。その瞳は派手なつけまつげに縁取られている。目元はアイラインでびしっと引き締まっていた。指先で派手な茶髪の毛先を弄ぼうものなら、他の学生達はただ固唾を呑んで彼女の姿を見つめるしかなかった。干物の要素など、皆無である。
「やあ、ようこそ武藤さん。来てくれてありがとう」
緊張で固まった空気を解きほぐすように、草壁が朗らかに声をかけた。
「でも、どうして遅刻したいんだい?」
目上の大人を前にしても、咲輝は一切怯んだ様子を見せない。真っ直ぐに彼を見る。
「すみません、メイクに時間を取られてしまいました」
その堂々たる物言いに、草壁はわずかに口元を引きつらせた。
「あはは、確かに立派なメイクだね。そんなに時間をかけたのかい?」
「はい。メイクだけでなく、髪の手入れとかも込みこみで。だって、初対面の人達の前で恥をかく訳にはいかないでしょう?」
咲輝はくるくると、派手な茶髪の毛先を指で弄びながら言う。
「まあ、そうだね。その上で、時間もキッチリと守ってくれたら最高だったんだけどな」
皮肉交じりに草壁が言う。
「すみません。反省しています」
咲輝は素直に頭を下げた。その様子を見て、草壁は再び笑みを取り戻して頷く。
「いや、別に遅刻したことはそんなに怒っていないよ。ちょうど君の自己紹介の番だから、そちらの方でお願い出来るかな?」
草壁は三太の隣にある空席を示して言った。
「分かりました」
咲輝はスタスタと歩いてその場に向かう。途中、三太と視線が合うも、素知らぬ顔ですぐに逸らした。
「みなさん、遅れてすみませんでした。改めて自己紹介します。武藤咲輝です」
咲輝の華やかなギャルっぷりに気圧されているせいか、学生達の表情は硬かった。
「あの、一つ良いかな?」
男子が手を上げた。咲輝は彼を見やる。
「武藤さんは確か干物女だって聞いていたけど……」
他の学生達の気持ちも代弁するように彼は言った。咲輝はしばし無表情を貫いていたが、その口元がおもむろに動く。
「ああ、それは嘘です」
きっぱりと、いけしゃあしゃあと彼女は言った。
「私は干物女なんかじゃないわ。ご覧の通り、立派なギャルをやっています」
「でも、家の中だと干物じゃないの?」
緊張した面持ちで女子が問いかける。
「いいえ。家の中でもバッチリメイクしておしゃれしてるわ。まあ、寝る時はきちんとメイクを落としているけど。肌荒れが心配だから」
「あ、そうなんだ……」
質問した女子はすごすごと引き下がった。
会場内はまだざわついたままだったが、咲輝は小さく鼻を鳴らして席に座った。
「はは、本当に素晴らしいね……じゃあ、最後は明石家くんの番だ。よろしく頼むよ」
呆けた顔で咲輝を見つめていた三太は、びくりと肩を震わせた。微笑む草壁見て、それから他の学生達に視線を巡らせる。一応の同志である『みのクラ』の面々は、すっぽり自分の隠れ蓑に収まっていた。
何だよ、もう。人がせっかく断腸の思いでこの場に臨んで来たって言うのに。
ガタリと音を鳴らし、椅子から立ち上がる。三太は両の拳を握り締めた。
全く、ふざけやがって。もうやってられるか――
「――どうも~! 明石家三太でーす! 今日は美男美女揃い踏みで、何や大規模な合コンみたいですね! いや、婚活パーティー的な? って、俺らはまだ高校生やっちゅうねん! まあそんでも、今日はみなさんに会えてとてもラッキーやと思ってます。せっかくだから、仲良くなれたら良いなと思てます。とりわけ女の子と!」
立て板に水の如く三太が喋り切ると、ざわついていた会場はしんと静まり返った。
「あら? あらら? もしかして俺、のっけから大滑りしてもうたんか? せやったら、マジでショックやわ~。初舞台でコケた新人芸人の気分やわ~! ホンマ痛すぎるで!」
三太はわざとらしく額に手を当てて、天井を仰いだ。
「……あの、明石家くん?」
「ん、何や?」
「君は確か、とても人見知りだったはずじゃ……」
「ああ。それは嘘や」
三太は事もなげに言った。
「さっき俺のお隣にいらっしゃるギャル子ちゃんも言ったけど、俺らは嘘を吐いていました。けど、それは決して悪気があった訳やない。一種のサプライズを演出したかったんや。新参者の俺達がみんなと仲良くするためには、それくらいのインパクトが必要やと思ったんや」
そう言って、三太は隣の咲輝と、それから向こう側に座っている健人と日向に目配せをした。
「な? そうやんな?」
彼らはぎこちなく頷いた。
「あ、ああ……そうだったんだ。なるほどね」
他の学生達は少し苦笑を浮かべているが、怒りの情念は抱いていないようだ。それもこれも、三太の愛想良い笑顔と軽快なトークのおかげだろう。
「まあ、そういう訳やから、みなさん今後とも仲良くしてくれると嬉しいです。ほな、早速始めましょか。楽しい婚活パーティーを!」
「いや、だからそれは違うでしょ」
男子の一人が突っ込むと、三太は目をきらんと輝かせる。
「ええな~。今の突っ込みはええで~! そんな感じでバンバン俺をいじってや! 俺案外Mの素質あるから、いたぶられるの好きやねん!」
「うわ、何言ってんだこいつ」「軽すぎだろぉ」「てか、よく喋るな~」
ギャハハハ! ギャハハハ! ギャハハハ!
またしても、三太を中心に爆笑の渦が巻き起こる。
これで良いんだ。この方がよっぽど良いんだ。
5
新校舎に比べて、木造の旧校舎はやはり何となく湿っぽい空気が漂っている。そして、その教室内は陰鬱な空気に満ちていた。
「オフ会のことは、草壁から聞いたよ」
教壇に立つ笹山がそう切り出すと、長テーブルに横一列で座っている三太達は、ばつの悪い表情を浮かべた。
「多くの学生が集ったそのオフ会において、君達は注目の的となったそうじゃないか……春日井」
ぴくり、と健人は肩を跳ね上げた。
「お前はその爽やかイケメンっぷりから、多くの女子達に囲まれていたそうだね」
「いや、それは……」
健人は口ごもる。
「百瀬」
次に呼ばれた日向は、びくりと肩を震わせた。
「君はロリ体型で愛らしい小動物系として、みんなから可愛がられたそうだね」
「えと、あの……」
日向もまた、口ごもる。
「武藤」
呼ばれた咲輝は、頬杖を突いたまま笹山を睨んだ。
「君はそのカリスマギャルっぷりで他を圧倒し、特に女子達は君に心酔したようだね」
「…………」
咲輝はどこか苦い表情を浮かべてそっぽを向いた。
「それから、明石家」
最後に呼ばれた三太は、既に青ざめた表情だった。
「お前はみんなの輪の中心となり、オフ会を大いに盛り上げたそうだな」
「…………」
彼もまた、無言を貫いた。いや、言葉を紡ぐことが出来なかった。
「いやいや、結構なことだ。君達が他の学生達と交流し、相変わらずの人気を博した。さぞかし楽しかったことだろうな。結構、結構……」
笹山は頷いて、それからとびきりの笑顔を浮かべた。
「反省しろよ、みのむし共」
優しい微笑みから、とんでもない罵声が生じた。その顔と言葉のギャップに、三太達は慄いてしまう
「俺がせっかく隠れ蓑を脱ぎ去る機会をくれてやったというのに、お前達はそれをふいにしたんだ。現場でその様子を見ていた草壁も言っていたよ。お前達にはがっかりだとね。全くもって同感だ。繰り返し言わせてもらおう。反省しろよ、みのむし共」
優しかった笹山の微笑みがとうとう裂けてしまう。ぎらりとした眼光が三太達を捉えて離さない。普段からそこはかとない威圧感を漂わせていた彼が、今は容赦なくそれを放っている。そんな彼に対して怯えていた三太達だが、おもむろに咲輝が口を開いた。
「ちっ……自分こそ腹黒な性格を隠しているくせに……」
小声でぼそりと呟いたその言葉は、しっかりと笹山の耳に届いていたようだ。
「俺は別に自分の腹黒さを隠してなんかいないよ。まあ、教師の立場として普段はそれなりに抑えているが。生徒達は俺のことを『実はS』だのなんだの、陰で好き勝手に言ってくれているみたいだしな」
「うわ、それ自分で言っちゃうとかキモいし」
「キモくて悪かったな」
笹山は余裕の笑みで返す。
「ていうか、そもそも何で本性を晒す必要があるのよ? 先生はあたしらだけが本性を隠しているみたいに言うけど、あたしら以外にもそんな奴らはたくさんいるでしょ? 何であたしらばかり責めるのよ?」
「俺は別に責めてなんかいない。君達に健やかな人生を送ってもらいたいから、そう言っているんだ」
「だったらさ、放っておいてくれないかな? あたしらは今まで上手くやって来たんだ。これからも上手くやって行くんだ」
「けど、今のままじゃ崩壊するぞ」
「え?」
咲輝は眉をひそめた。
「君達は、隠れ蓑と本性のギャップが特に激しい。そんな状態でこれからも生きて行くんだとしたら、あまりにも辛すぎる」
それまで放たれていた笹山の威圧感が薄まった。改めて彼の表情を見ると、その瞳がどこか悲しげに揺れているような気がして、三太達は困惑した。
「……ふん。余計なお世話なのよ。あたしの人生は、あたしが決める。いち教師が偉そうにでしゃばらないでくれるかな?」
咲輝はテーブルに置いていた鞄を乱暴に担ぐと、早足で教室の扉に向かった。
「待て、武藤」
笹山が彼女を呼び止めた。
「うるさい」
「だから、待つんだ」
「もう、うるさいってば! あたしはねえ……」
「そのままスッピンの状態でここを出るつもりか?」
笹山が指摘すると、咲輝はまっさらな状態の自分の顔に手を這わせて、急激に顔を真っ赤に染めた。早足で席に舞い戻ると、鞄からメイクセットを取り出し、猛烈な勢いで作業を始めた。
「あの、先生」
おもむろに、健人が手を上げた。笹山は彼に振り向く。
「先生が先生なりに俺達のことを心配してくれているのは分かりました。先生が言うことにも一理あります。……けど、俺はやっぱり怖いです。隠れ蓑を脱ぐことが。ありのままの、変態の俺じゃ、女子に嫌われちゃう……それは嫌なんです」
訥々と語る健人を、他の三人は黙って見つめていた。
すると、健人は席から立ち上がった。彼はとびきり爽やかなスマイルを浮かべる。
「ごめん、みんな。俺は今日でこの『みのクラ』を脱退するよ」
グラウンドから届いて来る野球部のかけ声が、静まり返った教室内でよく反響した。
健人は無言の彼らを見渡し、それから改めて笹山に視線を向けると、深々と頭を下げる。
それから、彼は鞄を担いで教室を出て行った。
「……何度も言っているが」
沈黙を打ち破るように、笹山は声を発した。
「俺は決して強要はしない。あくまでも決めるのは君達自身だ」
そう言って、彼はちらりと腕時計を見た。
「今日はもう解散にしよう。お疲れさん」
微笑んで笹山が言うと、三太はまだ困惑の表情を浮かべていたが、席から立ち上がった。
まだメイク途中の咲輝とさらしを巻く日向を残して、一人教室を後にした。
◇
「じゃあ、健人くんまたねー」
「ああ。みんな、気を付けて帰るんだよ」
彼の爽やかな微笑みに見送られて、女子達はご満悦の様子で帰路に向かって行った。
駅前の広場に佇む彼は、小さく吐息を漏らした。いつもなら、このままバスで自宅方面に向かう所だ。しかし、健人はバスターミナルから遠ざかって行く。駅を離れてそのまま歩いて行く。しばらくして雑踏は消え去り、静かな河川敷に出た。西に沈みかけた夕日の光を存分に浴びて、水面がきらきらと輝いている。その眩しさに健人は目を細めた。
「ん?」
ふと、土手に見覚えのある人影を見つけた。小柄な少女が一人、その場に佇んでいた。健人は彼女の下に近付いて行く。
「百瀬さん?」
健人が声をかけると、土手に佇んでいた日向はぴくりと反応した。
「あ、春日井くん……」
「まだ帰っていなかったの?」
「うん」
「そっか……」
しばし、沈黙が生じた。
「あのさ、隣良いかな?」
健人が尋ねると、日向はこくりと頷く。その仕草を見て、健人はほっと胸を撫で下ろして座った。
「百瀬さんの家って、この辺りなの?」
「うん」
「じゃあ、俺の家と結構近いんだね」
「あ、そうなんだ」
そこで、また沈黙が生じてしまう。
モテる健人は女子との会話に慣れている。だが、日向は彼の本性を知っている。だから、いつものように爽やか好青年の蓑を被った所で、あまり意味をなさない。かと言って、健人は巣の状態で女子と話したことはほぼ無いに等しい。だから、彼女と何を話せば良いのか分からなかった。
「……ねえ、春日井くん」
ふいに、日向が声をかけて来た。
「何だい?」
「春日井くんって、小さい頃から変態だったの?」
思わぬストレートな物言いに、健人は絶句してしまう。言った本人も、自らの口元を押さえて赤面した。
「ご、ごめんなさい。いきなりこんなことを聞いて……」
「あ、いや。別に良いんだけど……」
小さな身体を更に縮めてしまった日向を横目で見ながら、健人は口を開いた。
「……自分で言うのも何だけどさ、俺って昔から顔が良かったんだよ。だから、小学生の時も女子にモテていたんだ」
「そうなんだ」
「でもある時さ、学校の帰り道にエロ本を見つけたんだよ。あの瞬間は今でもよく覚えている。めちゃくちゃ興奮してドキドキしたよ。ずっと憧れていたエロ本に出会った瞬間だった。こっそり服の中に隠し入れて、そのまま持ち帰って読んだ」
その時の光景を脳裏に思い浮かべながら、健人は語り続ける。
「それでさ、あまりにも興奮しちゃって、次の日に学校でみんなに自慢したんだよ。男子からは羨望の眼差しを受けたんだ。……けどさ、それまで俺に好意を抱いてくれていた女子達はドン引き。あっと言う間に嫌われちゃったんだよ。まあ、無理もないよな」
あはは、と健人は乾いた苦笑を漏らす。そんな健人を、日向は口をつぐんで見つめていた。
「けどさ、やっぱり女の子に嫌われるってのは、男にとっては辛いことでさ。だから、俺は決めたんだよ。この変態っぷりは封印しなきゃいけないって」
そこまで語り終えて、健人はハッとして日向に顔を向けた。
「って、ごめん。こんな話をしちゃって」
健人が言うと、日向は首を小さく振った。
「ううん、わたしが聞いたことだから」
「ありがとう。あのさ、俺も一つ聞いて良いかな?」
「うん、良いよ」
頷く日向を見て、健人は一度小さく息を吸い込んだ。
「百瀬さんって、昔からおっぱいが大きかったの?」
「へっ!?」
日向はあからさまに動揺して、目をぱちくりさせた。直後、健人は自らの失言を悔いた。
「ご、ごめん。いきなりそんな風に聞いて……」
「う、ううん。お互い様だよ」
そう言う日向の顔は先ほど以上に赤く染まっていた。
「あの、嫌だったら話さなくても良いからね。まあ、俺としてはメチャ気になる所だけど……って、そんなことないから!」
すっかりテンパってしまった健人は、両手をせわしなく振った。
「大丈夫。春日井くんも話してくれたから、わたしも話すよ」
日向は小さな、小さくしている胸に手を置いて、深呼吸をした。
「……わたしは昔から、身体が小さかった。同じ年の女子達と比べても一回り小さかった。身長が伸びないことに悩んだりもした。けどその分……胸は成長していたの」
健人は思わず喉をごくりと鳴らす。
「そのせいで、男子達からは『おっぱい! おっぱい!』ってよくからかわれていた。じろじろ見られたり、ふざけて触られたりして……」
「何だと、そいつは羨まけしからん!」
つい反射的に叫んでしまった健人は、ハッとして口をつぐんだ。驚いて目を丸くした日向に対して詫びる。
「あ、ごめん。つい興奮しちゃって」
「う、ううん。大丈夫」
日向は伏し目がちに言う。せっかく彼女が身の上話をしてくれているのに、何たる失態だ。健人は自らの有り余る性欲を大いに嘆き、元の路線に戻そうと口を開く。
「じゃ、じゃあ。日向ちゃんはそのせいで男子からエロい目で注目されるのが嫌になって、胸をさらしで隠すようになったの?」
「それもあるけど……」
「けど?」
「男子から見られることは凄く恥ずかしいけど、それくらいならまだ我慢出来た」
「じゃあ、何で巨乳を隠すの?」
健人が問いかけると、日向は顔を俯けてしまう。しばらく沈黙の時が続いたが、健人は根気よく日向の次の言葉を待っていた。
「……嫌われちゃうから」
か細い声で、日向は言った。
「え?」
「友達に嫌われちゃうから……」
「それってどういうこと?」
「胸が大きいと、同じ女子に嫌われちゃうから……」
その言葉を聞いて、健人は口をつぐむ。
「男子達から胸のことでからかわれていた時、わたしは恥ずかしくて仕方がなかった。すぐにでもやめて欲しかった。けど、女子達にはそんなわたしが男子にもてはやされて調子に乗っているように見えたみたいで……仲間外れにされちゃったの」
「そう、だったんだ……」
「それまで仲良しだったんだけどね、わたしの胸が大きくなって男子達に注目されるようになってから、『あんた調子に乗るなよ』って言われて……わたし嫌われちゃったの」
「百瀬さん……」
「だからね、わたしはまたみんなと仲良くなりたくて、胸を小さくするために努力をしたの。それでも胸は成長するばかりで……」
「それで、さらしを巻くようになったんだ」
日向はこくりと頷いた。彼女は胸の前で小さな拳を握り締めた。
「あのね、もしわたしが憶病じゃない性格で、背ももっと高かったら、例え巨乳でも仲間外れにされることはなかったと思うの。みんなは憶病で弱いわたしが巨乳で男子の注目を集めたから、気に入らなかったんだと思う。わたしはみんなよりも劣った存在だから、可愛がってもらっていたんだ」
「そんな、君は……」
「良いの、もう割り切っているから。正直、胸はまだ成長しているし、さらしで巻いて隠すのはちょっと苦しい。けど、友達に嫌われないためだったら、わたしは我慢出来る」
日向は淡く微笑んだ。その表情を見ていると、健人は胸を締め付けられるようだった。
「……そっか。そうだよね、友達を失うことは辛い。俺も女の子から嫌われるのは辛い。だから、やっぱり隠れ蓑は必要だよ。笹山先生は俺達の健やかな生活のためって言ったけど、むしろそのために、自分達を守るために隠れ蓑は必要だよ。少し息苦しい時もあるけど、それでも……」
「あのね、春日井くん」
健人の言葉を遮るようにして、日向は口を開いた。
「え?」
「その、わたしは今までなら我慢出来るって思っていたの……けど、あの旧校舎の教室で、限られた人達の前だけど自分の本来の姿を晒して、解放感を覚えたの」
「解放感……?」
「うん。恥ずかしくて、恥ずかしくて仕方ないんだけど、胸の内がスッキリすると言うか……何だか気持ち良いって思っちゃったの。……って、ごめんなさい。こんなこと言ったら、変態みたいだよね」
「いや、大丈夫。変態は俺だから」
健人が言うと、そこで日向が初めて笑った。
「そうだね。春日井くんはすごい変態だもんね」
「改めて言われると傷付くな~」
「はっ、ごめんなさい」
「いやいや、気にしなくても良いよ」
健人は笑い飛ばした。夕焼けに染まった空を仰ぐ。その眩しさに、目を細めた。
「……百瀬さん。いや、日向ちゃん」
「へ?」
日向は目を丸くして健人を見た。
「明日の朝、俺のクラスに来てよ」
「どうして?」
「日向ちゃんに見せたいものがあるから、来て」
そう言って、健人はにこりと微笑んだ。
日向はしばし戸惑いの表情を浮かべていたが、やがて小さく頷いた。
「うん。分かった」
「ありがとう。それじゃあ、また明日」
健人は立ち上がり、その場から颯爽と立ち去って行った。
6
朝の廊下には、賑やかな笑い声が響いていた。
「いやー、眠いわ。ホンマ眠いわ」
三太は目をこすりながら言う。
「どうしたの、三ちゃん? 寝不足?」
隣を歩く友人が尋ねてきた。
「そうやねん」
「まあ、昨日は授業でたくさん課題が出たからね。そのせいで寝不足なの?」
「いいや、ちゃうねん」
「え、じゃあ何をしていたの?」
「スラダンを読んでた」
「そうなの?」
「ああ。全巻読破や」
「それじゃあ、課題は?」
「何も手を付けとらんわ!」
三太は大仰に笑って見せた。
「いや、それ胸を張って言うことじゃないから!」
「ええやん。ていうか、早速やけど課題のノート写させてくれんか?」
「え~。自分でやりなよ」
「ええやん、ええやん。お礼に後でうまい棒おごったるさかい」
「随分と安い報酬だね」
「アホ、うまい棒は安いけど美味いんや。その名に偽りなく美味いんや!」
「ああ、もう分かったよぉ」
「おおきに、前払いとしてキスしたるわ」
「うげぇ、気持ち悪いからやめてよ」
そんな風にバカ話に花を咲かせていた時、前方から女子に囲まれて健人がやって来た。
一瞬、昨日の出来事が脳裏を過った。すぐに振り払う。
「よう、春日井くんやないか! 今日もまたぎょうさん女の子連れて羨ましいな~。一人くらい俺に分けてくれんか?」
出合い頭に三太が軽口を叩くと、健人は爽やかな笑みを浮かべた。
「ダメだよ、明石家くん。女の子を物みたいに言っちゃ」
健人が言うと、取り巻きの女子達は「いやん、健人くん優しい~」と口々に言った。
「あら、それは悪かったのぅ。デリカシーに欠ける男ですんません」
三太は参ったとばかりに後頭部を掻いた。
「そうだ、明石家くん。ちょっとうちのクラスに来るかい?」
「春日井くんって、確かC組やったっけ?」
「そうだよ」
「何や、そこで可愛い女の子を紹介してくれるんかいな? 太っ腹やな~」
「はは、違うよ。ちょっと面白い物を見せてあげようと思って」
「面白い物?」
三太は首を傾げた。
「ああ。君のギャグよりも、よっぽど面白い物をね」
健人がにこやかに微笑んで言うと、三太は一瞬呆けた顔になる。
「……へ、へぇ。それは随分と期待値高めなこと言うてくれるやん。ほなら、ちょっくら遊びに行ったろうかね」
