皮肉りデトックス

三葉 空

原稿

      プロローグ




「全く、春の陽気というのは色々なものを誘い出すんだな。君らのように素敵な少女達さえも」

 秀麗な眉目を悩ましげ歪めて、ため息交じりに彼女は言った。すると互いに睨み合っていた少女達が振り向く。尖っていた目尻がふっと和らいだ。

「本当に素敵だ……素敵なくらい、やかましい少女達だ」

 途端に少女達はその表情を止め、口をつぐむ。

「ここは市内でも有数の名門校、美礼(びれい)学園だ。少しはそのことを弁えて、この学園の生徒としてふさわしい行動を取るべきだよ、お嬢さん方。この学園に入学出来るくらいの知性は持ち合わせているんだ。私の言うことをきちんと理解してくれるよな?」

 春のうららかな陽気の中で、一瞬張りつめた空気がその場を支配する。せっかく消えかかった怒りの火種に、また油を注ぐようなものだ。傍から見ているこちらでさえ息を呑んでいるというのに、なぜあんなにも堂々と立っていられるのだろうか。

「もう一度言おう、やかましい少女達よ。君らの知性であれば、私の言わんとしていることは容易に理解出来るはずだ。もしそれが出来ないというのであれば、今すぐ回れ右をしてあの校門から出て行きたまえ。まあ、その先に待ち受けている未来が輝かしいものかどうか保証しかねるがな」

 ドバドバ、ドバドバ。猛烈な勢いで油を注いでいく。

 おい、もうやめておけ。その辺にしておくんだ。

 居ても立ってもいられなくなり、一歩踏み出そうとした直後。

「……ごめんなさい」

 顔を俯けた少女達が弱々しい声を発した。

「あなたの言う通り、あたし達の行動はみっともなかったです。入学して早々、こんな所でケンカをしちゃうなんて……」

 おもむろに少女達が顔を上げた。その表情はどこかスッキリとしていて、先ほどまでの怒りは春風に洗われてしまったようだった。

 いや、本当にそうだろうか?

「ふっ、そうか。君達なら分かってくれると思ったよ、素敵なお嬢さん方。これに懲りたら、二度と人前でケンカはしないことだ。それは素晴らしいくらいに恥さらしな行為なのだから」

 舞い散る桜の花びらが、軽やかに微笑む彼女を彩る。

 不覚にも俺はその姿に見惚れてしまった。

 それが失敗の始まりだった。

      第一話 「出会いの春」




「んー、香ばしい匂いがするな」

 パイプ椅子に腰を下ろしていた少女は、艶やかな黒髪のショートヘアを指先で梳きながら言った。

「ああ、香ばしい。それはまるで青春の香り。一歩間違えば、私の鼻をへし折ってしまいそうなくらいに。ああ、何と香ばしい匂いなんだろうか。狂おしいほどに」

 目を細めて、身体をくねらせて、少し大仰な様子で少女は言う。

 素直に受け止めれば、褒めてもらっていると感じる。多少引っかかりを覚えるかもしれないが、普通に「ああ、どうもありがとう」なんてお礼をしたくなっちゃうくらいだ。

 しかし、俺は気が付いている。目の前で感嘆の音を漏らしている彼女の言わんとしていることが。

「……汗臭いならそう言えよ」

 俺がじとっとした視線を向けると、少女は「ん?」とわざとらしく首を傾げた。それが非常にムカツクぶん殴りたい。

「スバルン、わたしに任せて」

 ふいにあどけない声が発せられる。振り向くと、色素の薄いふんわりとした髪を持つ小柄な少女が、その小さな右手にスプレー缶を握っていた。

「おい、何をするつも……」

「食らえ、マホリンショット!」

 小柄な少女が握ったスプレー缶から、勢い良く霧状の物質が噴出された。それが俺の体に命中すると、彼女の髪質同様にふんわりとした良い匂いが漂う。

「ふふ、どうだったミッキー。マホリンショットの威力は?」

 得意げな顔で、小柄な少女は尋ねてくる。

「どうもこうも……ただの制汗スプレーじゃねえか」

 呆れた声で俺が言うと、小柄な少女はぷくっと頬を膨らませた。

「違うもん、マホリンショットだもん!」

「あー、はいはい。凄いね、マホリンショット」

 俺はわざとらしく口角を上げてあしらうように言った。

「むぅ~、ミッキーめ……」

 小柄な少女は恨めしげな目で俺を睨んで来る。だが、正直全然怖くない。むしろ顎を反らして見下ろしてやる。そうやってささやかな優越感を楽しんでいた。

「もう怒ったぞ~!」

「お、今度は何をするつもりだ? まあ、お前みたいなお子様のやることなんて……」

「――食らえ、マホリンジェット!」

 直後、物凄い勢いで噴射された霧状の物質が俺の顔面を直撃した。

 次の瞬間、口の中いっぱいに何とも形容しがたい苦い味が広がる。

「……ぐぇ! お、おいお前! 何をしやがった……」

 口元を手の甲で拭いながら、俺は小柄な少女に問いかける。

「ふふ、これを使ったのさ~」

 小柄な少女はまたしても得意げな顔でスプレー缶を突き出す。だが、それは先ほどの制汗スプレーとは違う。『ギャースジェット』と書かれていた。その名の通り、噴きかけられた虫が「ギャース!」と悲鳴を上げて逃げるくらいに強力な虫除けスプレーだ。

「……っておい! 何でそんなもん俺に使うんだよ!?」

「え? だって、ミッキーがわたしのことをバカにしたから。ムカついたんだもん」

「ムカついたんだもんって……」

「謝って」

「は?」

「わたしに誠心誠意を込めて、謝って」

 小柄な少女は言う。そのあまりにも澄んだ瞳で見つめられると、思わずたじろいでしまう。二の句が継げずに押し黙ってしまう。

「……悪かった」

 しばらくして、俺は喉から声を搾り出すようにそう言った。

「悪かった、じゃなくて『ごめんなさい』でしょ?」

 小柄な少女はそのほっそりとした人差し指を突き立てて、俺に注意する。

「ぐっ……ご、ごめんなさい」

 俺は屈辱に打ち震えながら、何とかそう言った。

「……ふふ」

 ふいに笑い声がした。振り向けば、黒髪ショートヘアの少女は口元に手を添えている。

「おい、何笑ってんだよ」

「ああ、すまない。君のカッコイイ姿を見ていたら、つい笑いが込み上げてしまったんだ」

「カッコイイだと?」

 俺は眉をひそめる。

「ああ。こんな小さい子相手にへいこら頭を下げるなんて、君は本当に素晴らしい男だよ。そんなこと、おいそれと真似出来やしない」

「普通に情けないって言ってくれて良いんだぞ?」

「はは、情けないなんて思っていないよ。君は最高にダサカッコイイぞ、柳田くん」

「今ダサイって言ったよな!?」

「違うよ、ダサカッコイイさ。ダサイようで、カッコイイ。それがダサカッコイイさ」

「よく分からんけど、とりあえず殴って良いか?」

 俺は力強く拳を握り締める。一方、黒髪ショートヘアの少女は不敵な笑みを浮かべたままだ。

「殴りたければ殴るが良い。それで君の大層ご立派な尊厳が満たされるのであればね」

「ぐっ……」

 更に強く拳を握り締めた。だがそれも束の間、すぐに脱力して解く。

「……分かった。俺が悪かったよ」

 そして、頭を下げて詫びた。

「ほぇ~、今日もスバルンの皮肉りは絶好調だね」

 小柄な少女が感心したように言う。

「ありがとう、麻帆里。君の方こそ、先ほどの柳田くんに対する物言いは見事だったよ」

 二人は互いの健闘を称え合い、朗らかに微笑んでいた。

 その様子を苦い顔で脇から見ていた俺は、ついため息を漏らしてしまう。

 俺達がいるこの部屋は、私立美礼学園の一階にある一室。数日前より『言語研究会』、通称『言研』の活動場所となっている。活動内容はその名の通り言語についての研究……なんて真っ当なものじゃない。もっと腹黒く打算的なものだ。




      ◇




 失敗の始まりとなったあの瞬間、俺は呆然としながら彼女を見つめていた。

 すると、穏やかに微笑んでいたその瞳が突然こちらに振り向き、俺はどきりと胸が高鳴った。

「今、私に見惚れていたね?」

 舞い散る桜に彩られながら、あるいはそれらを従えながら、彼女は軽やかに言った。

「あ、いや……」

 図星を突かれて、思わずうろたえてしまった。男が女に見惚れる。そう言えば聞こえは良いが、下手をすれば視姦したと言われてもおかしくない。今のご時世、視線だけでもセクハラ扱いされてしまうこともままあるようだし、もしかしたら俺自身も入学早々セクハラ野郎の汚名を着させられるのだろうかと、一瞬の内に不安に駆られてしまった。

「……ご、ごめん。俺はそんなつもりじゃなかったんだ」

 すぐさま頭を下げた。正直自らのプライドに触ったが、そんなチンケなプライドくらい、いくらでも捨ててやる。セクハラ野郎の汚名を頂いてしまうくらいなら。

「今、私が何をしていたか分かるかい?」

 唐突に、彼女はそんなことを尋ねてきた。

「……はい?」

 俺はきょとんとして聞き返す。

「私はね、デトックスをしていたんだよ」

 彼女の口から放たれた言葉を、俺はすぐに飲み込むことが出来なかった。

「デトックス……?」

 つい小首を傾げてしまう。

「デトックスとは解毒を意味する言葉。近年、あらゆる健康法において頻繁に取り上げられているんだよ。体内に溜まった毒素を排出しましょうってね」

「あー、そういえば聞いたことあるな……もしかして、あんたはさっきの女子達に悪口を言うことでストレスを解消……デトックスしたって言うのか?」

「半分正解だね」

 彼女はびしっとこちらに指を差して言う。

「確かに私も悪口……皮肉を言うことでデトックスした。けれどもそれと同時に、先ほどの少女達もまたデトックスされたんだよ」

 不敵に微笑んで彼女は言った。

 俺の脳裏に、先ほどのスッキリした少女達の顔が浮かぶ。

 本当は気が付いていた。あの表情は穏やかな春風によって生じたのではなく、目の前にいる彼女の毒舌によるものだと。

「申し遅れた。私の名前は高良昴(たから すばる)。君と同じく入学したての一年生だ。私のことはどうか名前で、昴と呼んでくれ」

 彼女は自らの胸に手を当てて、恭しく名乗った。

「ところで、君の名前は?」

 呆気に取られていた俺は一瞬反応が遅れた。

「……ああ、俺は柳田幹男(やなぎだ みきお)だ」

「そうか、柳田くんか……」

 彼女は口元に微笑を湛えたまま空を見上げる。その様子を俺は黙って見つめていたが、しばらくして彼女は再びこちらに視線を向けた。

「なあ、柳田くん。君もやってみないか?」

「は? 何を?」

 唐突な問いかけに対して、俺は眉をひそめてしまう。

「皮肉りデトックス」

 これ以上ない位満面の笑みを浮かべて、彼女――高良昴は言ったのだ。




      ◇




「人は欲望の生き物だ」

 またしても唐突に、昴は語り出す。

「多くの欲望を抱えているが、その中の一つに嗜虐心がある。他人を傷付けたいと思う心だ。ただ、あからさまに罵詈雑言を吐く訳にはいかない。大きな摩擦が生じるし、何より美しくない。かと言って、そのまま我慢すれば体内に毒素が溜まってしまう……だから遠回しに相手を非難するレトリック――皮肉を使うんだ。私は相手との摩擦を最小限にするために、皮肉で嗜虐心を満たそうとした。あくまでも自分のためだった。しかし、その皮肉には予想外の効果があったんだ」

 昴は足を組んで椅子に腰かけたまま、顔だけぐりんとこちらに向けた。

「上質な皮肉は言う側だけでなく、言われた側もデトックスさせるんだ。その上質な皮肉によって互いが気持ち良くなれる。私はこれを『皮肉りデトックス』と名付けた」

 口元に薄らと笑みを浮かべて言う昴を見て、俺はため息を漏らす。

「妙ちくりんなことこの上ないな」

「はは、そうかもしれないな」

 じとっとした俺の視線を受けて、昴はむしろ快活に笑って見せた。

 今彼女が話した内容は、有体に言えば荒唐無稽も良い所だ。本来であれば人を不快にさせる皮肉を言って逆にスッキリさせてしまう。そんなことはあり得ないと一蹴してしまいたい。けれども、実際にこの目でその現場を目撃してしまったのだから、力強く否定することが出来ない。

「……一つ聞いても良いか?」

「ん、何だい?」

「お前はあくまでも自分の嗜虐心を満たすために皮肉を言っているんだろ? ただ、その結果として相手は逆に癒されてしまう。そうなったら本末転倒じゃないか? お前の嗜虐心は満たされないんじゃないのか?」

 俺が疑問を投げかけた直後、昴はふっと鼻を鳴らした。

「何だよ?」

 不快に眉をひそめて俺は問いかける。

「いや、すまない。中々に鋭い指摘だと思ってね。柳田くんのくせに、素晴らしいよ」

「そいつはどうも……」

 俺は怒りで頬の筋肉がぴくぴくと痙攣するのを感じた。どうせ言うなら、上質な皮肉とやらを言ってくれ。

「ああ、そうそう。君の問いかけに対する答えだけどね……確かに、私が編み出した『皮肉りデトックス』は、正直な所あまり嗜虐心は満たされない。相手は傷付かないのだから」

「じゃあ、ダメじゃねえか」

「ダメじゃないよ。皮肉を言うことで体内……正確には、心に溜まった毒素はしっかりと排出される。曲がりなりにも、自分の不平不満を吐き出しているのだからね」

 昴は自らの胸に手を当てて語り出す。

「皮肉というのは、元来とても危険なレトリックだ。遠回しに嫌味ったらしく相手を非難し、不快な気分にさせて、その結果痛いしっぺ返しをくらってしまうこともままある。だから私は試行錯誤を重ねて、絶妙な皮肉を言うように心がけて来た。その結果として皮肉を言った相手がデトックスされるようになったんだ」

「もしかして、お前は人のために皮肉を言っているのか?」

 俺が尋ねると、昴は小さく吐息を漏らし、ふっと微笑む。

「君は愚かなお人好しだな。良いかい、私が『皮肉りデトックス』をするのはあくまでも自分のためだ。日々の生活で溜まった毒素を排出する。そのために皮肉を言い、結果として相手もデトックスされる。全く、素晴らしい相互関係だと思わないかい?」

 昴は両手を広げて、少し大袈裟に言ってみせた。

「確かに……素晴らしく歪んだ関係だな」

 冷めた口調で俺は言う。

「あっはっは! 言ってくれるじゃないか」

 だが、昴は尚も快活に笑っていた。こいつ、もしかしてMの気があるんじゃないのか?

「その小生意気な唇を、包丁で斬り捨ててやりたいよ」

 とんでもなく恐ろしい台詞を満面の笑みを浮かべてほざきやがる。

 前言撤回。やっぱりこいつはSだ。ていうか、俺に対しては上質な皮肉とやらを言う気はねえのか、この野郎。

「私は小、中学生時代にかけてこの技術を身に付けた。その素晴らしい技術を、これから君に教えてあげよう。感謝することだな」

 不敵な笑みを浮かべて昴は言う。

「いや、別にそんなこと頼んでねえから。やらなくちゃいけないこともあるし……」

 ふっと脳裏に浮かんだとある少女の姿を噛み締めて、俺は右の拳を強く握った。

「へえ、君みたいな怠惰な奴にもやるべきことがあるのかい?」

 心底驚いたように言う昴の顔面を殴りたい。ちょうど拳を握っていた所だし、いっそ本気で殴ってやろうか。衝動が湧き立つも、まあ相手は仮にも女だからと言わんばかりに、左手が包み込むようにして右拳を押さえてくれた。

「……うるせえな。関係ないだろ」

そして上手い返答が思い付かず、ふて腐れたようにそっぽを向いてしまう。

「とにかく、俺はもうこんな訳の分からない同好会になんて二度と来ないからな」

 俺は荒く鼻息を鳴らすと踵を返し、部屋の扉へと向かう。

「……ふふ、良いのかなそんなことを言って」

 背後で昴の不敵な笑い声がした。

「あ? 何がだよ?」

 俺は眉をひそめて振り返った。

「もし今後この『言語研究会』……『言研』に来ないのであれば、私が君に嫌らしい目で見られたと学園中で言って回るぞ。主に女子に対して」

「なっ……」

 思わず息を詰めてしまう。この高良昴という女は、さながらタカラジェンヌの男役のような美貌と凛々しさを兼ね備えているため、入学して早々に学園中の女子達のハートを掴んだ。何やらファンクラブも発足しているらしく、「スバル様」なんて呼ばれたりしている。そんな人気者の彼女による発言の影響力は想像に難くない。例えそれが虚偽の発言だったとしても、ファンクラブの会員を初めとした女子達は信じて疑わないだろう。結果として、愛しの「スバル様」に害を為した俺は学園中の女子から嫌われて灰色の青春模様まっしぐらだ。それは辛い。この学園にはあの子もいるかもしれないのに……入学早々、そんな悪評が立っては困るのだ。

 高速回転していた脳みそが一旦落ち着き、俺は改めて昴を見た。相も変わらず不敵な笑みを浮かべている。ああ、やっぱり殴ってやりたい。だが、俺は湧き上がる怒りの感情を深呼吸によって何とか押さえ込むと、おもむろに口を開いた。

「……分かったよ」

 ぼそりと、掠れそうな声を発した。

「ん、何だい?」

「だから、今後もこの『言研』にいてやるって言ってんだよ」

 苦虫を噛み潰すようにして俺が言うと、昴は天井を仰いだ。

「あはは、随分と上から目線だね。君程度の頭脳でも、もっときちんとした物言いが思い浮かぶだろう?」

「は?」

「これからも、愛しのスバル様のおそばにいさせて下さい……って、きちんとお願いしなくちゃダメだよ」

「いや、何でそこまで言わなくちゃいけないんだよ!?」

「え? だって、君のようなロクでもない男が私に屈服するのは当然のことだろう?」

 淀みのない口調でとんでもないこと口走りやがるなこのクソ女。

「ほら、早くしてくれよ。愚かだけど物分かりの良い君なら出来るだろう?」

「お前……」

 俺は尚も言い返そうとするが、これ以上続けても埒が明かない。それに悲しいかな、俺がロクでもない男であり、昴の方が遥か上位の人間であるという点は紛れもない事実であった。

「……れからも……させて下さい」

「え?」

 昴は意地悪く小首を傾げた。

「だから、これからも……おそばにいさせて下さい」

「こらこら、柳田くん。肝心の部分が抜けているよ。もしかして焦らしているのかな? 焦らしプレイなのかな? 君ごときが小生意気だね、愚かな柳田くん」

 昴は毒々しい笑みを浮かべていた。こいつ、この状況を思い切り楽しんでやがる。全く本当に、俺は何で一瞬でもこんな女に見惚れてしまったのだろうか。大切なあの子がいるというのに。我が人生最大の汚点と言っても過言じゃない。

「……お願いします。これからも……い、愛しの……スバル……様のおそばにいさせて下さい」

 屈辱に震える声で俺は何とか言い切った。何だか大事な物を色々と失ってしまったようで、ひどく脱力してしまう。

「ふふ、きちんと言えたね。偉いぞ、柳田くん」

 顔を上げて見れば、昴が実に満足そうな笑みを浮かべていた。殴りたい、この笑顔。

 俺は歯を食いしばり、怒りに震える自らの拳を必死に押さえた。

「実に良かったよ、うん……けど欲を言えば、もっと頬を赤らめて照れたような仕草が欲しかったな」

「は?」

「よし、そういう訳だからテイクツーと行こうか」

「はあぁ!?」

 俺は目をひん剥いて絶叫した。だがそんな俺の様子に構うことなく、昴は嬉々として椅子の上で足を組み、踏ん反り返っている。

「よし、麻帆里。合図を出してくれ」

「分かったよ~」

 のほほんとした声で麻帆里は答える。

「じゃあ、行くよ~。よ~い……アクション!」

 一転した鋭いそのかけ声を受けても、俺は硬直したままだった。

「おい、柳田くん。君は何をしているんだ。麻帆里の合図が聞こえなかったのか?」

「そうだ、そうだ~。わたしがせっかくナイスなかけ声送ったのに~」

 昴は呆れたように眉をひそめ、麻帆里は口の先を尖らせている。

「いや、お前らちょっと落ち着け。ていうか、これっていじめじゃね?」

「何を言っているんだい、柳田くん。いじめっていうのはもっと胃がキリキリするくらい陰険なものさ。今の私達はあくまでも君と楽しく戯れているだけだよ。なあ、麻帆里?」

「そうだ、そうだ~」

「いやいや、俺今メッチャ胃がキリキリしているんだけど……」

 腹部をさすりながら、俺は情けない声を漏らしてしまう。

「あはは、そうかい。将来の辛い社会人生活に備えて、良い訓練になっているじゃないか」

「うるせえよ、バカ野郎」

「あっはっは」

 憎々しく睨み付ける俺に対して、昴は尚も快活に笑い続ける。

 ああ、入学して早々にこんな奴と出会ってしまったなんて。

 俺は自らの運の悪さを呪うしかなかった。







      第二話 「皮肉りデビュー」




 弱弱しい表情でうずくまっている彼女を見た時、胸の奥底で激情が湧き上がった。

 気が付いた時には地面を強く蹴って駆け出し、彼女を取り囲んでいる奴らに向かって行った。

 無我夢中で己の拳を振り回し、時折反撃を食らいながらも、気迫で奴らを退けた。

 肩で大きく息をしていた時、彼女と目が合った。それまで弱々しく怯えていた彼女の顔が儚げな笑みを浮かべた時、胸が高鳴ったのをよく覚えている。

「将来、俺と結婚しよう」

 子供ながら、ませたプロポーズなんかしてしまって。

「……うん、良いよ」

 彼女は儚げに微笑んだまま、頷いてくれた。




      ◇




 おもむろに目を開けると、蛍光灯の明かりが目に染みた。

 視線を巡らせると、テーブルの上に教科書やノートが散乱している。その惨状を見て、俺は思わず額を押さえた。

「……やっちまった」

 昨夜、宿題に取りかかろうと勉強道具一式をテーブルの上に置いた所までは良かった。とりあえずその前に座って向かい合おうとした。努力はしたのだ。しかし、その途端に猛烈な睡魔に襲われた。奴は強い。とてつもなく強い。勝てる奴がいたら教えて欲しい。大半の奴がノックダウンされてしまうはずだ。そんな訳で大半の内に入ってしまう俺はあっけなく睡魔様に心地良い睡眠へと誘われてしまったのだ。まあ春眠暁を覚えずなんて言うくらい、春の夜は心地よくて眠くなってしまうのだ、仕方がない。とりあえず寝過ごしてはいないだろうけど……あれ、寝過ごしてないよな?

 不安に駆られて、俺は枕元に置いていた目覚まし時計を見た。

「……良かった、寝過ごしてなかった」

 俺はホッと胸を撫で下ろす。とは言え、さほど余裕のある時間という訳でもないので、軋む身体を鼓舞して布団から身を起こした。

 現在、俺は高校進学を期にアパートで一人暮らしをしている。そのことを話すと周りから「羨ましい~」なんて言われるが、住んでいるのは六畳間の、有体に言えばしょぼいアパートだ。友達が部屋に来て「わあ、素敵なお部屋」なんて言うことは恐らくないだろう。まだ引っ越して来たばかりで物が少ないということもあるが、随分と殺風景な部屋だ。まあ、床は畳ではなくフローリングであるが、今の俺が財政的事情からベッドではなく布団を用いていることから、むしろ前者であった方がありがたいとさえ思っていた。朝起きる度に背中が痛くて仕方ない。

 そんな風に胸の内で愚痴をこぼしつつ、俺は洗面所へと向かい顔を洗った。朝飯をどうしようかと思ったが作る気力が起きない。通学途中にあるコンビニで買う手も思い付くが、貧乏暮らしの身分でそんな余裕はないので却下する。

「こりゃ、朝飯抜きだな……」

 ため息交じりに呟き、テーブルの上に散乱した勉強道具一式を鞄に詰め込む。それから制服に着替えて、アパートを後にした。

 襲い来る眠気と空腹に苛まれながら住宅街を歩いて行く。引っ越して来た当初は、約十年ぶりに味わう故郷の空気に酔いしれていたが、そんな気分はあっという間に霧散した。

 関東地方の一都市である捻里(ひねり)市。そんな名前であるが、形そのものは至極真っ直ぐである。東京に近い方から上区、中区、下区といった具合に分かれている。俺が小さい頃に住んでいたのは上区であり、その中でもレベルの高い名門・私立美礼学園にこの春から通っていた。

「……はあ、だりぃな」

 朝から憂鬱なため息を漏らしつつ、俺は歩みを進めていた。




 その日の授業が一通り終わると、俺は机に突っ伏した。

 死ぬかと思った。一番の地獄は午前中だった。絶対強者である睡魔に加えて、奴と双璧を成すくらいに恐ろしい空腹に襲われていた。昼休みに購買で安いアンパンで栄養補給をしなければ、俺は確実に息絶えていただろう。午後の授業はひたすらに睡魔との戦いに集中すれば良かった。一瞬落ちかけた時もあったが、とりあえず全ての授業をやり過ごすことが出来た。

 その結果として、俺は今こうして机に突っ伏しているのだ。孤軍奮闘した俺を誰か褒め称えて欲しい。まあそんな奇特な奴はいないだろうけど。

 中途半端な睡眠とメシ抜き、今後この二つは絶対にやらないと心に誓う。睡眠に関しては昨日みたいに電気付けっぱなしで寝ないように、寝る時は寝ると決めてきちんと電気を消して寝ればオーケーだ。当たり前だけど。そして、メシに関してはいくら貧乏暮らしでも抜くのはやめよう。とりあえず何とか節約して安上がりにするように努力すれば問題ないはずだ。幸いな事に必要な調理器具は揃っている。これからアパートに戻る途中でスーパーに寄って食材を購入し、自炊をしよう。料理なんてしたことないけど。

 ただ、その前にこの疲れ切った体を今は少しだけ休めよう。それからスーパーに行こう。

 胸の内で呟くと、俺は重い瞼をゆっくりと閉じて行く。

「――柳田くん」

 ふいに、凛とした声に呼ばれた。その声には非常に聞き覚えがあったが、俺は無視をして心地よい睡眠へと没入して行く。

「おい、そこで惰眠を貪っている柳田くん」

 その声は尚もしつこく俺に迫って来る。だが、俺は無視を決め込む。無視無視。

「おーい、そこで嫌らしい妄想をしながら惰眠を貪っている柳田くーん」

 瞬間、俺は光の速さで身を起こした。

「やあ、柳田くん。爽やかな目覚めだね」

 寝起き一番、俺の視界に飛び込んで来たのは昴の満面の笑みだった。

何度でも殴りたい、この笑顔。

「……何が爽やかな目覚めだよ。ていうか、周りの奴らの視線が痛いんだけど……」

「あはは、良いじゃないか。君は元々痛い存在な訳だし」

「てめえ、そろそろ殴るぞ」

 俺はぐっと拳を握り締める。だがその時、周りから囁き声が聞こえて来た。

「きゃあ、スバル様よ」「相変わらず凛々しくて素敵だわ」「ていうかあの男、スバル様を殴るとか言ってなかった?」

 思わず握り締めていた拳を解く。俺は苦々しい表情でため息を吐いた。

「……それで、何の用だ?」

「そんな素っ気ない態度を取らないでくれよ。同じ『言研』の仲間として迎えに来てあげたんだからさ」

「仲間ねぇ……」

 俺は片頬を歪めて鼻を鳴らした。

「おや、不満かい? じゃあ……君は私の下僕だ」

 これでもかというくらいに爽やかな笑みを浮かべて昴は言った。

 こいつ、マジで殴りてえ。しかし、そんなことをすれば周りの女子達から総スカンを食らって灰色の高校生活まっしぐらとなってしまうため、俺は怒りを飲み込んだ。

「それにしても柳田くん。君は顔色が優れないね。というか、顔が優れないね」

「放っとけ」

「前にも言ったが、ここは一つ君もやってみるかい?」

「あ? 何をだよ?」

 心底不機嫌な声で俺は聞き返す。昴は満面の笑みを浮かべたまま、口を開いた。

「皮肉りデトックス」




 言語研究会、通称「言研」の扉を開いた直後、

「あ、スバルンとミッキーが来た」

 ふわふわとしたあどけない声に出迎えられた。

「やあ、麻帆里。もう来ていたのかい?」

 昴が微笑みながら尋ねた。

「うん。授業が終わった後、すぐに来たんだよ」

「そうか、麻帆里は偉いな。どこぞの怠惰な少年は授業が終わった後に惰眠を貪っていたというのに」

 色素の薄い麻帆里の髪を撫でながら、昴がちらりと俺に目配せをして言う。

「あー、ミッキーいけないんだ~」

 昴に加勢するように、麻帆里が間延びした声を発した。

「おい、麻帆里。前々から思っていたけど、そのあだ名は某夢の国の偉大なるネズミさんに申し訳ないからやめてくれ」

「えー、可愛いのに」

 麻帆里が口の先を小さく尖らせて言う。

「柳田くん。そんな風に謙遜することはないぞ」

 途端に、昴がそんなことを言い出す。

「君だって偉大なる男じゃないか」

「え?」

 俺は予想外の賛辞に思わず目を丸くした。

「そう、君は偉大なるクズじゃないか」

 さらりと痛烈な皮肉を受けた。そうだ、この女はこういう奴だ。うかつに信じてその賛辞を受け入れた時、とんでもない惨事が待ち受けている。ていうか、相も変わらず俺に対してだけやたら攻撃的な皮肉を言うのはやめてくれませんかね?

