獏バク図書館 (クラシック)
三葉 空
原稿
1
桜の花びらを見た時、どんな感情を抱くだろうか。
やはり多くの人々は新しい生活、新しい環境、新しい人達との出会いに心を弾ませ、華やいだ気分になるだろう。僕もそうだ。いや、そうだった。生来大人しく、物静かで、理知的な雰囲気を漂わせていた僕も、春となればそれなりにテンションが上がっていた。否が応にもそうなっていた。ふわふわと漂う春の陽気に普段は冷静沈着な僕の思考は掻き乱され、浮き足立ち、共に愛を語り合う恋人などという、僕にとっては空想上の存在が手に入るものだと思っていた。
しかしそんな幸せな幻想は、現実という名の巨大なハンマーであっという間に崩れ去る。周りを見渡せばキャッキャウフフと湧き立つ男女達。一方、僕には恋人は愚か親しい友人も出来ず、気が付けば歩み始めていたぼっちロード。その長く険しい道を僕はこれまで幾度となく歩んで来た。
基本人見知りではあったが、まだどうにかこうにか友達の輪に入れた小学時代。
人付き合いが苦手という気質が浮き彫りになり、友と親しくなれなかった中学時代。
高校デビューを目論むもあえなく挫折。結果として暗黒の時を過ごすはめになった高校時代。
そして、リベンジを誓った大学デビュー。僕は前回の失敗を幾度となく自己分析し、研究に研究を重ねて、入念に準備をして臨んだ。その結果、前回以上に盛大な失敗をやらかしてしまった。その詳細については語るまい。お互いに得をしないだろう。ただ言えるのは、慣れないことはやるべきではない。痛い目を見る。痛い存在になってしまう。それだけのことだ。
そんな訳で僕という人間は生来高潔な文化人気質であり、昨今の血気盛んな若人達のノリは水に合わない。いわゆる「リア充」という存在にはなれず、彼らとは真逆の、というか別世界へと戦略的撤退を余儀なくされたのである。戦略的撤退なのである。大事なことなので二回言わせてもらう。
今僕の目の前には、一軒の二階建てアパートがある。ボロボロという訳ではないが、決して立派とは言えない、ごくごく平凡なアパート。それが僕の新しい住まいだった。この春、僕は以前暮らしていた大学にほど近いアパートからこのアパートに引っ越して来た。その主な理由は、夜な夜な響き渡る「リア充」共のバカ騒ぎを聞いていて非常に居たたまれない気持ちになったからである。高潔な僕がシャワーを浴びて寝巻に着替え、実家から仕入れた上質な日本酒を片手に読書をしていた際、天高く響いて来るのは「ギャハハ! マジウケルし!」という低俗極まりない「リア充」共の鳴き声。ご近所様の迷惑も考えずに自分勝手に気ままに振る舞う。何と知性が低い連中だろうか。動物、いや獣並である。そんな彼らはまさしく「リア獣」である。夜行性の獣を思わせるその活発ぶりに、信濃川のように雄大な心を持つ僕もさすがに堪忍袋の緒が切れて、二年間慣れ親しんだアパートから戦略的撤退する方針を固めたのだ。戦略的である。戦略的なのである。今度は三回言った。
思えばよくあんなアパートに二年間も暮らしていたものである。そのアパートは家賃の値が張るものの、部屋自体はとてもきれいであり、何より大学から徒歩五分という素晴らしい立地条件であった。ただ、それらの美点を吹き飛ばしてしまうくらいの汚点があることを予見できなかった僕が悪い。いや、予見はしていた。そのアパート群には「リア充」なる生態系が形成されることは。当時の僕は華の大学デビューを目論んでいたため、あえて未知の領域に飛び込んだのである。それが運の尽きだった。無残にも大学デビューに失敗した僕にとってそこは魔境以外の何ものでもなかった。それでも二年間持ったのは、まあ有体に言えば意地というやつだろう。「リア充」ごとき野蛮な生物に、高等かつ高潔な僕の健やかな大学生活を脅かされるなんて気に食わない。そうやって意地を張り続けて、張り通して二年間、僕はようやく悟った。勝てない。どう足掻いたって勝てない。少なくても今の僕では勝てない。そのアパートから戦略的撤退をする前夜、相も変わらず僕の鼓膜を揺さぶる「リア充」共の鳴き声。そして、時折混ざる甘い声を聞きながら、僕は放心状態にあった。
忘れよう、先日までの悪夢のような日々は。大学からは遠くなってしまったが、僕はこの新居で清く正しく美しく過ごすことにしよう。ここなら、今まで以上に好きな読書にも没頭できるだろう。夜な夜な騒ぐ「リア充」共の鳴き声から逃れるために、僕は読書に没頭した。その結果として視力が低下してしまい、メガネをかけた。まあ、高潔な文化人である僕にとってメガネは必須アイテムだ。むしろ視力が落ちたことに感謝をしよう。つまり、その遠因となった「リア充」共にも感謝をせねばならない。一瞬思いかけた所で、いや、やっぱりそれはないなと自らをたしなめる。
改めて大家さんにあいさつを済ませてから僕は階段を上がり、二階にある自分の部屋に入った。その内装は以前のアパートに比べれば小奇麗さに欠けるが、しかし広さは同等である。その上家賃も安いのだから文句の付けようはない。僕は早くもこの新居に親しみを持ち始めていた。初対面の人間は苦手だが、初対面のアパートは平気なのである。まあ、そんなに威張ることでもないが。
部屋の中はまだがらんとしている。本来ならば新しいアパートの入居日に合わせて家具や家電などが届くはずであったが、繁忙期ということもあり、荷物が届くのは明日になるそうだ。しかし、僕はそんなことで怒りを覚えない。食事などは少し離れたコンビニまで足を運んで調達すれば良いだろう。浴室でシャワーも浴びることができる。強いて言えば愛読書たちがこの場にないことが不満であるが。あと冷えた日本酒も。
だが、僕は逆に好機だと思っていた。このアパートに引っ越して来たら、行ってみたい場所があったのである。
閑静な住宅街を歩いていると心が和む。この辺りには学生が住むようなアパートはほとんどない。だから、夜な夜な騒ぎ出す「リア充」もいないだろう。すれ違うのは慎ましやかな主婦や年配の方がほとんどである。たまに元気いっぱいにアスファルトを駆け回る子供に出くわすが、その声は一切僕の心を乱さない。むしろ微笑ましいと思い見守ってしまう。僕は早くもこのアパートの周辺事情にも好印象を抱き始めていた。自然と足取りが軽くなる。
アパートを出て十分ほど歩いた時、前方に緑豊かな草地と華やかな桜の木が見えてきた。その近くには看板が立っており、「枕木公園」と書かれている。僕はそのまま歩みを進め、門を通って敷地内に足を踏み入れた。その広い公園内には様々な施設が点在している。美術館や屋内プール、テニスコートまである。それらもまた魅力的な場所であるが、僕の目当ては違う。
桜の木に彩られた道をしばらく進んで行くと、目の前にとある施設が現れた。その看板には「枕木中央図書館」と書かれている。そう図書館である。本を読むことが好きな僕にとって、これほど素晴らしい場所はないだろう。ちなみに僕が通う「公立枕木大学」にも付属図書館がある。しかし、そこは最早図書館の体を成していない。憎き「リア充」共の巣窟となり、おちおち読書にも没頭できない。だから僕は市内でも有数のこの図書館を訪れるべく、現在のアパートに引っ越して来たと言っても過言ではない。以前の住まいからは遠いが、これからは毎日のようにここに通うことができるのだ。そう思うと心が弾み、浮足立ってしまいそうになる。
おっと、いかんいかん。これから僕は神聖な図書館に入るのだ。気を静め、清廉な気持ちで行かなければ失礼だ。まあそこまで肩肘張る必要は無いだろうが、つまり今の僕はそれなりに興奮状態にあるのだ。一度深呼吸をし、気持ちを落ち着ける。意を決してその扉を開いた。
入館した直後、僕を包み込んだのは芳醇な紙の匂いだった。この図書館独特の匂い、正直に言ってたまらない。これからこの空間で好きなだけ読書ができると思うと、幸せ過ぎて死にそうになってしまう。これ以上の幸福はありえないだろう。さて、まずはどんな本を読むか。記念すべき一冊目の本だから、それなりに吟味して決めなければならない。僕は意気揚々と本棚に向けて歩みを進めた。
「こんにちは」
澄んだ声に呼び止められた。そのあまりの清らかさによって、本に集中していた僕はハッと振り向く。
そこには乙女がいた。いや、乙女なんて表現は多少時代がかっており、有体に言えば古めかしい言い回しかもしれない。しかし、そう呼ぶにふさわしい存在がいる。僕の目の前には、美しい黒髪の乙女がいたのだ。
2
黒髪の女性は清楚で可憐。そんな方程式はすでに形骸化していることを、賢しい僕はよく理解している。むしろ黒髪の女性は強かであり、どこまでも計算高く、男を利用してやろうと頭を巡らせている。そういうものなのだ。だから、僕は黒髪の美人が目の前に現れても色めき立ったりしない。あくまでも冷静な心持ちで冷静に対処するつもりだ。賢く高潔な僕であれば、それは難なく実行できると思っていた。
「こんにちは」
図書館の入り口付近にあるカウンターに佇むのは、紛れもない黒髪の美人、いや乙女。その汚れなき黒髪のロングヘアーを見つめていると、つい陶酔したような気分になってしまう。だが、僕は寸での所で堪えた。危ない危ない。頭では理解していても、心が反応してしまう。やはり日本男児たるもの、女性の美しい黒髪に反応するようなDNAが刷り込まれているのだろうか。げに恐ろしき、黒髪ロングヘアーの乙女。
「あの……」
再び声がして視線を向けると、黒髪の乙女は少し戸惑う様な目をしていた。その目もまた澄んでいて美しい。いや、今はそんな煩悩を抱いている場合ではない。彼女は先ほど僕に「こんにちは」とあいさつをしてくれた。それならば僕もまた「こんにちは」とあいさつを返すべきだ。僕は一度、ごくりと喉を鳴らす。
「……こ、こん……ゲホッ、ゴホッ!」
盛大にむせてしまった。これは何たる失態。あろうことかこんなにも美しい黒髪の乙女の目の前で言葉途中にむせてしまうなんて。我が人生ワースト3に入るくらいの汚点ではないだろうか。とにかくもの凄く恥ずかしい。
「大丈夫ですか?」
黒髪の乙女は目を丸くして声をかけてきた。
「だ、大丈夫です……どうもお見苦しい所をお見せしました」
情けなくも僕は、顔面を真っ赤にしてそそくさとその場から去ることしかできなかった。
カウンターから遠く離れた席に腰を下ろすと、僕はテーブルに突っ伏した。
死にたい。こんなにも死にたいと思ったのは、大学入学時の新入生歓迎コンパで盛大にやらかしてしまった時以来だ。その時の羞恥心もまたどっとぶり返し、僕は気恥ずかしさのビックウェーブに飲み込まれてしまう。
その後、波打ち際に上がったクジラのごとく、僕は意気消沈としていた。しかし、いつまでもそうしていては埒が明かないと強引に気持ちを切り替え、席から立ち上がった。近くにあった本棚からファンタジーの小説を手に取り再び席に戻ると、僕は必死にその文章を貪った。そうやって必死に辛い現実から逃避を試みているのだ。そう現実が辛いからこそ映画やマンガ、小説などの虚構の世界が映えるのだ。現実は辛くてナンボ。そう思わなくちゃやっていられない、こんちくしょう。胸の内で雄々しく負け犬の遠吠えを上げながら、僕はひたすらに活字の海へと溺れて行った。
窓から淡く夕日が差し込む頃、僕はパリパリに乾いていた眼をこすり背伸びをした。
そのファンタジー小説はとても分厚かったが、栄誉ある現実からの逃亡者となった僕の必死の読み込みによって、問題なく読破することができた。これが年がら年中現実世界を謳歌している「リア充」共であれば、四分の一も読み終わらなかったであろう。そう考えると、何だか無性にため息が漏れてしまう。
おもむろに席から立ち上がると読み終わった本を棚へと返し、出入口へと歩みを進める。さて、今日の夕飯はどうしようか。コンビニで弁当を買い、まだテーブルも届いていないので床に置いて一人むしゃむしゃと頬張ってやろうか。
「……あの」
ふいに、か細い声に呼ばれた。振り向くと、黒髪の乙女がカウンターの席から僕を上目遣いで見つめていた。不覚にもどきりと胸が高鳴ってしまう。
「は、はい。何でしょうか?」
僕は声が上ずってしまわぬように、精一杯平静を装って聞き返す。
「突然すみません。その、今までお見かけしたことのない方でしたので……」
「え? ああ、僕は枕木大学に通う学生です」
「まあ、そうなんですね。本を読むのはお好きですか?」
「そうですね、好きです」
「本当ですか?」
黒髪の乙女は上品に微笑んだ。彼女の周りに舞い散る桜の花びらがあったら、さぞかし絵になるのだろう。これだけ美しいと、物語の中から抜け出して来たのではないかと思ってしまう。とにもかくにも、これ以上この黒髪の乙女と対面していることは僕の精神に多大なるプレッシャーを与え続けてしまうので、軽く会釈をしてその場を後にしようとする。
「また来てくださいね」
ぴたり、と足を止めた。振り向いた先にいる黒髪の乙女は、相変わらず上品に微笑んでいた。
「……あ、はい。また来ます」
再度会釈をして、背中を丸めながら図書館を出た。眩い夕日が僕を出迎えてくれる。その光を呆然と浴びていた僕は、おもむろに顔を上げた。
「……コンビニ行こ」
今日の夕飯はジューシーなハンバーグ弁当である。アパートに電子レンジはないため購入したコンビニで温めてもらい、帰宅する頃にはほど良く冷めてしまったそれを床に座って頬張った。不味いとは思わなかった。その代わり美味いとも思わない。確かにその名の通りジューシーな肉厚は感じることができるものの、肝心の味は伝わって来ない。だが、それはこのコンビニ弁当が悪い訳ではない。それを受ける器であることの僕が悪いのである。
今の僕は抜け殻に近い状態だった。そう言うと、ひどく悲しいことがあったと思われてしまうかもしれない。しかし、今の僕は悲しみなど感じていない。むしろ、どこかふわふわとした気持ちだった。こんな気持ちになるのは随分と久しぶりな感じがする。
――また来てくださいね。
脳内に浮かぶ、あの上品で柔らかな微笑み。その度に、僕の心臓はひどく落ち着きなく暴れ出す。自分の体の一部分だと言うのに制御できないことがもどかしい。まさか、僕はあの黒髪の乙女に恋をしてしまったとでも言うのだろうか。だとしたら、甚だ情けない話である。黒髪の乙女なんてものは虚構の世界にしか存在せず、現実の黒髪の女はみな計算高く強かなのである。清楚で可憐だなんてもってのほかである。不意打ちだったとはいえ僕の汚れなき心に侵入を許してしまうなんて。今日図書館で読んだ本の内容が頭に残っていないのも、そのせいだろう。情けない。いつもなら読んだ本の内容はしっかりと覚えており、何度も反芻してその世界観を楽しむと言うのに。何だかやるせない。こんな時はよく冷えた日本酒をおちょこでくいと飲みたい気分だが、今この部屋にはない。それは明日に冷蔵庫が届いてから買うことにしている。そうなると僕の心の拠り所は本しかないのだが、この部屋にはまだ本がない。図書館で何か借りてくれば良かった。そんなことも失念してしまうなんて、それもこれも全部あの黒髪の乙女……いや、黒髪女のせいである。認めよう、その外見は映画や小説に登場する黒髪の乙女にも匹敵すると。ただし、所詮は現実の女。その中身はドロドロとしているに違いない。賢く人生を悟っている僕は分かっている。
「……寝よう」
行きついた結論は非常に安易なものだった。人は眠る。とりあえず手詰まりになったら眠る。それは我々人類に刷り込まれた伝統的慣習なのだろうか。情けないことこの上ないが、何の武器も持たぬ今の僕にはそれが精一杯の現実逃避だった。
3
昨晩は酒を一滴も飲んでいないというのに、今朝はひどい頭痛に悩まされた。
「……うぅ」
頭の芯を締め付けられるような気分だ。最悪である。一体僕が何をしたって言うんだ。まあしかし、その原因は分かっている。睡眠とは人にとって必要不可欠な生理的行為。マズローの五大欲求階層において、最も基本的なものとされている。その大事な行為を現実逃避なんかに利用したからこのように天罰が下り、結果としてひどい頭痛に悩まされているのだろう。まあそもそも、毛布も何も使わずに床で寝転がったのが最大の原因な気がするが。
僕は軋む身体を起こし、洗面台へと向かう。冷たい水で顔を洗えば、少しは気分も晴れるだろう。そう思ったが、顔を洗い終えた所でタオルが無いことに気が付き、仕方なく日の当たる窓辺で自然乾燥させることにした。とても惨めな気分である。
そのまま窓から差し込む穏やかな春の日差しを浴びていると、インターホンが鳴った。立ち上がって室内にあるその画面を見ると、爽やかなスマイルを浮かべる男性達がずらりと揃っていた。
「こんちは! 枕木引っ越しセンターでーす!」
この春にふさわしい爽やかな笑顔、そして爽やかに伸びて行く声。それはとても感心なことであるが、今そんな大きい声出されたら頭に響くから勘弁してくれ。僕は内心でぶつくさと文句を呟きつつ引っ越し業者を迎え入れた。直に接するとその爽やかさ加減と声の大きさに増々苦しめられたが、僕は大人しく彼らを受け入れ、部屋に荷物を搬入してもらう。爽やかな男達は手際よく荷物を運び、三十分もかからない内に作業を終えた。まあ彼らの手際も見事であるが、僕の荷物がそもそも少ないのだ。精々本がたくさんあってその運搬に多少苦労したくらいであろう。
「それじゃ、失礼しまーす!」
最後まで爽やかスマイルと伸びやかボイスを残し、引っ越し業者は去って行った。僕はその余韻にぐわんぐわんと酔いを感じつつ、室内へと戻った。まだ段ボール箱がいくつか置かれている。その中身はほとんどが本だ。これからその本達を並べればこの殺風景な部屋も少しは華やかになるだろうか。いや、ならないな。
段ボールの封を解き、本を手に取る。先ほどの引っ越し業者のようなテキパキとした動きは到底できないが、その分一冊一冊丁寧に本棚へと収めて行く。時折、懐かしい本を見つけて読み耽ったりしながら、ゆっくりと着実に本棚へと収めて行く。作業が終わったのは昼過ぎ頃だった。
その頃になると頭痛は収まっており、また適度に身体を動かしたことで腹が減っていた。
「コンビニ行くか」
立ち上がった僕は、財布を片手にアパートを出た。
コンビニで弁当を買った後、僕はその足でアパートに戻ろうと思った。だが、春の穏やかな日差しを浴びていると、このままアパートに戻ってひっそりとご飯を食べるのは何だかもったいないと思ってしまう。せっかくだし、たまには外で食べようか。以前住んでいた騒がしいアパートの周辺では絶対にそのような考えには至らなかったが、この閑静な街にいると不思議とそんな気分にさせられてしまう。あとはどこで食べるかだが。腕を組んでしばし悩んだ末、僕はあの図書館がある公園の情景を思い浮かべた。そうだ、あそこで食べよう。桜の花を見ながらベンチに座ってのんびりとランチをいただく。僕は大して食欲のある人間ではないが、その光景を思い浮かべただけで心が弾み、自然と腹も鳴ってしまう。うむ、僕もまだ若い。それなりに健康体ということか。安心した。
コンビニ弁当が入ったビニール袋を小さく振り子させながら、僕は今朝の頭痛が嘘のように軽やかなステップで公園へと歩みを進める。
うららかな午後の公園は安らぎの空気に包まれていた。僕は適当なベンチに腰を下ろし、ほっと一息吐く。ビニール袋から弁当を取り出し、膝の上に置いた。
「いただきます」
育ちの良い僕は礼儀正しくそう言って、弁当のご飯を頬張る。美しい桜の木を見ながらのんびりと食べていると、たかだかコンビニの弁当も上等なレストランの料理に見えてしまうのだから不思議である。まあ、それも想像力が人一倍逞しい僕だからこそ成せる技であろう。非常にリーズナブルに高級な満足感を味わえる、何とも優れた男だと自負してしまう。まあ、これで隣に美しい女性がいてくれれば文句無しなのだが、それこそ僕の逞しい想像力で何とでもできる。さて、昼下がりにコンビニ弁当に舌鼓を打つ僕の隣に寄り添う美女は誰にしようか。最近読んだ小説、映画、あるいはマンガの中でめぼしいヒロインはいただろうか。ぼんやりと宙を見つめ、桃色の思考へと転換して行く。
「あら」
桃色の大海原へと出航しようとしていた時、とても耳触りの良い声が聞こえた。
「昨日、いらした方ですよね?」
おもむろに振り向いた僕の目に飛び込んで来たのは、舞い散る桜の花びらに彩られた、美しい黒髪の乙女だった。桜の花びらと黒髪の乙女、これほどまでに相性が良く、また互いの魅力を引き立て合う存在だったとは。僕の予想を軽く超えていた。
そのあまりにも優美な様に僕はしばし呆然と見惚れていた。口を半開きにして、非常に滑稽な姿を晒していた。
「あの……」
黒髪の乙女が困惑した声を発すると、呆けていた僕はようやく意識を取り戻す。
「あ、いえ、その……どうも」
僕は口ごもりながら、会釈をした。それが精一杯の対応であった。
「こんにちは。ごめんなさい、お食事中に声をかけてしまって」
「いえ、お気になさらず。あの、どうしてこちらに?」
「お昼休みをいただいたので、公園のベンチで昼食を取ろうと思っていたんです。そうしたら偶然、あなたの姿を見つけて。つい声をかけてしまいました。ご迷惑でしたか?」
「そんな滅相もございません。むしろ、光栄の至りでございます」
「うふ、何でそんなにかしこまっていらっしゃるのですか?」
口元に手を添えて、黒髪の乙女は上品に笑う。その手の甲の白さに驚いた。
「いや、はは……」
「あの、お隣よろしいですか?」
瞬間、僕はまたしても呆けた顔で固まってしまう。いつもめくるめく妄想によって色彩豊かな僕の思考回路が、真っ白になってしまう。
「ごめんなさい、いきなりこんなことを言ってしまって……やはりお嫌でしたか?」
はっと視線を向ければ、黒髪の乙女は悲しげに瞳を揺らしていた。僕は紳士であると常日頃から自負している。そんな僕がこんなにも可憐な乙女を悲しませてしまうなんて、許されるはずがない。
「いえ、そんなことはございません。僕のように矮小な人間の隣でよろしければ、いくらでも座って下さい。何なら、僕の膝の上に座って下さい!」
暴走した思考回路によって、とんでもないことを口走ってしまう。もし僕が女性でいきなりそんなことを言われたら確実に引いてしまうだろう。やっちまった、ウルトラミス!
「ふふ、それは遠慮しておきます」
「で、ですよね」
「だって、あなたの膝の上には美味しそうなお弁当が乗っていらっしゃるから」
「あっ……」
「ハンバーグ弁当ですか?」
黒髪の乙女は小首を傾げて尋ねる。
「そ、そうです。ちなみに昨晩もハンバーグ弁当だったのですが、今回はさらにチーズをプラスした『チーズハンバーグ弁当』です。いやはや、香ばしいチーズの香りがたまりませんな」
言い終えた所で、僕はどっと羞恥心に襲われる。僕が食しているのは所詮ただのコンビニ弁当。僕の中ではその豊かな想像力によって高級レストランの料理に勝るとも劣らない領域にまで達しているが、彼女にとってはチープなそれにしか見えないであろう。それを得意げに語る僕の間抜けさ滑稽さと来たら、さしもの黒髪の乙女もその優美な仮面をバリリと剥ぎ取り、「マジで意味不明なんですけど」と『リア充』の冷酷女子ばりに痛烈な一言を放つだろうか。僕は戦々恐々とした。
「ふふ、素敵ですね」
しかし、黒髪の乙女は相変わらず優美な微笑みを湛えたまま、そのように優しい一言をかけてくれた。僕は先ほどとは違う意味で頬が熱くなるのを感じた。
「では、失礼します」
そう言って、黒髪の乙女はベンチの腰を下ろす。その所作は非常に美しいものだった。ロングスカートを穿いた膝の上に、花柄模様に包まれた四角い箱を置く。その包みを解いてふたをあけると、色とりどりのおかずが敷き詰められていた。
「いただきます」
黒髪の乙女は箸を手に取り、ほうれん草のおひたしを口に運んだ。白く細い顎で、ゆっくりと咀嚼する。
「……うん、美味しい。やはり外で食べると、より一層美味しく感じますね」
その柔らかな微笑みを向けられて、僕はどぎまぎしてしまう。
「そ、そうですね」
またしてもぎこちなく返事をしてしまう。いかん、あまり口ごもってばかりいるとダサイ男の烙印を押されてしまう。僕は紳士、できる紳士なのだ。こんなにも素敵な黒髪の乙女に嫌われてたまるか。
「あの、つかぬことをお伺いしますが」
「は、はい!」
決意したのっけから上ずった声を発してしまう。何やってんだ、僕。
「あなたのお名前は?」
「え?」
「よろしければ、教えていただけますか?」
にこりと微笑んで、黒髪の乙女は言う。
「あ、はい。僕は諸井敬太郎(もろい けいたろう)と申します。公立枕木大学に通っております」
「諸井……敬太郎さん」
黒髪の乙女はその可憐な唇で、僕の名前を噛み締める様に言う。
「申し遅れました。私は木野宮桜(きのみや さくら)と申します」
「木野宮……桜さん」
僕もまた、彼女の名前を噛み締めるように繰り返す。
「素敵なお名前ですね……」
言った直後、僕はハッとして口を押える。
「あ、いえその……先ほどいらっしゃった時、あなたと桜の花びらがとても似合うと思っていたので。そんなあなたの名前が桜だなんて、もう素敵だなぁって思ってしまったんです」
僕は必死に早口でまくしたてた。すると、黒髪の乙女はくすりと笑みをこぼす。
「ありがとうございます。そんな風に男性に褒めていただいたのは初めてなので、とても嬉しいです」
「そ、そうなんですか? 全く、あなたの周りの男は一体何を見ているんだか。あっはっは!」
照れくささを誤魔化すように、僕は大声を上げて笑った。黒髪の乙女もまた、上品に笑ってくれた。
「うふふ、面白い方ですね。あの……」
「はい?」
「その……今度から、敬太郎さんとお呼びしても良いでしょうか?」
彼女の上目遣いな視線が僕の純情ハートを真っ直ぐに射抜いた。何と奥ゆかしく可憐な物言いだろうか。彼女の爪の垢を煎じて「リア充」の女共にも飲ませてやりたい。そうすれば、彼女の魅力の三割程度は発揮できるだろう。つまり何が言いたいのかと言うと、死ぬほど可愛い。それだけである。
「ごめんなさい、やはり嫌でしたか?」
「いやではありません! むしろよろしくお願いしたい所存であります!」
興奮のあまりまたしても僕の日本語が崩壊してしまう。しかし、黒髪の乙女は優しく微笑んでくれた。
「嬉しいです。では、私のこともどうか名前で桜と呼んで下さい」
「わ、分かりました……さ、桜しゃん」
思い切り噛んでしまった。しかし、彼女はそんな僕の失態を咎めることをせず、むしろ柔らかな笑みを浮かべてくれた。
「はい。これからよろしくお願いします、敬太郎さん」
黒髪の 乙女微笑む 骨抜かれ by 諸井 敬太郎。
「あの、敬太郎さん……?」
「はっ、すみません。あやうく無限の妄想の世界へ永久トリップしてしまう所でした」
「何ですか、それ。おかしい」
口元に手を添えて、上品に微笑むその美しさたるや。
誰だ、黒髪の女性が計算高く強かであると言った奴は。まあ僕であるが。しかし、今僕はその理論を全面的に撤回することをここに宣言する。
黒髪の女性、いや乙女はどこまでも純情可憐であり、汚れなき存在であると。僕は確信した。そして、革命が起きた、僕の中で。
この日を境に、僕の日常は黒髪の乙女――桜さんを中心に回ることになった。
4
世界は複合色である。喜びに満ちた黄色、怒りに燃える赤色、悲しみに満ちた青色……酸いも甘いも混在する、複合色の世界なのだ。
しかし、今の僕は単一色の世界を漂っている。その世界は桃色、ただ一色で構成されている。非常に華やかで、それでいて可憐な、桜が舞い続ける世界。その中心にいるのは、麗しの黒髪の乙女。その名前は桜さん。彼女を中心にこの世界は、僕の世界は回り続けている。それはロマンティックなメリーゴーランド。この幸福な世界で、永遠に回り続けていたい。
そして叶うことなら、彼女とめくるめくラブロマンスを――
◇
背中にしたたかな痛みが走り、僕の意識は乱暴に覚醒させられた。おもむろに視線を巡らせると、ほの暗い天井に向かって右手を伸ばしている。これは何かを求める強い欲求の表れだろうか。とにもかくにも、背中が痛い。
「……あたた」
寝ぼけてベッドから転げ落ちてしまうなんて、大学入学当初以来だ。あの頃は不慣れな環境に様々なプレッシャーを感じ、ベッドの上でうなされていた。そのせいで落下してしまうこともままあったのだが、時が経つにつれてそれもすぐに解消された。しかし今の僕は、またぞろあのウブな入学当初のように、情けなくもベッドから転げ落ちてしまった。
ただ違うのは、今回は重苦しいプレッシャーによるものではなく、羽のように軽やかなハピネスによるものであった。そう僕はボケている。色ボケているのである。
冷たい床から身を起こし、洗面所へと向かう。先日コンビニで購入した男性用洗顔フォームをにゅるっと手の平に出すと、それを水で泡立て、丹念に顔を洗う。その後、冷たい水で洗い流し、鏡に映る自分の顔を見た。
そこに映ったのは、昨今のイケメン俳優に勝るとも劣らない、美青年の顔であった。理知的であり、それでいて温和な雰囲気も漂わせている。こんな美青年に声をかけられたら、女性はころりと落ちてしまうこと間違いなしである。
だがしかし、紳士たる僕は見境なしに女性に声をかけるなんて軽薄ナンパ野郎まがいのことはしない。僕のように純情な男はこれと決めた愛する女性、ただ一人に粛々とその情熱を捧げる覚悟が据わっているのだ。
ちなみに現在の時刻は午前十一時半。我が枕木大学においてはちょうど二コマ目の授業が佳境に入っており、目前に迫った昼休みに思いを馳せる学生達で溢れ返っているだろう。しかし、今の僕には関係のないことだ。恋の超特急エクスプレスに颯爽と乗り込んだ僕には、まるで関係のないことである。下らない禿げ教授の講義など問答無用でサボって見せよう。単位など知ったことではない。
身支度を整えると、アパートを出て近くのコンビニに向かう。そこで「春の特製弁当」という、特製の割には平凡なラインナップの弁当を買い、軽やかなステップで住宅街を駆けて行く。すれ違う奥様方に「こんにちは」と爽やかなあいさつと笑みを振りまきつつ、目指すは地元民に愛される枕木公園。相も変わらず広い敷地内には美しい桜の木が咲き乱れている。いや、乱れているなんて失礼な言い方だ。咲き誇っている、整然と咲き誇っている。その桜の木々を見ていると、僕の胸の内に桃色成分が充填され、恋の超特急エクスプレスはさらに加速する。僕はコンビニの袋片手に、公園内をうきうきスキップで進んで行く。
ふと視界に、一人の乙女を捉えた。公園の一角にあるベンチに佇み、舞い散る桜に彩られている可憐な乙女がそこにいた。
それまでうきうきステップを踏んでいた僕は途端にぴたりと足を止め、英国紳士にも劣らない優雅な歩調で乙女に近付いて行った。すると、こちらの気配に気が付いた乙女が、ふっとその可憐な顔を上げた。
「こんにちは」
その鈴を転がしたような声は僕の鼓膜を穏やかに揺さぶり、そのまま心の中へゆっくりと溶けて行く。僕はその余韻をいつまでも楽しんでいたかったが、メガネのブリッジをくいと押し上げ、とびきり爽やかに微笑んだ。
「こんにちは、桜さん」
以前は手痛く噛んでしまった彼女の名前をしっかりと呼び、「お隣、よろしいですか」と物腰穏やかに尋ねる。
「ええ、もちろんです」
桜さんはにこやかに微笑んだ。彼女が脇に避けるまでもなく、既に僕が座る分のスペースはあった。つまり彼女は最初から僕が来ることを待ち望んでいたと、そういうことで間違いないだろうか。いかん、紳士たるこの僕の口元がだらしなくにやけてしまいそうになる。男性は女性の前でその荒々しい欲望を決して剥き出しにしてはいけない。それが意中の女性ならば尚更である。自らの内に潜む欲望と言う名の猛獣を飼い慣らせない未熟者は、すべからく嫌われてしまうのである。
「では、失礼します」
僕は爽やかな微笑みを浮かべたまま、桜さんの隣に腰を下ろした。がさり、とビニール袋から弁当を取り出し、膝の上に置いた。それと同時に、彼女もまた弁当の包みを解く。
「いただきます」
「いただきます」
礼儀正しい紳士と淑女である僕らはきちんとそう言って、箸を手に取った。
「美味しそうなお弁当ですね」
桜さんが僕の弁当を見てそう言った。これを言ったのが他の女性、例えば「リア充」の女であれば、遠回しに「その弁当くれ!」と言っているように聞こえて非常に不愉快な気分になってしまう。しかし、彼女の場合は逆に気を遣って話しかけてくれたのだろう。素敵過ぎる。
「いえ、毎回こんなみすぼらしいコンビニ弁当でお恥ずかしい限りです。そういう桜さんこそ、毎回素敵な手作り弁当で。それはご自分で作っていらっしゃるのですか?」
「いえ、母に作ってもらっているんです。良い年をしてお恥ずかしい話ですが」
「そんなことないですよ。ちなみに桜さんはおいくつなんですか? ……っと、すみません、女性に年齢を聞くなんて僕も失礼な奴だな」
「そんな構いませんよ。今は二十歳です。今年で二十一歳になります」
「本当ですか? 僕もです。ちなみに、今は大学の三年生です」
「まあ、同じ年だなんて。何だか嬉しくなっちゃいますね」
その一言に、僕もとても嬉しくなっちゃいます。っと、いかん。また僕のピュアリズムに基づく口元の緩みが発生してしまう。落ち着くんだ。
「お酒は飲まれるんですか?」桜さんが尋ねる。
「ええ、まあ。嗜む程度にですけど。地元の日本酒を飲みつつ、読書するのが好きですね」
僕が言うと、桜さんは微笑んだ。
「地元はどちらなんですか?」
「新潟です」
「まあ、新潟。お酒もそうですけど、お米が有名ですよね?」
「そうですね。けど僕は食が細いので、米はあまり食べなかったですね。ほら、おかげでこんなガリガリで情けない話です」
僕は自分のやせ細った体を強調するように背伸びをして見せた。
「そんなことありませんよ。私はどちらかと言えばがっしりとした方よりも、ほっそりした方の方が好きです」
言い終えた所で、桜さんはハッとしたように口を手で覆った。頬をその名の通り桜色に染めて、恥ずかしそうに俯いた。
桃色成分、大量投下、恋の超特急エクスプレス、猛烈加速!