「ちょっと三ちゃん、課題のノートは写さなくても良いの?」
友人に指摘された。
「あ、せやった。じゃあ悪いけど、お前が写しておいてくれ」
そう言って、三太は自分の課題ノートを手渡した。
「三ちゃん、それはひどいよ!」
「そう怒るなって。分かった、お礼のうまい棒を二本にしてやるから、それで一つよろしく頼むわ」
友人の背中を強引にバシバシと叩く。彼は渋々了承して、二年B組の教室に入って行った。
「ほな行こか。とびきりおもろいもん、期待してるで」
「ああ」
そのまま、三太は爽やかに微笑む健人の後に付いて、二年C組の教室に足を踏み入れた。
「あれ、明石家じゃん。何でうちの教室に来てんの?」
男子に声をかけられた。
「いや~、春日井くんにお呼ばれされてん。何や、これから春日井くんがおもろいもんを見せてくれる言うから、俺は興味津津で付いて来たんや」
「え? 春日井くんが何かやるの?」
ふいに振り向いた女子達に対して健人は微笑む。それから踵を返すと、教壇に向かった。
「みんな、ちょっと良いかな?」
健人の爽やかな声はざわついていたクラスメイト達の耳にすぐ届き、彼ら彼女らは振り向いた。
「突然だけど、実は俺みんなに隠していることがあるんだよ」
健人の言葉に、クラスメイト達は即座に反応した。
「え? 健人くんが隠していることって何?」
「俺さ、すごく好きな物があるんだよ」
微笑む健人に対して、特に女子達は色濃い反応を示した。
「えー、健人くんが好きなものって何だろう?」「サッカーとか? 体育の時メチャ上手くてかっこ良かったじゃん」「でも、それじゃ隠し事じゃないじゃん」「あっ……健人くん、もしかして彼女がいるとか?」「嘘、マジで!? そしたら死ぬんだけど! 健人ロスが生じちゃう!」「もう明日から学校休む!」
にわかに女子達が阿鼻叫喚する中、健人は落ち着いていた。
「いや、彼女はいないよ」
にこりと笑って健人が言うと、半狂乱の女子達はほっと胸を撫で下ろす。
「ねぇ、健人くん。勿体ぶらないで教えてよ」
「分かったよ。ちょっと待っていて」
そう言って、健人は教壇に置いた鞄の中をごそごそと漁る。
「俺が好きな物は……これだよ」
健人が取り出したのは一冊の本だった。
「……え?」
女子達は口を半開きにして絶句した。
その表紙には、あられもない姿で身悶えする、セクシーな女性が描かれていた。
「……ね、ねぇ健人くん。それは……?」
震える声で尋ねた女子に対して、健人はにこっと微笑んだ。
「エロ本だよ」
2年C組の教室は一瞬にして凍結した。それまで喜色を浮かべていた女子達の表情は一様に青ざめている。一方、その元凶たる健人はにこやかに微笑んでいた。
「ちょっと見てくれよ、このお姉さんの爆乳。隠してる腕からこぼれんばかりのボリューム感。くぅ~、たまんねえよな! まあ、こんなに胸がデカい女子なんて滅多にいないけど。俺の周りにいる女子達も結構胸デカい子いるし。そうじゃなくても、腰とか脚のラインとかマジそそる子もいるし。俺はいつでもむしゃぶりつきたいと思っていたんだぜ」
爽やかだった健人の笑みが、いつの間にか歪んで嫌らしいそれになっていた。舌なめずりをして、恍惚感に浸った目で女子達を眺める。今まで彼と視線が合えば胸がトキめいていた女子達は、そのエロ目線を受けてぞくりと背筋が凍ったような顔になっていた。
「なあ、お前達もそう思わないか? やっぱりデカい胸は最高だよな?」
突然話題を振られた男子達は、困惑した表情で互いを見合った。
「そうか、そうか。やっぱりデカイ胸が好きなんだな」
まだ何も答えが帰って来ていないにも関わらず、健人は得意げに頷く。
「そんなおっぱい星人の男子諸君に、とっておきのかけ声を教えてやろう。良いか、俺の後に続くんだぞ?」
健人は困惑する男子達を見渡した。大きく息を吸う。
「――うおおおおっぱいぃぃ!」
その絶叫は強靭な槍の如く、凍結した教室に突き刺さりひびを入れる。
「……さあ、男子諸君。一緒に叫ぼう」
健人は男子達の顔を見渡す。
「うおおおおっぱいぃぃ!」
困惑する男子達はすぐに反応することが出来ない。
「うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「う、うおおっぱい……」」」
「声が小さい! うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「う、うおおおっぱい!」」」
「うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「うおおおおっぱい!」」」
「その調子だ! うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「うおおおおっぱいぃぃ!」」」
「うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「うおおおおっぱいぃぃ!」」」
「うおおおおおっぱいぱいいぃぃ!」
「「「うおおおおおっぱいぱいいぃぃ!」」」
反響する男子達の雄叫びが、健人の槍に更なる膂力を与えた。
凍結していた教室は木っ端みじんに砕け散った。
「……はあ、はあ」
教壇に立つ健人は、荒い吐息を漏らす。その時彼が浮かべていた表情は、爽やかイケメンの風体を完全に損なっていた。それは歪で汚らわしいオスの顔。だが、今まで以上に活力に満ちた表情だった。
健人は荒くなった呼吸を整えて、女子達を見た。そこには生気を抜かれたように佇む集団がいた。
「嘘よ……嘘だと言って」「私達の健人くんが、こんな変態な訳ない」「これは何かの夢よ。そうだわ。ねえ、私の頬を引っぱたいてちょうだい」「えい!」「痛っ……夢じゃ、ない……」
絶望に染まった女子達の顔を見て、健人は小さく唇を噛み締めていた。
にわかに混沌へと誘われた教室は、緩やかに収束へと向かって行く。
女子達はひざから崩れ落ち涙を流す。
男子達は謎の高揚感に包まれたように、呆けた顔をしていた。
「いやー、しかし春日井がまさかこんなおっぱい好きの変態だったなんて。夢にも思わなかったぜ」
男子の一人が困惑と興奮が入り混じった表情で言った。他の男子達も一様に頷く。
「……わ、わたしは知っていたよ」
ふいにか細い声が割って入ったので、全員が振り向いた。
その場に現れた少女の姿を見て、三太は目を見開く。
「春日井くんがおっぱい好きの変態だってこと……わ、わたしは知っていたよ」
愛らしい小動物系として人気を博す彼女が現れたことで、男子達は色めき立った。
「日向ちゃん……来てくれたんだ。見ていたかい? 俺の勇姿を」
健人が問いかけると、日向はこくりと頷く。
「うん、見ていたよ。春日井くんの変態っぷり、ちゃんと見ていたよ」
「そっか、良かった」
健人は優しく微笑んだ。
「わたしのためだよね? 春日井くんがこんな風にみんなの前でカミングアウトをしたのは」
「うん、まあね。けど、俺自身も解放したいって思ったから。本当の自分を。めっちゃ怖かったけどさ、やってみたら案外平気だよ。ていうか、超気持ち良い」
爽やかに歪んだ笑みを浮かべて、健人は言った。
「そっか、そうなんだ……」
日向はきゅっと小さな手を握り締めた。
二人のやり取りを、周りは困惑した表情で見つめていた。
すると、日向がおもむろにブラウスのボタンに手をかけた。ゆっくりと外して行く。開いた胸元から手を差し入れ、小さな手がその中で蠢く。その様を見て男子達はハアハアと吐息を漏らしていた。
しゅるり、と何かが解ける音が鳴る。日向の胸元から白く平べったい物が引き出された。
日向は両腕で胸元を押さえた状態で赤面する。事態をまだ把握出来ていない男子達は、充血した眼で彼女を見つめている。
「……わ、わたしが何で春日井くんがおっぱい好きって知っていたかと言うと。それは、それは……」
日向の華奢なら肩のラインが震えている。その様子を、周りの者達は固唾を呑んで見ていた。
日向が唇を噛み締めた直後、胸を覆っていた両腕が取り払われる。
そして露わになったのは、開いたブラウスの胸元から覗く、深い谷間。先ほどまで平坦だった胸のラインが急激に膨らみ、はち切れんばかりの勢いでブラウスを押し上げている。
「――春日井くんがわたしの巨乳を嫌らしく見つめていたからです!」
平素はか細い声の彼女が、今この時ばかりは割れんばかりの叫び声を発した。
平べったい大地に突如として出現した双丘、いや双子山。彼女が身じろぎをする度にたぷん、たぷんと揺れるその圧倒的重量感に、思春期真っただ中の男子達は括目せざるを得なかった。先ほどの健人のかけ声の影響もあってか、彼らの息はぴたりと合っていた。
「「「デ、デケえええええぇ!?」」」
合わさった声は教室内に反響する。
「ひうっ!?」
日向はびくりと身を震わせた。
「嘘だろ? あの愛らしい小動物系の日向ちゃんが、こんなに巨乳だったなんて!」「いわゆるロリ巨乳って奴か?」「正直、俺はロリ趣味無いから日向ちゃんをそんな目で見ていなかったけど……今度から見る目変わるわ」「つか、マジデカい。何カップあるんだろ?」
ぎらりと輝く男子達の視線が、日向に集中した。彼女はまたびくりと震える。涙目状態でちらりと健人に目配せをした。すると、彼は彼女に対して優しく微笑んだ。その笑みが彼女の背中を押したようにい見えた。
「……エ、Fカップです」
涙目で恥じらいながら言う日向の姿が最高にいじらしく、また男子高校生にとって魅惑的なその数値を聞き、彼らのボルテージは一気に臨界点を突破した。
「「「デ、デッケええええええええええぇ!?」」」
教室のガラス窓を破壊するような大音響が生じた。いつの間にか湧き立つ男子達に囲まれた日向は、まさしく小動物のように怯えていた。
「おい、お前達!」
そんな男子達に健人が叫んだ。彼らは一斉に振り向く。
「今こそまさに、あの言葉を叫ぶ時だ」
健人が口の端を吊り上げてにやりと笑うと、男子達もまた同様の笑みを浮かべた。
健人はそれまで以上に大きく息を吸った。
「――うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「うおおおおっぱいぃぃ!」」」
「うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「うおおおおっぱいぃぃ!」」」
「日向ちゃんのおっぱいは~?」
「「「マジ最高おおおううぅ! ふうううううぅ!」」」
男子達の魂の叫びが轟く。教室内はすっかり混沌(カオス)状態となっていた。
「「「おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい!」」」
エロ感情に支配された男子達は既にお祭り状態となっていた。思春期男子の性欲は計り知れない。騒ぎを聞きつけてやって来た教師達が必死に取り押さえようとしても、しばらくの間そのバカ騒ぎが収まることは無かった。
◇
旧校舎の教室にて、教壇に佇む笹山は大きくため息を吐いた。
「清く正しくあるべき男子高校生が、教室内で卑猥なバカ騒ぎ。その首謀者たるお前は大いに反省しなければならないぞ、春日井」
腕組みをして述べる笹山の言葉を、健人は神妙な面持ちで受け入れていた。
「あ、あの先生」
その時、日向がおずおずと手を上げた。
「春日井くんは、わたしのためにあんなことをしてくれたんです。わたしが本当の自分を解放してみたいって言ったから、わたしのために……」
俯く日向を見て、三太と咲輝は複雑な面持ちを浮かべた。
「気にしなくても良いよ、日向ちゃん」
ふいに、健人が優しい声で言った。
「俺があんな風に自分をさらけ出したのは、罪滅ぼしの意味もあったんだ」
「え?」
その言葉に日向だけでなく、三太と咲輝も首を傾げた。
「ほら、この前のオフ会。みんな本来の自分をさらけ出そうって気合を入れていたのに、俺が初めに隠れ蓑に逃げちゃっただろ? そのせいでみんなの気合が削がれちゃって……だから、俺が初めに蓑を脱がなくちゃいけないって思ったんだ。もちろん、日向ちゃんを勇気づけたいって思いもあったけどさ」
「春日井くん……」
「あー、でもやっちまったな。見たでしょ、あの時の女子達のドン引きした表情。俺はもう一生忘れないね。はは、爽やかイケメンでモテモテの健人くんは無残にも死んじゃったよ」
健人は天井を仰いで自虐的な高笑いをした。
「……けどさ、不思議と後悔はしていないんだよね。むしろ、清々しいくらいだ。こんなこと言うのもアレだけど、すげえ楽しかった。教室であんな風に『おっぱい!』って叫んでさ」
その言葉は決して虚言では無かった。どこか憑き物が落ちたような健人の横顔を見れば、彼が嘘を吐いていないことは明白だった。
「でも先生。俺がやったことはいけないことですよね。良いですよ、罰を与えて下さい。存分に説教をして下さい」
「あ、あの。わたしも同罪です。春日井くんと一緒に罰を受けます!」
健人と日向は二人で笹山を真っ直ぐに見つめた。笹山は教師然とした面持ちで、冷然と彼らの視線を受け止めていた。
だが、ふいにその口元が緩んだ。
「……ふふ、あはは」
そして、唐突に笑い出した。
「先生?」
健人と日向は目をぱちくりとさせた。
「……いや、すまない。勘違いしているようだが、俺は決して君達に対して怒りを覚えていないよ。むしろ褒めてあげたいと思っている。よくやったな、春日井、百瀬」
賞賛を受けた二人は、未だに困惑していた。
「おいおい、元々君達に隠れ蓑を脱ぐように指導したのはこの俺だぞ? そして、君達はその指導に従って、立派に隠れ蓑を脱ぎ去った。常人であれば耐え難い羞恥心を乗り越えて、本当の自分をさらけ出したんだ。だからそんな風に俯くな。むしろ誇れ」
笹山が言うと、二人はおもむろに顔を上げた。
「さあ、胸を張れ。そして、笑え」
笹山の言葉に、二人は戸惑いながらも従った。まず胸を張る。その際、圧倒的な存在感を放つ日向の双子山に健人は目を奪われて荒く吐息を漏らす。日向は恥ずかしがって隠すが、
「百瀬、胸を張れ」
と笹山に言われて、激しく赤面しながらもその立派な胸を張った。
「さあ、二人共。笑え、大いに笑え。君達は勝者だ」
「そうですかね? 日向ちゃんはともかく、俺はこれからひたすらに敗者の道を歩むような気がしてならないんですけど」
「確かに、今まで得ていた物は全て失ってしまっただろう。だが、人は何かを失った時、それと同時に何かを得ているものだ。それを大切にして、これからの人生を歩んで行くと良い」
「先生……正直、初めは先生のこと胡散臭いって思っていたけど、今は何だか尊敬します」
「そうか。それは嬉しい言葉だな」
「日向ちゃんもそう思うだろ?」
「う、うん」
「じゃあ、先生の言う通り、笑おうか」
健人の言葉に、日向は頷く。
二人は改めて前に向き直ると、笑った。方や歪で、方やぎこちない笑みではあったけど、彼らは確かに笑っていた。
「……おめでとう。君達はただいまをもって、可愛らしいみのむしを卒業した。これからは自分らしく、強く生きて行けるだろう。俺はそう確信しているよ」
その瞬間、笹山が浮かべた微笑みには、今までのようなそこはかとない威圧感は無かった。ただ愛おしい教え子を見つめるようなその眼差しを間近で見せつけられ、三太はなぜか胸がじくりと痛んだ。
「あ、先生。ちょっとこの場を借りて伝えたいことがあるんですけど……良いですか?」
健人が言った。
「ああ、構わないよ」
「ありがとうございます」
健人は礼儀正しく頭を下げると、おもむろに立ち上がった。そして、日向の方を向く。
「日向ちゃん」
ふいに真っ直ぐな瞳で見つめられ、日向は動揺した。
「な、何かな?」
日向が聞き返すと、健人は小さく瞳を閉じて、深呼吸をした。
「――俺は日向ちゃんのことが好きだ。付き合って欲しい」
その突然の告白に、当人ばかりでなく他の二人も目を見開いた。
健人は緊張した面持ちで、日向が紡ぐ言葉を待っていた。
「……そ、それはわたしのおっぱいが大きいから?」
「へっ?」
「春日井くんがわたしを好きなのは、おっぱいが大きいから?」
羞恥心に顔を赤く染めながらも、日向は相手の意志を掴もうとして問いかける。
「正直、それは大きなポイントだよ」
健人がそのように答えると、日向はどこか寂しそうに目を伏せた。
「やっぱり、そうなんだ……」
「けど、それだけじゃない。確かに俺はおっぱいが大好きだし、日向ちゃんの大きなおっぱいも大好きだ。でもそれ以上に、俺は日向ちゃんを守ってあげたいと思った。河川敷で二人で話してから。ずっと君のそばにいて、守ってあげたいと思ったんだ」
「春日井くん……」
日向は自分と同じくらい顔を真っ赤にしている健人を、じっと見つめた。しばしの間、沈黙が舞い降りた。
「……それは、嫌だ」
瞬間、健人の表情が揺らいだ。
「……はは、そうだよね。やっぱり、俺みたいな変態なんて彼氏にしたくないよね」
悲しげな表情で健人は言う。それから鞄を担ぎ、くるりと踵を返して歩き出す。
「せっかく先生に褒めてもらえたのに、結局俺ってかっこ悪いな。ダセえ」
震える声で健人は言い、教室の扉に手をかけた。
「ま、待って!」
その時、日向が椅子から立ち上がって叫んだ。
健人は驚いた表情で振り向く。
「そうじゃない……そうじゃないの。わたしは、春日井君に守ってもらうだけじゃ、嫌なの」
「え?」
「確かにわたしは弱いけど、でも春日井くんのおかげで少しだけ強くなれたの。まだ色々と恥ずかしがることもあるけど、それでも自分の力で強く生きて行けるの」
「日向ちゃん……」
「だから、だからね……」
日向は顔を俯けたまま、健人に駆け寄った。小さな手で、彼の手をぎゅっと握り締めた。
「……わたしは春日井くんと……健人くんと一緒に歩いて行きたい。守ってもらうだけじゃなくて、お互いに支え合いながら、歩いて行きたいの」
元々か細い声を精一杯張り上げて、彼女は言う。
「それじゃ、ダメかな……?」
潤んだ瞳で、日向は健人を見上げた。彼の肩が震える。
「……ダメな訳ない。むしろ嬉しいよ、そんなことを言ってくれて。俺もまだまだ怖いことだらけだから、日向ちゃんに支えてもらいたい」
「うん」
「勇気づけてもらいたい」
「うん」
「おっぱいを揉ませてもらいたい」
「それは、ちょっと……」
「え、ダメなの!?」
「ダ、ダメだよ! わたし達はまだ高校生だもん! そんなふしだらなことしたらダメだよ!」
「そんな! 俺は日向ちゃんのその超巨乳で『おっぱいドリブル』をすることが夢だったのに!」
「お、おっぱいドリブル? ダメ! そんなのダメ!」
「そんなこと言わずに! せめてパイタッチは許して!」
「もう、結局はわたしのおっぱいが目的なんじゃない! 健人くんのスケベ! エッチ! 変態! おっぱい星人!」
「その一つ一つが胸に突き刺さる! いや、でもね……」
「そんなに風におっぱい、おっぱい言うなら、もう健人くんとはお付き合い出来ません」
「でも、日向ちゃんは俺が変態だって分かった上で付き合ってくれるんでしょ?」
「そうだけど……でも、それとこれとは別問題なの。とにかく、おっぱいは禁止!」
「ガーン!」
日向の言葉に完全ノックアウトされた健人は、がっくりとうなだれてしまう。
「……ああ、こんな立派なおっぱいを前にして何も出来ないなんて。いっそ殺して欲しいよ」
抜け落ちた声で呟く健人を見て、日向の表情がわずかに揺らいだ。
「そ、そんなにわたしのおっぱいを触りたいの?」
「うん」
「どうしても?」
「うん」
健人は情けない声を発して頷く。日向は何か思い悩むように唸っていた。
するとふいに、日向の手がうなだれる健人の肩を掴んだ。か細い腕で、ぐいと彼を自分の下に引き寄せる。
「……え?」
健人の顔が、ふくよかな日向の胸にうずめられた。
「日向ちゃん?」
目を丸くした健人に対して、日向は頬を赤らめて視線を逸らす。
「その……今はこれで我慢して。ね?」
そう言って、日向は胸に抱き寄せた健人の頭を、優しく撫でた。
「……俺はもう死んでも良い」
ぽつりと健人が呟いた。
「え、どうして死んじゃうの?」
健人の頭を抱きかかえながら、日向は困惑していた。
「……ていうか、あたしらは何を見せられてんの?」
頬杖を突きながら冷めた視線を彼らに向けて、咲輝が言った。
「まあ、許してやれよ。これも立派に隠れ蓑を脱いだご褒美ってやつだよ」
微笑みながら笹山が言う。
「何がご褒美よ。とんだバカップルの誕生ね、反吐が出るわ」
「とか言って、本当は羨ましいんじゃないのか?」
笹山は口の端を吊り上げた。
「は、はあ? そんな訳無いでしょ? つか、あんたは何とも思わないの?」
突然話を振られて、三太は肩を震わす。
「いちいちビクつかないでよ、キモいから」
「ご、ごめん……」
「はあ、何なのよもう」
咲輝は荒々しくため息を吐いた。
そんな彼女に怯えつつ、三太は仲良くじゃれ合っている二人を見つめていた。
7
目が覚めると、喉がざらつくように乾いていた。
ベッドの上で身じろぎをして、天井にぼんやりとした目を向ける。
先日、二年C組にて巻き起こった混沌(カオス)の情景が脳裏に蘇った。ここ数日の間、何度も何度も。その度に三太は頭の芯を締め付けられるようで、ひどく不快な気分を味わっていた。
だって、あり得ないのだ。あんなにも無様な変態としての本性を晒した健人が、輝いて見えただなんて。そして、大勢の前で自らの巨乳をさらけ出した日向もまた、輝いて見えた。彼女の巨乳と言う実体は、健人の変態に比べれば恥ずべきことではないかもしれない。それでも、彼女にとっては何よりも隠しておきたい姿であったはず。二人はひた隠しにして来た本当の姿が白日の下に晒され、大いなる恥をかいた。それにも関わらず、なぜあんなにも輝いて見えたのだ。全く以て、意味が分からない。