「ねえ、スバルン。ミッキーはクズなの?」

 純粋無垢な顔で麻帆里は問いかける。つか、その物言いは色々と語弊があるからやめろ。

「こら、麻帆里。そんなことを言ったら柳田くんに失礼じゃないか」

 たしなめるように昴は言う。

「柳田くんはただのクズじゃない。この由緒正しき美礼学園に入学しておきながら、早々に堕落した生活を送っている。まさにクズのお手本みたいな奴さ。あるいは、クズの先生と言っても過言じゃない。なあ、クズ先生?」

 だから、そんな爽やかな笑みを浮かべて皮肉るな。誰だよ、クズ先生って。

「うるせえな。俺は一人暮らしで色々と大変なんだよ……」

 こちらも皮肉で返してやろうと思ったが、上手いこと思い付かなかったので、またぞろふて腐れたようにそっぽを向くことしか出来なかった。

「え、ミッキーって一人暮らしをしているの?」

 おっとりした口調で麻帆里が尋ねてくる。

「まあな。俺は別の地方からこの美礼学園に進学したから。今は親元を離れてアパートで一人暮らしをしているんだ」

「へえ、すごいね」

「いや、そんなことねえよ」

 言った直後、俺はちらりと昴を見た。また皮肉を言われないか警戒する。だが奴は柔らかな微笑みを浮かべたまま、こちらを見つめているだけだった。しかし、なぜだか無性に腹が立つのは俺だけだろうか。マジで殴りてえ、あの笑顔。笑顔じゃなくても一発殴ってやりてえけど。

「でも、ミッキーは何でわざわざこの学園に進学したの?」

 素朴な疑問を、麻帆里は投げかける。

「それは……」

 言い淀み、口ごもってしまう。

 かつて、俺は一人の少女を救った。いや、救ったなんて恩着せがましいかもしれないけど。自らの拳を握り締めて、彼女を守ったのだ。恥ずかしいことにプロポーズなんてませた真似までやってのけて。そして、彼女はそれを受け入れてくれた。

 だが、俺は父の仕事の都合で引っ越すことになった。それきり、彼女と会うことは叶わなかった。何度も忘れようと思ったが、その度に彼女に対する思いが溢れて来て耐えられなくなった俺は、かつて住んでいたこの捻里市に舞い戻って来た。もう一度、彼女に会うために。彼女は清楚で可憐で、儚げな少女だった。だからきっとどこかのお嬢様で、高校もレベルの高い所に進学していると思った。だから俺は猛勉強の末、この捻里市の美礼学園に合格することが出来たのだ。ただ猛勉強をした反動ですっかり抜け殻モードになってしまい、入学早々から実に怠惰な生活を送ってしまっているのだが。

「どうしたの、ミッキー?」

 麻帆里が小首を傾げて尋ねると、俺はハッと意識を取り戻す。

「いや、何でもない……まあ、色々とあるんだよ」

 苦笑して、曖昧に答えるしかなかった。

「ところで昴、さっき言ったのはどういう意味だよ?」

 そして、半ば強引に話題の転換を図る。

「ん、何がだい?」

「俺に『皮肉りデトックス』をやれって言ったことだよ」

「やれ、なんて命令口調で言ってないさ。私はあくまでも『やってみるかい?』と提案したつもりだが」

「そんなのはどっちでも良い。何で俺がそんなことをしなくちゃいけないんだよ」

「さっきも言っただろう? 君は顔色が優れない、もっと言えば顔が悪いと」

「うるせえよ!」

「はは、そう怒るなって。君は我が言研の一員だろう? だったらその術を心得てもらわないと。それにちょうど依頼も来ていることだしね」

「は? 依頼だって?」

 俺は顔をしかめて聞き返す。

「そうだ。私の『皮肉りデトックス』の評判が早くも広まっているらしくてね、その腕を見込んでデトックスの依頼が来ているんだ」

「へえ、そりゃ良かったな。精々がんばってくれ」

「だからその依頼を君が受けるんだよ、柳田くん」

 満面の笑みを浮かべて言う昴を、俺は口を半開きにしたまましばし見つめていた。

「……断る」

 ぽろり、と口の端から言葉がこぼれる。

「おや、なぜだい?」

 昴はあくまでも笑顔を絶やさず落ち着き払ったまま、問いかけてくる。

「俺はお前みたいにそんな皮肉が達者じゃないし……第一、面倒くせえ」

「あはは! 何をするにしても面倒くせえとか……清々しいくらいのクズ野郎だね」

「うるせえ、何とでも言え」

 俺は吐き捨てるように言って、そっぽを向いた。

「あくまでも、やらないつもりかい?」

「ああ、そうだよ」

「そうか……」

 すると、昴は踵を返して部屋の扉へと向かう。

「おい、どこに行くんだよ?」

 俺がその背中に問いかけると、昴は顔だけ振り向いて微笑んだ。

「これから、少しばかり可憐な女子達とお喋りをしてくるよ。ただご存じの通り私は少しばかりお喋りだから、ついうっかり君の悪口を言ってその評判を貶めてしまうかもしれないね。そうなれば君は学園中の女子から嫌われてしまうな」

 形の良い昴の口の端が、にやりと吊り上がる。

「なっ……」

「まあ、でも良いよな。クズで面倒くさがりの君は、恋愛だって面倒くさいのだろう? だったら私がひと肌脱いで君の学園生活からその煩わしい選択肢を消してあげよう。感謝することだな」

 爽やかな笑みを浮かべて、昴はその場から立ち去ろうとする。

「……ちょ、ちょっと待て」

 俺は掠れるような声で彼女を呼び止めた。

「ん、何だい?」

 昴は満面の笑みを浮かべた状態で、こちらに顔を向けた。

「その、何だ……それは勘弁してくれ」

「それって?」

「だから、女子に俺の悪評を吹聴するのはやめてくれって言ってんだよ」

 顔が火照るのを感じた。苦々しい表情で、俺は顔を俯ける。

「おやおや、こいつは驚いた。怠惰な柳田くんにも、いっぱしの性欲があったんだね」

「いや、性欲とか言うな」

 仮にも女子だろうが。

「あはは、この期に及んで飾らなくても良いよ。性欲、大いに結構じゃないか。思春期の男子高校生たるもの、溢れんばかりの性欲がないとね」

「それはちょっと歪んだ物の見方過ぎませんか!?」

 俺が大仰に突っ込みを入れると、昴は快活な笑みを浮かべてくるりと振り向いた。

「まあまあ、落ち着きたまえ。君の頼みはきちんと聞き入れてあげるから。ただしその条件として、デトックスの依頼は受けてもらうけどな」

 こちらに値踏みするような視線を向けて、昴は言う。

 俺はしばし逡巡した末、おもむろに口を開く。

「……分かったよ。正直そんなことやりたくねえけど、あの子に嫌われるよりはマシだし……」

「あの子?」

 昴が小首を傾げた。俺はハッとして口をつぐむ。

「いや、何でもねえ……」

 俺は誤魔化すようにそっぽを向いた。一方、昴はそれ以上追及する素振りを見せず、笑みを浮かべた。

「まあそういう訳だから、デトックスの件よろしく頼んだよ」

「あー、はいはい。分かりましたよ」

「『はい』は一回でよろしいって常識を知らないのかい、社会のクズが」

 相変わらず爽やかな笑みを浮かべて痛烈な物言いをしやがる。だが言い合っても敵いっこないので、俺は大人しく口をつぐんだ。




 俺は昴の後に付いて、階段を上っていた。

「時に柳田くんよ」

「あ、何だよ?」

「やはり、男子は階段の脇に隠れて女子のスカートの中を覗いたりするものなのかい?」

 唐突なその質問に、思わずうろたえてしまう。

「さ、さあな。人によりけりなんじゃねえか?」

「柳田くんは覗くのかい?」

「いや、俺はそんな真似しねえから」

「え~、本当かい?」

 昴はこちらに振り向き、目を細めてにたりと笑う。度々こいつを殴りたいと思うのは、決して俺が短気だからという訳じゃないはずだ。むしろよく耐えている方だと思う。誰か俺を褒めてくれ。

「んなことよりも、どこに向かってんだよ」

「二年生の教室さ。今回の依頼者は二年の先輩だからね」

「あー、そうなのか?」

 俺は少し苦々しい顔で言う。

 正直入学して間もないこの時期に上級生の教室に赴くとか、あまり気が進まない。後輩を威圧するような先輩だったら嫌だな、とか考えてしまう。

「大丈夫だよ、安心してくれ」

 そんな俺の不安を察知してくれたのか、昴が優しく微笑んだ。こいつ、実は良い奴なのかもしれない。

「君みたいな冴えない男、上級生は眼中にないから。怯えることないさ」

 前言撤回。こいつ、マジで殴りてえ。ていうか、騙された俺も悪いな。こいつが紳士に見せかけた性悪だということは分かり切っているのだから。今のはうっかり信じた俺の痛恨のミスである。てか、そもそもこいつは女だ。

「ああ、そうだな……」

 湧き上がる怒りを必死に抑えつつ、俺は快活に笑う昴の後に付いて行く。

 二階の廊下には人の姿がまばらだった。放課後になってからそれなりに時間が経過していることだし、多くの人達は部活動に行くか、あるいは下校しているのだろう。正直な所ホッとしていた。やはり多くの上級生を目の当たりにすると、恐らく緊張していただろうから。

 そんな小心者の俺に対して、昴は威風堂々とした姿勢で二年生の廊下を歩いて行く。時折、すれ違う女子の先輩達が昴の姿に見惚れていた。そんな彼女達に対して、昴が軽やかに手を振って見せると、彼女達は色めき立った。こいつマジで人気者なんだな。神経疑うぜ。

 感心半分、妬み半分の気持ちを抱きながら尚も昴の後を追って行くと、やがてその歩みが止まった。俺達の目の前には、『二年E組』の教室があった。

「行こうか」

 昴は一切ためらうことなく、その二年E組へと足を踏み入れた。俺は戸惑いつつも、その背中を追う。

 がらんとした教室には、二人の女子がいた。一人はまさに美礼学園生という具合に清楚で可憐な女子だった。その端正な顔立ちから、理知的な雰囲気が漂っている。俺は思い人の少女がいるにも関わらず、一瞬見惚れてしまう。だがすぐ脇に視線をずらせば、巨大な肉塊がいた。いや、肉塊なんて失礼だ。しかしそのように形容するのが適当、あるいは手っ取り早い、丸々と太った女子がいるのだ。

「高良昴さんね」

 美人な女子が言った。その見た目通り美しい声だ。

「ええ、そうです」

 昴はにこりと微笑んで頷く。

「私は二年の清永琴音(きよなが ことね)と言います。ごめんなさい、お呼び立てして。『毒抜きのスバル』と呼ばれるあなたの力を見込んで、お願いがあります。私の友人を助けて欲しいんです」

 その名の通り清らかに澄んだ瞳で、清永さんは訴えて来る。ていうか、こいつそんな呼び名があるのか。入学早々、どんだけ注目されてんだよ。

「もちろんです。あなたのように美しい方の頼みならば、喜んで受け入れますよ」

 今の台詞いるか? その思わず背筋がぞっとするような台詞を聞いて、しかし清永さんは頬を赤らめてはかにかんでいた。なるほど、イケメン+キザな台詞=どんな女でも落とせちゃう方程式なのか。まあ、昴は女だけど。

「それでその救って欲しいご友人というのは、こちらの方ですか?」

 昴は清永さんの隣に鎮座している、富士の山のごとき体格を持つ女子を見て言った。

「ええ。彼女は私の親友で、富田丸子(とんだ まるこ)です。ほら丸子、あいさつして」

 清永さんに促されると、その富田さんとやらは、緩慢な首の動きでこちらに視線を向けた。その巨体から、一体どれだけド迫力な声が飛び出すのかと身構えていた時。

「……あ、初めまして~。富田丸子で~す」

 予想外に間延びして可愛らしい声が飛び出した。思わず面食らってしまう。

「初めまして、高良昴です。いやはや、随分とご立派な体格をしてらっしゃいますね」

 のっけからジャブを打つ昴。おい、やめろ! 一見おっとりしているように見せかけて、キレたらその巨体でフライングプレスを決めてくるかもしれないんだぞ! そうしたらお前の華奢な身体は間違いなくぺしゃんこだ!

「えへへー、だよね」

 しかし富田さんは一切怒ることなく、むしろその肉付きの良い頬を緩ませてにこりと微笑んで見せた。

「だよね、じゃないでしょ丸子。あなたの今の体型は不摂生が招いた結果でしょう?」

 横に立つ清永さんが、半ば呆れたような視線を富田さんに向けて言った。

「えー、そんなことないよ。ていうか、琴音ちゃんが細すぎるんだよ。それでいて、おっぱいはちゃんと大きいとか羨ましいし~」

 富田さんが言うと、清永さんは少しばかり赤面して胸の辺りを腕で覆い隠した。

 なるほど、清永さんはスレンダー巨乳、清永さんはスレンダー巨乳……っていかん、いかん。少しばかり好みの先輩女子のお得情報を聞いて舞い上がっている場合じゃない。

「いや、でもそれにしたって、富田さんは少しばかり大きすぎるんじゃないですか? 何かあったんですか?」

 俺は相手の機嫌を損ねないように、なるべく愛想の良い笑みを浮かべて問いかける。慣れない表情をするものだから、表情筋が攣りそうだ。

「え? う~ん……まあ、二年生に進級する前の春休みに、ちょっとばかり食べ過ぎちゃったかもしれないね」

「ちょっとばかり、ですか?」

「うん、ほんのちょっとばかりだよ」

 にこりと微笑んで富田さんは言う。しかし、俺はその笑顔がイマイチ信用出来ず首を傾げた。すると、「丸子、嘘を言うのはやめなさい」と清永さんが軽く叱責を飛ばす。それから、おもむろに制服の胸元に手を入れて(確かに、細身ながら立派なものを持っていらっしゃる)、一枚の紙を取り出した。それが俺達の前に差し出される。受け取ったそれは紙ではなく一枚の写真だった。清永さんと小太りの、愛らしい少女のツーショット写真だった。

「それが、春休みに入る前の丸子よ」

「え……?」

 俺はにわかに衝撃を受けて固まった。脇からひょいと顔を覗かせた昴が「ほう、愛らしい小デブさんだ」などとのたまっているのを無視して、固まり続けた。

「……えっと、これって一年くらい前の写真じゃないんですか?」

「いいえ。正真正銘、春休み前に撮った写真よ。ほら、私達の後ろにある黒板を見て」

 清永さんに言われて見てみると、その黒板には年月日が明確に記されており、それは紛れもなく春休み前に撮ったものだということを証明していた。ということは、富田さんは約二週間の春休みで、愛らしい小デブちゃんから迫力満点の大デブ、いや特大デブと化してしまったのか。人はたった二週間かそこらでここまで肥大化出来るものだろうか? 人体の神秘を垣間見た気がする。

「あなた、毎日のようにバイキングに行っていたものね」

 俺が衝撃に身を打たれていた時、清永さんが声を発した。

「バイキング……ですか?」

 聞き返すと、清永さんは鬱屈そうな顔で頷いた。

「私も何度かこの子に付き合って行ったのだけれど、もうそれは凄まじい食べっぷりで、周りのお客達は完全に引いていたわ。もちろん、私も引いていた」

「ひどいよ、琴音ちゃん」

 富田さんの訴えを無視して、清永さんは続ける。

「私はせっかく食事に行くなら、たまにはもっとおしゃれで落ち着いた雰囲気のお店に行きましょうって言ったの。けれどもこの子は、質よりも量だって言って、とにかく食べ放題のバイキング店に通い詰めたの。そして、この近辺のバイキング店からことごとく出禁を食らったわ」

「出禁って……」

 どんだけ食ったんだよ。俺は問いかけたくなるが、彼女の口よりも今目の前にいる富田さんのこれでもかというくらいにでっぷりとした体が、何よりも雄弁に物語っていたので口を閉ざす。

「だってさ~、しょうがないじゃん。何かストレスが溜まっちゃって、いっぱい食べたくなったんだもん。それに、この学園の生徒って割と裕福な人が多いけど、私の家はそうでもないから。安価でたくさん食べられるバイキングが良いの」

 少し拗ねたように富田さんは言う。

「ストレス……ですか?」

 俺が聞き返すと、富田さんは頷く。

「ほら、この学園って市内でも有数の進学校でしょ? 一年生の頃は割とのんびり過ごせたけど、二年生になったら受験を視野に入れて勉強に励まないといけないから……そう考えたら不安で仕方なくて……食べることで気を紛らわそうとしたの」

 なるほど、その結果として今の超巨体になったと。全く笑えない。

「お願い、このままだと丸子は食べ過ぎで死んじゃうわ。助けてあげて」

 清永さんが澄んだ瞳を切実に歪めて言った。

「分かりました、お任せ下さい」

 昴がにこりと微笑んで言った。清永さんはその表情に少しばかり安堵の色を浮かべる。

「ただし今回のデトックスは私ではなく、彼が担当します」

 俺の肩をぽんと叩いて昴が言った。すると、清永さんがまた少しばかり不安な顔をした。ごめんなさい、期待の昴じゃなくて俺なんかで。

「そうなの……まあ、丸子が元に戻ってくれるなら私はそれでも構わないわ」

「ご安心下さい。万が一デトックスに失敗したら、彼にはきつい仕置きを与えてやりますから。ええ、それはもう泣いて喚くようなきついお仕置きをね」

 昴は毒々しい笑みを浮かべた。

 そのきつい仕置きが何なのか俺が問い質そうとした時、昴はスマートな所作で清永さんを誘導し、教室の外に連れ出した。

「それじゃ、柳田くん。後は任せたよ」

 爽やかな笑みを浮かべて、昴は去って行った。

 いや、任せたよって……俺何もレクチャー受けてないんだけど。とりあえず実践で学べ、ただし失敗したら殺すみたいな感じ、どこのブラック企業上司だよ。

 バタンと扉が閉じた時、一瞬教室内に静寂が舞い降りた。

 俺は改めてちらりと富田さんを見た。やっぱりデケえな。デカ過ぎる。本当は着ぐるみを何重にも着込んでいるじゃなかろうかと思いたくなる。

「……あ、それじゃ始めますか」

「うん、よろしくね~」

 緊張気味の俺に対して、富田さんはあくまでものんびりとした口調で答える。

 さてと、これからどうしたものか。とりあえず昴みたいに皮肉を言って、富田さんの体内に溜まったストレスと言う名の毒素を取り除き、暴食を止めさせ、その結果として彼女が痩せる方向に持って行くのが俺に与えられた使命だ。

「あの、富田さん」

 俺が呼びかけると、富田さん「ん?」と首を傾げた。いや、でっぷり肥えた彼女には最早、首は無いに等しい。顔と肩がそのままくっ付いたような感じである。

「富田さんが近付いて来たら、すぐに分かりますよね」

「え、何で?」

「だって、地響きが凄そうだから。ズシン、ズシンって……いやぁ、分かり易くて良いですね」

 初めてで緊張したが、我ながら中々良い皮肉を言ったのではなかろうか。胸の内で自画自賛してしまう。さて、富田さんの反応はどうだろうか? 俺はちらりと目線を向ける。

「えー、本当に? それって嬉しいな」

「は?」

「だって、わざわざ声を発しなくても、そばに近付いて行けばみんな気が付いてくれるんだもん。省エネだね」

 肉付きの良い顔でにこやかに微笑む富田さんを見て、俺は驚愕した。皮肉が通じていない。それはこの富田さんは寛容の心の持ち主なのか、あるいは鈍いのか、はたまた皮肉を理解出来ないくらいに残念なおつむなのか……何だか、全部のような気がして来た。

 初手のジャブを軽々とかわされた、というか吸収されてしまった俺は気を取り直して口を開く。

「省エネって言いますけど、むしろ燃費悪いでしょ。そんな大きな体で生活していたら、いくらエネルギーがあっても足りないでしょ?」

 今度はどうだ?

「本当にそうだね。だから、もっといっぱい食べないと!」

 ダメだった! つか、逆効果!

「いや、でもそれ以上食べたら体に毒っていうか……」

 まずい、パニくって頭が上手く回らない。こんな言葉じゃ通用しない。

「大丈夫だよ。それに、食べないでストレス溜める方が体に毒だもん」

 のほほん、とした笑みを浮かべて富田さんは言う。それから、彼女はおもむろに教室の壁に掛かっている時計を見た。

「あ、もうこんな時間。お店に行かないと」

「え、お店って? この辺りのバイキングの店は全部出禁になったんですよね?」

「うん。だから、今度は大食いチャレンジやっている店に行くの。超大盛りのラーメンを制限時間内に完食したら無料になるんだよ」

 嬉々とした表情で富田さんは言う。

 唖然とする俺に対して大きな背中を向けて、富田さんはのっしのっしと歩き出す。

「じゃあ、私はもう行くから」

「あっ、ちょっと待って……」

 俺は制するも虚しくスルーされてしまう。情けなくも手を伸ばした状態のまま、富田さんの巨体を見送るしかなかった。




 日もとっぷりと暮れた頃、学園内では下校時間を知らせるチャイムが鳴り響く。

「ミッキー、お家に帰る時間だよ」

 机に突っ伏して無気力状態に陥っていた俺の肩を、麻帆里の小さな手が揺すった。しかし俺は反応する気力が湧かず、尚も机に突っ伏したままだった。

「何でそんなに落ち込んでいるの?」

 あどけない声で麻帆里が尋ねてくる。

「はは、まあ無理もないね。清々しいくらいに無様な敗北を喫したんだから」

 俺の代わりに、これでもかと言うくらいの爽やかな笑みを浮かべて昴が答えた。

「……うるせえな。元はと言えば、お前がいきなり妙な仕事を俺に押し付けるからいけないんだ」

「おやおや、責任転嫁かい? そんなことで保ってしまうくらい、君の自尊心は安っぽいものなのかい?」

 こいつ、マジで減らず口ってかうぜえな。

 内心で毒づくも、俺は先ほどの手痛い敗戦に関して、自分の力不足が原因であることは重々承知していた。敗北を喫した後、気まずい思いを抱えたまま昴と清永さんの前に立った。

「仕方ないわよ。あなた初めてだったんでしょ? だったら、少しくらい上手く出来なくても当然よ。けど、少し早すぎた気もするけど……」

 優しくフォローしつつもさりげに毒を吐くことを忘れない清永さんは、美人ながらしたたかな女性だと思った。一方、昴は終始ニヤケ面を浮かべたまま俺を見つめていた。死ぬほどムカついたがやり合う気力も起きず、こうして無様に机に突っ伏す結果となったのだ。

「全く情けない奴だよ。君はそれでも男なのかい? だらしないねえ」

 それは皮肉ではなく最早ただの悪口である。

「俺に対してデトックスはしてくれないのか?」

「甘ったれるんじゃないよ、このへたれ」

 美しい形の唇が歪みとんだ罵声が飛び出した。それが追い討ちとなり、俺は最早動く気力を失くした。さらに夕焼けを飛ぶカラスの鳴き声が聞こえて来ようものなら、俺はより一層虚脱してしまうだろう。幸いなことに、窓の外にカラスは飛んでいなかった。

「ミッキー、早く帰らないと先生に怒られちゃうよ」

「もう良いよ、麻帆里。こんなへたれ男のことは放っておこう」

 見限るように俺から視線を逸らし、昴は部屋の扉へと向かう。その取っ手に触れた時、彼女はぴたりと動きを止めた。

「……君は少し優しくやり過ぎた」

「……え?」

 昴が発した言葉の意味がすぐに理解出来ず、俺は呆けた声を漏らしてしまう。

「富田丸子は正直に言ってあまりにも余計な脂肪が付き過ぎている。体と……それから心にも。生半可で優しい皮肉では、彼女をデトックスさせることは出来ない。君は私の華麗なる皮肉りを真似しようと思ったのだろうが、それは一旦忘れろ。もっと強い皮肉を……毒を与えてやれ」

「強い毒……?」

「そうだ。『皮肉りデトックス』は毒を以て毒を制する。富田丸子の場合は、抱えている毒素よりも、それを覆い隠している心の脂肪の方が大きい。堕落から生じた甘えによって構成された心の脂肪を溶かし、内に眠っているストレスという名の毒を浄化してやらねばならない」

 つらつらと語る昴はこちらに背中を向けたままである。

「……もしかして、アドバイスしてくれたのか?」

 俺が問いかけると昴は何も言わずその場に立っていたが、やがて無言のまま部屋を後にした。

「あ、待ってスバルン。じゃあね、ミッキー」

 ふわふわとした足取りで、麻帆里も去って行った。

言研の部屋に一人残された俺はしばし呆然と宙を見つめていたが、やがておもむろに椅子から立ち上がり、その場を後にした。




 アパートの部屋に戻った俺は、制服姿のまま敷きっぱなしだった布団に寝転がる。

 手を目元に当て、蛍光灯の明かりを遮りつつ黙考する。

 ――このへたれ。

 昴の容赦ないその一言が、未だに胸に突き刺さったままだった。

 確かに、今の自分はへたれだ。こうやって堕落した生活を送っている、へたれだ。

 思えば、かつての自分はもっと正義感に満ち溢れた快活な少年だった。

 それが今ではこの有様だ。年を重ねるに従って、失ってしまったものがある。たった十五年と少し生きた程度で何をほざいているんだという話だが。

 けれども、だからと言ってこのまま沈んで良いのだろうか。あの学園にいるかもしれない、あの子に再会した時、今の情けない自分の姿を晒せばきっと幻滅されてしまうだろう。それは嫌だ。絶対に避けたい。なぜなら、あの子にとって自分はヒーロー、あるいは白馬の王子なのだから。無様な俺のまま、終わる訳にはいかない。