いやいや、そんなアホな思考を回している場合ではない。僕はにわかに暴れ出した内なる猛獣をたしなめるため、目の前の陳腐な「春の特製弁当」を掻き込んだ。一方、桜さんは未だに頬を薄桃色に染めたまま箸を置いた。僕は残り少なくなった弁当を一気に掻き込むと、呼吸を整えて口を開く。
「どうしましたか?」
「いえ、何だか食欲が無くなってしまって……」
「え、大丈夫ですか? どこか具合でも?」
「何でもありません。大丈夫ですよ」
淡く微笑む桜さんを見て、僕は彼女が病にかかっているのではないかと思った。そう、僕に対する恋の病に。うむ、我ながら痛すぎる思考なので、その早計な結論は棄却することにした。
「あの、敬太郎さん」
か細い声で、桜さんが呼んだ。
「はい、何でしょうか?」
「もしよろしければ、私のお弁当食べますか?」
「えっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「ごめんなさい、やっぱり嫌ですよね。それに敬太郎さんは食が細いとおっしゃっていましたし……」
「確かに平素の僕は小食ですが、今は美しい桜の木に囲まれることによって食欲がみなぎっております。ですから、ぜひともそのお弁当をいただきたいです」
「本当ですか? 実は私も小食で、いつもお弁当を食べ切るのに苦労していたんです。助かります」
桜さんはにこりと微笑んだ。可憐過ぎる。僕は口元がニヤケそうになるが、努めて紳士的な表情を崩さない。
「では恐れながら、その卵焼きをいただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
「では、失礼して……」
僕は自らの箸でその卵焼きを取ろうとした。しかし、それよりも一瞬早く、別の箸が卵焼きをすくい取った。そのまま、僕の目の前に差し出される。
「はい、どうぞ」
明るい微笑みを浮かべて、桜さんは言った。
瞬間、僕のハイスペックな思考は緊急停止した。今の状況を整理すると、桜さんが自分の箸で卵焼きを僕の目の前に差し出している。これはいわゆる「はい、あーん」という、イチャイチャバカップルの代名詞とも言える行為ではないだろうか。清廉高潔な僕は、例え意中の女性と結ばれたとしても、そのように低俗な行為には走らないと心に決めていた。本来食事とは己の箸で取るものである。それを何が悲しくて他人の箸で他人から食べさせられなければならんのだ。ある種の屈辱を覚えるげに恐ろしき行いである。
しかし、しかしである。今僕に対してその「はい、あーん」をしているのは、純情可憐な黒髪乙女であることの桜さんである。そんな彼女がはしたない真似をするはずがない。つまり、「はい、あーん」は決して低俗ではしたない行為ではないという方程式がここに成立する。そうなれば清廉高潔である僕も、その行為に走るのはやぶさかではない。
改めて桜さんを見つめると、にこやかな笑みを浮かべている。頬が熱くなるのを感じたが、心を落ち着けて研ぎ澄まし、その卵焼きを頬張った。
口に含んだ瞬間、得も言われぬ甘い味わいが爆発的に広がった。それはこの卵焼きがあまりにも砂糖の量が多くて甘ったるいという意味ではない。その卵焼き自体はごく普通の、ありふれた味付けである。
ただ、それがとても甘く感じる。心の中で甘いと感じる。心が甘いと叫びたがっているんだ。
恐ろしい。やはり、この「はい、あーん」という行為はげに恐ろしい。例えば激辛カレーだったとしても愛しの乙女に「はい、あーん」をしてもらえば、激甘カレーへと変貌を遂げるだろう。予想していなかった「はい、あーん」の衝撃に、僕は戦々恐々としてしまう。
「お味はいかがですか?」
「あ、はい。とても美味しゅうございます」
「うふ、それは良かったです」
桜さんはにこりと微笑んで言う。
「よろしければ、もう一つどうぞ」
「あ……では、いただきます」
頷いた僕の目の前に、再び「はい、あーん」によって差し出される卵焼き。
それを頬張った僕の全身は、甘い感覚に支配され、溺れて行った。
アパートの部屋に戻った直後、僕はふらふらと覚束ない足取りでベッドへと歩み寄り、そのまま仰向けに寝転がった。
あれから桜さんと昼食を取った後、僕は図書館で読書に耽っていた。しかし、全く集中することができなかった。いつもならスルスルと頭に入って来る活字が全然入って来ない。昼食を終えた後もズルズルと「はい、あーん」の余韻を引きずっていたからだ。桜さんの箸で、桜さんの卵焼きを食べた。食べさせてもらった。その時の光景を思い返す度に、血気盛んな内なる猛獣はのたうち暴れ回る。全く、騒々しいことこの上ない。
「はい、あーん」の威力は僕が想像していた以上だった。しかし、次からは大丈夫だ。一度経験してしまえば僕の順応力の高さによって体内に抗体が形成され、「はい、あーん」の甘ったるい成分に浸食されることを防いでくれるだろう。そうだ、そもそもたかだか他人の箸で物を食べさせてもらう。それだけのことだ。いや、まあ桜さんの箸はたかだかなんて存在ではないが。
そこまで思考を回した所で、僕の脳裏にふっと浮かぶ考え。僕はあの時、桜さんの箸で食べさせてもらった。その箸は、当然のことながら桜さんも自らの口に食事を運ぶために使った。つまり桜さんの口の中に入る。その過程で、桜さんのあの可憐な桜色の唇にも触れている。唇に触れている。そして、その箸が僕の唇にも触れた。それはつまり、間接的に唇が触れ合った。俗に言う間接キスが成立したということになる。
瞬間、何とか大人しくなりかけていた僕の内なる猛獣が再び勢い良く暴れ出した。いやいや、待て待て、そもそも間接キスなんてそんなに大げさなことだろうか。甘酸っぱい青春物語においては非常にビッグイベントとして描かれているが、たかだか同じ物体の同じ箇所に唇を押し付け合った。それだけのことである。直接触れ合った訳ではない。あくまでも間接なのである。その程度のことで騒ぎ立てるなんて、「リア充」共も少しばかり可愛らしいところがある。全く、この僕には到底理解が及ばない。
しかし、なぜ僕の心臓はこんなにも荒れ狂い、跳ね上がっているのだろうか。胸の内の猛獣は尚も猛り狂っている。もうここまで来たら、「ファンキー」とでも名付けてやろう。そのファンキーは暴れ回り、恋の超特急エクスプレスは猪突猛進、空の彼方まで突き進んで行く。にわかにカオス状態となった僕の心中に、何より僕自身が一番驚いている。
分かった、ここまで来たら認めよう。この冷静沈着たる大人の男である僕も、ほんのわずかばかり動揺していると認めてやろう。
つまり、「はい、あーん」には二重の罠が張り巡らされている。意中の女性から食べさせてもらうことによる幸福感。そして、その上間接キスまで成立してしまうというお得感。何だこれ、「はい、あーん」すげえな、おい。っと、いけない。わずかばかり動揺してしまったため、つい口調が乱れてしまった。僕は紳士である。その狡猾なる「はい、あーん」にも決して心乱さず粛々とその善意のみを受け取る、高潔な紳士なのである。
ただ一つだけ言えることがある。今夜の僕はきっと眠れないだろう。そして、明日の講義もきっと放り投げてしまうだろう。確定事項である。
5
「枕木中央図書館」は午前九時から午後六時まで開館している。僕は毎朝六時には起床し、この理知的な美顔を洗顔フォームで洗い、それからシャワー室に小一時間ほど籠って元々清廉な身体をさらに清め、目一杯お洒落な服装に身を包んだ後、姿見鏡の前でポージングの練習をする。そして八時半頃にアパートを後にし、開館の十五分前には図書館に到着する。五分前、十分前行動などとよく言われるが、真にできる男はさらにその一歩先、十五分前行動を取るのだ。不足な事態が起きても対処できるように、常に余裕を持って行動をするのである。
やがて午前九時。定刻を迎えると、入口のブラインドが上がり、扉が開け放たれる。
「おはようございます」
僕の目の前に、麗しい黒髪の乙女が現れる。彼女の名前は木野宮桜さん。この世のありとあらゆる奇跡が折り重なり、僕の下に降臨した黒髪の乙女である。約二十年の人生において、僕はこれほど美しい黒髪の乙女に出会ったことはない。そんな彼女と出会うことができたのも、日頃の行いの賜物だろう。僕は神様の存在など基本的に信用していないが、今なら言える。神はいると。清く正しい僕の生き様を見て、その褒美として桜さんという至極の黒髪の乙女を与えてくれたのだろう。つまり何が言いたいかと言うと、僕はとんだ幸せ者であるということだ。
「おはようございます、桜さん。今日も爽やかな朝ですね」
ちらりと白い歯(大量の歯磨き粉をで磨いた)をこぼし、僕はにこりと微笑んだ。これが軽薄な「リア充」野郎であれば、「今日も可愛いね」なんて軽い褒め言葉を投げるだろう。しかし、僕はそんなアホな真似はしない。心の中では桜さん死ぬほど美しい抱き締めたいと思いつつも、そんな破廉恥な感情はおくびも出さず、粛々と紳士たる姿勢を崩さない。
「はい、そうですね。さあ、どうぞお入りになって下さい」
その結果として、桜さんはとびきりの笑顔で僕を迎え入れてくれる。この笑顔を見ることができるのは紳士たる態度を崩さない僕だけだと自負している。
桜さんに導かれて僕は館内へと入る。本棚から適当な文学を手に取ると、カウンターがよく見える席へと腰を下ろした。それは麗しい桜さんを視姦するためではない。僕はこの図書館の利用を初めて間もない。分からないことだらけである。だからすぐに質問ができるように、この位置を陣取っているのだ。桜さんにあれやこれやと質問するためにいるのだ。ちなみに、桜さん以外の職員に質問したことはない。
さあ、時は来た。僕は文学を左手に持ち、右手でメガネのブリッジをくいと押し上げる。清廉なる僕の読書姿を愛しの桜さんに目一杯アピールするのだ。
文学小説をパタンと閉じ、僕は一息吐いた。
結論から言おう、全然頭に入って来なかった。確かに僕は麗しい桜さんに会いたいがためにこの図書館に通っている。しかし、元来僕は清廉なる読書家であり、例え麗しい乙女がいなくとも図書館に通い詰め、活字の海に溺れて行きたいと思っている。そんな僕が素晴らしい文学小説を読み終えて、何も頭に入っていないなんて。我ながら情けない。しかし逆に言えば、それだけ桜さんの魅力が素晴らし過ぎるということだろうか。いや、そんなことを言ったらまるで桜さんのせいみたいになってしまう。読んだ本の内容が頭に入っていないのは、僕が未熟なせいだろう。僕がより高度に洗練された人間になれば、桜さんの美貌を楽しみつつ、本の内容もしっかりと頭に入れていることだろう。
「敬太郎さん」
ふいにそばで、澄んだ声が響いた。
「ひゃ、ひゃい!」
にわかに動揺した僕は、素っ頓狂な声を発してしまう。振り向けばそこには桜さんがいたので、僕は瞬時に理知的な好青年へと舞い戻る。
「どうされましたか?」
「その本、もう読み終わったんですか?」
「ええ、まあ」
中身はまるで頭に入っていないが。まあ、それはあえて言う必要は無いだろう。
「次に何を読もうか思案していた所です」
「それでしたら、オススメの本があります」
「オススメですか?」
「こちらの小説なんですけど……」
そう言って桜さんが差し出して来たのは、ハードカバーの本だった。その体裁は桃色を基調とした華やかなデザインである。
「えと、この本は……」
「これは恋愛小説です。とても甘くて素敵な物語なので、ぜひ読んでみて下さい」
柔らかな微笑みを残して、桜さんは再びカウンターに舞い戻って行く。その後ろ姿を僕は呆然としながら見つめていた。そして、改めて手渡された恋愛小説に視線を落とす。
桜さんはわざわざ僕の所までやって来て、この恋愛小説を手渡した。甘い恋愛小説を。それはつまりこの僕と甘い恋愛がしたいという、奥ゆかしいあなたからの熱いメッセージと受け取って良いのでしょうか!? 桃色成分、大量投下、恋の超特急エクスプレス猛烈加速! そして始まる、僕と桜さんのめくるめくラブロマンス。全く、今日は何て日だ!
◇
舞い散る桜の花びらを、半ば虚ろな目で見つめていた。
ベンチに腰を下ろしている僕は、空っぽだった。常日頃から僕ほど中身の詰まった人間はいないと自負しているが、今は空っぽだった。
桜さんオススメの恋愛小説を手渡された瞬間、僕の中でまた激しいカオス状態が巻き起こり、そのまま陶酔の坩堝へと吸い込まれてしまった。そのおかげで、せっかく桜さんがオススメしてくれた恋愛小説の内容が全く頭に入っていない。何となく、甘く濃密な話だったような気がするも、覚えていない。それもこれも、恋の超特急エクスプレスが猛烈に加速し続け、ファンキーがその名の通りファンキーに猛り続けたせいだろう。その後遺症として、今の僕は空っぽだった。言い換えれば、真っ白に燃え尽きていた。時刻はお昼時、コンビニで弁当を買って来たは良いが、箸を付ける気にならない。半ば屍のようにベンチに沈んでいた。
「敬太郎さん」
またしても、そばで澄んだ声が響く。その声を聞くと、僕は無条件に背筋を伸ばした。
「お隣、よろしいですか?」
微笑みながら言うのは桜さんだ。
「もちろんです。どうぞ」
僕が答えると、桜さんは微笑んで喜色を浮かべ、ベンチに腰掛ける。弁当の包みを解いてから、改めて僕を見た。
「敬太郎さん、お弁当を召し上がらないのですか?」
「あ、そうでしたね。はは……」
乾いた苦笑を浮かべる。
「もしかして、あまり食欲が無いんですか? じゃあ、今日は私のお弁当食べられませんね」
小さく眉尻を下げて桜さんが言う。直後、僕は猛烈な勢いで首を横に振った。
「いえいえ、そんなことはありません。今の僕はとてもお腹が空いています」
「けど、食べずにボーっとしていらっしゃったから……」
「それは……美しい桜に見惚れていたんです。あっはっは!」
我ながら中々に苦しい言い訳だと思った。しかし、桜さんは口元に手を添えてくすくすと笑っている。どうやら納得してくれたようだ。
「それでは恐れ入りますが、今日もお願いしても良いですか?」
「もちろんです。この僕にお任せください」
僕は大して厚くもない自分の胸をどんと叩いて見せた。衝撃で胸骨が折れないか不安になってしまう。しかし、何食わぬ顔でいる僕は大概見栄っ張りである。そう、見栄っ張りなのである。
先日の「はい、あーん」の一件以来、僕は桜さんのお弁当をいただくようになった。それは彼女が小食で弁当が食べ切れないためであった。それならば母親に量を少なくしてと頼んでみてはどうだろうかという至極平凡な提案をしたのだが、どうやら彼女の母親はそれを許してくれないようだ。そのため彼女の弁当箱の中をきれいさっぱりにする手伝いを僕がすることになったのだ。しかし、かく言う僕も元来小食の身である。そのため、朝食を抜くことにした。そうして空腹になることで、少しは量を食べられるようにする。以前、彼女にも自分は小食だと言ったため、彼女は僕が協力することに遠慮していた。しかし、僕が「どんとお任せ下さい」と見栄を張ってしまい、その協力関係が成立したのである。だが、僕は決して嫌々やっている訳ではない。桜さんの力になってあげたいという気持ちがあるから。そして、もう一つは……
「敬太郎さん、はい」
桜さんが自分の箸で弁当のおかずを掴み、僕の口元へと運ぶ。僕は「あーん」と口を開いてそれを頬張る。ゆっくりと咀嚼して、幸せを噛み締めた。
「いかがですか?」
「うん、美味しいです」
「良かったです。あの、もっと食べてもらえますか?」
「もちろんです」
その後も、僕は桜さんの「はい、あーん」の力によって、彼女の弁当を平らげた。
「ありがとうございます、敬太郎さん」
嬉々として言う桜さんに対して、僕は爽やかスマイルで応える。だが、その胃袋は悲鳴を上げていた。脇に視線を落とせば、コンビニで買った弁当が残っている。これからこいつを食すとなると、かなり骨が折れる。初めはもっと軽くするか、いっそのこと昼飯は買わないでおこうと思った。しかし、そうすると心優しい桜さんがあれこれと気を遣うと賢しい僕は予見し、あえていつも通りの弁当を買った。いつも通りの弁当を食べて尚余力があり、その上で弁当を食べてくれる。だからこそ桜さんは喜んでくれるのだ。もし仮に僕が彼女の弁当を食べるために昼飯を軽くしたり抜きにしたら、彼女は心中を痛めるだろう。
あれこれ考えたが、僕の胃袋がすでにパンパンの限界に近い事実は免れない。しかし、弁当はまだピカピカの未開封。僕は今すぐにでも戦略的撤退をしたいが、桜さんの心中を傷めないためにも、自らの胃袋を傷める決意を固めた。
その後のことは詳細には語るまい。お互いに得をしないだろう。ただ一つ言えることは、見栄を張ることはとても大変である、ということだ。僕はしばらくトイレに籠っていた。
6
恋は盲目なんてよく言うが、まさにその通りだと思う。素敵な乙女に心を奪われるあまり、それ以外のことは一切視界に入らない。だから、ここ最近の僕は実りある読書が出来ていない。高潔なる文化人としてそれは由々しき事態なのである。
「敬太郎さん」
何度聞いても飽きることのない澄んだ声が、僕の鼓膜を優しく揺さぶった。
「はい、何でしょうか?」
「良ければ、この本を読んでみませんか? 恋愛小説でとても面白いらしいんです。ただ、私はまだ読んだことがないんですけど……」
気恥ずかしそうに目を伏せる様がまたいじらしい。僕は桜さんが差し出したその本を受け取り、例のごとく爽やかな紳士スマイルを浮かべる。
「ありがとうございます。ぜひ、読ませていただきます」
「本当ですか? 嬉しい」
桜さんはその名の通り桜の花びらのように可憐な微笑みを浮かべた。僕はそんな彼女に見惚れつつ、どうせこの本の内容もろくすっぽ頭に入って来ないだろうと思っていた。
◇
日が傾くのと同時に、僕は読んでいた恋愛小説をパタンと閉じた。
結論から言えば、その内容は全く頭に入って来なかった。だが、慌てることはない。大方予想通りの結果である。認めよう、僕はこの図書館に読書をしに来ている訳ではない。麗しい黒髪の乙女である桜さんに会うために来ているのだと。この変態色ボケ野郎と罵ってもらって結構。元来男とはすべからくスケベな生き物なのである。どんなに高潔ぶった所で、僕も所詮は人の子、男の子。どんなに素晴らしい読書体験よりも、素晴らしい乙女を優先してしまう。全く、だから男って生き物はバカだのアホだの言われてしまうのだ。
背もたれに全体重を預け、僕は半ば虚ろな目で天井を見つめた。
そばで静かに足音が鳴った。おもむろに視線を向ければ、僕の注目を集めて止まない、黒髪の乙女こと桜さんがいた。
「どうされたんですか? 何だか、ボーっとしていらっしゃいますね」
「あ、いや。お恥ずかしい」
僕は締まりのない口元でそう言った。
「うふ、そんなことありませんよ。まるで、先ほど読んでいらっしゃった小説の主人公みたいで、愛らしいと思います」
穏やかな微笑みを湛えて桜さんは言う。愛らしい、彼女の口から出たまさかの賛美に、僕の純情ハートは激しく高鳴る。その激しさのあまり、下手をすれば張り裂けてしまいそうだ。全く恐ろしい。この穏やかな笑みにそんな殺傷能力があるだなんて誰が想像しただろうか。そんな死の危険に直面しつつも、僕の口元はよりだらしなく緩んでいた。
だがその時、僕は一つ引っ掛かりを覚えた。
「あの、桜さん」
「はい、何でしょうか?」
桜さんは可憐に小首を傾げた。
「桜さんは、この小説を読んだことが無いんですよね?」
瞬間、桜さんの表情がほんのわずかに強張ったように見えた。
「でも、それなのに何でこの小説の主人公が大概ボーっとしている奴だって……」
「あ、その……中身は読んでいないんですけど、裏表紙にあるあらすじだけ読んだので」
「そうなんですか……けど、あらすじにはそんなこと書いていないですけど……」
僕は小説の裏表紙に視線を走らせた後、再び桜さんに顔を向けた。
彼女は顔を俯けていた。美しい前髪がさらりと下りて、その表情を隠してしまっている。
「桜さん……? どうしましたか?」
問いかけるも、彼女は顔を上げようとしない。夕日が差し込む館内に、どこか不気味な静寂が舞い降りていた。時間にしてほんの数秒、しかしまるで永遠のように感じた。
「……敬太郎さん」
やがて、静かな声で彼女が言った。おもむろに上げられたその顔は、柔らかな微笑みを湛えていた。
「少しお話があります。閉館後、公園のベンチで待っていてもらえますか?」
唐突な提案に、僕がすぐさま頷くことができなかった。その間も、彼女は柔らかな微笑みを浮かべている。
「わ、分かりました。公園のベンチで待っています」
「ありがとうございます。では、後ほど」
そう言い残して、彼女はくるりと踵を返し、カウンターへと引き返して行く。
その後ろ姿を、僕は呆けた眼差しで見つめていた。
◇
太陽が先ほどよりも西に傾き、空に夜の色を引っ張って来た。
僕は桜さんに言われた通り、公園のベンチに大人しく座っていた。彼女のような美しい黒髪の乙女にこのような誘いを受ければ心が躍り、恋の超特急エクスプレスやファンキーは傍若無人に暴れ回るだろう。しかし、彼らは一様に大人しくしている。不気味な静けさが僕の胸中を支配していた。
先ほど僕を誘った時の桜さんは、いつも通りの可憐な笑みを浮かべていた。僕の渇いた心はその笑みを見れば一瞬で潤うはずなのに、その時ばかりはひやりと乾燥した冷気が走るようだった。
そこで僕は思い至る。これからやって来るのは甘い告白ではなく、むしろ辛辣な離別を告げられてしまうのではないだろうか。「また来てくださいね」という桜さんの甘い言葉に誘われて、僕はここしばらく毎日ように図書館を訪れた。そして本を読みつつも、ちらちらと彼女の美貌を堪能していた。だが彼女がそのちら見に気が付き、嫌悪感を覚え、僕に「もう図書館に来るな」と、そう告げようとしているのではなかろうか。そうなれば、僕の繊細な純情ハートは一瞬で砕け散り、修復不可能となってしまうだろう。想像しただけで背筋がぞっとしてしまう。
夜の冷たい空気を含んだ風が吹き、桜の花を揺らす。
「お待たせいたしました」
ハッとして振り向けば、桜さんがそこにいた。
「ごめんなさい、お呼び立てしてしまって」
「いえいえ、とんでもございません……それであの、お話というのは?」
僕は恐る恐る尋ねた。彼女はにこりと微笑み、ベンチに腰を下ろす。
「敬太郎さんは、私のことをどう思っていらっしゃいますか?」
「えっ?」
突然そのようなことを問われて、僕は動揺した。桜さんはあくまでも柔らかな微笑みを湛えているが、その澄んだ黒い瞳はじっと僕のことを見つめていた。
「いや、その、何て言いますか……桜さんはとても素敵でその……」
こんな時に限って僕の口はパサつき、滑らかに言葉を紡いでくれない。思考も上手く回ってくれない。
「いつも、私のことを見ていらっしゃいましたよね?」
その一言に、僕の心臓はびくりと跳ね上がった。
「いやあの、ごめんなさい。僕は決して不埒な気持ちを抱いていた訳ではなく……」
「良いんです。嬉しかったので」
慌てふためく僕に対して、桜さんはあくまでも落ち着いた声音で言う。
「私に見惚れて下さったんですよね?」
「えと、その……はい、おっしゃる通りです」
気恥ずかしさのあまり、僕は力なく頭を垂れた。
「ごめんなさい、ちらちらと見てしまって」
「そんな謝らないで下さい。言ったでしょう、嬉しかったと」
おもむろに顔を上げると、桜さんが穏やかな微笑みを浮かべていた。これはまさか、本当に彼女とのめくるめくラブロマンスが始まってしまうのだろうか。唐突に迎えたその時に困惑しつつも、僕は気を引き締めなければと思った。
「それに私こそ、敬太郎さんに謝らなければいけないことがあります」
「え、何ですか?」
僕が問いかけると、桜さんは一度小さく顔を俯けた。それから、改めて僕を見つめる。
「単刀直入に申し上げます。私は人間ではありません」
落ち着いて紡がれたその言葉を、僕はすぐに飲み込めなかった。
「……あっ、そうですよね。桜さんの美しさは、それはもう人間離れしていると言っても過言ではないですもんね」
そう、今しがた放った一言は彼女なりのジョークだったのだ。清楚で可憐な黒髪の乙女が放った小粋なジョークを、僕は微笑ましいと思ってしまう。
「違いますよ、敬太郎さん。そのままの意味です。私は人間ではありません」
顔を上げた桜さんはその黒い瞳で真剣に僕を見つめてきた。
「まさか……桜さんは幽霊なんですか?」
だとしたら納得が行くかもしれない。そもそもこれだけ美しい黒髪の乙女がこの腐った現代に生存していることがおかしいと思っていたのだ。だが、彼女が古来の美しい黒髪の乙女の幽霊というのであれば納得が行く。
「いいえ、幽霊なんかじゃありませんよ」
「じゃあ、一体何だって言うんですか?」
じれったく思い、僕は初めて彼女に対して棘のある物言いをしてしまう。
「獏です」
さらりと、彼女は言った。
「はい?」
「私の正体は獏です。教養のある敬太郎さんなら、ご存じですよね?」
くすり、と彼女は微笑む。それは今までの穏やかさとは違い、どこか不気味さを醸し出していた。
「獏って……人の夢を食べるって言う、あの獏ですか?」
「その通りです」
微笑む彼女を見て、僕は思わず盛大に噴き出してしまう。
「あなたは一体何をおっしゃっているんですか? いきなりそんなことを言われて、この僕が信じるとでも思っているんですか? 冗談も大概にして下さいよ」
「冗談なんかではありませんよ」
彼女は静かな声音で言う。
「そ、そこまで言うなら証拠を見せてもらおうじゃありませんか! 言っておきますけど、つまらない小細工程度じゃ、この僕の目は誤魔化せませんよ!」
「ご安心ください。小細工などするつもりはありませんから」
そう言って、彼女はベンチから立ち上がる。僕の方に振り向くと、右手でブラウスの左袖をめくった。その白く美しい肌が露わとなり、今の状況を忘れて僕の胸はどきりと高鳴ってしまう。
「よく見ていて下さいね、敬太郎さん」
彼女が薄らと微笑んだ直後、その白く美しい肌がぴくりと跳ねた。その動きは次第に連続し、より大きく跳ねて、やがて強く隆起する。その様を見て、僕は絶句した。
彼女の可憐な細腕は強靭な筋肉を帯び、さらにそこから体毛が生えてきた。それは獣を思わせる。丸太のようい太い腕はびっしりと獣の毛に覆われた。仕上げに、その指先から鋭利な爪が飛び出した時、僕は思わず卒倒しそうになり、よろけてしまう。
「危ない」
彼女の声が響く。後方へと倒れかけた僕の体は何かに受け止められた。ちらりと視線を向けた僕の視界に、強靭な獣の腕が映った。それが僕の体を支えていた。
「うわぁ!」
思わず悲鳴を上げてその場から飛び退いた。
「ひどいですよ、敬太郎さん。そんな風に怯えることはないでしょう?」
わざとらしく悲しげに顔を歪めて、彼女は言った。
怯えるな、なんて無理な話である。その強靭な腕は僕の繊細な体などいとも簡単に粉砕してしまいそうである。そして何より驚くべきが、その腕が清楚で可憐であったはずの、彼女から生えているのだ。
「その様子じゃ、とても本来の姿は見られそうにないですね。とりあえず一部だけにしておいて正解でした」
彼女はくすりと微笑み、改めて僕を見つめた。
「これで分かっていただけましたか? 私が人間ではなく、獏であると」
その問いかけに答えることが出来ず、僕はまるで石像のように固まっていた。彼女は小さく吐息を漏らした。すると、その獣腕が元の人間の姿に戻る。いや、彼女の正体が判明した今となっては、その言い回しは妥当ではないかもしれない。
「敬太郎さん。私の正体を分かっていただいた所で、改めてお話があります」
僕は尚も固まり続けている。だがそんな僕に構うことなく、彼女は語り出した。
「この枕木市はその名の通り上質な枕の名産地であり、全国でも高いシェアを誇っています。そして、市民の平均睡眠時間は全国的に見ても高い傾向にあります。つまり、それだけ夢を見る機会が増えます。故に人の夢を食う獏がしばしばこの土地を訪れる……そんな言い伝えがこの枕木市には根付いています。敬太郎さんもご存じですよね?」
ようやく少しばかり体の自由が利くようになった。僕は小さく頷いて見せる。
「そして、実際に獏はこの枕木市に多く生息しています。人間の姿に化け、紛れ込み、生活を営んでいるのです」
しとやかな声で、彼女は語り続ける。
「獏と言えば人の夢を食べる、それが一般的に根付いている生態です。しかし、私達は夢に限らず、人の頭の中にあるイメージを食べることができるのです」
「人の頭にあるイメージを食べる……?」
僕はぽつりと呟いた。
「ええ。その行為によって、さまざまな情報を得ることが出来ます。例えば……まだ読んだことのない本の内容とか」
瞬間、彼女は口元に怪しい笑みを浮かべた。ぞくりと背筋が凍り付く。
「まさか……」
「ええ、お察しの通り。今まで私は、あなたが読んだ本のイメージを食べていました。だから、あなたの頭にはその内容が残っていません」
僕は拳を強く握り締めた。
「……何でそんなことをするんだ?」
そして、震える声で問いかける。
「獏は文字を読むのが苦手なんです。そのため人間界における情報は主にテレビや映画、マンガなどから得ていました。それらで娯楽も十分に賄っていました。けれどもある時、私はどうしても読んでみたい恋愛小説を見つけたんです。それまで少女漫画を愛読していた私ですが、年齢が上がるにつれて少し大人の恋物語を求めていました。そして、その多くは小説媒体で出版されています。どうしても読んでみたい、けれども文字を読むことができない。大量の活字を読むとどうしようもなく気持ち悪くなってしまう。途方に暮れました。
そんな時、私は思い付いたのです。自分で読めないなら人間に読んでもらえば良い。そして、そのイメージを食ってしまえば良いと。私はそんな簡単なことも思い付かなかった自分の愚かさを嘆きました。まあ、獏とは基本的に人の夢を食う存在。取り分け悪夢を食うことで人々に安らかな眠りを与える。獏の長老会の方針に、自然と言いなりになっていたのでしょう。しかし、それは時代遅れ。今の若い獏である私達は、そんな苦い悪夢なんて食べていられない。もっと甘い、とろけるような恋愛物語を食べていたいんです。私は甘党なんです」
「甘党……?」
「ええ、超甘党なんです」
彼女はくだけた調子でそう言った。
「私にとって、本は素晴らしい原材料です。そのままでは食べることができない。だから、それを美味しくイメージしてくれる読者を求めていました。敬太郎さん、あなたの想像力は素晴らしい。あなたは素晴らしい読者です。今まで出会った人達の中で一番です。だから、そんなあなたにお願いがあります」