ベッドから下りて、勉強机に置いてある鏡を見つめた。男のくせにそんな物が置いてあるなんて女々しいかもしれないが、これは自分にとって必要な物なのだ。
その鏡に映った本来の自分の顔は、ひどく陰鬱な物だった。こんな表情を、他の誰かに見せることなんて出来ない。根暗で、人見知りで、冴えない自分は、この部屋以外では決して晒す訳には行かないのだ。
三太は陰鬱な表情で、口角を吊り上げた。強引な所作だったが、それを皮切りに彼の顔に朗らかで快活な笑みが浸透して行く。
やがてその鏡に映ったのは、みんなの人気者、お喋りが達者で盛り上げ上手の明石家三太の顔だった。
彼は部屋を出た。階段を下り、リビングへと向かう。
「父ちゃん、母ちゃん、おはようさん!」
快活な声が、リビングに響き渡った。
◇
ここ最近、学園内の様子に変化が生じていた。
三太はいつものように友人とバカ騒ぎをしながら歩いていると、複数人の女子達とすれ違う。彼女達は一様に悲しげな顔をしていた。
「……はあ、まさか健人くんがあんな変態だったなんて」
「本当にねー」
「ていうか、F組の百瀬さん? あの子、すごい巨乳だったわね」
「確かに。あれを見たら、男子はイチコロだろうね。同じ女としては、ちょいムカツクけど」
「何か私聞いたんだけど、健人くんと百瀬さん、付き合っているらしいよ」
「マジで? まあ巨乳の淫乱女と変態野郎同士、精々仲良くしてれば良いんじゃない?」
そのまま、女子達は陰鬱な表情で会話しながら去って行った。
「何か信じられないな。あのイケメンで超モテモテだった春日井くんが、あんな風に女子から嫌われるなんて。俺だったら、絶対に変態だってカミングアウトしないよ。せっかくモテモテだったのに、もったいない」
隣で友人が語ると、三太は自然と口の端が吊り上がっていた。
「三ちゃん?」
「……え? ああ、ほんまやな。俺やったら、死んで墓に入るまで隠し通すで」
「はは、それは言い過ぎじゃね?」
友人はけらけらと笑う。
やっぱり、醜い実体なんて晒すべきではない。
隠れ蓑なんて脱ぐべきじゃないんだ。今の自分は正しいんだ。彼らのように、わざわざ苦難の道を歩む必要は無いんだ。
昼休みを迎えると、三太は友人達と屋上に向かった。
「今日はエライ天気がええからな、安い購買のパンも少しは美味く感じるやろ」
「明石家、それはひどいぜ。安いコッペパンだって、頑張って生きているんだ」
「そうだよ、三ちゃん。マーガリンしか塗っていないしょぼいやつだけど、頑張って売り場に並んでいるんだよ」
「ヒャハハ、お前らも大概ひどいやないか」
笑い声を響かせながら屋上の扉を開くと、そこには先客がいた。
「よし、みんな。喉の準備は出来ているか?」
「おう、エロ王子。準備は万端だぜ」「いつでも行けるよ」「どんと来い」
複数の男子生徒が寄り集まり、円陣を組んでいた。その中心には、端正な顔立ちのイケメンがいた。彼は大きく息を吸い込んだ。
「――うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「うおおおおっぱいぃぃ!」」」
「うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「うおおおおっぱいぃぃ!」」」
「どうした、みんな。声が小さいぞ! もっと気合を入れて行け!」
「「「イエッサー!」」」
「行くぞ! うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「うおおおおっぱいぃぃ!」」」
「うおおおおっぱいぃぃ!」
「「「うおおおおっぱいぃぃ!」」」
彼らの魂を込めた叫びは、爽やかな青空に対してどこまでも伸びて行った。
「……いやー、みんなお疲れ。良い叫びだったよ。おっぱいに対する熱い思いが伝わって来た」
イケメンは清々しい表情で言った。
「いやいや、俺達なんてまだまだ。エロ王子に比べれば、ひよっこだぜ」
「あはは、照れるな。あ、そうだ。この前買ったお宝本を持って来たんだけど、読む?」
途端に、イケメンが嫌らしい笑みを浮かべた。
「うおおぉ、さすがエロ王子!」「読みたいです!」「お願いします!」
「よし、じゃあ昼メシを食べながら読もうか」
「「「さんせーい!」」」
高らかに声を合わせた彼らは、嬉々とした表情でめいめいの昼食を用意する。
三太達はその光景を呆然と眺めていた。
ふいに、その中心にいたイケメンと視線が合った。彼は一瞬、目をしばたたかせた。
「ごめん、ちょっと離れる。先に昼メシを食べていてくれ」
「えー、お宝はぁ?」
仲間にせがまれると、イケメンは制服の背中の部分に隠していたお宝本を取り出し、手渡してやった。
「ほら、読んで良いよ。言っておくけど、砂埃とかで汚すなよ」
「分かってるって」
「汚さないよ」
「まあ、お前達の純粋な思いが詰まった液体で汚すなら、むしろ勇者として湛えてやるけど」
「うわ、さすがエロ王子。昼間っからエグい下ネタをぶちこんで来るぜ!」
ギャハハ! と笑いが起きた。仲間達に手を振って、そのエロ王子が三太の下にやって来た。
「よう、来てたんだ」
エロ王子は微笑んで言った。三太は数秒間、固まっていたが、すぐに快活な笑みを浮かべる。
「いやぁ、春日井くん。何やすごい楽しそうなことやっとったやん」
「まあね」
「ていうか、エロ王子って何なん?」
三太が尋ねると、健人はどこか照れ臭そうに後頭部を掻いた。
「いやー、あいつらが勝手にそう呼び始めたんだよ。全く、困ったもんだ」
「そう言う割に、まんざらでもなさそうやん」
「あ、バレた?」
あはは、と健人は笑う。三太も愛想笑いを返した。
「……明石家くん、俺は決して後悔していないよ」
ふいに、健人が真面目なトーンで喋り始めた。
「は?」
「確かに女子から嫌われたのは辛い。けど、その代わりに今まであまり仲良くなれなかった男子の友達が出来た。エロを共有する仲間が出来た。俺はそれがたまらなく嬉しい」
三太は口をつぐんだまま、彼の言葉に耳を傾けている。
「それから日向ちゃんも、巨乳を晒したことを後悔していないって。友達は変わらず日向ちゃんと仲良くしてくれるみたいだし。まあ、一部の女子は嫉妬しているらしいけど。もし日向ちゃんに嫌がらせをしたら、俺が守ってあげるから。彼氏だし」
はにかみながら健人は言う。彼とはそれまで特別親しく付き合ってきた訳じゃない。ただ、妙ちくりんな活動とはいえ、一時期仲間として共にいた。だから、本来であれば今の彼の姿を微笑ましいと思い、祝福してやるべきなのだろう。
それなのに、今の三太の心はひどくざわついていた。
彼が浮かべる幸せそうな笑みを、メチャクチャに引っかいて消し去ってやりたいと思ってしまう。それと同時に、そんな自分がおぞましいと思った。
三太はわずかに引きつった笑顔で、その場に立ち尽くしていた。
するとおもむろに、健人が彼の肩に手を置いた。
「明石家くん。君も隠れ蓑を脱いじゃいなよ」
「え?」
「確かにその瞬間はメチャクチャ怖い。けど、その先にはきっと幸せが待っている。現に隠れ蓑を脱いだ俺が証明するよ」
健人は自らの胸に手を置いて、一切迷いの無い口調で言った。
三太は再び固まってしまう。
「ねえ、三ちゃん。隠れ蓑って何のこと?」
ふいに、友人に問われて、三太はびくりと肩を震わせた。
「……いやー、何のことかさっぱり分からん。このエロ王子様はさぞかし発情なさっているようやから、おかしな発言をしてしまうんやろ。全く、困ったもんやで」
「明石家、それはちょっとひどいだろ」
「そんなことあらへんって。まあ、楽しそうなのは何よりやな。ただ、こんなエロ集団のいる所でメシを食ったら、こっちまでエロエロ発情期を迎えてしまうわ。撤退するで」
三太は饒舌に、面白可笑しく語って言う。
「ほなな、春日井くん。俺はもう行くで」
「明石家くん……」
去り際、健人がどこか悲しそうな表情で三太を見つめた。
だが、彼は気付かない振りをして、その場から立ち去った。
◇
吹き抜けの渡り廊下を通って、旧校舎へと向かう。
その歩みは足に鉛を仕込まれたかのように、鈍重であった。
木製の廊下は一歩踏み出す度に軋む音を立てる。今はその音が不快で仕方ない。
一階の一番奥にある教室の前に立つと、今度は足だけでなく心にまで鉛を埋め込まれたかのように、非常に陰鬱な気持ちになってしまう。
沈み行く心を抱えながら、教室の扉を開いた。
「おう、明石家。来たか」
そこには笹山がいた。長テーブルの席には咲輝が一人で座っている。既に分かっていたことだが、他の二人の姿は無かった。
この『みのクラ』の活動場所である教室において、本来の姿を晒すというルールが敷かれている。いつもなら瞬時に切り替えることが出来ずに戸惑うが、今回は既に陰鬱な気持ちを抱えていたため、すんなりと元の姿を晒すことが出来た。
「こら、明石家。隅っこに行きたい気持ちは分かるが、とりあえず席に着け。
またぞろ教室の隅っこで三角座りをしようとした三太に対して、笹山が注意をした。
三太はぴたりと動きを止め、のろのろとした足取りで席に座った。それを確認してから、笹山が口を開く。
「改めて確認することでもないが……先日晴れて、春日井と百瀬がこの『みのクラ』を卒業した。その後の彼らの活き活きとした様子を見て、俺は顧問としてこの上なく嬉しいと感じている」
笹山が言うと、にこやかな健人の笑顔が三太の脳裏を過った。
「勇気ある彼らの行動によって君達も理解したはずだ。隠れ蓑を脱ぎ去れば、幸福が待っていると」
どこか得意げな顔で笹山が言うと、三太は思わず顔を俯けてしまう。
「ふん、何が幸福よ」
そんな彼の隣で、咲輝が鼻を鳴らした。
「あんな変態っぷりを晒して、女子から嫌われて、それが幸福な訳無いでしょう? 今はただ変にテンションが上がっているだけよ」
「そうかもしれない。彼らは今後、本当の自分をさらけ出したことで、思わずベッドの上で悶絶してしまうような羞恥心を味わうこともあるだろう」
「当然でしょ。あたしだったら死んだ方がマシだわ」
「けど、俺は彼らを信じている。これから例え困難にぶち当たったとしても、本来の自分を愛し、強く生きて行ってくれると」
優しい眼差しで笹山が自らの気持ちを伝えると、咲輝は目をぱちくりとさせた。
「……は、はあ? なに青臭いこと言っちゃってんの? マジでウザいんですけど」
「そんなことを言って、武藤。お前、本当は羨ましいんじゃないのか?」
笹山の言葉に、咲輝はぴくりと眉を跳ね上げた。
「本来の自分を晒して、活き活きとしている彼らを見て、羨ましいと思ったんじゃないのか?」
決して詰問することなく、笹山はあくまでも穏やかな口調で言う。対する咲輝は、目を見開いてから、唇を噛み締めた。
「そ、そんな訳無いでしょ。百瀬さんはともかく、春日井なんか人気者の地位から滑り落ちて、キモい集団を作っちゃって、全然羨ましいなんて思わないから」
そう言って、咲輝はそっぽを向いた。
「武藤……君って分かりやすいな」
「はあ?」
「顔に書いてあるぞ、羨ましいって」
「そんなの分かる訳ないでしょ!」
「分かるよ。今の君はメイクをしていないスッピン状態だから、尚のこと良く分かるよ」
「はあ?」
「ていうか、何でわざわざメイクをするんだよ。そんなに可愛い顔をしているのに。もったいない」
ため息交じりに笹山が言うと、咲輝はぎょっと目を剥いた。
「な、なな、何を言ってんのよ! 可愛いとか言うなし、キモ! 生徒をそんな目で見るとか教師失格でしょ!」
「俺はあくまでも一般論を述べただけだよ」
興奮する咲輝を、笹山は軽くいなす。
「なあ、明石家。お前もそう思うだろ?」
突然話題を振られて、それまで黙りこくっていた三太は目を丸くした。舌は上手く回らず、焦る度に更にもつれた。
「えっと、その……」
テンパる三太を白い目で見た咲輝は、露骨に表情を歪めた。
「いちいち口ごもんなし。キモ」
「武藤、君の方こそいちいち『キモ』なんて言うな。ていうか、キモいキモい言っている方が、よっぽどキモいぞ」
「なっ……う、うるさいわね!」
怒って噛み付いて来る咲輝をいなしつつ、笹山は三太に問い続ける。
「それで、明石家はどう思った?」
「え?」
「隠れ蓑を脱ぎ去った彼らを見て、どう思った?」
「え……?」
「お前はどう思った?」
笹山はあくでも微笑みを浮かべている。だが、その黒い瞳は、どこまでも真っ直ぐに三太を見つめて、捉えて離さない。
どう思ったか? 隠れ蓑を脱ぎ去った彼らを見て、自分がどう思ったか?
――君も、隠れ蓑を脱ぎなよ。
健人の言葉が脳内でリフレインして、なぜだが胸がずきりと痛んだ。それと同時に、形容しがたい感情に捕らわれる。それはどこまでもモヤモヤとしていて、わだかまりとなって三太を苦しめる。
「……わ、分かりません」
結果として、三太はそのように答えていた。
そんな三太を、笹山はしばし見つめていた。その瞳の温度が、少し下がったように見えた。
やがて、彼は視線を外した。
「……そうか、分かった」
笹山は頷くと一度瞳を閉じて、それから改めて三太と咲輝を見つめた。
「とにかく、春日井と百瀬は勇気を振り絞って隠れ蓑を脱ぎ去り、可愛らしいみのむしちゃんを卒業したんだ。君達もまた、そんな彼らに倣って欲しい。いつまでも可愛らしいみのむしちゃんでいてもらっては、こちらとしても困るんだ」
笹山は言う。
「てか、何で先生が困るのよ? 結局はあたし達の問題じゃん」
咲輝が食ってかかる。
「何を言っているんだ。生徒の抱える問題は、教師の問題なんだよ」
「うわ、出た。ぶっちゃけそれ偽善者の発言だからね。どうせ先生は、あたし達のことをバカにして楽しんでいるだけでしょ?」
「そんなこと言うなよ。俺は本気で君達のことを心配しているんだよ」
「はん、どうだか」
咲輝は頬杖を突いた状態でそっぽを向いた。
そんな彼女を見て、笹山は小さく肩をすくめる。
「今日はこれ以上話し合っても無駄みたいだな。解散にしようか」
笹山の言葉を受けて、三太は戸惑いつつ咲輝に視線を向けた。彼女は憂鬱そうにため息を吐き、鞄からメイク道具一式を取り出す。視線が合うと、彼女は眉をひそめた。
「……何よ?」
「あ、いや、何でも……」
三太がしどろもどろになって答えると、咲輝はふんと鼻を鳴らしてメイクに没頭して行った。彼はしばらくの間、所在なくその場にいたが、やがておもむろに席から立ち上がると、肩を縮こまらせて教室を後にした。
「明石家」
去り際、背後から笹山に呼び止められた。三太は怯えるようにしながら、振り向く。
「また明日な」
笹山は淡い微笑を湛えていた。
三太は何と答えて良いか分からず、軽く会釈をしてその場から逃げるようにして去った。
8
朝から廊下では、複数の笑い声が響いていた。
「あはは、マジかよ三ちゃん」
「ほんまやって。昨日、学校の帰りに猫がおったんやけどな。何や俺にすり寄って来てエラい可愛らしい思たんや。そんで、そいつに連られて歩いて行ったら、近所の商店街にある魚屋にたどり着いたんや。そこで何や物欲しそうに魚を見て、それから俺をじっと見つめて来たんや。何や訳の分からんかって俺は、その十数秒後にはいわしを買ってその猫にあげとったんや」
「つまり、その猫に魚を貢がされたってこと?」
「せや。俺はとんでもない魔性の女に引っかかったんや」
真顔で三太が言うと、周りの友人達はゲラゲラと腹を抱えて笑う。
「それはとんでもない魔性の女がいたもんだね」
「ていうことは、その猫はメスだったんだ?」
「恐らくな。何も確かめとらんから分からんが。もしあの猫がオスやったら、俺は今度会った時にしばいたるで。何が悲しくて男のために貴重な小遣いをはたいて魚を買ってやらなアカンねん」
「つか、オスメス関係なく、猫に貢がされている時点で、三ちゃんの人間としての尊厳は終わっていると思うよ」
「お前、何てこと言うてくれんねん! 猫に魚を貢いだ言うてもな、それは俺の慈悲深い心があったからこそや。腹を空かした猫に魚を買うてやる。そんな俺は奴にとって神様、仏様、三太様やったんや」
「じゃあそんな三ちゃんは、俺達にも何かおごってくれるよな。とりあえず、駅前のバーガーショップでチーズバーガーおごってよ」
「あ、俺はチキン竜田バーガーが良いな」
「おいこら、調子乗るなよお前ら」
三太を中心にしてゲラゲラと笑いまくる友人達。その内の一人が勢い余って、誰かにぶつかった。
「あ、悪い……」
彼はその相手を見た瞬間、さっと顔が青ざめた。
「……ちょっと、痛いんだけど」
低くドスの利いた声で言ったのは、ギャル集団を率いている咲輝だった。彼女は腕を組んだ状態で、傲然と彼を見下ろしていた。彼は「ひっ」と小さな悲鳴を上げて三太の方に逃げて来る。
「おやおや、武藤さん。朝から何やエラい迫力やな」
三太がケラケラと笑いながら声をかける。
「は? うざいんですけど」
咲輝は露骨に表情を歪めて言う。
「そや、俺ら駅前のバーガーショップに行こうかって話とったんやけど、何や美味いもんあるかいな? 武藤さん達はよく行っているから分かるやろ?」
「知っているけど、あんたらには教えない。つか、あたしらの領域だから来んなし。マジうるさくなるの勘弁だから」
「何や、ケチな女やな。ギャルでケチって、もう最悪やん」
「は? それギャルとか関係なくね?」
「おー、怖い。そんな睨まないでくれや」
三太がわざとらしく怯えるように言うと、咲輝が頬を引きつらせる。
「ねえ、咲輝。そういえば、あんた最近、放課後の付き合いが悪いよね」
ふいに、ギャル集団の一人が言った。
「え? ああ、前にも言ったでしょ。先生に補習で呼び出しを食らっているって」
「先生って、笹山先生だっけ?」
「そうよ」
「良いな、笹山先生イケメンだし。補習とかマジ死ねって感じだけど、笹山先生となら全然OK。むしろ、マンツーマンでお願いしたいくらいだし。てか、そうなの?」
問われて、咲輝は少しだけ口をつぐんだ。
「一応、そこのうざったいエセ関西弁野郎も一緒に、補習を受けているわ」
「おいおい、ちょっと待てや。誰がエセ関西弁やねん」
「あんたのことよ」
咲輝がきっと目を尖らせた。
「あ、そうだったんだ。だから、三ちゃんも最近付き合いが悪かったのか」
「まあな。ちなみに、今日も補習があんねん。せやから、どのみちバーガーショップには行かれんな」
三太が肩をすくめて言うと、友人達は「えー」とブーイングの声を上げた。
「じゃあ、咲輝も補習? また遊べない系?」
ギャル友に聞かれて、咲輝は小さく頷いた。
「ごめん。そんな感じ」
「マジかー。咲輝がいないと、何かうちら締まらないじゃん」
「別に、そんなこと無いでしょ」
「いや、あるっしょ。咲輝はうちらのカリスマだもん」
ギャル子達はしきりに頷く。
その時、咲輝の目元がわずかに歪んだ。他に誰も気が付いていなかったが。
「おい、お前ら。こんな所で油売っていてもしゃあないわ。さっさと教室行くで」
そう言って、三太はすたすたと歩き出す。
「あ、待ってよ三ちゃん」
追いかける友人を伴って、三太は教室へと向かう。その最中、ちらりと後方に視線を向けた。華やかなギャル達の中でより一層華やかなオーラを放っている咲輝は、その表情に静かな影を落としていた。
◇
「ねえ、三ちゃん。やっぱり遊びに行けないの?」
友人が席に座っている三太の下に駆け寄って来た。
「せやから言うたやろ、俺は補習を受けなアカンって」
「そんなのサボれば良くね? 明石家だって本当は補習受けたくないだろ?」
「当たり前やろ。せやけど、受けなアカンねん」
「てか、笹山先生ってそんなに怖いイメージ無いけど、サボったら怒られるの?」
その問いを受けて、三太は苦い顔になった。
「……怖いで。あの先生は、怖いで」
「え、マジで? 怒鳴ったりするの?」
「いや、そんなことはせんけどな……何ちゅうか、うん……末恐ろしい感じやな」
「あー、でも分かるかも。悔しいけど、笹山先生って超イケメンだから。そんなイケメンに『死ねよ』みたいな感じで凄まれたら、何か逆らえないもん」
「分かるわ、それ。確かにそういう意味じゃ、怖いな」
友人達は納得し合ってうんうんと頷く。
「ともかく、俺はもう行かなアカンから」
三太は鞄を担いで、席から立ち上がった。
「えー、行っちゃうの。三ちゃんがいないとつまらないよ」
「そうだぜ、明石家」
すがるような友人達の視線を受けて、なぜだか胸が痛んだ。
「何や、お前らそんなに俺のことが好きなんか? せやったら、今ここで思い切りチューしたるわ。ほれ、順番に顔を出してみ」
三太が口の先を尖らせて迫ると、友人達はぎょっと目を剥いた。
「うわ、三ちゃんキモ!」
「近付くな!」
そうやって友人達が怯んだ隙を突いて、三太はその場から立ち去る。
「ほな、また明日な!」
やられた、と言わんばかりの顔でこちらを見つめる友人達に背を向けて、三太は勢い良く教室を飛び出した。放課後を迎えた校内の廊下には多くの生徒達が溢れ返っていた。彼ら彼女らは楽しげに談笑したり、はしゃいだりしている。そんな光景を過ぎ去り、三太は一人廊下を歩いて行く。
やがて旧校舎へと近付くに連れて、喧騒は消えて行った。代わりに静寂が訪れる。
旧校舎へと続く渡り廊下の前にやって来た。すると、三太はそこでぴたりと足を止めた。
なぜ僕は、あの場所に通っているのだろうか?