「……やるか」

 手の平を伸ばして、光を掴もうとする。

 とりあえず、今の自分に与えられた仕事をきっちりとこなすことから始めよう。

 決意した俺は、とりあえず風呂に入るために起き上がった。




      ◇




 放課後、俺は言研の部屋の前に立っていた。無理やり連れて来られるのではなく、あくまでも見自分の意志でそこに立っていた。深呼吸を済ませると、その扉を開く。

 まず目に飛び込んで来たのは、椅子に腰を掛けて悠然と佇んでいる昴の姿だった。

「やあ、来たね」

「ああ」

 短いやり取りを交わした後、しばらくの間沈黙が生じた。

「……既に舞台は用意してある。存分にリベンジを果たし、負け犬の汚名を返上したまえ」

「……分かった」

 俺はそれだけ答えると言研の部屋を後にした。それから二階へと上る。規則正しい間隔で並ぶ教室の中から、二年E組のプレートを目指して歩みを進める。その扉の前に立つと、また深呼吸をした。先ほどよりも深く。意を決して扉を開いた。

 その先に待っていたのは可憐な少女でも、麗しい美女でも、ましてやあの子でもない。非常に丸っこい、有体に言えば醜く肥えた女だった。彼女は緩慢な動きでこちらに振り向く。

「あ……えーと、柳田くんだっけ?」

 厚い頬の肉に邪魔されているせいか、もごもごとした喋りである。

「はい。お時間を取らせて申し訳ありません、富田さん」

「ううん、別に良いけど。この後大食いチャレンジの店に行くから、手短に済ませてくれると嬉しいかな、この前みたいに」

 一瞬皮肉を言われたのかと思ったが、富田さんの表情はあくまでも穏やかである。失礼ながら、彼女は見た目にもそんな知性があるとは思えないので、今の発言はただ純粋に自分の願望を述べただけだろう。

「ええ、善処しますよ」

 俺も柔らかく微笑みを返して言った。

「では、単刀直入に言います。あなたはご自分が太っているという自覚はありますか?」

 俺がそのように切り出すと、富田さんは目をぱちくりとさせた。

「もちろん、それはあるよ。琴音ちゃんや他のみんなにも散々言われているし」

「痩せようという気持ちは無いんですか?」

「それはあるよ~。でも、何か食べてないと落ち着かないって言うか……うん、中々難しいよね。まあ、その内痩せられると思うよ」

 あはは、と富田さんはのんきな笑い声を上げた。そんな彼女を数秒間凝視した後に、俺はふっとわざとらしくため息を吐く。

「……そんなんだからダメなんだよ、クソデブが」

 一瞬、世界が止まった。直後に重い沈黙が教室内を支配する。

 富田さんは自分が何を言われたのかイマイチ飲み込めていないように、曖昧な笑みを浮かべていた。その唇がおもむろに動き出す。

「……えーと、今何て言ったのかな? とても汚い言葉が聞こえたような気が……なんて、そんな訳ないよね?」

「いいえ、聞き間違いなんかじゃありませんよ。俺は確かにハッキリとお伝えしました。あなたはクソデブであると」

「……なんで、そんなひどいことを言うのかな?」

「あなたが痩せる努力を怠っている、どうしようもないクソデブだからですよ。あはは、一体何度言わせれば気が済むんですか? その有り余った脂肪が、耳の鼓膜をも覆い隠しているのかな? 全く、末恐ろしいクソデブですね。ある意味賞賛に値しますよ」

 俺は誰かさんのように、あえて満面の笑みで痛烈な皮肉を放つ。

 ぴしり、と音を立てて、富田さんの笑みに亀裂が走った。

「誰が……クソデブですってええぇ!?」

 穏やかな笑みが崩壊して現れたのは、猛り狂う鬼神の如き顔だった。血走った両の眼が俺をがっちりと見据えて離さない。そのあまりのギャップにたじろぎ、後退しそうになる。

 しかし迫り来る危機をひしひしと感じつつ、俺はあえて口元で皮肉な笑みを浮かべて見せた。

「俺はあくまでも事実を述べたまでですよ。あなたはどうしようもないクソデブだと。お分かりですか?」

「だから、クソデブって言うなぁ!」

 怒りの咆哮を上げて富田さんはこちらに突進を仕掛けて来た。障害物となる椅子に当たることも厭わず、むしろなぎ倒しながら迫って来る。俺はその巨体にタックルを食らう寸前、身を捻って回避した。

「避けるんじゃないわよ!」

 恨めしげな瞳で、富田さんは俺を睨む。

「無茶言わないで下さいよ。あなたみたいなクソデブのタックルを食らったら、それこそひとたまりもありませんから」

 言った直後、再び富田さんがタックルを仕掛けて来る。俺はまたしても身を捻って回避した。

「富田さん。何度も言っていますが、あなたのそのデブり具合は相当ヤバいですよ。友達の清永さんも心配しているみたいですし、痩せようとは思わないんですか?」

 清永さんの名前を出した途端、富田さんの太ましい肩がぴくりと揺れた。

「……琴音ちゃんは良いよ」

「え?」

 ふいに漏らしたその弱々しい声に、俺は目を丸くした。

「美人で、スタイルが良くて、おまけに成績も優秀だし。それに比べて、私は大して美人じゃないし、丸っこくて、頭もそんなに良くないし……正直いつも一緒にいて、すごく劣等感に苛まれていたの」

 苦々しい表情で富田さんは自らの心中を吐露した。

「そうでしたか……でも、清永さんはあなたのことを大切な友人として思っているんじゃないですか? 今回俺達にあなたのデトックスを依頼して来たのも、あなたのことを思ってだろうし」

「そんなことは分かっているよ。琴音ちゃんは性格も良いから、私のこともいつも可愛い、可愛いって言ってくれたし……でも、それでもやっぱり比べちゃうの。琴音ちゃんに比べたら、私なんて全然ダメだってへこんじゃうの。二年生になれば、受験に向けて本格的に動き出す。そうなれば、私はもっと琴音ちゃんとの差を感じて、苦しんじゃう。襲い来るそのストレスを紛らわすためには、好きな食べることしかなかったの。美味しい物を食べている瞬間だけ、日頃の私の鬱憤は解消されるの」

「けど、その結果としてあなたは今のように醜く肥えてしまって……」

「うるさい! 分かっているよ! でもどうしようもないんだよ!」

 両目をぎゅっとつぶって富田さんは叫ぶ。

 あと少し、あと少しで彼女の心の中に溜まった毒素を抜き取れそうな気がする。抑圧されて固められた厄介なその芯を抜くことが出来る。そうすれば、彼女のデトックスは完了するはずだ。

 けれども、どうする? これ以上辛辣な言葉を浴びせた所で、彼女を無駄に傷付けるばかりである。俺は中々次の一手を打つことが出来ず、その場に立ち尽くしていた。

「――失礼するよ、お二方」

 停滞していたその場の空気がざわめく。凛とした声が教室の入り口から聞こえて来た。

「……昴?」

「おいおい、柳田くん。大切な依頼の最中にそんな呆けた顔をするもんじゃない。まあ、普段から君は呆けた顔をしているがな」

 不敵な笑みを浮かべて、昴は言った。

「うるせえな。ていうか、何しに来たんだよ」

「はっは、ひどい物言いだな。苦戦している君に、助け船を出してあげようと思ったのに」

「助け船だと?」

 俺が小首を傾げた時、昴の背後に控えていた人物が、すっと教室内に入って来た。

「……琴音ちゃん?」

 俺よりも先に口を開いたのは、富田さんだった。

「ごめんなさい、丸子。今までの話、全部聞かせてもらったわ」

 指先で長く艶やかな黒髪を梳きながら、清永さんは神妙な面持ちで言う。富田さんは目を丸くし、口元を両手で押さえた。

「私のせいで、随分とあなたを苦しめてしまったのね。それなのに気が付かなくて、無神経にあなたに痩せろなんて言ってしまって……本当にごめんなさい」

 悲しげに目を伏せる清永さんを見て、富田さんは困惑していた。

「いや、そんな……琴音ちゃんは悪くないよ。私が勝手に琴音ちゃんに嫉妬していただけだし……」

 そう言って、富田さんは顔を俯けた。

「……丸子、今だから言うけどね、私もあなたに嫉妬していたのよ」

 ふいに発した清永さんの言葉に、富田さんは顔を跳ね上げた。

「え……? 何で、琴音ちゃんが私なんかに嫉妬するの?」

「確かに、あなたは小デブでスタイルは良くないし、成績もさほど優れてはいない」

「うっ、琴音ちゃんひどいよぉ~……」

「……けど、あなたには愛嬌があるわ。クラスのみんなから『丸子は可愛い』ってよく言われていたじゃない。私はそんな風に親しげに話しかけられるような雰囲気を持っていないから、誰からも愛されるあなたが羨ましかったの」

 清永さんは、優しい表情と声で、自らの心情を吐露した。

「……本当に、そんなことを思っていたの? 琴音ちゃんは、私のことを羨ましいって」

「ええ、本当よ。あなたにだって、自分でも気が付いていない魅力がたくさんあるの。そんなあなたは私にとって大切な友達なの。だから、お願い。これ以上、自分の体を壊すような暴食はやめて。私はあなたを救ってもらいたいからこの人達に依頼をしたの」

 清永さんのきれいな瞳が切実に歪んだ。それは大切な友を思うが故の、悲痛な叫びの表れだった。

「……ずるいよ、琴音ちゃん。そんなことを言うなんて」

「丸子……?」

 震える声を発した富田さんは、大柄な肩を小刻みに揺らしながら清永さんを真っ直ぐに見た。

「そんなこと嬉しいこと言われたら、私泣いちゃうよ……」

 直後、肥えた富田さんの顔が、くしゃっと歪んだ。その両目から涙が溢れ出す。

「ごめんね、琴音ちゃん。いっぱい心配かけて、ごめんね……」

「ううん、良いのよ。だって、私達は親友でしょ?」

 そう言った清永さんの瞳にも、かすかに涙が浮かんでいた。その言葉を受けて、富田さんの涙の防波堤は決壊したようだ。

「――琴音ちゃぁん!」

 泣きっ面のまま、富田さんはその巨体を揺さぶって清永さんの下に駆け寄り、そして力強く抱き締めた。

「ちょっ、丸子……苦しい、離して」

「嫌だ、もう離さないから! 絶対に離さないから!」

 このまま行けばスレンダーな清永さんの体はへし折られてしまうかもしれない。それでも、俺は二人の体を引き剥がそうとは思わなかった。薄らと微笑んでいる昴も、同じ気持ちなのだろう。ふっと、彼女と目が合った。

「……デトックス、完了だな」

 その柔らかな微笑みを見た時、こいつはこんな笑みを浮かべることも出来るのかと、不覚にも心を揺さぶられてしまった。




      ◇




 放課後、言研の部屋では緩やかな空気が流れていた。

「全く、柳田くんは本当に可愛い奴だよ」

「は? 俺が可愛いだって?」

 眉根を寄せて聞き返す俺に、昴は微笑んで頷く。

「ああ。私の手助けがないとロクに仕事をこなすことも出来ない。赤ん坊のように未熟で可愛い奴さ」

 前言撤回。今この言研の部室において、非常に淀んだ空気が流れている。ていうか、相変わらずクソほどムカつく笑顔浮かべてやがんな、こいつ。俺が心中で歯を食いしばって睨んでいる間も、昴は軽やかに笑い続ける。

「まあしかし、今回デトックスが完了したのは清永さんの力が大きかった。我々はそのきっかけを作ることしか出来なかった。まだまだ力不足だな、主に柳田くんが」

「うるせえよ、んなこと分かってるよ」

「そうか、それなら良いさ」

 昴は天井を仰いで高笑いした。

「ねえねえ、スバルン。暇だから、何かして遊ぼうよ」

 あどけない声を発して言うのは麻帆里だ。

「ああ、良いぞ」

 昴はその申し出を快諾した。ていうか、きちんと活動しろよ。その名の通り言語の研究をしようぜ。具体的にはこのクソ腹が立つ女を打ち負かす言語についてさ。などと俺が尚も執拗に昴に対しての恨みを募らせていた時、部屋の扉がノックされた。

「ん、どうやら客人のようだね」

 すぐさま反応した昴は、俺の方を振り向いた。

「柳田くん、出迎えてくれたまえ」

「え、俺が?」

「ああ、そうだ。君は私の可愛い下僕ではないか」

「いつからそんな関係性が成立した! 俺はお前みたいな性悪女の下僕になった覚えはないぞ!」

「ふん、そんな一丁前の口を利くのは、きちんと自分一人でデトックスの依頼をこなせるようになってからにするんだな。今のままでは、雄々しい負け犬の遠吠えにしか聞こえないぞ?」

 不敵な笑みを浮かべて昴は言う。この女の言うことはいちいち癇に障る。それでいて、きちんと的を射ているのが尚のこと腹立たしい。

 俺は胸の内で舌打ちをしてから、おもむろに扉へと向かう。取っ手に指をかけて、扉を横に引いた。

「はい、どちら様でしょうか……」

 顔の覗かせた直後、俺は思わず呆気に取られた。

 目の前には、鮮やかな美貌を持つ少女がいた。くっきりとした鼻筋、そしてその両脇に据え置かれている瞳は、他の少女達にはない輝きを放っていた。鮮やかであり、ある種暴力的とさえ言えるその美貌を前に、俺は思わず閉口していた。こんな美少女と初めて面と向かえば、誰でも言葉を失ってしまうだろう。だが俺はこの少女とは初対面ではない。既に一度会っている。しかも同じクラスで。

 普通であればこれだけの美少女が自分の下を訪れれば、誰だって心躍るであろう。しかし、今俺の胸の内では暗雲が立ち込め始めていた。これから訪れるであろう嵐のことを考えると、とても気が気じゃなかった。







      第三話 「嵐を呼ぶ女」




 入学直後、俺は高良昴という女と衝撃の出会いを果たした。だがそれとは別にもう一人、衝撃的な出会いをした女がいた。

「赤川千夏(あかがわ ちなつ)です、以上」

 入学式翌日の初めての朝のHR時、これから一年間仲良くやりたいねなどと希望に満ち溢れていた我が一年E組の教室は、初っ端から凍り付いた。

「えっと……赤川さん? クラス内での初めての自己紹介の時間なんだから、もう少し何かあるでしょ?」

 担任の湯浅先生が苦笑を浮かべて言う。

「いえ、特にありません。ていうか立ったままだと疲れるので、もう座っても良いですか?」

「えっと……」

 相手はまだひよっこである入学したての女子高生。それなのに、ある程度人生経験豊富であろう二十代後半(見た目から推察)の女性である湯浅先生は、そのふてぶてしい態度に対してビシッと物言いを出来ないでいる。

 その時、俺は昴と言う女と衝撃的な出会いを済ませた後だったので、どこか神経が麻痺していた。だから、「はあ、変わった奴がいるな」程度にしか思わなかった。しかし周りに視線を巡らせてみれば、他のクラスメイト達は一様に青ざめた顔をしており、中には怒りの感情を浮かばせる奴もいた。

 いきなり現れた問題児にどう対処しようか湯浅先生が手をこまねいている内に、赤川千夏という女は無言のまま着席した。それから数秒後、ちらりと後ろの席に座る男子を睨んだ。

「ほら、次はあんたの番でしょ? さっさとしなさいよ」

 声をかけられた、というより命令をされた男子は、びくりと肩を揺らして立ち上がり、上ずった声で自己紹介を始めた。不憫である。

 そういった経緯もあり、赤川千夏はクラス内で孤立した。ただそのおかげで、赤川以外の女子達の結束は強まった。赤川を敵、あるいは有害な人物として捉えている。一方、男子達は怯えながらも、遠巻きにその美貌を楽しんでいた。そんな中で俺は、かつて出会った少女に対する恋慕の甘い思いと、入学して早々に出会った高良昴という毒女に対する苦い思いとの狭間で苦しんでいたので、さほど赤川を気にすることは無かったし、そんな余裕は無かった。

 だがある時、俺はそんな赤川千夏と接点を持つこととなる。

 それはとある日の四時限目が終了した直後。待ちに待った昼休みが訪れ、教室内ではにわかに弛緩した空気が漂い出した。だがすぐに、それを打ち破るようなやかましい音が鳴った。クラスの全員が振り向いた先では、赤川が筆箱の中身をぶちまけていた。床にはシャーペンやら消しゴムやらが散らばっている。普通であれば、周りのクラスメイト達が自然と拾うのを手伝ってくれて事態は早々に収束するはずだ。しかし入学早々クラスの嫌われ者、というか孤立無援の立場を作り出した赤川を助ける者は誰一人としていなかった。一瞬彼女に視線を向けた後、すぐに逸らして教室から出て行く。あるいは机を動かして弁当を食べる態勢に入る。赤川の失態など我関せず、もっと言えば赤川という存在にさえ我関せずといった具合に、見事なまでのシカトを決め込んだのだ。半ば呆然と立ち尽くす赤川を、俺もしばし呆然と立ったまま見つめていた。その時胸の内で何かが疼き、湧き上がって来た。

 気が付けば、俺は歩みを進めていた。にぎやかなクラスメイト達の笑い声を通り過ぎ、クラスの隅っこにひっそりと形成された孤独な空間に足を踏み入れた。すると、その主である赤川はぴくりと肩を揺すり、侵入者である俺を睨んだ。その鋭さに俺は一瞬たじろぐが、気を取り直すと床に片膝を付き、散乱した文房具を片し始めた。その作業自体は十数秒ほどで終わった。俺は両手に文房具を抱えた状態で立ち上がり、赤川に目を向けた。

「これで全部か?」

 尋ねた俺に対して尚も鋭い視線が突き刺さる。だがほんのわずかながら、その目つきが丸みを帯びた。そして、そのきれいな唇がおもむろに開かれる。果たしてこの親切な俺に対してどれほどの賞賛の言葉を浴びせてくれるのか、少しばかり期待を膨らませた。

「あんた、バカじゃないの?」

 膨らんだ思いに、暴言という名の針を突き刺され、一気に萎えてしまった。その衝撃に対応することが出来なかった俺は、呆気に取られて押し黙ることしか出来なかった。そんな俺の両手から自分の文房具を掴み取って筆箱にしまうと、赤川はふんと鼻を鳴らして教室から出て行ってしまった。一方、その場に取り残された俺は、何とも滑稽な晒し者になってしまったのである。




      ◇




 あの事件(そう呼ぶにはいささか矮小ではあるが)以来、俺は金輪際この赤川という女には関わらないでおこうと決めた。それなのに、今俺の目の前にはその赤川がいる。

「相変わらず、ボケっとした顔をしているわね」

 開口一番、赤川は相変わらず辛辣な言葉をストレートにぶつけて来た。

「いや、まあ……悪い」

「何で謝るの? 意味が分かんないんだけど」

 それはこっちの台詞だ。いきなりやって来て、何で俺がそんな風にキレられなきゃならんのだ。本当に意味が分かんないんだけど! ……なんてストレートに言えたらどれだけ良いだろうか。生憎、そんな度胸は兼ね備えていない。

「いや、その……すまん」

「さっきから謝ってばかりでキモいんだけど」

「キモ……」

 面と向かってそんなことを言われたのは初めてなので、凄まじい衝撃を受けた。そのまま力無く後方へと倒れそうになってしまう。

 だがその直後、俺の体は床に倒れることなく、誰かに受け止められた。

「そこのお嬢さん、随分とひどい物言いをするね」

 俺のすぐそばで、気取った男性口調で喋るのは昴だ。

「別に、私は本当のことを言ったまでだけど?」

「それにしたって言い方というものがあるだろう? 柳田くんはこんなにも素敵な男子じゃないか」

「昴……」

 よもやこの性悪女からそのような賞賛の言葉が送られるとは思ってもみなかったので、俺は思わずうるっと来そうになった。

「そう、こんなにも素敵なへたれ男子なんだ」

 前言撤回、浮かびそうだった涙は即座に引っ込んだ。一転して俺の瞳は最高に乾いている。そのままひび割れしてしまいそうなくらいに。怖いな。

「そう、柳田くんが先ほどから君に謝ってばかりなのは、へたれ故なんだ。決して彼がキモい訳ではない。まあ、ほんの少しばかりキモい時もあるかもしれないが」

「さっきから何をごちゃごちゃと……ああ、そっか。その回りくどい物言い、あんたが噂の高良昴なのね」

 冷めた顔で赤川が言った。

「おや、私のことを知っているのかい?」

 昴はやや大げさに目を丸くした。

「ええ。入学して早々、学園中の女子のハートを射抜いたって有名だからね」

「はは、君も有名人じゃないか。入学して早々、空気を読まない発言で孤立したと。全く、その逞しい勇気をこのへたれの柳田くんにも分けて欲しいくらいだよ」

 笑顔を浮かべて言う昴を見て、赤川は険しい表情を浮かべた。

「……本当にムカつくわね、あんた。ていうか何よ、『皮肉りデトックス』だっけ? 今のあたし、全然デトックスされてないんだけど、むしろムカツク一方なんだけど死んで」

「はは、そう軽々しく死ねなんて言うもんじゃないよ。ボキャブラリーの少なさを伺わせるね、実に可愛らしい」

「なっ……う、うるさいわね! 死ね、バーカ!」

 図星を突かれたのか、赤川はその顔をにわかに赤く染めて叫んだ。

「あっはっは! 良いぞ、もっと来い。君の可愛らしい幼稚な罵詈雑言を、もっとこの私に浴びせたまえ!」

「は、はあ? あんたもしかしてMなの? キモ、マジキモいんだけど」

「いや、そいつはどう考えてもSだと思うけど」

 恐る恐る俺が口を挟むと、

「あんたは黙ってなさい!」

 案の定、激昂されてしまう。俺は情けなくも大人しく押し黙った。

「ところで、君の名前は?」

 終始鋭い剣幕を向けている赤川に対して、昴は尋ねた。

「あたしは赤川千夏よ」

「そうか。赤川くん、君は何用があってここにやって来たんだ?」

 もっともな疑問を昴が投げかけると、それまで勢いの良かった赤川が口ごもった。

「そ、それは……この言研に入部しに来たのよ」

 俺はその言葉を聞いて驚いた。まさか赤川がこんな胡散臭い活動に所属したいだなんて。

 ちらりと昴に視線を向けると、彼女は満面の笑みを浮かべていた。

「そうか。それは歓迎すべき話だね」

 昴が言うと、赤川はわずかに口元を綻ばせた。

「じゃあ……」

「――だが断る」

 昴の鋭い一言が、赤川を一刀両断した。

「は!? 何でよ!? 今あんた歓迎するって言ったじゃない!」

「ああ。本来であれば新しい仲間が増えることは歓迎すべきなのだろう。だが生憎、我が言研は超少数精鋭の態勢を取っているからね。これ以上メンバーは必要ないんだ。という訳で、君には早々にお引き取り願おうか、赤川くん」

 あくまでも笑みを浮かべたまま、昴は突き放すように言った。そのままくるりと踵を返し、部屋の中に戻ろうとする。

「……ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 良いからあたしをこの部活に入れなさいよ!」

「はは、生憎この言研は正式な部活動じゃない。私が個人的に立ち上げた同好会なんだ。君だって有意義な三年間を送るためには、きちんと正式な部活動に入った方が良いだろう? 大体、さっきから話しているけど、君はいささか発言がストレート過ぎる。我が言研が取り行っている『皮肉りデトックス』において到底必要のない人材だ。むしろ、害悪とさえ言える。よって、君の入会は認めない。分かったかな? 君も猿じゃないんだから、私の言わんとしていることが理解出来るよね? それじゃ、最高に無駄な時間をくれてどうもありがとう。アディオス」

 反論する暇を一切与えず、昴は立て板に水の如く喋り切った。そして、俺の腕を掴むと強引に部屋の中に引き入れ、直後に扉を閉めた。がちゃり、と鍵がかかる。

「……って、ちょっとぉ! 待ちなさいよ! ていうか、鍵開けなさいよ! この性悪女! タカラジェンヌ気取り! ナルシスト野郎ぉ!」

 扉越しに赤川の罵詈雑言が響いて来る。だが、当人の昴はどこ吹く風。むしろそよ風を浴びているかのように清々しい顔で椅子に腰を下ろした。

「ねえ、スバルン。お客さん入れなくても良いの?」

 ぽりぽり、とスナック菓子を食べていた麻帆里が尋ねる。

「ああ、初めは客人かと思ったが、それに値しない者だったからね。早々にお引き取り願ったんだよ」

「ふぅん、そうなんだ? あ、スバルンもお菓子食べる?」

「こら、麻帆里。学校にお菓子を持って来てはいけないんだぞ?」

「ごめんなさい。でも、美味しいんだよ?」

「全く、しょうがない子だ……では、私も一つだけ頂こうか」

 口元で微笑を浮かべつつ、昴はスナック菓子を一つつまんだ。

「わーい。あ、ミッキーも食べる?」

「お、おう……」

 頷きつつ、俺はちらりと扉を見た。未だにけたたましく音を鳴らし、赤川が何事かを喚いている。少し不憫な気もしたが、俺にはどうすることも出来ないので大人しく椅子に座り、麻帆里からもらったスナック菓子を一口かじった。




 それから数日間、俺は自分のクラスで胃がキリキリするような思いだった。

 教室の前列右端、そこから猛烈に鋭い視線が突き刺さって来るのだ。さすがに授業中は先生の目があるので露骨には来ないが、それでも鋭いオーラは終始俺に襲いかかって来る。その根源たる赤川に対して俺は言いたい。悪いのはみんな昴であると。俺は何もしていないんだと。

おのれ昴め、自分にはさほど被害が及ばないと思って無下に赤川を追い払いやがって。おかげで毎日胃がキリキリするのは俺なんだ。別に胃が弱いキャラでも何でもないが、あの鮮やかな美貌から放たれる怒りのオーラは世にも恐ろしい。しかも、相手は既にクラスで孤立した問題児。なぜに入学早々から、俺ばかりこんな面倒な目に遭わなければならないんだ。こんなことに悩んでいる暇など無いのに。自分の運の悪さをひたすらに呪うばかりである。

 そしてこれまた厄介なのが、放課後を迎えた時。それまで以上に赤川が俺を鋭く睨む。今か今かと獲物を狙うハンターのようだ。俺は相手をなるべく刺激しないように慎重に椅子から立ち上がる。それから教室内を歩き、廊下へと出た直後……猛ダッシュを開始する。言研の部屋まで一切立ち止まることなく疾走する。振り向けば、そんな俺の後を猛追する赤川がいた。

 昴に入会を拒否されて以来、赤川は放課後になると執拗に俺を追って来るようになった。

「ちょっと、待ちなさいよぉ!」

 怒りの咆哮を上げて赤川は追いかけて来る。だから、俺は何も悪いことしてないのに。なぜこんな目に遭わなければいけないんだ。だが、そんな俺の泣き言など察する様子もなく、赤川はひたすらに追いかけて来る。そして命からがら言研の部屋に飛び込むと、図った様に扉の付近で待ち構えていた昴がさっと扉を閉めて鍵をかける。直後にダン! とけたたましい音が鳴って俺が肩をびくりと震わせる。

「ちょっと、開けなさいよ! このクソ性悪女! 開けなさいってば!」

 扉の向こうで猛獣もかくやという具合に、赤川が叫び声を上げる。

「はは、今日も無駄に威勢が良いな」

 一方、昴はそんな風にのんきな感想を述べるばかりである。この女、やはり性悪ドSだ。

「なあ、昴。赤川の奴を入れてやっても良いんじゃないか?」

 おもむろに俺が口を開くと、昴は大仰に目を開いた。

「君は何を言っているんだい? あんな猛獣のような女、この言研に入れたらやかましいことこの上ないぞ? 私はそんなのごめんだ。断固拒否する」

「いや、まあ。確かにそうかもしれないけどさ……ちょっと可哀想じゃん」

 俺は素直に自分の気持ちを述べた。確かに赤川千夏はそのストレートな発言からクラス内で孤立し、またその狂暴なまでの執念でもってこの言研に入会を迫って来ている。はっきり言って、とても厄介な女だ。

 けど、俺はどうしても根っから赤川を嫌いになることが出来ない。上手く理由は言えないが、そんな悪い奴に思えないのだ。少し不器用なだけで。俺は椅子から立ち上がると、ゆっくりと扉の方に向かった。

「おい、柳田くん。何をするつもりだい?」

「いや、赤川を入れてやろうと思って」

「君は何を言っているんだい? いくら頭の悪いへたれの君でも、彼女をこの部屋に招くメリットが何一つ無いということくらい分かるだろう?」

「うーん、そうかもしれないけど……でも、少しくらい話を聞いてやっても良いだろ? 何でこの言研に入りたいのか、その理由を聞いていないし」

「ふん、そんなこと聞く必要は無いさ。さあ、柳田くん。そんな無駄な行いをする暇があったら、少しは皮肉について勉強を……」

「悪い、やっぱりこのまま放っておけないわ」

 昴の制止を無視して、俺は扉の鍵を開けた。がらり、と音を立てて扉が開け放たれる。

「ちょっとぉ! いい加減に開けなさいよ……」

 すると、それまで喚いていた赤川が一瞬沈黙した。その青みがかった輝かしい瞳を丸くして、こちらを見つめている。

「よう、待たせたな。中に入れよ」

 俺が親指でくいと差して言うと、それまで半ば呆然としていた赤川が、ハッとした顔付きになった。

「遅いわよ! 開けるなら早くしなさいよ、このグズが!」

 相も変わらずストレートな物言いである。俺は一瞬たじろぐが苦笑を浮かべつつ、憤る赤川を部屋の中に招き入れた。

「はあ、柳田くん。私は理解に苦しむよ。なぜこんな野蛮でやかましい女を招き入れたんだい?」

 昴は珍しく渋面を作り、嫌悪感たっぷりに言った。

「誰が野蛮でやかましいですって!?」

 案の定食ってかかる赤川を、昴はしっしと手で鬱陶しそうに追い払う。

「まあ、勝手に入れたのは悪かったけどさ……でも、入会の動機を聞いてやるくらいなら良いだろ?」

 俺が問いかけても、昴は口をへの字に曲げてそっぽを向いたままだった。こいつがここまであからさまに不機嫌さをアピールするのは珍しい。よほど赤川のことが気に入らないのだろうか?