「お願い……だって?」
「ええ。提案と言った方が適切かもしれません。自分で言うのもなんですが、私はとても美しく可憐な容姿をしています。あなた好みの。ですから、あなたはこれからもそんな私に見惚れていて構いません。その目に穴が開いてしまうくらいに見て下さい。ただその代わりに、あなたは私に極上のイメージを提供して下さい。取り分け、甘い恋愛小説を中心に読んでイメージ化して下さると嬉しいです」
「そんなバカげた関係なんて受け入れる訳ないだろ!」
僕は拳を握り締めて叫んだ。
「ええ、そうですね。敬太郎さんのおっしゃることは最もです。だから、契約しましょう」
「契約だと?」
「はい。そのような関係も契約だと考えれば、割り切れるでしょう? お互いにとって有益な関係を築く契約です」
「お互いにとって有益……」
「そうです。あなたは私の美貌を、私はあなたのイメージを、それぞれ味わうのです。ねぇ、お互いにとって有益でしょう?」
気が付けば夜の帳が降りて、辺りには月明かりが差していた。それが彼女の微笑みを怪しく輝かせる。僕は唇を噛み締めた。
「……僕はそんなもの求めていない。確かに僕はあなたの容姿に惹かれていたが、それだけじゃなく美しい心に魅力を感じていたんだ。けれども、それは大いなる勘違い。とんでもない腹黒女だったんだな」
「そんな……私を拒絶なさるのですか、敬太郎さん?」
彼女は潤んだ瞳で僕を見つめて来た。不覚にも、どきりとしてしまう。だがしかし、僕は頭を振って湧き上がった情念を振り落とした。
「ああ、そうだよ。お前みたいな性悪女に僕は見惚れたりしない。だから、お前が提案した契約関係は成立しない」
早口でまくし立て、僕は踵を返した。胸の内からとめどなく湧き上がる思い。それらが交錯し、ひどく興奮してしまう。だが、僕は最後の意地として平然を装い、無言のままその場から立ち去った。
7
今の僕は空っぽだった。普段は優雅に味わいながら飲む地元名産の日本酒を、昨晩はガブ飲みした。体などぶっ壊れることもお構いなく。その結果、アセトアルデヒドの作用によって猛烈な吐き気に襲われ、僕は見るも無残なトイレの住人と化したのである。便器を熱く抱き締め、胃から食道に駆けて熱い物が走り、胃の内容物が全て去って行った。そういった意味での空っぽ。そして、頭の中も空っぽだ。性悪の獏女に僕が読んだ本のイメージを食われてしまったのだ。げに恐ろしきことである。胃の中が空っぽ。頭の中が空っぽ。そしてまた、心の中も空っぽであった。
そんな空っぽの僕が今回の件で唯一得た教訓がある。
黒髪の乙女なんてこの世には存在しない。万が一出会ったとしても、それはしょせん虚構である。迂闊に信じて深入りすれば、おぞましい目に遭ってしまうだろう。
やはり僕の考えは正しかった。黒髪清楚系の女はどこまでも計算高く、強かで、男を利用してやろうと頭を巡らせている。そんな女の本性を見抜けずにまんまと利用される男は愚かだと思っていたが、僕もまた愚かな男だったようだ。まんまと利用されてしまった。彼女の欲望を満たすために、利用されてしまったのだ。
空っぽになった頭の中に、彼女と過ごしたきれいな時がおぼろげに蘇る。美しい桜の木が咲き誇るあの公園のベンチで、僕らは愛を語らい合った、なんてことはしていないが。しかし、それに大分近しい関係を築いていた。これは純然たる恋なのだと、勝手に自負していた。しかしそれは彼女にとって、契約を結ぶ過程に過ぎなかったのだ。
空っぽの僕は、アパートのベッドに横たわったまま、無為な時を過ごす。時刻は既に午後を迎えている。午前中にあった講義は当然のことながらすっぽかした。今さらどうってことはない。どうってことはないのだが、しかし清廉高潔かつ理知的な僕が、いつまでもこんな無為な時を過ごして良いものだろうか。答えは否である。軋む身体を起こし、洗面台へと向かった。
ファンタジー小説の主人公は、凶悪な敵が跋扈する魔境に飛び込む時、どんな心境なのだろうか。勇ましい彼でも、少なからず身構え、恐怖してしまうのだろうか。
だとすれば僕もまた、そんなファンタジー小説の主人公と同じ心境であった。ただし、僕の目の前にあるのは何の変哲もない図書館である。むしろ僕の愛すべき場所であるが、ここはすでに悪しき存在によって占拠され、蝕まれた結果、現代における魔境となってしまった。その悪しき存在の名を「リア充」と言う。
入口の扉を開き、僕は中に足を踏み入れた。警戒心を高めつつ、食事スペースが設置されているフロアを抜け、本丸へと突入した。
図書館とは元来、静謐な空間であり、その中で本を読むことで心地よい個の世界を形成し、溺れて行く場所である。私語は厳禁。ケータイでの通話も厳禁。その静謐を脅かすような粗相をやらかせば、即刻処罰を受け、叩き出されるべきなのである。
しかし、その静謐であるはずの館内では、ひそひそと耳障りな囁き声があちらこちらで湧いていた。声の元を辿ってみれば、その主たる者達は一切本など開かず、同じテーブルを囲む仲間達と談笑をしている。ひそひそ、ひそひそと。それは僕に言わせれば厳罰に値する行為であるが、寛大なる僕は昨今の風潮を鑑みて仮に百歩譲ってその耳障りなひそひそは許そう。だがしかし、時折「ぎゃはっ!」とあからさまに大きな笑い声を上げるのは最早弁護の余地もない。僕がファンタジー小説の主人公でこの右手に剣を持っていたならば、その鋭い剣先で串刺しにする……なんてのは少しやり過ぎだから、平べったい部分でお尻千叩きの刑に処してやりたい気持ちだ。ちらりとカウンターに目をやれば、そこにいる職員は学生アルバイトも含めてみな大人しい顔立ちである。心か弱き彼らにあの凶悪な「リア充」をどうこうするなんてのは荷が重いだろう。こうなれば筋骨隆々の黒人SPでも配置してはどうかと思うが、そんな強面がいたらそれこそ雰囲気ぶち壊しなので却下した。
僕は憎き「リア充」共を横目でちらちらと睨みつつ、本棚から一冊の本を手に取って席に座った。賢い者であれば、本を借りて自宅で読めば良いじゃないかと思うだろう。無論、僕はアパートに帰ってからもよく本を読む。本はどこでも読むことができる。
ただ、それでもやはり図書館で読む本は格別なのだ。図書館、ぎっしりと本が敷き詰められた本棚から醸し出される芳醇な香り。様々な人の手に取られ、読まれて、より熟成された本達に囲まれて読書する。これほどの贅沢はこの世にないと僕は思っている。そう、僕は図書館で本を読むことが好きなのだ。だからこそ、腐れ「リア充」共に蝕まれていても、歯を食いしばってこの場に留まり、読書をしているのだ。怒り、羞恥、劣等感。それらの感情が僕の前歯に大いなる膂力を与えて、下唇が切れて鮮血が滲む。僕は本を汚さないために、多少はしたないと思いながらも舌先で血を拭った。
僕の読書風景は本来優雅なものである。大量の活字の上を滑らかに視線が這い、時折メガネのブリッジで位置を調整し、また没頭して行く。そんな僕が、こんな血の滲むような、というか実際に血を滲ませて読書するハメになるなんて。屈辱である。
久方ぶりに味わう屈辱に理性を掻き乱されそうになるが、僕は内なるファンキーを何とか押さえ込み、活字の海へと沈んで行く。しかし、今日はその速度が遅い。いつまでも海面付近をふらふらとさまよっているみたいで、全然深い所まで読めない。こんなの僕の読書じゃない。この屈辱を二度と味わいたくなくて、新しいアパートに引っ越し、新しい図書館に訪れた。そこで久方ぶりに本来の読書を楽しむことが出来て幸せだった。その上……いや、もう考えるのはよそう。気が付けば、また唇に血が滲んでいた。
空には美しい星のカーテンが引かれていた。だが、今の僕にはそれを眺めて心安らぐ気力もない。「リア充」に侵されて魔境となった図書館にて、僕は肉体・精神ともに著しく消耗し、それでもプライドにかけて手に取った一冊の本は何とか読み切り、命からがら抜け出して来た。僕はなぜ、命がけで読書をしなければならないのだろうか。本来読書とは、もっと心躍る楽しいものではなかっただろうか。嘆いた所で、あの大学の図書館は既に「リア充」によって支配されており、僕にはどうすることもできない。辛い現実を生きるためにはオアシスが必要である。僕にとっては図書館がそれだった。しかし、奪われてしまった。もう、どうしようもない。神はきっと僕に死ねとおっしゃっているのだろう。それが運命ならば、受け入れるのもやぶさかではないかもしれない。死とは恐ろしいことではあるが、同時に究極の癒しを得ることができるものだと思っていた。
今日は僕にとって最後の夜になるかもしれない。アパートに帰ると、荷物を床に放り投げ、冷蔵庫から日本酒を取り出す。昨日しこたま飲んでえらい目にあったこの日本酒。賢い僕は同じ失敗を二度繰り返さない。しかし、今回ばかりはあえてその繰り返しを行おうとしていた。胃の中の物を全部ぶちまけるあの瞬間、激しい苦しみと共に得も言われぬ解放感を味わった。今日は僕にとって最後の夜である。最後は盛大に、自分の全てをぶちまけて死んでやろう。あの世に持って行く物なんて何もない。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。
僕にとって最後の夜。そこに割り込む闖入者の無粋なこと。許すまじ。僕には自宅を訪れるような友人はいない。両親は放任主義のため来るはずもない。となれば大家さん……は確か旅行に出かけていたはずだ。そうなると、どこぞの宗教の勧誘者、あるいは国民的法人様の集金人だろう。
僕はテーブルの前にあぐらをかき、コップに日本酒を注いだ。完璧なる居留守の態勢を整えた。しばらく黙って酒を飲んでいれば、その内撤退してくれるだろう。
そう思い待ち続けること数分。しかし、チャイムは一向に鳴りやまない。むしろだんだんと間隔が狭くなって来た。ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……
「……うるせえ!」
これにはさしもの高潔なる紳士の僕も堪忍袋の緒がぷっつんと切れ、大股で玄関へと向かう。鼻息を荒くしてドアを開け放った。
そこに立っていたのはどこぞの宗教の勧誘者ではなく、また国民的法人様の集金人でもなかった。むしろ、それらよりもタチの悪い奴がそこに立っていた。
「こんばんは」
夜空に浮かんだ月明かりを受けて流れるような黒髪が艶やかに輝く。そして、夜空のような瞳でこちらを真っ直ぐに見つめるのは、黒髪の乙女だった。いや、その化けの皮が剥がれたおぞましい奴だった。
「夜分遅くに申し訳ありません。少しお時間よろしいでしょうか?」
その微笑みは相変わらず可憐で、純情な男を惑わそうとしている。
「お、お前。何で僕のアパートを知っているんだ?」
「図書館で貸し出しカードを作った方の住所を登録していますので。そこから調べました」
「それは職権の悪用だ! プライバシーの侵害で訴えるぞ!」
「そんな怒らないで下さい。私はどうしてもあなたに会いたくて来たんです。ですから、お時間よろしいでしょうか」
「生憎、僕はとても忙しいんだ」
短くそう言って、ドアを閉めようとした。だが、その途中でぐっとドアの縁を掴まれた。
「まあ、そう言わずに。少しだけで良いから、私のお話を聞いて下さい」
「はっ、誰がお前みたいな性悪女の話なんて聞くか!」
「性悪だなんて、ひどい。自分で言うのもなんですが、私はずっと敬太郎さんのことを一途に思って来たんですよ」
「うるさい、黙れ。気安く名前で呼ぶな」
「何でそんなことをおっしゃるのですか?」
「お前のことが嫌いだからだよ」
僕は吐き捨てるように言った。
「そんなお前だなんて……前みたいに名前で桜と呼んで下さい」
「何が桜だ。お前なんて性悪の獏女のくせに」
険の込もった目で睨み付けてやった。すると、獏女はその瞳を大きく開き、しゅんと顔を俯けてしまう。中身は腐った性悪に過ぎないが、しかしその見た目は、見た目だけは素晴らしい乙女なのである。僕は不覚にも心を揺さぶられ、つい同情してしまう。
「わ、悪かったって。言い過ぎた」
僕は潔く頭を垂れる。だがその間にも、獏女はくすん、くすんと泣き声を上げ始めた。いくら相手が人外とはいえ、一応は女である。高潔な紳士としてさすがに泣かせてしまうのはまずい。
「おい、何も泣くことはないだろ。ちょっときつく言っただけじゃないか」
弱った僕は身を屈め、くすんくすんと泣いている獏女の顔を覗き込む。その時、くすんくすんという鳴き声が、ふいに、くすくすという忍び笑いに変わった。僕は眉をひそめる。
「……そんな風に慌てて、可愛らしいですね。さすが高潔な紳士さんでいらっしゃいます」
「お、お前! なぜそれを……」
「あなたの本のイメージを食う際、ちょっとばかり思考を覗かせてもらいました」
「何ぃ!? そんな真似もできるのか!?」
ちょこざいな。いや、そんなことを言っている場合ではない。
「というかお前、人がせっかく心配してやったのに嘘泣きするとは何事か! 返せ、僕の優しさを! それから僕が読んだ本のイメージも!」
「残念ながらそれはできません。敬太郎さんの優しさも、本のイメージも、みんな美味しくいただいてしまいましたから。ただどうしてもとおっしゃるのであれば、大量の活字を直に見て、ゲロを吐くことでお返しさせていただきます」
「その美しい見た目でゲロとか言うな!」
「まあ、美しいだなんて。照れますわ」
おのれ、この獏女。いきり立つ僕の舌鋒を、まるで柳のようにかわしやがる。いや、こいつの場合は桜の花びらのようにか。だから、そんなことはどうでも良いんだ。
「とにかく帰れ。もうお前の顔なんて見たくないんだ」
「はあ、分かりました。そこまでおっしゃるのであれば、私は帰ります。ただ、最後に一つお願いを聞いて下さい」
「は、お願いだと? この期に及んで図々しいにも程がある」
「本を返していただけませんか?」
「え?」
「ですから、あなたがうちの図書館から借りた本を返していただけませんか? 返却期限が過ぎておりますので」
落ち着き払った獏女の言葉を聞いて、僕は数秒呆気に取られた。
「いや、確か本の貸出期間は二週間のはずだろ? まだ期限は過ぎていないはずだが」
「はい、基本的にはおっしゃる通りです。しかし、敬太郎さんがお借りになった本は書庫に保管されている少しばかり貴重なものなので、貸出期間は一週間になりますとお伝えしたはずです」
僕はおぼろげにその時のことを思い出す。貴重な文学の資料を借りたいと頼んだ際、確かにそのようなことを言われた気がした。すると、何だか冷や汗が噴き出す。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
そう言って、僕は一旦部屋の中に引っ込んだ。テーブルの上に置いてあった文学を手に取り、再び玄関先へと赴く。
「ほら、返すよ。これで良いんだろ?」
僕がその本を目の前に差し出すと、獏女はわずかにじっと見つめた。それから白魚のような指先で押し返す。
「受け取れません」
「は、何でだよ? お前が返せって言ったんじゃないか」
僕はまたしても怒りの情念が湧いて来て、鋭く彼女を睨んだ。
「当館の規則と致しまして、返却期限が過ぎた場合、借りた本人様に直接お越しいただき、事情を伺うことになっています。その如何によって、今後の利用を差し控えていただく場合もございます」
僕は一瞬面食らったが、「ああ、そうかい。僕はもうお前なんかがいる図書館には二度と行くつもりはないから、どうぞ出禁でも何でも、好きにしてくれよ」と露骨に口の端を歪めて言った。これで性悪獏女も黙るかと思ったが、奴は口元にどこか不敵な笑みを浮かべた。
「何がおかしいんだよ?」
「いえ。ただ、本当にそれで良いのですか?」
「どういう意味だよ?」
「それはご自分の胸に手を当ててよくお考えになって下さい。そうすれば、おのずと答えは出るはずです」
その勿体付けた言い方に俺は腹を立てて叫ぼうとしたが、
「それからあなたは高潔な紳士でいらっしゃるのでしょう? それならば、自らが犯した過ちについてしっかりと謝罪をし、けじめをつけるべきです。それ以降に当館を利用しようがしまいが、あなたの自由です」
静かな声でつらつらと獏女は言った。
悔しい、誠に悔しいが……奴が言っていることは最もだ。高潔な紳士たる僕が、他人様から借りたものをろくすっぽ返さず、あまつさえその尻拭いを他人に押し付けようなんぞ、紳士以前に人の風上にも置けない愚行である。高潔なる魂を持つ僕にとってそれは後々禍根を残し、耐えがたい屈辱となってしまうだろう。
「……分かった。明日、朝一番で返しに行ってやる。それきり、もうお前がいる図書館には二度と近付かん」
「ありがとうございます。では、明日の来館を心よりお待ち申し上げております」
にこりと見た目だけは可憐な笑みを残して、獏女は去って行った。
全く反吐が出る。奴は虚偽にまみれた存在。黒髪の乙女の姿を装い、この僕を騙して貶めた性悪である。そのくせ偉そうに講釈を垂れやがって。僕の怒りは既に臨界点を大いに飛び越し、そのまま大気圏さえも突き抜けてしまいそうだった。この大いなる怒りを鎮める方法は一つだけある。僕は部屋の中に引っ込むと、愛する文学を片手にコップいっぱいの日本酒をぐいと飲んだ。
8
脳みそを直接かなづちで叩かれたような衝撃を受けて、僕の意識は急激に覚醒した。ズキズキと痛む頭を押さえて、布団の中で悶える。いかにも大仰な物言いであるが何てことはない、ただの二日酔いである。昨晩大量に摂取したアルコール、それが分解されて生じたアセトアルデヒドが僕の脳みそを執拗に苛めているのだ。味わった瞬間は何とも美味であるが、後々にとんでもないしっぺ返しを食らう。酒は百薬の長なんて言うが、タバコと並んで一歩間違えば悪しき薬物に過ぎない。まあ、過剰に摂取した僕が悪いのだが。ちなみにタバコは一切吸わない。
痛む頭で性懲りもなく下らない思考を回しつつ、いつも通りに洗面所で顔を洗った。ほんの少しだけ気分が楽になる。それから日が差し込むリビングにあぐらをかき、ボーっと宙を眺めていた。おもむろに視線を巡らせれば、時計の針は間もなくお昼を示そうとしていた。昼飯を食う時間である。しかし、二日酔いのためさほど食欲はない。それならば、わざわざ食う必要もあるまい。今日は特に用事も無いし、また眠りこけてしまおうか。
考えた所で、僕は何か大事なことを忘れているような気がした。喉元まで出かかっているが、中々出て来ない。どうしてもやらなければいけない、それでいて非常に気の進まない何かがあったはずだ。頭を抱えていた時、テーブルに置いてあった一冊の本に目が行く。それは僕の物ではなく、図書館から借りた本だった。
「……あっ」
約二十年の人生において、一番呆けた「あっ」という言葉を発し、僕はようやく思い至る。自分が果たすべきこと。そして、既に結構な失態をやらかしてしまっていることを。
クローゼットを開き、適当な衣服を引っ掴んで袖を通すと、僕は本を片手にアパートを飛び出した。
その図書館は相変わらず美しい桜の木に囲まれていた。だが、それを見ている僕の気分は非常に優れない。とっさに家を飛び出して来たが、二日酔いの状態で猛ダッシュをしたせいで、とてつもない不快感が身体中に蔓延している。元来清廉であるはずの僕の体が汚されてしまったようで、非常に屈辱的である。
だが、そんなことも言っていられない。自分はこれから敵陣へと赴くのだ。弱みを見せる訳にはいかない。一度空を仰ぐ。その青々しさを見て僕の顔もまた青々しくなった。あまり余計な動きをすると吐き気を催してしまう。本を小脇に抱えて図書館に足を踏み入れた。
「あら、こんにちは」
しとやかに澄んだ声が僕を迎え入れた。カウンターに座っているのは、美しい黒髪の乙女の皮を被った、性悪の獏女である。そのしとやかな笑みは最早僕の不快度指数を限りなく上昇させるばかりであった。
「本を返しに来て下さったんですね」
不快にしとやかな笑みを浮かべたまま、獏女は言う。僕は無言のままだ。
「けれども、確か昨夜には朝一番に返してやるとおっしゃっていたような気がするのですが」
「う、うるさい!」
ふいに痛い所を突かれて、つい大声を上げてしまう。二日酔いに侵された脳みそが痛んだ。今の僕は高潔な紳士としての風体を完全に損なっている。情けない話だ。
「そんなに怒らないで下さい。というか、むしろ反省して下さい。本の返却期限を守らなかったのは敬太郎さんなんですから」
微笑みつつ、さらりと刺すようなことを言った。この女の言うことは至極最もであり、僕は従順に頭を垂れるべきなのだが、如何せんプライドが許さないから無言のまま血走った眼で相手を睨んでいた。
「では、確かに返却を承ります。ただ期限を守らなかった理由をお聞きしなければなりません」
そう言って、獏女はおもむろにカウンターの席から立ち上がった。そのままカウンターから出て、玄関口へと向かう。
「おい、どこに行くんだ?」眉をひそめて僕は言った。
「せっかくですから、外で昼食でも取りながらお話を伺いますよ」
「はあ? 何でそんなことをしなければならないんだ。お前みたいな性悪と昼食を取るくらいなら、原稿用紙百枚の反省文を書いた方がよっぽどマシだね」
「そうおっしゃらずに。それに今の敬太郎さんは顔色が優れないようですから。公園のベンチに座ってのんびりしながら外の空気を吸えば、少しは具合も良くなると思いますよ」
獏女は言う。性悪のくせに目ざとい。あるいは、傍から見て分かるくらいに僕の顔色が優れないのだろうか。付け加えると、優れないのはあくまでも顔色であって、顔の造形はこの上なく整っている。
「……ちっ、分かったよ」
これ以上抵抗を続けても時間と体力の無駄である。これもほんの返却を守らなかった報いと思って耐え忍ぶしかない。僕は大人しく獏女の後に付いて外に出た。
桜の木の影に覆われたベンチに腰を下ろしてから、しばらく時間が経過していた。その間、獏女はさほど喋りはしなかった。時折、春風が気持ち良いですね、などと僕に声をかけるくらいであった。僕は適当に相槌を打ちながら、頭痛、並びに吐き気と格闘していた。いつもなら日が暮れるまでその苦しみを味わうことになるのだが、まだ昼時であるにも関わらず、その苦しみは消え去ろうとしていた。なるほど、悔しいが確かに春風が気持ち良い。気持ち良い春風である。
「随分、顔色が良くなりましたね」
僕の心中を読み取ったかのように、獏女は言った。
「それから、顔も整って来ましたね」
「おい、お前。何失礼なことを抜かすんだ。僕の顔はずっと整っているぞ」
「それは大変失礼を致しました。けどそれくらい元気になれば、もうお昼ご飯を食べられますね」
獏女は脇に置いていた弁当箱を膝の上に乗せ、その包みを解いた。ふたを開けると、今日もまたしっかりと栄養バランスを考えたおかず達が敷き詰められている。彼女は手を合わせていただきますと言うと箸でおかずを掴み、自分の口ではなく、なぜか僕の口元に運んだ。
「どうぞ、お食べになって下さい」
しとやかな笑みを浮かべて言う。以前、僕はこの「はい、あーん」の破壊力を味わった。凄まじいものだった。しかし、この女の正体を知った今となってはその威力は大きく減少し、僕の心を揺さぶることはない。
「いらん」僕は迷わずにそう答えた。
「そんなことおっしゃらずに」
しかし、獏女は尚も執拗に「はい、あーん」と迫って来る。
「ああ、もう。鬱陶しいな!」
僕が声を荒げて言うと、獏女は小さく肩をすくめた。
「そんなに照れなくても良いんですよ?」
「僕は照れてなどいない。お前に対して、微塵も照れてなどいない」
「うふ、そうですか」
「何だその含み笑いは。ムカツクな」
「そんな怒らないで下さい。私は紳士で優しい敬太郎さんに魅力を感じているのですから」
一瞬、面食らってしまうが、「ふん、歯の浮くようなお世辞をどうもありがとう。お願いだからそれ以上もう喋るな」
「それは無理な相談です。私はこれから、敬太郎さんにとても大事なお話をしなければなりません」
「本の返却期限を守らなかったことだろ? はいはい、それについては大いに反省しておりますよ。ただな、あまり言い訳はしたくないけど、お前という存在も原因の一つであってな……」
「敬太郎さん、改めて提案させていただきます」
僕の言葉を無視して、獏女は切り出す。「私と契約を結びませんか?」
そのしとやかな笑みを見て、僕は大仰にため息を漏らす。
「断る。前にも言ったが、僕はお前と下らない契約なんぞ結ぶつもりはない。この図書館にも、金輪際来るつもりはないんだ」
力強く、拒絶の思いを込めて僕は言った。だが獏女は一切動揺せず、その黒い瞳で真っ直ぐに僕を見つめていた。
「本当にそれでよろしいのですか?」
その一言が、妙に癇に障った。「何が言いたいんだ?」
「あなたは、いわゆる『リア充』によって魔境と化した大学の付属図書館にこれから通い続ける羽目になっても良いのかと、そう聞いているのです」
僕はにわかに動揺した。「な、なぜそのことを……」と言いかけて、はたと思い至る。そうだ、こいつは獏であり、僕の頭のイメージを食う際、その思考も覗き見ることが可能だと言っていた。何たる屈辱だ。
「ちなみにそのイメージは食べていません。敬太郎さんの頭の中を覗いてそれを見た時、一目で苦々しい物だと分かったので、見るだけに留めておきました」
「うるせえ! ていうか、見るだけでも情報を獲得できるのか?」
「ええ、まあ。けれども、より正確に深く情報を得るためには、やはりイメージを食べる必要があります。本などは特に。それに、私は甘い恋愛物語のイメージを食べることが大好きですから」
うっとりした顔で獏女は言う。
「何が、甘い恋愛物語が大好きです、だよ。人のことを散々利用しやがって」
「まあ、無断であなたのイメージを食べていたことは謝ります。ですから、これからは正式に契約を結び、堂々とあなたのイメージを食べさせていただきたいと思っております」
「だから、お断りだと言っている」
「どうしてもですか?」
「ああ、どうしてもだ」
僕は腕組みをした状態で、力強く鼻を鳴らした。
「そうですか……」呟いて、獏女は顔を俯けた。「ならば仕方がありません、強硬手段に出るしかありませんね」
その不穏な声を聞いて、僕の心臓が跳ね上がった。「な、何をするつもりだ?」
「当然ご存じのことですが、私は人間ではなく獏です。そして、人間を遥かに上回る力を兼ね備えております。ですから……」
ふいに獏女は右腕の袖をめくった。白く細い腕が露わになる。だが、その筋肉がにわかに隆起し、獣の毛が生え始めた。
「力づくであなたに言うことを聞かせられるんですよ?」
穏やかな微笑みを浮かべながらも、その目は全く笑っていなかった。僕はそれまでの怒りを忘れ、すっかり恐怖に捕らわれてしまう。こんな強靭な人外の腕に掴まれたら、僕の華奢な身体など小枝のごとくへし折られてしまうだろう。ガクブル状態であった。
するとふいに、獏女がくすりと笑みをこぼした。
「でもまあ、私はそんな力づくで相手に言うことを聞かせるなんて真似はしたくありません。あまりやり過ぎると長老会もうるさいでしょうし。ですから、話し合いできちんと合意を得た上で、あなたと契約を結びたいと思っているのです」
獏女の右腕が元通りになった。僕は未だに冷や汗をかいていた。
「何で、そこまで僕にこだわるんだ? 僕以外にも図書館の利用者はたくさんいる。他の人に頼んで契約を結べば良いだろうが」
「前にも言ったでしょう、敬太郎さん。あなたは素晴らしい読者なのです。本という素晴らしい原材料を美味なるイメージへと昇華させる読者なのです。その類まれなる想像力……いえ、妄想力とでも言いましょうか。取り分け甘い恋愛小説を読んだ時のあなたの甘ったるいイメージと来たら、他の追随を許しません。全く、普段の生活でどれだけ女性に縁が無いんだこの人はと思わせるくらいです」
「余計なお世話だ!」
「まあまあ、そうカッカなさらずに」
「お前がそうさせているんだろうが!」
「それは失礼しました。話が少し逸れてしまいましたが敬太郎さん、改めて申し上げます。私と契約を結びましょう。そして、今後とも私がいる図書館を利用して下さい」
僕は唇を噛み締めた。僕は今、熱烈なラブコールを受けている。それは大変光栄なことなのだろうが、如何せん内容がぶっ飛び過ぎている。いくら見た目が純情可憐な黒髪の乙女であろうとも、こいつは性悪の獏女である。そんな奴と迂闊に契約なぞ結んでも良いのだろうか。
「敬太郎さん、『リア充』はあなたの生活を脅かす害敵です。存在するだけであなたに迷惑をかけます。一方、私は確かに人外の獏ですが、普段は人間の姿をしております。美しい黒髪の乙女であります。取り立ててあなたに危害は加えません。ただ、少しばかり私好みの本を読んでもらい、そのイメージを食べさせていただくだけです。その見返りとして、あなたは自分好みの私の姿に見惚れていて下さい。ねえ、素敵な契約でしょう?」
「確かに、僕にとって『リア充』は害敵だが……正直な話、お前もよっぽど怖いよ。さっきだって、力づくで僕に言うことを聞かせようとしたじゃないか」
「ですから、あれは冗談ですって」
「けど、あのまま僕が拒絶していたらどうしていた?」
「うふふ」
獏女はただ微笑みを浮かべた。何だか無性に怖かった。すっかり萎縮した僕は、顔を俯けてしまう。
「……分かりました、敬太郎さん。いきなり契約を結べと言われて困惑するのは当然です。だから正式な契約を結ぶのではなく、とりあえず仮契約を結びましょう」
「仮契約……だと?」
「はい、つまりはお試し期間です。その間に互いに有益な関係を築くことが出来れば、そのまま正式契約へと移行する、という訳です」
この獏女は、小癪な提案をして来る。
「敬太郎さん、私なんかよりも『リア充』の方があなたにとってよほど害悪ですよ。この図書館にはそういった人種はほとんど訪れません。みなさん読書好きの良い方ばかりです。だから、私に少し本のイメージを食われるくらい、良いじゃありませんか。ねぇ、ここは一つ、私と仮契約を結びましょうよ。何なら、すぐ本契約を結んでも良いんですよ?」
何だ、この妙にねちっこい営業トークは。さすが性悪獏女、そのような術まで心得ているとは、大いに油断ならん相手だ。僕は「リア充」とはまた違うベクトルでこの女に敵意を抱いている。下手をすれば、「リア充」以上に。だから、決して敵に回してはいけないと思った。