突然、そんな疑問が胸の内に湧き上がった。
初めは笹山に導かれてあの場所を訪れた。だがそれ以降、彼は強引に自分達を呼びつけるようなことはしなかった。
俺は決して強要はしない。決めるのは、あくまでも君達自身だ。
その言葉が脳内でリフレインする。
確かにその言葉通り、彼は自分達に強要しなかった。しかし、彼には底知れない、ともすれば悪魔的な恐ろしさが備わっているような気がした。体の良いことを言っておきながら、結局はその威圧感で自分達に強要していたのだ。そして、自分達に本来の恥ずかしい姿を晒せと命じて来たのだ。その結果として、健人と日向は己がひた隠しにして来た本来の自分を晒してしまったのだ。悪魔のようなあの教師のせいで。二人共、今はまだ楽しげにしているが、これからきっと苦しむに違いない。何で自分達はあんなバカな真似をしたんだと、ベッドの上で枕に顔をうずめて、悲痛な叫び声を漏らすに違いない。
ふっと顔を上げた。吹き抜けの渡り廊下の向こうで、旧校舎の入り口がこちらに手招きしているようだった。三太は唇を噛み締め、鼻を鳴らすと、その場から立ち去った。昇降口がある方へと足を進める。これで良いんだ。あんな場所、行く必要は無いんだ。
ふいに、前方で足音が鳴った。
「あ……」
三太はつい呆けた声を漏らしてしまう。
彼の前に現れたのは、咲輝だった。
束の間、三太は言葉を失っていたが、すぐに意識を切り替える。
「よう、武藤さんやないか! いきなり現れて、びっくりしたで」
大仰に心臓の箇所を押さえながら、三太は言った。
「いきなりじゃないわよ」
静かな声で咲輝は言う。
「は?」
「さっきから見ていたわよ、あんたのことを」
思わぬ発言に、三太は目を丸くしてしまう。
「な、何や。俺のことを見てたとか、ドキドキするやん。もしかして俺のこと……」
「んな訳無いでしょ、勘違いも甚だしいっつうの」
にべもなく一蹴されて、三太はがくっと肩を落とす。
「ですよね~……」
「あんたさ、行かないの?」
「え?」
首を傾げる三太に対して、咲輝はくいと顎で旧校舎の方を指示した。
「あ、ああ……何や、今日は腹が痛くなってん。せやから、家に帰ろうと思ってな」
「ふぅん、見え見えの仮病ね」
「なっ、仮病ちゃうわ! あのイケメン性悪教師の顔を思い浮かべたら、何や胃がキリキリするねん。武藤さんはそうならんの?」
「別に」
「そうかい。女子はやっぱり、あのイケメン教師にメロメロなんやな」
「あんた相変わらずウザいわね。それが取り繕った物だって知ったら、尚のことウザったくて仕方がないわ」
冷めた目で咲輝が言うと、三太は喉元を突かれたように言葉に詰まった。
「……う、うるさいわ。ていうか、お前に言われたくないわ。自分こそ同じ穴の狢やないか」
「……それもそうね」
咲輝はすっと目を閉じた。
他に誰の姿も無い廊下に、沈黙の時が訪れた。『饒舌なるお調子者』、そんな隠れ蓑を被っている三太でさえも、この沈黙を破ることは容易ではなかった。
「ねえ」
ふいに、咲輝が口を開く。三太はわずかに目を開いて彼女を見た。
「あんた、この後何か用事でもあるの?」
「え? いや、友達と遊ぶのは断ってしもうたし、今日は大人しく家に帰ろうかと」
「ふぅん、あっそう。あたしも暇なのよね」
「はぁ、そうなんか」
三太は呆けた返しをすることしか出来なかった。
「だったら、ちょっと付き合いなさいよ」
「へっ?」
咲輝が発した意外な一言にまたして呆けた反応をしてしまう。
そんな三太に背を向けて、咲輝はすたすたと歩いて行く。
「……ちょっ、待てや」
三太は慌てて先の後を追った。
◇
美野学園の近くからバスに乗り込み、駅前に向かった。三太は駅前で何かするのかと思ったが、そこで咲輝の足は止まらず、また別のバスに乗り込んだ。
「なあ、武藤さん。どこに行くねん」
バスの最後部の座席に離れて二人腰を落ち着けると、三太が尋ねた。
「あんたの家、こっち方面じゃなかった?」
「え? いや、合うているけど」
「そう。なら良かった」
そう言った切り、咲輝は窓の外に視線を向けて言葉を発しなくなった。
そんな彼女の横顔を見て、三太は動揺した。
今の会話の流れから推察するに、もしかして彼女は三太の家に来ようとしているのではないだろうか。
やや早計過ぎる判断かもしれないが、そうとしか考えられない。
なぜ、彼女はそんなことをするのだろうか。三太のことをウザいとか言っておきながら。
はっきりしない、どこか思わせぶりな彼女の言動が三太の心情を激しく揺さぶる。
そんなことに構わずバスは滑らかに走行を続ける。もうしばらく、あとバス停を三つ過ぎれば三太の住む町に到着する。なぜか心臓が落ち着きなく跳ね始めた。車内で次のバス停のアナウンスが流れる中、三太はちらちらと咲輝を見ていた。
するとふいに、咲輝がバスの降車ボタンを押した。
三太はとっさに目を見開く。頭が軽く真っ白になった。
バスが緩やかに速度を落として停車すると、咲輝は立ち上がった。
「何ボケっとしてんのよ。行くわよ」
「えっと、あの……まだここ俺ん家がある町じゃないんやけど」
「は? だから何なの?」
つけまつげに縁取られた目で鋭く睨まれ、三太は口をつぐんでしまう。
咲輝はふんと鼻を鳴らし、さっさと降車口に向かう。三太も慌ててその後を追った。
バス停に降り立つと、咲輝は歩調を緩めることなくスタスタと歩いて行く。三太は戸惑いつつ、彼女の後を追って行く。
「なあ、武藤さん。ほんまにどこに行くん?」
三太の問いかけに答えることなく、咲輝は歩みを進めて行く。
バス道路沿いの喧騒から離れて、閑静な住宅街にやって来た。それは特別風変わりな住宅街では無かったが、元来人見知りな三太にとって、知らない場所と言うのは否応にも緊張してしまう。表面上は隠れ蓑で取り繕いつつも、非常に落ち着かない気分だった。
その時、前を行く咲輝の足が止まった。彼女の目の前には一軒の家がある。
「あの、武藤さん。この家に用があるん?」
三太は問いかけた。
「別に特段用は無いわ。だって、ただ家に帰って来ただけだもの」
「あ、そうなんや。家に帰って……」
言葉を紡ぐ途中で、三太は目を丸くした。
「……え? もしかしてやけど、ここって武藤さんの家なん?」
「そうですけど、何か?」
咲輝は腕組みをして、あくまでも落ち着いた表情と声音で言った。そんな彼女を前にして、三太は口をあんぐりと開いて固まっていた。
しばらくして、咲輝は無言のまま家の門扉を開き、中に入って行ってしまう。三太は未だに呆然として佇んでいたのだが、
「ちょっと、いつまでボーっと突っ立ってんのよ? 早く来なさい」
咲輝に誘われたことで、戸惑いつつも家の門をくぐり抜けた。ガーデニングの施された前庭を進み、玄関へとたどり着く。咲輝はブレザーの胸元の内ポケットからカギを取り出すと、ドアを開いた。
「お、おい。武藤さん」
三太が呼びかけると、咲輝は眉をひそめて振り向く。
「何よ?」
「いや、その……ホンマにええんか?」
「何が?」
「せやから、家にお邪魔してもええんかいな?」
「だから、ここまで連れて来たんでしょ?」
あくまでも冷めた顔つきでそう言って、咲輝は家の中に入った。玄関先で靴を脱いで上がる。三太は困惑した状態が続いていたが、咲輝が鬱陶しそうな顔をするので、とりあえず靴を脱いで廊下に上がった。
「お、お邪魔します」
隠れ蓑を被った状態にも関わらず、どもった声を発してしまう。
武藤家の内観はとても小奇麗だ。廊下のフローリングは艶やかなコーティングが為されており、塵一つ見受けられない。幅広さと奥行きもある。あっと驚くような豪邸、という訳ではないが、それなりに裕福な家庭であることが伺えた。
「こっちよ」
きょろきょろと辺りを見渡していると、咲輝が声をかけて来た。彼女が階段を上り始めたので、三太もその後を追う。二階もまた広々とした廊下があり、壁には多くのドアが点在していた。その内の一つの前で彼女は立ち止まった。
「武藤さん、この部屋は?」
三太が言うと、咲輝がそのドアに向かって指を差した。
「ここに書いてあるじゃん」
指摘されて改めてドアを見ると、プレートが貼り付けられていた。そこには明確な文字が記されていた。
「えーと、『さきちゃん』……って、ええぇ!?」
「ちょっと、いきなり大きな声出さないでくれる?」
咲輝が顔をしかめて言った。
しかし、これは致し方ない。三太は二重の意味で驚いてしまったからだ。
まず、咲輝がいきなり彼女の部屋に自分を招いたということ。
そして、彼女の部屋のプレートに可愛らしく『さきちゃん』と記されていたこと。
あんぐりと大口を開けている三太に構うことなく、咲輝は部屋のドアを開いた。
「ねえ、いちいちボーっと突っ立たないでよ」
その場で固まっている三太を睨み付けて、咲輝が言う。
「いや、そんなこと言うてもやな……ホンマにええんか?」
「何が?」
「せやから、お前の部屋に入ってもええんか?」
「くどいわね。だから、ここまで連れて来たって言ってんでしょ?」
顔をしかめて、咲輝はさっさと部屋に入ってしまう。三太は妙な背徳感に捕らわれつつも、その部屋に足を踏み入れた。思えば年頃になって女子の部屋に、しかも二人きりのシチュエーションで訪れるなんて初めてだったので緊張感が急激に上昇した。心臓が高鳴る。
だが直後、そんな三太の心情を良い感じで冷却してくれるような光景が目に映った。
女の子の部屋と言えば、きれいに片付いていて、ほんのりと良い匂いが漂うイメージだ。三太も少なからずそれを期待していた。
一方その部屋は、ゴチャついていた。テレビ番組で時折見かける汚部屋に比べればマシであるが、それでもお世辞にもキレイな女子の部屋とは言い難かった。ほのかに香るカップ麺の匂いも、何だか生々しい。まあ、所詮はギャルの部屋なんてこんなものか、と失礼ながら落胆してしまう。
そんな三太をよそに、咲輝は床に鞄を放り投げた。本当に、おしとやかさの欠片も無いな、と内心で毒づいていた時、彼女がおもむろに制服のブレザーのボタンを取り始めた。三太は一瞬、頭の中が真っ白になる。彼女はブレザーを脱ぎ去ると、そのままブラウスのボタンも外そうとした。
「……ちょ、ちょっと待てや!」
三太は思わず叫んでいた。
「何よ? うっさいわね」
咲輝は不機嫌そうに目を細める。
「いや、お前何してんの?」
「え? 見れば分かるでしょ、部屋着に着替えるのよ」
「いやいや、自分の目の前に男子がいるでしょ? 何で平然と脱いじゃってんの? 俺の知らぬ間にストリップショーが始まってたのかしらん?」
慌てて早口でまくし立てる三太に対して、咲輝はあくまでも落ち着いていた。
「あぁ、そうだったわね。あんたが男としての魅力ゼロだから、全然意識して無かったわ」
「な、何やとぉ? そないなこと言うて、襲ったるでぇ?」
「別に良いよ。やれるものなら、やってみなさい」
咲輝はブラウス姿で両手を広げ、そう言った。
「おうおう、随分と俺のことを挑発してくれるやないか。ホンマに襲うで?」
「別に良いわよ。けどそんなことをしたら、あたしのパパがあんたを殺すだろうけど。ママがなだめたとしても、半殺しは覚悟しておいた方が良いよ」
「パ、パパ? ママ?」
「何よ?」
「いや……お前、親のことをパパママって呼んでるんかいな?」
「それが何? いけないことなの?」
「いや、いけないってことはないけど……意外やと思って」
「別に、普通でしょ。パパとママはあたしのことを『さきちゃん』って呼ぶし」
「ホンマに『さきちゃん』呼ばれてるんかいな!? あの部屋のプレート、幼い頃から使っている名残かと思ったら、現在進行形かいな!?」
三太は目ん玉が飛び出す勢いで喋り倒した。その後、ぜえぜえと肩で息をする。
「ねえ、一つ良い?」
「あ? 何や?」
「いい加減、そのウザったいエセ関西弁キャラやめてよ」
「誰がエセ関西弁やねん」
「あんたよ。ねえ、お願いだから、笹山先生がいう所の隠れ蓑って奴、脱いでよ」
咲輝の言葉に、三太はすぐに返事をすることが出来ない。
「あたしも脱ぐから、隠れ蓑。だから、あの教室みたいに、ここでは本来の姿を晒しましょう」
「武藤さん……」
三太は静かに佇む咲輝の姿を、じっと見つめた。つけまつげに縁取られたその目は、どこか憂いを帯びていて、なぜだか胸がどきりと高鳴ってしまう。
「……分かった、言う通りにする」
「そう、ありがとう……じゃあ、着替えるからあっち向いてくれる?」
「え? あ、お、おう。分かった」
「もしこっちを覗き見たら殺すから、パパが」
「分かったって! 覗かんから、早く着替えろや!」
「あんたも、あたしが着替える間に脱いでおきなさいよ」
「……ああ」
三太はこくりと頷き、咲輝に背中を向けた。
頷いたは良いものの、そんな簡単に脱げる物ではない。旧校舎のあの教室においては、笹山の悪魔的な誘いのせいで、自分でも驚くくらいにするりと脱げてしまうが。この部屋で、ましてや同じ年頃の女子の部屋で、自分は上手く隠れ蓑を脱ぐことが出来るのだろうか。いや、それ以前に脱がないという選択肢もある。そもそも何でこの部屋に呼ばれたのか意味も分からないし、適当に理由を付けて逃げることも可能だ。
背後で衣擦れの音がした。咲輝が制服のブラウスを脱ぎ去り、着替えをしている。背を向けているためその姿は見えない。しかし、三太も思春期の健康な男子。ついついその姿を想像、いや妄想してしまう。首をひと捻りすれば、彼女のあられもない姿を拝むことが出来る。そんな邪な思いが湧き上がるも、何とか理性が抑えつけてくれる。
「ねえ」
「な、何や?」
「変なこと考えていないで、さっさと脱ぎなさいよ」
「わ、分かっとるわ。ちょっと待っとけ」
やはり女子という生き物は、男子のエロ心に敏感なのだろうか。気を付けなければ。
しかし、これで退路が断たれてしまった。もうここまで来たら、自分も脱ぐしかないのだろうか。
三太は小さく吐息を漏らし、目を閉じた。
衣服と違い、自分が身に纏っている隠れ蓑は心に起因するもの。脱いで、と言われてそう易々と脱げるものではない。だから意識を集中して、ここが自分の部屋だと言い聞かせて、少しずつ、少しずつ、頑なな蓑を剥ぎ取り、脱ぎ去って行く。
脱ぎ終えた時、すっきりとした達成感はない。むしろ、三太の顔は陰鬱に沈んでいた。
「良いわよ、こっち向いても」
ちょうどそのタイミングで、咲輝が声をかけて来た。
三太は緩慢な動きで振り向く。
「え……?」
振り向いたその先にいたのは、ジャージ姿の咲輝だった。しかも最近の若者が着るようなシャレた物ではなく、紺色を基調とした地味な物だ。そのくせ、顔はバッチリメイクを決めたギャルの状態なのだから、ひどくアンバランスに映ってしまう。
「何を驚いてんのよ?」
咲輝が目を細めて言う。
「い、いや、その……ジャージ?」
「そうだけど何か? これがあたしの部屋着なのよ」
そう言って、咲輝はテーブルの前に腰を下ろすと、鏡を前にして濡れた白いシートを構える。
次の瞬間、目にも止まらぬスピードで彼女の手が動いた。その光景に、三太は見覚えがあった。
ものの十数秒で、咲輝はその作業を終えた。一息吐いて振り向いた彼女の顔にはそれまでのキツイ印象は無く、あどけない顔立ちになっていた。
「これ、あたしの特技なんだ」
「え?」
「速攻メイクパージ……超速いでしょ?」
「あ、う、うん……そうだね」
バッチリ決めていたギャルメイクを落としたためだろうか、顔立ちだけでなくその口調も幾分か柔らかくなっているような気がした。
それから彼女は頭部に両手を伸ばすと、丹念にセットされていた派手な茶髪を掻き乱す。見事なボサボサヘアーになった。
「……はあ、落ち着く」
彼女は人心地ついたように言い、それから三太を見た。
「何かソワソワしているね」
咲輝が指摘すると、三太はびくりと震えた。
「良いよ、隅っこに行きなよ。その方が落ち着くんでしょ?」
「でも……」
「遠慮すること無いでしょ。部屋の真ん中を陣取る訳じゃない、むしろ隅っこに行くんだから。堂々と根暗ボーイになりなさい」
「根暗って……」
「あら、違うの?」
「いや、改めて他人に言われると……傷付くから」
「ああ、ごめん、ごめん。良いから早く隅に行ってよ」
その声はどこか気だるげであったが、悪魔教師の笹山にも匹敵するような、妙な威圧感があった。抵抗したい気持ちも湧くが、この部屋の主は彼女であるため、大人しく従うことにした。三太はのろのろとした足取りで部屋の隅に行き、その場で三角座りをする。
彼の様子を静かに見守っていた咲輝は「よし」と言って頷くと、何を思ったのか部屋の奥にあるベッドに向かってダイブした。
「……はぁ~、ベッドふかふか~。気持ち良い~……」
実に気の抜けきった声を漏らす。その表情も普段からは想像出来ないくらい緩み切っていた。以前、旧校舎の教室でもそんな姿を垣間見せたが、今目の前にいる彼女の緩みっぷりはその時の比ではない。つまり、これが彼女の本当の姿ということだろう。
「ねえ、明石家」
気の抜けた声で彼女が呼ぶ。
「え、何?」
「そこにあるポテチ取って」
彼女が指差す先に視線を向けると、床に洗濯バサミで口を止めたポテトチップスが置かれていた。
「じ、自分で取れば?」
三太は恐る恐る反論した。これが普段の咲輝なら「はあ? 他人様の家に来ておきながら調子こくなし」とでも言われてしまいそうだ。しかし、本来の干物状態となった彼女は、顔こそ不満げにしながらもきつい口調になることはなかった。
「良いじゃ~ん、取ってよ~」
人を隅っこに追いやったと直後に何を言ってやがるんだ。胸の内で毒づくも、三太は仕方なしに重い腰を上げて、床に置かれているポテトチップスの袋を掴んだ。
「はい……」
それを咲輝に差し出すと、彼女は「ん」と受け取った。
「あとついでに、そこの冷蔵庫からオレジュ取って」
「え……冷蔵庫なんてあるの?」
「あるよ。ほら、その本棚の隣にあるでしょ?」
言われて見ると、確かに背の高い本棚の横で、小型の冷蔵庫があった。明らかに場違いの存在であるにも関わらず、どんと鎮座してふてぶてしい。
「ほら、早くオレジュ取ってよ」
「あの、武藤さん……」
「何よ?」
「オレジュって何?」
三太が問いかけると、咲輝は眉を歪めた。
「はあ? オレジュって言ったら、オレンジジュースの略でしょうが」
「いや、そんなの初めて聞いたんだけど……」
「うるさいな~。良いから早くオレジュ取ってよ!」
咲輝に急かされて、三太は慌てて冷蔵庫を開けた。その中には二ℓペットボトルや紙パックなど、様々な種類のオレンジジュースで埋め尽くされていた。
「……あの、どのオレンジジュースが良いの?」
「う~ん、そうだな……果汁百パーセントのやつ。そのデカい紙パックのやつちょうだい」
「わ、分かったよ」
三太は指示された物(ぶつ)を咲輝に手渡した。
「あ、でもコップが無いみたいだけど……」
「そんな物いらない」
咲輝はおもむろに起き上がると、紙パックのふたを外す。そして何を思ったのか、大きな紙パックを大きく傾けて、ゴクゴクとそのオレンジジュースを飲み始めた。あまりにも豪快なその飲みっぷりに、三太はただ呆気に取られてしまう。
「……ぷはぁ~。やっぱりかったるい学校帰りには、オレジュの一気飲みが染みる~」
まるで仕事帰りのおっさんのように、彼女は感嘆の唸り声を上げた。
「そしてポテチを一つまみ」
洗濯バサミを外し、袋からポテチを取り出す。ひょい、と口に放り投げた。むしゃむしゃと咀嚼をする。
「う~ん、最高」
ふにゃりと幸せそうな笑みを浮かべた。
三太は未だに呆然としてその様を見つめていると、彼女が振り向いた。
「何よ?」
「あ、えっと……全然違うなって思って。そ、それが……武藤さんの本来の姿……なんだね?」
「ん、そうだよ」
最早取り繕うこともなく、咲輝は頷く。
「あと、どうでも良いかもしれないけど……」
「何? 言ってごらん」
「僕としては、ポテチにはコーラの方が合うと思う……よ」
少しビクつきながら言うと、咲輝の顔があからさまに不機嫌になった。
「だって、あたし炭酸苦手なんだもん。コーラ飲めないもん」
「あ……そうなんだ」
三太が口元に手を添えて言うと、咲輝は目じりを尖らせる。
「ちょっと、あんた今笑ったでしょ?」
「い、いやいや。別に笑ってなんか……ただ、炭酸飲めないんだと思って」
「うるさいな。言っておくけどね、コーラなんかよりもオレジュの方がずっと美味しいんだから。あんたも飲んでみなさいよ」
咲輝はずいと大きな紙パックを差し出して来た。
「え? いや、でも……」
「は、何? あたしのオレジュが飲めないっての?」
「そういうことじゃなくて……その、それは……」
三太は気恥ずかしさのあまり肝心の言葉を紡ぐことが出来ない。
しかし、咲輝は彼の様子を見て、察したようだ。
「あ~、あたしは別に気にしないから。間接キスとか、別に騒ぐようなことじゃないでしょ」
気だるげに、しかしハッキリと彼女は言った。三太は赤面してしまう。
「いや、けどさ……あの、下からコップ持って来れないの?」
「もうベッドから動きたくない」
咲輝はあぐらをかいた状態で、バンとベッドを叩く。
「じゃ、じゃあ……僕が行くから」
「良いから、そのまま飲みなさいよ」
普段のキツい印象を与えるギャルメイクはすっかり剥がれ落ちているというのに、彼女の瞳には有無を言わせぬ力が備わっていた。どっしりと構えた剣呑さが三太の喉元を突くようだった。
三太はおもむろに手を伸ばし、大きな紙パックを受け取る。その飲み口をじっと見て、それからちらりと咲輝の口元を見た。いつもシャレた口紅とリップを塗って艶やかその唇も、今は何も纏っていない状態だ。しかし、そんな無垢な状態だからこそ醸し出されるエロスがそこにあった。つい生唾を飲み込んでしまう。
いかん、あまりそういった妄想は抱いてはいけない。根暗な上に変態とか、本当に救いようが無くなってしまう。とにかく明るい変態ならまだ人から好かれる要素もあるが、とにかく暗い変態なんて、もはやただの犯罪者に等しい。我ながら偏見に満ちていると思うが。
三太はぎゅっと目を閉じた。そして、覚悟を決めて飲み口に唇を寄せる。
オレンジジュースが口内に流れ込んで来る感覚がおぼろげだった。人体の反射で喉が食道へと推し進めてくれたことで、口の端からダラダラと垂れ流すような醜態を晒すことはなかった。
「どうだった?」
飲み終えた直後、咲輝が尋ねてきた。
「え? あ、うん。オレンジジュースも中々美味しいね」
三太は曖昧な笑みを浮かべて答える。
「そうじゃなくてさ。あたしと間接キスした味は、どうだった?」
「へっ?」
三太は素っ頓狂な声を発してしまう。直後、顔が真っ赤に染まった。
「いや、その……な、何でそんなこと聞くの? 間接キスとか、別に気にしないって言ったでしょ?」
「うん、そうだけど。でも、興味があったから。あたしと間接キスして、どうだった?」
「どういって言われても……」
「興奮した?」
それまでふやけていた咲輝の表情に、妙な艶やかさが漂っていた。小悪魔のような笑みを口元に湛えながら、三太を見つめている。
「ねえ、どうなの? 教えてよ」
囁く声が、鼓膜を通して三太の頑なな心の錠を開こうとする。
「そ、それは……」
元来、根暗で気弱な三太は、その悪魔的な尋問に耐えられる術を持ち合わせていない。すぐにゲロってしまった方が楽になる。その楽な方へとつい逃げてしまいそうになる。