「はあ、仕方が無いな……赤川、俺で良ければ入会の動機を聞くよ」

「え? あ……うん」

 赤川は少しぎこちなく返事をする。俺がテーブルを挟んで向かいの椅子を勧めると、腰を下ろした。

「それじゃあ、入会の動機を教えてくれ」

 改めて俺は問いかける。

「えっと、それは……」

 それまでの勢いは無く、赤川は歯切れの悪い様子だ。俺は首を傾げて彼女の顔を覗き込むが、なぜか気まずそうにそっぽを向かれてしまう。

「なあ、赤川。もしかして、人に言えないような恥ずかしい理由なのか?」

「いや、そんなことはないけど……」

「じゃあ、教えてくれよ」

 再び俺が尋ねると、赤川は目を伏せた。何か思い悩むようにうーんと唸り、しばらくしてゆっくりとその顔を上げた。

「……自分の悪い癖を直したいと思ったから」

「自分の悪い癖って……?」

 俺は首を傾げて聞き返す。

「分かってんでしょ? 何でもストレートに発言しちゃうことよ。この言研って主に皮肉について研究しているんでしょ? 遠回しに嫌味ったらしに言う最低のレトリックを」

「おい、言っているそばから随分とストレートな悪口だな」

 俺に指摘されて、赤川はハッとして口を押える。

「う、うるさいわね! とにかく、あたしは少しでも自分の悪い癖を直すために、この言研で皮肉について勉強したいと思ったの!」

「わ、分かったから落ち着け」

 息巻く赤川をなだめつつ、俺は少し意外に思っていた。赤川自身が、己のストレート過ぎる発言に悩んでいたなんて。別にそんなこと気にせず堂々としているのかと思っていた。彼女は彼女なりに、色々と思う所があったんだろうか。

「なあ、昴。今の話聞いていただろ?」

 俺は少し離れた場所で椅子に腰をかけていた昴に問いかける。だが、彼女は返事をせずにそっぽを向いたままだ。

「ふん、いつまでもそんな風にいじけて。意外とガキなのね」

 ふいに、赤川が痛烈な一言を放った。昴の頬に思い切り突き刺さる。ぴくり、と彼女の肩が揺れた。

「……はっは、冗談はよしてくれよ。良い年してオブラートに包む発言も出来ない君の方がよほどガキじゃないのか?」

 くるりと振り剥いた昴は満面の笑顔だった。

「はあ? あんたこそ、ハッキリと物事を言う度胸が無いから、そんな遠回しな皮肉を言ってるんじゃないの?」

 赤川が荒く鼻を鳴らして言った。俺は恐る恐る、昴の顔を見た。彼女は満面の笑みを浮かべたままだった。それが異常で怖かった。

 ふっと、昴が椅子から立ち上がった。

「……良いだろう、赤川くん。君を我が言研のメンバーとして迎え入れてあげよう」

 その言葉が意外だったのか、赤川は目を丸くした。

「本当に? 入れてくれるの?」

「ああ。ただし、この言研に入会するからには、長である私の言うことには全面的に従ってもらう。とりあえず、君は今からストレートな発言は禁止だ。何もかも、回りくどく喋れ」

「は、はあ? いきなりそんなこと言われたって……」

「何だ、出来ないのか? だったら、今すぐ回れ右をしてこの部屋から出て行きたまえ」

「ぐっ……」

 赤川は言葉に詰まり、顔を俯けてしまう。

「おい、赤川。どうしても無理なら、こんな同好会に入会するなんてやめておいた方が良いぞ。ていうか、むしろ俺はやめたいくらいだし」

「何か言ったかい、柳田くん?」

 昴は満面の笑みを浮かべたまま俺を見た。だから、その笑顔怖いっての。

「……良いわ、やってやるわよ」

 赤川が掠れるような声を漏らす。

「私は今までのストレートな発言をやめて、嫌味ったらしく回りくどいその皮肉をマスターしてやるわよ」

「はは、そうかい。まあ、精々頑張ってくれたまえ」

 愉快げに笑う昴に対して、赤川は悔しそうに唇を噛み締めている。

 赤川千夏。彼女の加入によってこの言研に嵐が吹き荒れそうな気配が漂う。

 俺は先が思いやられてため息を吐くしかなかった。







      第四話 「皮肉り矯正」




人には誰しも癖というものがある。爪を噛むだとか、指先でとんとんするだとか、千差万別である。長年の生活の中で染みついたその癖は中々取れることはない。そして、その癖によって日常生活に支障をきたす場合、それを悪癖と言うのだ。その悪癖を矯正する場合、それなりの努力を必要とする。今俺の目の前にいる少女も、その悪癖を矯正するために苦渋を舐めていた。

「では赤川くん、次の問題だ。もし廊下で誰かが君にぶつかって来た時、何て言う?」

 昴が問いかけると、テーブルを挟んで向かいに座っている赤川は口を開く。

「どこ見て歩いてんのよ。気を付けなさい、バカ」

 憮然とした顔で言った彼女の頭が、べしりとしばかれた。

「痛っ……ちょっと、何すんのよ!」

 赤川が睨む先では、昴が右手に持った教鞭で左手をぱしぱしと叩き、満面の笑みを浮かべていた。

「出来の悪い生徒に対してお仕置きをしたまでだ」

「はあ? 誰があんたの生徒になんか……痛っ!」

「はは、全く。君はいつまでも学習しないな。日頃の会話から皮肉を心がけろと言っただろう? 君の脳みそはアリンコ並に小さくて可愛らしいのかな?」

「くっ、この……」

 目の端に涙を浮かべて、赤川は悔しそうに唇を噛み締めていた。

 先日、この言研に入会を申し込んで来た赤川に対して、昴は『ストレートな発言禁止』という条件を突き付けた。そして、何もかも回りくどく喋り、皮肉をマスターせよと。ただ、彼女は元来物事をストレートに発言する性質であり、皮肉などとは無縁。そのため、昴による矯正指導に苦しんでいるようだ。

 だが、そもそも彼女はなぜこんな苦しい思いをしてまで言研に入り、ストレートな発言を直したいのだろうか。俺なんて今すぐにでも辞めたい気持ちでいっぱいなのに。そうだ、俺はかつて結婚を誓った、あの子を探さなければならないのだ。正直、名前は知らない。顔立ちも、あの頃とは変わっているかもしれない。だから、探す手がかりなどほとんどない。その上、この美礼学園にいるという保証さえない。今更だが、自分の無計画さを呪ってしまう。

「さあ赤川くん、続きを始めようか。とりあえず、そこで物思いに浸って突っ立っている柳田くんを皮肉ってみたまえ」

 昴の凛とした声で意識を引き戻された。振り向けば、赤川が小難しい顔で俺を睨んでいる。怖いな、おい……

「どうした、赤川くん。さっさと皮肉らないか」

 昴が急かす。だが、赤川は小難しい顔のまま唸るばかりだ。

「あー、赤川。そんな遠慮しなくても良いからな。今は俺をサンドバッグだと思ってくれていいから」

 苦笑交じりに俺は言う。

「あはは、さすがだな柳田くん。君は私が見込んだ通り、Mだったんだな」

 昴がとんでもないことを口走りやがる。

「え、ミッキーってMなの?」

 あどけない声で麻帆里が聞いてくる。彼女に言われると、その年不相応に幼い見た目から、何か背徳感でいっぱいになってしまう。

「ああ、そうだよ麻帆里。初めて会った時に、君も感じただろう?」

「うーん、確かにそうだったかも。わたしに虫除けスプレーかけられて喜んでいたし」

「いや、欠片も喜んでないからな」

 むしろ苦い思いをした。実際に苦い味もした。

「それによく考えればミッキーは名前の頭文字(イニシャル)がMなの。頭文字(イニシャル)Mなの!」

「何かすごい発見したみたいに言わないで! てか、めっちゃ恥ずかしいわ!」

 俺が叫んでも麻帆里はどこ吹く風。「ミッキーは頭文字(イニシャル)M~♪」とノリノリで小躍りなんかしちゃっている。何だこいつ。可愛いな、おい。許してやろう。

「ちょっと、さっきから何くだらない話してんのよ!」

 背後で赤川が叫んだ。

「あ、悪い。お前のことすっかり忘れてたわ……はは」

 俺は後頭部を撫でながら乾いた笑いを漏らす。

「な、何ですってぇ……」

 赤川は目を見開き、肩を小刻みに震わせた。

「……このバカ! アホ! 死ね!」

 次の瞬間、飛んで来たのはあまりにもストレート過ぎる罵詈雑言だった。赤川は自分本来の発言を取り戻したこともあってどこか勝ち誇った笑みを浮かべるが、直後に教鞭で頭をしばかれた。

「きちんと皮肉れと言っているだろう?」

 にこやかな笑みを浮かべながら昴が言う。

「痛いわね! 人のことバシバシ叩くんじゃないわよ、性悪女!」

「だったら、もっと出来の良い生徒になりたまえ」

「くぅ~……」

 余裕の微笑みを浮かべる昴を、赤川は悔しげに睨んでいた。

 その対立構造を見つめながら、俺はまたしてもため息を漏らしてしまうのだった。




 翌日の朝、俺はいつものように怠惰な生活ぶりから来る眠気を引きずりながら、一年E組の教室へと足を踏み入れた。教室の窓際最後列、名字の利によって勝ち得たそのベストポジションへと収まり、俺はほっと一息吐く。先生はむしろ後ろの席を注意して見ているなんてよく言うが、それでも前列に比べて色々と策を弄しやすいことは確かだ。緩い先生の時には、授業時間中ずっと眠りに耽っていることも不可能じゃない。さて、今日の一限目はその緩い先生なので、思い切り惰眠を貪ってやろう。

 そんな風に俺がささやかな悪事を企んでいた時、教室の右前方、俺の席からちょうど対角線上に位置する辺りで、ひときわ賑やかな喧騒が起きた。何やらクラスの女子達が寄り集まって談笑しているようだ。それがいささかヒートアップして、穏やかな朝の空気を乱している。正直黙って欲しいが、まあわざわざ注意するほどのことでもない。どうせ授業時間になれば静かになる。俺のささやかな惰眠タイムを邪魔しなければ問題ない。だが、こんな時に黙っていない女が一人いることを、俺はうっかり失念していた。

「――ちょっと、あんた達」

 談笑に華を咲かせていた女子達の動きがぴたりと止まる。彼女達の視線を一手に引き寄せたのは、入学早々そのストレート過ぎる発言で絶賛クラス内孤立中の少女、赤川千夏。その鮮やかな美貌も相まって、ある種畏怖の念さえ抱かれていることもあり、女子達はたじろいだ。

 うわ、マジかよ。俺は正直言って辟易とした。女子達がちょっとはしゃぎ過ぎて小うるさい程度なら全然スルー出来た。しかし、そこに赤川千夏という猛烈な嵐を巻き起こす女が合わさった時、事態は収束不可能な方角へと向かって行く。いや、収束するか。赤川の強引過ぎる一人勝ちという形で、この争いにも決着が付くだろう。ただし、そのわずかな間でもクラス内が修羅場になることは必至であり、俺も含めたクラスメイト達は青ざめた顔をしていた。早く過ぎ去れ、嵐よ。俺は切に願うばかりである。

 赤川は腕を組み、傲然と女子達を睨んでいる。さて、あの形の良い唇から、どれだけ痛烈な罵詈雑言が飛び出すことやら。

「……ふ、ふん。あんた達は本当に朝から元気いっぱいなのね」

 開口一番のその台詞に、女子達はきょとんとした。

「あたしにはとてもそんな真似は出来ないわ。だって……」

 そこで、赤川の言葉が止まった。首を傾げる女子達を前に「えーっと、うーんと……」などともたついている。

 あいつ何やってんだ? 俺は首を傾げたが、ふと思い至る。あいつは今この場において、昴の言いつけを守ろうとしているのだ。確かに昴は彼女に対してストレートな発言を禁止した。しかし、今この場において昴の監視の目はない。だからいつも通りストレートな発言をしてもさほど問題はない。しかし赤川は律儀にも昴の言いつけを守っているのだ。

「……あの、赤川さん」

 赤川がまごついている内に、痺れを切らせた女子が声を発した。

「は、何よ?」

「いや、それはこっちの台詞なんだけど。一体、何が言いたいの?」

 訝る女子の視線を受けて、赤川がわずかにたじろいだ。

「それは、つまり……」

 普段の彼女であれば、その有無を言わさぬ圧倒的右ストレートで相手をねじ伏せているだろう。しかし、今の彼女は昴の命によってその最強の一手を封じられている。そして、使えるのはあまりにも未熟過ぎる皮肉にもなっていないぐだぐだのレトリック。昴の洗練された皮肉は鋭く相手の胸に突き刺さり、そして毒素を抜き取る。だが、赤川のそれはへにゃりと折れ曲がった剣に等しい。相手の胸に突き刺さることはない。どうしたって、届かない。

 結局、赤川は何も言い返せぬまま、黙ってその場に立ち尽くしていた。その様子を見た女子達は軽く鼻を鳴らし、口元にあざけり笑いを浮かべながら再び談笑に舞い戻って行った。

「何だ、今の?」「赤川って、もしかしなくても結構イタイ奴なのか?」「もったいねえな、見た目はメチャクチャ可愛いのに」「おまけにスタイルも良いしな。胸とかデケえし」「揉みたいよな~」「けど、あのイタさ加減はちょっとな……」

 孤立無援の彼女に向けられる言葉の中には賞賛もあったが、それさえも嫌味ったらしく響く。俯く赤川を見ていると、机の上でだらけていた俺のだらしない心が疼くのを感じた。

 俺には彼女よりもまだマシな武器がある。これで彼女を救ってやろうか。立ち上がろうとする。だがためらってしまう。自分の武器は中途半端だ。こんなもので彼女を助けに行った所で余計に傷口を開いてしまうかもしれない。そう思った時、俺は情けなくも再び椅子に腰を落ち着け、机に突っ伏していた。

 カッコ悪いな俺。昔の俺は、もう少しカッコ良かった気がする。こんな姿を見たら、あの子にも幻滅されてしまうだろうか。

 朝からテンションが沈み行く。何とも形容しがたい憂鬱感に浸り、溺れて行った。




 進みの遅かった時間が流れて行き、ようやく放課後を迎えた。クラスメイト達は三々五々に散って行く。あるいは、教室に残って談笑する者もいた。

 俺もまたおもむろに席から立ち上がり、軽く背伸びをした。ふと、視界の端で赤川が席から立ち、一人で教室から出て行く姿を捉えた。その少し丸まった背中を俺は追いかけた。

「赤川」

 教室を出た所で声をかけると、赤川はその足をピタリと止めた。首だけ動かし、俺に振り向く。

「あ、その……」

 呼び止めたは良いものの、俺は二の句を継ぐことが出来ずに口ごもってしまう。

「……ちょっと付き合ってよ」

 そう言って、赤川は再び歩き出す。俺は慌ててその後を追う。

 赤川に連れられて俺は階段を延々と上って行く。やがて屋上へとたどり着いた。

 扉を開けて外に出ると、爽やかな春風が吹いた。鬱屈した気持ちを洗い流してくれるような心地よさがあった。赤川も目を閉じて、その春風を目一杯浴びている。ストレートのロングヘアーがさらりとなびいた。

「気持ち良いわね」

「え? ああ、そうだな」

 そうやって言葉を交わしたきり、しばらくの間押し黙ってしまう。どことなく気まずい沈黙が漂っていた。

「……悪かったな」

 おもむろに口にしたその言葉が意外だったのか、赤川は目を丸くした。

「悪かったって、何が?」

「お前のこと、助けてやれなくて」

 苦い表情を浮かべて俺は詫びた。こんなことを言ったら、何様よ図々しいと険の込もった声で言われてしまうだろうか。

「……別に、気にしなくても良いわよ。だって、あんたには一度助けてもらっているから」

「え?」

「筆箱の中身、拾ってくれたでしょ?」

 赤川は青みがかった瞳で、俺のことを真っ直ぐに見つめている。その時、俺は彼女から痛烈な罵声を浴びた。だから、そんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかった。

「ああ、まあ……でも、大したことじゃねえよ」

「そうね。でも、あたしは嬉しかったわよ」

 ふっと口元を綻ばせる赤川を見て、俺はわずかに胸が高鳴った。こいつ、こんな表情も出来るのか。

「……あたしさ、周りの人達と違うんだよね」

 唐突に赤川が語り出した。

「違うって、何が?」

「感性が……あたしには、別の国の血が流れているから」

「え?」

「実はあたしさ、体の中に四分の一、アメリカ人の血が流れているの。つまりは、クォーターなんだ」

「そう……だったのか」

 意外なその事実を知り、俺は少し困惑してしまう。だがそれを知り、色々と合点が行った。彼女のその鮮やかな美貌、青みがかった瞳、すらっとしたスタイル、大きく膨らんだ胸、そして、ストレート過ぎる物言い。それらが全てアメリカ人の血によるものだとしたら納得が行く。もちろんそれだけで全てを語るつもりはないが、彼女の外見や気質を大きく形作っていることは違いない。

「自分でも分かっているのよ。あたしが周りと違って浮いているってこと。こんなあたしのことは誰も受け入れてくれないって」

「いや、そんなことは……」

「あ、勘違いしないでね。別に同情を誘っている訳じゃないから。それに大して傷付いてもいないし」

 そう語る赤川の横顔は努めて冷めているようだった。青みがかった瞳が、かすかに揺れている。

「……お前さ、自分のストレート過ぎる物言いを直したくて言研に入りたいって言ったよな?」

「え? ……あ、うん。そうね」

 赤川はなぜか歯切れ悪く頷く。俺は首を傾げるが、改めて問いかける。

「けどさ、その必要は無いんじゃないか?」

「は? 何でよ? あたしは何でもストレートに言い過ぎるせいで、周りから孤立しちゃってるんじゃない」

「まあ、それはそうなんだけどさ。でも、それはお前の欠点でもり、また最大の武器なんだと思う」

「武器?」

「うん、武器っていうか良い所っていうか……ほら、よく言うけど日本人は何でも曖昧にぼかしたりして、はっきりした発言を嫌う傾向にあるだろ? そんな中で、お前のように何事もストレートに伝えられる奴は、貴重な存在だと思う」

「貴重な存在? はっ、笑わせないでよ。むしろ、良い笑い者、晒し者じゃない」

「そんな風にマイナスに捉えるなよ。何でもストレートに言えるお前は凄い。強い奴だと俺は思うぞ」

 俺は真っ直ぐに赤川を見つめて言った。彼女は俺から視線を逸らしたまま、雲がたなびく空を見上げている。

「……それ、本気で言っているの?」

 ふいに、赤川が尋ねてきた。

「ああ、本気で思っているよ」

「あっそう……」

 呟いた赤川の口先が、わずかに尖っている。

「あんたって一見すると無気力そうだけど、案外熱い奴なのね」

「そうかな?」

「うん。正直、少し鬱陶しいわ」

「ひどいな、お前!?」

「良いじゃない。確か、あんたはMなんでしょ?」

「ちげえよ! たまたま頭文字(イニシャル)がMなだけだ」

「まあ、別にどうでも良いんだけど」

「どうでも良いのかよ……」

 俺ははあ、と大きくため息を吐いた。一方、赤川はくすりと笑みをこぼす。

「……でもまあ、ありがとね。あんたに励まされて少しだけ気持ちがすっきりした。それから、決意も固まったわ」

「決意って?」

 俺は首を傾げて問いかける。すると、赤川は不敵な笑みを浮かべた。

「あの性悪女に挑む決意よ」




 一階の廊下を歩き、言研の部屋の前に立つ。俺の前に立っていた赤川が、その扉を開いた。

「とりゃ!」

 次の瞬間、あどけない声と共に何かが飛び付いて来た。

「ぐふっ!」

 赤川が小さく悲鳴を上げた。どうやら腹部にそれなりのダメージを食らったようだ。

「あれ? ミッキーじゃなくてちなっちゃんだった」

 あどけない声で言うのは、麻帆里だった。

「……ちょっと、あんた。いきなり何すんのよ!」

 赤川が腹部を押さえながら叫んだ。

「ごめんね、ちなっちゃん。ミッキーが来るの遅いから、もし来たらお仕置きをしてやれってスバルンに言われてたの。でも、ちなっちゃんが来たから、わたしの『マホリンクロスチョップ』を浴びせちゃった。ごめんね」

「何なのよ、もう……ていうか、ちなっちゃんって呼ばないでちょうだい。馴れ馴れしい」

 赤川は腕を組んで、ふんと鼻息を鳴らす。

「そっか……じゃあ、ちなパイって呼ぶね」

「何でそうなるのよ!?」

「だって、ちなっちゃんはおっぱい大きいから。それ何カップあるの?」

「あんた、おっとりあどけない顔して何聞いてくれてんのよ!?」

 赤川が息を巻いて麻帆里を睨んでいた時、パンと手を叩く乾いた音が鳴った。

「はっはっは! 来て早々に元気いっぱいだね、赤川くん。それはそうと、こんな時間までそこら辺をほっつき歩いて言研に顔を出さなかったことに対する謝罪の言葉はないのかな?」

「はあ?」

「まあ、君は先ほど麻帆里が言った通り、随分とご立派な胸を持っているからね。栄養分がそっちに持って行かれて、ロクに謝罪の言葉を考える脳が育っていないのかな?」

「うっさいわね! ていうか、そんなこと言って本当は羨ましいんじゃないの?」

「どういう意味だい?」

「あんたはさぞかし小賢しい皮肉を言うために脳に栄養をやったんでしょう。ただその結果として、胸が真っ平なのよね?」

 ふふん、と赤川が一矢報いたとばかりに勝気な笑みを浮かべる。一方、昴は満面な笑みを浮かべていた。

「……あっはっは! それは上質な皮肉を言ったつもりかい、小娘よ」

「誰が小娘か! あんたとあたしは同じ年じゃない!」

「肉体年齢はな。ただし、精神年齢では君よりも遥かに上だよ」

「ムカツク! あんた本当にムカツク! 何が『毒抜きのスバル』よ!」

「まあ、君をデトックスするつもりはさらさらないからね」

 昴と赤川、両者の間で激しく火花が散る。

「おい、二人とも落ち着け」

 見るに堪えず、俺は仲裁に入ろうとする。

「あんたは引っ込んでいて」

 だが、赤川に押しとどめられてしまう。

「でも……」

「良いから」

 そう言って、赤川は悠然と椅子に腰を掛けている昴へと歩み寄った。

「何だい、さっきからその反抗的な態度は。今の私は君に指導をする先生の立場だよ。そんな私に対して、生意気な態度を取って良いと思っているのかい?」

「うるさいわね。あたしは決めたのよ、もうあんたの言うことには従わないって」

 挑むような目つきで昴を睨み、赤川は言う。

「……ほう。君は私と交わした約束を忘れたのかい? ストレートな発言は禁止、回りくどく喋れと。そうしなければ、この言研の敷居は跨がせないと言ったはずだ」

「ええ、そうね。けど、そんな約束はクソ食らえよ。やっぱり、あたしにはそんな嫌味ったらしく周りくどく物事を言うなんて無理。あんたみたいに根性ひん曲がるのなんて無理なのよ。ていうか願い下げよ。あたしはあくまでもストレートに物事を伝えるわ」

「そうかい。だったら、さっさとこの部屋から出て行きたまえ」

「お断りよ。この言研は、依頼者をデトックスさせるのが目的の一つなんでしょう? だったら、あたしがそれをやってみせるわよ。皮肉じゃなく、ストレートなこの言葉でデトックスさせてやるわよ」

 赤川は力強くそう言った。

「……君は本気で言っているのかい?」

「ええ、本気よ」

「そうか……」

 それからしばらくの間、昴は何かを考える素振りを見せた。

「……良いだろう。そこまで言うなら、我が言研に来ている依頼の一つを君に任せよう」




      ◇




 放課後の校舎裏といったら、うら若き少年少女達がまず思いつくのは甘酸っぱい告白だろう。「ごめん、待った?」「ううん、大丈夫。それで、話って何かな?」「うん、実は……」みたいないじらしいやり取りを想像してしまう。俺もそんな甘酸っぱい思いをしてみたい。出来ることなら、あの子と……陰に佇んで夢のような妄想を繰り広げていると、一人の男子が校舎裏に姿を現した。