「……仮契約だ。仮の契約だ。それ以上はないぞ」
ぼそり、と僕が言うと、獏女はにこりと微笑んだ。
「はい、これからよろしくお願いします、敬太郎さん」
その微笑みは確かに可憐だった。あくまでも見た目だけは。その腹の内でこれから僕をどういたぶってやろうかと画策しているのではないか。そう思うと、僕はまた頭痛に苛まれた。
9
二コマ目の講義が終わると、待ちに待った昼休みの時間が訪れる。めいめいが食堂なり購買なりで昼食を取り、仲良き友との会話に華を咲かせるのだ。そんな中で高潔な孤独を貫く僕は、なるべく人が寄り付かないキャンパス内の隅っこに赴き、貧相な体で貧相な食事を済ませ、持参した文庫本をひたすらに読み耽る。大部分の学生達とは一線を画す、孤高の文学戦士なのであった。
昼休みになってわらわらと講義棟から湧き出て来る群衆を、肩を縮こまらせてかわし、キャンパスを後にした。目指すのは徒歩五分ほどでたどり着く大学前の駅である。
一、二年生の頃、何だかんだで僕は真面目に授業を受けて来た。どこぞの人が「大学は友達がいないと単位取れないよ」などとほざいていたが、僕はたった一人で迫り来る講義の課題やら何やらをパスして行った。確かに骨が折れた。だがしかし、やってできないことはない。友達に休んだ講義のノートを写させてもらったり、代返をしてもらったり、確かに孤高の紳士である僕にはできない。じゃあどうしていたのかというと、簡単である。教授に直接連絡を取り、教えを請うたのだ。そうすることで幾分か心象も良くなり、一、二年生の頃の成績は軒並み上々であり、「諸井くんは物静かな優等生だよ」なんてお褒めの言葉をいただいたりもした。だから、三年生になった当初の体たらくぶりに教授達は「おいおい、どうしたんだい諸井くん」と心配げに声をかけてくれた。面目ない。まあとにかく、これまでの頑張りによって単位はそれなりに余裕があるので、講義もそんなにがっつり入っていない。ほとんど午前中の一、二コマ目に集中している。おかげで一、二年生の時のように侘しい昼休みを……もとい、孤高の文学紳士たる責務から解放されるのだ。
僕の他にも電車には学生の姿がちらほらあった。恐らくバイトに行くか、あるいはサボリだろう。ガタンゴトン、と揺られること十分、僕のアパートの最寄り駅に到着した。まあ最寄りと言っても、徒歩十五分はかかる。つまり、僕のアパートから大学までは片道三十分かかるということだ。前のアパートに比べて二十五分も通学時間がプラスされている。これは中々に大きな数字である。しかし、忌まわしき「リア充」との接触を断つために一日あたり二十五分を捧げるんだと考えれば、まあ無性に腹が立って仕方がない。おのれ、リア充炸裂しろ。いや、それはちょっと意味合いが違うか。まあ、もうどうでも良い。
そうこうしている内に、僕はアパートにたどり着いた。そのまま帰宅し、ごろりと寝転がり、適当に腹が減ったらコンビニで飯を買って食い、読書に耽って、かるく居眠りをして……そんな気ままなモラトリアムに興じることを僕は切望する。
だが、僕は脳内を駆け巡った幸せな光景に背を向けざるを得なかった。愛しの自宅アパートを通り過ぎ、そのままコンビニも通過して、閑静な住宅街を歩き、やがて見えて来るのは桜の木々に囲まれた大きな市立枕木公園。うららかな春の陽気が漂う公園内を散歩する。それだけで気分は高揚するものだ。しかし、今の僕は一歩踏み出すごとに陰鬱な気持ちへと落ちて行く。やがて目の前にベンチが見えた。そこには一人の女性が座っていた。その女性と視線が合うと、にこりと微笑みを向けられた。
「こんにちは」
しとやかに 微笑む乙女 黒髪だ by 諸井 敬太郎。
などと、つい心の一句を読んでしまうが、すぐに虚しい気持ちになってしまう。なぜなら、今僕の目の前いる可憐な黒髪の乙女は、偽りのそれなのだから。
「あなたが来ることを、心待ちにしておりました」
澄んだ声で、随分とまあ魅力的なことを言ってくれる。その見た目でそのようなことを言われたら僕のような純真なる心の男は、ころりと落ちてしまう。そう、最初に気付くべきだったのだ。女は口の上手い男を信用してはいけないと言われる。そして、男もまた然りなのだと。
「そうか。僕はお前がここにいなければどれだけホッとするだろうと思っていたよ」
僕は口の端を歪めて言った。すると、目の前にいる女はその黒く澄んだ瞳を丸くして、悲しげな顔をした。
「そんなひどいです。私はこんなにもあなたのことを想っているのに……」
黒髪の乙女にそのようなことを言われれば、たちまち世界は桃色一色となり、恋の超特急エクスプレスは無限の彼方にレッツゴーしてしまうだろう。だがしかし、今の僕は至って冷静だった。紳士として、涙ぐむ目の前の女性に手を差し伸べることもしない。
「下らない戯言はよせ、獏女。お前の魂胆は既に分かり切っているんだ」
僕が言うと、すんすんと泣き声を上げていた獏女が、おもむろに顔を上げた。
「何でそんなことおっしゃるのですか? 私は敬太郎さんに喜んでもらいたくて、このような振る舞いをしているのですよ?」
「ああ、そうだな。僕は死ぬほど喜ぶよ。それが偽物じゃなければな」
「もう、本当にひどいお方ですね。つまらない考えは捨てて、純粋に私に見惚れていれば良いのに」
きれいな桜色の唇で戯言を吐きやがる獏女の隣に僕は仕方なく、本当に仕方なく腰を下ろした。そんな僕の膝上に、すっと弁当箱が置かれた。
「では、敬太郎さん。よろしくお願いします。私の母が愛情たっぷり込めて作ってくれたので、存分に味わって食べて下さいね。お残しは許しませんよ」
「僕は今、無性にお前を殴ってやりたいんだがどうしようか?」
「うふ。そうしたら倍返しをしちゃいますけど、よろしいですか?」
あくまでもしとやかに微笑みながら言う。僕はその言葉を聞いて軽く背筋がゾッとした。倍返しとか言っているが、実際の所それ以上の膂力でもって背骨を粉砕されそうなので悔しさを噛み締めつつ引き下がることにした。僕がため息交じりに弁当の包みを解くと、隣で獏女がガサリとビニール袋を鳴らした。その手が掴んだのは「とろけるクリームあんみつ」と書かれた物だった。それをとても嬉しそうに見つめている。獏女はそのふたを開けるとプラスチック製のスプーンを手に持ち、一口食べた。直後、その口元が綻んだ。
「あぁ、美味しいです。昼間からこんなにも甘く素晴らしいスイーツが食べられるなんて、私は幸せ者です。それもこれも、敬太郎さんのおかげです。ありがとうございます」
お礼を言われるが、僕は苛立ちを覚えた。前にも聞いたがこの獏女は甘党、それも超が付くほどの甘党らしい。三度の飯よりも甘いスイーツが好き。だから、昼食も当然甘いスイーツが食べたかった。しかし、いつも母親が弁当を作ってくれる。それを残すと怒られてしまう。一度捨ててしまおうかと思ったこともあるが、さすがにそれは気が引けた。だから、自分の代わりに弁当を食べてくれる人が欲しかったんです、とのたまいやがった。つまりこの獏女は母親の愛情たっぷりの弁当を僕に押し付け、自分は大好物の甘いスイーツを嗜んでいやがるのだ。ひどい女である。本当の黒髪の乙女は絶対にそんなことはしない。やはりこいつは偽物なのだ。
恨みと呆れが混在した僕の視線を受けても獏女は一切気にすることなく、大好物のスイーツに舌鼓を打っている。その幸せそうな顔を思い切り引っぱたいてやりたい。それは僕が実はS気質の持ち主だからとかそういう問題ではなく、ただ純粋にムカついているのである。
「あら、敬太郎さん。あまり箸が進んでいないようですが、どうされましたか?」
「別に、何でもない」
「本当ですか? あ、分かりました。私に食べさせて欲しいんですね? もう、それならそうと早くおっしゃっていただければ良かったのに。敬太郎さんってば照れ屋さんなんだから」
おどけたように言う獏女を見て、僕のこめかみの辺りでぷつんと何かが切れた。
「よし決めた。僕は例え背骨が折られようとも、お前のその憎たらしい顔に正義の鉄槌を食らわしてやる」
僕は僕なりに力強く拳を握り締めた。
「そんなこと言わないで下さい。私、敬太郎さんに嫌われたらとてもショックを受けてしまいます」
そう言って、獏女はクリームあんみつを頬張った。
「うーん、甘い」
その行為がまたしても僕の怒りを煽った。しかし、こんな性悪獏女の一挙手一投足に反応していたらキリがない。僕は深呼吸をし、気を静めた。それから弁当のおかずを頬張る。
「うん、美味いな」
「そうですか。良かったです」
「ああ、お前の母親は料理上手で素晴らしいな。あとは子育て上手であったら、より素晴らしかったのにな。全く、残念でならないよ」
「あら、私の母は子育ても上手ですよ。おかげでこのように立派に育ちましたから」
「ああ、そうだな。お前は立派な性悪に育ってしまったんだな」
「うふ、敬太郎さん。あまり私に意地悪なことを言わないで下さい」
「嫌だと言ったら?」
「そうですね……その額をコツンと叩いて頭蓋骨を陥没させる、というのはどうでしょうか?」
全く、これだから力のある奴は嫌なのだ。何かあればすぐにその力でもって相手を屈服させようとする。気の小さい者であれば怯えて簡単に言うことを聞いてしまうだろう。だが、僕は高潔な魂を持つ男である。そんな暴力による脅しに屈服するつもりは毛頭ない。元より、背骨を折られる覚悟を持っているのだ。だから、獏女の手がこちらに伸びて来てぐっと力強く肩を握られても、小刻みに身体を震わす程度に留まる。さらに両手で肩を掴まれ、より強い力で握り締められたら、何だか体の震えが止まらなくなっていた。助けて下さい。
「助けて欲しいんですか?」
意地悪く微笑んで、獏女は言う。「良いですよ、助けてあげます。ただし、条件があります。今から私が言う台詞を復唱して下さい……僕は桜さんの美しさに骨抜きにされるのは一向にかまいませんが、骨を折られるのは嫌です。だから、どうかお許し下さい。この世で一番美しい僕の黒髪の乙女、桜さん……はい、どうぞ」あくまでもさらりと、命令して来た。一方、僕は口を半開きにしたまま、固まっていた。
「どうされましたか? 敬太郎さんは大変頭がよろしい方ですから、今しがた私が申し上げた台詞もすぐに暗記できたでしょう? さあ、早くおっしゃって下さい」
「いや、それは……」
苦い表情で声を漏らすと、ぎゅっと肩を掴む手に力が込もった。
「敬太郎さん、私は例えあなたが寝たきりになったとしても共にいたいと思っています。けれども、出来れば健康な体のままでいてくれると嬉しいです」
獏女は囁くように言った。
「僕は桜さんの美しさに骨抜きにされるのは一向に構いませんが、骨を折られるのは嫌です。だから、どうかお許しください。この世で一番美しい黒髪の乙女、桜さん」
気が付けば僕の口先がそんなことを口走っていた。
「うふ、さすがですね。けど惜しいです。大事な一言が抜けていました。『僕の』という一言が抜けていらっしゃいました。という訳で、もう一度お願いします」
笑顔で鬼のような命令を下して来た。たった一言加えて暗唱することくらい、僕の頭脳なら朝飯前である。しかし、僕の唇がそれを拒絶する。自然とこめかみに脂汗が浮かんで来た。
「どうせ骨折するなら、派手にやってみますか?」
獏女はよりダイレクトな脅しにかかった。この窮地を脱するため、僕の脳みそはフル回転する。その結果、導き出された答えは――
「……おい、お前」
「何ですか?」
「アイス、溶けているぞ」
「え?」
とっさに獏女は脇に置いていたクリームあんみつに視線を向けた。そこに乗っていたアイスクリームが、どろどろと溶け出していたのだ。
「まあ、何てことでしょうか! 私の大切なアイスが溶けてしまいますぅ!」
妙に情けない声を発し獏女は俺から両手を離すと、慌ててクリームあんみつのアイスを食べた。その手から解放されて、僕はホッと一息吐く。
「ふぅ、危ない所でした。全く、敬太郎さんのせいですよ」
「ふざけんな、責任転嫁も甚だしいぞ」
「だって、敬太郎さんが素直に私の言うことを聞いてくれないから」
「調子に乗るな。僕は確かにお前と仮契約を結んだが、お前の奴隷になるつもりは毛頭ない」
毅然とした姿勢で僕が言うと、獏女は頬を膨らませて睨んで来る。僕は無視をして弁当の残りを掻き込むと、ベンチから立ち上がった。
「さて、昼食も終わったことだし僕は読書をする。言っておくが、やたらめったらに食うんじゃないぞ」
「分かっていますよ。でも、三時になったら甘いイメージを食べられるようにしておいて下さいね。読んで欲しい本は『おすすめの本コーナー』にいくつか置いてありますから、よろしくお願いします」
にこりと微笑んで言う獏女に対して眉をひそめ、僕は図書館へと向かった。
入館してすぐ、カウンターの近くに『おすすめの本コーナー』は設置されていた。あの性悪獏女は自分が食べたいイメージを喚起するために、甘い恋愛小説ばかり取り揃えていた。職権乱用も良いところである。現在の時刻は午後の一時半。約束の時刻までは猶予がある。それまで芥川龍之介の至極の短編集を読み耽り、心を落ち着けることにした。
⒑
僕の受講している講義は大方午前中に固まっており、昼になると帰途につく。だが、週に二回、火曜と金曜は午後にゼミがある。だから、その日は図書館に行くことができない。だが、僕はそのことに関して少しも悲しいとは思わない。むしろ清々した気分である。ゼミは正直な所かったるいが、あの性悪の獏女と関わらないで良いと思うと、それだけで随分と僕の不快度指数が軽減される。あの獏女、昨日も遠慮なしに僕のイメージを食いやがって。律儀な僕はあくまでも契約を遂行するために、約束通りに三時には奴が求める甘ったるいイメージを用意してやった。壁に掛かった時計の針が午後三時に触れた瞬間、奴の黒い眼がきらり、いや、ぎらりと輝き、僕のイメージを食ったのだ。傍から見ればその模様は分からない。普通の物を食べる動作とはまた違う。だが奴を見ているとかすかに口を開いて、それからもぐもぐとする。その度に、僕の頭から少しずつ抱いていたイメージが消えて行った。その時、本当に自分のイメージが食われているのだと実感した。僕の頭にある甘いイメージを食べ尽すと、奴は非常に満足げな顔で天井を仰ぎ、それから取り繕う様にしとやかな笑みを浮かべて見せたのだ。それがまた非常に鬱陶しいことこの上なかったのだ。あの笑顔を見るくらいなら、教授の禿げ頭を見ている方がまだマシである。二年時からの付き合いである教授のその散らかった禿げ方に、どうせならもっときれいには禿げろと心中でブチ切れることも多々あったが、今では心穏やかな気持ちでその禿げ頭を見つめている。そうしている内に、本日のゼミは終了した。
僕はあくびを噛み殺しつつ、演習室を後にした。廊下を歩いて講義棟から出ると、西に傾いた太陽が淡いオレンジ色の光を地上に注いでいた。久方ぶりに心穏やかな僕はこのまま真っ直ぐアパートに帰宅し、日本酒片手に本を読もうと心を弾ませ、駅の方へと足を向ける。
「――敬太郎さん」
ふいに鼓膜を揺さぶる澄んだ声に弾かれて、僕は振り向いた。思わず顎が外れそうになった。口をあんぐりと開けた僕の目に飛び込んで来たのは、清楚な衣服に身を包んだ黒髪の乙女、いや、その内に腹黒さを秘めた獏女だった。
「お、お前……何でここにいるんだ?」
「そんなの決まっているじゃありませんか。敬太郎さんに会いに来たんです」
「は?」
「来ちゃいました」
獏女は指先を唇に添えて、上目遣いでこちらを見つめて来る。僕の胸の内で様々な感情が入り乱れ、激しく困惑してしまう。そうやって身動きが取れずにいると、同じゼミの奴らがぞろぞろとやって来た。彼らは僕と向かい合っている獏女の姿を見て、小さくざわついた。
「え、この子誰?」「ヤバイ、可愛くね?」「てか、超美人」
ひそひそと囁き合う声はしっかりと獏女の耳に届いていたようで、彼女は口元で薄らと微笑んだ。
「初めまして、私は木野宮桜と申します。敬太郎さんとはお付き合いをさせていただいております」
両手を腰の前で重ねて、折り目正しくお辞儀をして言った。案の定、ゼミの奴らはにわかに色めき立ち、好奇の視線を僕達に向けて来た。
「おい、お前! 何勝手なことを口走っているんだ!?」
「あら、私は本当のことを言ったまでですよ。私と敬太郎さんは清いお付き合いをしているじゃありませんか?」
含みのある視線を向けて獏女は言う。確かに、奴の言っていることはあながち間違いではないが。
「はっ、何が清いお付き合いだ。調子の良いことを言うんじゃない」
僕は半ば強引に結ぶことになった仮契約に対する不満をぶつけるように、そう言った。
「そうでしたね。失礼しました、訂正致します。私と敬太郎さんは、ただれたお付き合いをしていますものね」
野次馬が悲鳴に近い声を上げた。僕は全身からどっと冷や汗が噴き出す。
「だから、お前は何を言っているんだ!?」
「だって、本当のことじゃありませんか。私と敬太郎さんはただならぬ、ただれたお付き合いをしているじゃありませんか」
「言葉を慎め! 彼らが変な誤解をするじゃないか!」
「うふ、結構なことじゃありませんか」
「何が結構なことだ!」
僕はひたすらに叫んだせいで、喉がひりついて痛かった。ぜえぜえ、と肩で大きく息をして、目の前の獏女を睨む。
「とにかく、今の発言を訂正して……」
「そんなことよりも、敬太郎さん。早く行きましょう」
僕の言葉を遮るようにして、獏女は言った。
「行くって、どこにだよ?」
「決まっているじゃありませんか。二人きりになれる所ですよ」
しとやかな笑みを浮かべて、また誤解を招く発言をする獏女。また叫ぼうとした時、彼女の腕が僕の腕に絡まり、そのまま組んだ状態になり、強引に引っ張られた。
「お、おい! 待てって」
僕の制止も聞かず、獏女は腕を組んだままズンズンと進んで行く。見た目は華奢で可憐な黒髪の乙女だと言うのに、凄まじい膂力である。やはりこいつは人間ではない。化け物なのであると感じさせられた。
しばらくして、僕達は連なった講義棟を脇目に、キャンパスの隅っこへとやって来た。そこには人気があまりない。そして、幅の狭い階段があった。獏女は僕をそこまで引きずって行くと、そのまま階段に腰を下ろした。ちょうど二人が収まることで、スペースはいっぱいになった。腰を落ち着けた所で、僕は改めて獏女を睨む。
「おい、何で僕をこんな所に連れて来たんだ?」
「だから言ったでしょう? 二人きりになりたかったって」
「何で二人きりになる必要があるんだ?」
僕が詰問すると、獏女はふっと顔を俯けた。
「そんなの決まっているじゃありませんか」
ふいに静かな重みを帯びたその声に弾かれて、僕はたじろいだ。
直後、獏女はふっと顔を上げた。その瞳は、怪しげに輝いている。
「……私、もう我慢が出来ません」
艶めかしい吐息を漏らしながら、獏女は言う。
「な、何が我慢できないんだよ」
「女の私にそんなこと言わせるんですか? 敬太郎さんも、ひどいお方ですね」
「いや、お前本当に何を言って……」
獏女の吐息が、僕の鼻先をくすぐった。ハッと目を見開く。
「欲しいんです。欲しくて、欲しくてたまらないんです……」
「ほ、欲しいって……何が」
「敬太郎さん……」
なぜだか震える僕の耳元で、獏女はそっと囁いた。心臓が限りなく早鐘を打つ。
「……あなたのイメージが、欲しいんです」
直後、僕はしばらく身を固めていた。
「は……?」
ぽかんとする僕の前に、一冊の本が差し出された。それは獏女好みの甘い恋愛小説だった。
「早くこれを読んで下さい。そして、そのイメージを私に食べさせて下さい。お願いします、敬太郎さん」
そう言われて、僕は何だか無性に腹が立った。
「ふ、ふざけるな! そんなことのためにわざわざ大学まで来たのか? 大体、僕以外の人のイメージを食べれば良いだろうが!」
「ダメなんです、他の人じゃ。敬太郎さんじゃないと、ダメなんです……」
悩まし気な吐息を漏らしながら獏女は言う。
「ねぇ、敬太郎さぁん……早くぅ」
その甘い吐息が耳にかかった瞬間、僕は思わず「ひゃん!」と情けない声を発した。
「き、気色悪いことを言うな!」
「そんなこと言って、本当は嬉しいんでしょ? 私からこんな風に求められて」
「はあ? 前々から思っていたが、お前は少しばかり自信過剰なんじゃないか?」
「そんなことありませんよ。私はいつだって、敬太郎さんと一緒にいるとドキドキしてしまいます」
「そんな軽口は聞きたくない」
「もう、照れ屋さんなんだから」
「誰が照れ屋さんか! ええぃ、分かった読んでやるよ! その代わり僕のイメージを食ったらとっとと帰れよな!」
「うふ、敬太郎さんってば何だかんだでお優しいんだから。そういう所も好きですよ」
「うるさい! 良いからさっさと寄越せ!」
僕は獏女の手から本をひったくり、その活字に視線を走らせた。
僕はアパートの最寄り駅に降り立った後、大きくため息を吐いた。
「どうしたんですか、そんな風にため息を吐いて。幸せが逃げてしまいますよ?」
うなだれる僕の顔を覗き込むようにして、獏女が言った。
「安心しろ、今の僕は絶賛不幸の真っただ中だ。お前と言う疫病神のせいでな」
「もぅ、ひどいですよ敬太郎さん。私は疫病神じゃなくて、獏ですよ」
「そんなのどっちでも良い! ていうか、何でまだ僕に付いて来るんだ?」
「いけませんか?」
「当たり前だ。僕はお前の顔なんて見たくないんだからな」
「そんな……ひどいです。私はこんなにも敬太郎さんをお慕い申し上げているのに……」
よよ、と泣き崩れる獏女。その見た目は可憐な黒髪の乙女であり、道端でひざから崩れ落ちていたら全身全霊をかけてそばに寄り添うだろう。しかし、それはあくまでも見た目だけの話である。この女が打算的で腹の中が真っ黒だということは既に理解している。よって、僕は取り合うことなく、すたすたと歩き出した。
「あ、ちょっと待って下さいよぉ」
案の定、獏女はすぐに立ち上がり、早足で僕の隣に並んだ。
「ねえ、敬太郎さぁん。もっとゆっくり歩きましょうよ。ほら、お空にきれいなお月さまが浮かんでいます。二人で眺めながら帰りましょ?」
「何がきれいなお月さまだ。そんなものにさして興味もないくせに」
「そんなことありませんよ。素敵な殿方と並んで夜空を見上げる、ロマンチックじゃありませんか」
「さっき僕がお前に読まされた恋愛小説に、そんな場面があったっけ?」
「ええ、そうです」
月明かりに照らされてにこりと微笑む彼女の顔は正直美しいと思ったが、同時に引っぱたいてやりたいという感情が湧き上がった。ただ、僕の感性は至ってまともだということを主張しておきたい。
「とにかくもう僕に付いて来るな。契約があるから図書館には行ってやるが、それ以外でお前と関わるなんてまっぴらごめんなんだよ」
「そんな冷たいことをおっしゃらないで下さい。あ、そうだ。これから敬太郎さんのアパートにお邪魔してもよろしいですか?」
「はあ?」
「敬太郎さん、アパートに帰ってからも読書なさるんでしょ? 私はそのおそばに寄り添っていたいです」
「お前、この期に及んでまだ僕のイメージを食うつもりか!? 太るぞ!」
「ご安心下さい。私はたくさん食べても太りにくい体質ですから」
「そんなこと知るか! というか、断固拒否する!」
「良いじゃありませんか。ほんの少し、ほんの少し食べさせていただければ結構ですから」
「ああ、もうしつこい! 僕のプライベート空間にお前のような性悪獏女が入り込む余地は無いんだよ!」
語気を荒げて追い払うも、獏女は執拗に絡んで来る。
「うふふ、良いじゃありませんか。ねぇ、敬太郎さ……」
ふいにそれまで饒舌だった獏女が、ぴたりと言葉を止めた。ようやく静かになったと胸を撫で下ろすも、少しばかり異様な空気を感じ、ちらりと彼女を見た。
「おい、どうした?」
問いかけるが返事はない。
「おい」
今度は少しばかり語気を強めて言った。すると、獏女ははたと気が付いたように振り向く。
「ごめんなさい、何でもありません」
平素通りにしとやかな笑みを浮かべて獏女は言うが、その視線がわずかに後方へと向いていることに気が付いた。僕は顔だけ振り返る。
すっかり暗くなった夜道を、立ち並ぶ電信柱に取り付けられた街灯が照らす。一瞬、その陰で何か蠢いたような気がして目を凝らすが、そこには何もいなかった。人の気配も感じない。
「敬太郎さん」
獏女が声をかけて来た。
「何だよ?」
「やはり、今日はこのまま家に帰ります」
「当たり前だろうが」
「敬太郎さんのアパートには、また今度お邪魔させていただきますね」
「絶対にお断りだ」
「もう、照れ屋さんなんですから」
「良いからさっさと帰れ!」
僕が鬱陶しげな顔でしっしと手を払うと獏女は小さく唇の先を尖らせ、それから前方に向き直って歩き去って行く。その背中を見送った後、僕はようやく胸を撫で下ろして帰路についた。
⒒
本のページをめくりながら、僕は時計を見た。時刻は間もなく午後三時を迎えようとしている。ちらりとカウンターに目をやれば、獏女はしとやかに佇んでいる。だが、その視線はちらちらと落ち着きなく僕に向けられていた。嫌気が差した僕は睨み返し、残り少なくなったページを読んでいく。とは言え、この内容も三時になれば全て忘れてしまうのだ。そう考えると、何だかとても虚しいというか、妙な読書をしていると思う。他人のために自分が本を読んでやるなんて、おまけにその内容は僕の頭から消え去ってしまう。その本を読んだという事実は記憶にあるが、肝心の内容が頭から消え去ってしまうのだ。
あの性悪獏女は、本が最高の原材料だと言った。彼女曰く僕は優れた読者で、それを美味しくイメージしてくれる存在。彼女好みの甘い恋愛小説を読んで、その甘ったるいイメージを提供するための存在。上手いこと利用されている。それは腹立たしいことである。だが彼女は人外として凄まじい力を持っており、おまけに腹黒で打算的である。敵に回すと今後厄介な事態になるだろうと判断して、仕方なしに仮契約を結んだ。しかし、それにしても腹立たしい。優雅にカウンターに腰を掛けて、僕が読んだ本の内容をバクバクと食べる。非常に腹立たしいことこの上ない。
カチリ、と針が動き、時刻は午後三時を示した。すると、獏女は相変わらずしとやかに佇んだまま、しかしその瞳がきらんと輝き、小さく口を開けた。
つい今まで僕の頭の中に浮かんでいた小説のイメージが、すっと消え去った。読んだことは自覚しているが、その内容は思い出せない。ああ、僕のイメージが食われてしまったんだ。獏女を見れば、お上品に口元を押さえながら、もぐもぐと咀嚼をしている。その優雅な食べっぷりを見ていると、こめかみのあたりがせわしなくピクピクと動いたが、僕は深呼吸をして何とか気を静めた。
とりあえず契約上のノルマは遂行した。これからはようやく自分のための読書の時間を取ることができる。僕は一旦椅子から立ち上がってかねてから目を付けていた文学を手に取り、再び席に腰を落ち着け、読書を始めた。
日が暮れる頃、図書館は閉館となる。僕は読み終えた本を棚に戻すと、席から立ち上がって出入口へと向かう。
「あ、敬太郎さん」
途中でカウンターから獏女が声をかけて来た。僕は露骨に不快げな顔で振り向く。
「何だよ?」
「この後、少し時間ありますか?」
「無い。少なくとも、お前のために割いてやる時間は無い」
「もぅ、またそうやって意地悪を言うんだから。あのですね、敬太郎さんにこの本を読んでいただきたくて」
その手には、例の如く恋愛小説があった。
「ふざけるな。お前にはもうとびっきり甘いイメージをくれてやっただろうが」
「そうなんですけど……でも、少し物足りないと言いますか……だから、お願いします」
「断る。大体、そんなに食べたら太るぞ」
「ですから、私は食べても太りにくい体質なんです」
獏女はぷくっと頬を膨らませて言う。そのぶりっこじみた言動に僕はいささか、いや、かなり苛立ちを覚えた。
「やあ、桜ちゃん。今日もご苦労様」
その時、白髪で老齢の男性が声をかけて来た。
「あ、館長。お疲れ様です」
途端に、獏女は清楚な佇まいに戻る。
「後の処理は他のみんなでやっておくから、君はもう帰っても良いよ」
「え、そんな悪いですよ」
「気にしないで。この彼氏さんと一緒に帰るんだろ?」
館長が言うと、獏女は頬を赤く染めて両手で押さえた。
「そんな、館長。お恥ずかしいです」
「はは、照れることはないさ。君達は中々お似合いだと思うよ。彼は大変読書家なようで、私もいつも感心して見ていたんだ」
「ええ、敬太郎さんは素晴らしい読書家なんです」
「そうか、そうか。さあ、ここは私に任せて、君達はもう帰りなさい」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
獏女は嬉々とした表情でお辞儀をして、それから僕を見た。
「では敬太郎さん。私は身支度を整えて来ますので、公園のベンチで待っていて下さい」
「おい、ちょっと待て。僕は何も了承していないぞ。ていうか、僕とお前は付き合っている訳じゃないだろ」
「はは、君。そんなに照れなくても良いんだぞ」
「そうなんです、館長。敬太郎さんはとても照れ屋さんで、可愛らしいんです」
あはは、と笑い合う獏女と館長を見て、僕はこの貧弱ながらも固く握り締めた拳で思い切り殴ってやりたい衝動に駆られた。だが何とかその怒りを飲み下し、図書館を出て公園のベンチへと向かった。
夕暮れのオレンジが桜にまた別の魅力を与え、きらきらと輝かせている。ベンチに座ると、僕は小さく吐息を漏らした。全く、あの獏女は散々僕のイメージを食っておいて、まだ足りないと言うのか。おまけに館長まで余計なフォローをして来た。非常に参ってしまう。僕は今一度、大きなため息を吐く。
「どうした、元気がねえな」
突然声がして、僕は思わず顔を上げた。いつの間にかそばに一人の男が立っていた。髪を金髪に染めて、耳にピアスを開け、フード付きのジャンパーを身に纏い、鋭い目つきをしている。いかにも荒っぽい風貌をしていた。清廉高潔な文学青年である僕に、当然ながらこのような知り合いはいない。
「おい、どうしたんだ。そんな風に固まって」
「……いや、どちら様ですか?」
戸惑いつつも、僕は丁寧に尋ねた。
「ああ、そう言えば自己紹介がまだだったな。俺の名前は我堂勝(がどう まさる)って言うんだ」
「我堂さん……ですか。その我堂さんが僕に何のご用で?」
「いや、何。あいつが気にかけている男がどんな奴か知りたくて、ちょっとあいさつに来たんだよ」
「あいつって誰のことで……」