「……ぷっ」
するとふいに、咲輝が小さく噴き出した。
「な、何がおかしいんだよ?」
さすがにムッとした三太は、咲輝を睨み付ける。
「いや、本気で葛藤しているあんたの姿が、あまりにも間抜けだったから。つい笑っちゃったの」
「僕のことを、バカにしているのか?」
「そんなに怒らないでよ。ほら、もう一口オレジュ飲んで良いから」
「そんなのいらないよ」
三太は明確な拒絶の意志を表し、憤ったまま部屋の隅へと向かってまたぞろ三角座りを決め込んだ。
「ねえ、怒ってる?」
「別に、怒っていないよ」
「やっぱり怒ってるじゃん」
三太は答えず、顔をうずめた。
「そんな怒らないでよ……今日は、あんたと話をしようと思って呼んだのに」
三太は小さく顔を上げた。ベッドの上であぐらをかいたままの咲輝を見る。
「僕と話? 何の?」
「何で本性を隠すための外面……笹山先生が言う所の『隠れ蓑』を身に付けたのか、聞きたいなと思ったの」
三太はわずかに目を丸くした。咲輝からそのような提案をして来るのは、意外だと思った。
「やっぱり嫌?」
「嫌っていうか……何でそんな話がしたいの?」
「だって、興味があるから」
咲輝は口元に薄らと笑みを浮かべて言う。その笑みは、先ほど垣間見せた小悪魔のようなそれとは違い、純粋な彼女の気持ちが表れているようだった。三太は少し心が揺れるも、中々口を開くことが出来ない。
「……じゃあさ、あたしから話すよ」
すると、気まずい沈黙を打ち破るようにして、咲輝が口を開いた。
「あたしさ、小学生の頃とか全然ファッションに関心が無くて、いつも野暮ったい服装で学校に通っていたの。ほら、小学校ってどこもほぼ私服だから、その子の人物像が人目で分かって、決まっちゃうの。あたしは周りから『咲輝ちゃんダサいよ』って言われまくって、すぐにダサキャラが定着した。けど、一向に構わなかった。あたしはあたしだし、周りの女の子達に合わせてオシャレなんてする必要も無いと思っていた。面倒だし、かったるいし。あたしはいつでもどこでも素の状態でぐうたら過ごしたい。だから、周りからダサいと思われようが知ったこっちゃなかった」
語り始めた咲輝に対して、三太は戸惑いの視線を向けていた。
「けどさ、そんな風に過ごしていたら、ある時噂が立ったの。『咲輝ちゃんの家は貧乏だから、あんな風にダサイ格好しかしないんだ』……ってね。それまでどんな悪口でもどこ吹く風だったあたしは、その悪口だけは耐えられなかった」
咲輝は険しい表情になって、拳を握り締めた。
「……それは、どうして?」
三太はつい尋ねてしまった。
「だって、許せなかったの。あたしのパパとママが侮辱されているみたいで」
力みの余り、逆に先の声は掠れた。
「確かに当時のあたしの家は決して裕福ではなかった。けど、パパとママは一生懸命に働いて、あたしに何一つ不自由の無い生活を送らせてくれていた。だから、家が貧乏だなんて言われる筋合いは無い。それなのに、あたしがちょっとダサい格好でいるからって、みんなしてバカにして……それが許せなかった。あたしのことなら構わない。けど、パパとママが侮辱されるのは許せなかった」
咲輝は唇を噛み締めた。
「だから、オシャレをするようになったの……?」
遠慮がちに尋ねる三太に対して、咲輝はこくりと頷く。
「そう。それまで興味の無かったファッションについて勉強して、クラスで一番、やがて学校でも一番のオシャレになった。そうしたら、周りは手の平を返してあたしのことを賞賛した。ダサイ咲輝ちゃんからオシャレな咲輝ちゃんへと変身を遂げたあたしは、瞬く間に人気者になった。家が貧乏だって、パパとママが侮辱されるようなことも言われなくなった」
「良かったじゃん」
「うん……それで中学に上がって、制服になるから小学生の時みたいに気張ったオシャレをする必要は無いと思ったの。正直、オシャレをし続けることに対して苦痛を感じていたし、前みたいに野暮ったい格好でのほほんと過ごしたかった。けどさ、中学って小学校の人達がそのまま一緒にいることが多いじゃん? あたしが少しでも気の抜けた髪型とかで行くと、『え、咲輝ちゃんどうしたの?』っていちいち言われるの。周りの子達はもうあたしのことをカリスマのように見ていたから、そんなあたしがダサい格好をすることが嫌だった。いや、許せなかったの。そして、あたしも。きっかけは両親をバカにされないためだったけど、いつの間にかみんなの期待にも応えたい、応えなきゃって気持ちが芽生えていた。そして、それを裏切った時、みんなが失望した顔をあたしに向けると思ったら……とても怖くなったの」
悲しげに目を伏せて、咲輝は言う。
「それ以来、あたしは自分の立場を守るために、本来の自分を隠し続けて来た。中学を経て、それまで知らない子が集まる高校においても、あたしは本来の自分を隠してカリスマギャルとして輝き続けた。輝かしく咲き続けた。皮肉にもそうやって、パパとママが願いを込めた名前の期待に応えることが出来たの」
そこまで語り終えた所で、咲輝はそばに置いていた大きな紙パックを手に取り、勢い良く煽った。ゴクゴクと喉を鳴らし、オレンジジュースを飲む。
「ぷはぁ……あ~、喋り過ぎて喉渇いたからさ。いっぱい飲んじゃったよ」
一息吐いた表情で咲輝は言う。三太は何と声をかけたら良いか分からなかった。
ただ、彼女は語った。自分が隠れ蓑を被るようになった理由を語ってくれた。三太が頼んだ訳ではない、あくまでも彼女が自分からしたことだ。
けれども、だからと言って「はい、そうですか」と自分だけ何も語らずに澄ましているのは、どうにも心苦しい。気恥ずかしいが、非常に気持ちが重いが、こうなったら自分も語るべきなのだろう。
「あのさ……」
言葉を紡ぎかけた所で、咲輝が三太に対して手を突き出した。
「ちょっと、ストップ」
「え?」
三太は目を丸くした。
「あんたの話はさ、また明日聞くよ。あんたの家で」
その言葉を飲み込むのに、幾ばくかの時間を要した。
「……は?」
「だから、明日あんたの家に行くって言ってるの」
彼女はあくまでもあっけらかんとして言う。三太は驚愕に目を見開いた。
「な、なな、何を言っているんだ! ぼ、ぼぼ、僕の家に来るなんて! い、いい意味が分からないよ!」
「はは、焦り過ぎでしょ。ウケるんだけど」
「笑いごとじゃないよ!」
「良いじゃん、あたしの部屋に来たんだから。今度はあんたの部屋に行かせてよ」
「今日は君が勝手に連れて来たんじゃないか……」
「けど、あんたは来た。その足であたしの部屋に立ち入った。あたしの恥ずかしい話を聞いた。だから、今度はあたしがあんたに対して同じことをする。その権利があたしにある。その義務があんたにはあるの」
「君さ、すごいワガママだよね」
「そうだけど何か?」
咲輝はにやりと笑みを浮かべて言う。
三太はこれ以上何を言っても無駄だと悟り、静かにうなだれた。
「じゃあ、明日あんたの家に行くからね。三太」
彼女はご機嫌な様子で笑い続けた。
9
放課後の喧騒を掻き分けて、三太は一人で廊下を歩いていた。
今日も友人達からの誘いを断り、「マジかよ三ちゃ~ん」と言われて少し胸が痛んだ。彼らにはまた補習かと聞かれて、そうだと答えた。だが、実際には違う。だからこそ、余計に心苦しい。
「お、明石家くんじゃん」
前方から快活な声が響いた。おもむろに顔を上げると、見知った男女が並んで歩いていた。
「……おお、春日井くんやないか。そしてお隣には、百瀬さん」
三太が口の端を吊り上げて言うと、日向は照れたように目を逸らす。
「何や、君達の交際は順調みたいやな」
「まあね」
健人は笑顔で頷く。
「あれか、春日井くんが望んどった『おっぱいドリブル』はもうしたんか?」
「いやー、それが日向ちゃん、中々それを許してくれないんだよ」
「はは、そらそうやろ。パイタッチさえ拒否られてたんやから」
「そうなんだよね~。まあ、もうキスは出来たから良いんだけど」
笑いながら健人が言うと、彼の制服の袖を小さな手が引っ張る。
「け、健人くん! そ、そんなこと言ったら恥ずかしいよ……」
日向は顔を真っ赤に染めていた。
「ごめん、ごめん」
健人は微笑んで日向の頭を撫でた。その様子を黙って見つめていた三太は、にかっと健人に負けないくらいに快活な笑みを浮かべて見せた。
「お二人さん、本当に上手く行っているみたいやな」
「ああ。それもこれも、あの『みのクラ』に所属して隠れ蓑を脱いだおかげだよ。笹山先生には感謝しないとな。ね、日向ちゃん?」
健人が問いかけると、日向は「う、うん」と頷いた。
「へ、へえ。あの性悪教師に随分と感謝してるんやな」
「もちろん。明石家、前にも言ったけど君も隠れ蓑を脱ぎなよ。そうすれば、きっと今よりも楽しい人生が歩めるよ」
三太はぴくりと眉を動かす。
「……はは、どうやろな。俺の本性なんか晒した所で、今よりも幸せになれるなんて到底思えんわ。せやから、俺は今のままでええよ」
三太が言うと、健人の表情がかすかに険しくなった。
「もしかして、『みのクラ』に行っていないのか?」
「ああ、そやねん。昨日からサボってるんや。そもそも、あんな所に行ってもただ性悪教師に訳分からんこと吹き込まれるばかりで、何も得る物は無い。せやから、俺はもう行かん」
「けど、先生は間違ったことは言ってないと思うよ。現に、こうして俺達は前よりも活き活きとして日々を送っている訳だし……」
「じゃかあしいわ、ボケ!」
突然叫びを上げたことで、健人以上に三太自身が驚いた。だが、一度怒声を発した手前、もう引っ込みが付かない。
「うるさいねん、お前。自分がちょっとばかし上手く行っているからって、俺に見せつけやがって。何様のつもりやねん!」
「別に、俺は見せつけてなんか……明石家にも今よりも楽しい気持ちになって欲しいと思って……」
「せやから、言うてるやろ。本来の俺を晒した所で、今よりも幸せになることなんてありえへん。君達は本来の姿を晒しても、そこにまだ魅力を感じる奴らがいた。せやから、楽しい生活が遅れている。けど俺は……俺の本性は見せたらアカン。誰も好きにならん。よう喋らんと、一人で隅っこに縮こまっている俺なんて、何の価値も無い。何の需要も無い。ゴミクズや」
「そんなことは……」
「何より、そんな自分を晒すのが怖いねん……せやから、もう勘弁してや」
うなだれて、搾り出すような声で、三太は切実に訴えた。
「そっか……そうだよな。ごめん、正直な所、俺は少し浮かれていたかもしれない」
隣で怯える日向の背中を優しく撫でながら、健人が言う。
「……いや、すまん。俺もついカッとなって言い過ぎたわ」
三太は苦笑して額を手で押さえながら言った。
「けどさ……明石家。正直に言って、疲れないか?」
「は?」
「ずっと隠れ蓑を被り続けて、疲れないか?」
真っ直ぐに見つめて来る健人に対して、三太は答えることが出来なかった。ただ言いようのないもどかしさが胸の辺りを這い回り、唇を噛み締めてしまう。
「……別に、疲れないで。小さい頃からずっと被っとるんや。いい加減、慣れたわ」
「……そうか。うん、分かった」
健人はどこか切なげに微笑みを残し、日向と共に三太の脇を過ぎ去った。
彼らの足音が遠ざかって行く間、三太はしばし呆然と立ち尽くしていた。
◇
駅前のバスターミナルにやって来ると、自宅方面のバス停にひと際目を引く少女が佇んでいた。のろのろとした足取りで近付いて行く内に、彼女もこちらに気付いたようだ。
「来たわね」
彼女の下まで歩み寄ると、三太は小さく頷いた。
「どうしたの、何か落ち込んでるじゃん? てか、もしかしてもう隠れ蓑脱いじゃってんの?」
「こんな人がいる所でんなことするか、ボケ」
「じゃあ、何でそんな風に落ち込んでんのよ?」
咲輝の問いかけに対して、三太は答えあぐねる。
「……まあ、別に良いけど」
バスが来て乗り込んでから、二人は特に会話をすることなく揺られていた。三太は先ほどの健人との言い合いを思い出し、苦い感情に苛まれていた。
やがて、バスは三太がいつも下車するバス停に到着した。のろのろと歩いて数分、自宅にたどり着く。
「へえ、ここがあんたの家なんだ」
隣に立つ咲輝が言った。
「なあ、武藤さん。ホンマに俺の部屋に来るんか?」
「そうだけど。ここまで来たんだから、当然でしょ」
「けどな……」
三太がやや困惑した表情を浮かべると、咲輝は眉をひそめた。
「何よ、嫌なの?」
「嫌とか、そういう訳じゃないけど……ほら、こういう問題ってデリケートやん」
「良いじゃない。昨日、あんたはあたしの部屋に来たんだから」
昨日もそうだったが、咲輝は平然としている。三太としては年頃の男女が互いの部屋に行くという行為は嬉しくドキドキするものであるが、それ以上に気恥ずかしさを感じて落ち着かない。それに、自分の部屋は誰にも犯しがたい領域だ。おいそれと他人を入れるというのは、抵抗がある。思えば、今まで友達と遊ぶ時など、一度も自分の部屋に招いたことはない。そこはこの世で唯一、本来の自分を晒すことが出来る場所だったから。ただ、それもどこかの性悪教師の余計な計らいのせいで、唯一の価値は失われてしまったが。それでも、自分だけの領域なのだ。
「ちょっと、何ボケっとしてんのよ? 早く入れなさい」
ふっと視線を向けると、咲輝が顔をしかめていた。
このまま立ち止まっていても埒が明かない。
観念した三太は、家のドアへと向かい、胸ポケットからカギを取り出して開けた。
「誰かいるの?」
玄関に入ると、咲輝が尋ねた。
「いや、親は仕事に行っているから、誰もいないで」
「じゃあ、昨日みたいに二人きりね」
相変わらず何気なく言ってくれるが、その一言一言が三太の理性を掻き乱す。そうだ、思えば昨日も彼女と二人きりだったのだ。そして、今日これからも二人きりなのだ。彼らの年頃であれば何かしらの間違いが起きてもおかしくはない。いや、間違いってなんだ。何も起こりはしない。
「部屋どこ?」
「二階や」
二人分の軋む足音を鳴らしながら階段を上る。
三太は自分の部屋の前に立つと、一瞬だけ躊躇した。だが、そうしているとまたぞろ咲輝が不機嫌そうに睨んでくるので、意を決してドアを開く。
「へえ、案外きれいね。男の部屋なのに」
「そいつはどうも」
三太は頷き、床に鞄を置いた。
さて、これからどうしたものか。
思い悩んでいた時、すぐそばで衣擦れの音が鳴った。
振り向くと、咲輝が制服のブレザーを脱ぎ始めていた。
「お、お前! いきなり何しとんねん!?」
三太はぎょっと目を剥いて叫んだ。
「何って、着替えているんだけど。ちょっと、あっち向いてくれない?」
「いやいや、何を勝手に着替え始めとんねん! 昨日は自分の部屋だからまあ分かるけど、ここは俺の部屋! マイルーム! そこで君は一体何をしているの!」
「うっさいな、あんたも早く脱ぎなさいよ」
「あん?」
「隠れ蓑、脱ぎなさいよ」
そう言って、咲輝は淡々と着替えを進めて行く。
三太は彼女から目を逸らす。そして、目を閉じた。
何なんだ、あいつは一体。人の部屋に勝手に来て、勝手に振る舞って。ここはお前の部屋じゃないんだよ! 尚も胸の内で叫び続ける。だがやがて疲れた三太は、ゆっくりと、己の実体を隠す蓑を脱いで行った。
「…………はぁ」
暗く陰鬱な表情になった三太は、ため息を漏らす。
「……武藤さん、もう着替え終わったかな?」
慎重な声音で尋ねる。
「うん、終わったよ」
ギャル時の刺々しい口調から、どこかだらけたそれに変わっている。どうやら、彼女も蓑を脱ぎ終わったようだ。三太はおもむろに振り返る。
「……え?」
直後、またしても目を見開いた。
着替えを終えた咲輝が、あろうことかベッドでぐったりと横になっていた。
「ね、ねえ武藤さん」
「ん、何よ?」
「いや……それ、僕のベッドなんだけど……」
「ああ、そうだね。中々の寝心地だよ」
三太の狼狽など一切構うことなく、咲輝は心行くまでだらけていた。いつの間にかメイクパージも完了し、髪もボサボサになっている。完全干物態勢が整っていた。
「……あのさ、それって学校の体操着だよね?」
「うん、そうだよ。今日体育の授業だったから、ちょうど持っていたの」
「え、それって汗とか……」
言いかけた所で、三太は口を押えた。だが、咲輝は眉をひそめる。
「何よ、別に汗臭くなんて無いわよ」
そう言って、咲輝はえんじ色の体操着の袖に鼻を寄せて、くんくんと嗅いで見せる。
「うん、臭わない」
「あ、そう……」
三太は浮かない表情で答えた。
「何よ、その目は。そんなこと言うなら、あんたも嗅いでみる?」
咲輝は自らの腕を持ち上げて、腋の部分を示した。
「えっ……いや、そんな……」
「何キョドってんの。キモいんだけど」
戸惑う三太に対して、咲輝は冷めた口調で言う。
「ねえ、ていうかオレジュちょうだいよ」
「え? あ、ごめん。オレンジジュースは無いんだ」
「はあ? あたしが来るんだからきちんとオレジュ用意しといてよ! 気が利かないな!」
ベッドにぐったりした状態で咲輝は喚き立てる。
「ご、ごめん。その、お茶で勘弁して下さい……」
「はぁ~……全く、しょうがないな」
ここは自分の家で自分の部屋だと言うのに、なぜ自分はこんなにも平身低頭なのだろうか。
理不尽なわがままに少なからず怒りを覚えつつ、三太は一旦下に行ってお茶を用意し、部屋に戻った。
「はい、お茶持って来たよ」
三太はテーブルに置きながら言った。
「こっち持って来て」
咲輝はベッドで寝そべったまま言う。
「もしかしてその態勢で飲むの? やめてよ」
「大丈夫だよ。あたしは寝転がりながら二ℓのオレジュ飲んだことあるもん」
「だとしても、やめて下さい」
「ちぇー、何よ」
咲輝はかったるそうにベッド起き上がると、テーブルの前にちょこんと座った。三太と向かい合った状態で、お茶の入ったコップを持つ。こくこくと、喉を鳴らす。
「……はぁ、やっぱりオレジュじゃないと物足りない」
「わがまま言わないでよ」
「わがままじゃないもん。あたしの血はオレジュで出来ているの。これは死活問題なの」
「武藤さん、それ本当にわがままだよ……」
呆れて三太が指摘すると、咲輝が頬を膨らませた。また機嫌を損ねてしまったかと、焦ってしまう。
「ていうか、その武藤さんってのやめてよ」
「へっ?」
「こうやって二人でいる時は、咲輝って呼んでよ」
「でも……」
「あたしも、あんたのこと三太って呼ぶから」
そういえば、昨日も別れ際に彼女が『三太』と名前で呼んでいた。
三太はなぜか無性に照れ臭くなってしまう。
「いや、でも……」
「良いから、咲輝って呼ぶ」
口調はふやけている癖に、有無を言わせぬ力があった。
「わ、分かったよ……咲輝さん」
「『さん』いらない」
「さ、咲輝……」
「よろしい」
満足げに頷いて、咲輝はお茶を一口煽った。三太はため息を吐く。
「じゃあ、そろそろ聞かせて」
「え?」
「とぼけないでよ。今日はそのために来たんだから」
咲輝は気持ち、三太に顔を寄せた。思わずどきりとしてしまう。
「聞かせてよ、あんたが隠れ蓑を被るようになった理由を」
何となくであるが心の準備はしていたので、その問いかけを受けてさして動揺することはなかった。けれども、やはり心臓が落ち着きなく跳ねてしまう。それは今しがた、咲輝が自分に顔を近付けたせいでもあるだろうが。
「別に、大した話じゃないよ……」
「良いよ。それでも聞かせて」
つけまつげやアイラインに彩られていない咲輝本来の目は、無垢な輝きを持っていた。見つめられると、逃げずに答えなければいけないと思わされてしまう。
「……小さい頃から僕は根暗で人見知りで、いつも一人でいた。みんなが外で駆け回っている中、僕は一人で部屋にこもっている方が好きだった。その方が気楽だし、それで良いと思っていた。
けど、小学生に上がった頃だよ。僕は相変わらず誰とも喋らずに一人ぼっちだった。これからもずっとこんな風に生きて行くんだと思っていた。そんな僕に対して、学校の先生は声をかけてくれた。『いつも一人だね?』『三太くん、お友達はいないの?』……って。それまでも、何度か周りの人にそう言われたことがあった。でも、あまり気にしなかった。
けれども、僕はなぜだか急に恥ずかしくて居たたまれない気持ちになったんだ。小学校というコミュニティの中で、いつも一人でいる自分。自分だけが一人。その事実が、どうしようもなく恥ずかしいことだと思うようになったんだ。一人でいるのは相変わらず好きだった。けど、その姿を目撃されて周りから指摘されると、無性に恥ずかしくなった。親に言われることも恥ずかしくなった。恥ずかしくて、カッコ悪くて、惨めで……だから、僕はみんなの前では明るくて饒舌なキャラを演じることにしたんだ。元々名字が『明石家』で、名前も親の遊び心で『三太』って付けられていた訳で、初めは周りも戸惑っていたけど……やがて、僕は明るく饒舌な人気者になって行った」
そこまで語った所で、三太はコップを傾けてお茶を飲んだ。
「そして僕は、今まではすっかりそのキャラが定着した。笹山先生が言う所の『隠れ蓑』を被って生活するようになったんだ」
三太は改めて咲輝を見た。彼女は黙って彼を見つめている。
「ね? 大した話じゃなかったでしょ?」
三太は問いかける。
「……そうね、確かに大した話じゃないかもしれない。他人からすれば。けど、あんたにとっては大きな問題なんでしょ?」
「え……?」
「あたしは分かるよ。本当の自分を晒すことは、怖いから。その結果、周りを失望させるのも怖いから。そう、あたし達って結局の所、臆病者なのよね」
「……僕のことを否定しないの?」
「何で? だって、あたし達は同じ穴の狢でしょ? 他の二人は卒業しちゃったから、今はあんたとあたしの二人だけだもん。むしろ、強く共感するよ」
「武藤さん……」
「だから、咲輝って呼びなさい」
「えと、しゃき……あっ」
「ぷっ、何噛んでんの? ダサ過ぎ」
「ご、ごめん……」
「あんたさ、今まではウザくてキモいと思っていたけど……結構カワイイね」
「へ?」
三太はきょとんとした。
「明日さ、またあたしの部屋に来てよ」
「え? でも……」
「嫌?」
咲輝は小首を傾げて言う。その仕草を見て、不覚にも可愛いと思ってしまう自分がいた。
「……そ、そんなことないよ。分かった、行く」
「よし、決定ね。あ、そうだ。いつあたしが来ても良いように、今度からオレジュ買っておいてよね」
「え、また僕の部屋に来るの?」
「ダメ?」
また、小首を傾げて咲輝は言う。
「ダメじゃないけど……」
「ありがとう、三太」
年相応にあどけない笑みを浮かべる彼女を見て、今日一番の胸の高鳴りを感じた。
⒑
放課後の賑やかな廊下において、ひと際騒がしい声が響いていた。
「ギャハハ、三ちゃんマジで?」
「ホンマや。家の廊下でコケて『アカン!』って思った俺は、とっさに前回り受け身を取ったんや。これは素質があると思ってな、今度近くの柔道クラブに入ろうかと思ったんや」
「それなら、うちの柔道部に入れば良いじゃん」
「バカ、あんな男ばかりのムサいとこ入ってられるか。その柔道クラブには年頃のお姉さんもおんねん。そんなお姉さん達とくんずほぐれつすることが俺の望みや」
「三ちゃん、変態だな~。まあ、春日井くんほどじゃないけど」
「てか、あいつすっかり変態キャラとして定着したよな」
友人達はゲラゲラと笑う。
「キャラじゃないやろ」
「え?」
「あ、いや……何でもあらへん」