「ごめん、待った?」

 その男子は後頭部を掻きながら、お決まりの台詞を言った。

「ええ、待ったわ。遅いんだけど、グズね」

 相手を一切気遣うことなく、自分の気持ちをストレートに伝える。赤川本来の持ち味が活かされたジャブがのっけから繰り出された。

「ご、ごめん……」

 初っ端からお決まりの流れが打ち砕かれたことで、男子は明らかに動揺していた。まあそもそも、今から行われるのは甘酸っぱい告白などではないのだが。

「ふん、まあ良いわ。あなたが依頼者の一年B組の的場準(まとば じゅん)ね?」

「あ、ああ。君が俺の胸の内をスッキリさせてくれるんだよな? よろしく頼むよ」

「言われなくてもそうするわ。それで今回の依頼の確認だけど、あんたが入学早々好きになった女子に告白して、フラれたことによって溜まったストレスを解消してあげれば良いのね?」

「うん、そうだよ……」

 暗い顔で的場が頷く。

「分かったわ。じゃあ早速、デトックスを始めましょうか」

 赤川の声は気迫に満ち溢れている。その鋭い瞳は目の前の的場を捉えつつも、彼とは別の相手を睨んでいるように見えた。

「――君の無骨でストレートな物言いで、精々デトックスさせてみろ。それが出来なければ、この言研から立ち去れ」

 自らの意志を真っ直ぐに伝えた赤川に対して、言研の長である昴は告げた。

「まさか自分から偉そうなことを言っておいて、可愛らしい負け犬のように尻尾巻いて逃げるなんて真似はしないよな?」

 昴はあからさまに挑発するように、口元に怪しい微笑を湛えて言った。普段は彼女の笑みに対して終始イラついてばかりの俺だが、その時は身震いをした。まるで悪魔のようだ、と表現してしまえば簡単かもしれない。けれども、そんなに単純ではない。もっと複雑で怪奇な、人間の怖さを垣間見たようだった。脇から見守っている俺でさえこのザマだ。正面からまともに向き合っている赤川は、とてつもない恐怖心を抱いているかもしれない。俺はちらりと視線を彼女に向ける。

 その口元が、負けじと笑みを浮かべていた。

「……良いわよ、分かった。やってやろうじゃない」

 赤川は怯むことなく、むしろ好戦的に言ってのけた。複雑怪奇な化け物に対して、真正面から向かって行く勇者のようで、俺は少しカッコイイと思ってしまった。

 そして彼女は今、決戦の舞台に立っている。少し大仰な物良いかもしれないが。

 ちなみに俺は校舎の角に隠れて戦況を見守っている。初めは俺も手伝おうかと提案したのだが、赤川はあくまでも自分一人の力でやりたいと言った。自分のストレートな言葉一本で行くと言った。ならば、せめて俺は陰から彼女を応援してやろう。がんばれ、負けるなと。

「あんたが好きになった女子ってどんな子なの?」

「有坂香澄(ありさか かすみ)って言う、同じクラスの子なんだ。可愛くて、性格も良くて、クラスの他の男子達も狙っていた」

「もしかして、それで焦って告白したとか?」

「まあ、正直それもあるよ。ただ、それだけじゃない。イケるって思ったから、告ったんだ」

「イケると思った?」

 赤川は眉をひそめる。

「うん。入学してすぐの頃、香澄ちゃんが教室を歩いている時に、ハンカチを落としたんだ。俺はそれを拾って渡してあげたんだけど……そうしたら笑顔で『ありがとう』って言ってくれたんだ」

 嬉々として語る的場に対して、赤川は目を細めた。

「……それだけ?」

「え? そうだけど」

 あっけらかんとして言う的場を前に、赤川の表情がみるみる内に険しくなるのが見て取れた。正直、俺も若干イラっと来ている。それくらいのことで可愛い子が振り向いてくれたら誰も苦労しない。その思考の甘さたるや、まるでチョコレートのようだ。そのままドロっと溶けてしまえば良い。

 赤川が大きくため息を吐いた。

「あんたさぁ……バカでしょ?」

 そして、直後に槍の如く鋭い一言を放つ。的場は心臓を貫かれたように苦悶の表情を浮かべた。

「バカって……何でだよ?」

「それくらいのことで女が惚れたと思っているあんたの思考回路が、どうしようもなくおバカだって言ってんのよ」

「それくらいのことって……だって、すごい良い笑顔浮かべてくれたんだよ? もしかしたら、俺のこと好きになってくれたかもって思うじゃんか」

「甘い、甘過ぎるわ。その有坂さんって子は、あくまでも『あ、この人親切だな』くらいにしか思っていないわ。つまり良い人どまりってことよ。そんな相手にいきなり告白されたら困惑するし、正直に言ってキモいわ」

「キ、キモい?」

「ええ、最高にキモいわね。あんたは色んな過程をすっ飛ばして、いきなり有坂さんと付き合おうとした。その程度の努力とも呼べない行いで、楽して彼女を手に入れようとした。そういったことも全部ひっくるめて甘ちゃんでキモいって言ってんのよ!」

 動揺する的場に対して、赤川は容赦なく渾身の一撃を叩き込んだ。彼の足元が揺らぎ、がっくりとうなだれる。俺は彼の思考の甘さにかなりイラっと来ていたが、今は同情してしまう。あの「キモい」はキラーワードだ。言われた相手は容赦なく心臓を抉り取られてしまう。それぐらいにきつい一言である。俺もうっかり死にたくなったくらいだ。

「ふん。これに懲りたら、次からはもっと女子に好かれるために努力をしなさい。あなた程度の平凡な男子は、そうでもしないと可愛い女の子となんて付き合えないんだから」

 赤川は腕を組み、うなだれる的場を傲然と見下ろす。

 容赦ねえな、こいつ。さすがあの昴に真っ向から挑む根性の持ち主と言った所か。俺はノックダウン寸前の的場に同情の視線を向けた。

「……んだよ、それ。偉そうに言いやがって」

 ふいに、的場がかすれた声を漏らす。おもむろに上がった彼の顔は、にわかに歪んでいた。

「確かに俺は少し痛い勘違いをしちゃったかもしれないけどさ……でも、何でお前にそこまで言われなくちゃいけないんだよ?」

 悲痛なその声を受けて、俺の脳内で警鐘が鳴る。

 まずい、このまま行けばデトックスどころではない。溜まったストレスが暴発してしまう。

「はあ? あたしはあくまでも事実を述べているだけよ」

 だが赤川は構うことなく、生じた亀裂にあえて杭を打ち込む。ぴしり、ぴしりと割れ目が広がって行く。これ以上は危険だ。俺はとっさに校舎の角から飛び出し、両者の仲裁に入ろうとする。

「おい、赤川その辺で……」

「――ふざけんなよぉ!」

 突如、的場が激昂した。荒く吐息を漏らしながら、赤川に鋭い眼光を飛ばす。

「もう許さねえ、調子こきやがって。スッキリさせてもらえるって聞いたから言研に依頼をしたのに、何だよお前は。さっきからグサグサと遠慮のない物言いばかりしやがってよぉ」

 怒りで変貌した的場を目の当たりにし、それまで堂々としていた赤川がわずかにたじろいだ。しかし、それでも彼女は気丈な姿勢を崩そうとしない。

「うるさいわね、それがあたしのやり方なのよ。大体、あんたみたいなバカには遠回しに言ったって伝わらない。ハッキリ言ってやらなきゃいけないのよ!」

「そんなの余計なお世話だ! ていうか、俺は高良昴にデトックスしてもらえると思ったのに、何でお前みたいに乱暴な女が出て来るんだよ? ちょっとばかし見た目が良いからって調子こいてんじゃねえぞ!」

 昴の名が出たせいだろうか、赤川も堪忍袋の緒が切れてしまったようだ。

「はあ? あたしは別に調子になんて乗ってないわ。見た目が良いことは認めるけどね!」

 相手が大切な依頼者、クライアントということは最早忘れてしまっている。今の彼女は怒りという感情に引っ張られて喚き散らしているだけだ。

「てめえ、もう許さねえぞ」

 的場は制服のブレザーの袖をまくり、赤川へと歩みを進める。

「何をするつもりよ?」

「決まってんだろ? お前みたいなムカツク女は、一発痛い目に遭わせてやるだけだ」

 的場はぎゅっと拳を握り締める。

「あんた、女を殴るつもり? とんだクズね」

「うるせえ! お前みたいな奴、女でもぶん殴ってやる」

 まずい。瞬間、俺は駆け出していた。

「とりあえず……その減らず口を叩きのめしてやるよぉ!」

 怒りの咆哮を上げながら、的場は固く握り締めた拳を繰り出す。赤川は半ば呆然と立ち尽くしたまま、身動きが取れないでいた。彼女に対して、怒りの拳が容赦なく突き刺さって――

 バチン、と肉の弾ける音が鳴り響いた。

「……ぎりぎりセーフだな」

 右手にじわりと広がる痛みを感じつつ、俺は呟いた。

「あんた……」

 赤川は自分の前に立つ俺の姿を見て、目を丸くしていた。

「ケガはないか?」

「べ、別に……大丈夫だけど」

 口先を尖らせて、赤川はそっぽを向く。

「そっか、なら良かった」

 俺は軽く微笑み、それから的場に顔を向ける。

「おい、的場。お前の気持ちは分かるけど、いくら何でも女の子相手に殴りかかっちゃダメだろ」

 俺は相手を刺激し過ぎないように、慎重な声音で言った。

「うるせえな。その女が悪いんだよ」

 まだ興奮から覚めていないせいか、的場の口調は荒々しいままだ。このまままともに会話を続けた所で時間の無駄だろう。俺は小さく息を吐いた。

「……まあ、でも赤川が言ったことは正しい。お前は本当にバカだ。大バカ野郎だ」

 あえてニヒルな笑みを浮かべて俺が言うと、案の定、的場は表情を険しくした。

「あぁ? お前まで俺をバカにすんのかよ?」

「まあ落ち着けって。そんな風に怒っていたら、俺のありがたいアドバイスを聞き逃すことになるぜ。お前だって、そこまでバカじゃないだろ?」

「アドバイス……だと?」

 的場は怪訝な顔をした。

「ああ、そうだ。お前が失敗した理由はさっき赤川も言っていたが、あまりにも急ぎ過ぎたことだ。思い余って、早々に有坂さんに告白してしまったことだ」

「だって、仕方ねえじゃん。イケるって思っちまったんだからよ」

 ふて腐れたように的場は言う。

「そう、お前のその考え自体はあながち間違っていない」

 俺の言葉が意外だったのか、的場は目をぱちくりとさせた。

「どういうことだよ?」

「良いか、お前は入学早々にみんなが憧れる有坂さんと接点を持ったんだ。他の奴らよりも一歩先んじた。アドバンテージを得ていたんだ。運の良い奴だ。それにも関わらず、お前は自らの過ちでそのアドバンテージをふいにしちまったんだ。全く、愚かしいにも程がある」

 俺が言うと的場の険しかった表情が崩れ、少し情けない顔が浮かんだ。

「……確かに俺はせっかく有坂さんと接点を持てたのに、それを無駄にしちまったかもしれない。バカだな、俺は……」

 的場は悔しそうに唇を噛み締めた。そんな彼に、俺はふっと優しく微笑みかける。

「まあ、そう落ち込むことはない。お前は新しいアドバンテージを得ているんだから」

 すると、沈みかけていた的場の瞳に、わずかながら光が灯った。

「え、それって何だよ?」

「おいおい、少しは自分で考えなよ。仮にも名門、美礼学園の生徒だろ?」

「良いじゃんか。そんないじわる言わないで教えてくれよ」

 すがるようなその目を見て、俺はため息を漏らす。

「やれやれ、仕方がないな……お前は有坂さんに告白したんだろ?」

「ああ。まあ、フラれたけどな……」

「そうだな。さぞかし勇ましくフラれたことだろう」

「うるせえな!」

「おいおい、そう怒るな。俺は勇ましくと言っただろ?」

 俺がほくそ笑むと、的場は胡乱な瞳で見つめてきた。

「告白ってのは勇気がいることだ。例え思い人がいたとしても、中々告白をすることは出来ないケースもままある。そんな中お前はその壁を突き破り、有坂さんに告白したんだ」

「けど、フラれたんだぜ?」

「ああ、確かにフラれたな。その結果、愚かなお前は何も得る物が無かったと思ってるんだろ?」

「そりゃそうだろ。俺はフラれたんだから」

「それは大きな勘違いだ。お前は大きな戦果を得た。有坂さんの心に、的場準という存在を刻むことが出来たんだ」

 それまで的場の目に満ちていた疑念が弾け飛んだ。彼は目を見開き、不格好に口を半開きにしている。

「本来であれば、ハンカチを拾ったことをきっかけに徐々にアプローチして、きれいに恋の花を咲かせる方がスマートだった。しかしお前のような愚か者には、当たって砕けて、そこから恋を紡ぐ方が向いているのかもしれないな」

「お前……」

 的場は目を丸くしたまま俺を見つめている。そんな彼に対して、俺は踵を返して背を向けた。

「じゃあ、俺はもう行くぜ。お前みたいなバカ野郎と青臭い恋の話なんかしちまったから、無駄に疲れたわ。まあ、今度は精々上手くやるんだな、勇ましい愚か者よ」

 俺は背を向けたままひらひらと手を振り、その場から立ち去って行く。

 本当、何を口走っているんだろうな、俺。ハズいわ。

 湧き上がる羞恥と後悔の念。けれどもそれを上書きしてしまうくらい、清々しい気持ちに満たされていた。




      ◇




「先日、赤川くんに任せたデトックスの件、どうやら上手く行ったようだね」

 放課後。言研の部屋にて、悠然と椅子に腰を掛けている昴が言った。

「赤川くん、ご苦労だった。君のやり方は正しかったということかな?」

 そう言われて、テーブルを挟んで向かいの椅子に座っていた赤川は、罰の悪い様子で俯いた。

「ん、どうしたんだい?」

「……あたしの力じゃないわ」

 力の抜け落ちた声で、赤川が言う。

「どういうことだい?」

「正直、あたしのやり方じゃただ相手を怒らすだけだった。彼が助けてくれなかったら、あたしは痛い目に遭っていた」

 そう言って、赤川はちらりと隣に座る俺を見た。

「つまり、今回のデトックスを成し遂げたのは、柳田くんの力が大きいと言うのかい?」

「ええ、そうよ。あたしはちっとも役に立たなかったわ」

 悔しそうに瞳を歪めつつ、赤川はそう言い切った。

「……そんなことはないと思うぞ」

 俺はぽつりと言葉を漏らす。

「え?」

「あの時、お前が最初に過剰にストレートな発言で相手を怒らせてくれたから、その後にむしろ俺がたしなめやすくなった。そもそも的場が怒ったのは、お前の言葉がきちんと相手に届いていた証拠だと思う。前にも言ったけど、やっぱりお前のストレートな物言いは強みだよ」

「けど、あたしは……」

「まあ、でもお前一人じゃ危なっかしいことは確かだ。野球でもストレート一本槍じゃ通用しないからな。変化球が必要だ」

「もう、何が言いたいのよ。ハッキリしなさい!」

 赤川がきっと俺を睨む。

「まあ、落ち着けって……赤川、俺とコンビを組まないか」

 俺の提案に、赤川はぽかんと口を開けた。

「コ、コンビ……?」

「ああ、コンビってのが嫌なら、バディっていう洒落た呼び方でも良いぜ?」

「いや、そういうことじゃなくて! ……本気で言っているの?」

 上目遣いで赤川が見つめてくる。

「もちろんだ。俺ら一人一人は未熟だけど、二人合わされば一人前になれるだろ?」

「まあ、そうかもしれないわね……」

 赤川は一度俺から視線を逸らし、口元に手を添えて考える素振りをした。

「……あんたがそこまで言うなら、一緒に組んであげても良いわよ。仕方なくだけどね」

「おいおい。そこはいつも通り素直になって、俺と組みたいって言ってくれても良いんだぜ?」

 少しおどけた風に俺が言うと、赤川の顔が真っ赤になった。

「は、はあ? あんた何言ってんの? 死ね、バーカ!」

「はは、じゃあコンビ組むのやめるか?」

「はあ? 別にそこまで言ってないでしょ! コンビでも何でも組んであげるわよ、感謝しなさい!」

「はいはい」

 俺は微苦笑を浮かべる。

「……ダメだ!」

 ふいに叫び声が上がった。俺と赤川は驚いて前に向き直る。

 いつの間にか昴が立ち上がり、両手をテーブルの上に付いて前のめりになっていた。

「……昴? どうしたんだよ?」

 訝しむようにして俺が声をかけると、昴はハッと我に返って視線を逸らす。

「……いや、何でもない」

 昴にしては珍しく弱々しい声を漏らし、そのまま再び椅子に腰を下ろす。

 そんな彼女の様子が気になったが、それ以上問い質すことは出来ず、しばしの間気まずい沈黙が流れていた。







      第五話「快調コンビ」




 朝方、俺はあくびを噛み殺しつつ、一年E組の教室に向かっていた。怠惰な生活による睡眠不足は相変わらず続いており、その上春の穏やかな陽気が眠気を誘引する。うっかりその辺で寝転げるような愚行はしないが、それでも出来ることならすぐ安らかな眠りに就きたいと思ってしまう。教室の扉を開けて自分の席へと歩みを進めた。

「おはよう、幹男」

 ふいに女子の声に呼ばれた。俺はおもむろに振り向く。

「……おお、赤川か。おはよう」

 すると、なぜか赤川は不機嫌な顔をした。気だるさを引きずったままあいさつをしたせいだろうか。

「千夏」

「え?」

 唐突な赤川の物言いに、俺は首を傾げる。

「赤川じゃなくて、千夏って呼びなさい。前にそう言ったでしょ?」

「ああ、そうだったな。えーと……千夏」

 俺はぎこちなくその名を口にし、苦笑いを浮かべる。

「全く、朝からだらしないわね。この前の勇ましさはどこに行ったのよ」

「いや、そんなこと言われても。眠いんだよ」

「何なら、ビンタしてあげようか? そうすればシャキっとするでしょ?」

 千夏は不敵な笑みを浮かべて言う。

「勘弁してくれよ」

 俺が後頭部を掻きながら弱々しい声で言うと、千夏はより一層笑みを濃くした。

「じゃあ、あたしは席に戻るから」

 満足げな笑みを残して、千夏は去って行く。俺は一息吐いて、自分の席に着いた。




 昼休みを迎えると、俺はひと際大きな欠伸を漏らす。

「なあ、柳田」

 その時、近くの席の男子に声をかけられた。

「ん?」

「お前、何か赤川と仲が良いけどどうしたんだ?」

「え?」

「だよな。あの赤川とどうやって仲良くなったんだよ」

 他の男子も尋ねてくる。俺は少々困惑しつつ、

「いや、まあ……同じ言研のメンバーだから」

「言研って、高良昴が作った部活なんだっけ?」

「うん。まあ、まだ同好会みたいだけど」

「ていうかそんなことよりもさ、柳田に一つ頼みがあるんだよ」

 男子が真剣な目で俺を見る。

「何だよ?」

「赤川の胸のサイズを聞いてくれないか?」

 俺は思わずきょとんとした。

「……は?」

「だから、赤川の胸のサイズを聞いてくれって言ってんだよ。何カップか、俺らの間で熱い論争が繰り広げられてんだけどさ、やっぱり本人から聞いた正式なサイズ&カップ数が知りたいんだよ」

 俺は自分がこの美礼学園にふさわしい優秀な生徒だと思っていないが、少なくともこいつらよりはマシだと思う。欲望丸出しにして女子の胸のサイズやカップを知りたがるなんて、思春期のアホ男子そのものじゃないか。全くもってけしからん。

「……悪いけど、断る」

「は、何でだよ?」

「そんなに知りたきゃ、自分で聞いてくれ」

 俺が言うと、男子達は一様に渋い顔になる。

「それが出来ないからお前に頼んでるんだろ? なっ、この通り。何なら金払うからさ」

 出た、金払うとか本当に愚かだな。何でも金で解決すると思うなよ。まあ、金額によっては考えなくもないが……って、いかんいかん。俺は怠惰な男だがその中身は腐っていないはずだ。

「あのな……」

 俺がいきり立つ男子達をたしなめようとした時、

「幹男」

 呼ばれて振り向くと、ロングヘアーをなびかせて千夏がやって来た。今しがた彼女に関するやましい話題を上げていたこと、それから彼女の鮮やかな美貌も相まって、男子達は一様に身を固めて口ごもった。

「お、おう。どうした?」

 俺は何もやましいことはしていないが、何だか共犯者のような気持ちになってしまい、軽くどもってしまう。だが、千夏はそんな俺の様子など意に介することなく、

「ちょっと来なさい」

「え、何で?」

「はあ? そんなの、一緒にお昼ごはんを食べるからに決まっているでしょう?」

 さも当然とばかりに、千夏はとんでもないことを言い放つ。とんでもないは言い過ぎかもしれないが、それでも女子が男子をお昼ご飯に誘うなんて、もっと人目を憚るような、ともすれば恥ずかしさを感じることではないだろうか。だが千夏は照れる素振りなど一切見せず、その青みがかった瞳で俺を真っ直ぐに見つめている。その迫力に俺は圧倒された。

「……わ、分かった」

「じゃあ、屋上で食べましょう。あたしは購買でお昼ご飯買って来るから、あんたは先に行ってなさい」

「あ、俺も昼メシは購買で買うから、一緒に行くよ」

「良いわ、あんたの分も買って来てあげるから。ほら、さっさと行く!」

 千夏は俺に手を上げたりしていない。しかし、まるで背中でも引っぱたかれたような感覚を得た。それくらい、彼女の言葉には力があるのだ。

「りょ、了解した」

「じゃあ、屋上で落ち合いましょう」

 そう言って、千夏は周りの視線などどこ吹く風、颯爽とその場から去って行った。




 颯爽と去って行った千夏に引き換え、俺は男子達からひやかしを受け、大分ぐだぐだな感じで教室を後にした。そして今、屋上の扉を開く。

 空は快晴だった。雲一つ無く抜けるように青い。これが夏であれば灼熱地獄に見舞われてしまうが、春においては柔らかな日差しが燦々と降り注いでいる。このまま適当な場所に仰向けになれば、俺は間違いなく眠りこけてしまうだろう。春眠暁を覚えずということわざがあるように、春は寝るための季節。寝るべき季節なのだ。俺はそう結論付けた。

「おやすみなさい……」

 俺は誰にともなくそう告げて、適当な場所に仰向けになって寝転ぶ。

「ちょっと、あんた。何してんのよ」

 直後、咎める声が降って来たのでおもむろに目線を向けた。そこにはビニール袋を持った状態で腕組みをしている千夏がいた。

「……おう、悪い。ちょっと眠たくなってな」

 目元をゴシゴシとこすりながら俺は言う。

「あんたって本当にだらしない奴ね。もっとシャキッとしなさいって言ったでしょ?」

「はは、悪いわ……」

 言いかけて、俺は口を止めた。千夏は訝しげな瞳で「何よ?」と問いかけてくる。

 ご存じの通り、今の俺は地べたにのんべんだらりと寝転がっている。そのため、千夏のスカートの中が見えそうになっているのだ。今の所まだギリギリのラインを保っているが、ひとたび春風でも吹けば、その裾はひらりと持ち上げられ、中身が露わになってしまうだろう。先ほどクラスの男子達に対して思春期アホ男子などと言っておいてなんだが、俺も一応健全な高校男子。つまり、女子のスカートの中はごく多少なりとも気になってしまう。正直、見てみたいとさえ思う。そうすれば、真に甘美な桃色の気分を味わうことが出来るだろう。しかし、それは束の間の幸せ。直後にはとんだ変態野郎として制裁を受け、血まみれで地べたに転がることになってしまうだろう。考えただけでもゾッとする。

 一瞬の快楽を求める人生もまあ悪くないが、俺としては平穏にのんびりと暮らしたい。だから惜しいがこの場は大人しく起き上がり、スカート覗きを回避することにしよう。そのように決意をして、身を起こそうとした。

 運命のいたずらだろうか。そんな時に限って、神様は余計なお世話を焼いてくれる。いや、何でも神様のせいにするのはどうかと思うが、とにかく俺に余計な幸運が訪れた。

 春風が吹いたのだ。それも適度な強さの、春風が吹いたのだ。

 ひらり、と千夏のスカートがめくれ上がる。

「あっ」

 それと同時に、俺の口から何とも間の抜けた声が漏れてしまう。

 見えた。白地に青いボーダーラインのパンツが、見えてしまった。

 数秒後、春風は止んだ。そして訪れる静寂。それがとてつもなく怖い。え、何これめちゃくちゃ胃がキリキリするんですけど。ていうか、俺はこの後どうなっちゃうの?