僕の言葉を遮るようにして、男は僕の腕を掴んだ。思わずぎょっと目を剥いてしまう。
「この腕をへし折ったりしたら、あいつはどうするかな?」
突然迫る危機に、普段は冷静な僕の思考もすっかり掻き乱されてしまう。事情はよく分からないが、この男は僕に因縁を吹っかけているようだ。
「よーし。そんじゃ、試しにポキッと折ってみるか」
男の手がより強く僕の腕を握り締め、そのままへし折られんとして――
瞬間、突然吹いた風が僕の頬を切り裂いた。
ハッとして視線を向ければ、黒い髪をさらりとなびかせる獏女がいた。彼女は男の腕を掴んでいる。
「嫌な気配を感じて来てみれば……やはり、あなたでしたか」
静かな声音で獏女は言う。
「よう、桜。久し振りだな」
口元を歪めて男が言うと、獏女はかっと目を見開き、その腕を彼に目がけて突き出す。手刀が突き刺さる寸での所で、男は軽やかにバックステップを踏み、こちらと距離を置いた。
「おいおい、久しぶりに会った幼なじみに対していきなり攻撃するなんて、ひどい女だな」
「黙りなさい」
獏女は剣呑な目付きで男を睨む。初めて見るその顔に、僕は少しばかり震えてしまう。
「……なあ、あいつはお前の知り合いなのか?」
僕が問いかけると、獏女は苦い表情で頷く。
「ええ、まあ。彼も私と同じ獏なんです」
何となく予想はしていたがそれでも僕は驚き、目を見開いてしまう。
「ああ、そうなんだよ。俺と桜は小さい頃から幼なじみで、よく一緒に遊んだんだよな?」
「どの口がおっしゃいますか。あなたは散々私のことをいじめたじゃありませんか」
きゅっと拳を握り締めて獏女は言う。その瞳はかすかに潤んでいた。
「そうだったか? まあ、それもスキンシップの内だろ。マジに怒るなって」
あくまでも軽い調子で言う獏男に対して、獏女は睨みを利かせている。
「昨晩、私達の後を付けていたのはあなたですね?」
獏女が言うと、僕はハッとした。昨日、彼女の様子が少し変わったのはそのためだったのか。
「ああ、そうだよ。お前はそいつの家に泊まりに行く所だったんだろ? 俺に構わずそのまま行っちまえば良かったのに」
「そうすればあなたは私だけでなく、敬太郎さんにも危害を加えたでしょう?」
「さあ、どうだかな?」
獏男はわざとらしく肩をすくめて言った。獏女は彼を睨み続けていたが、ふっと視線を逸らした。
「もう良いです。敬太郎さん、不快な思いをさせてごめんなさい。行きましょう」
「おい、ちょっと待てよ。久し振りに会ったんだから、もう少し話をしようぜ?」
「お生憎様。あなたと話すことは何もありません」
「そんなツレないこと言うなよ。俺はお前と話したいことがたっぷりあるんだ」
そう言って、獏男は歩み寄って来る。
「お前そいつのおかげで、最近大分良い思いをしているみたいだな?」
すると、獏女がぴくりと反応した。
「想像力、あるいは妄想力が逞しいそいつに本を読ませて、それを食らう。全く、お前も中々の性悪になったもんだな。昔はもっと純粋な良い子だったのによ」
「だ、黙りなさい。私と敬太郎さんはそういう契約を結んでいるのです。あなたには関係ありません」
「けどさ、獏の界隈でお前ばかり良い思いしていると、俺を含めた他の奴らの不満も募るんじゃねえのか? そうなれば、長老会も黙っちゃいねえぞ?」
「それは……」
痛い所を突かれたのか、獏女は俯いて口ごもってしまう。
「だからさ、今日は最近良い思いをしているお前に対して、少しばかり罰を与えるために来たんだ」
獏男が言うと、獏女は小さく肩を震わせた。
「な、何の権限があって、あなたがそんなことをするんですか?」
「別に、俺は何も権限なんて持っちゃいねえよ。ただ、同じ世代の仲間があまり道を踏み外してしまわねえように粛清してやろうってんだよ。感謝しな」
「わ、私はきちんと自制しています」
「とか言って、また今からこいつのイメージを食おうとしていただろ?」
「それは……」
再び痛い所を突かれて、獏女は唇を噛み締めたまま俯いてしまう。
「さて、まあ日が暮れちまう前に済ましちまおうか」
獏男はさらに歩み寄って来た。
「何をするつもりですか?」
「んーそうだな……とりあえず、まだお前の腹の中に漂っているイメージを俺が食ってやるよ」
獏男が下卑た笑みを浮かべて言うと、獏女は一気に警戒心を高めた。
「つー訳だから、ほら、さっさと食わせてくれよ」
「そんなことを言われて、易々食べさせると思っているのですか?」
「いや、思っていねえよ。だから……」
獏男はぐっと身を屈めた。「力づくで食ってやる!」
次の瞬間、獏男は常人を遥かに超えた脚力を発揮し、一気に獏女との距離を縮めた。それと同時に右の拳を振り抜く。寸での所で獏女はかわした。そのまま飛び退る。
「逃げんなよ」
獏男は不敵な笑みを浮かべて追随する。一方、獏女はどこか強張った表情で回避をしていた。時折応戦して拳を突き出すが、パワーは獏男の方が上のようで、圧し負けて吹き飛ばされてしまう。だが、そんな彼女の力もやはり常人のそれを超えていた。
目の前で繰り広げられる化け物同士の戦いを目の当たりにし、僕は一歩も動けないでいる。そもそも、なぜ僕がこんな戦いに巻き込まれなければいけないのか。清廉高潔な僕であるが、詰まる所は平凡な男である。そんな僕が、何が悲しくて人外バトルの渦中に放り込まれてしまったのだろうか。そんな僕の心中をよそに、両者は激しい争いを繰り広げている。いっそのことこの隙に逃げてしまおうか。この二人の間にどんな因縁があるのかは知らないが、どのみち僕には関係のないことである。
「隙ありだ!」
ふいに獏男の叫び声が鼓膜を揺さぶった。直後、彼の拳が獏女の腹部を捉える。彼女はそのまま後方へと大きく吹き飛んだ。
「……かはっ」
獏女は地面に背中を強かに打ち付け、すぐに起き上がれないようだった。そんな彼女の下に、獏男がゆっくりと歩み寄って行く。
「ひゃは! 所詮いきがった所でお前は俺に勝てやしないんだよ!」
獏女の前に立った獏男は傲然と彼女を見下ろす。
「黙りなさい……」
身体を小刻みに震わせながら起きようとした獏女の腹部に、獏男は再び拳を打ち込んだ。
「くふっ……」
衝撃に肺から空気が漏れたような声を発し、獏女は仰向けに沈んだ。
「安心しろ。お前が美味しく食ったイメージは、俺がさらに美味しく食ってやるからよ」
そう言って獏男は地面に膝を付き、獏女に覆いかぶさる形になった。彼が口を開くと淡い粒子のようなものが獏女の腹部から漂い出した。瞬間、彼女の体がぴくんと跳ねる。
「……あぁ」
獏女の喉から掠れるような声が漏れた。
「おらぁ!」
獏男がより気合を込めるようにして声を発した直後、獏女はかっと目を見開いた。
「あっ……あああああああぁ!」
獏女は悲痛な叫び声を発した。獏男が彼女の腹から漂う粒子を食う度に、彼女は身を捩じらせ、苦悶の表情を浮かべている。
「おい、暴れるな。やりづらいだろうが」
獏男はその腕で獏女は強引に押さえつけると、さらに彼女のイメージを食い漁る。獏女は尚も抵抗するように身じろぎをしていた。
突然目の前で繰り広げられる惨劇を前に、僕は唖然としていた。奴らは人間ではない。人外である。獏である。けれども、奴らは男と女で、男が女に乱暴をしている。それは人間、人外問わず、決してやってはいけないことではないだろうか。僕はあの獏女が嫌いだ。たっぷりの嫌悪感を抱いている。けれども、目の前であんな風に犯されている彼女を見て、さすがに放って置くことなんてできない。
「……お、おい。やめろ」
僕は半ば震える声でそう言った。すると、獏男がぴくりと反応し、ちらりとこちらを見た。
「さ、さすがにそれはやり過ぎだろ」
「ハハ、そんな顔するなって。お前はそこで高みの見物でもしてろよ」
獏男は茶化すように言って、再び獏女のイメージを食い始める。もがき苦しむ彼女を見て、僕はいつの間にか拳を握り締めていた。
「……うああぁ!」
自分でも情けないと思う雄叫びを上げて、獏男へと突進した。奴は獏女のイメージを食うことに夢中になっている。その隙に拳の一発ぐらいお見舞いしてやる。
しかし僕が肉薄した時、獏男はこちらに一切振り向くことなく、その左腕で僕の体を吹き飛ばした。繊細な僕の体はその一撃で破壊されてしまったかと思ったが、かろうじて無事だった。けれども体が思う様に動いてくれない。衝撃でメガネがずれて視界がぼやける。
「さて、じゃあフィニッシュと行こうか」
獏男は口の端を吊り上げてにやりと笑う。次の瞬間、獏女の腹から大量の粒子が奔流し、彼の口に吸い込まれて行った。
「あああああああああああああああぁ!」
それまで以上に悲痛な叫び声が天を突く。獏女の体は上下に激しく揺れ、のたうち回る。しかしやがてその奔流が弱まって行くと、彼女はすっかり抵抗する力を失ったようにぐったりとなっていた。獏男が最後の一滴まで彼女のイメージを食らうと、彼女は糸が切れた人形のように力を失い、ばたんと地面に倒れた。
「……ふぅ、食った食った。まあ、辛い物好きの俺にとって、お前の食った甘ったるいイメージはちと難儀だったけどな。まあ、調子こいているお前を懲らしめてやったからメシウマだったぜ」
獏男は下卑た笑いを浮かべて言った。彼は足下に転がっている獏女を悠然と見下ろした後、くるりと踵を返し、そのまま去って行った。
先ほどの獏男の一撃によって地面に伏していた僕は、軋む身体を鼓舞して起き上がる。よろよろとおぼつかない足取りで、仰向けに転がっている獏女の下へと向かった。
「……おい、大丈夫か?」
我ながらその一言は癇に障ると思った。今の彼女は完全に憔悴し切っており、今まで見せていたしとやかさは失われている。その肌はどこかパリパリと乾いており、目は虚ろな状態だった。僕は腰を落とし、彼女に触れようと手を伸ばす。
すると突然、獏女はむくりと起き上がった。僕は驚いて小さく飛び退き、軽く尻もちを突いてしまう。そんな僕に構うことなく、彼女は静かに立ち上がった。僕に背を向けた状態で、夜空に浮かぶ月の方を見ていた。
「おい、お前……」
再び僕が声をかけた直後、
「ごめんなさい、敬太郎さん。お見苦しい所を見せてしまって」
獏女はあくまでも落ち着き払った声で言った。
「いや、見苦しいとかそういう問題じゃ……お前はあの男に襲われて……」
「ご安心下さい。私はそんなこと露ほどにも気にしていませんから。多少苦しい思いはしましたが、小さい頃のおふざけの延長だと思えば溜飲も下がると言うものです」
「何言ってんだ。あんなの、どう考えてもガキのお遊びなんかじゃない。お前たち獏の事情はよく知らないけど、男が女を襲うなんてあってはならないことだろう?」
自分でも随分と格好付けた台詞を言っていると思った。非力な僕は襲われている彼女を助けてやることができなかったくせに。
「ふふ、相変わらずお優しいのですね、敬太郎さん。そのお気持ちだけで十分です」
そう言って、獏女はおもむろに歩き出した。
「今日は少し疲れたので、もう帰ります。敬太郎さんもお気を付けて」
去り行く彼女の背中を見て僕は手を伸ばそうとするが、無言の拒絶を感じ、指先で力なく宙を掻くだけに留まった。
⒓
嫌なことがあった時、僕は大抵酒の力を借りている。よく冷えた日本酒が喉元を通り抜けると、その瞬間に得も言われぬ快感が走り、胸の内にわだかまっていた不快感を吹き飛ばしてくれるのだ。ただその代償として、翌日はひどい二日酔いに悩まされることが常であるが。
しかし、僕は昨日その酒を飲まなかった。一滴たりとも飲まなかった。またぞろ酒の力で嫌なことを忘れ去ってしまおうと思っていたが、何となくその気が削がれてしまい、結局ボーっと所在なく佇んでいる内に眠気がやって来て、そのままころりとベッドに寝転んだ。
そして目覚めた現在、とてつもなく頭が痛いのである。おかしい、僕は偉大なるお酒の力を一切借りていない。それにも関わらず頭痛になるなんて。こんなことなら、いっそのこと酒を飲んでしまえば良かったと、なぜだがとても損した気分になる僕は大概耳っちい男である。思えば、前にも同じようなことがあったな。
こんな頭痛に苛まれてしまっては、大学の講義はお休みせざるを得ない。こんな状態で教授方のご高説を賜るなんて、バチ当たりも良い所である。注釈しておくが、これは決してサボリなどではない。あくまでも優れた自立心によって導き出された、至極真っ当な休息なのである。
そうと決めたら僕は早い。再びベッドの上で毛布に包まり、人類皆が愛してやまない二度寝に没頭することになったのだった。
◇
昼下がりの風は心地よく、僕の頬を撫でて行く。
今朝は激しい頭痛に悩まされた僕だったが、愛しの二度寝に耽ったおかげで、それも大分軽減された。僕はこれからも二度寝を愛することに決めた。そんなアホな思考を回せるくらいには、僕の体調も回復していた。
アパートを出た僕はいつものコンビニへと赴き、適当な弁当を買った。そのまま枕木公園へと足を向けるが、その入口でぴたりと足を止めてしまう。何気なく歩みを進めてしまったが、昨日この場所で惨劇が繰り広げられたことを思い返すと、再び重い気分が押し寄せて来る。このまま回れ右をして帰ってしまおうか。しかしここで逃げたら今後この公園、並びに図書館に訪れることができなくなってしまうような気がした。色々と嫌な思いもしたが、やはりこの場所は僕にとって必要なのだ。「リア充」が跋扈している大学の付属図書館は、既に僕の体が一種のアレルギー反応を起こしてしまう。
小さく息を吐き、公園内に足を踏み入れた。桜の木々に彩られた道を歩き、ベンチへと赴く。公園のベンチにはちらほらと人影が見えた。だが、その中に彼女の姿は無かった。まあ、いつもより時間は少し早いから、いないのも無理はない。というか、いなくてもさして問題ではない。僕は適当なベンチに腰を下ろし、適当に買った弁当を頬張った。
いつもよりも静かに昼食を終えた。というか、元来僕の昼食は静かなものである。誰とも話すこともなく、というか話す誰かもおらず、孤高の文学紳士として昼食を嗜む。注釈しておくが、決して寂しいとは思わない。思ったことはない。「うわ、あいつ『ぼっち』だ」と蔑む奴らこそ、むしろ侘しい心の持ち主だと気付いた方が賢明である。
図書館の前に立つと、なぜか異様な緊張感が押し寄せて来た。落ち着け、僕がこんな感情を抱く必要なんてない。そもそもあの獏女だってけろっとしていたじゃないか。当人がそうなのだから、傍から見ていただけの僕が気にする必要なんてない。この扉をくぐればまた、「こんにちは、敬太郎さん」なんて見た目だけは清楚で可憐に微笑みながら言ってくるに違いない。
気持ちを固めた僕は図書館の扉をくぐり抜けた。カウンターに目をやると、獏女の姿は無かった。だが取り立てて慌てることはしない。図書館の職員の仕事はカウンターに座っている以外にも多々ある。きっと本棚の整理をしているか、あるいは裏で何か作業をしているのだろう。
僕は静かな館内で本棚を物色する。その最中、獏女の姿を見かけなかったので、どうやら裏で作業をしているようだと結論付けた。まあ、そんなことはどうでも良い。奴がいないならむしろ好都合。僕は基本的にどんな本でも好んで読むが、最近は奴のせいで甘い恋愛小説ばかり読んでいたため、いい加減甘ったるくて仕方がなかったのである。今日は久方ぶりに夏目漱石の小説でも読み、心を落ち着けようか。出来れば太宰治にも手を伸ばしたい。僕は素敵な文学達を抱えて席に着くと、その言葉の海に飛び込んだ。
時代が移り変わっても、文豪達の紡ぐ物語の素晴らしさは変わらない。特に夏目漱石の「坊ちゃん」はしっかりとした文学でありながら、実に痛快な話であった。主人公は多少荒っぽい口調であるが、その精神は僕と同じく高潔なものだと感じた。活字の海から上がった僕の目は数秒ぼやけていたが、やがて焦点が合う。壁に掛かった時計は午後三時を示していた。僕はカウンターに視線を下ろすが、獏女の姿は無かった。そこで少し首を捻った。
「やあ、今日も来ていたんだね」
おもむろに顔を上げると、皺の入った顔で微笑む白髪の館長がいた。
「あ、はい。どうも」
僕は小さく頭を下げた。館長はテーブルに置いてある本をしげしげと見つめる。
「君は本当に本が好きなんだね。全く、若いのに感心なことだよ」
「ありがとうございます。あの、ところで……彼女はどこにいるんですか?」
僕が遠慮がちに聞くと、館長は小さく目を開いた。
「彼女? ああ、桜ちゃんのことかい? 君の彼女の」
「いえ、彼女じゃありません」
「またまた、照れなくても良いんだよ」
微妙なニヤケ面によるその物言いに、寛大な心を持つ僕も少なからず苛立ちを覚えたが、前回もこちらが言っても聞かなかったので、否定することをあきらめた。その代わり、積極的に肯定もしないが。
「ああ、そうそう。桜ちゃんは今日休みなんだよ」
「え?」
「何でも体調が優れないみたいでね。まあ、いつも真面目に働いてくれているから、今日はゆっくり休みなさいって伝えたんだけどね……というか君は知らなかったの? 彼氏なのに?」
またしてもその物言いに苛立つが、僕は努めて平静を保つ。
「恥ずかしながら知りませんでした。僕達はその辺のおめでたいカップルのように、日頃からべたべたくっついている訳じゃありませんので。お互いのプライベートは大事にしているので」
「そうかい? この間は随分とべったりしていたじゃないか」
「ぐっ……あれは、その、たまたまです」
「はは、君は本当に照れ屋さんだな」
館長は実に愉快げに笑った。そんな彼に苛立ちを覚えつつ、僕はしばし黙考した。
あの獏女は休んでいる。体調を崩して。その原因は分かっている。
だからと言って、僕にできることはない。特にやることもない。彼女がいないのであれば、僕は黙々と読書をして、彼女が復帰したらその仮契約に基づいて粛々と読書をする。ただそれだけのことである。何も気に病む必要はない。あの獏男に襲われた後も、あんなにあっさりしていたじゃないか。何も気にすることなんて無いんだ。
「おっと、大切な読書の時間を邪魔してすまない。じゃあ、私はこれで失礼するよ」
館長はそう言って、その場から立ち去ろうとする。
「……あの」
気が付けば僕は、その背中を呼び止めていた。
「ちょっとお聞きしたいことがあります」
◇
図書館を後にした僕は、自宅のアパートとは反対方向に向かって歩いていた。やがて、住宅街に入った。僕のアパートがあるそれと大して変わらない。
「多分この辺りだと思うんだが……」
小言を呟きながら、僕は辺りをきょろきょろと見渡す。決して挙動不審になっている訳ではない。目的の場所があり、それを探しているのだ。僕はなるべく怪しまれないように必要最低限の首の動きできょろきょろとする。その努力の甲斐あってか、通りすがる人達は僕のこと素通りしてくれた。まあ、単純に僕に対して興味が無かっただけかもしれないが。そうこうしている内に、目の前に中々立派な門構えを持つ一軒家が姿を現した。その表札を見ると「木野宮」と書かれている。どうやら目的の場所に到着したようだ。
「え、桜ちゃんの家の場所を教えてくれだって?」
館長は少し大仰な反応を見せてそう言った。
「でも、君達は付き合っているんだろ? だったら家の場所くらい知っているんじゃないのかい?」
相変わらず僕達が付き合っていると決めつけているアホな館長である。僕は全力で否定したい気持ちを押さえて、口を開く。
「その……僕達は非常にプラトニックな付き合いをしているので。お互いの家に行ったことも無いんです」
僕は絶妙な塩梅の照れ臭った表情を浮かべて言った。この演技力、生来持ち合わせた顔立ちも含めて、俳優業でもやってみようかしらん。
「そうだったのか。いやはや、今どき本当に珍しいね君達は。私はもうてっきりやることは済ませているのかと思ったよ、あっはっは!」
あっはっは、じゃねえ紳士の振りしたスケベジジイ。っと、いけない。例え心の中でもそのようにはしたない言葉を使ってはいけない。僕の紳士としての品格が疑われてしまう。
高い自律心で思い直した僕は、腰を低くして館長から獏女の自宅の場所を聞き出した。
そして現在、その自宅の前に立っていた。
ここまで来てふと、僕は思い至る。そもそもなぜここに来たのか。来ようと思ったのか。思案を巡らせる。まあ、僕も一応彼女が被害に遭った現場に居合わせた訳だし、その後知らんぷりをするというのも、人としての情に欠けているように思えてしまう。僕は常日頃から冷静沈着な男であるが、人並みに情というものは持ち合わせているつもりだ。仮にも目の前で女の子が襲われて、助けてやることができなかった。そのせめても罪滅ぼしとして、少しだけ顔を出し、見舞ってやろう。そう思ったのだ。
門の前に立ち、インターホンに指を伸ばしかけた所で、ぴたりと動きを止めた。今さらだが、まだ知り合って間もない相手の自宅を訪れるというのはそれなりに緊張するものだ。家族の誰かがいるかもしれない。出くわしたら中々に気まずい。まあ、いなかったらいなかったで、それもまた気まずいのだが。と、いかんいかん。僕は一体何を考えているんだ。何度も念押しをするが僕達は決して付き合っている訳ではない。だから、彼氏が彼女の家に初めて行く、みたいな緊張感を味わう必要はない。あくまでも知り合いの様子を心配し、ほんの少し顔を見に来た好青年。今の僕はまさにそれである。そんな僕に対して家族は特に警戒心を抱くこともなく、まあどうもわざわざありがとうございます、いえいえ、とんでもございません、などとあいさつを交わす程度で済むはずだ。
数秒間固まっていた僕は、ようやくインターホンを押した。チャイムが鳴って待つことしばし、『はい、どちら様でしょうか?』という声がスピーカーから聞こえた。その声はあの獏女同様に澄んでいたが、やや声質が違う。母親だろうか。
「突然失礼いたします。こちらは木野宮桜さんのご自宅でしょうか?」
やや口ごもりながら、僕は言った。
『はい、そうですが』
「申し遅れました、僕は諸井敬太郎と申します。桜さんとはその……彼女の働いている図書館をよく利用して、知り合っている仲でして……」
緊張しながら丁寧に言葉を紡いでいると、ぷつりとスピーカーが切れる音がした。もしかして気に障るようなことをしてしまったのだろうか。一瞬不安に駆られるが、直後に玄関のドアが開き、麗しい淑女が姿を現した。髪の色は獏女のように黒ではなく自然なブラウンに染まっていた。彼女は小走りで門までやって来ると、僕の前に立ち会釈をした。
「よく来てくれましたね。さあ、こちらにどうぞ」
「あ、はい」
僕は言われるがまま彼女の後に付いて歩き、玄関から家の中に通された。
思いの他あっさり、というか歓迎されている様子に困惑しつつ、「お邪魔します」と言った。
「あの、すみません。突然来てしまって」
「いえ、お気になさらず。むしろ、会えて嬉しいです」
「え、僕にですか?」
「はい。諸井さん……いえ、敬太郎さんとお呼びしてもよろしいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
「敬太郎さん、あなたのことは桜からよく聞かされています。とても本を読むことが好きで、素晴らしい想像力をお持ちだと」
「いえ、そんなことは……」
「桜は随分と、あなたのことを気に入っているみたいですよ」
「はは、都合よく利用されているだけですよ」
つい皮肉めいた物言いになり、思わず口を手で押さえた。しかし獏女の母、獏母はやんわりと微笑んでいた。
「申し遅れました。私は桜の母の木野宮万里(きのみや まり)と申します。以後、娘共々よろしくお願いしますね」
「あ、はい。どうも」
返事に困った僕は、曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
「今日は桜に会いに来てくれたんですよね?」
獏母は微笑みを湛えたまま尋ねてくる。
「ええ、まあ。体調を崩していると聞いたので、知り合いとして見舞いくらいしようと思った次第でございます」
「うふ、敬太郎さんはお優しい方ですね。桜に聞いていた通りです」
「はは、ありがとうございます」
「ごめんなさい、こんな所で立ち話をしても仕方がないですよね。桜の部屋は二階にありますので、会ってあげて下さい」
柔らかに微笑んで獏母は言った。先ほどから話していて、この獏母が物腰穏やかであることは分かった。だが、この獏母がいつも獏女にしっかり弁当を食べなさいと言い付けているのだ。身内には厳しいタイプなのかもしれない。お母さん、あなたが丹精込めて作った弁当は、いつもこの僕が食していますよ、と台詞が口を突いて出そうになったが、控えておいた。
僕は小さく頷いて階段を上った。二階にはいくつか部屋があったが、その内の一つに「さくら」とプレートに書かれた部屋があったのですぐに当たりは付いた。ここまで来てうだうだしても仕方がない。さっさと見舞いを済ませて帰ろう。僕は門前とは打って変わって、躊躇なくその部屋のドアをノックした。
「はい、どうぞ……」
やや掠れた声が部屋の中から聞こえて来た。僕はドアを開けて中に入った。
あの獏女のことだからきっと桃色尽くしの部屋に違いない。そう思っていたが、案外普通の女の子の部屋だった。不覚にも、その清潔さに好感を抱いてしまう。
「……敬太郎さん?」
声がして振り向けば、獏女は寝間着の状態でベッドに横たわっていた。その黒い瞳が大きく開いている。
「なぜ、ここに?」
「館長にお前が体調を崩して休んでいると聞いたからな。様子を見に来たんだ」
「もしかして、私のことを心配して下さったのですか?」
ベッドから上半身を起こして、獏女は尋ねてきた。
「冗談はよせ。僕はあくまでも人としての義理を果たすために来たまでだ。本当の所、お前みたいな性悪獏女が倒れても何の関心も興味もない」
両手の平を上に向けて、僕は言った。
「そうですよね……敬太郎さんは、私のことを嫌っていますもんね」
獏女は小さく目を伏せた。そのしおらしい態度を見て、僕はわずかばかり困惑してしまう。いつもの彼女なら、「もう、敬太郎さんってばひどいですぅ」と軽口を叩くはずなのに。今の彼女は水分を失った草木のように、しゅんとうなだれていた。
「……やっぱり、襲われたことがショックなのか?」
無粋だと思いながらも、僕はあえて直接的な物言いで聞いた。獏女はベッドの上から、窓の景色に視線を向けた。
「そうですね。ショックでした」
獏女もまた、正直に答えた。
「私は小さい頃、勝さんに毎日のようにいじめられていました」
おもむろに、語り出した。
「昔、私と彼は家が隣同士だったんです。親同士が仲良かったこともあり、私達は家族ぐるみの付き合いをしていました。両親同士が仲良しなのだから、私達もきっと仲良くなれると思っていました」
遠い記憶の輪郭をなぞるように、彼女は言葉を紡いでいく。
「けれども、彼は私と顔を合わす度に、私のことをいじめてきました。からかって、詰られて、時には暴力も振るわれて……その度に勝さんのご両親は頭を下げて下さいました。私の両親も子供同士のことだからと言い、憤りはしませんでした。その後、小学六年生の時に父の仕事の都合でこの町に引っ越して、それからずっと彼には会っていませんでした。彼にいじめられたことも、時間の経過と共に忘れて行きました。けど……」
獏女は小さく拳を握り締めた。
「久しぶりに彼に会って、あの時のいじめられた記憶が蘇って、情けないことに私は恐怖してしまいました。その上、あんな風に犯されてしまって……」
獏女は言葉が尻すぼみした。そのまま、口を閉ざしてしまう。室内に気まずい沈黙が舞い降りた。僕はどうすることも出来ず、アホのように固まっていた。
その時、沈黙を破るようにドアがノックされた。獏女が「どうぞ」とか細い声で答えると、ドアがゆっくりと開き、先ほど会った獏母が顔を覗かせた。
「お取込み中にごめんなさいね」
「あ、いえ。大丈夫です」
僕は少し慌てて答えた。
「お菓子を持って来たので、良ければ召し上がって下さい」
部屋に入って来た獏母は、テーブルにクッキーの入った皿と二人分の紅茶を置いた。
「そういえば桜、敬太郎さんにきちんとお礼は言ったの?」
「え?」
「勉強で忙しい中わざわざお見舞いに来て下さったんだから、きちんとお礼を言わないとダメでしょ」
母に言われたことでハッとしたのか、獏女は慌ててこちらに振り向いた。
「あの、今日はわざわざ来て下さって、本当にありがとうございます。ごめんなさい、ロクにお礼も言わずに……」
「別に、礼を言われることなんてしていない。だからそんな風にかしこまる必要もない」
妙に照れ臭くなった僕は、ぷいとそっぽを向いて言った。すると、くすりと笑い声が漏れた。
「やはり、敬太郎さんはお優しい方ですね」
そう言って微笑んだ獏母は、トレーを抱えた状態で立ち上がった。
「では、敬太郎さん。ゆっくりして行って下さいね」
微笑みを残して、獏母は部屋から出て行った。残された僕達の間には、また沈黙が訪れた。正直に言って、僕は沈黙が苦手だ。一人でいる時の静けさは好むが、誰か一緒にいる時の沈黙は中々に神経を摩耗してしまう。その相手が例え、この性悪獏女だったとしても。
「……なあ。紅茶、冷めちまうぞ」
僕が声をかけると、ベッドの上で俯いていた獏女は小さく顔を上げてこちらを見た。
「そうですね……」
獏女はベッドから下りると、テーブルの前に座った。紅茶の入ったティーカップから立ち上る湯気をぼんやりとした目で見つめた後、両手でそれを持ち上げた。
「いただきます」
小声で呟き一口飲んだ。いつもよりわずかに色素の薄かった唇が湿り気を帯びたことによって、血色が良くなったように見えた。僕も紅茶を一口含んだ。直後、僕はほっと息を吐いた。
「良かった。お前の家だからてっきり激甘かと思ったけど、そんなことはなかったな」
「失礼ですね、敬太郎さん。私の母はそんな見境のない人じゃありません。お客様にそんな甘口の飲み物はお出ししませんよ。まあ、私のは甘口ですけど」
「へえ、そうなのか」
「よろしければ、一口飲んでみますか? あ、でもそうしたら間接キスになっちゃいますね。けど、私は全然構いませんので、遠慮なく私のティーカップに唇を付けて下さい」
「僕は構うよ。誰が好き好んで、お前みたいな奴と間接キスなんてするもんか」
「まあ、本当にひどい敬太郎さん。私は体調を崩している身なのですよ?」
「その割によく喋るじゃないか」
僕が言うと、獏女ははたと気付いたように口元に手を添えた。自分で言っておいて、僕も同様の心境だった。先ほどまで沈んでいたこの女がいつもの調子を取り戻していた。
「ありがとうございます。敬太郎さんとお話できたおかげで、元気が出ました」