三太はややぎこちなく、にかっと笑う。
そのまま歩みを進めていると、廊下の一角を陣取るギャル集団が視界に入った。。
「咲輝、今日も遊べない系?」
「そうね。今日も補習があるから。ごめん」
茶髪の毛先をくるくると弄びながら、咲輝は言う。
すれ違う時、彼女と視線が合った。その口元にかすかな笑みが浮かんだように見えた。不覚にも、どきりと胸が高鳴ってしまう。
「なあ、三ちゃん。今日も補習なのか?」
「え? あ、せやな。悪いけど、先に帰ってくれや」
「ちぇー。早く補習クリアして遊ぼうぜ」
「明石家がいないとイマイチ盛り上がりに欠けるからな」
友人達は口ぐちに言う。
「悪い、悪い。けど、笹山先生って厳しいねん。まあ、精々気張るわ」
それから昇降口にたどり着いて、三太は友人達と別れた。そのまま、旧校舎の方へと歩いて行く。その渡り廊下の手前で止まり、廊下の壁に寄りかかった。適当に時間を潰してから、学校前のバス停に向かおう。そうやって友人達をかわす。それから駅前のバス停で咲輝と待ち合わせる。家が同じ方面なので、二人の仲を疑われる心配はないだろう。ただ、二人共同じ補習を受けていることは知られているので、それと関連付けられて仲を疑られるかもしれないが。いや、そもそも三太と咲輝はそんな恋仲という訳ではない。ただここしばらく、お互いの部屋を行き来している。それだけのことだ。それ以上でもそれ以下でもない関係だ。今の所は。
カツン、という足音で三太の取り留めのない思考に歯止めが掛けられる。一瞬、咲輝が来たのかと思ったが、違った。
「よう、明石家」
そこにはさらとした黒髪をなびかせる美男、笹山がいた。
三太は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに明るい笑みを浮かべた。
「どうも、笹山先生! 何やごぶさたしてますね~」
三太が明るく声をかけると、笹山は口元で微笑した。
「ああ、そうだな。ここ最近、俺の所に来てくれないからな。寂しいよ。国語の授業の時、さりげに視線を向けても無視されるしな」
「ちょっと先生ってば、授業中に俺にそんな熱視線を送っていたん? 照れるやん!」
「あはは、本当に鬱陶しいな。いい加減、その隠れ蓑脱ぎなよ」
さらりと、笹山は言った。
「……はは。先生も言ったやないすか。強制はしない。決めるのはあくまでも俺達自身やって」
「ああ、その通りだ。俺は決して強要はしない……ただな、明石家」
ふいに、笹山の目が真剣な光を帯びた。
「お前、今のままじゃその内壊れるぞ」
その一言が、なぜだか深く胸に突き刺さる。
「壊れるってどういうことですか?」
「自分の胸に手を置いて考えてみな」
「何や、ケチやな」
三太は唇を尖らし、ポケットからケータイを取り出す。
「あ、もうこんな時間や。俺、そろそろ行かないとアカンから」
「そうか。そういえば最近、武藤も来ていないが……もしかして、二人でよろしくやってるのか?」
「なっ……何言ってんすか、先生。てか、教師のくせによろしくとか言ってんじゃねえよ」
「ああ、悪い悪い。けどまあ、ほどほどにしておけよ」
「余計なお世話やっちゅうに」
「全く、俺はあくまでもお前のためを思って言っているのに」
笹山はわざとらしくため息を吐いた。
「ああ、もう分かりましたって。ほな先生、俺もう行きますわ」
これ以上やり取りをしても仕方がない。
笹山の返事を待つことなく、三太はその場を後にした。
◇
その部屋では、まったりとした時間が流れていた。
「ねえ、三太。オレジュ取って」
現在、目の前でベッドに横たわる咲輝は、普段の華やかさの欠片もない。髪はボサボサで、ノーメイクで、野暮ったいジャージ姿である。完全なる干物状態であった。
「分かったよ……」
三太は部屋の隅から思い腰を上げて、冷蔵庫に歩み寄る。二ℓのオレンジジュースのペットボトルを差し出すと、咲輝は寝転がったまま受け取り、慣れた手つきでキャップを開けて、ごくごくと飲み始めた。本当に寝そべったまま飲んでいるよ、この干物女。
「……ぷはぁ、生き返るぅ~。例え世界が滅ぼうとも、オレジュは滅ばないで欲しいな」
今の彼女に普段の華やかさはない。
それでも、そんな彼女が可愛いと思ってしまう。不覚にも。そんな自分はバカなのだろうか。
「三太も飲む?」
差し出されたボトルと見て、三太はうろたえる。
「だから、間接キスくらいでうろたえるなって」
「べ、別にうろたえてないよ」
三太は口ごもりながら反論し、ボトルを受け取る。その飲み口を緊張した眼差しで見つめ、一思いに飲んだ。
「きゃぁ、三太と間接キスしちゃった~」
「……ゲフ、ゴハッ!」
三太は思わずむせてしまう。それから、咲輝を見る。彼女はいたずらな笑みを浮かべていた。
「お前、最低だな……親の顔が見てみたいよ」
「じゃあ、見て行く? 夕方過ぎまで待っていれば、仕事から帰って来るし」
「い、いや良いよ。何か咲輝のお父さん、怖そうだし……」
「本当、ビビリなんだから」
「うるさいな。そっちこそだろ……」
「……それもそうだね」
そっぽを向く三太に対して、咲輝は苦笑した。
「あのさ……」
三太が声を発する。
「ん、何?」
咲輝は小首を傾げる。
「その、何て言うか……このまま、こうして過ごしたいね」
「え?」
「隠れ蓑なんて脱いで恥ずかしい思いしないで、こうやって二人の時だけ本当の姿を晒して、普段はまた隠れ蓑を被って……そうやって、過ごしたいって思うんだけど……どうかな?」
三太は不安な気持ちを抱きながら、ちらりと咲輝を見た。彼女はしばし口を閉ざしていた。
「……うん、そうだね。あたしも三太とこうして過ごしたいかも」
「ほ、本当に?」
「うん、本当だよ」
相変わらずベッドにぐったり寝転んだまま、しかし確かに明るい笑みを咲輝は浮かべた。
「ねえ、三太も一緒に寝る?」
「へっ? いや、それは良いよ……」
「やーい、ビビッてやんの」
くすくすと笑う咲輝に対して、三太は不満げな顔で俯く。
全く、本当に困ったもんだ。こんな女に翻弄されてしまうなんて。
だがその時、無性に楽しい。そう感じていた。
◇
「ふわぁ……」
朝の校舎で廊下を歩く三太は、欠伸を漏らす。
「どうしたの、三ちゃん。寝不足?」
「ん、まあな……」
「やっぱり、補習の課題がきつかったりするのか?」
「いや、まあ……そんな感じや」
三太は曖昧に答える。
本当は、咲輝と過ごす甘く優しい時間が寝る際に脳裏で何度も蘇り、興奮して安眠を妨げられているのだ。しかし、そんなことは口が裂けても言えない。言うつもりもない。
「まあ、ほどほどにしておけよ」
「おおきに、心配してくれて」
三太は笑みを浮かべて再び歩き出した。
すると、前方に何やら人だかりが生じていた。
「どうしたんだろ? すごい人だね」
「あれってA組の前じゃね? 確かA組って武藤咲輝がいるクラスだろ? 華々しいギャルのファッションショーでもやっているんじゃないか?」
「あはは、まさか。でもちょっと気になるし、行ってみようよ。ね、三ちゃん?」
「え? あ、おう。そうやな」
友人達に先導される形で、三太は人だかりへと向かって行く。その最中、三太はなぜだか胸騒ぎを感じていた。
「はい、ごめんね。ちょっと通してねー」
友人達は人だかりを掻き分けて進んで行く。彼らの後に付いて、三太はA組の教室に足を踏み入れた。
「ちょっと、咲輝! あんたその格好は何よ!?」
途端に、女子の叫び声が響き渡った。
「だから何度も言ってるじゃん。これが本当のあたしだって」
華々しいギャル達が一人の女子を取り囲んでいた。
髪はボサボサでノーメイク、おまけに体操着で机にぐったりとしている。
「咲輝! あんた何言ってんのよ! あんたはウチらのカリスマでしょ!?」
「そうだよ! 誰よりもおしゃれでオーラ放ちまくってんのが咲輝だよ!」
「そんな干物女みたいな格好、咲輝じゃねえっしょ!」
「あ~、正にその通り。あたしって、実は干物女なんだよ」
だらけた咲輝の一言で、ギャル達は一斉に口ごもった。
「あのさ、あたしのことをカリスマとして持ち上げてくれるのはありがたいけどさ……ぶっちゃけ、もう疲れちゃったんだよね」
咲輝はむくりと身体を起こし、ギャル達を見つめた。
「だから、ごめん。あたしもうカリスマ下りるよ。これからは干物女として、堂々と生きて行きます」
特に気張る訳でもなく、あくまでもだらけた声で彼女は宣言した。
ギャル達に限らず、周りの生徒達は絶句していた。
「おいおい、何かすごいことになってんな」
「ねえ。三ちゃんも驚いたよね?」
友人達の問いかけを無視して、三太は彼女の下に歩み寄っていた。途中でギャルに身体が当たるが、構うことなく彼女に歩み寄った。
「おい」
三太が声をかけると、咲輝はおもむろに彼を見上げた。
「これはどういうことや?」
「どういうことって、あんたの見たまんまだよ?」
「何でや? 二人でこのまま過ごそうって約束したのに、何でや……」
三太の声はかすかに震えていた。
「……ごめんね、三太。あたし、やっぱり脱ぐことにしたんだ」
「え?」
「一足先に、脱がせてもらったから」
「お前……」
三太と咲輝が静かに睨み合っていた時、
「おい、君達。この騒ぎは何だ。もうすぐHRなんだから静かにしなさい」
凛とした声を張り上げたのは笹山だった。
彼は教室内の様子を見渡す。その焦点がこちらに定まった。
「……ああ、なるほど」
かすかに彼の口元がほくそ笑んだのを、三太は見逃さなかった。
「武藤、体育の授業以外で体操着になるなよ」
「ごめんなさい。ちょっと制服が汚れちゃって、洗って乾かしているんです」
それはどう考えても見え透いた嘘であるが、笹山は頷いた。
「そうか。まあ、そういうことなら特別に認めてやろう」
「ありがとうございま~す」
だらけて返事をする咲輝に微笑みかけた後、笹山は踵を返す。
去り際、ちらりと三太を見てまたほくそ笑んだような気がした。
だが、今の三太には考える余裕など無かった。
◇
今日一日、自分が何をしていたのか思い出せない。
授業の内容も友人達と交わした会話の内容も、何一つ覚えていない。あの朝の出来事から、何も覚えていない。
「三ちゃん、大丈夫?」
放課後、自分の席で呆然としている三太に対して、友人が心配げに声をかけてきた。
「……ああ、大丈夫やで」
「けど、元気が無いよ?」
「それは……これから補習やと思うと、憂鬱な気分なっとるだけや」
我ながら白々しい嘘を吐いている。そもそも、普段から自分はずっと嘘を吐いているのだが。なぜだか、そんな自虐的な気持ちで溢れ返っている。席から立ち上がった。
「悪い、今日も先に帰ってくれや」
友人達にひらひらと手を振って、三太は教室を後にした。
放課後が喧騒に包まれているのはいつものことだが、今日はまた少し雰囲気が違った。
「ねえ、今日の武藤さんの格好見た?」「うん、見た見た。本当にどうしたんだろうね?」「この前の春日井くんと百瀬さんの時も驚いたけどさ……」「学園の人気者達が揃って、どうしたんだろうね?」
時折、そんな会話が耳に届いて来る。だが精一杯聞こえない振りをして、三太は歩き続けた。
やがて、新校舎と旧校舎を繋ぐ吹き抜けの渡り廊下の前にやって来た。少し立ち止まってから、また歩き出す。過ぎ去る春風は爽やかだった。それでも、三太の心のもやもやを吹き飛ばすには至らない。
旧校舎の廊下は相変わらず軋む。外は快晴なのに、どこか湿っぽい所も相変わらずだ。こんな場所には二度と訪れないつもりだった。それでも、確かめなければいけないことがあって、三太は歩みを進めていた。
奥の教室の前にたどり着く。およそ一週間ぶりだろうか。この悪魔が支配する教室を再び訪れることになろうとは。気が重くて仕方がない。だが、このまま立ち止まっていても仕方がない。三太はおもむろに扉の取っ手に触れた。
「――改めて、『みのクラ』卒業おめでとう」
瞬間、教室内から男の声が聞こえた。
「別に、いちいちお祝いとかしなくて良いよ」
気だるげな女子の声が返す。
二人の声を聞いた瞬間、三太の心臓が落ち着きなく跳ね始めた。自然と呼吸も荒くなってしまう。彼は静かに、小さく扉を開いた。
「けど、先生には感謝しているかな。初めはすごく嫌だったけど……でも、やってみたら案外平気だったし、何だかすっきりした」
「そうか、それは良かった。まあ、武藤はやれば出来る子だと、俺は思っていたよ」
「あっそう」
笹山の言葉に対して、咲輝はそっけなく返す。だが、決して嫌悪感を抱いていないことは、容易に伺えた。むしろ気の置けない間柄の、仲の良いやり取りのように見えた。
そんな二人の様子を、三太は血走った目で見つめていた。心臓は未だに落ち着きなく跳ね回っている。獰猛な獣のように。
その時だった。テーブルでぐったりとしていた咲輝の視線が、ふいにこちらへと向いた。扉の隙間はごくわずかであったが、本来の無垢な彼女の瞳が、しっかりと三太の姿を捉えていた。一瞬、背筋が凍った。必死に言い訳の言葉を見繕う。
直後、咲輝の口元が薄らと笑みを浮かべた。その笑みは、誰かさんにそっくりだった。
彼女は前に向き直り、笹山を見つめた。
「ねえ、先生」
「ん、何だ?」
「頑張って隠れ蓑を脱いだんだから、ご褒美ちょうだいよ」
「ご褒美? 良いぞ、何が欲しいんだ?」
笹山が問いかけると、咲輝は「うーん」と悩む素振りを見せた。
「じゃあ……あたしの頭を撫でてよ」
え? 何を言っているんだ?
「おいおい、武藤。君は何を言っているんだ?」
「ていうか前から思っていたけど、先生って男子に対しては『お前』で、女子に対しては『君』、男女が一緒にいる時は『君達』って使い分けているよね?」
「ん、よく気が付いたな。褒めてやるよ」
「別に、余裕で気が付くでしょ。ていうかさ、あたしは女子だけど『お前』って呼んで良いよ」
「何でだ?」
「だって、その方が近しい感じがするじゃん」
「まあ、ご希望とあればそうするけど……それで、お前は俺に頭を撫でて欲しいのか?」
「うん。撫でて欲しい」
咲輝はこくりと頷く。
そんな彼女の頭に、笹山はそっと手を伸ばした。
「よしよし、良く頑張ったな」
笹山に撫でられている間、咲輝は気持ち良さそうに瞳を閉じている。
自分は一体、何を見せつけられているのだろうか?
ふいに、咲輝と過ごした時間が蘇る。お互いのプライベート空間を行き来して、入り浸って、時には甘い空気も醸し出して。正直な所、そんな時間を過ごしている内に彼女のことが好きになっていた。そして、彼女も自分に対してそれなりに好意を抱いていたと思う。このまま二人で、例えぬるくても楽しい時間を過ごして行けたら良いと思っていた。
それなのに……なぜ、彼女は。
「ちょっと、先生。そんな強く撫でないでよ、髪が痛むじゃん」
「良いじゃないか。お前の髪はボサボサなんだから」
何でそんな性悪教師と、楽しげにイチャついているんだ?
何でだ? 僕とのことは、遊びだったって言うのか?
「……お、おい! 僕の咲輝に触れるな! この性悪教師!」
勢い良く扉を開け放って、叫びたい衝動に駆られる。
だが、自然と指先から力が抜け落ちて、取っ手から外れた。
扉越しに、仲睦まじく話している二人の声が漏れて来る。
とても居たたまれない気持ちになり、三太は軋む廊下を静かに歩き出した。
⒒
カーテンの隙間から溢れ出す朝日が、乾き切った目に染みた。
昨夜、三太は一睡もしていない。悪夢のような現実の光景が何度もフラッシュバックして、到底安らかな睡眠に至ることは叶わなかった。
寝返りを打って、枕を抱きかかえる格好になった。そこからほのかに香るのは、彼女の匂いだ。既に失ってしまった、彼女の匂いだ。
湧き上がる憎悪。しかし、それを凌駕するのは悲しみの感情。彼女に裏切られ、そして奪われた事に対する怒りよりも、失ってしまった悲しみの方が大きい。
何でだよ? 僕達はあんなに良い関係を築いていたのに。何でだよ?
胸の内で叫んでも、彼女が自分の下に戻って来ることはない。
ベッドのシーツを強く握り締める。
自らの内から湧き上がった怒りの炎によって、身を焦がされる思いだった。
◇
「よう、おはようさん!」
昇降口で友人達の姿を見つけると、三太は快活な笑みを浮かべて言った。
「あ、三ちゃんおはよう。今日はちゃんと元気だね」
「当たり前や! 俺はいつでも元気マンやからな!」
「おいおい、調子の良い奴だな」
「まあ、ええやないの。あ、そうやお前ら。今日は久しぶりに遊びに行こうや」
三太が言うと、友人達は目を丸くした。
「え、でも補習は良いの?」
「ああ。もう補習なんてアホらしいから、行かんことにしたわ」
「それってサボりじゃねえか?」
「まあ、ええやん。細かいことは気にすんなって」
「でも、三ちゃんと遊べるのは久しぶりだし、良いと思うよ」
「そうだな。良いぜ、久しぶりに遊ぼう」
「おっしゃ、決まりやな」
にかっと笑い、三太は廊下を歩き出す。
その時、ちょうど同じタイミングで昇降口から入って来た少女と鉢合わせた。ボサボサでスッピンの彼女の周りには、いつもの取り巻きはいなかった。
「……これは、これは。誰かと思えば、昨日カリスマギャルの地位から失脚された、武藤咲輝さんじゃありませんか」
気が付けば、そんな台詞を口走っていた。
「なあなあ、率直に今の感想を聞かせてくれんか? カリスマの地位から落ちた今の心境を、聞かせてくれや」
嫌味ったらしく三太は詰問する。背後で友人達が制止するのも無視して、ずいと迫る。
咲輝は怒りの感情を露わにすることなく、むしろ冷めていた。干物女の気だるげな空気を醸し出しながら、静かに三太を見つめている。その態度が癇に障った。
この、裏切り者のクソビッチが!
「おい、何か言うてみろや!」
色々な感情が綯い交ぜになって、三太の理性を掻き乱す。
すると、咲輝が小さくため息を吐いた。眉をひそめる三太を、彼女は改めて見つめた。
「な、何や?」
三太は思わず身を引いてしまう。
「……あんたさ。人の気持ち、少しは考えなさいよ」
一瞬、言葉に詰まった。静かながらも鋭利な眼差しが、喉元に突き刺さった様に。
「そ、そんなに傷付いたんか? カリスマとしての地位を失って侮辱されたことが。けど、自業自得やないか」
我ながら最低なことを言っている。いくら相手が性悪に堕ちたクソビッチだとしても、言い過ぎだと思う。けど、饒舌な隠れ蓑を被っている今の自分に、歯止めを掛けることは出来ない。
咲輝が小さく唇を噛み締めた。
「違うっての……」
呟いた彼女の瞳にうっすらと涙が浮かんでいるように見えて、三太は動揺した。
「おい、お前……」
声をかけようとしたが、咲輝は三太から顔を背け、スタスタと歩き去ってしまった。
「三ちゃん、さすがに今のはひどいよ。悪ノリだよ」
「ていうか、ギャルじゃなくなったとはいえ、よくあの武藤にキツイ物言いが出来るな」
友人達の言葉が、遠くなりかけている意識に重く垂れこめて来る。
「……いやー、我ながら大人げ無かったで。まあ、勘弁してや」
「それ、本人に言いなよ」
「それは無理やな。俺、あいつにめちゃ嫌われてもうたから」
あくまでも明るい調子で、三太は言う。
それに反して、心はどんどん沈んで行く。こんな時は、隅っこでうずくまりたい。出来れば狭い部屋の。確かに隠れ蓑は煩わしいのかもしれない。けど、脱ぐ訳にはいかない。現に、前の二人と違って咲輝は辛い目に遭っている。きっと自分もあのような運命をたどってしまうだろう。万が一そうなったとしても、彼女と共に堕ちるなら良いと思ったが……それも最早叶わぬ望みだ。クソビッチめ。我ながら、何度も何度も女々しいな。
「さあ、教室行こか」
◇
昼休みもまた、放課後と同様に校舎内は喧騒に包まれる。
「さてと、購買にメシでも買いに行こか」
三太は友人達と共に教室から廊下に出た。
「明石家」
直後、声をかけられた。
「……おぉ、春日井くんやないか。どないしたん?」
「悪いけど、ちょっと良いかな? 話したいことがあるんだ」
「え、話って何? もしかして、愛の告白? 日向ちゃんという恋人がいながら他の、しかも男である俺に愛の告白をするつもりなんか?」
「そんな訳ないだろ。良いから、ちょっと来てくれないか?」
健人は淡い微笑を湛えて言う。
正直、適当な理由を付けて断ってしまいたかった。
だが、彼の話したいことは大体の見当が付く。だったら一刻も早く話を済ませて、もう二度と煩わしい話題を持ちかけてこないようにした方が得策だろう。
「……ええで。ほな、屋上に行こか」
「ああ」
「お前ら、すまんな。先にメシ食っといてや」
頷く友人達に背を向けて、三太は健人共に歩き出す。
屋上へと向かう道中、特に会話を交わすことはしなかった。
時折女子とすれ違う。今までは健人の姿を見ると浮き足立っていたが、今ではどこか悲しげに、あるいは嫌悪感を醸し出しながら過ぎ去って行く。ちらりと健人の顔を伺うと、若干切なそうではあるが、大して揺らいでいないようだ。まあ、こいつには彼女がいるからな。決して裏切りそうにない、可愛い彼女が。だから、女々しいってんだ。
屋上の扉を開く。爽やかな春風を目一杯浴びた所で、今のクソみたいな気分が晴れることはなかった。
「――うおおおおっぱいいぃ!」
突如隣で、健人が叫び声を上げた。三太はぽかんと口を開ける。
「……自分、何しとるん?」
「ん? ああ、屋上に来たらつい叫びたくなっちゃうんだよ。俺のおっぱいに対する熱い思いをさ」
健人はにやりと笑みを浮かべて言った。
「はあ、そうかい……ていうか、百瀬さんに『おっぱいドリブル』はさせてもらえたんか?」
「それがまだなんだよー! あともうひと押しで行けそうなんだけどなー」
「お前、ホンマに変態やな」
呆れたように三太は言う。
「女子達にも随分と嫌われてしまったようやし、ぶっちゃけ後悔しとるんやないの? 隠れ蓑を脱いだことを」
「いや、後悔なんてしていないよ。もちろん、女子に嫌われることは辛い。物凄く辛い。けど、俺には日向ちゃんがいるから」
「ああ、それは羨ましいこって」
「明石家の方こそ、武藤さんとはどうなんだよ?」
「あん?」
「俺さ、ここ最近二人が駅前のバス停で一緒に帰るの、目撃したんだよ」
「それはお前、家が同じ方面やから同じバスに乗っとるだけや」
「あー、そうなの? 俺はてっきり二人は付き合っているんだと思っていたけど」
「誰があんなクソビッチと付き合うか!」
三太の叫びは青い空に轟いて行った。直後、ハッとして口をつぐむが、手遅れだった。
「クソビッチ? また随分な物言いだな。何で武藤さんがビッチなんだよ?」
「そんなのお前に教える義理ないわ。ていうか、話って何なん? どうせ、また俺に隠れ蓑を脱げって言うんやろ?」
「ああ、そうだよ」
健人は誤魔化すことなく、ハッキリと頷く。
「前にも言うたけど、お断りや。隠れ蓑を脱いだ所で、待っているのは不幸や。お前はたまたま上手く行っているみたいやけど、俺がそうなれるとは限らん。現に、さ……武藤さんは不幸になってる。カリスマの地位から転げ落ちて、周りから罵倒されて、一人ぼっちになって……ホンマに悲惨やで。まあ、誰かさんが慰めてくれるんやろうけどな」
「誰かさんって?」
「うるさいわ、聞くなボケカス」
「ひどいな。ていうか、俺に対する言葉も大分キツイよね? もしかして、俺のことが嫌い?」
「ああ、嫌いや。ちょっと自分が上手く行っているからって、何度も上から目線で隠れ蓑を脱げとかほざきやがって。ほんまムカツクねん」