「……今、見たわね?」

 やがて、おもむろに口を開いた千夏が、静かな声音で尋ねてきた。

「へっ? いや、何のことかな? 俺にはさっぱり分からないよ」

「とぼけんじゃないわよ。鼻の下伸ばしちゃって」

「何っ?」

 俺はとっさに鼻の下を押さえた。すると、千夏がじろっとこちらを睨む。

「早速ボロが出たわね、おバカ」

「ひ、卑怯だぞこの野郎!」

 我ながら逆ギレも良い所である。

「卑怯なのは、女子のスカートを寝転がって覗いたあんたでしょうが」

「くっ……千夏のくせに皮肉めいたこと言いやがって」

「何よ、文句でもあるの?」

 眉を怒らせて言う千夏に対して、俺はたじろぐばかりである。

「いや、何でもないです。すみませんでした」

 そして平謝りである。最高にカッコ悪いな俺。泣けて来る。

「はあ、幹男がこんな変態野郎だったなんて。せっかく購買で美味しそうなパンを買って来てあげたのにね~……決めた、これはあたしが全部一人で食べよ」

「おい、ちょっと待て。それはないだろ」

「うるさいわね、もう決めたの」

 千夏はツン、とそっぽを向く。まずい、このままでは昼メシを食いっぱぐれてしまう。俺はどうしたものかと頭を回転させる。

「……おいおい、そんなに一人で食ったら太るぞ」

 その結果出て来た言葉は、非常に安易なものだった。だが年頃の女子にとって、この『太る』はキラーワードのはずだ。普通の女子であれば「ひどーい!」とか「うわーん!」と言って泣き喚くことさえある。まあしかし、中にはデブり過ぎてむしろ開き直っている人とかいるから恐ろしい。あの先輩、その後きちんと元の体型に戻れたのだろうか。まあ、二階から地響きが聞こえて来ないから、恐らく少しは痩せたのだろう。そんな思考した所で、ふっと千夏を見た。そして、俺は自らが失念していたことに気が付く。赤川千夏、彼女は普通の女子ではないと。

「バカね。あたしは食べても太らない体質なのよ。これくらい、余裕で消化出来ちゃうから」

 どこか得意げに言うその様は一見チャーミングにも取れるが、その実とんだ大食い宣言に他ならない。

「食べても太らない……ね」

 俺の目線は自然と、赤川の胸部へと向かっていた。

「何よ?」

「あ、いや。何でもない……」

「あっそ。じゃあ、あたしはお昼ご飯食べるから。あんたはそこらで惰眠を貪ってなさい」

 がさりとビニール袋の音を立てて、千夏はパンを取り出す。

「おい、マジでくれないつもりかよ」

「当然でしょ。か弱い女子のスカートを覗く男にやるメシはないわ」

「はっ、誰がか弱い女子だよ」

「あ?」

「あっ」

 俺は自らの失言を悔いた。くそ、言研に身を置いて曲がりなりにもというか曲がりっぱなしで皮肉の訓練を積んで来たせいで、つい皮肉がこぼれてしまった。くそ、あの性悪女こと昴のせいで俺の日常生活に差し障りが出ちまっているじゃないか。とんだ八つ当たりである。

「ふん、もう絶対にあげないわ」

「うわ、ごめんなさいマジで謝るから俺にもパンを下さい」

 気が付けば俺は速攻で土下座をしていた。額を地べたに擦り付けて、一番情けない奴である。

「本当に悪いと思っている?」

「はい。全面的に俺が悪いと思っています」

「あっそう。じゃあ良いわ、許してあげる」

 思いのほかあっさりと許しの言葉を得たので、俺は少し困惑してしまう。これが性悪女こと昴相手であれば、彼女の豊富なボキャブラリーによって自らの存在を全否定され、その結果として死に追いやられてしまう。まあそれは言い過ぎだが。とにかく千夏はあっさりと俺を許してくれた。もしかしてこいつ、胸とかそんなんじゃなくて器がデカい奴なのか? 感心してしまう。

「どうしたの? 早く食べないと昼休み終わっちゃうわよ」

「あ、ああ」

 俺はぎこちなく頷いて、ビニール袋からハムパンを手に取った。

「そうだ、金渡さないとな」

「良いわよ、いらない」

「え、何でだよ?」

「今日はあたしが奢ってあげる。この前、あんたに助けてもらったお礼として」

「いや、そんなの気にしなくても良いのに」

「良いの。大人しく奢られときなさい。ていうか、あんたアパート一人暮らしでロクに金も無いんでしょ? だったら、あたしの行為を素直に受け入れた方が良いでしょ?」

「うっ……まあ、そうだけど」

「ほら、ボケっとしてないで早く食べなさい」

「お、おう」

 情けなくも俺は器のデカい千夏の好意にがっつりと甘え、ハムパンを貪った。やばい、美味い。人に奢ってもらうメシウマ! とか思う自分が最低過ぎるが許してもらいたい。いや、実際問題、腹減っていた分とても美味く感じてしまうのだ。

 俺はもぐもぐと極上のハムパンを頬張っていたのだが、ふいに喉がパサつくのを感じた。

 ちらり、と千夏に視線を送ると、彼女は反応してくれた。

「これが欲しいの?」

 そう言って千夏はビニール袋の中を漁り、ペットボトルのウーロン茶を差し出してきた。

「お、おう」

「ったく、欲しいなら口でハッキリ言いなさいよ」

 軽く目を尖らせて言うと、千夏はそのまま俺にウーロン茶を渡してくれた。これがかの性悪女昴だったら、豊富なボキャブラリーで散々弄ばれたあげく、結局飲ませてくれないという鬼畜っぷりを発揮することだろう。高良昴=T・S=とてもSだからな。

「あんた何言ってんの?」

 眉をひそめる千夏を見て、俺はとっさに口を押える。どうやら、うっかり心の声が漏れていたらしい。

「まあ、確かに。あの性悪女はとてもSね。ていうか、あんたはやっぱりMなの?」

 瞬間、俺の大してハイスペックでもないが人並み以上はある脳が高速回転し、先ほどの要領で自分の名前を変換する。柳田幹男=Y・M=やっぱりM。っておい。

「千夏のくせに、上手いこと言ってんじゃねえよ」

「はぁ? そんなこと言うならパンと飲み物返しなさい」

「いや、もう飲んで食っちゃったから」

「じゃあ、ゲロって返しなさい」

「それでお前は嬉しいのか?」

 俺はげんなりとして言う。千夏はふん、とそっぽを向いた。

「……あたしは、何かないの?」

「え?」

「あたしは何か無いのかって聞いてんの」

 ふて腐れたように言う千夏の横顔を見て、俺はふと思い至る。

 赤川千夏=A・C=……うーん。

「ちょっと、何黙ってんのよ。もしかして無視してんの? だったら殺すわよ」

「……案外キュート」

 ふいに口を突いて出た言葉に俺自身も驚いたが、それ以上に千夏が目を大きく見開いていた。こいつの性格上、そんなことを言えば痛烈な言葉を返されてしまう。俺は来る言葉の暴力に備えてにわかに警戒心を高めた。

「はあ? 案外って何よ? あたしは元からキュートだし」

「ですよね~……」

 大した自信家だな、おい。まあそれだけの美貌を持っていることは確かだが。

「……でも、嬉しい」

「は?」

「幹男にキュートって言われて、あたし嬉しい」

 その直球な一言に、俺は心臓を揺さぶられる思いだった。

「……え、何で?」

 つい、間の抜けた声で尋ねてしまう。すると、千夏は眉を怒らせた。

「はあ? 自分で考えれば? 死ね」

 そう言って、千夏はまたそっぽを向いてしまう。俺は困惑したまま空を見上げた。

 もしかして、こいつ俺のことが好きだったりするのか? いや、それはあまりにも単純過ぎる思考だ。ちょっと可愛い女子とこうやって肩を並べているからって惚れられているとか、それこそ思春期アホ男子の残念な思考に他ならない。それにもし仮にそのアホ思考が的中していたとしても、俺はその思いに応えられない。今でもずっと思いを馳せているあの子がいるから。そうだ、最近言研の活動やら何やらで忙しくて、あの子を探す時間が取れていなかった。会いたい。可憐なあの子は、今どれだけ美しく成長しているだろうか。俺のことを覚えてくれているだろうか。思いは募るばかりである。

「幹男」

 ふいに呼ばれて、俺はハッと意識を戻す。

「あたしとあんたはコンビを組むことになったでしょ」

「え? ああ、そうだな」

「今日からバリバリ活動をして、あの性悪女の鼻を明かしてやりましょう」

「ああ、そうだな……けど」

「けど、何よ?」

 鋭い千夏の視線に射竦められて、俺は口ごもってしまう。

 千夏にコンビを組もうと提案したのは俺だ。だからその責任を果たす意味でも、彼女とバリバリ活動する必要がある。その上、彼女はやる気を出しているのだ。それを削ぐ訳にはいかない。けれども、それと同時に今しがた胸の内に込み上げたあの子に対する思い。本当ならば一心不乱になって探し回りたい。いや、学園内でそんなことをすればとんだ変質者であるが。そうならない程度に、探し回りたい。本当ならば訳の分からんデトックスになぞ関わっている暇は無いんだ。その元凶たる昴の顔を思い浮かべると、無性に腹が立って来た。

「もしかしてあたしとコンビで活動するのが嫌だっての? あんたから提案したくせに、死ね」

「そう安易に死ね死ね言うもんじゃないよ、千夏さん」

「黙りなさい。それであたしとコンビを組んでやるの、やらないの? どっちよ」

 ずい、と千夏は俺に顔を近付けて来た。その美しい顔立ちが眼前に迫ると、一瞬頭が真っ白になる。

「あ、やります……」

 その有無を言わせぬ迫力に押されて、俺は素直に頷いてしまう。

「よし、じゃあがんばりましょう」

 すると、千夏はそれまでの険の込もった表情が嘘のように、にこっと笑った。




      ◇




 放課後のチャイムが鳴ると同時に、千夏が俺の下にやって来た。

「幹男、行くわよ」

「お、おう」

 俺は立ち上がり、千夏の後に付いて行く。すると、教室内がにわかにざわついた。

「あの二人、やっぱ妙に仲が良いよね」「ていうか、柳田くんが引っ張られている感じ」「もしかして柳田くん、赤川さんの子分にされたのかな」

 そんなありがたくない憶測が飛び交う中、千夏は相変わらず周りなど一切気にすることなく、淀みのない歩調で教室を後にする。俺は廊下の途中で彼女と並んで歩き、言研の部屋へと向かった。

 がらりと扉を開けると、いつもどおり椅子に腰を掛けている昴の姿が目に映った。彼女はこちらに目配せをすると、やんわり微笑んだ。

「やあ。仲睦まじく同伴出勤とは、良いご身分だね」

 俺はその物言いに対して突っ込もうとするがそれよりも先に、

「はあ? 訳分からないこと言ってんじゃないわよ、この性悪女」

 千夏が刺すような言葉を昴に向けた。

「全く、君は相変わらず乱暴な物言いをするね。柳田くん、もう少し相手を選んだ方が良いよ」

「それどういう意味よ?」

「そのままの意味さ、乱暴者の赤川くん」

 腕組みをして傲然と見下ろす千夏の視線を、昴はあくまでもにこやかな笑みを浮かべていなしている。放課後の初っ端からそんなやり取りはやめて欲しい。またぞろ胃がキリキリしてしまう。

 すると、脇の方からうーんとあどけない声が聞こえた。振り向けば、麻帆里が小難しい顔で唸っている。

「どうしたんだ、麻帆里?」

 俺が尋ねると、麻帆里はおもむろに俺達三人の姿を見比べ、人差し指で三者を繋ぐ架空の線を描いた。

「……三角関係?」

 そして、とんでもない爆弾を放り込みやがった。やめてくれ、勘弁してくれ。ここは立ち入り禁止の危険区域。そこにあろうことか、爆弾を放り込むなんて。天然なのか? 知っていたけど、この子は天然なのか?

「今はちなっちゃんが優勢?」

 更に爆弾投下。おい、やめろ。やめてくれ。俺の心の悲痛な叫びなどどこ吹く風、麻帆里は「ん?」と小首を傾げている。その仕草は非常に愛らしいが今は思い切りひっぱたきたかった。可愛いは必ずしも正義ではないのだ。

「……麻帆里、ちょっとおつかいを頼んでも良いかな?」

 ふいに、昴が言った。

「おつかい?」

「ああ。自販機で飲み物を買って来て欲しいんだ」

 昴はおもむろに手を上げて、親指で何かを弾いた。複数の円状の物体が宙を舞い、麻帆里の手元にすっぽりと収まる。

「そのお金で麻帆里も好きな飲み物買って良いぞ」

「本当に? スバルン、太っ腹~」

 麻帆里は嬉々として言研の部屋から出て行った。

 取り残された俺達三人の間で、気まずい沈黙が流れる。

「……君達に私から一つ提案がある」

 おもむろに、昴が口を開いた。

「提案……?」

「ああ。私と君達で、勝負をしよう」

「勝負……って何の勝負よ?」

 千夏が眉をひそめて問いかけた。

「我が言研は設立して間もないが、ここ数日の活動によってその評判が広まり、多くの依頼が寄せられているんだ」

「そうなのか?」

「ああ、そうだ。そこで今日から一週間、私と君達のどちらがより多くの依頼者をデトックスさせるか、勝負をしようじゃないか」

 昴の突然の提案に、俺と千夏は目を見張った。

「……その勝負をして、勝ったらどうなるんだ?」

「私が勝ったら、柳田くんを私専用の玩具にする」

 昴のとんでもない物言いに、俺は口をあんぐりと開けた。

「安心したまえ。私は幼少の時から物は大切に扱う性分なんだ。君も壊れない程度に弄んであげるよ」

 ふふふ、と微笑む昴。

「つか、俺は物じゃねえんだけど……」

 呆気に取られ過ぎて、怒鳴る気力も湧かない。相変わらずこの女はSだ。とてもSだ。

「ふぅん、あっそ」

 一方、千夏は腕組みをした状態で鼻を鳴らす。

「じゃあ、もしあたしが勝ったら……」

 千夏が一瞬ちらりと俺を見た。それから、また真っ直ぐにスバルを見据える。

「……あたしが勝ったら、幹男とデートするから」

 直後、俺はまたしても口をあんぐりと開けた。そろそろ顎が外れそうである。いや、そんな冗談を言っている場合ではない。今、千夏は何と言った?

「柳田くんとデート……だと?」

 にこやかだった昴の笑みに、わずかながらひびが入る。眉がぴくりと跳ね上がり、静かな黒い瞳が千夏を睨む。

「……おい、千夏。お前、本気で言っているのか?」

 慎重な声音で俺は尋ねる。

「ええ、そうよ。何よ、文句でもあるの? それとも、あんたはこの性悪女に玩具として弄ばれる方が良い変態なの? やっぱりMなの?」

「いや、Mじゃねえし。ていうか、仮にも女子がSとかMとか言ってんじゃねえよ」

「仮にもが余計なのよ」

 千夏は俺に対してムッとした顔付きになる。

「おいおい、早速痴話げんかかい? 見せつけてくれるじゃないか。君達はそのまま色ボケて恋にうつつを抜かし、学業をおろそかにして進級できずに退学。その後、さぞかし素敵な茨の道が待っているだろうね」

 両手の平を上に向けて、昴はやれやれとため息交じりに言った。

「うるさいわね。今に見てなさい、その生意気な口から素直に『ごめんなさい』って言わせてやるんだから」

「はは、出来る物ならぜひそうして欲しいね。ただ、私が君に謝ることはありえないよ。少なくとも今の人生においてはね。来世に期待したまえ」

「そこまで待てないわよ!」

 勝負開始前から熱い攻防が繰り広げられている。その間で板挟みに遭っている俺の精神的ストレスは半端ない。誰でも良いから助けて欲しい。こんな時に麻帆里がいてくれれば、あの天才的な天然ぶりによってこの事態をうやむやにしてくれるだろう。そう思ったが、よく考えればこの事態を招いたのも麻帆里だった。おのれ、あの天然少女め。いつかあのふわふわの頭を撫でくり回してやる。何だかんだひっぱたかない俺は紳士である。

 そんな下らない思考を回していると、ふいに体がぐんと引っ張られた。

「そうと決まったら、幹男。さっさと行くわよ」

 千夏が俺の制服の袖を掴み、ぐいぐいと引っ張っている。つか、力あんな。この腕力があれば、俺が助けに入らなくても的場の一人くらいぶっ飛ばせたんじゃないだろうか。今更ながら、余計なおせっかいを焼いてしまったと反省してしまう。いや、そんなことより。

「……ていうか、本当にこっちは二人がかりで良いのか?」

 俺は昴に問いかける。

「ああ、構わないよ。君達のような可愛らしいひよっこが束になろうが、この私には到底及ばないからね。まあ精々、束の間のラブラブカップル気分でも味わいたまえ」

「いや、何言ってんだよ! ていうか、お前は行かないのか?」

「ああ。麻帆里におつかいを頼んでいるからね。今日は彼女と二人で楽しいティータイムだ。デトックスは明日から。今日一日、君達にはハンデとしてあげるよ」

 にやり、と昴は口元で笑みを浮かべる。

「はん、随分と余裕かましちゃって。上等じゃない、今に吠え面をかかせてやるわ」

「ああ、楽しみにしているよ。バカ川くん……おっと失礼。口の中の水分が足りないからつい噛んでしまったよ、あっはっは!」

「あんた絶対ぶっ飛ばす!」

 千夏は怒りの咆哮を上げる。そんな彼女の力強さに引っ張られて、俺は言研の部屋を後にした。

「…………ふん、バカ者が」

 去り際かすかに聞こえたその言葉は、気のせいだったのかもしれない。




      ◇




「さあ、どこからでもかかって来い」

 体育館脇にて腕組みをして立つその男は、大柄で屈強な体格を誇っていた。

 彼は大河原剛(おおがわら つよし)、一年生。美礼学園は勉学だけでなく運動部も盛んである。彼は柔道の選手として、スポーツ特待生で入学をして来たらしい。確かに全身からみなぎる強者のオーラはとても同じ一年とは思えない。だがそんな彼は高校デビュー戦となる先日の練習試合で、痛恨の敗北を喫してしまったのだ。しかもその試合は理事長も観戦していたとか。そのせいで退学……なんてことにはさすがにならなかったが、少なからずプレッシャーをかけられたようだ。そのせいで内に溜まったストレスを解消するために、俺達にデトックスの依頼をしたと言う。

「ああ、じゃあ早速始めようか……大河原、改めて確認するが、お前はスポーツ特待生でこの美礼学園に入学したんだよな?」

「ああ、そうだ。強者にだけ許された特権だ。ちなみに、学費も免除されている」

 誇らしげに言う様が苛立ったが、俺は努めて平静を保つ。

「そうか、それは素晴らしいことだな。そして、理事長の目の前で素晴らしい負けっぷりを披露した訳だ」

 俺は軽く先制ジャブを打つ。少し肝が冷えた。相手は屈強な柔道選手。依頼をされたとはいえ、やりすぎでうっかり機嫌を損ねてぶん殴られたらどうしようなどとビビッてしまう。

「まあな……俺も少し油断していた。そうでなければ、負けるはずはなかった」

「大した自信だな」

「当然だ。俺は将来、日本の柔道界を背負って立つ男だからな。油断でもしない限り、誰にも負けはしない」

「はは、そうか……」

 その堂々たる、というか傲慢たる物言いに、俺は勢いを削がれてしまう。かすかに焦りを感じていた時、背後に控えていた千夏がすっと前に出た。

「あんた、どんだけバカなのよ」

 そして、いきなりド直球の罵倒を投げた。俺と大河原は目を丸くする。

「油断していたから負けた? そんなのダメな奴の常套句じゃない。本当はあんた、実力差で相手に負けたんでしょ?」

「な、何を言って……才能があり、おまけに日々厳しい鍛錬を積んでいるこの俺が負けるなんておかしいんだ」

「ふぅん、日々厳しい鍛錬を積んでいる……ねぇ」

 千夏は目を細めて睨む。それから、大河原の下へ歩みを進めた。

「よくそんなこと言えるわね。この……たるんだ腹で!」

 千夏はその手で大河原の腹部をぎゅっと掴んだ。大河原はぎょっと目を剥く。

「何よ、これ。とてもスポーツ選手のお腹じゃないわ。たぷたぷのぷよぷよじゃない!」

「う、うるさい。俺は重量級の選手だから、多少脂肪も付いているんだよ!」

「ダサい言い訳ほざいてんじゃないわよ。どう考えたって、これはあんたが怠慢している証拠。大方、高校柔道の厳しい練習に耐えかねて、暴飲暴食でもしたんでしょう?」

「うっ……」

 瞬時に、大河原は苦々しい表情を浮かべた。

「図星みたいね。あたし思うんだけど、あんたみたいに図体だけデカくて口先だけのへたれ野郎は、最高にカッコ悪い。もういっそのこと理事長に頭下げて『僕はもうやっていけません』って頭下げて、自主退学した方が良いんじゃないの?」

 そのあまりにも真っ直ぐで勇ましい物言いに、俺はついつい見惚れていた。だが、そこでハッと大河原を見やる。彼は顔を俯け、大きな肩を小刻みに震わせていた。まずい、これ以上刺激したら怒りが爆発してしまうかもしれない。的場のように平均的な体格の奴だったら俺でも食い止められるが、こんな大柄の怪物、正直止められる自信はない。ていうか、骨を折られちまう。バッキバキに。いや、自分のことより、今は千夏の身が危険だ。

「……はあ、確かに。千夏の言う通り、お前はバカだよ」

 俺は額に手を当てて、やれやれとため息交じりに言う。

「何だと……」

 大河原は大きな拳を震わせる。それで殴られたらと思うとゾッとするが、俺は恐怖を飲み込んだ。

「華々しくデビューすれば良いのに、怠慢こいて変に回り道しやがって……けどまあ、いつの時代も大成功を収める奴は、ストレートに上手く行かないもんだ」

「えっ……?」

 大河原は少し驚いたような目で、俺を見つめた。

「これは将来大スターになるお前に課せられた試練なんだよ。それにも気が付かないお前はバカ野郎だって言ってんだ。全く、天才ってのは案外自分じゃ何も分かっていないお子ちゃまばかりだから困るぜ。まあ、俺達凡人からしたら、羨ましいことこの上ないけどな」

「お前……それ、本気で言っているのか?」

「ああ、本気だよ。才能があるお前のことを羨ましいと思っている。まあでも才能が無いおかげで、誰からも期待されず、随分と楽な人生を歩ませてもらっているけどな」

 俺はふっとわざとらしく自嘲する笑みを浮かべた。

「……そうか、俺が苦しんでいるのは、天才だからなのか……」

 大河原は茜色に染まりつつある空を見つめて、ぽつりと呟く。

「ああ。このまま終わったら何もかもがもったいないぜ、天才くん」

 俺はダメ押しに歯の浮くようなお世辞を言う。

 ふと視線を下ろした大河原は、どこかスッキリした顔付きになっていた。

「……そうだな。お前の言う通りだ。俺はこんな所で終わって良いような男じゃない。将来この日本を背負って立つ男なんだ」

 柔道界のみならずこの日本全体を背負うと来たか。さすがにうぬぼれ過ぎだろ。だが、その言葉はそっと胸にしまっておく。

「はあ? あんたうぬぼれ過ぎ……」

 俺は慌てて千夏の口を押えた。ちらりと大河原を見るが、すっかり浮かれ気分となった彼の耳には一切届いていなかったようだ。

「感謝するぞ、柳田。それから、一応そこの口の悪い女もな」

「はあ? 誰が口が悪いですって? あたしはただ本当のことを言っているだけよ」

「まあまあ、落ち着けって。とりあえず、これでお前のデトックスは完了ってことで良いか?」

「ああ、もちろんだ」

 力強く頷いて、大河原はにかっと笑う。これから彼には、その笑みがふさわしい爽やかなスポーツマンになってもらいたいものだ。




 俺は千夏と並んで廊下を歩いていた。

「ふう、何とか今日のデトックスも完了したな」

 俺がほっと安堵の息を漏らすと、千夏はふんと鼻を鳴らす。

「あんたの力を借りなくても、今回はあたしの力でデトックス出来たのに」

「いや、それは難しいだろ。だって、お前の物言いは相変わらずストレート過ぎるから。危うく骨をバッキバキにされる所だったんだぞ?」

「うるさいわね。あんたこそ、色々と小難しいこと言い過ぎなのよ。あの性悪女と一緒にいるみたいでイラっとするわ」

「ひどいな、お前」

「まあ、けどあんたと一緒にいられて嬉しいけど」

 その言葉に、俺は一瞬足を止めた。一旦上げて落とすスタイルはよく用いられるが、その逆は中々に珍しい。不覚にも、俺はわずかばかり舞い上がってしまった。

「何ニヤけてんのよ。キモ」

 そのストレートな物言いも、今は胸に心地よく溶けて行った。

 そんなやり取りをしている内に、言研の部屋の前にたどり着く。

 扉を開けると、椅子に座って静かに佇む昴がいた。その隣には麻帆里も座っていた。昴はおもむろに顔を上げて、にこりと微笑む。

「やあ、来たね」

「ああ」

「まあ、こちらに来て座りなよ」

 昴に勧められて、俺と千夏は彼女の向かいの椅子に二人並んで座る。

「それじゃあ、早速勝負の結果発表と行こうか。麻帆里、お願い出来るかな」

「合点承知」

 麻帆里はあどけない声で答えてびしっと敬礼する。彼女の目の前には、紙の束が詰まった段ボール箱が置かれていた。その中身は中央の仕切りによって二分されている。言わずもがな、俺&千夏と昴の二つに仕切られている。

「じゃあ、この一週間でみんながどれくらいの依頼をこなし、生徒達をデトックスさせてきたか発表するよ」

 麻帆里は俺と千夏に視線をやった。

「まずは、ミッキーとちなっちゃんのコンビから。二人がこの一週間でデトックスした人数は……」

 そこで麻帆里は口の先を尖らせて、ドゥルルルル……と、どことなくふんわりした感じのドラムロールを奏でた。

「……十四人」

 その数字を聞いた時、正直どうリアクションを取って良いか困った。隣を見やれば、千夏も同様に戸惑っている。まあ一日に二人デトックスしたということは、それなりに誇っても良い結果ではないだろうか。

「お次はスバルンの結果を発表するよ」

 麻帆里が言うと、俺と千夏は妙な緊張感に襲われる。

「スバルンがこの一週間でデトックスをした人数は……」

 麻帆里がドラムロールを奏でる数秒間、俺は固唾を呑んでいた。この勝負の結果次第で、俺は大いなる基本的人権を失い、都合の良い玩具にされてしまうかもしれないのだ。それだけは避けたい。頼む神よ、哀れな運命に苛まれつつある俺を救って下さい。

「……十六人。よって、スバルンの勝利だよ」

 そんな俺の切なる願いは、麻帆里のあどけない声によって一蹴された。俺は口を半開きにして呆然とする。

 ああ、神というのは何と非常なのか。カムバック、俺の基本的人権!