「ああ、そうか。そりゃ良かったな」
僕は残りの紅茶を一気に飲み干すと、立ち上がった。
「じゃあ、僕はお暇させてもらう」
くるりと踵を返し、部屋から出ようとした。
「あの、敬太郎さん」
背後で獏女が呼んだ。僕は足を止め、ちらりと振り向く。
「今日は来て下さって、本当にありがとうございました」
「別に、改まって礼を言われるほどのことはしていない」
僕は再び歩き出し、部屋のドアを開けた。去り際、「相変わらず、照れ屋さんなんですから」と聞こえた気がしたが、構うことなく部屋を後にした。
⒔
今朝は昨日のように頭痛に悩まされることは無かった。きちんと早起きをして身支度を整え、大学の講義を受けた。平常通り午前中で講義が終了すると、すぐに電車に乗ってアパートがある住宅街へと舞い戻った。僕は一旦アパートに帰って荷物を置くと、再び外に出た。
コンビニに寄ってから公園へと向かう。相変わらず美しい桜の木に彩られた道を歩く。やがて前方にベンチを見つけた。そこには一人の女が佇んでいる。
「こんにちは、敬太郎さん」
僕は特に返事もせず、無言で獏女の隣に腰を下ろした。
「敬太郎さん、昨日はありがとうございました」
獏女が言うと、僕は眉をひそめた。
「しつこいな、お前も。何度も礼を言うな、気色悪い」
「うふ、そうですね。けど、私は本当に感謝しているのです。だから、そのお礼として……」
獏女は脇に置いていた物を僕に差し出した。
「このお弁当を差し上げます」
にこりと微笑んで言う獏女を見て、僕はわずかにこめかみの辺りがぴくりと動いた。ほんの少しだけでも心配して損をした。この女は、やはりどこまでも強かな性悪だ。
僕は紳士たる所作を忘れ、思わず舌打ちをしてしまい、獏女から弁当箱をひったくった。包みを解いてふたを開けると、今日もきれいに作られたおかず達が並んでいた。昨日、この弁当を作った獏母に会ったこともあり、何だか複雑な気持ちになってしまう。
「親不孝者め」
「え、何かおっしゃいましたか?」
「いや、何も」
僕はすげなく答える。
「ところで敬太郎さん、そのビニール袋に入っている物は私のために買って下さったのですか?」
獏女に尋ねられると、僕は思わず顔をしかめた。
「もう、敬太郎さんってば。やっぱりお優しいのですね。そういう所、本当に好きですよ」
「うるさい、黙れ、性悪。僕は確かに寛大なる精神の持ち主だが、決してお前にだけ優しい訳ではないぞ。今日はお前の復帰祝いとして、仕方なくコンビニで安いスイーツの一つでも買ってやろうと思っただけだ」
「うふ、照れちゃって。可愛いです」
「それ以上余計なことを口走ると、こいつはやらんぞ」
僕がビニール袋を持って遠ざけると、獏女は「ごめんなさい、ごめんなさい」と満面の笑みを浮かべながら言った。全く、どこまでも腹の立つ獏女である。僕達は互いの物を交換し合い、昼食を取った。
適度に腹の膨れた昼下がりは大いなる眠気がやって来る。そんな時に読書をすれば、大抵の奴らは眠りこけてしまうだろう。だが、高潔な精神を持つ僕はそんなだらしない行為はしない。活字の海に潜ってしまえば、うつらうつらとしていた目も冴え渡るというものだ。
ちらりとカウンターに目をやれば、獏女はこちらをじっと見つめていた。だが、その視線はどこか不機嫌そうである。というか、確実に不機嫌であった。
「お前、今日は僕のイメージを食うなよ」
昼食後、図書館に入った時に僕が言うと、獏女は案の定「何でですか?」と至極不満そうな顔をして尋ねてきた。僕は今日くらい、存分に読書をさせてくれと言った。いつもなら執拗に迫って却下する獏女だが昨日の件もあり、渋々了承した。だがやはり不満なようで、先ほどからじっと僕を睨んでいるのだ。そんなことをしている暇があったら働け。
僕は獏女の執拗な睨みなど全く気にすることなく、ひたすらに活字の海に潜り、溺れて行った。
◇
窓から夕日が差し込む頃、僕はパタンと本を閉じた。間もなく閉館を迎える館内では、人々がぞろぞろと帰途につく。そんな中でカウンターから立ち上がった獏女が、すたすたとこちらに歩み寄って来た。
「敬太郎さん」
あからさまに不満げな声で獏女は呼んだ。
「何だ?」
「今日は昨日のこともあり仕方なく、本当に仕方なく了承しましたが……明日からはまたきっちりとイメージを食べさせてもらいますからね」
その頬を小さく膨らませて、獏女は言った。
「分かったよ……ところでお前、この後少し時間はあるか?」
「え? はい、ありますけど……」
「じゃあ、公園のベンチで少し話そうか」
僕が言うと、獏女は目を丸くした。
「何だよ、そんな風に驚きやがって」
「いえ、まさか敬太郎さんから誘ってもらえるなんて思わなかったので……」
「じゃあ、身支度が済んだら来てくれ。僕は先に行って待っているから」
「分かりました。支度をしたらすぐに行きます」
獏女はどこか楽しそうな足取りでカウンターの奥に消えて行った。それを見送った後、僕は図書館から出て公園内にあるベンチへと赴く。夕日に照らされているベンチを見つけると、おもむろに腰を下ろした。背もたれには寄りかからず、前に身体を倒して俯き加減になり、しばし佇んでいた。
近くで足音が鳴った。
「よう、また会ったな」
その呼びかけに対し、僕は振り向くことをしなかった。
「そうだな」
「何だよ、つれないな。こっちはせっかくフレンドリーに声をかけてやったのに」
「生憎、僕はお前みたいな荒っぽい奴は嫌いなんだ」
「そんなに俺は荒っぽいか?」
「力づくで女を犯すような奴は、荒っぽいだろ」
冷たく刺すような声で僕が言うと、一瞬間を置いてからヒャハハと奇声じみた叫びが発せられる。
「何、もしかしてお前怒ってんの?」
ちらりと視線を向ければ、獏男は下卑た笑い顔を浮かべていた。
「別に、怒ってなどいない。ただ、不愉快だとは思った」
「怒ってんじゃねえか。お前、桜のことが好きなのか?」
「そんな訳ないだろ。僕はあの獏女のことを毛嫌いしているよ」
「けど、よく一緒にいるじゃねえか」
「それはあくまでも契約を結んでいるからだ。まだ仮だけどな」
「でもよ、契約を結んでいるからって、わざわざ見舞いに行くかよ?」
僕は眉を跳ね上げた。
「あれ驚いた? 俺はちゃんと見ているんだぜ」
「ああ……何となく気付いていたけど、お前は歴としたストーカー野郎だな。お前の方こそ、実はあの獏女のことが好きなんじゃないのか?」
茶化す訳でもなく、僕は至って冷静に問いかけた。それまで饒舌だった獏男の舌先がぴたりと止まる。片頬がわずかに歪んだ。
「……そうだな、好きだぜ。遊び相手として、あいつは最高だからな。俺がちょっとからかっただけでビクビク怯えてさ、マジで楽しいぜ」
「そうか。ストーカー気質の上に、変態なのか。本当に救いのない野郎だな」
「おい、お前。さっきから俺にケンカ売っているように聞こえるのは、気のせいだよな?」
「だとすれば、何だと言うんだ?」
僕が横目で睨み問いかけると、獏男は乾いた笑い声を漏らす。
「ハハ、そうかよ。お前、よほど死にたいんだな?」
「何をバカなことを言うか。僕のように優秀な人材が、ころりと死んで良い訳がない」
「だったら……ド派手にぶち殺してやるよ!」
直後、獏男の右拳が僕の頬に突き刺さった。その威力によって、僕はベンチから吹き飛ばされた。口の中が切れてしまったようで、鮮やかな鉄の味が広がった。
「おっと、悪い悪い、不意打ちを食らわしちまって。けど、大分手加減してやったんだぜ?」
獏男はにやりと笑う。僕はズレたメガネを元の位置に戻した。
「それはありがたいな。お前のように野蛮な人外とまともにやり合っては、僕の崇高な文化人としての体はひとたまりもない」
「ハッ、そうかよ!」
獏男は力強く地面を踏み、立ち上がりかけた僕に一瞬で肉薄した。今度は痛烈な左拳が僕の頬を殴り飛ばす。後方に大きく吹き飛んだ僕は強かに背中を打った。
「おい、お前。僕の端正な顔に何をしてくれるんだ。将来的に僕が出会う麗しい淑女達が悲しむだろうが!」
「おう、そりゃ悪かったな。けど、俺に殴られたおかげでより一層良い男になってるぜ?」
獏男は口の端を吊り上げて、にやりと笑う。この野郎、小癪なことを言いやがって。僕は軋む体を何とか起こし、立ち上がる。
「なあ、もうやめておこうぜ。お前が俺に勝てる訳がないんだよ」
「確かにそうかもしれないな。けど今の僕は、変態ストーカー野郎にギャフンと言わせてやりたい気分なんだ」
そこで僕も負けじと、歪んだ笑みを浮かべて見せた。
「そうか、分かったよ……」
獏男の体がゆらりと揺れた。次の瞬間、強靭な脚力で一気に僕との間合いを詰める。
「じゃあ死ねや!」
固く握り締めた拳が僕の頬を撃ち抜く。それだけに留まらず、胸や腹にも拳の連撃が襲いかかる。嵐のような連撃を前に、僕は為す術もなく打ちのめされてしまう。衣服もボロボロになった僕の髪の毛を獏男は掴んだ。
「今すぐに謝れば、命だけは助けてやるぜ?」
僕は口内に溜まった血泡(けっぽう)を吐き出す。
「冗談を言うな。僕の清廉なる魂が、お前のような薄汚い男に屈服する訳ないだろうが」
「ああ、そうかよ。お前は賢ぶっていても、本当にアホなんだな。この世に命よりも大切なものなんて無いんだぜ!」
獏男は強烈な右拳を放つ。必殺の一撃が、僕の頬を撃ち抜かんとして迫り――
刹那、突然現れた影が獏男を突き飛ばした。そのおかげで右拳の軌道が逸れ、僕の顔面は打ち砕かれずに済んだ。
「敬太郎さん、ご無事ですか!」
獏女は血相を変えて僕に駆け寄った。ボロボロになった僕を見て、怯える様に息を飲む。
「こんなに傷付いて……」
僕に対していたわるような視線を這わせる。背後で獏男がむくりと起き上がると、獏女は一転して鋭く彼を睨んだ。
「勝さん、あなたよくも敬太郎さんをひどい目に遭わせてくれましたね?」
「いやいや、勘違いするなよ。そいつが俺にケンカを売って来たんだぜ? 自業自得だろ」
「だからって、ここまでする必要は無いでしょう?」
震える声で、獏女は言う。獏男を睨んだ。
「お、何だその目は? じゃあまたお前が俺とやり合うか? まあ、どうせ俺が勝つに決まっているけどな」
相手を威圧するように顎を反らせて獏男は言った。対する獏女はどこか怯えたような表情で彼から視線を逸らした。
「おい、お前達。何を勝手に話を進めているんだ」
それまで沈黙していた僕が声を放つと、獏男は「あ?」と目線をこちらに向けた。
「僕はまだ負けた訳じゃないぞ」
「ヒャハ、冗談はよせよ。今のお前は散々俺にボコられて死に体じゃねえか。それなのにまだ負けていないとでも言うのか?」
「だからそう言っているだろう。何度も言わせるな、頭の悪い奴だな」
「テメェ、口先だけは一丁前だな」
獏男はぎろりと僕を睨む。
「良いぜ。その口、完全に利けなくしてやるよ」
獏男の目の色が変わっていた。バキバキ、と指の関節を鳴らす。そんな彼の前に獏女は立ちはだかった。
「やめて下さい。敬太郎さんには、指一つ触れさせません」
「そうかよ。けど今の俺は機嫌が悪いから、お前のことを今までにないくらいいたぶっちまうぞ?」
獏女は一瞬たじろぐが、鋭く獏男を睨み返す。
「やれるものなら、やってみなさい」
「ほう、言う様になったじゃねえか。弱虫桜のくせによぉ」
両者の間で険悪なムードが漂う。体を強張らせて相手を睨み付ける獏女に、僕はそっと触れた。彼女はぴくりと小さく跳ねて、僕に振り向く。
「お前は下がっていろ」
「でも、敬太郎さん。その体じゃ……」
「良いから、ここは僕に任せておけ」
少し語気を強めて僕が言うと、獏女は目を丸くした。そんな彼女を脇に押しのけて、僕は再び獏男と対峙する。
「おいおい、マジかよ。本当にまだやるつもりかよ? 死ぬぜ?」
「女を盾にして自分が助かるくらいなら、死んだ方がよほどマシだ」
僕が言うと、獏男は一瞬目を丸くして、直後に破顔した。
「ヒャハハ! かっこ良いねぇ! 本当に口先だけは一丁前だな!」
「何を言うか。僕は口先だけの薄っぺらい男なんかではない。今から得と見るが良い」
「あー、お前マジでウケるわ。面白すぎて殺すのが惜しいけど、殺しても良いんだな?」
「お前に僕は殺せない」
冷然として僕が言い放つと、獏男はかっと目を見開いた。
「マジで殺す!」
拳を固く握り締め、猛烈な勢いで地面を蹴り、僕に迫った。
痛烈な一撃が僕の頬を撃ち抜く。獏男は間髪入れずに拳の雨を降らせた。
「おらおらおらぁ! 死ねやこらぁ!」
獏男はぎらつく目で咆哮を上げた。僕は必死にガードを試みるが、大して威力を殺すことも出来ずにダメージが蓄積して行く。そして腹部に鋭い一撃を食らった瞬間、またしても後方に大きく吹き飛ばされた。僕は地面に無様に転がる。
「敬太郎さん!」
離れた所から獏女が叫んだ。再三受けた拳のダメージによって、僕は立ち上がることができない。獏男は肩を怒らせた状態で歩み寄り、僕を見下ろした。
「ざまぁねえな。大口を叩いておいて、結局これかよ」
僕は言い返すことをせず、地べたにうずくまっている。獏男はため息を吐いた。
「このままお前を殺すことは簡単だが、それだけじゃつまらねえな。せっかくだし、いつも桜に食べさせてやっているそのイメージ、俺もこの機会に味あわせてもらおうか」
そう言って、獏男はわざとらしく舌なめずりをした。
「お前みたいなクズ野郎に、僕のイメージを食わせてやるもんか」
「うるせえよ」
獏男の靴の先が腹部に減り込んだ。「ぐふっ」とくぐもった息が漏れてしまう。
「さて、お前のイメージはどんなもんかな……おっ!」
獏男は目を見開いた。
「桜のためにさぞかし甘ったるいイメージが詰まっているかと思ったら……俺好みの辛いイメージじゃねえか。これは冒険活劇を読んでいやがったな」
口元でにやりとほくそ笑む。
「やめろ、食うんじゃない……」
「うるせえな。俺にその激辛冒険活劇のイメージ、食わせろよ」
そう言って、獏男は大きく口を開いた。すると僕の頭から赤色の粒子が漂い、彼の口元に吸い込まれて行った。彼はバクバクと、咀嚼をする。
「くぅ~、良いスパイス利かせてんじゃねえか。凄まじい想像力だな。こりゃ、桜がハマるのも納得だぜ」
大層ご機嫌な様子で、獏男は僕のイメージを食って行く。バクバク、バクバクと。
「ああ、うめえ、うめ……」
ふいに、獏男の表情が固まった。至福の顔から一転、まるで苦虫でも噛み潰したような渋面となった。
「に……苦えぇ! 何だこれ、ぺっ、ぺっ!」
今しがた食べたイメージを地面に向かって吐き散らし、獏男はきっと僕を睨む。
「おい、テメェ。何を仕込みやがった!?」
その問いかけに対して、僕は含み笑いで答えた。
「……だから食べるなって言ったのに、僕の言葉を無視したお前の責任だぞ」
「良いから何を仕込んだか答えやがれ!」
すっかり怒り狂った獏男は、血走った眼で僕に詰問してきた。
「今しがたお前が食したのは、『激辛冒険活劇~ほろ苦い青春模様を包み込んで~』だ。お味はいかがだったかな?」
「だから苦いって言ってんだろうが! ていうかほろ苦いどころじゃねえ、激苦じゃねえか!」
激昂する獏男に対して僕は至って冷静だった。彼が食べたのは僕のこれまでの青春。苦渋を舐め続けた日々。小学生から現在に至るまでの僕の軌跡。その一部を彼好みの辛口イメージで包み込んで。そして案の定食い付いたのだ。
「いやー、お前には感謝するよ。僕のほろ苦い青春模様を食ってくれたおかげで、嫌な記憶が消えてくれたよ。いやはや、何てお礼を言って良いか分からないね」
「うるせえ、黙れ! あー、苦ぇ! おい、何とかしやがれ!」
喚き散らす獏男を見て僕は嘆息した。ズボンのポケットから一冊の文庫本を取り出す。
「仕方ないな。今から僕がこの恋愛小説を読んで苦いイメージを相殺できる甘いイメージを用意してやる」
「じゃあ、早く用意しやがれ!」
「ただし、そのためには条件がある」
「何だよ!?」
僕はちらりと、獏女の方を見た。
「彼女に対してきちんと詫びろ。そうすれば、その苦みを相殺させてやる」
獏男は一瞬きょとんとして、すぐに目を怒らせる。
「ふざけんじゃねえ! 何で俺が桜ごときに謝らなくちゃいけないんだよ!?」
「お前は彼女を襲い肉体的、精神的に傷付けた。その罪は重い。だから、謝れ」
「ハッ、お断りだ!」
尚も拒否をする獏男に冷たい視線を注ぎ、吐息を漏らす。
「そうか、じゃあお前はその苦みに悶え続けろ。言っておくが僕が味わった青春の苦みは、そんじょそこらの冴えない奴らの比じゃないぜ」
わざとらしくニヒルな笑みを浮かべ、僕はその場から立ち去ろうとした。
「あ、ちょっ……ま、待てよ!」
すると、背後からうろたえた叫び声が聞こえた。振り向けば、獏男が焦りの表情を浮かべている。
「何だ? お前は彼女に謝る気が無いんだろ? だったら、僕はその苦みからお前を助けてやらない」
「……っ! わ、分かったよ……」
「ん、何がだ?」
「だから、そいつに謝ってやるって言ってんだよ!」
叫び続けたせいか、獏男は肩で大きく息をしていた。僕は彼に正対し、じっと見つめた。
「分かった。じゃあ、早速謝ってもらおうか」
僕が言うと、獏男は片頬を歪めた。先ほど食した苦いイメージも相まって、苦渋の表情を浮かべる。彼は獏女にちらりと視線を向けた。
「……悪かったよ」
ふて腐れたような口調で言った。
「おい、これで良いだろ?」
「ダメだ」
「あぁ?」
「僕はきちんと詫びろと言ったはずだ。それが相手に対して謝る態度か? きちんと真っ直ぐに相手を見て、しっかり頭を下げろ」
「テメェ……!」
獏男は一瞬拳を握り締めるがまだ口いっぱいに広がる苦い味によって、力無く解かれた。
「さあ、謝るんだ。ここで謝ることができなければ、お前は終わりだ。色々な意味でな」
獏男は凄まじい目つきで僕を睨む。しかし、僕は動じない。毅然とした姿勢を崩さない。ただ静かに、その挙動を見つめている。
しばらくの間、獏男は苦渋の顔付きでその場に立ち尽くしていた。だがそれから、ようやく顔を上げて獏女へと歩み寄った。彼が歩み寄ると、彼女は少し強張った顔になる。二人が向かい合うと、その場が緊張感に包まれた。
「……悪かった」
ぼそりと、獏男は言った。
「お前に対して嫌な思いをさせて、悪かった」
そう言ってから、獏男はゆっくりと何か大きな抵抗に遭うようにして、頭を下げた。獏女はそんな彼を、半ば呆気に取られたように見つめていた。
「……だそうだ。おい、獏女。お前はこいつをどうする?」
半ば呆然と事態を見つめていた獏女は、きゅっと唇を引き結んで黙考した。
「……私は小さい頃から彼にいじめられて、辛い思いをいっぱいして来ました。正直に言って、彼のことが怖くて、苦手で、嫌いでした」
やがて静かに、獏女は口を開いた。獏男は瞳を歪める。
「でも……こうやってきちんと謝ってくれましたから、今回の件は許します」
顔を上げた彼女は、毅然とした面持ちで彼を見据えて言った。その様子を見守った後、僕は手に持っていた恋愛小説をさっと読み、手早く甘いイメージを作り出した。
「ほら、食えよ」
僕が言うと、獏男はどこか抜け落ちた表情で振り向き、細々とした口の動きで僕のイメージを食い始めた。恐らく、このイメージで僕のほろ苦い、いや激苦い青春のイメージは相殺されたはずだ。だが、彼はまだ浮かない表情をしていた。
「敬太郎さん、お怪我は大丈夫ですか?」
気が付けば、獏女がそばに来ていた。いたわるような眼差しを僕に向けている。
「ああ、問題ない。普通に歩けるよ」
ずれたメガネのブリッジをくいと押し上げ、僕は言った。
「では、帰りましょうか」
獏女が淡く微笑んで言うと、僕達は肩を並べて歩き出した。
「……待てよ」
その直後、背後から獏男の声が響いた。振り向けば、彼はまた固く拳を握り締めた。もしかしてやはり今の結果に納得が行かず、僕達を痛めつけてやろうと思っているのではないか。僕は警戒心を高めるが、ふと彼がどこか悲痛な面持ちでいることに気が付いた。
「何で俺が小さい頃から、お前をいじめていたか分かるか?」
突然、そのようなことを言い出した。問われた獏女は少し困惑した様子である。
「それは私が弱々しくていじめやすかったからでしょう? それから私のことが嫌いだったからでしょう?」
「違う……」
「違うって、じゃあ何でいじめていたんですか?」
少し苛立った様子で獏女は問い詰める。一方、獏男は次の言葉を紡ぐことに躊躇しているようだった。唇を強く噛み締めている。
「……好きだったからだ」
やがてぼそりと漏れた声は、非常にか細いものだった。
「え?」
「だから、お前のことが好きだったからだよ!」
獏男の叫び声が辺りの桜の木々を揺らした。言われた当人は元より隣に立つ僕もまた、目を丸くしていた。こいつ、まさか本当に……
「……私のことが好きだった? あなたが? 嘘ですよね?」
「こんな時に嘘を吐いてどうすんだよ」
「その好きっていうのは、友人としてですか?」
慎重な声音で獏女は尋ねる。傍から聞いていても、それは意地の悪い質問だと思った。
「違えよ。俺は女として、お前のことが好きだった。いや、今でも好きなんだ」
太陽はすっかり沈み、薄暗くなった空には月が昇っていた。その頼りない明かりが、この場を照らしている。
「……そうですか、初めて知りました」
獏女は静かに言った。獏男は強張った表情のまま、彼女を見つめている。
今さらであるが、僕はとんでもない現場に居合わされているのではなかろうか。図らずしも、男女の告白の場面に立ち会うことになるなんて。他人様の告白のシーンを覗き見たいという不純な野次馬根性を持ち合わせない僕にとって、今この状況は如何ともしがたい。このまま息を殺してドロンしようかと考えるも、僕に忍者的スキルが備わっている訳もなく、ただその場に立ち尽くしていることしかできなかった。
「正直に言って、驚きました。まさか、勝さんにそんな風に思われているとは知りませんでしたから」
「そうかよ」
「はい。それでお返事ですが……」
獏女が言うと、獏男の顔が一気に緊張感を帯びた。心底どうでも他人事なのに、なぜだか僕の心臓もドキドキしてしまう。僕も大概ピュアな男である。
「……後日改めて、という形でもよろしいでしょうか?」
彼女の提案を聞いて、獏男の顔が緊張から解放された。どこかホッと胸を撫で下ろすように肩を上下させた。僕もなぜだかホッとしてしまう。我ながら見事な感受性である。
「ああ、分かった。それで良い」
少しぶっきらぼうな口調で言うと、獏男はくるりとこちらに背中を向け、駆け足で去って行った。
二人きりになった僕達の間に、自然と沈黙が訪れた。この気持ちは何だろう。目の前で他人の他人による他人のための告白劇を見せつけられ、その片割れと今こうして並んで立っている。そういえば昔のテレビ番組で、大勢の前で告白をするという青春バラエティを見たことあるが、彼ら彼女らはよほどナルシスト、あるいはかまってちゃんなのだろうかと思っていた。今回の告白ではあくまでも僕一人が目撃者であるが、それにしたって告白っていうのはもっと人目を憚る行為ではなかろうか。つまり何が言いたいかと言うと、やるなら他所でやれ。僕の目の前でくだらない青春の一ページを実演するな。まあ演技では無かったが。獏男はあくまでも本気で告白していたのだが、それが余計に青臭くてむず痒い。
「敬太郎さん」
ふいに獏女が声をかけて来た。僕はなぜだかびくりと反応してしまう。それは彼女が告白をされた女というベールをかぶっているせいだろう。普段からそのしとやかな佇まいを盾に好き勝手に振る舞っている彼女だが、あのような告白された場面を見た後だと、なぜだか気を遣ってやらねばならないという気持ちが湧いて来る。誠に不本意ではあるが、まあそれもこれも僕の紳士たるゆえんだろう。そう、僕はとても紳士なのである。よし、これで全て納得いく結論が出た。
「何だ?」
「帰りましょうか」
月明かりに照らされて、獏女はしとやかに微笑んだ。その時、ほんの少しだけ彼女が色っぽく見えたのは、彼女が告白をされた女だからだろう。全く、いらん補正である。
⒕
「お前のことが好きなんだ、桜!」
「嬉しい、私もよ勝さん!」
互いに激しく求め合い、そして激しく抱き締め合った。そんな熱い男女を傍から見つめる僕。辺りは真っ暗な闇に包まれている。そんな中で彼女達にスポットが辺り、闇の一部と化している僕にまざまざとその光景を見せつける。だが、一つ確かなことがある。僕はその光景を見て、見せつけられて、何とも思わないのである。もちろん、「あ、くっついた」とかその程度の感情は抱くが、それも些末なものである。動かざること山の如し、とでも言おうか。高潔なる僕の精神はそのような男女の有様を見ても、ぴくりとも動かない。まあ、仮にここでエッチな行為にでも走れば、感情はともかくお股の辺りがほんのわずかばかり反応してしまうかもしれないが、まあさすがにそんなことをしない分別くらい彼らにもあるだろう。暗闇に佇む僕は、小さくパチパチと拍手を送った。あの人外カップルが、精々幸せな日々を送れますようにと。僕は紳士として当然の賛美を送った。それだけのことである。
◇
僕は基本的に真面目な学生であるが、止むを得ない事情、例えば二日酔いや予想外のハートブレイクショットによって疲労困憊した時、大学の講義を休むことがある。しかし、ひとたび出席をすれば、その場で眠りこけるなんて真似はしない。以前、キャンパス内で「いや、大学の講義なんて寝るための時間でしょ」とかほざいているアホ丸出しの「リア充」がいたが、僕は決してそんな真似はしない。大学の講義とは勉強をする時間である。当たり前のことだが。僕達は親に高い授業料を払ってもらっているのだ。勉強をするために。それにも関わらずその肝心の授業で眠りこけてしまうなど正に愚の骨頂。そのまま幸せの頂きから滑り落ちてしまえば良い。僕はその様を大いに笑って見ていてやろう。そう思っていた。
おもむろに顔を上げると、腕の手首に近い辺りが痺れるように痛いことに気が付いた。そして、普段は凛々しく締まっている僕の口元から、あろうことかよだれが垂れていたのだ。そして、目は軽くひりつくような感覚がある。これらの状況証拠から察するに、僕は居眠りをしていたのだろうか。いや、まさかこの僕が。愚かな「リア充」と同等の下等な行為に走ってしまうなどあり得ないことだ。しかし、今しがた確認した証拠達は、「いや、あんた居眠りしていたよ」と語りかけて来る。まあ、僕の錯覚であるが。しかし、胸の内に激しい自己嫌悪の念が湧いているのは事実だ。つまり僕が居眠りをしていたことも、どうやら事実のようだ。
時計に目をやれば、時刻はちょうど二コマ目の終了時間を差していた。講義をしていた教授も終わりの合図を出し、学生達は席から立ち上がってぞろぞろと講義室から出て行く。いつもなら僕は真っ先にこの有象無象が蔓延る空間から脱出を試みるのだが、今はただ虚ろな脳みそでぽかんとしていた。しばらくそうしている内に、誰もいなくなっていた。まあ、普段から僕の周りには誰もいないから問題ない、などとのんきに自虐っている場合ではない。ふいに意識を覚醒させた僕は席から立ち上がり、講義室から飛び出した。普段から理知的でクールで落ち着いている僕はキャンパスを走ることは無い。だが、今は猛烈な勢いで走っていた。呆けていたことで、電車の時刻が迫っているのだ。僕は息を切らせながら精一杯走った。先日受けたダメージのせいでその走りも鈍い。情けなくも涙がこぼれそうになったが、命からがら電車に乗り込むことができた瞬間、「おお、神よ」と口走ってしまう僕は大概純粋ボーイである。慶応ボーイよりも価値が高いと自負している。
ガタンゴトンと電車に揺られること十分、僕のアパートの最寄り駅に到着する。そこから歩くこと十五分、僕のアパートにたどり着いた。鞄を床に放り投げ、ベッドに仰向けに寝転がった。瞬間、僕は久方ぶりに心に平穏を取り戻した。たばこのヤニによって侵されていない白い天井を見つめていると、僕の乱れた心が優しく研ぎ澄まされるようであった。昨今、ひきこもりがどうのこうのと言われているが、僕は彼らを責めることはできない。自分の部屋とはこの世で一番居心地の良い場所であり、最高の城なのである。特に男は自分の世界観を大事にする生き物であるから、その城の城主として君臨し続けたいと思ってしまう。その結果として、ひきこもりになってしまうのだろう。外界に出て汚れることに嫌気が差し、ただひたすらに自分の部屋で自己を高めているのだ。僕はそんな彼らに一種の尊敬の念を抱いてしまう。少なくとも、愚かな「リア充」よりは遥かに。僕も文学まみれの自室にひきこもってみたいと思ったこともある。しかし、僕はこの汚れた世界にまだ少なからず希望を見出し、捨てたくないと思っている憶病者。だから、彼らのように思い切ってひきこもることはできない。常日頃から己を清廉高潔な紳士と謳っている僕も、何だかんだで未熟者なのである。
時刻は昼を回っているので、生理現象によって腹が鳴る。胃袋がもう空っぽですよと泣いて告げて来る。僕としてもそろそろ何かを食したい所であるが、如何せんベッドに背中が貼り付いてしまっているようで、中々起き上がることができない。この倦怠感は非常によろしくない。しかし、これはある種の好機かもしれない。この機に僕も遥か遠くアラブ国の「断食」に挑戦してみようかしらん。ただ、こんなお手軽感覚で始めたなんて言ったら、本気でやっている彼らに殺されかねないが。まあとにもかくにも、今の僕は心身ともに疲れ切っており、泣き喚く胃袋ちゃんに食を提供してやることもできない体たらくっぷりなのである。こんな生活が許されてしまうから、大学生は「半ニート」あるいは「ニート同然」などと揶揄されてしまうのだ。
腹の中が空っぽなことで、むしろ精神が研ぎ澄まされて来た僕はそんな風に自虐っていたのだが、ふいにピンポーンと玄関のチャイムが鳴ったことで、心地の良い自虐りタイムは終了した。今の僕の状態からして、当然ながらすぐにベッドから起き上がり、「はーい、どちら様ですか?」などと出て行くことはできない。そのため、僕は即刻居留守を行使することに決めた。
さて、そうと決まれば早速自虐ピンポーンろう。僕は未熟者ピンポーンなのだとピンポーン自覚ピンポーンしよう。その上で、僕は大いなるピンポーン可能性を秘めたピンポーン男ピンポーンなのでありピンポーン、ピンポーン、ピンポーン……
「……うるせぇ!」
ベッドにべったりと貼りついていた背中を引き剥がし、僕は猛烈な勢いで玄関先へと向かう。その勢いのままドアを開け放った。僕の崇高なる自虐りの時間を邪魔した罪、何人たりとも許すまじ!