「別に、上から目線で言っているつもりはないよ。俺はただ、同じ『みのクラ』の仲間として、明石家にも幸せになって欲しいんだ」
「はあ? 仲間やて? ほんの一時同じ空間に軟禁された程度で、仲間意識を抱いてくれたんか? おおきに。けど、余計なお世話やで」
「明石家、そんな寂しいことを言わないでくれ。それでも俺は、お前のことを仲間だと思っているんだよ」
「じゃかあしいわ、ボケ! お前なんて百瀬さんと乳繰り合って精々幸せに生きろや! これ以上、俺に干渉して来るな! 俺を掻き乱すな!」
喉がひどく痛んでいた。肩で激しく息をしてしまう。
これだけの罵詈雑言をぶつければ、さすがに健人も怒るだろう。
そうなれば、拳の一発くらいは許してやる。
「……そうか、そうだよな」
ぽつりと、健人は呟く。
「やっぱり、怖いよな。隠れ蓑を脱ぐことは」
「は? いきなり、何言うてんねん?」
「前に明石家自身も言っていただろ? 隠れ蓑を脱ぐことは怖いって」
「まあ、言うたけど……それが何や? 臆病者やってバカにするつもりか?」
「バカになんてしないよ。俺だって、元々は同じ穴の狢だから。お前と同じ臆病者だったから。今のお前の気持ちがよく分かるよ。俺だって隠れ蓑を脱ぐ決意をした夜、吐きそうなくらいに緊張していたから」
微笑みながら語る健人を見ていると、なぜだか突発的に怒りの感情が込み上げた。
気付いた時、三太の右拳が彼の頬を打ち抜いていた。
「……ぐっ」
堪らず尻もちを突いて、健人は呻いた。三太は荒く息を吐きながら、彼を見下ろしていた。殴った所で、何一つ気持ちがすっきりしない。むしろ、己の矮小さを痛感するばかりで、どこまでも虚しい。
その時、屋上の扉が遠慮がちに開けられた。
「健人くん、いるかな……」
おずおずと顔を覗かせたのは日向だった。彼女は小動物のような動きで辺りを見渡す。その視線が対峙する二人の姿を捉えると、大きく目を見開いた。
「け、健人くん。大丈夫?」
日向は慌てて彼の下に駆け寄った。
「ああ、全然平気だよ。ていうか日向ちゃん、今走る時の乳揺れ、半端なかったよ」
健人はぐっと親指を立てて言う。
「も、もう! 何でこんな時まで変態なの!」
「あのさ、そろそろ『おっぱいドリブル』をさせてくれないかな?」
「へっ? そ、そんな恥ずかしいからダメだよ……」
「お願い! 三回、いや、二回だけで良いから。ボイン、ボインってさせてくれれば良いから!」
「ダ、ダメ!」
「分かった、じゃあ一回で良いから。ボイン! って一回で良いから!」
「とにかくダメ!」
「そ、そんなぁ~」
がっくりと落ち込む健人を、日向はおずおずとなだめる。
「……何やお前ら。よう人の前でイチャこらしてくれんな、おい」
三太が言うと、日向は「はうっ」と頬を赤く染めてしまう。一方、健人は恥じることなく快活に笑って見せた。
「まあな、俺達はラブラブカップルだから。ねえ、日向ちゃん?」
「へっ? あ、うん……そうだね」
「ていうか、バカップルやろ」
「良いね、バカップル良いね! もっと言ってくれよ」
「ウザ、キモ、死ね。やっぱりアカンわ。お前みたいな変態と仲間とか、マジありえんわ」
「うっ、ひどいな。じゃあ、友達になろうか」
「もっとありえへんわ、ボケ」
「ガーン! 聞いた、日向ちゃん? 明石家が俺のことをボケって言った! おっぱいで慰めて~」
「え、えぇ?」
泣き顔ですがる健人に対して、日向は困惑している。
「百瀬さん、悪いことは言わん。そんな変態とは即刻別れて、もっとまともな男と付き合った方が身のためやで」
ため息交じりに三太は言う。
「た、確かに健人くんはどうしようもない変態で、わたしも困ったりするの……」
「せやろ?」
「けどね……それでも、好きだから……だから、健人くんと一緒にいる」
「日向ちゃん……」
今度はマジ泣きしそうな健人を見て、三太は心底うんざりとした顔をする。
「はぁ、お前らホンマにバカップルやで……」
そう言って、彼らに背を向けた。
「あ、明石家。どこ行くんだよ? まだ話は終わっていないぞ。それとも、やっぱり俺のことが嫌いか?」
健人の言葉に、三太は足を止めた。
「……お前は上手いこと行ってるんやろ? せやったら、そのままの調子で行けばええ。俺みたいに燻って負のオーラ抱えている奴と関わったら、ロクなことにならんで」
「でも、友達が……親友が困っているのを見捨てて置けないだろ!」
「おいおい、親友とか飛躍し過ぎやろ。お前、変態の上に厚かましくてうざったいわ。ほんま、付き合う百瀬さんの気が知れんで」
「明石家……俺は」
「……けど、せやな。ほんの短い間やったけど、俺達は同志やった。仲間やった。せやから、そんなお前達に一つ、手向けの言葉を送ったるわ」
三太は首を捻り、顔だけ振り向く。
「おめでとう。これからの人生、幸せに生きてくれや」
彼らが何かを言う前に、三太は前に向き直って足早にその場から去って行く。
吹き抜ける春風は、未だに自分の心を晴れやかにしてくれない。
◇
放課後を告げるチャイムが鳴り響く。めいめいが鞄を手に取り、浮き足立った様子で教室を後にして行く。
「三ちゃん、早く行こうよ」
「おう、ちょっと待ってくれや」
三太はノートを鞄にしまうと、席から立ち上がる。
「今日どこ行く? やっぱりカラオケとか良いんじゃね?」
「だね~。三ちゃんもカラオケが良いよね?」
「そやな。ここんとこムシャクシャしてたから、思い切り歌いたいわ。俺の魂の叫びを聞かせたるで」
「あはは、何だよそれ」
友人達と談笑しながら廊下を歩いて行く。
もし仮に、自分がこの隠れ蓑を脱いだとして、彼らはそれでも自分と仲良くしてくれるだろうか? 現実問題、それはあり得ないことだろう。
ごめん、春日井くん。僕は誰よりも臆病者だから、こうしてずっと隠れ蓑を被っているよ。
屋上で叫びながら自分に感情をぶつけて来た彼のことを思い、三太は胸が痛んだ。
だが、そんな様子はおくびも見せず、昇降口までやって来た。
「あー、早くカラオケ行きたいな」
「けど、男だけってのもちょっと虚しいな。女子が欲しい~」
「良いじゃん、今日は久しぶりに三ちゃんと遊べるんだから。ね、三ちゃん?」
「おう、せやな。今日は男だけでむさ苦しいカラオケしようや」
ゲラゲラと笑いながら、三太は靴を履き替えようとする。
「――明石家」
その時、凛として響く声に呼び止められた。
ハッとして振り向くと、そこには笹山がいた。
三太は一瞬、険しい表情を浮かべるが、すぐに明るい笑顔になった。
「あれ、笹山先生。どうないしたんですか?」
「お前、これからどこに行くんだ?」
「ご覧の通り、友達とカラオケに行くんですよ」
「ほう、俺の補習を堂々とサボるつもりか?」
「えろうすんません。けど、先生が言うたやないですか。俺は決して強要はしない。あくまでも決めるのは俺達自身やって……せやから、俺はもうあんたの補習には行きません」
にわかに不穏な空気が漂い始める。三太の背後にいた友人達は、不安げな顔をしていた。
「ああ、確かにそう言った。今もその方針は変わらない……けどな、明石家。お前は悔しくないのか?」
「悔しい? 何が?」
「他の奴らはみんな無事卒業することが出来たのに、お前だけ一人燻っていて、悔しくないのか?」
こめかみの辺りが疼くのを感じた。
「別に、悔しいなんて微塵も思いませんね」
「そうか、けど動揺はしただろ? 武藤が卒業して」
「……先生、あんた何が言いたいんや?」
三太の声が低く掠れた。
「俺は悲しいんだよ。可愛い教え子が、みすみす負け犬に成り下がって行く姿を見ることが、堪らなく悲しいんだ」
こめかみの辺りで燻っていた激情が、瞬間的に爆発した。
「――うるさいわ、ボケェ!」
気が付けば、三太はまたしても拳を繰り出していた。すぐにしまったと思うが、もう拳は止まらない。真っ直ぐに笹山の端正な顔面を打ち抜かんと迫る。
ばちん、と肉の弾ける乾いた音が響いた。
「……明石家、痛いじゃないか」
呟く笹山は、三太が繰り出した拳をしっかりと手の平で受け止めていた。
「教師に暴力を振るうなんて、懲罰ものだぞ」
辺りはにわかにざわついていた。二人を遠巻きで見つめながら、困惑する生徒が多数いた。
「……明石家、ちょっと付いて来い」
笹山はそのまま三太の手を握ると、彼を引っ張って行く。抵抗する気力は湧かなかった。友人達は、そんな彼の姿をただ呆然と見送っていた。
三太を引っ張ったまま、笹山は廊下を歩いて行く。過ぎ去る生徒達が一様に困惑した視線をこちらに向けていた。だが、笹山は構うことなく歩き続ける。
「先生、どこに連れて行くつもりや?」
「良いから、黙っていろ」
やがて、吹き抜けの廊下の前に来た。ここまで来れば、さすがに分かる。
吹き抜ける春風を浴びて旧校舎へと入る。ぎしぎしと床を軋ませながら、一番奥の教室へとやって来た。扉を開き、足を踏み入れる。
「座れ、明石家」
笹山が言う。
「何やのん、先生。結局、命令口調やないか」
「良いから、座れ」
普段より笹山の口調が険しくなったので、三太は大人しく長テーブルの席に座った。
「どうだ、明石家。久し振りに『みのクラ』の教室に来た気分は」
「どうもこうも、最低の気分っすよ。何すか? これから俺に説教でもするつもりですか?」
三太は露骨に表情を歪めて言う。
「そうだな。どうしようもなく憶病なみのむしのお前には、ありがたい説教を聞かせてやろう」
「はっ、どの口がほざくんや……」
「おい、明石家。この教室でのルールを忘れたのか?」
「隠れ蓑を脱げってんやろ? はっ、お断りや。あんたみたいな性悪教師の前で、本当の自分なんか見せられるかい、ボケ」
「何だ、今日は俺に対して随分と攻撃的だな。俺が何かしたか?」
「何かしたかやって? 人の大事なもん奪っといて……」
言いかけた所で、三太は口をつぐんだ。拳を硬く握り締める。
そんな彼の様子を静かに見つめた後、笹山はおもむろに口を開いた。
「……分かった、これで最後だ。今からする話を聞いてくれたら、もうこの教室には来なくて良い。お前は今まで通りに生活すれば良い。俺はもうとやかく言わない」
「ホンマか?」
「ああ。だから、最後に性悪教師の話を聞いてくれよ」
自嘲気味に笑いながら笹山が言う。その物言いが正直癪に障ったが、これ以上言い合っても埒が明かないので、三太は大人しく頷いた。
「ええで。最後に聞いたるよ、あんたの話」
「そうか、ありがとう」
笹山は微笑んだ。それから数秒間を置いて、ゆっくりと口を開く。
「……数年前、俺の教え子に狩沢(かりさわ)という男子生徒がいた。彼は勉強やスポーツが特別優れていた訳ではないが、明るくひょうきんな性格で、ムードメーカー役としてみんなの中心だった。いつも面白おかしい話でみんなを楽しませていた。だが、俺は彼の本質を見抜いていた。本当の彼はそこまで明るくない、むしろ根暗な性格だった。けれども価値ある自分、求められる自分、褒められる自分を作ろうとして、とにかく明るく振る舞っていた。俺はその姿に一抹の脆さと不安を感じていたが、それが彼なりの処世術であり、実際に彼は上手いこと学園生活を送っていたので、あえて指摘はしなかった。彼は高校の三年間、ずっとみんなの中心であり続けた。多くの仲間に囲まれて、順風満帆な学園生活を送り、無事に卒業して行ったんだ」
「へえ、すごいやん。まあ、俺もそうなる予定やけどな」
三太は背もたれに寄りかかって踏ん反り返る。
「……それからしばらくして、俺は狩沢と再会する機会があった。彼のことだから、大学に進学して、社会人になってからも上手いことやっているんだと思っていた」
「入社して数ヶ月で、デカい仕事任されたりしたんやないの?」
「ああ、そうだよ。彼は入社して間もない頃に与えられた仕事を、持ち前のコミュニケーション能力でもってクリアした。入社一年目で、いきなり出世コースに乗ったんだ」
「何や、その狩沢さんメッチャすごいやん! もしかして今は、若手のホープとしてかなりの地位を築いてるんやないの? 既に課長、いや部長に昇進して、ゆくゆくは社長に……」
「その後、彼は会社をやめた」
三太の饒舌な喋りを、笹山の一言が杭となってぴたりと押し留めた。
「……会社をやめた? 何でや? デカい仕事任されて、成功して、一気に出世コースに乗ったんやろ? せやったら、そのまま出世街道を突っ走るやろうが」
「もう、限界だったんだよ」
「何がや? 体力か? けど、まだ若いんやろ? せやったら、根性で何とでもなるわい」
「違うよ。体力じゃなくて、心が限界だったんだ」
「心が限界って……意味が分からん。順風満帆な学生生活を送って、入社していきなり大きな仕事を成功させて、出世コースに乗って、何でそんな人生勝ち組の人の心が限界になんねん」
「だって、彼はずっと隠れ蓑を被って来たから。小さい頃から大人になるまでずっと、隠れ蓑を被って本当の自分を偽って来たから。壊れちゃったんだよ、心が」
三太は何か喋ろうとして、しかし上手く言葉を紡ぐことが出来ない。
「本当の自分を隠すことは、実はとても体力がいるんだ。心の体力が。彼は何度も疲労困憊になって、それでも隠れ蓑を被り続けて、そのおかげで大きな仕事を成功させて、でもその結果として心が壊れてしまったんだ」
「何や……可哀想やな」
「ああ。その後、俺はまた彼と会う機会を得た。心の壊れた彼は入院して治療を受けることで、何とか会話を出来る程度には回復していた。いくつか雑談を交わした後に、俺は思い切って尋ねたんだ。『お前に親友はいるか?』と。そうしたら彼はこう答えた。『友達は数え切れないほどいる。けど、本当の自分を話せる親友なんて、誰もいない』……ってな。そう言ったんだ。饒舌で明るい奴という隠れ蓑を被ったことで、多くの友達に恵まれたかもしれない。けれども、本当の自分をさらけ出さなかった彼は結局の所、他人と薄っぺらい関係しか築くことが出来なかった。本当に辛い時、自らの心情を吐露する相手がいなかった。上っ面の薄っぺらい話が出来る友人は腐るほどいたのに。本当の自分を受け入れてくれる親友、あるいは恋人なんて、一人もいなかった。順風満帆な人生を送っているように見えた彼は実の所、とても息苦しくて寂しい人生を送っていたんだ。俺はそのことに……彼の苦しみに気付いてやれなかった」
いつもは余裕に満ちた顔をしている笹山が、珍しく悲痛な面持ちになっていた。三太の心はかすかに揺れ、彼の顔に見入ってしまう。
「その時、俺はもう二度と同じ失敗は繰り返さないと決めた。あの狩沢と同じように、隠れ蓑を被っている子達を集めて、本来の自分を晒すように指導しようと決めたんだ」
「……なるほど。せやから、先生はこの『みのクラ』を作ったんですね」
「ああ、そうだよ」
「けど、先生。俺は確かに先生が言う所の隠れ蓑を被ってるけど、世の中に生きている人は大概、その隠れ蓑を被っとるで。むしろ、本当の自分をさらけ出している奴の方が少ないんちゃうか?」
「かもな……むしろ、みんな隠れ蓑を被っているからこそ、世の中が上手いこと回っているのかもしれない」
「そうやろ? だったら……」
「けどな、明石家。そんな人生、辛いだろ? つまらないだろ? 事実、本来の自分とかけ離れた隠れ蓑を被っていた彼は、そう言ったんだ。何となく分かっていると思うが、お前は彼と似ている。お前にはあんな辛い目には遭って欲しくない。これ以上、可愛い教え子が傷付くのは見たくないんだ」
「いや、そんなこと急に言われても……」
三太は戸惑った。すると、そんな彼のそばに笹山が歩み寄る。何を思い立ったのか、彼の手をぎゅっと握り締めた。
「な、何や先生? 男同士で気色悪いで、勘弁してや」
三太は身を捻って逃げようとする。
「……明石家、頼む」
いつも凛としている笹山の声が、掠れていた。
「その隠れ蓑を脱いでくれ……」
切実な目で、彼は訴えて来る。そこには以前まで感じたような、悪魔的威圧感など微塵もない。純粋の教え子を心配する教師の顔がそこにあった。
「脱いでくれって……結局、強要しているやないか」
「俺はお願いしているんだよ、明石家」
「どっちでもええわ、んなもん」
三太は不機嫌な顔になり、そっぽを向く。
それからしばらくの間、静かな時が流れていた。
「……正直な所」
おもむろに、三太が喋り出す。
「先生のことは、今でも気に食わん。色々と、気に食わん……けど、あんたの気持ちは伝わったわ」
そう言って、三太は席から立ち上がる。
「明石家……」
笹山の手を優しく振り解くと、教室の扉に向かってゆっくりと歩き出す。
「待っているからな、この教室で。お前の卒業祝いの準備をして」
背後から笹山がエールを送って来た。
「うるさいわ、この性悪熱血教師」
顔を歪めて毒づきながら、三太は教室を後にした。
◇
深夜。明かりを消した自室でベッドに寝転がり、天井を仰いでいる。
ここしばらく、色々なことがあった。その光景が、せわしなく脳内を駆け巡っている。おかげで、ひどく落ち着かない気持ちになってしまう。
小学生の時以来、本来の自分の姿は誰にも見せてこなかった。そのおかげで、円滑な学生生活を送ることが出来て、自分は幸せ者なんだと思っていた。
けど確かに、疲れを感じることはあった。特に高校生になって、より多くの人達と接するようになってから、疲労の度合いは増していたと思う。
そんな時、笹山の誘いによってあの『みのクラ』を訪れた。人前ではずっと被り続けて来た隠れ蓑。いくら同じ穴の狢の奴らだと言っても、その目の前で脱ぐことに抵抗を覚えた。だが、笹山の悪魔的威圧感によって、頑なな蓑はするりと脱がされてしまった。
やってしまったと思った。怖い、恥ずかしい、見ないで欲しい。惨めな自分を、情けない自分を、誰も見ないで欲しい。誰も知らないで欲しい。それが切なる願いだった。
けれどもあの瞬間、とてつもない羞恥心と共に湧き上がったあの感情。
解放感。脱ぎ去った時の、解放感。
本当の自分を見られることは辛いし恥ずかしい。けれども、楽だった。矛盾するかもしれないけど、辛いのに、どこか楽だと思ってしまった。
悔しいけどあの時、自分は癒しを得ていたのだと思う。それが無ければ、もしかしたら狩沢よりもずっと早く、心が壊れていたかもしれない。そうならないまでも、精神的に大分参っていたかもしれない。悔しいが、あの性悪教師こと笹山には、それ相応の感謝をしなければならないのかもしれない。それ相応の恩返しをしてやる必要があるのかもしれない。
分かった、決めたよ、しょうがないな、こんちくしょう。
なるほど、確かにあいつが言っていた通りだ。
今の僕は、死ぬほど吐きそうだ。
三太は布団を深く被り、浅い眠りでもがき苦しんだ。
⒓
美野高校前のバス停に降り立つ。歩いてすぐに校門の前にたどり着いた。
落ち着きなく跳ねる心臓をなだめながら、校舎へと向かって行く。
昇降口で靴を履き替え、廊下を歩いて行く。階段を上り、二年生の教室が立ち並ぶ廊下を歩く。所属する二年B組の教室の前に立つ。中からは朝にも関わらず、賑やかな声が響いて来る。心臓の高鳴りは最高潮に達していた。逃げようか。腹痛を言い訳にして逃げようか。頭痛を言い訳にして逃げようか。とてつもない吐き気を催したということで逃げようか……頭が驚くほどに回転して、言い訳の言葉が次々と溢れて来る。そうだ、このまま逃げてしまおう。
――明石家、頼む。
ちくしょう。普段はいけすかないイケメン面している癖に、あんな情けない顔しやがって。脳裏に焼き付いて離れないんだよ、ちくしょうが。
三太は天井を仰ぐ。
ヤケクソだ。こうなったらヤケクソだ。今ここで、とにかく明るい明石家三太の人生は終了するのだ。ジ・エンドなのだ。
思い切って、教室の扉を開け放った。
「あ、三ちゃんだ。おはよう」「お、明石家だ」「うぃーっす」「はよーっす!」
直後、友人達の明るいあいさつと笑顔が三太を出迎えた。
「おう、お前ら。おはようさん!」
「ていうか、三ちゃん。昨日の笹山先生との一件、どうなったの?」
「あん、あれか? まあ、特に問題にならんかったわ。俺が補習をサボったせいで先生が怒ったさかい、誠心誠意込めて謝ったら許してくれたわ」
「良かったじゃん」
「んで、今日は特別に休みがもらえたから。みんなでパーッと遊びに行こうや。今度こそ、俺の魂の叫びを聴かせてやるで、ベイベー」
「だから、魂の叫びとか何だし」
「本当だよ」
「あはは、三ちゃんは本当に面白いな~」
ギャハハ、ギャハハ! 自分を中心に笑いの渦が巻き起こる。
そのように出来たら、どれだけ楽だろうか。
「三ちゃん、どうしたの? ボーっとして」
扉の所で立ち尽くしている三太を見て、友人が心配そうに声をかけてくる。
それに対して、三太は言葉にならない言葉を漏らしていた。
「明石家?」
他の友人も、心配げな顔で寄って来る。
頭がクラクラする。春日井くん、それに百瀬さんと咲輝も、あいつらすげえな。こんなとてつもない重圧に耐え切ったのかよ。三太は既に心が折れそうだった。
「……いや、何でもない。大丈夫だよ」
か細い声で三太が答えた。周りの友人達は、ぱちくりと目を瞬かせる。
「どうしたの、三ちゃん? いきなり標準語を喋って」
「そうだぜ。気味が悪いよ」
「だって、僕は……関西人じゃないから」
そう言って、三太は静かに自分の席に座った。
「おいおい、明石家。マジでどうしたんだよ? 腹の具合でも悪いのか? 保健室に行くか? いつものエセ関西弁が鳴りを潜めているじゃんか」
三太はその問いかけに答えず、鞄を机の上に置いたまま俯いてしまう。
「明石家? どうしたんだ?」「明石家くん、具合悪いの?」「ねえ、三ちゃん。どうしちゃったんだよ?」「明石家、答えろよ」「おい、明石家」「聞いているのか?」「なあ、明石家」
次から次へと押し寄せる友人達の声。それに対してハツラツと答えることが出来たら、どれだけ楽だろうか。喋りたい。喋って楽になりたい。饒舌なるお調子者の隠れ蓑を被ってしまいたい。心が激しく揺れる。唇を強く噛み締めることで、堪えるしかない。
そこで、ふと気が付いた。ただ黙っているだけじゃ、前に進めない。今でも十分本来の自分を晒しているが、だんまりを決め込んだまま、本当の自分の気持ちを伝えなければ、結局の所は何も意味を成さない。三太は顔を上げた。戸惑う友人達の顔に取り囲まれていた。猛烈な吐き気がする。けど、伝えなくては。
「……ちょっと、良いかな。みんなに言いたいことがあるんだけだけど……」
ようやく発せられた三太の言葉に、友人達は耳を傾ける。
「何なに、どうした?」「なーんちゃって、とか言うんだろ?」「あはは、三ちゃんひどいな」
そこで一つ、ため息を吐いた。
「……僕、もう疲れたんだ。今まで僕はみんなの中心にいた。けど本当の僕は、隅っこが好きなんだ。みんながワイワイ騒いでいる時も、隅っこにいたいんだ」
本当に申し訳ない。君達の期待を裏切ってしまって。申し訳ない。
がたりと椅子を鳴らし、立ち上がる。そのままゆっくりとした足取りで、教室の隅にやって来た。そして、その場で三角座りをした。そのまま、再び黙り込んでしまう。
尋常ならざる彼の姿を見て、友人、そしてクラスメイト達の表情は激しく動揺していた。いつもみんなの中心で笑いを提供していた彼が、その輪から大きく外れて、隅っこで根暗少年のようにうずくまっている。完全にイタイ奴に成り下がっている。その姿は、大きなショックを与えたようだ。クラスの全員が見開いた目で彼を見つめていた。