 そんな風に打ちひしがれつつ隣に視線をやると、千夏は悔しそうに唇を噛んでいた。まさかそこまでこの勝負に入れ込んでいたとは。よほど昴に勝ちたかったんだな。でも良いじゃないか、お前は別に基本的人権とか失わないんだから。

 俺は向かいに座っている昴を見た。ああ、俺はこれからこいつに良い様に弄ばれ、その内飽きたらポイされてしまうんだろうか。いっそ、本当にMだったら良かったのにと訳の分からない嘆きを胸の内で漏らしてしまう。

「……麻帆里、その結果には間違いがあるよ」

 すると、昴が優しく諭すような声で言った。

「え?」

 麻帆里は目を丸くした。昴は彼女の前に置かれている段ボール箱の中、区分けされた自分のスペースから数枚の用紙を取り出す。

「この人と、この人……それからこの人も。完全にデトックスはし切れていない」

「そんなことはない。きちんとデトックス出来ていたよ」

 いつもおっとりしている麻帆里が、珍しく強い語調で言う。

「麻帆里、嘘はいけないよ。君も分かっているだろ? この三人はデトックス完了していない。私がデトックス出来たのは十三人……つまり、私の負けということだ」

「スバルン……」

 悲しげに瞳を歪める麻帆里に微笑みかけてから、昴は再び俺達へと視線を向ける。

「……という訳だ。全く、君達のような有象無象に敗北するなんて、私も随分とヤキが回ったもんだ」

 額に手を当てて、昴は少し大袈裟に言った。

「おい、昴……」

「何だい、柳田くん? この私を負かしたことにより、君は玩具にならずに済んだ。さらに、その粗暴な性格や物言いはともかく見てくれだけはとても良い赤川くんとデートが出来るんだ。もっと喜んでも良いんじゃないのかい?」

 あくまでも朗らかな笑みを浮かべて、昴は言う。俺はそんな彼女に対して返す言葉が無かった。脇に視線を振れば、いつもなら彼女の皮肉に対して俄然向かって行く千夏が、神妙な面持ちで押し黙っている。夕日が差し込む言研の部屋は、どこか気まずい静寂に包まれていた。

「君達は仮にもこの私に勝利したんだ。今後もその活躍を期待しているよ」

 そう言って、昴は椅子から立ち上がる。

「スバルン、どこに行くの?」

「今日は少し疲れたからね。私はもう帰らせてもらうよ。ああ、君達はもう少しくつろいでいると良い。放課後に無意義な時を過ごすのも、学生の特権だからな」

 昴は壁際のテーブルに置いていた鞄を手に取ると、部屋の扉へと歩みを進める。

「じゃあ、諸君。良い週末を」

 軽やかに手を振って、昴は颯爽と去って行った。

 その場に残された俺達は、しばらくの間言葉を発することが出来ずにいた。

 俺は向かいの椅子に座って、小さく顔を俯けている麻帆里のことが気になった。

「麻帆里、どうした? 何かごめんな、俺達のせいで」

 そのように詫びると、麻帆里は小さく首を横に振った。

「ううん、ミッキー達は悪くないよ。悪いのは、スバルンだから。いつまでも仮面を付けている、スバルンが悪いんだから」

「え……?」

 麻帆里の発した言葉の意味が分からず、俺は首を傾げてその続きを待った。

 だがそれ以上麻帆里が喋ることはなく、俺達は再び静寂に包まれる。

 窓から差し込む夕日の明かりがなければ、深い闇に沈んでいたかもしれない。







      第六話「突き刺さる、真っ直ぐな思い」




六畳間の寂れたアパートに戻ってから、俺は敷きっぱなしにしていた布団に横たわった。どこか気の抜けた状態で、天井に吊るされている電灯を見つめていた。

 放課後、夕日に照らされたあの部屋で去り行く彼女の姿を見た時、なぜだかそのまま放って置けないという感情が湧いていた。だが結局、あくまでもにこやかに去って行く彼女を追いかけることは出来なかった。

 そうだ、彼女は強い女だ。わざわざ俺が助けるまでもない。

 ふいに、テーブルの上に置いていたケータイが着信を告げた。

 俺はおもむろに身体を起こすと、震えるケータイに手を伸ばす。

「……もしもし」

『もしもし。あたしだけど』

「おう、千夏か?」

『そうよ』

「どうしたんだよ、何か用か?」

『何か用か……ですって?』

 途端に、千夏の声が鋭くなった。受話器越しにも彼女が眉根を寄せて睨みを利かせていることが分かる。俺はにわかに焦りを感じた。

『あんた、大事なこと忘れているでしょ?』

「大事なこと?」

 焦った脳は回転が鈍く、彼女の気持ちを察することが出来ない。そうやって俺がモタついている内に、千夏が乾いたため息を漏らす。

『あたしとデートする約束のことよ!』

 キーン、と耳鳴りがした。俺は衝撃に片目を閉じて、再び受話器に耳を寄せる。

「……あ、ああ。そういえばそうだったな。悪い、忘れていた」

『忘れていたですって? バカじゃないの? 死ね』

 だから、そう簡単に死ね死ね言うもんじゃないですよ、という台詞が口を突いて出そうになるが、その結果として千夏の怒りの炎に油を注ぐようなものなので、俺は大人しく謝ることにした。

「すまん……」

『全く、しっかりしなさいよね……まあ良いわ。それじゃ、明日デートしましょ。どこに行く?』

「え、明日ってまた急だな」

『はあ? 先延ばしにしたら、あんたまたすっとぼけて忘れちゃうでしょ。それに、明日はちょうど土曜で休みなんだから良いじゃない。それとも何、あたしとデートしたくないの?』

「いや、そういう訳じゃないけどさ……ていうか、千夏は何で俺とデートするなんて言ったんだ?」

 俺は素朴な疑問を投げかける。

『はあ? そんなのあんたとデートしたいって思ったからに決まっているじゃない』

「あ、そうなんすか……」

 答えになっているようでなっていないその言葉に、俺はすっかり気を抜かれてしまう。それからも相変わらず千夏主導で会話は進み、とりあえず待ち合わせ時間や場所を決め、通話は終わった。

『遅刻したら殺すからね』

 最後の強烈な一言が耳の奥でこだまする。その言葉を聞いた時、俺の中で確かな恐怖の感情が湧いたことに、むしろ安堵した。もしここで喜びの感情が湧いていたら、俺は紛れもないM野郎だから。

「さてと……」

 俺は気だるい身体を立ち上がらせる。

 とりあえず、明日のデートとやらに備えてさっさと風呂に入って寝よう。




      ◇




 俺は最近走った記憶が無い。ごく短い距離をダッシュしたことはあるが、それでも長距離を走る機会は無かった。例え朝寝坊して学校に遅刻しそうになっても、俺は決して慌てない。むしろある種あきらめの境地に至り、いつも通りダラダラと登校するふてぶてしさを持っている。そう、遅刻なんてさほど恐れないはずの俺が、今はそれによって猛ダッシュを強いられていた。

 ――遅刻したら殺すからね。

 俺の耳の奥で再び千夏の鋭い言葉が蘇る。俺はその言葉に恐怖したし、その命令を忠実に守るために、早々に眠りに就いた。しかし、そこで予想外の事態に陥った。急に心臓が高鳴り始めたのだ。千夏と電話している時は正直事務的な感覚であったが、冷静に考えてみれば女の子とデートの約束なんて高校男子にとって相当ビックなイベントじゃなかろうか。俺の愚鈍な脳は電話を終えて数時間後、眠りに就いた時にようやくその事実に思い至り、そして俺をパニック状態に陥れた。顔が熱く火照って、夏でもないのに寝苦しいことこの上ない。何度も布団の上で寝返りを打ち、のたうち回った。そして俺は著しく体力を消耗し、その結果として予定していた起床時刻を大幅に過ぎてしまった。

 俺は急いで着替えを済ませて家を飛び出すと、猛烈な勢いでアスファルトを蹴って走り出す。本当ならばもっと余裕を持ってチンタラチンタラ進む予定だった道を、自分でも驚くぐらいのスピードで爆走していた。中学までは割と活発だった俺は、野球部に所属していた。その名残で、まだ多少なりとも体力はある。それでもやはりぜえぜえと息を切らせ、下手をすれば泣きそうになりながらアスファルトを疾走する。ていうか、既に半泣き状態だった。時折、「ヤバイ、殺されるぅ!」なんて奇声を上げていた。

 やがて、前方に待ち合わせの駅前の姿が見えてきた。俺は息も切れ切れになりながら、最後の力を振り絞って待ち合わせの駅前に向かう。この辺りまで来ると人通りが多くなる。しかも、今日は休日ということもあり、いつも以上に混んでいる。俺は人ごみを掻き分け、かわしながら、ようやく待ち合わせの場所へとたどり着いた。ここで一息吐きたい所だが、生憎そんな余裕はない。結果として、少しだけ待ち合わせの時間に遅れてしまっている。もう千夏から叱責を食らうことは決定している訳だから、後はどれくらい被害を最小限に抑えられるかが焦点となる。なるべく早く千夏の下に向かわねばならない。

 俺は待ち合わせていた駅前の時計台に向かう。そこに千夏はいた。だが、彼女は数人の男達に囲まれていた。あれはもしかしなくてもナンパされているのだろうか。当の千夏はナンパ男達に対して睨みを利かせている。

 うーむ、どうしたものやら。千夏に遅刻したことを謝る前に、厄介なミッションが課せられてしまった。あのナンパ男達をどうやって追い払うか。俺は疲れ切った状態で必死に頭を回転させる。そうやっている内に、時計台の下にやって来た。

「あの、すみません。そいつ、俺の連れなんで」

 俺が声を発すると、ナンパ男達はぐりんとこちらに顔を向けた。

「あ?」

 案の定の反応を取られてしまう。その容貌からケンカ上等な雰囲気が漂っている。やり方を間違えてはいけない。俺が今しがた考えたスマートな方法で、ここを切り抜けるしかない。

「……ていうか、ちょっと俺を見て下さいよ。メッチャ汗かいているでしょ? 何でだと思います? 遅刻したら殺すってそいつに言われたからなんですよ。で、俺は結果として遅刻しちゃったから、これからそいつに殺されなくちゃいけないんですよ。また、俺としてはそれが結構なご褒美だったりするんで、全然ウェルカムなんですけどね」

 早口でまくし立てる俺に対してナンパ男達は「お? お?」と明らかに困惑している。

「まあそういう訳なんで、俺ちょっとご褒美タイムいただくんで。ていうか、この女メチャクチャ狂暴だから、きっとお兄さん達みたいな普通の人じゃ手に負えませんよ。俺みたいな寛大なM気質じゃないと無理っすね」

 早口でまくし立てる俺に対して、ナンパ男達は「お? お?」と尚も困惑していた。千夏もまた目を丸くしていた。

「じゃあ、そういう訳なんで失礼しまーす!」

 直後、俺は千夏の手を引いて脱兎のごとく駆け出した。そのまま離れた場所まで移動する。

「……ふぅ、ここまで来れば大丈夫だろ」

 俺は手の甲で額の汗を拭った。

「……ねえ、あんた。あたしに言うべきことがあるんじゃないの?」

 ふいに、背後で千夏がドスの利いた声を発する。俺はびくりと肩を跳ねさせた。振り返れば、彼女はジーンズを穿いた腰に手を当てて、こちらを鋭く睨んでいる。

「あ、えーと……遅れてすまん」

「何がすまんよ! あんたが遅刻したせいで、あんな奴らに声かけられちゃったじゃない! しかも何よさっきの。あんたってやっぱりMなの? キモ! マジでキモ!」

「いや、あれは穏便に切り抜けるための方便であってだな……」

「分かっているわよ。でも、もっと男らしく助けられないの? 『こいつは俺の女だ』……とか言ってさ」

「いや、まあ……何て言うか、揉め事になったら千夏が傷付いちゃうかなって思って。だから、なるべく穏便に済ませようと思ったんだけど……」

 俺がちらりと目配せをすると、千夏は口を引き結んで黙っていた。それから、小さくため息を吐いた。

「仕方ないわね……」

 呟いて、肩に掛けていた鞄からお茶のペットボトルを取り出す。千夏はそれを俺に差し出してきた。

「はい」

「え?」

「何ボケっとしてんのよ。早く受け取りなさい」

「もしかして、俺のために買っておいてくれたのか……?」

「そうよ。どうせあんたは遅刻ギリギリになって走って来るだろうから、喉渇くと思ってお茶買っておいてあげたのよ。感謝しなさい」

 千夏は誇らしげに胸を張って言う。Tシャツを押し上げる豊かな膨らみに、つい目が行ってしまう。

「すげえ、お前……薄々気が付いていたけど、本当に意外なくらい気が利くんだな」

「は? 余計なこと言うとぶっ殺すわよ」

「すんません! そして、お茶いただきます!」

 俺は体育会系の後輩もかくやといわん勢いで頭を下げて受け取り、ふたを開けてペットボトルをぐいと傾けた。先ほどまで全力疾走していたこと、それからナンパを切り抜けるために喋り倒したことで極限まで乾いていた喉が、爽やかなブレンドのお茶によって一気に潤される。それはサラリーマンが仕事終わりに飲むビール並みに格別な味だと思った。ビール飲んだことないけど。

「ああ、ちなみにそのお茶、あたしも先に少し飲んだから」

 瞬間、俺は口の中に含んだお茶を一気に噴き出した。

「ちょっ、あんた汚いわよ! ていうか、キモ! こんな所で何吐いてんのよ!」

「いや、だって、お前が突然そんなこと言うから……」

「何よ、あたし変なこと言った?」

「変なことっていうか……お前もこれ飲んだの?」

「ええ、そうよ。少しだけね。何か文句ある?」

「いや、文句っていうか……」

 唐突に女子と間接キスを経験したことで、俺はにわかに動揺していた。たかだか間接キス、されど間接キス。とにかくキスと付くからには、思春期アホ男子にとって大いに刺激となってしまうのだ。ていうか、俺も結局思春期アホ男子なんだな。全く、情けないぜ。

「あたしと間接キスしたから、驚いたの?」

 こいつ、相変わらずストレートに聞いてくるなぁ。日本人にあるべき言葉のフィルターが壊れている、というか取り払われてしまっているんじゃないだろうか。まあ、彼女は純粋な日本人ではなく、アメリカ人のクォーターな訳だが。

「まあ、そんな感じだ」

「嫌だったの?」

「え?」

「あたしと間接キスして、嫌だったの?」

 だから、そんなド直球で聞いてくるなって。

「……別に、嫌じゃないけど」

「じゃあ、嬉しかったの?」

「いや、そういう訳でも……」

 すると、千夏は眉をひそめた。

「何よ、ハッキリしなさい! ムカツクわね!」

 きっと目を尖らせて千夏は言う。俺は彼女の気迫に押されてたじろいでしまう。だが、千夏はその眼光を鋭く保ったまま、俺を睨んでいる。これはそれなりにきちんとした答えを返さなければ、逃がしてくれそうにない。

「……まあ、その何だ……ラッキーって思った……かな?」

 俺は苦笑しつつ千夏を見た。すると、それまで険しい顔で唸っていた彼女は、ふっとその表情を和らげた。

「よし、それなら許す」

 そして、にこっと弾けるような笑みを浮かべた。先ほどまでの怒りの表情とのギャップが激し過ぎて、ついドキっとしてしまう。もしこれを計算でやっているなら恐ろしい女だが、恐らく千夏に関しては本能でそうしているのだろう。日頃の彼女の言動から、そのように思えた。

「さてと、じゃあお昼時だし、まずはご飯を食べに行きましょう」

「おお、ちょうど良かった。朝飯も食ってなかったから、腹が減っていたんだ」

「ふん、本当にぐうたらなんだから。何なら、今度からあたしがあんたの家に叩き起こしに行ってあげるわよ?」

「いや、それは勘弁してくれ」

 そんな調子で会話を繰り広げつつ、俺達は並んで歩き出した。




 昼食を取った後、俺達は駅前を適当にブラついた。服屋に寄ったり、ゲーセンで遊んだり。思えば、高校生になってからこんな風に遊ぶのは初めてだった。今まで色々と忙しかったし、たまにはこうやって遊ぶのも良いかもしれない。ただ、一つ問題があった。

「ヤバ、金が……」

 俺は自らの財布を覗き込み、その空っぽ具合に絶望した。今日は仮にもデートということで自分なりにきちんとお金を用意してきたつもりだったが、やはり幾分か足りなかったようだ。

「どうしたのよ?」

「いや、もうお金が無くなりそうで……これ以上遊べないわ」

「はあ? 仕方ないわね、あたしが貸してあげるわよ」

「いや、それは悪いって。この前もパンとか飲み物奢ってもらったし……」

「うるさいわね、遠慮なんてしなくて良いわよ。今日はあたしが誘ったんだから」

 そう言って、千夏は躊躇なく俺に数枚のお札を渡そうとする。やはり美礼学園に通うだけあって、こいつも大概金持ちちゃんか。いや例えそうだとしても、女子からお金を借りるなんて、男子として情けないというちっぽけな矜持が働いてしまうのだ。

「いや、そういう訳にはいかないよ」

「もう、頑固なんだから」

 千夏は軽く憤りを露わにする。それから少し考える素振りを見せた。

「……そうだわ。確かこの周辺に公園があったはず。そこに行きましょう」

「公園……」

「そこなら、お金もかからないでしょ?」

「ああ、そうだな」

「じゃあ、行きましょうか」

 千夏の後を追って、俺は歩き出した。




 その公園は広いスペースを有しており、その中で緑豊かな木々や草地が美しく輝いていた。

「うーん、久しぶりに来たけど、結構良い眺めね」

 千夏は軽く背伸びをして言った。

「あんたもそう思うでしょ?」

「ああ、そうだな……」

 千夏に同意して頷きかけた時、俺はハッとした。

 以前、俺はこの場所に来たことがある。遊んで歩き回って疲れている状態であったが、脳が高速回転する。そして蘇る、あの子の笑顔、その周りを彩る鮮やかな緑を。

 瞬間、大いなる喜びと落胆を同時に味わった。そうだここはかつて、俺があの子と出会った場所だ。俺は日頃あの子の姿を頭に思い浮かべるばかりで、その周りが見えていなかった。おぼろげなままだった。そうだこの緑豊かな公園で俺はあの子と出会い、そして将来の仲を誓ったのだ。そんな思い出の場所に来られたという喜び。そして、なぜもっと早くその点に気が付き、この場所を訪れなかったのかという落胆である。あるいは情けなさだろうか。俺はあの子のことを思いながらも、具体的に探す方法を模索していなかったのだ。自分の甘さを痛感する。

「どうしたのよ?」

 隣に立つ千夏が、訝しんで俺を見ていた。

「あ、いや。何でもないよ……」

 俺はどことなく気まずくなり、目線を逸らしてしまう。

「あっそう。ねえ、あそこのベンチに座らない?」

 千夏が指差す先には、手頃なベンチが設置されていた。

「そうだな」

 その提案を特に断る理由も無かったので、俺達はそのままベンチに腰を下ろした。

 今日は休日、そして天気は快晴ということも相まって、公園は多くの親子連れで賑わっている。小さな子供たちが無邪気に走り回り、時折転んで泣きそうになるが、また走り出す。そんな子供たちにかつての自分とあの子の姿を重ねて、少しノスタルジックな気持ちになった。今この園内にいるのは自分達以外、親子連れがほとんどである。だがその他に誰かいないか、俺は視線を巡らせた。もしかしたらあの子も俺との思い出を今でも大切にしてくれていて、この公園を訪れているかもしれない。そんなアホみたいに淡い期待を抱いてしまう。

「ねえ」

 その時、隣に座っていた千夏が俺に声をかけた。

「さっきから、何キョロキョロしてんの?」

「えっ? あ、いや……」

「ていうか、挙動不審みたいでキモいからやめてくれる?」

 こいつは本当に言葉がストレートだな。キモいとか言われるとマジで傷付くからやめて欲しい。俺の繊細なハートは容易く砕けちまう。

「悪い……」

 しかし何だかんだで返す言葉もないので、俺は平謝りをした。

「何で辺りをキョロキョロ見渡していたの?」

 千夏が問い詰めてくる。俺は口ごもった。

「それは……ちょっとな」

 俺は曖昧に言葉を濁す。

「何よ、気になるじゃない。教えてちょうだい。ていうか、教えなさい」

 千夏の目が真っ直ぐに俺を見据える。その青みがかった瞳はやはりどこか日本人離れしていて、そのためか妙に迫力を感じさせ、俺はたじろいでしまう。正直この話は今この場においてあまりしたくない。俺自身が小っ恥ずかしいということもあるが、千夏にとってもきっと気分が良くないことだから。

「教えなさい」

 それでも有無を言わさぬ姿勢で千夏は迫って来る。自然と距離が近くなる。俺は視線を脇にやろうとする。

「目を逸らさないで。あたしの目を真っ直ぐに見て、そして話しなさい」

 千夏の顔が間近に迫り、俺はすっかり動揺していた。彼女の豊かな胸の膨らみが俺の腕に当たって、ひどく落ち着かない。そのまま冷静な思考を失い、自らの秘密を語るまいとする強固な意志が、砂城のように脆くも崩れ去ってしまう。

「……人を探していたんだよ」

 俺はぽつりと声を漏らす。

「人って誰よ?」

「それは……好きな人を、探していたんだ」

 言った直後、顔から火を噴き出しそうなくらいの羞恥心に苛まれてしまう。いきなりそんなことを言って、正直意味不明である。呆気に取られる千夏の顔が想像出来た。

 だが俺がちらりと横目で見ると、千夏はあくまでも真剣な表情のまま俺を見つめていた。

「どういうことか、きちんと説明してちょうだい」

 その声は怒気を孕んでおらず、あくまでも落ち着き払っていた。そんな千夏の様子を見て、俺は幾分か冷静さを取り戻す。

「……小さかった頃、俺はこの町に住んでいたんだ。その時、この公園で一人の女の子と出会って……俺は他の奴らに苛められていたその子を助けてあげたんだ。それがきっかけで仲良くなってそれで……」

 俺は一旦言葉を切って、口を引き結ぶ。

「それで……何よ?」

 千夏は尚も真剣な眼差しで問いかけてくる。ここまで来て誤魔化す訳にもいかないだろう。俺は観念して口を開く。

「……結婚しようって、約束したんだ」

 しばしの間、沈黙が生じた。俺は頬の辺りが火照って仕方がなかった。今まで他の誰にも話したことのない秘密を喋ってしまったのだ。バカにされてしまうだろうか。所詮、お子様同士のおままごとと笑われてしまうだろうか。俺の胸の内で羞恥と不安が渦巻いている。

「……素敵な話ね」

 千夏の口から放たれたその言葉を聞いて、俺は一瞬自分の耳を疑った。

「本当にそう思っているのか?」

「ええ。わざわざ嘘を吐く理由も無いでしょ? 本当に素敵な話だと思ったのよ」

「千夏……」

「本当に素敵で……嫉妬しちゃうわ」

 わずかに掠れた声で千夏は言う。俺はかすかに目を見開いた。

「その子のこと、今でも好きなんだ?」

「え? あ、うん……実を言うと、わざわざ一人暮らしをしてまで美礼学園に進学したのも、その子に会えると思ったからなんだ。あの子は可憐なお嬢様みたいだったから」

「そっか、そうなんだ……」

 呟いて、千夏はおもむろに空を見上げた。太陽の光が眩しいせいか、目を細めている。俺はそんな彼女の様子をしばらくじっと見つめていたが、突然彼女が立ち上がった。

「ちょっと付いて来なさい」

「え?」

「良いから、早く立つ」

 普段から千夏は勝気で命令口調が目立つが、今回は何か決意したような迫力を感じ、俺は戸惑いつつも彼女の言うことに従った。迷いの無い歩調で歩いて行く千夏の後を、俺は追いかける。しばらく歩いて行くと、左手に公衆便所が見えた。すると、千夏はそちらへと向かって行く。もしかして、ずっとトイレを我慢していたのだろうか。それ故に真剣な顔をしていた……なんてことはさすがにないだろう。そんなアホな思考をしていると、千夏は公衆便所の脇を通り抜けて、その裏に回った。俺は訳が分からなかったが、その後を追った。

 公衆便所の裏に回ると、千夏がこちらに背を向けていた。

「……ねえ、幹男。あんたに一つ聞きたいことがあるんだけど」

「何だよ、突然」

「あんた、今日のデート中にチラチラあたしの胸を見ていたでしょ?」

 唐突なその指摘に、俺は一瞬で凍り付いた。

「……い、いやいや。そんなことないよ」

 言いつつも、思い切り目が泳いでしまう。

「いいえ、あんたは見ていたわ。言っておくけど、女子ってそういう視線に敏感なんだからね」

「うっ……」

 俺は情けなくも呻き声を漏らしてしまう。

 そんなお前の胸なんて見ていないと堂々宣言をしたいが、先日クラスの男子から千夏の胸が大きいことを言われて、少なからず意識していたことは事実だ。千夏の胸のサイズを知りたがっていたそいつらをバカにしていたが、俺も少なからず興味があったことは事実だ。とんだ変態野郎である。

「……すまん、少しだけ見ていた」

「少しだけ?」

「いや、割かし見まくっていたかもしれない。ごめん」

 何この誘導尋問。もう絶対に勝てる気がしない。俺はこのまま胸チラ見によるわいせつ容疑で逮捕されてしまうのだろうか。はは、全く笑えない。今のご時世、か弱い女性が被害を届ければ、男性はあっという間にお縄になってしまうのだから。

「ふぅん、あっそ。あたしの胸を見ていたって認めるのね」

「はい……すみません。謝るから許して下さい」

 俺は今、何の時間を過ごしているのだろうか。これは新手の羞恥プレイか何かだろうか。公衆便所の裏で、胸チラ見の罪を問い詰められている。情けないことこの上ない。離れて暮らしている家族が知ったら、俺は間違いなく勘当を言い渡され、天涯孤独になってしまうだろう。まあ、被害妄想が飛躍し過ぎかもしれないが。

「別に謝ることはないわよ。むしろ、安心した。あんたはムッツリだけど、きちんと思春期の男子らしく性欲はあるのね」

「いや、性欲って……仮にも女子高生がそんなことを口走っちゃダメだよ?」

 全く、どうしてこう俺の周りの女子達は羞恥心に欠けているのだろうか。

「黙りなさい。どうせあんたらエロ男子は、あたしの胸のサイズとか知りたくてたまらないんでしょ」

 鋭いな、こいつ。

「お前、少しはオブラートに包んで物事を喋れよ。ていうか、普通自分でそんなこと言うか?」

「うるさいわね、黙りなさい。あんたも知りたくて仕方が無いんでしょ?」

「いやいや、そんな風に聞かれて『はい、知りたいです』なんて答える訳ないだろうが。大体、もし仮にそう言ったとして、お前は教えてくれないだろ?」

「87のEカップ」

 俺は一瞬、言葉を失った。

「……は?」

「だから、あたしの胸のサイズは87のEカップだって言っているのよ。華のEカップよ」

「お前、バカじゃねえのか?」

 俺は久しぶりにストレートな罵倒の言葉を発した。それくらい、千夏の発言がもうアホ臭かったのだ。

「うっさいわね。ていうかそう言う割に、顔真っ赤になっているわよ」

 言われて、俺は自分の頬が熱くなっていることに気が付く。

「なっ……こ、これはお前があまりにもアホな発言をするから、こっちまで小っ恥ずかしくなって、それで顔が赤くなったんだよ」

「へえ、あっそう」

 千夏は値踏みするように俺を見た。

「何なら、触ってみる?」

「へっ?」

「あたしの胸、触ってみる?」

 俺はその言葉を飲み込むのに、しばし時間を要した。

「……お、お前。いきなり何言ってんだよ」

「だから、あたしの胸触ってみるかって聞いてんの。あんた、耳悪いの?」

「いや、それは聞こえたよ。けど、何でそんなことを言うのかって聞いてんの」

「触りたいでしょ? あたしの胸」

 千夏は俺の問いかけを無視して、真っ直ぐな瞳で見つめてくる。

「良いよ、触っても。チラチラと見るくらいなら、堂々と触って。男でしょ?」

 正直な所、俺の心は激しく揺れていた。俺は決して胸だけで女性を判断したりしない。胸が大きければ良いという訳ではないし、例え小さくたって、可憐な少女を愛する自信はある。

 だがしかし、胸というのは古来より女性のシンボルとさえ言われている。その部位が大きく目立っていれば、女性としての魅力を強調することは確かだ。そして、健全な思春期アホ男子であれば、その大きな胸に少なからず興味を引かれ、出来ることなら触れたいと思ってしまうだろう。

 気が付けば、浅い呼吸を何度も繰り返していた。公衆便所裏で影に覆われていると言うのに、こめかみから汗が噴き出す。俺の視線は、Tシャツを押し上げる豊かな双丘に釘付けになっていた。

「ほら、早くしなさいよ。こんなこと言うの、今だけなんだから。金輪際ないわよ」

 今だけの限定サービス。人々はその限定という言葉に得てして弱い。そして俺も所詮は人の子、今だけしか触れないと思うと、ただでさえ魅力的なそのお胸が、とてつもない価値を持った物に思えてくる。どこぞの偉いんだか偉くない人が貧乳は希少価値、巨乳は資産価値と言ったが、今俺の目の前にあるお胸は資産価値に加えて希少価値も得た。つまり、最強のお胸ということになる。それをこの千夏は、ただで揉んで良いと言うのだ。わずかばかり、そのお胸へと手が伸びてしまう。

「ああ、そうだ。あたしの胸を触るに当たって、一つだけ条件があるから」

「え、条件?」

「そう。胸を触ったら、あたしと付き合ってもらうから」

 それまで努めて冷静さを保っていた俺も、今度ばかりは激しく動揺した。

「……お前と、付き合う?」

「ええ、そうよ。あたしをあんたの彼女にしてくれたら、この胸だって好きな時に触り放題よ。とても魅力的な提案だと思うけど、どうかしら?」

「あの……もしかしなくても、今俺って告白されてんの?」

「そうだけど。何よ、文句あるの?」

「いや、その……」

「ていうか、気が付いていたでしょ? あたしがあんたのことを好きだって」

 正直な所、何となく感付いてはいた。しかし、こうやって面と向かって改めて気持ちを伝えられると、にわかに動揺して焦りを覚えてしまう。

「何で俺のことが好きなんだよ?」

 困惑しつつも、男としてその点が少なからず気にかかったので、尋ねてみた。

「あたしのこと、助けてくれたから」

「え……?」

 一瞬、その場は静寂に包まれた。そのわずかな時の間に、俺の脳内であらゆる思考が駆け巡る。予期していなかった事態が到来するやもしれぬという期待と不安が同時に湧き上がって来た。

「お前、まさか……」

「……あの時、教室であたしのこと助けてくれたでしょ?」

「へっ……?」

 俺はつい拍子抜けした声を漏らしてしまう。そして入学した直後に、教室内で千夏の筆箱の中身を拾ってあげたことを思い出した。

「あたし、あの時すごく嬉しかった。あたしはこんな性格だし、昔から仲の良い友達なんてほとんどいなかった。だから、周りから煙たがられて無視されることも別に平気だった。けど、やっぱり心のどこかでは寂しいって気持ちがあって……でもそんな時、あんたは周りの目を気にすることなく、あたしのこと助けてくれたよね」