「あ、敬太郎さん。こんにちは、やっと出て来てくれましたね」
にこやかな笑みを浮かべてそこに立っていたのは、獏女だった。束の間呆気に取られた僕は、すぐに顔をしかめて彼女を睨む。
「何の用だ。生憎、今日の僕は図書館に行く気力は無いから、お前に食料を与えてやることはできないぞ」
「まあ、そうなんですか。分かりました、では図書館には来ていただかなくても結構です」
今日の獏女は妙に物分かりが良い。いつもであれば、もっと執拗に絡んで来る所だが。
「その代わり、敬太郎さんにお願いがあります」
「断る」
「まだ何も言っていません」
「断る」
「ですから、まだ何も」
「断る」
僕は強固な姿勢を崩さない。やはりこの獏女は一筋縄ではいかない。図書館へと行かない代わりに、どんな面倒事を頼まれるか分かったものではない。この女と議論を交わしても仕方のないことである。だから、僕はシンプルに断るのが最善の策だと判断した。頑として断り続ける僕に対して、獏女は小さく頬を膨らませた。
「実は私、今日は図書館の仕事がお休みなんです」
そして勝手に話し始める。
「それで、これから勝さんと会う約束をしているんです」
僕はかすかに眉が動くのを感じた。僕の目の前で青臭い告白劇をやらかした彼女達は、めでたく付き合うことになったと、そういうことだろうか。
「それは良かったな、おめでとう。じゃあ、僕は寝るから。おやすみ」
ドアを閉めようとした時、獏女の手がそれを押し留めた。
「待って下さい。何か勘違いをしていらっしゃいますか?」
「勘違いも何も、お前達は晴れて付き合うことになったんだろう?」
僕が言うと、獏女は目を見開いた。
「誰もそんなこと言ってません。私はこれから、勝さんに告白のお返事をしに行く所なんです」
少し不機嫌な様子で獏女は言った。
「ああ、そうなのか。まあ、健闘を祈っているよ。それじゃ」
僕は紳士として励ましの言葉を送り、そのままドアを閉めようとした。すると、またしても押し留められてしまう。
「ですから、お待ちください」
「何だよ、もう。僕は疲れているんだ、休ませてくれ」
「その……敬太郎さんも一緒に来て欲しいんです」
「は?」
「私と一緒に、勝さんと会って欲しいんです」
そう言った獏女を、僕はしばらく呆然と見つめていた。
「露骨に嫌な顔をしていらっしゃいますね」
獏女は眉をひそめた。当たり前だろう、何が悲しくて他人の告白劇にまたぞろ巻き込まれなくちゃならんのだ。こいつは僕がそんなに暇人だと思っているのか。だとしたら、何とも失敬な話である。僕は常日頃から己を高める文化人としての活動に忙しいのだ。主に本を読んだり、夢想したり、そして無双したりと忙しいのである。そんな僕を捕まえて告白のお返事を一緒に聞いて下さいなど、言語道断である。
「断る。そう言うことは、自分でけじめを付けろ」
「敬太郎さんがおっしゃることは最もです。けれども、どうしても一緒に来て欲しいんです」
「そんなこと言われても困る」
「それも承知の上です」
「お前、太い奴だな。前から知っていたけど」
「そうです、ごめんなさい。私はとてもわがままな女です。だから、敬太郎さんにこんなお願いをしているんです」
黒い瞳で獏女は真っ直ぐに僕を見つめて来る。その瞳がかすかに潤んでいるのを見て、僕はわずかにたじろいだ。
「そもそも何で僕に付いて来て欲しいんだよ?」
僕は尋ねる。
「それは……情けない話、私はまだ彼に対してトラウマを抱いています。一人で彼と向かい合ってきちんと自分の気持ちを伝えることができるか、あまり自信がありません。ですから、敬太郎さんにそばにいてもらいたいんです。お願いします」
そう言って、獏女は深々と頭を下げた。重力でさらりと垂れ下がった彼女の黒髪を見て、僕は小さくため息を漏らす。
「……付いて行くだけだ」
「え?」
「僕はただ付いて行くだけだ。それ以上、何もしない。それともお前は、告白の返事さえ僕に代弁させようって腹じゃないだろうな?」
僕が問いかけると、少し呆気に取られていた獏女は、小さく首を振った。
「いいえ、告白の返事はきちんと自分でします。敬太郎さんは、ただ私のそばにいてくれるだけで良いんです」
切実な様子で獏女は言った。こいつは僕にとって鬱陶しいことこの上ない相手であるが、ここまで頼まれて無下に断ることもできない。そんなことをするようでは、紳士の風上にも置けない。
「……分かった、付き合ってやるよ」
僕が答えると、それまで不安げだった獏女の表情がにわかに明るくなった。
「本当ですか? ありがとうございます」
弾む声で言う彼女を見て、僕はまたぞろため息を漏らした。
◇
電車に乗り、大学とは反対方面へと向かう。十分ほど揺られていると、普段僕が利用する駅よりも大きな「枕木駅」へと到着した。新幹線が通っており、また駅ビルも設置されている。毎日のように多くの人々が往来し、賑わっているスポットだ。我が枕木大学の学生達も多くがこの駅前を利用している。だが、僕はほとんど訪れない。よほど何か買い物があったり、また遠出をしたりする時以外はこの駅前に近付くことはない。理由は言うまでも無いだろう。ここもまた悪しき「リア充」共の巣窟なのだ。犬も歩けば棒に当たると言うが、僕が歩けば「リア充」に当たってしまう。全く以ていらない運命である。そういった経緯もあり、僕はどこか落ち着かない心持ちでいた。
「ていうかそもそも、何であいつはこんな人の多い場所を選んだんだ?」
駅前広場のベンチに腰を掛けて僕は言った。普通であれば告白の類はもっと人目の付かない所でするべきだろう。やはり人に見せたがりのナルシスト野郎なのだろうか。
「さあ、私にもよく分かりません」
隣に座っている獏女は言った。
「お前は嫌じゃないのか? こんな所で告白の返事なんかさせられることが」
「大丈夫ですよ。私の答えはもう決まっていますから」
獏女はやんわりと微笑んだ。正直まともな答えになっていないが、これ以上追及するのも野暮な気がしたので、僕は大人しく口をつぐむことにした。
それからしばらく時間が経過した後、駅の構内から見覚えのなる人影が姿を現す。派手な金色の髪にふてぶてしい目つきをした男が、こちらに近付いて来た。
「よう。来たぜ、桜」
パーカーのポケットに手を突っ込んだ状態で、獏男は言った。獏女の後ろに僕の姿を見つけるとかすかに目を見開くが、また視線を彼女に戻した。
「こんにちは、勝さん」
ベンチに佇んだまま、獏女はしとやかに答える。
「じゃあ、早速だけど答えを聞かせてもらおうか」
どこか不敵な笑みを浮かべつつ、獏男は言う。一方、獏女は小さく頷き、ベンチから立ち上がった。
「正直な所、勝さんが私のことを好きだと聞いて驚きました。だから自分の気持ちに整理を付ける意味でも、一晩じっくりと考えさせていただきました」
「そうか。それで俺と付き合う気になってくれたのか?」
口の端を吊り上げて、獏男はにやりと笑った。こいつ、どれだけ自信過剰なのだろうか。あるいは、それだけ彼の中で勝算があるということだろうか。
「ええ、そうです」
次の瞬間、獏女の口を突いて出た言葉を聞き、僕は目を丸くした。
「私はこれから、勝さんとお付き合いをしたいと思っています」
獏女が言うと、獏男は僕以上に大きく目を見開いていた。
「お前、本気で言っているのか?」
「ええ、もちろんです。私は勝さんとお付き合いをします」
すると、獏男は膝を曲げて拳を握り締めた。
「よっしゃ!」
先ほどまでの余裕綽綽な態度はどこ吹く風。めちゃくちゃ喜んでいらっしゃる。一方僕は、目の前の、他人の他人による他人のための告白劇にまたしても巻き込まれてしまったことで、心中穏やかではなかった。人の不幸は蜜の味なんてよく言うが、まさしくその通りである。他人の幸福ほど、見ていて苛立つものもない。だから今の僕は、こんなにも不愉快な気分なのだ。こんなことなら、やはり獏女の誘いなど断っておけば良かった。このまま僕は将来二人が結婚することになった際、婚姻届けに印鑑を押す役回りを頼まれてしまうのだろうか。はたまた、仲人を頼まれてしまうのだろうか。どちらにせよそんな未来を想像しただけで、大いなる憂鬱に苛まれてしまう。
「じゃあ桜、早速遊びに行こうぜ。今日はそのためにこの場所に来たんだからな」
「ええ、そうですね。遊びに行きましょうか。私達はお友達ですから」
獏女はさらりと言った。
「え……?」
獏男は呆けた顔で彼女を見つめる。
「私はこれから、勝さんとお友達としてお付き合いしたいと思っています。せっかく再会できたのですからこれからは昔のようにいがみ合う関係ではなく、良き友人としてお付き合いしたいと思っています。それではダメでしょうか?」
「いや、ダメっていうか……えぇ?」
獏男は明らかに動揺していた。それに感化されたせいか、僕も驚きを隠せずに獏女を見ていた。
「つまり、お前は俺と男女の付き合いをするつもりはない……ということか?」
慎重な声音で、獏男は問いかける。獏女は瞳を閉じた。
「はい、申し訳ありません。私はあなたと男女のお付き合いをするつもりはありません」
直後、獏男は巨大な弓で射抜かれたようにその身を固めた。
人の不幸は蜜の味。先ほど僕はそう言ったが、大して美味いとは思わない。まあ、それは彼らが人ではなく獏だからかもしれないが。
獏女に見事なまでにフラれてしまった獏男は、がくんと頭を垂れた。その両肩がぷるぷると震えているのを見て、僕はわずかばかりたじろいだ。まさかフラれた腹いせにこの場で暴れ出すんじゃないだろうか。そんなことになればエラい騒ぎになってしまうのは目に見えている。こうなれば、僕の巧みな話術で彼を説き伏せるしかない。僕は意を決し、哀れなフラれ男に歩み寄ろうとした。
「……ハハ」
ふいに、獏男の口から乾いた笑い声が漏れる。
「まあ、そりゃそうだよな。昔散々お前を苛めていた奴がいきなり告白しても、断られて当然だよな」
自嘲するように笑い、獏男は言う。
「いいえ、それは関係ありませんよ」
「え?」
「私とあなたは先日の一件で和解しましたから。そんな過去のことはきれいさっぱり、水に流してしまいました」
「じゃあ、何で……」
どこかすがるような目で獏男が問いかける。対する獏女は、口元に微笑を湛えた。
「私には好きな人がいます。だから、あなたとはお付き合いできません」
突き放す訳ではなく、あくまでも諭すように獏女は言った。対する獏男は、唇を噛み締めた状態で顔を俯けてしばらく沈黙していた。その沈黙の時間が、僕の胃袋に大いなるストレスをかけていた。全く以て勘弁して欲しい。
「……そっか。なるほどな」
獏男は小さく吐息を漏らし、おもむろに顔を上げた。その顔は、フラれた割にさっぱりとしていた。
「桜、やっぱり俺はもう帰るよ。何か疲れちまった」
「そうですか。では、また機会がありましたら遊びましょう。お友達として」
「そこ、何度も強調しなくても分かっているから」
しかめ面で言った後、獏男はふっと笑みを浮かべた。
「じゃあな、精々仲良くやれよ」
去り際、彼はちらりと僕に視線を向けた。その意味はよく分からなかったが、僕は黙って彼の背中を見送った。
「……さてと」
獏女はベンチに座っている僕に振り向いた。
「敬太郎さん。せっかく駅前に来たのですから、一緒に遊びましょう?」
「は? 嫌だよ。ここは悪しき『リア充』共の巣窟だ。僕のような崇高な文化人がそんな所で遊んでたまるか。僕は家に帰って本を読む」
「そんなひきこもりみたいなこと言わないで下さい」
「ひきこもりをバカにするんじゃない。彼らには彼らなりの哲学というものがあってだな……」
語る僕の右手を掴んで、獏女は強引に立ち上がらせた。
「さあ、行きましょう」
「あ、おい。ちょっと待てよ」
僕は必死に抗うも、その腕力にぐいぐいと引っ張られて行く。
ああ、やっぱり来るんじゃなかった。
激しく後悔をするばかりだった。
⒖
包みを解き弁当箱のふたを開けると、今日もまた色とりどりのおかず達が僕を出迎えてくれる。これが愛しの恋人が作ってくれたお弁当であれば、桃色成分が大量投下され、恋の超特急エクスプレスは天を貫く勢いで昇って行くことだろう。しかし、これは生憎そんな素敵な恋人が作ってくれた素敵な弁当ではない。僕の隣で幸せそうにスイーツを頬張っている性悪獏女の母親が作った弁当である。それを僕は食べさせられているのだ。いや、まあその味は中々に美味であるため、素敵じゃないなんて物言いは失礼に当たってしまうが。
「うーん、美味しいです」
そんな僕の葛藤をよそに、自分は甘いスイーツを食べて悦に入っている。そんな獏女の額を思い切り引っぱたいてやりたい衝動に駆られるが、食事中に行儀が悪いのでそれは後回しにしてやることにした。決してしっぺ返しが怖い訳ではない。
「そういえば敬太郎さん」
生クリームがたっぷり乗ったプリンを口元に運びながら、獏女が声をかけて来た。
「何だよ?」
僕は不機嫌な声音で返事をする。
「この前読んでいらした恋愛小説、あれはとても素晴らしかったですね」
微笑みながら獏女は言う。それに対して、僕は露骨に顔をしかめた。
「何を言っているんだ。僕はお前にイメージを食われているんだから、その内容を覚えているはずないだろうが」
棘のある口調で僕が言うと、獏女はハッとした顔付きになる。
「あ、そうでしたね……」
「そうだ。お前は今さら何を言っているんだ」
僕は辟易とした気分になり、それから獏女の顔を見ることなく弁当をつついていた。
だから、彼女の様子が変わったことに気が付かなかった。
◇
週二回、ゼミの日は図書館に行って獏女にイメージを食わせるという責務からは免れる。だが借りていた本の返却期限がゼミのあった今日までということで、僕はしぶしぶ図書館に赴くことになったのだ。勘違いしてもらっては困るが僕は本が好きであり、当然図書館も好きである。本来なら嬉々として向かう所であるが、僕を憂鬱にさせるのはあの性悪獏女の存在である。全く、どこまでも忌々しい女だ。
日が傾き薄暗くなった公園内を進んで行く。図書館にたどり着くと、その入口付近で一度立ち止まる。契約に基づけば今日は獏女にイメージを食わせなくても良い日である。しかし、先日ゼミの日に僕の下へ押しかけイメージを食わせろと要求した奴である。のこのこやって来た僕を見てこれはしめたと思い、「ねぇ、敬太郎さぁん」などとまた甘く粘っこい声で僕のイメージを食わせろと要求して来るに違いない。前回は仕方なしに流されてしまったが、僕は強固な意志を持つ孤高の戦士である。二度もそんな失態を演じることはしない。断固拒否してやる。図書館内であれば、奴が本来の力で僕を脅しにかかることもないだろう。僕は自らの気持ちを固めると、入口の扉を開いた。
館内に入ってすぐ、カウンターに目をやった。そこに獏女の姿は無かった。まずホッと一息を吐く。だが油断ならない。奴は館内で本の整理をしている可能性がある。見つかる前にさっさと本を返却してしまおう。僕はカウンターに向かった。
「返却ですね、ありがとうございます」
妙齢の女性職員が対応してくれた。彼女は僕が差し出した本を受け取り、軽くチェックを済ませる。
「はい、返却ありがとうございます」
そう言われると、僕は会釈をしてその場から去ろうとする。
「あ、君って桜ちゃんの彼氏よね?」
ふいにそのようなことを言われ、僕は思わずぐりんと顔を向けてしまう。
「はい?」
僕は即座に否定しようと思ったが、前回獏女の彼氏ということで館長から家の住所を聞いた経緯もあり、それはできなかった。無言のまま立ち尽くす。
「桜ちゃんね、今日もお休みしているの。知っているとは思うけど」
「いえ、それは知りませんでした……」
「あら、そうなの? 桜ちゃん、ついこの間もお休みしていたし、最近体調があまり良くないみたいね。何か悩み事があるのかもしれないわ。あなたも彼氏として相談に乗ってあげてね」
「はあ……まあ、できることはします」
「お願いね」
僕は前に向き直ると、図書館を後にした。薄暗くなった夕暮れの空を見上げる。
あの獏女、また欠勤しているのか。全くいくらバイトとは言え、仕事を舐めているんじゃないだろうか。まあ、前回は止むを得ない事情だったから仕方ないが。しかし、今回はなぜ休んでいるのだ。僕としては奴がいなかったおかげで万々歳だが、同じ職場の人達は少なからず迷惑を被っているのではないだろうか。とは言え、僕は部外者である。いちいち他人様の職場事情に口を挟むつもりはない。大方、獏女は調子に乗って甘いスイーツを食べまくり、そのせいで気持ち悪くなって吐き気を催し、休んでいるのだ。そうに違いない。結論付けた僕は歩みを進めて公園を後にした。さて、これから家に帰って冷えた日本酒を片手に、お気に入りの本でも読んで至極のリラックスタイムを満喫しようじゃないか。日々孤高の戦士として日常を生き抜いている僕は当然その権利を持っている。だから獏女とは違い、そんなことをしても体調を崩したりはしない。ほんの少し、頭痛に悩まされるくらいだろう。
そんな風に思考を回しながら歩いていると、僕はふと帰り道の光景がいつもと違うことに気が付く。なぜだろう。木々の伐採や、道路工事、新しい建築が進んでいるのだろうか。いや、そんなことはない。じゃあ、なぜだろうか。宵闇に包まれ始めた周りの光景に目を凝らし、僕はようやくその訳を悟った。これはいつもの帰り道ではない。だが、僕はこの道を知っている。それは先日、止むを得ず、不本意ながらも獏女の家を訪れた時に通った道である。つまり今の僕は、獏女の家に向かっているということになる。一旦足を止めた。
ちょっと待て、なぜ僕は奴の家に向かっているんだ。確かに奴が休んでいると聞いて、ほんの少し、おちょこについだ日本酒の水面程度には動揺したことは認めよう。だが、それでもこんな時間に僕がわざわざ奴の家を訪れる理由はない。何より性質が悪いのは、僕が無意識の内に奴の家に足を向けていたことである。なぜだ、確かに奴の力に多少なりとも怯えている僕だが、だからと言ってビビッて服従するくらいなら死んだ方がマシだと思っている。だから、彼女のためにわざわざその家に赴くなんてことはしないはずである。
アホらしい。僕は踵を返して元来た道を引き返そうとする。だがここまで来ると、獏女の家まであと少しなのである。せっかくここまで来たのだから、顔くらい見てやってもいいのではないだろうか。いやいや、僕は何を考えているんだ。僕と奴は決して付き合っている訳ではない。そもそも奴は人外であり、まともな人間である僕が付き合う訳がない。
帰ろう。お家に帰ろう。何ならでんぐり返しで帰ってやっても良い。いや、成人した男がそんなことをしたら痛すぎる。アスファルトの上でやることで実際に体も痛くなってしまう。
一旦落ち着こう、今の僕の思考はおかしい。一つ深呼吸をした。すると、ある妙案が頭に浮かぶ。原因は定かではないが奴はまたぞろ体調を崩している。前回はその理由が理由なだけに同情して、あまつさえ助けるような真似をしてしまった。だが、今回は奴の日頃の不摂生が招いた末の体調不良であろう。僕が同情してやるいわれはない。つまり奴が体調を崩しているこの時、契約の破棄を突き付ける絶好のチャンスなのだ。いつもなら執拗に拒絶をするだろうが弱っている今この時なら、奴を押し切って契約を破棄できる可能性が大いにある。そうと決まれば早速敵陣へと向かおう。そんな僕を卑怯者と思うなら大いに笑ってもらって結構である。そんなの屁でもない。あの獏女から解放されるなら、全くもって余裕綽綽である。僕は大股で獏女の家に向かった。
獏女の家に着いた頃、辺りはすっかり暗くなり、夜になっていた。
今さらであるがいくら憎き敵の自宅とはいえ、こんな時間に押しかけるのは失礼に当たってしまうのではないだろうか。常識をしっかりと弁えている紳士たる僕が、そんなことをして良いのだろうか。情けないことに敵陣を前にして、僕はうろうろとしてしまう。
「あら、敬太郎くんじゃない」
その時、ふいに声がして僕はびくりと肩を震わせた。体が硬直し、ぎこちなく首を動かす。街灯に照らされて姿を現したのは一人の女性だった。
「あ、あなたは……」
「こんばんは。どうしたの、こんな時間に。家に何か用かしら?」
優しく微笑みながら尋ねてきたのは、獏女の母であった。
「あ、いえ、その……獏お……桜さんが体調を崩されていると聞いたので、調子はどんなものかと見に来たのです」
情けないことにしどろもどろになって言うと、獏母はその表情に喜色を浮かべた。
「まあ、本当に? 敬太郎くんは本当に優しいのね」
前回会った時、獏母は僕のことを「敬太郎さん」と呼び、また敬語口調であった。それなのにいきなりフランクな話し方になっている。いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「いえ、そんなことはありません。ただ、やはりこんな時間にお邪魔するのは失礼ですし、僕は帰ります」
早口でまくし立てて、踵を返そうとした。
「そんなことないわよ。敬太郎くんが来てくれたら、桜はきっと喜ぶわ」
しとやかな声で、獏母は僕を引き止めた。
「そ、そうですか?」
「ええ、そうよ。ご近所さんに回覧板を回して、今から夕食を作ろうと思っていた所なの。良かったら、敬太郎くんも食べて行ってちょうだい」
「いや、そんな。余計に悪いですよ」
「良いから、来てちょうだい」
獏母に手を掴まれて、僕はぐいぐいと家の中に引っ張られて行った。この強引な所、やはり親子である。
「じゃあ、私は夕食の支度をするから。敬太郎くんは桜の所に行ってあげて」
「あ、あの」
「それじゃ、よろしくね」
軽くウィンクをして、獏母は去って行った。階段前に置き去りにされた僕は、仕方なくその階段を上って行く。「さくら」とプレートに書かれた部屋を前にため息を漏らす。いよいよ退路を断たれてしまった僕は仕方なくノックをした。だが、返事はない。不審に思った僕は再びノックをするがやはり返事はない。数秒間固まっていたが、やがて「……はい」と掠れた声が中から聞こえて来た。僕は部屋のドアを開けた。そこには獏女がいた。だが、いつものようなしとやかで軽やかな様相は崩れ、痩せこけた印象を受けた。顔は青ざめており、ぐったりとテーブルに寄りかかっている。
「あ、敬太郎さん……」
ひどく掠れた声で獏女は言った。その様は、以前獏男に襲われた時よりも衰弱しているように見えた。
「おい、どうしたんだよ?」
僕は思わず問いかけてしまう。
「本を……読んでいたんです……」
「え?」
言われてテーブルに視線を向けると、彼女の前には一冊の本が置かれていた。その表紙とタイトルから察するに、彼女好みの甘い恋愛小説である。
「お前、まさかそれを自分で読んでいたのか?」
「はい、そうです……」
獏女は力なく頷く。
「けど、獏は文字を読むことが苦手なんだろ? だから、僕のイメージを食っていたんじゃないのか?」
「ええ、そうです。特に私達のような若い世代の獏は、大量の文字を読むと吐き気を催してしまいます。現にたった十数ページを読むために、九回は吐きました」
僕は呆気に取られた。
「お前はバカか? なぜそんな無謀な真似をした?」
その問いかけに対して、獏女はしばらく口を閉ざしていた。
「……私がイメージを食べたら、敬太郎さんは読んだ本の内容を忘れてしまうでしょう?」
「ああ、全くはた迷惑な話だ」
「ですよね。だから、どんなに素晴らしい本を読んでも、その内容について一緒に語り合うことが出来ません」
ふいに寂し気な表情になって、獏女は言った。僕はかすかに目を見開く。
獏女はベッド付近に置いてあった鞄に這い寄り、そこから一冊の本を取り出す。それはテーブルの上に置いてある物と同じであった。
「これは敬太郎さんの分です。この本を読んで、それから感想を言い合いましょう」
獏女は僕に本を渡すと薄ら微笑み、またテーブルに向かった。小さく呼吸をして、何か大きな敵に挑むような覚悟の目つきで本を開いた。それから数秒後、その表情がみるみるうちに悪くなって行くのが分かった。
「……ダメです」
獏女はすっくと立ち上がると、勢い良くドアを開け放って部屋から出て行った。ドタドタと階段を駆け下りて行く。階下の方でまた別のドアが勢い良くバタンと開閉される音が聞こえた。そこから先は耳を澄ますまい。お互いに得をしないだろう。
それから数分後、開け放たれたドアの壁際から、獏女がその青ざめた顔を覗かせた。そのあまりの真っ青っぷりに、彼女を毛嫌いする僕も「おい、大丈夫か?」と声をかけてしまう。
「は、はい……本日記念すべき十回目の嘔吐をして参りました」
「そんな報告はいらん」
「ですよね、ごめんなさい……あ、敬太郎さんも本を読んで下さいね」
獏女は言う。その本は三百ページぐらいあり、平均的な文庫本の厚さである。僕ならば二時間、いや一時間くらいで読み終わってしまうだろう。一方、獏女は今日一日、ずっとこの本を読んでいた。それにも関わらず、まだ十数ページしか読み終えていない。これは先が思いやられてしまう。僕は色々な意味で今すぐ帰りたくなったが、青ざめた顔で本を読んでいる獏女の姿を見て、仕方なしに本のページを繰り始めた。
大方の予想通り、僕は一時間ほどで本を読み終えた。ただ、それは僕の本を読むスキルが高いということもあるが、本の内容がとにかく素晴らしかった。ここ最近、獏女に言われるがままに甘い恋愛小説を読んでいたためにそのジャンルに関しては食傷気味であったが、それでもこの恋物語は素晴らしいと思った。おのれ獏女のくせに良い本を見つけやがって。内心で毒づきつつ、僕はちらりと獏女を見た。
「……はぁ、はぁ」
彼女は既に息も絶え絶えだった。ちなみにこの一時間の間に五、六回はトイレに猛烈ダッシュをしていた。その割にページ数はさほど重ねていない。これはいよいよ絶望的な状況になってきた。
「なあ、ちょっと良いか」
僕が声をかけると、獏女は青ざめた顔で振り向く。
「はい、何でしょうか……?」
「僕は今この本を読み終えた。だから、お前はそのイメージを食えよ」
「え?」
「その後に、また僕はこの本を読み直す。そうした方が、ずっと効率的だろ?」
我ながらよくできた提案だと思った。まあ、普通に考えればすぐに気が付くことなのであるが。とにかく、これで問題は解決するだろう。
「……それはいけません」
だが、予想に反して獏女は拒絶の反応を示す。
「は? 何でだよ?」
僕は怒り顔で問い質す。
「私は今回、あくまでも自力で本を読むと決めているんです」
「けど、今のお前のペースじゃいつ読み終わるか分からん。そもそも、こんなに吐き続けていたら衰弱して死んでしまうぞ」
「そうですね。では、夕ご飯を食べましょう。そろそろ支度が出来ているはずです」
獏女はよろけながら立ち上がろうとする。
「ダメよ、桜」
ふいに声がした。振り向けば、開け放たれたドアの前に獏母が立っていた。
「お母さん……」
「夕ご飯を食べても、どうせまた吐くんでしょ? そんなの勿体ないわ。私が腕によりをかけた夕ご飯は敬太郎くんに食べてもらうから、あなたは少し横になっていなさい」
獏母はたしなめるように言った。獏女は体調が優れないということもあるだろうが、母親には逆らえないようで、大人しくベッドに横になった。
「敬太郎くんは夕飯を食べてちょうだい」
「いや、やっぱり悪いですよ」
「そんなことないわよ。さあ、来てちょうだい」
しとやかに微笑む獏母を見て、僕はしばし思い悩んでから頷き、一階のダイニングへと赴いた。そこのテーブルには、色とりどりの料理が並んでいた。僕は獏母に勧められて、椅子に腰を下ろした。
「さあ、どうぞ召し上がって」
「あ、はい」
箸を手に取った僕は、恐る恐る料理の皿にそれを伸ばす。敷き詰められた瑞々しいレタスの上に乗っているからあげを一つ掴み、頬張った。ゆっくりと咀嚼する。
「お味はいかが?」
「あ、とても美味しいです」
「うふ、それは良かった。今、主人は出張中で不在なの。桜もあんな具合だから、遠慮せずにたくさん食べてね」
「ありがとうございます。でも、僕は小食なので……」
僕は申し訳なく思い首を縮めた。
「あら、でもいつもお弁当はきちんと完食してくれるじゃない」
「いや、それは……」
瞬間、僕は表情を止めた。
「え?」
「ここ最近、桜の代わりに私が作ったお弁当を食べてくれていたでしょ?」
くすり、と獏母は笑みをこぼす。
「な、何でそれをご存じなんですか?」
上ずった声で、僕は問いかける。
「桜はいつも私が作ったお弁当を残していたの。あの子はご飯よりも甘いスイーツが好きだから。でも、ここ最近はきれいに完食するようになっていた。あの子は自分が食べたなんて言っていたけど、敬太郎くんが食べてくれたんでしょ?」
「いや、まあ、その……はい、すみませんでした」
僕は俯いて俊と肩を落とした。
「何で謝るの?」
「いえ、お母さんを騙すような真似をしてしまって……」
「良いのよ、そんなこと。それに私はむしろ嬉しかったわよ。若い男の子が、私の作ったお弁当をモリモリ食べてくれて」
「男の子って……僕はもう二十歳を超えた男ですよ」
少しふて腐れた風に言うと、獏母はまたくすりと笑った。
「そうね、ごめんなさい。桜とお付き合いをしている男ですもんね」
「いえ、僕は彼女と付き合ってなどいません」
「あら、そうなの?」
「そうです。彼女とはあくまでも契約関係にあるだけです。それも仮の契約なので、直に解消されることでしょう。というより、すぐにでも解消したいです」
そこまで言った所でハッとした。親の前で堂々と獏女の悪口を言ってしまった。非常にばつの悪い感情に襲われ、顔を俯けてしまう。ちらりと獏母を見ると、しかし彼女は意外にも微笑みを浮かべたままだった。
「まあ、あの子はわがままだから。敬太郎くんも色々と付き合わされて大変かもしれないわね」
「いえ、まあ……はい」
「ふふ、素直でよろしい。けど、あなたは何だかんだであの子のわがままに付き合ってくれているんだものね」
「まあ、仕方なしにですけど」
「勝くんとの一件も、あなたが解決してくれたのよね」
「あいつそんなことまで話したんですか……」
僕は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「ええ。敬太郎さんは私のヒーローだって、喜んで話してくれたわ」
ヒーロー。そんな僕には到底似つかわしくない形容をされて、非常にむず痒い。
「だからね、敬太郎くん。あなたにお願いがあるの」
「はい、何でしょうか?」
「これからも、桜をそばで支えてあげて欲しいの」
やんわりと微笑んだまま、獏母は言った。僕はすぐに返事をすることが出来ず、固まってしまう。
「お断りします……って言ったらどうしますか?」
「それはそれで構わないわ。けど、あなたはきっと助けてくれる」
「随分と買い被られているんですね」
「ええ、私は大いにあなたを買っているわよ。いくら出したら、家の婿養子になってくれるかしら?」
「それお金で解決して良い問題じゃないでしょう? しかも婿養子かよ」
「うふ、敬太郎くんってばおもしろーい」
軽く手を叩いて喜ぶ獏母を見て、僕はわずかながらにイラっとした。やはり親子だな。
「さあ、敬太郎くん。冷めない内にたくさん食べてね」
「たくさんは食べられません。ほどほどにしておきます」
「くす、可愛い」
獏母は口元に手を添えて上品に笑う。僕のような気高き紳士を捕まえて可愛いなど、的外れなことを言ってくれる。褒めているつもりかもしれないが、それは侮辱に他ならない。僕は良い年をした男なのだ。可愛い男の子など当に卒業したのだ。
「あ、敬太郎くん。もっとからあげ食べてちょうだい」
「いや、あまり脂っこい物ばかり食べたら……」
「はい、あーん」
図らずしも、僕は久方ぶりに「はい、あーん」の脅威にさらされることになった。
やはり親子である。
◇
夕食を終えた僕は、ぐったりと背もたれに寄りかかっていた。食事とは本来栄養を補給する行為であるはずなのに、なぜ僕はこんなにも疲弊しているのだろうか。原因は分かっている。あの性悪女の母もやはり同様の気質を兼ね備えており、僕は良い様に翻弄して楽しんだ。その結果がこれである。全く、僕のような高潔な紳士をたぶらかすなど、とんだ悪女である。あのしとやかな笑みを剥いだらどんな顔を見せるのか。想像しただけでもゾッとしてしまう。これ以上この家にいたら、僕はどんな辱めを受けるか分かったものじゃない。早々に退散しよう。
「……じゃあ、僕はそろそろ帰ります」
椅子から立ち上がり、僕は言った。
「え、もう帰っちゃうの? どうせなら泊まって行けば良いじゃない」
キッチンで洗い物をしていた獏母が言う。
「いえ、それはさすがに……」
その時、突然ドタドタと勢い良く階段を駆け下りる音が鳴った。直後に、ドタンバタンとドアが開閉するやかましい音が鳴る。目を丸くしていた僕は、ダイニングから廊下へと通じるドアを開き、辺りの様子を伺った。直後、奥にあるトイレの方から「ううぅ……」という呻き声が聞こえて来た。これはもしかしなくてもアレをしていらっしゃる音だとすぐに理解した。しばらくしてトイレのドアが開き、青ざめた顔で獏女が姿を現す。
「……あ、敬太郎さん」
「お前、ベッドで横になっていたんじゃなかったのか?」
「ええ、まあ……けど、早く本を読まなくちゃと思って……読んでいたら、また気持ちが悪くなってしまって……」
青ざめた顔で訥々と語る獏女を、僕は呆けた顔で見つめるしかなかった。
「あら、桜。随分と顔色が悪いわね」
僕の背後から廊下に顔を覗かせた獏母が、やや大仰な様子で言った。
「そんなに具合が悪いと、誰か付きっ切りで看病をしてあげなくちゃいけないわね……あ、そうだ。敬太郎くん、桜の看病をお願いしても良いかしら?」
「は? いや、看病ならお母さんがすれば良いのでは?」
「もちろんそうしたい所だけど、私は明日、朝早くに用事があるの。だから、一晩付きっ切りで看病なんてできなくて。敬太郎くんは明日何か予定はあるの?」
「いえ、明日は土曜で大学も休みなので特に予定は……」
「まあ、それは好都合……じゃなくて助かるわ! どうか、可愛そうな娘の面倒を見てやってくれないかしら?」
潤んだ瞳で獏母は訴えて来る。この露骨に悲壮感を漂わせる感じが何とも苛立たしい。僕は断固断りたい気持ちで一杯だった。しかし、ちらりと獏女を見れば、彼女は相変わらず青ざめた顔でボーっとこちらの様子を伺っている。ちょっと指先で小突いたらすぐに倒れてしまうそうなその様に僕の良心がほんのわずかばかり痛んだ。断固たる僕の決意が揺らいでしまう。
「……敬太郎さん」