「……さ、最後に一つだけ言わせて。勘違いしているかもしれないけど、僕は決してみんなのことは嫌いじゃない。むしろ、これからも仲良くしてもらえたらと思っている……だから、僕は隅っこに行くけど、もう中心にはなれないけど、これからもよろしく……お願いします」
それまでの饒舌な口調とは程遠い。訥々とした、ともすれば人をイラつかせるような口調。それでもハッキリと、彼は自分の意志を伝えたのだ。
それきり、三太は押し黙った。突然としてクラスの中心を失った他の生徒達もまた、言葉を失う他無かった。
◇
放課後を告げるチャイムが鳴り響いた。
いつもなら喧騒が巻き起こる教室内が、今日はしんと静まり返っていた。いつもクラスの中心となり、盛り上げていた男が、その責務を放棄したせいだ。
教科書やノートを鞄にしまっている最中、誰も三太に歩み寄って来ない。友人達も寄って来ない。皆が遠巻きに、突如としてその化けの皮……隠れ蓑を脱ぎ去った男を見て、困惑していたのだ。
三太は席から立ち上がり、鞄を担ぐ。俯き加減で周りを見渡す。何かおぞましい物を見るような周りの視線を感じて、そそくさと教室から出て行く。廊下を歩いている時、まだ事情を知らない他のクラスの友人達が声をかけて来るが、三太が根暗にぎこちないあいさつを返すと、きょとんとして首を傾げていた。三太はそのまま歩みを進める。
一階に下りて廊下を歩き、吹き抜けの渡り廊下までやって来た。
この時は、過ぎ去る春風の清涼感を、少しばかり楽しむことが出来た。
軋む音を鳴らしながら旧校舎の廊下を歩く。やがて奥の教室の前にたどり着くと、三太は一度立ち止まり、じっと扉を見つめる。それから、ゆっくりと軋む扉を開いた。
「よう、明石家。来たか」
教室内には、相変わらず余裕の笑みを湛える笹山がいた。
彼は扉の所で立っている三太の姿を、頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見つめた。
「どうやら、無事に隠れ蓑を脱ぎ終わったようだな。おめでとう、明石家」
笹山は微笑み、小さく拍手をした。
「お前は立派に戦った。その結果として、可愛いみのむしちゃんを卒業することが出来た。まあ、人生における本当の闘いはこれからだろうが、今は戦いがひと段落した。だから、ゆっくり羽を休めると良い」
優しい微笑みを浮かべたまま、笹山は言う。
「……先生」
三太がか細い声を発した。
「ん、何だ?」
「僕の戦いは……まだ、終わっていません」
「どういうことだ?」
小首を傾げる笹山を見て、三太はこめかみの辺りが疼く。
「……すっとぼけてんじゃねえよ、性悪教師。あんたは、僕から大切な物を奪った……」
「大切な物って、何だ?」
あくまでも素知らぬ振りをする笹山に対して、三太の怒りは募って行く。
「この前、咲輝が隠れ蓑を脱いだ時……放課後にこの教室で、あんたは咲輝と二人きりだったろ?」
笹山は少なからず驚くだろうと思ったが、彼はあくまでも落ち着いていた。その態度が、尚のこと気に食わない。拳を固く握り締める。
「……ああ、やっぱり。あの時、お前は見ていたのか」
笹山の言葉を聞き、ぞわりと血流が荒ぶるのを感じた。
「もしかして、気が付いていたんですか?」
「まあな。武藤がやたら俺に甘えて来るから、教室の外からこっそり覗いているお前に見せつけようとしているのかなって、察していたんだ」
「……あんた、咲輝の頭を撫でていましたよね?」
「おねだりされたからな。それに正直な所、俺も前々から武藤のことがちょっと可愛いなと思っていたし」
にやりと微笑んで笹山が言う。三太はより強く拳を握り締めた。
「あんた、最低だな。昨日はあんなに僕に対して熱く語ってくれたから、実は良い人かもしれない思っていたのに……結局の所、人の大事な物を奪う性悪教師かよ。ていか、教師が生徒と そういう仲になるなんて、最低だ」
三太は真っ直ぐに笹山を睨んで、そう言った。
「……なあ、明石家。一つ聞いても良いか? いや、聞くまでもないんだろうけど」
「何ですか?」
憤慨した声で三太は聞き返す。
「お前、武藤のことが好きなのか?」
笹山の問いかけに、三太はつい息を詰めてしまう。
自分は咲輝が好きだ。その気持ちは確かだし、自覚はある。けれども、改まって他人に言われると、返答に困ってしまう。しかも、その相手が彼女を奪った悪魔教師であれば尚更、様々な感情が綯い交ぜになって、上手く言葉を紡ぐことが出来ない。
「まあ、答えなんて聞かなくても、分かっているけどな。お前達は二人で『みのクラ』をサボって、こっそり乳繰り合っていたんだろ?」
「乳……あ、あんた。教師のくせに何言ってんだよ」
「けど、それに近いことはしていたんだろ?」
「別に、お互いの部屋に行き来して過ごしただけですよ」
「へえ、そりゃまた楽しそうなことで。思春期の少年少女にとっては、たまらないイベントだろうな」
「あんた、さっきから僕のことをバカにしているのか? 自分が大人の魅力で咲輝をたぶらかしているからって、僕のことをバカにしているのか?」
「そんなこと言われても。俺に求めて来たのは武藤の方だからな」
体の芯に雷撃を受けるようだった。衝撃が全身を駆け抜ける。激しい嫉妬心も相まって、身を焦がされてしまいそうだ。
「まあ、さっきも言ったけどあいつは可愛い所あるし、場合によっちゃ付き合ってやっても良いかなって思ってるんだ」
「何だよ、それ……」
「だから、悪いな明石家。お前の好きな武藤は、俺がもらうよ」
その時、笹山の口の両端がにやりと吊り上がった。まさに悪魔のような笑みだった。三太は恐怖と同時に、全身の血液が沸騰するような怒りを覚えた。
「……ふ、ふざけるな」
あまりの怒りで狭窄する喉から、掠れた声が溢れ出す。
「今まで散々僕達を導く教師面をしておきながら、最後にそれかよ。僕に隠れ蓑を脱がせるくらいに心を揺さぶっておきながら、最後にそれかよ……ふざけるな」
「おー、俺のあの話、そんなにお前の心を動かしたか。さすが俺様だな」
「はは、あんたの方こそ、とんだ悪魔の本性を晒してきたな」
「悪魔で結構。俺には清廉な天使とか聖者なんて言葉は荷が重すぎる。お前達がもがき苦しむ姿を見ることが、何より楽しいんだ。青春しているなーって、微笑ましく思うよ」
「この、クソ教師……」
三太は握り締めた拳を震わせる。
「お、また俺に殴りかかるつもりか? まあ、お前のへなちょこパンチなんて、余裕で受け止められるけどな」
笹山の浮かべる悪魔的嘲笑が、三太の理性のタガを吹き飛ばした。
「……う、うああああああぁ」
我ながら情けない声だ。
三太は内心で自虐りながら、その右拳を笹山の顔面に向けて放つ。
バチン、と肉の弾ける乾いた音が鳴り響いた。
「え……?」
三太は目を見開く。
彼の放った拳は、笹山の頬を打ち抜いていた。その衝撃で唇も切れたせいで、わずかに鮮血が漏れている。自分で言うのもなんだが、へなちょこな叫びから放たれたへなちょこパンチは、いとも簡単に笹山に受け止められてしまうと思っていた。
「……何で」
呆然として三太が立ち尽くしていた時、背後で教室の扉が開いた。
「あ、ヤバイ。もう二人がやり合っていた」
開口一番そう言ったのは、健人だった。
「ていうか、明石家が先生を殴っちゃっているよ。唇切れているし。日向ちゃん、先生にハンカチ貸してあげて」
「う、うん」
日向は制服のポケットからハンカチを取り出すと、おずおずとした足取りで笹山に歩み寄り、彼に手渡した。
「ありがとう、百瀬」
「い、いえ」
突然現れた二人を前に、三太は口をぽかんと開いていた。
だがその直後、彼らの背後からさらに別の影が姿を現すと、大きく目を見開いた。
「……さ、咲輝」
体操着こそ着ていないものの、ボサボサの髪にノーメイクの、干物姿の咲輝がそこにいた。
三太は今この場において、彼女に対しても色々と言いたいことがある。けれども、舌がざらつくようで上手く回ってくれない。喉の奥で伝えたい思いがせき止められているようで、もどかしい。己の喉元を掻きむしってしまいたい。
咲輝は一度三太を見て、それから笹山に視線を向けた。わずかに腫れ上がった彼の頬を見て、眉をひそめる。
「三太、何で先生を殴ったのよ?」
「いや、それは……色々とあって」
「何よ、それ。ていうか、先生を殴るとかダメでしょ? そんなことしたら、あたし許さないから」
頭蓋骨を正面から叩き割られるようだった。
三太は自然と足下がふらつき、がっくりとうなだれる。
真っ先に笹山の心配をするなんて。咲輝はやはり、彼のことが……
「……だ、誰のせいだと思ってるんだよ」
低く掠れる声で三太は言った。
「は?」
「誰のせいで、僕が先生を殴ったと思っているんだよ」
ようやく震えながらも、三太は自らの思いをぶちまけた。思いの奔流をせき止めていたダムを、自ら決壊させた。
「お、お前が先生と二人きりで良い感じにイチャつくから、僕は嫉妬したんだ。この前の放課後、この教室で咲輝は僕に見せつけるように先生とイチャついて、先生もそんな咲輝のことが気に入っている。何だよそれ、僕がバカみたいじゃないか……人を弄ぶのもいい加減にしろよ!」
今日一番の大声で、三太は叫ぶ。そのまま膝から床に崩れ落ちた。
「ふざけるなよ、ちくしょう……僕とあんな風に一緒に過ごしたのも、全部遊び半分だったのかよ……僕は本気になっていたのに、お前はあくまでも遊びで僕と一緒にいたのかよ? 最低だよ、お前達。どいつもこいつも、自分達ばかり上手く行きやがって、ちくしょう。結局、僕は隠れ蓑を脱いだ所で何も得ていない。むしろ、苦労して作り上げたポジションも何もかもを失った……もう、踏んだり蹴ったりだ。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……」
情けないことに、両目にじんわりと涙が込み上げて、ボロボロと泣いてしまう。
本当にカッコ悪い。今の自分は死ぬほどカッコ悪すぎる。いっそのこと、死んでしまいたい。
ツカツカと靴音を立てて、咲輝が歩み寄って来た。
この期に及んで、自分にとどめの一撃を刺すつもりだろうか。肉体的にも、精神的にも。
「前々から思っていたけど、やっぱりあんたってバカね」
そら来るぞ。絶望の淵に立たされた自分を、叩き落とす無慈悲なハンマーが。
もうここまで来たら、いっそのこと一思いにやってくれ。派手にやってくれ。明石家三太という存在を、一片も残さないくらに抹殺してくれ。クソビッチに成り下がろうとも、それでも好きだから。そんな彼女に抹殺されるなら、本望というやつだ。全く、隠れ蓑を脱いだせいで根暗で気持ち悪い思考が加速してしまう。ああ、もうこんな僕なんてさっさと殺してくれ。
「面倒だし結論から言うけど、あたしは別に先生のことなんて好きじゃないから。あたしが好きなのは、あんたなんだけど」
瞬間、空白の時が生じた。
「……はい?」
僕はあまりにも素っ頓狂な声を発してしまう。
「あたしが好きなのは、三太だよ」
「……えーと、ごめんイマイチ理解出来ないんだけど……」
「はあ? 人にこんな恥ずかしいことを言わせておいて理解出来ないの? やっぱりバカなの? 死ねば良いのに。ていうか、死ね」
「ひっ! ご、ごめんなさい……」
ぎろりと睨む咲輝の凄味に押されて、三太は即座に謝罪する。怯える彼の姿を見て、咲輝はため息を漏らした。
「仕方がないから、順を追って説明してあげる。まず、何であたしが隠れ蓑を脱いだのか。それはあんたよりも一足先に、先生から過去の失敗について話を聞いたからよ」
「え、そうだったの……?」
「それで、思い直したのよ。このままあんたとぬるい時間を過ごすのも良いと思っていたけど、今のままじゃダメだって。三太と明るい未来を歩むためには、変わる必要があるんだって、そう思ったんだ。だから、あたしは隠れ蓑を脱いだの」
「じゃ、じゃあ。その後、この教室で先生とイチャついていたのは何だ? しかも、僕がいることを分かっていて見せつけるように甘えていたじゃないか」
「それは、あんたを奮起させようと思って……けど、逆に苦しめちゃったみたいだね。ごめん」
意外にも素直に謝られて、三太は少々戸惑ってしまう。
「いや……でも、僕のためにしてくれたってことだよね?」
「うん、そうだよ。お互いの部屋で過ごした時間で、あんたはあたしのことを好きになってくれたみたいだけど……それはあたしも同じ。確かに本当のあんたは気弱で憶病で、ウジウジしていて、正直に言ってウザくてキモい……けど、一緒にいると何か心が安らぐの。きっと相性が良いんだと思う」
「咲輝……」
涙に濡れた顔を上げて、三太は彼女の名前を呼ぶ。
「ていうか、あんた泣き過ぎでしょ。男の子なんだから、泣いてんじゃないわよ」
「ひぐっ……うるさいな、誰のせいだと思ってるんだよ……」
とめどなく涙を流す三太に、咲輝は優しく寄り添う。そんな二人の様子を、健人と日向も潤んだ瞳で見つめていた。
その時、パンと手を叩く小気味の良い音が鳴った。
「君達、感動の場面の所申し訳ないが、全員着席してくれ」
笹山の言葉に全員が困惑の表情を浮かべた。だが戸惑いつつも、全員が長テーブルの席に横一列に座った。
「よし……それでは全員揃った所で、改めて『みのクラ』の卒業式を取り行う」
教壇に上がった笹山は高らかに宣言した。
「まずは会員番号一番、春日井健人」
「え? 突然なんですか? そもそも会員番号なんてありましたっけ?」
「良いから、返事をして起立しろ」
有無を言わせぬ物言いに、健人はたじろいだ。
「会員番号一番、春日井健人」
「は、はい!」
健人の声はやや上ずりながらも、張りのあるものだった。笹山は深く頷く。
「次、会員番号二番、百瀬日向」
「は、はい」
相変わらずか細い声であったが、彼女なりに精一杯の声を発していた。
「次、会員番号三番、武藤咲輝」
「はい」
これまでの二人とは打って変わり、落ち着き払った様子で返事をする。だが、その頬はかすかに紅潮していた。先ほどの告白劇の余韻を引きずっているせいだろうか。
「そして最後に……会員番号四番、明石家三太」
「は、はい……」
日向よりも小さく、今にも死にそうな声で三太は言った。今しがたまで泣いていた影響もあるだろうが、それにしたってひどい。
だが、笹山はもう一度やり直させることをせず、むしろ微笑んで頷いた。
「以上の四名は笹山岳の指導の下、隠れ蓑を脱ぎ去り、本来の自分をさらけ出すことが出来た。そんな君達は本日をもって、正式に『みのむしクラブ』を卒業となる」
笹山は凛と伸びる声で宣言した。
「君達はとても臆病者であると同時に、とても勇気のある者達だ。正直な所、指導と言っても俺は大したことはしていない。ただこの場所に君達を連れて来て、ほんのきっかけを作ったに過ぎない。けど、それで良いと思っている。俺は決して強要しない。あくまでも決めるのは君達自身だ。そう、君達は自分自身の決断で、隠れ蓑を脱いだんだ」
笹山が語っていた時、おもむろに三太が手を上げた。
「あの、先生。話の途中にすみません……その、僕が隠れ蓑を脱いだのは、先生の言葉に後押しをされたと言うか……先生にお願いされたから、脱いだという節があって……」
我ながら、空気を読まない発言だと思う。けど、黙っていられなかった。
「確かに俺はお前にお願いした。けどそれを受け入れて隠れ蓑を脱いだのは、結局の所、お前の意志だよ明石家。だから、俺のポリシーはしっかりと守られている」
「何だよ、それ……ポリシーとか、気取り過ぎだと思います」
「はは、まあそう言うなって」
笹山は苦笑した。
「とにかく、君達は自分の力で隠れ蓑を脱いだ。正直な所、そのせいでこれからの人生、苦労する場面も多々あるかもしれない。けど、それでも、自分を強く持って欲しい」
そこで一旦言葉を切り、笹山は全員の顔を見渡した。
「おめでとう。君達は俺の……最高に立派な教え子だよ」
その時、笹山が浮かべた笑みには、悪魔的威圧感は一切漂っていなかった。
何だ、そんな風に笑えるなら、普段からそうしてくれよ。こんちくしょう。
内心で毒づく自分は、本当に根暗で、ひねくれて、気弱で、どうしようもない。
けど、目の前にいる教師は、そんな自分のことを最高に立派だと言ってくれた。
悔しいがほんの少しだけ、胸が熱くなっていた。
エピローグ
『旧校舎、取り壊しのお知らせ』
廊下の掲示板に張り出された告知を見て、何とも形容しがたい複雑な感情を得た。
その場所は自分にとって大きな転機を与えてくれた。だが心の底から悲しいとか、寂しいとか、そういった感情は湧いて来ない。そんな自分は捻くれているのだろうか。ともあれ、特に大きな衝撃を受ける訳でもなく、むしろ「へえ、そうなんだ」といった具合に淡々と受け入れている自分がいた。
掲示板から離れた三太は、その足で二年B組の教室へと向かう。
彼が隠れ蓑を脱いでから一週間ほどが経過していた。初めの内はあくまでも彼の冗談だと思って話しかけて来た友人やクラスメイト達も、本来の根暗な姿で居続ける彼の姿を見て、次第に近付くことがなくなった。
今までは常にみんなの中心として笑いを巻き起こして来た。だが、今の彼はその輪から大きく外れ、一人だけぽつねんとしている。エセ関西弁も一切喋らない。というか、ほとんど言葉を発しない。根暗に陰湿に、顔を俯けてばかりいた。
三太は決して友達を失いたかった訳ではない。人間嫌いという訳でもない。ただ、とにかく明るい自分を演じ続けることに疲弊していたのだ。けれども、出来ることなら友人とは今まで通りに仲良くしていたかった。隠れ蓑を脱ぐ際にも、そのように気持ちを伝えた。
しかし、現実はそう甘くはない。今までの彼と今現在の彼の間にはあまりにも大きなギャップが存在している。人に好かれるコツはギャップを作ることなんて言うが、それがあまりにも大きすぎるとドン引きされてしまう。三太は身を持って実感した。
ともあれ、クラス内、引いては学園の人気者の一角を担っていた三太は、その地位からすってんころりんと転がり落ちてしまった。今までは昼休みになれば多くの友人達に囲まれていたが、今は孤独に校庭の木陰でパンを頬張っていた。
少し前までは桜の木に彩られていた校庭も、既に青い若葉一色に染まっている。吹き抜ける風には、ほんのりと初夏の香りが乗っていた。
空は抜けるように青く、太陽の日差しが地上に燦々と照り付けている。それに対して、三太の周りの影は濃くなる一方だ。このまま深い闇に沈むのも良いなと、何だかヤバい思考を抱いてしまう。
ふいに、そばで足音が鳴った。
「ここにいた」
三角座りの状態から顔を上げると、そこには咲輝がいた。ボサボサ髪にスッピン、制服はどこかヨレヨレ。カリスマギャルからはほど遠い、みすぼらしい干物女がそこにいた。
突然のことに口ごもる三太が何か言葉を発する前に、咲輝は彼の隣に腰を下ろした。ビニール袋からパンを取り出すと、それをモグモグと食べ出す。合間に飲むのは、やはりオレンジジュースだ。
「寂しい?」
唐突に、咲輝が尋ねてきた。
「へ?」
「みんなの輪の中心から外れて、寂しい?」
三太はしばし口をつぐんだ。その間を埋める様に、そよそよと吹く風が木々を揺らす。
「……まあ正直、少しだけ寂しいかな」
「そっか」
「でも、心地良いよ」
「え?」
「いや、周りから見たら今の僕は落ち目で、どうしようもないくらいの底辺野郎なんだけどさ……でも、何だか心地良いんだ」
三太は青空を見上げて、薄らと微笑む。
「……そうだね。あたしも心地良いよ」
そう言った直後、咲輝の頭が三太の肩に乗った。思わず心臓が跳ねてしまう。
「三太の隣が、心地良いよ」
「そ、そうなんだ……」
「うん、そう」
またしても、沈黙の時が訪れてしまう。周りの静けさに対して、三太の心音は上昇する一方だった。下手をすれば、咲輝に聞こえているかもしれない。だとすれば、物凄く恥ずかしい。
「いつかさ」
「あ、うん」
「こんな自分達も、みんなが受け入れてくれる時が来ると良いね」
「……咲輝」
「だから、それまでは二人で支え合って行こ?」
咲輝が三太の手を優しく握った。ダメだ、もう心臓が持たない。
「おー、そこのお二人さん。お熱いね」
その時、快活な笑い声が響いた。
「け、健人くん。ダメだよ、そんな風に茶化したら」
「ああ、ごめんごめん。けど、あまりにもイチャイチャしているから、ついからかいたくなっちゃったんだよ」
歩み寄って来た健人と日向に対して、三太に寄りかかっていた咲輝が睨みを利かせる。
「ちょっと、あんた達。うっとうしいんだけど、邪魔しないでくれる?」
「うわ、怖っ……って言いたい所だけど、今の武藤さんはそんなに迫力ないね」
笑いながら健人は言う。
「うるさいわね。ていうか、何か用?」
「いや、まあ特に用事って訳でもないんだけど……あ、そうだ。旧校舎が取り壊されるらしいね」
「ああ、何か掲示板に貼ってあったわね」
「何か感傷的な気分にはならないの?」
「別に。一丁前に感動的に卒業式とかやってくれたけど、そこまで思い出深いって訳でもないしね」
「まあ、そうかもしれないけどさ……」
「それに大事なのは、そこで学んで得たことによって、これからの人生をどう歩んでいくかでしょ?」
咲輝が言うと、他の三人は一様に目をぱちくりとさせた。
「何よ?」
「あ、いや……」
健人が口ごもる。
「てか三太、あんたはきちんと、あたしの味方になりなさいよ」
「ご、ごめん……でも、咲輝のくせにそんなことを考えているなんて、意外で」
「誰があたしのくせによ?」
咲輝が眉を怒らせると、三太は彼女から身を引いた。
「おいおい、痴話げんかは大概にしといてくれよ。ねえ、日向ちゃん?」
「う、うん。仲良くしなきゃダメだよ」
「安心して。ケンカするほど仲が良いって言うじゃない? これからあたし、三太といっぱいケンカするつもりだから。部屋に遊びに行った時、オレジュが出なかったら速攻で首絞めるから」
「こ、怖いな……ていうか、どんだけオレンジジュース好きなんだよ……」
「何か言った?」
「い、いや。何でもないよ」
ムッとした顔で迫る咲輝から更に身を引いて、三太はたじろいだ。
その時、少し離れた木陰に人影を見つけた。
黒い髪をさらりとなびかせ、静かにこちらを見つめている。
三太は彼の名前を呼ぼうか迷った。
直後、彼と視線が合った。慌てて逸らそうとするが、その前に、彼が口元でふっと優しく微笑んだ。そこには、悪魔的威圧感は一切無かった。薄々感じていたが、きっとあれが彼の本来の顔なのだろう。威圧的な悪魔の顔は、自分達を指導するための顔だったのだ。
「せ、先……」
呼びかけた所で風が吹き抜ける。
それが止んで改めて声を発しようとした時、彼は静かに踵を返して、その場から去って行った。三太は宙に手を伸ばしたまま固まっていた。
「どうしたの、三太?」
咲輝が尋ねる。
「いや……何でもないよ」
「は? 何で笑ってんの? 意味不明なんだけど」
「ああ、ごめん……何か、楽しいなって思ってさ」
見上げた空は相変わらず抜ける様に青く、そして雄大である。それに比べて、自分はとにかくちっぽけな存在だ。
それでも、確かに大きな一歩を踏み出した。
それだけは、誇りに思いたい。
(了)
それが僕らの隠れ蓑 三葉 空 @mitsuba_sora
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