ふいに、獏女がか細い声を発した。
「ご迷惑を承知でお願いします……どうか、今晩だけ私のおそばにいて下さい……」
潤んだ瞳で、獏女は訴えて来た。それは獏母とは違う切実さが感じられて、僕の心は不覚にも大いに揺れてしまった。その時だけ、この女が性悪であることを忘れた。そこにいるのは、病で弱り切っている、黒髪の乙女であった。
「……分かった」
ぼそりと、僕は呟く。
「そこまで言うなら、今晩だけお前の面倒を見てやる」
僕が言うと、獏女は潤んだ瞳を大きく開いた。
「本当ですか?」
「ああ」
「ありがとうございます、敬太郎さん」
獏女がしとやかに微笑むと、なぜだか胸が高鳴った。僕は彼女から視線を逸らす。
「じゃあ、お前の部屋に行くぞ。一人で歩けるか?」
「はい……でも、出来れば敬太郎さんに支えてもらいたいです」
「ちっ、わがまま言いやがって」
毒づきつつも、僕はふらふらの獏女に肩を貸してやる。その様を見ていた獏母がくすくすと笑っていたが、あえて無視をした。
僕は獏女を支えながら二階にある彼女の部屋に向かった。部屋に入ると、彼女をベッドに連れて行く。
「ほら、さっさと横になれ」
僕は彼女をベッドに横たえようとした。しかし、彼女は小さく抵抗をした。
「何だ?」
「敬太郎さん。私、本が読みたいです」
「え? けど、お前そうしたらまた吐いちまうじゃないか」
「はい。けど、やっぱりどうしてもこの本を自力で読みたくて。敬太郎さんがそばにいてくれれば、そんな無理も叶うんじゃないかと思って……」
獏女はテーブルに置いてある本を見て、切なげに瞳を歪めた。
「お前はそうまでして、自力で本を読みたいのか?」
「はい。そして、敬太郎さんと物語の内容を語り合いたいんです」
真っ直ぐな瞳に心臓を射抜かれて、またどきりと高鳴ってしまう。
「そうかよ。まあ、精々がんばれ」
僕は視線を逸らして言った。
「はい」
獏女は深く頷き、その本に手を伸ばす。おもむろに開いてページをめくった。それは真剣な、というよりは必死の目つきで文字を追っている。その鬼気迫る表情に僕は少し圧倒されたが、やがて彼女の顔からみるみる血の気が抜けて行き、真っ青になったと思ったら、口元を押さえて勢い良く立ち上がった。脱兎のごとく部屋から飛び出し、ドタドタと勢い良く階段を下りて行った。それから待つこと数分、再び部屋に姿を見せた獏女の顔は頬がこけていた。ふらふらと覚束ない足取りでまた本の前に向かう。その様を目の当たりにして、さしもの僕も彼女の体調が心配になって来た。
「おい、大丈夫か?」
僕が声をかけると、獏女はこけて青ざめた顔で、精一杯の微笑みを浮かべて見せた。
「はい、大丈夫です……」
そんな彼女はどう考えても大丈夫な状況ではない。僕はおもむろに立ち上がると、部屋から出て一階に下りた。
「すみません、何か余っているビニール袋はありませんか?」
僕が言うと、家事を済ませてリビングでくつろいでいた獏母は、「あるけど何に使うの?」と尋ねてきた。僕は適当な理由を付けて大きめのビニール袋を五つほど調達し、再び獏女の部屋に舞い戻った。
「あの、敬太郎さん。そのビニール袋は何に使うんですか?」
「お前さ、吐く度にトイレに駆け込むのは効率が悪いだろ」
「え?」
「だから、次からこのビニール袋に吐けよ」
僕はビニール袋の口をガサッと広げ、そう言った。すると案の定、獏女は抵抗する素振りを見せた。
「そんないくら何でもそれは出来ません……女として、そんな恥ずかしい真似……」
「言っておくが、俺は今お前のことを女だと思っていない」
僕が言うと、獏女はきょとんとした。
「今のお前は、本を一生懸命に読もうとしている文学戦士だ。つまり、僕の仲間だ。僕は仲間としてお前を助けてやりたい。だから遠慮なくゲロを吐け。その度に、僕がこのビニール袋で受け止めてやる」
取り立てて格好付ける訳でもなく、僕はあくまでも淡々と言ったつもりだった。だが、獏女は何か大きな衝撃に打たれたように、目を見開いた。
「……そうですね、今さら取り繕っても仕方がありません。私はこの本を読まなければ前に進めないんです。そのためならビニール袋に吐くくらい、訳ありません」
「良い心がけだ。まあ、できることなら吐く回数は最小限に留めてくれるとありがたい」
「努力します」
獏女は静かな声で、しかし確かな決意を燃やしていた。そんな彼女を見て僕はふいに口元が緩み欠けるがきゅっと引き締め、ビニール袋を開いた状態で彼女の隣に控えた。
「さあ、始めるぞ」
獏女は青ざめた顔をビニール袋に寄せた。
「……うぅ」
口元を拭いながら、呻き声を上げる。
「あまり間隔を開けるな。まだページは半分以上も残っているぞ」
「はい、すみません……」
弱弱しい声を発し、獏女は再び本に視線を這わせる。だがそれから間もない内に、また青ざめた顔でビニール袋に嘔吐した。今まで散々吐いたせいで、それは最早内容物を持たない胃液となっていた。
「はあ、はあ……ごめんなさい、敬太郎さん。先ほどからお見苦しい所を……」
「いちいち謝らなくても良い。そんな暇があったら、さっさと本を読め」
僕は冷然と言い放つ。獏女は力弱く頷き、また本に視線を這わす。それから間もなくまた嘔吐する。その繰り返しだった。ビニール袋から顔を上げた獏女は、涙目の状態で荒い吐息を漏らす。
「やはり、私には無理なんでしょうか? こんなに何度も吐いて、まだこんなにページも残っていて……」
弱音を吐く獏女を見て、僕は小さくため息を漏らす。
「自分でやると決めたことだろ。だったら、最後までやり通せ」
「でも、どうしても吐き気がして、中々読み進まなくて……」
獏女は今にも泣き出しそうな顔になって言った。分かっている、彼女が苦しんでいることは。しかし、僕は彼女を応援すると決めた。だから、例え困難な道だろうとあきらめて欲しくないのだ。
「おい、お前」
「はい?」
「文字を文字として読むな。そこからイメージを膨らませろ。物語の光景を」
「イメージ……」
「ああ、そうだ。お前自身の頭で、お前のイメージを膨らませてみろ。そうすれば、今よりもずっと本を読めるはずだ」
そう言った僕の顔を、獏女は涙目でまじまじと見つめてくる。
「アドバイス……して下さったんですか?」
僕は頬の辺りを指先で掻いた。
「お前があまりにも不出来な奴だからな。仕方なくこの僕がアドバイスをしてやったんだ。精々感謝することだな」
腕を組んでふんと鼻息を鳴らす。それは偉そうなことこの上ない言動であったが、獏女は不快に顔を歪めることはなく、むしろ久方ぶりに微笑んだ。
「ありがとうございます、敬太郎さん。とても嬉しいです」
「礼なんぞいらん。僕をさっさとゲロ処理の任務から解放させてくれ」
「もう、そうやってすぐ意地悪を言うんですから」
微笑んだままそう言って、獏女は本に目を向けた。ページを開いて文字に目を這わす前に、僕に言われたことを反芻するように呟き、大きく目を開いて文章を読み始めた。それまではすぐに顔が青くなっていたが、今回はそのようにならない。獏女にしてはスラスラとページを繰って行く。
「その調子だ」
「はい」
僕の天才的アドバイスが功を奏したのだろう。不出来な読者である獏女は、それから時折嘔吐することはあっても、それまでのように頻繁にページを繰る手を止めなくなった。ゆっくりと、しかし確実に読み進めて行く。
すると物語が終盤に差し掛かったところで、獏女の瞳がまた潤んだ。それから口元に手を添える。僕は吐き気を催したのかとビニール袋を構えるが、獏女は嘔吐することなく物語を読んで行く。気が付けばページを繰る速度が増していた。終盤にかけての物語の展開がそうさせているのだろうか。僕はいつの間にか拳を握り締めていた。
行け、そのまま行け。吐き続けて、吐き続けて、ようやくここまでたどり着いた。胃の中が空になり、逆流の衝撃で食道がただれているだろう。それだけの苦しみを重ねて、お前はここまでたどり着いたんだ。めくれ、ページを、めくれ。自分のイメージを最大限に膨らませて、読むんだ。
パタン、と静かに本の閉じる音が鳴った。獏女はその本の余韻を噛み締めるようにして、テーブルに置く。しばらく静止していた体が、やがて小刻みに震え始めた。
「……やりました」
彼女は、おもむろにこちらへ振り向いた。
「自力で、最後まで、本を読みましたよ。自分でも信じられません……」
「何を言っている。現にお前は、自分の力で本を読んだじゃないか。まあ、この僕の手助けがあったおかげだけどな」
「はい、そうですね。敬太郎さんがいなかったら私、自力で本を読むことなんて出来ませんでした」
嬉々とした様子で獏女は言う。
「けど、これで敬太郎さんと物語の内容について語ることができますね……」
ふいに獏女の体がふらつき、そのまま横に倒れそうになった。僕はとっさにその体を抱き留める。
「……ごめんなさい、敬太郎さん。やっぱり少し無理をし過ぎたみたいです」
か細い声で獏女は言った。
「そうか」
「せっかく敬太郎さんと物語の内容を語れると思ったのに……」
「そう焦ることもないだろう。今は精々休んでいろ」
「はい、そうですね」
柔らかく微笑んだ後、獏女はすっと目を閉じた。あろうことか僕の膝の上で。僕はこの不躾な態度に眉をひそめ、今すぐにでも罵詈雑言の限りを尽くして咎めてやりたい衝動に駆られたが、その安らかな寝顔を見て、不覚にも溜飲を下げてしまった。
――私には、好きな人がいます。
ふいに、その言葉が脳裏に蘇った。まあ僕には関係のないことであるが、なぜか心臓が落ち着きなく跳ねてしまう。
「……獏女のくせに、生意気だ」
毒づいた僕はそれからしばらくの間、膝枕を続けざるを得なかった。
⒗
桜の花びらが風に揺られる昼下がりは、もっと心安らかに過ごしたいものである。
「それにしてもあの本の主人公とヒロインの関係性は、それはもう素敵でしたね。主人公は普段はぶっきらぼうだけど、本当は心の温かい人で。ヒロインはそのことを分かっていてどこでも彼のことを思っていて。はあ、本当に素敵でした」
ベンチに座り両手を組んだ状態で、獏女はうっとりと語る。先日、血反吐を吐く思いで、というか実際にゲロを吐き続けた末に読んだ本である。彼女にとって最初に自力で読破した本ということもあり、非常に愛着が湧いているのだろう。ここ数日その話ばかりで僕はほとほと嫌気が差していた。
「あぁ、そうかい」
適当に相槌を打ちながら、今日も今日とて押し付けられた弁当のおかずを頬張る。
「もう、敬太郎さん。せっかく私が自力で本を読んだんですから、もっと語って下さいよ」
「うるさい。もうその本の話は耳タコだ。いい加減、別の本を読め」
「むぅ、相変わらず素っ気ないですねぇ」
獏女は小さく口の先を尖らせて言う。
「悪かったな、素っ気なくて」
「いいえ、お気になさらず。敬太郎さんが本当は優しい人だってこと、私はよく理解していますから」
「はあ? お前何言ってやがるんだ? 僕のように深みのある人間を早々に理解できる訳が無いだろうが」
「また、そんなこと言っちゃって」
くすくすと笑う獏女の頬を引っぱたいてやりたい。僕は湧き上がった怒りを紛らわすためにからあげを頬張った。
「……ねぇ、敬太郎さん。お話したいことがあります」
「何だよ?」
僕は唐揚げを咀嚼しながら、不機嫌な声で聞いた。
「本日をもって、私と敬太郎さんの契約関係は解消しましょう」
瞬間、春風が凪いだ。そよそよと揺れていた桜の花びらがぴたりと動きを止める。
「……え?」
突然のことに、僕は目を丸くした。
「私は敬太郎さんのおかげで、自力で本を読めるようになりました。だから、もう敬太郎さんに頼る必要はありません」
「ちょっと待て、お前いきなり何を言っているんだ?」
「敬太郎さんもその方が嬉しいでしょう? 私と契約関係を結ぶこと、煩わしかったでしょう? まあ、まだ正式に契約を結んだ訳ではありませんでしたが」
僕は言葉に詰まってしまう。心臓が落ち着きなく跳ねている理由が分からなかった。
「……ああ、そうだな。僕はお前という存在が鬱陶しくて仕方がなかった。自由に本を読む暇も削られて、お前のために甘ったるい恋愛小説ばかり読まされて」
「そうですよね。今考えれば、とても迷惑な話ですよね。本当にごめんなさい」
獏女は深々と頭を下げた。
「でも、これからあなたは自由です。もう私のために本を読ませたり、付き纏ったりしません。あ、もちろんこの図書館は利用しても大丈夫です。友人として、あいさつくらいはさせてもらいますね」
やんわりと微笑む獏女を見て、僕はなぜだか体の力がすっと抜け落ちるのを感じた。
「……そうだな。そうなれば、僕にとっては願ったり叶ったりだ。これで僕はお前から解放されて、また快適な生活に戻ることができる。清々したよ」
僕は空になった弁当箱をベンチに置くと、すっくと立ち上がる。
「じゃあ、僕はアパートに帰るよ。今日は家にある本をじっくり読みたいんだ」
背中を向けたまま僕は言った。
「そうですか、分かりました」
その表情は伺わなかったが、きっとにこにこと微笑んでいやがったに違いない。
僕はそのまま、無言で立ち去った。
アパートに戻ってから、僕は本棚から適当に本を選び、ベッドに横たわってダラダラと読書をした。時折、そばに置いたテーブルに手を伸ばし、おちょこで日本酒をくいと飲む。のんべんだらりとはこのことである。僕はしばしばお酒を嗜みながら読書をするが、こんな風に寝そべって行儀の悪い格好をすることは滅多にない。即刻やめるべき行為なのだが、どういう訳か僕の意志に反して体が言うことを聞いてくれない。というよりも、その意志さえも怪しい。むしろその確固たる意志が折れ曲がってしまっているから、今この体たらくを演じているのではなかろうか。
僕はむくりと体を起こした。
――本日をもって、私と敬太郎さんの契約関係は解消しましょう。
獏女は唐突に告げた。それは僕にとって何より望んでいたことであり、厄介な奴から解放されたということ。もっと喜ぶべきなのである。日本酒をぐいと飲み、陽気な酔いに踊らされ、翌日はほどよい頭痛がやって来る。そうなるべきなのだ。よし、飲もう。酒を飲もう。楽しく飲もう。今の僕はある種束縛から解放された自由民であり、何でも好きなことができる。一人で好きな読書に没頭できる。それは僕が何よりも望んだ平穏無事な日常。ようやく舞い戻って来たのだ。
僕はガラスのコップにたっぷりと日本酒を注いだ。ぐいと傾けて喉元に流せば、涼やかな快感が走り抜け、やがて僕を心地よい酩酊状態へと誘ってくれる。こうやって陽気に飲んだ時、僕は二日酔いにはならない。だから、明日はきっと気持ちの良い目覚めが待っているはずだ。僕はそれを信じて疑わなかった。そう思い込んでいた。
◇
大脳をハンマーで直接叩かれているんじゃないか。そう思ってしまうくらい、今の僕は怒涛の頭痛に苛まれていた。おかしい、僕は昨晩、陽気にお酒を飲んだはずだ。そんな時は多少飲み過ぎても翌日にはさほど響くことはなく、ほんの少しの頭痛がむしろ心地良いくらいなのだ。そんな爽やかな朝を迎える予定だった僕が、なぜこんな泥沼地獄の如き二日酔いに苦しめられているのだろうか。甚だおかしい話である。僕は優れた頭脳の持ち主であるが、今この時ばかりは自分の脳みそに対して恨み辛みを述べたくて仕方がなかった。このポンコツ脳め。
ただ、そんな風に文句を言っている間にも頭痛は容赦なく押し寄せて来る。睡眠によって回避することはほぼ不可能だろう。となれば、ここは起き上がるしかない。僕は震える腕を鼓舞して体を起こし、ベッドから下りてよろよろと洗面台へと向かう。冷水でぴしゃりと顔を洗うが、それも気休めに過ぎない。濡れそぼった前髪の合間から覗く僕の目は、我ながら血走って気味が悪いと思った。その上、顔は青ざめている。まるで先日、散々ゲロを吐きまくった獏女のようである。思い至り、僕は唇を噛み締めた。
悔しいが、誠に不本意ではあるが、僕の調子が狂ったのは、昨日あの獏女に契約解消を告げられたからだ。そんなことを言うと、僕があの獏女と離れたくないと思われてしまうかもしれないが、それは断固として違う。奴は僕に対して一方的に契約を押し付け、結んだ。そして今度は、一方的に解消を告げたのだ。何と身勝手な女だろうか。こちらの都合も考えず、都合よく僕を利用した。あまりにも都合が良すぎて、ご都合主義かってくらいだ。それは少し違うか。ともかく、僕は無性に腹が立って来た。するとそれに反比例するように、頭痛が和らぐ。獏女に対する怒りが、僕の頭痛を鎮めてくれたのだ。それはある意味感謝すべきことだが、そもそも僕が頭痛を起こした原因もあの獏女にあるのだ。結局はプラマイゼロ、いや、もうそんなものは振り切って超マイナスである。このままあの獏女に好き勝手にさせて良いのだろうか。答えは当然否である。僕は手早く身支度を整えて、部屋を飛び出した。
燃えたぎる怒りの炎によって、頭痛はすっかり消え去っていた。
僕は大股で力強く地面を踏み締め、枕木公園にやって来た。そよそよと風に揺られる桜の花びら。いつのなら僕の心を安らかにしてくれるが、今は毛ほどの役にも立たない。僕は尚も大股で公園内を進んで行く。
すると、ベンチに佇む女の姿が見えた。一見可憐な黒髪の乙女だが、その中身はどこまでも黒くて性悪な奴がいた。僕はより一層力強く地面を踏み締める。
「おい」
僕が呼びかけると、ちまちまと弁当を食べていた獏女は、おもむろに顔を上げた。
「あら、敬太郎さん。こんにちは」
柔らかに微笑みながら獏女は言った。その笑顔が、燃えたぎっている僕の怒りに油を注いだ。
「こんにちは……じゃねえよ。お前、何のんきにあいさつなんかしているんだ」
僕はかすかに声が震えていた。それはきっと怒りのためだと思った。
「えーと、私何かまずいことでも言いましたか?」
そのとぼけたような態度が増々怒りの炎を煽った。
「お前、僕のことを舐めているのか?」
「へっ? いえ、そんなことはありませんけど……」
「お前は僕に対して強引に契約を押し付け、そして自分の都合で勝手に解消しやがった。そうやって僕のことを都合よく利用していることが気に食わないんだ」
僕は鋭く獏女を睨む。彼女は戸惑いの表情を浮かべた。
「何でそんなことをおっしゃるのですか? 私が契約の解消を告げたのは、あくまでも敬太郎さんのためです。それなのに、なぜそんなに怒っていらっしゃるのですか?」
「何だその押しつけがましい物言いは。お前は僕のためとか言いながら、結局は自分の気分でそう決めたんだろ。今まで散々僕のイメージを食って、自分で本が読めるようになったらすぐにポイか? お前みたいな自分勝手な奴、最低だよ」
「……じゃあ、これからも私にイメージを食べさせてくれるとおっしゃるのですか?」
静かな迫力の込もったその声に、僕は思わずたじろぐ。
「は、はあ? 僕はそんなこと言っていない。あくまでもお前の身勝手な言動に甚だ怒りを覚えていてだな……」
僕が言葉を紡いでいる最中、獏女はふっと顔を伏せた。
「……ごめんなさい」
唐突に、謝罪の言葉を述べた。僕は意味が分からず首を傾げる。
「確かに私の言動は身勝手でした。それは認めます。けれどもそれは、敬太郎さんの気持ちを確かめたかったからなんです」
「僕の気持ちだと……?」
獏女は頷く。
「私が契約の解消を告げた時、敬太郎さんがどんな反応を示されるのか、試したんです。昨日その話をした時、敬太郎さんはあっさりと承諾をしました。だから私は、とても悲しい気持ちになりました」
「な、何でそんな気持ちになるんだよ?」
「この前、敬太郎さんは私の部屋で付きっきりになって、本を読む手助けをしてくれました」
僕の言葉には答えず、獏女はそう言った。
「それがどうしたんだよ?」
「私はその時、とても嬉しかったんですよ」
「自力で本を読むことができたからか?」
「もちろんそれもあります。けどそれと同じくらい、いいえ、それ以上に嬉しかったのが、敬太郎さんが優しく私のそばに寄り添ってくれたからです」
僕は例のむず痒い衝動に駆られた。
「別に僕はお前に寄り添ってなどいない。優しくした覚えもない」
「いえ、優しかったですよ。その時に限らず、敬太郎さんは何だかんだでいつも優しかったです」
「僕は優しくなんてない」
「でも、いつも私のわがままを聞いてくれたじゃありませんか」
「お前、自分がわがままだって自覚あったのか」
「はい、もちろんです」
にこりと微笑んで獏女は言った。その頬を引っぱたいてやりたい。
「だから、私は優しい人をパートナーに選びたいと常々思っていました。わがままな私に優しくしてくれる、そんな素敵な男の人を」
「ふん、お前みたいな女に優しくしてくれる男なんていないね」
「ここにいるじゃありませんか」
獏女は僕を指差して口元で笑う。確かに、僕は生来高潔な紳士である。しかし、この獏女に対してそんな振る舞いをした覚えはない。少なくともその正体を知ってからは。
「僕はお前に対して優しくなんかない。優しくするつもりもない」
「じゃあ、それでも構いません」
「何が構わないって言うんだ?」
「私のそばにいて下さい」
「は?」
「これからも、私のそばにいて下さい」
獏女の言葉に面食らいながらも、僕は口を開く。
「何でそんなことを言うんだよ?」
僕が問いかけると、獏女は唇をきゅっと噛み締めた。
「……ここまで言っても分からないなんて、本当に鈍いですね。というか、敬太郎さんはおバカさんなのですか?」
「なっ、お前! この僕を捕まえて頭が悪いだと? 冗談も大概にしろ!」
「だってそうでしょう? ここまで私の話を聞いて、何も分からないんですか?」
「だから、何がだよ?」
「――私は敬太郎さんのことが好きなんです!」
両手をぎゅっと握り締めて、獏女は叫んだ。春風によって高らかに伸びて行くその声を、言葉を、僕はすぐに飲み込むことができなかった。彼女は僕の言葉を待つように、じっとこちらを見つめていた。
「……僕のことが好きだと?」
ようやく発した声は我ながらに頼りないものだと思った。
「はい、そうです」
「都合の良い手駒として、好きだということか?」
「もう、何でそんなひねくれた物の捉え方をするんですか? 私は一人の男性として、敬太郎さんのことが好きなんです」
「じょ、冗談も大概にしておけ」
「冗談なんかじゃありません」
「だって、お前は僕のことを都合の良い存在としか思っていないんだろ? だから、勝手に契約の解消を告げたんだろ?」
「ですから、それは敬太郎さんの気持ちを確かめるためだってさっき言ったでしょう? 本当におバカさんですか?」
「な、何だとぉ?」
体内で湧き立った血が頭に上るのを感じた。非常に落ち着かない気持ちになってしまう。
「この、獏女の分際で僕のことをバカ呼ばわりしやがって」
「いけませんか?」
「ああ、いけないね。その上、獏女のくせに僕のことが好きだと?」
「いけませんか?」
僕は返答に詰まってしまう。
「い、良い訳ないだろうが。そもそも、お前は獏なんだ。人外なんだ。人間の僕と結ばれるとか、ありえないだろう」
「それはあくまでも一般論ですよね?」
「は?」
「敬太郎さんはどう思っているんですか?」
「どう思っているって……」
「私のことをどう思っているんですか? 答えて下さい」
獏女は澄んだ黒い瞳で力強く僕を見つめて来る。
「お、お前は……性悪で、腹黒くて、わがままで、甘い物ばかり食って……」
僕は思いつく限りの欠点を列挙して行く。
「自分勝手で僕を翻弄してばかりいて……」
ふいに、彼女の部屋で彼女が本を読む手助けをした時の光景が思い浮かぶ。仮にも女の癖に、散々ゲロを吐きまくって、僕の前で醜態を晒して。けど、それでも最後まで懸命に本を読む姿を見た時、少なからず心が揺れた。弱々しくも、着実に目標に向かって頑張るその姿を見て、僕は……僕は……
少し強い春風が吹き抜けて行く。彼女の黒髪がなびいた。
「……寂しいと思った」
やがて、僕は言葉を紡ぐ。
「え?」
獏女は目を丸くした。
「それって……」
「いや、お前に契約の解消を告げられた時、ほんの少し、本当にほんの少しだけ、寂しいという気持ちが湧いた……それは事実として認めよう。ただ、それは女に対する恋慕の感情などではない。そうだな例えるなら……散々可愛がってやった犬ころが、突然自分の下を離れて行ってしまうような、そんな寂しさだ」
「は、はあ……?」
獏女は眉をひそめ、小首を傾げる。
「そう、つまりペット。ペットを失う様な寂しさを感じたんだ」
また風が吹き抜けた。それは少しばかり、この場の温度を下げるようだった。
「……つまり敬太郎さんは、私のことをペットだとおっしゃるのですか?」
「うーん、どうだろうな。まあでもお前は人外な訳だし、そういった扱いの方が適当かもしれないな。うん、そういうことにしようか」
僕は一人結論付けてぽんと手を叩く。一方、獏女は頬を思い切り膨らませてこちらを睨んでいた。
「ちょっと、ペットってどういうことですか? 私が精一杯思いを伝えたのに、その返答が『お前はペットだ』ってどういうことですか? 脳みそ腐っていらっしゃるのですか?」
「おい、お前ペットのくせに主人に楯突くなんて生意気だぞ」
「何ですって? 敬太郎さんのくせに生意気ですね」
「あ、お前。やっぱり僕のことをずっとバカにしていやがったんだな?」
「そんなことはありません。ただ、嫌々ながらもホイホイ私のお願いを聞いてくれる、良い人だと思っていましたよ」
「ほら、やっぱり! 僕のことを都合の良い男だと思っていたんじゃないか、この性悪獏女が!」
「ええ、そうですね。私は性悪です。けど、敬太郎さんだって紳士気取りの変態野郎じゃありませんか」
冷めた目つきで獏女は言う。
「なっ、僕が変態だと? この高潔な紳士を捕まえて何をほざいていやがるんだ!」
「だって、私のようなか弱い女をペット呼ばわりするなんてとんだ変態趣味です!」
「じゃあ、お前はどうして欲しいんだよ?」
「彼女にして下さい!」
「断る!」
「何でですか!?」
「何でもだ。お前みたいな性悪獏女を彼女になんてしたら末代までの恥だ。だから、ペットなら認めてやる」
「もう、何なんですかこの変態!」
「だから、変態って言うな!」
「じゃあ、変態紳士!」
「余計にいかがわしい言葉だそれは!」
「わがままですね!」
「お前に言われたくない!」
穏やかな昼下がり、僕達は途方もない、くだらない言い争いを続けた。それはとても無駄な時間だったと今でも反省している。本当に無駄な時間だった。本当に、本当に。
エピローグ
桜前線が日本列島を過ぎ去り、間もなく初夏を迎えようとする頃合い。しかし、枕木公園ではまだ根強く桜が咲き誇っていた。うららかな午後の日差しが地上を優しく照らす。
「では敬太郎さん、仮契約から本契約に移行するということでよろしいでしょうか?」
クリームあんみつを片手に獏女は言う。
「ああ、そうだな。誠に不本意ではあるが」
「だって、敬太郎さん。いくら何でもペット呼ばわりはひどいです。それならきちんとした契約関係を結びましょうって話になったじゃありませんか」
獏女は頬を膨らませて言った。
「そもそも、敬太郎さんが素直に私のことを彼女にしてくれれば、わざわざ契約を結ぶ必要も無いのに」
「誰がお前なんかを彼女にするか」
「でも、私がいないと敬太郎さんは寂しいのでしょう?」
「はっ、お前は何を言っているんだ。僕はお前がいなくなった方が清々するよ」
僕はふんと鼻を鳴らした。
「またそんなことを言って、本当に照れ屋さんですね」
くすりと、小憎らしい笑みを浮かべて獏女は言う。僕はこめかみにぴきりと青筋を立て、その額にデコピンをかましてやった。
「痛いです! ひどい、女性に暴力を振るうなんてそれでも紳士なのですか?」
「ふん、こんなのは暴力の内に入らないぞ」
僕は口の端を吊り上げて言った。
「むっ、そんな風に笑って。私のことをいたぶって喜んでいるんですか? 敬太郎さんはやっぱり変態紳士ですね。最低です」
「お前、次にそれ言ったら殺すぞ」
僕がぎろりと睨むと、獏女は負けじと睨み返して来た。おのれ、生意気だ。
「とにかく、僕達は契約を結んだ。まあ、仮契約の時と内容は変わらないから、その関係性も変わることは無いけどな」
僕は弁当のおかずを頬張りながら言う。もちろん、それは獏母の愛情たっぷり弁当だ。本当に済まないと思うが、まあ僕が弁当を食べていることは既に知られており、むしろ喜んでいたので結果オーライという所だろうか。
「あの、敬太郎さん」
「何だよ?」
「一つだけ、新しく契約に入れたい事項があります」
獏女は言った。僕は眉をひそめる。また彼女のわがままで面倒な事項を入れられてしまうのだろうか。そうなれば断固拒否するしかない。僕は無言で警戒しながら彼女を見た。
「その……」
獏女はなぜか恥じらって言葉を紡がないでいる。
「何だ、ハッキリ言えよ」
僕が苛立った声で言うと、獏女はようやく口を開いた。
「……私のことを名前で呼んで下さい」
「は?」
「私のことを『桜』って、名前で呼んで下さい」
頬を赤らめた状態で、獏女は言った。
「何で、そんなこと……」
僕はつい呆気に取られてしまう。
「だって私の正体が分かってから、敬太郎さんは名前で呼んでくれなくなったでしょう? 私はそれがずっと気がかりで、寂しくて……だから、名前で呼んで欲しいんです」
その瞳には、切実なる思いが込められていた。
「もし、僕が断るって言ったらどうする?」
獏女は目を伏せた。
「そうなったらあきらめます。無理強いをしても仕方がないですから」
「というか契約に乗っ取る辺り、そもそも無理強いみたいなもんじゃないか」
「あは、それもそうですね。ごめんなさい、今言ったことは忘れて下さい」
獏女は微笑んで言った。それはどこか儚げな笑みだった。
「……別に良いぞ」
自らの口を突いて出た言葉に、僕自身が驚いた。
「え?」
獏女は目を丸くしてこちらを見つめる。
「名前で呼ぶくらい、どうってことはない。ただし、以前のようにさん付けでなんて呼んでやらん。お前は黒髪乙女の皮を被った、性悪獏女なんだからな」
「はい、問題ありません。むしろ、呼び捨ての方が嬉しいです」
その表情に喜色を浮かべて、獏女はこちらに歩み寄った。
「では、敬太郎さん。お願いします」
獏女はまっすぐにこちらを見つめて来る。ただ名前を呼ぶだけで、大げさなやつだ。アホらしい。だが、なぜ僕の心臓はこんなにも落ち着きが無いのだろうか。この性悪獏女に請われて名前を呼ぶ。ただそれだけのことなのに。
「さ……さく、ら……」
言った直後、我ながら何て不明瞭で不確かな声だろうと思ってしまう。くそ、たかが獏女の名前を呼ぶくらいで、なぜ僕はこんなにも動揺しているのだ。
「敬太郎さん」
獏女が呼んだ。
「な、何だよ?」
僕は上ずった声で答える。
「ありがとうございます」
直後、ふいに獏女が僕に顔を寄せて来た。彼女がつま先立ちになったと思った時、僕の唇に柔らかい物が触れた。一瞬、何が起きたのか理解することができなかった。僕の優秀な頭脳でさえ、今の状況を理解することができなかった。
「……ふぅ」
獏女は僕から身を引き剥がすと小さく吐息を漏らし、それからにっこりと微笑んだ。
「お、お前……今僕に何をした?」
僕は震える声で尋ねた。
「それをわざわざ言う必要がありますか?」
獏女はいたずなら笑みを浮かべた。やはりこいつはとんだ性悪である。
「おい、というか今のは契約に含まれていない行為だぞ!」
「今の行為とは?」
「だから、その……キ、キキ……」
滑舌の良さに定評がある僕の舌先が、今は非常に覚束ない。立った二文字のその単語を紡ぐことができない。己、出来損ないめ。案の定、そんな僕の様子を見て獏女はくすくすと笑っている。許すまじ、この性悪獏女め。
「あー、もうやめだ! やっぱりお前と契約を結ぶのはやめだ!」
「ダメですよ、敬太郎さん。そんなことは認めません」
「ふん、正式に文書を交わした訳でもない。あくまでも口約束だ。そんな物、よくよく考えれば守る必要も無いんだ」
「もう、敬太郎さんってば。そんなこと言うと、腕の骨をへし折りますよ?」
「はっ、上等だよ。やれるものならやってみろ!」
「では、早速」
獏女は怪しい微笑みを浮かべて、ブラウスの袖をまくった。
「え、おいちょっと待て。まさか本気で僕の腕を折るつもりなのか?」
「はい。そうすれば、私の言うことを聞いてくれるでしょう? よく考えれば、初めからこうすれば良かったのです」
「ちょ、ちょっと待て! 暴力で物事を解決するなんて最低だ!」
「勝手に契約を破棄しようとする方も最低です。安心して下さい。腕が折れたら、私が敬太郎さんのお世話をしてあげますから」
「嫌だ、そんなのごめんだ! あー、もう分かったよ! きちんと契約は守る。だから僕の腕を折るな!」
僕は必死に叫んだ。
「そうですか。残念です、敬太郎さんのお世話ができなくて」
「お前、性悪というか頭がおかしいな」
「はい、私は敬太郎さんのことになると頭がおかしくなってしまいます。好きだから、好きだからこそ色々とわがままを言ってしまうのです」
「わがままで腕をへし折るとか、お前の思考回路はヤバ過ぎる」
「うふ、ごめんなさい。じゃあもう腕はへし折りませんから、また名前で呼んで下さい」
「はあ?」
「ねぇ、ほら、早くぅ」
甘えるような口調で言う獏女が腹立たしい。引っぱたいてやりたい。
「……くら」
「え、何ですか? よく聞こえません」
微笑んだまま、耳を寄せて来る。
「あー、もう鬱陶しい! 近寄るんじゃねえ、桜!」
気が付けば、僕は大声で叫んでいた。なるほど、罵詈雑言を吐きながらだと、こんなにも円滑に名前を呼ぶことができるのか。我ながら大発見である。非常にどうでも良いが。
「ありがとうございます、敬太郎さん」
「何だ、お前。暴言を吐かれたのにお礼を言うとか、実はMなのか?」
「うふ、どうでしょう? Mな女がお好みでしたら、そのように振る舞いますけど?」
「冗談。僕にそんな変態趣味は無い」
食べ終わって空になった弁当箱を獏女に渡すと、僕はベンチから立ち上がった。
「おい、そろそろ図書館に戻るぞ……桜」
僕は背中を向けたままで言った。だから、彼女がどんな表情をしたかは分からない。
「はい、敬太郎さん」
弾むような声で言った彼女は、僕の隣に並んだ。
初夏の香りが漂ってくる中、まだ桜は美しく咲き誇っている。
舞い散った桜の花びらが彼女に触れた時、不覚にもきれいだと思ってしまった。
(了)
獏バク図書館 (クラシック) 三葉 空 @mitsuba_sora
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