「ただ、筆箱の中身を拾っただけだよ」

「そうかもしれないけど。でも、あたしは嬉しかったよ」

 にこりと、満面の笑みを浮かべて千夏は言った。俺は不覚にも、その笑顔に胸がどきりと高鳴ってしまう。

「もう一度言うわよ。あたしは幹男のことが好き。だから、あたしと付き合って」

 いつも勝気で強気な彼女。今この告白の場においても、堂々としている。だが、やはり頬を赤らめている所が少し可愛いと思ってしまう。そんな彼女に最大限の礼儀を払うために、俺も彼女のことを真っ直ぐに見つめ返した。

「……ごめん。俺は他に好きな子がいるんだ。だから、千夏とは付き合えない」

 苦い物を吐き出すような思いだった。自分に対して好意を寄せてくれている相手に対して、きっぱりと断る。それがこんなにも辛いことだなんて、今までモテた試しのない俺は知らなかった。

「……そう、それがあんたの答えなのね」

「ああ、すまない。だから……」

「――お断りするわ」

 唐突なその物言いに、俺は目を丸くした。

「あんたがあたしの告白を断るということをお断りするわ」

「いや、お前……何言ってんだ?」

 斬新過ぎだろ、それ。

「あんたに好きな子がいるのは分かった。小さい頃の約束を今も大事にして、その子を思っているって。そして、今もその子を探している最中だって。でも、その子はまだ見つかっていないんでしょ?」

「まあ、そうだけど……」

「だったら、代わりで良いわよ」

「代わり?」

「あんたが好きなその子が見つかるまでの代わりで良い。だから、あたしと付き合いなさい」

「いや、そんなのって……ていうか、お前は本当にそんなことで良いのかよ?」

「良い訳ないでしょ。本当はきちんとした彼女になりたいわよ……でも、あんたのことが好きだから。そんな形でも一緒にいられれば良いなって思う」

 千夏の表情が一瞬切なく歪むが、またすぐに強気な表情に戻った。

「だから、幹男。あたしと付き合いなさい!」

「いや、でも……」

 ただでさえ初めて告白されたことで動揺しているのに、その上そんな提案までされるなんて。俺の平常心は最早崩壊していた。そんな腑抜けた俺の姿を見て痺れを切らせたのか、ふいに千夏が迫って来た。至近距離で、とんでもない罵詈雑言を浴びせられてしまうのだろうか。

 次の瞬間、唇に柔らかい感触が走った。直後に、甘い香りが漂う。

 ああ、こいつ、こんな良い匂いしてんだな……いや、そうじゃない。

 しばらくの間、俺の唇は塞がれていた。呼吸もままならず、というか呼吸をすることさえ忘れていた。永遠のように感じる一瞬が本当にあることを、俺はこの時初めて知った。

 やがて、千夏は俺からすっと身を離した。

「……お、お前。何してんだよ?」

 俺は震える声で尋ねた。

「何って、キスしたのよ。文句ある?」

 照れて頬を染めながら言う千夏を、俺はただ呆然と見つめることしか出来なかった。

「……ねえ、あたしと付き合って、幹男」

 普段強気な彼女の切なげな顔を見ると、胸が疼いてしまう。

「……分かった。そこまで言うなら、良いよ」

 直後、そんな言葉が口を突いて出た。

「本当に……?」

 千夏は目を見開いている。

「ああ。そんな告白をされて、無下に断ることなんて出来ねえよ」

「嬉しい……ありがとう、幹男」

 千夏が浮かべる満面の笑みを俺は直視することが出来ず、目を逸らしていた。




      ◇




 六畳間のアパートに戻ってから、俺は例のごとく敷きっぱなしの布団に寝っ転がった。

 今日は本当に色々なことがあった。初めて女の子とデートをし、告白をされ、おまけにキスまでした、というかされた。

「つか、人生初の告白される場所が公園の便所裏とか……」

 ロマンの欠片もねえ。ていうか、普通に便所近くとか臭いだろ。まあ、あの公園の便所はきれにしているみたいだったから、さほど臭いはしなかったけど。ただ、もし仮に便所が臭かったとしても、千夏から漂うあの甘い匂い、それからキスによって口に広がった得も言われぬ甘い感覚に溺れていたため、俺はまるで気にすることはなかっただろう。

 おもむろに指先で唇をなぞった。今もまだ千夏の唇の感触が残っているようで、何だかこそばゆい。正直驚いて何も考える余裕は無かったけど、今思えばとても心地よい感触だった。もう一度、してみたいとさえ思ってしまう。

 そこまで考えて、俺はふいに自己嫌悪に苛まれる。

 俺には好きな子がいる。かつて将来を誓った、あの子がいる。今でもあの子の好きだ。それにも関わらず、別の女の子とデートをして、キスをして、そして変則的ではあるが付き合うことになった。それはもしかしたら今でもあの約束を覚えてくれているかもしれない、あの子に対する裏切り行為ではないだろうか。俺はハッキリ言ってモテない。モテた試しがない。そんな俺が、さながら女泣かせのジゴロのようになってしまうなんて、夢にも思わなかった。他の思春期アホ男子達からすれば、羨ましいことこの上ないのかもしれない。けれども、当の本人になってみれば、案外苦しことも多くて。俺は考えている内に眠くなった。

      第七話「固い仮面」




 人はいくらでも眠ることが出来る。一般的には疲れたら寝るということを想像するだろうが、また激しい苦痛に苛まれた時も、人というのは睡眠を欲する。それはほんの束の間、苦痛をわすれて現実逃避をするためである。

「……痛え」

 俺はこめかみのあたりを押さえて、苦悶の声を漏らす。

 束の間の苦しみからの逃亡。その代償だろうか、今朝は中々にひどい頭痛に襲われてしまう。覚束ない足取りで洗面所へと向かう。冷水を顔に浴びると、ほんの一瞬だけ頭痛は麻痺してくれたが、またすぐに押し寄せて来た。まあこの頭痛のせいで食欲が大いに減衰し、結果として食費が浮くと考えれば少しは気分も前向きになる。とは言え、怠惰な俺は大概朝食を抜いているのだが。以前味わった手痛い失敗から、結局成長出来ないままなのだ。

「行ってきます」

 誰にともなく言い、俺はアパートを出た。今が春で良かった。このぽかぽか陽気が、俺の頭痛を少しばかり和らげてくれる。もし今が夏だったら灼熱の熱気により痛みが促進され、道端でぶっ倒れている所だろう。中学時代に野球部だったこともあり、夏は地獄のイメージが強い。夏なんて来なければ良い。けど夏休みは欲しい。暑さだけ抜き取って夏休みだけ提供してくれないだろうか、と誰にともなくアホな願いを投げかけてみる。そんなくだらないことを考えたせいか、またこめかみの辺りがずきりと痛んだ。

 その頭痛によりいつも以上にダラダラペースで歩いていた俺だが、何とか遅刻せずに校門をくぐり、我が一年E組の教室にたどり着くことが出来た。これでようやく一休み出来ると油断した時だった。

「幹男、おはよう」

 ふいに声がして振り向くと、直後、誰かにぎゅっと抱き付かれた。

 真っ直ぐなロングヘアーから漂うこの甘い香り、そして大きく柔らかい二つの丘。それを持つ人物は俺の知る限り一人しかいない。

「ち、千夏? 何でいきなり抱きついて来てんだよ?」

 上ずった声で俺が言う。

「何でって、当然でしょ。あたし達は付き合っているんだから」

 ただでさえ突飛な行動を取って注目を集めているというのに、その上更にとんでもない発言をする。そうだ、これが赤川千夏という女なんだ。

「ていうか、いつまでくっ付いてんだよ。離れろよ」

「何で? あたし達付き合っているんでしょ? だったら、こんな風にくっ付くのは当然でしょ?」

 とんだアメリカンナイズだな、こんちくしょう。

 いや、この状態は色々とまずい。周りに視線を巡らせれば、クラスメイト達は半ば呆気に取られてこちらを見つめている。その時、教室の扉が開いて担任の女先生がやって来た。密着し合う俺達の姿を見て、目を丸くした。

「あ、あなた達。何をしているの?」

「いや、これは……おい、千夏。いい加減に離れろ」

 俺が顔をしかめて言うと、それまで頑なに動こうとしなかった千夏は、口の先を尖らせて仕方なしといった具合に身を引いた。

「分かったわよ……じゃあ、また後でね」

 そう言って、千夏はあくまでも堂々と自分の席へと戻って行く。一方、小市民の俺は背中を丸めてこそこそと自分の席に戻って行った。




 屋上は春のぽかぽか陽気に照らされて温かい。だが、今の俺は温かいというよりも熱かった。

「うん、このパン美味しいわね」

 右手に持っていたパンを頬張って千夏は言う。とてもご機嫌な様子であるが、俺は顔を引きつらせていた。なぜなら俺の体は彼女の左手によってがっちりとホールドされ、そして密着していたからだ。

「あの、千夏さん。だから、くっ付き過ぎじゃないでしょうか?」

「はあ? 今朝言ったでしょ、また後でねって。また後でくっつこうねって」

「あの言葉にそんな意味があったのか……?」

 千夏のくせに高度な隠蔽テクを……いや、そんなことを言っている場合じゃない。

「熱いから離せよ」

「やだ」

「つか、パン食いにくいから離せよ」

「じゃあ、あたしが食べさせてあげる」

「良いよ、自分で食う……むぐっ!」

 わずかに開いた俺の口に、千夏は容赦なくパンをねじ込んだ。口の中にほのかにチーズの味が広がる。それは今の俺の熱気も相まって、とろりと溶けて行く。

「美味しい?」

 とびきりの笑顔で千夏は聞いてくる。

「……んぐ……お前、殺す気か?」

「何であたしが好きな人を殺さなくちゃいけないのよ?」

 相変わらず、彼女の言葉はストレートに胸に突き刺さる。その力に押し負けて、俺はあんな告白を受け入れたのだ。その上、こんな甘々なバカップルの様相を呈してしまっている。俺は例え好きな相手と結ばれても、もっと慎ましやかで上品な恋愛をするつもりだったんだが。そんな理想的思想は呆気なく崩れ去った。

「そんな怒らないでよ。分かった、今度はちゃんとするから。はい、あーん」

 そう言って、千夏は俺の口元にパンを差し出して来る。『はい、あーん』は思春期アホ男子の憧れシチュエーションの一つであり、俺も正直好きなあの子とのそれを何度か妄想したことはある。しかし実際にそれをやることになると、無性に照れ臭くなってしまう。そんなことを考えて躊躇していると、千夏がきっと目を尖らせて眉をひそめたので、俺は慌てて目の前のパンにかぶりついた。

「美味しい?」

「……まあまあだな」

「そこは素直に美味しいって言いなさいよ、バカ」

 千夏はムッとした顔で言うが、すぐに笑みを浮かべた。

「何か楽しいな、こういうの。あたし自分がこんな風に恋愛を出来るなんて思っていなかった」

「そうか? お前は見た目が良いんだから、相手なんていくらでもいるだろ。その強烈な性格を直せば」

「は? ぶっ殺すわよ」

「それだよ、それ。その物言いをやめろってんだ」

「何よ、前はそれがあたしの長所だって褒めてくれたくせに」

 痛い所を突かれて、俺は「うっ」と呻いてしまう。そんな俺を見て、千夏は笑った。

 俺には好きな子がいる。将来結婚することを誓ったあの子がいる。それにも関わらず別の女の子と付き合い、あまつさえこんなラブラブバカップルモードに突入してしまっている(ほぼ一方的だが)。背徳感が忍び寄って来て、俺の心に暗い影を差すようだ。

 俺は改めて、隣にいる千夏を見た。先ほども言ったが、彼女は見た目が良い。そしてスタイルも良い。特に胸が素晴らしい。とても魅力的な少女だ。情けなくも平凡極まりない俺が、こんな美少女と付き合えること自体とんでもない幸運である。小さい頃に交わしたあの約束を守ることはもちろん崇高であり、一番理想的だ。しかし、往々にして理想というのは叶わないものだ。その理想からは外れてしまうが、赤川千夏というまた別の素敵な少女と出会い、仮にも恋仲になった。ここはいっそのこと昔のことなど全て忘れ去って、この甘い時を受け入れて思う存分楽しんだ方が良いのかもしれない。

「何小難しい顔してんのよ」

 千夏の声で取り留めのない思考から現実に引き戻される。

「いや、何でもない。つか、喉渇いたな」

「じゃあ、お茶飲む?」

「いや、それさっきお前が飲んだやつじゃん」

「うん、そうだよ。良いじゃない、あたし達はもうキスしちゃったんだから。今更間接キスぐらいで恥ずかしがることないでしょ」

「そ、そうかもしれんが……」

「良いから、とっとと飲む」

 先ほどの要領で、千夏は開いた俺の口にペットボトルを突っ込んだ。ドバッと流れ込むお茶によって、口内が急激に浸水した。俺は吐き出しそうになるのを堪えて、何とか飲み下す。

「……お前、俺は先ほど以上に死の危険を感じたぞ! つか、殺す気か!」

「だから、あたしが大好きな幹男を殺す訳ないって言っているでしょ?」

 こいつ、そんな甘い言葉を囁けばこの俺が騙されると思っているのか? まあ実際の所、溜飲はすっかり下がってしまったのだが。男ってのは、つくづく単純な生き物である。




 放課後になっても、千夏は俺にくっ付いていた。

「だから、離れろって」

「は、殺すわよ?」

 大好きな幹男を殺す訳ないじゃない、と言ったそばからこれである。全く、女というのは訳分からん生き物だ。

「ていうか、あいつどう思うだろうね?」

「あいつって?」

「あの性悪女よ」

「ああ、昴か……別に、何とも思わないんじゃないか?」

「そうかしら? 案外、ショックを受けるかもしれないわよ?」

 千夏はにやっと笑って言う。

「……あっはっは、柳田くんのように冴えない男に彼女が出来るなんて、正に晴天の霹靂だ。明日にでも日本が転覆するんじゃないだろうか。おめでとう」……なんてことを言われそうな気がする。それか、「柳田くん、君は素晴らしい彼女と結ばれたね。そのまま人生のバッドエンドへまっしぐらだ」とも言われそうな気がする。ただ千夏が言う様に、ショックを受ける昴の姿なんて想像出来ない。というか、想像したくないのかもしれない。あのどこか寂しげな背中を俺はもう見たくないのかもしれない。

 俺達は言研の部屋の前にたどり着いた。千夏はいつも言い争っている昴の鼻を明かしてやるチャンスとばかりに息巻いている。一方、俺は妙な緊張感に苛まれていた。

 がらり、と部屋の扉を開ける。

 部屋の中はがらんどうとしていた。いつも椅子に座って不敵に微笑んでいる昴の姿が、今日は無かった。

「まだ来ていないのかな?」

「何だつまんないの。早くあの性悪女を驚かせてやりたいのに」

 千夏は口の先を尖らせて言う。

「あ、ミッキーとちなっちゃん」

 ふいに、背後からあどけない声がした。振り向くと、そこには麻帆里がいた。

「おう、麻帆里か。なあ、昴はどうしたんだ? まだ教室にいるのか?」

 俺が尋ねると、麻帆里は首を横に振った。

「スバルンはお休みだよ」

「え、学校に来ていないのか?」

「うん」

「何かあったのか?」

 その問いかけに対して、麻帆里は数拍間を置いて答える。

「……この前、スバルン一人でミッキー&ちなっちゃんと勝負をしたから。それで無理しちゃって体調を崩したみたいなの」

 俺はかすかに、胸が痛むのを感じた。

「……昴は大丈夫なのか?」

「身体の方は少し疲れが溜まっただけだから、大丈夫だと思うよ」

 麻帆里は妙に引っ掛かりのある言い方をした。俺は眉をひそめる。

「けど、心は大分落ち込んじゃっているの」

「何で、昴はそんなに落ち込んでいるんだ?」

 すると、それまで平坦な顔付きだった麻帆里が、わずかばかり怒ったような表情を浮かべる。

「二人のせいだよ。二人が仲良く一緒にいるから、スバルンは落ち込んじゃったんだよ」

「え……何でだよ?」

「それは自分の胸に手を当てて考えてみれば?」

 麻帆里は冷たく突き放すように言うと、踵を返してその場から去って行く。

「……スバルンも、早く仮面取っちゃえば良いのに」

 去り際、麻帆里はぽつりと呟く。俺と千夏は去り行くその小さな背中をただ黙って見つめていた。




      ◇




 あれから数日、昴は休みが続いていた。

「まあでも、あんな性悪女の顔を見なくて、せいせいするわね」

 放課後、言研の部室にて千夏が言う。

「あんたもそう思うでしょ?」

「ああ、そうだな……」

 俺は曖昧に返事をする。

 高良昴という女は、入学直後からその巧みな皮肉によって俺のことを虐げてきた。その美しい容貌と立ち振る舞いに不覚にも引き寄せられた俺のことを散々弄んで来たのだ。だから、いなくなってせいせいするということに関して、俺は大いに同意したい。同意したいはずなのに……なぜ、こんなにもモヤモヤした気持ちを抱えているのだろうか。胸の内でわだかまる思いを抱えているのだろうか。

「ねえ、幹男。そんなことよりもこの後どうする? ちょっと駅前にでも寄って行かない?」

 千夏が嬉々として提案してきた。だが、俺は頷くことをしなかった。

「……悪い、今日はそんな気分じゃないんだ」

 こんなことを言えば、また千夏が目を三角にして怒ると思った。しかし、彼女は意外にも落ち着いた顔で頷く。

「そう、分かったわ。まあ、あんたはロクにデート出来るお金もない、甲斐性無しだもんね」

「はは、ひどいなおい……」

 俺は苦笑交じりに言い、椅子から立ち上がった。

「じゃあ、俺ちょっと先に帰らせてもらうわ」

「あたしも一緒に帰るわ」

「いや、ごめん。今日は一人で帰るよ」

「は? 何でよ?」

「えっと……ほら、最近俺達ってくっ付き過ぎだから。そればかり続くと飽きちゃうだろ? たまには離れてみることでお互いの良さが分かるっていうかさ……」

 俺はぎこちなく笑みを浮かべながら誤魔化しの文句を並べ立てる。

「……まあ、そうね。あんたの言うことにも一理あるかも」

 千夏はまたもあっさりと頷いてくれた。

「悪いな。じゃあ、またな」

 俺は手を振って千夏と別れる。言研の部屋を出てしばらく歩いてから、俺はズボンのポケットからケータイを取り出した。

「……もしもし、ちょっと良いか?」




      ◇




「ランララン、ランララン♪」

 小粋なリズムを口ずさみ、スキップしながら俺の前を行く少女の髪の毛は、ふわふわと落ち着きなく揺れていた。

「何か楽しそうだな、麻帆里」

 俺が声をかけると、麻帆里はこちらに振り向く。

「うん、わたしはいつでも人生楽しんでいるよ」

 器用にも後ろ向きにスキップをして進みながら麻帆里は言う。

「悪かったな、いきなり連絡をして」

「ううん、気にしないで。でも、ミッキー」

「ん?」

「スバルンの家に行くなら、直接スバルンに電話をして家の場所聞けば良かったのに」

 あどけない麻帆里の指摘を受けて、俺は軽く口ごもった。

「いや……ほら、昴は体調が悪いんだろ? だったら、電話するのは悪いかなって」

 若干焦りながら言う俺を、麻帆里は澄んだ瞳でじっと見つめてくる。

「……まあ、そういうことにしておきますか」

 麻帆里は微妙に口元を歪めて、ふっとため息を吐く。

「そいつはどうも」

 俺は苦笑を浮かべる。

 それから軽快にスキップを続ける麻帆里に連れられて、俺はアスファルトを歩いて行く。太陽が西に傾いて町の情景を薄紅に染める頃、前方に立派な豪邸が見えてきた。

「あれがスバルンのお家だよ」

 昴は皮肉り性悪女であるが、優雅で気品に満ちている。そのせいで、俺も入学直後にうっかり惹きつけられてしまった。そんな彼女はきっとかなりお金持ちの家に住んでいるんだろうと思っていたが、案の定であった。いや、若干想像を超えていた。こんな立派な門扉とか、見たことがない。その門扉の前で軽快なスキップを止めた麻帆里は、何の躊躇もなくインターホンを押した。数秒後、『はい、どちらさまでしょうか』という硬質な男性の声が聞こえてきた。恐らく執事か何か、ビシッとした老齢の男が出たことは容易に想像が出来た。

「麻帆里だよ、スバルンに会いに来た」

 こともあろうに、麻帆里はあっけらかんとして、まるで親しき友人に対するように、その老齢の紳士と思われる人物に言った。こんな立派な豪邸にそんな軽々しい文句一つで入れてもらえるのだろうか。

『かしこまりました、少々お待ち下さいませ』

 丁寧な受け答えの後、目の前の門扉が滑らかに開いた。あんな軽々しい文句一つであっさり開いてしまった。

「じゃあ行こ、ミッキー」

 麻帆里はそのまま躊躇することなく門扉を通り抜ける。俺も慌ててその後を追い、美しい花々が咲き誇る前庭を進んで行く。

「なあ、麻帆里って昴と昔からの友達だったりするのか?」

 俺が尋ねると、麻帆里は「ん?」と小首を傾げた。

「ううん、違うよ。わたしとスバルンが知り合ったのは美礼学園に入学してからだよ」

「マジで?」

 俺はにわかに驚きの声を漏らしてしまう。まだ入学して一ヶ月も経っていないのに、気軽に家を訪れるくらいあの昴と仲を深めたというのか。薄々感付いていたがこの天然少女、実はとても末恐ろしい子なんじゃないだろうか。この小さくふわふわ天然な女の子の前に、多くの立派な大人達がかしずく情景が浮かんで来た。

「ミッキーどうしたの?」

「あ、いや。なんでもないです」

「何で敬語なの?」

「いや、何ででしょうね~?」

 あはは、と俺は誤魔化すように苦笑した。

 そうこうしている内に、玄関口へとたどり着いた。その扉がまた荘厳かつ華やかで、ついたじろいでしまう。だがそんなビビリの俺を脇目に、怖いもの無し天然ふわりんなマホリンは、またしても躊躇なくドアホンを押した。数秒後、玄関の扉が開くと、スーツ姿の老齢の男が出て来た。言わずとも分かる、これが執事という人種だろう。

「やっほー、遊びに来たよ」

 先ほど以上にくだけたその物言いを聞き、俺は冷や汗をかいた。それはいくらなんでもフレンドリー過ぎやしませんか、麻帆里ちゃん。しかし、老齢の男は口元に薄らと微笑を湛えた。

「ようこそいらっしゃいました、麻帆里さん」

「スバルンは自分のお部屋にいるの?」

「左様でございます」

「分かった、ありがとう」

 あどけない声で礼を言い、先ほどと同じようにスキップを始めた。最早突っ込むのもためらわれてしまう。麻帆里ちゃん、いやマホリン半端ない。

「ミッキー、早くおいでよ」

 俺は執事さんに恐縮しながら頭を下げて、麻帆里の下に向かった。彼女は勝手知ったる何とやらと言わんばかりに、軽快なステップで階段を上り、また廊下をスキップして行く。その長い廊下には多くのドアが点在していた。やがて麻帆里は、その内の一つの前で足を止める。そこが昴の部屋なのだろう。俺は今までの彼女の言動から、そのままいきなりドアを開けて「スバルーン」と飛び込むかと思ったが、案外礼儀正しくノックをした。

 しばらく沈黙が続いていたが、「はい」と声が聞こえた。それは俺が知っている昴の声よりもややしっとりしていて、どこか弱々しく感じた。

 麻帆里がドアを開いて中に入る。

「やっほー、スバルン。遊びに来たよ」

「ああ、麻帆里ちゃん。誰かと思った……」

 言いかけて、昴は目を丸くした。その視線は、麻帆里の背後に立つ俺に注がれていた。彼女はしばらく固まっていたが、おもむろに右手で顔を覆った。

「……おやおや、愛らしい天使にくっ付いて、おかしな物までやって来てしまったようだね」

 初っ端から昴は皮肉をかましてくれる。だが、俺は言い返す気力が起きなかった。彼女はベッドに横たわっていた。

「……体調悪いのか?」

 俺はぎこちなく尋ねる。

「はは、君みたいな滑稽な男に心配されるなんて、私もヤキが回ったもんだ」

「茶化すなよ。こちとら本気で心配して来てんだ」

 少しだけ怒気を含ませて俺が言うと、昴は嘆息した。

「君に心配されるまでもなく、私は元気だ」

「ベッドで横になっているじゃねえか」

「君程度の男、寝そべって出迎えるくらいが丁度良いと思ってな」

「素直に具合が悪いって言ったらどうだ?」

「言う様になったね。人は誰しも成長するということか」

 ふっ、と昴は仰向け状態でキザな台詞を放った。

「ねえ、スバルン。あとどれくらいで学校に来られるの?」

 若干トゲトゲしていた空気を、おっとりした麻帆里の声が滑らかにコーティングしてくれる。

「うーん、そうだね。大事を取ってもう一日、二日休むかもしれないな。そうしたら、またきちんと登校するから」

「本当に?」

「ああ、麻帆里の顔を見たら元気が出たからね。ただ、余計な不純物まで混じっちゃったからね。純粋な麻帆里だけ来てくれたら、私の体調も一発で直ったんだが」

「そいつは悪かったな」

「おや、自分が不純物だという自覚があるのかい? 殊勝な心がけだ」

 寝そべったまま俺を見て、昴はくっくと笑いをこぼす。

「お前、本当に口が減らねえな。ていうか、そんな喋り倒しているから体調崩したんじゃねえのか?」

「ふっ、まあそうだな。君達との勝負で、少し熱くなりすぎてしまったことは認めよう。誠に不本意ではあるがな」

 昴のその言葉を受けて、俺は罰の悪い思いに駆られ、口をつぐんだ。

 少しばかり、気まずい沈黙が訪れる。

「……あ、いけない」

 ふいに、麻帆里が声を発した。

「わたし今日お母さんが誕生日だから、お祝いしてあげなくちゃだった」

「おや、そうなのかい?」

 昴が相槌を打つ。

「うん。だから、わたしはもう帰るね。後はお二人でごゆっくり~」

 そう言い残して、麻帆里はふわりんと軽やかにドアを開けて去って行った。

 バタン、とドアが閉まる。天然天使マホリンの、マイナスイオンさえも凌駕する癒し成分が失われた今、この部屋では濁った空気が沈殿するばかりだった。

 ちらりと昴を見れば、彼女は天井を見つめたまま押し黙っている。

「……お前、何であんな勝負吹っかけたんだよ」

 沈黙に耐えられなくなった俺は問いかける。

「生意気な君達に力の差を見せつけ、私の前に跪かせるつもりだったんだ。まあ、その結果として、むしろ私が痛い目に遭っているのだがな」

 昴は自嘲気味に笑う。

「けど、あの時お前がわざわざ自分で申告しなければ、お前の勝ちだった。麻帆里だって、お前に勝ってもらいたかったみたいだし」

「……麻帆里は素晴らしい友人だ。彼女とは美礼学園に入学して同じクラスメイトとして出会ったばかりだが、深い仲にあると言っても良い」

「だろうな。気軽に家に上がり込んじゃうからな」

「全く、愛らしいことこの上ない。取り分け今日は、君と言う醜い男がいたから、よりその愛らしさが際立っていた。良い仕事をしたな、柳田くん」

「はいはい、そいつはどうも」

「何だい、今日の君は歯ごたえがないな。いつもならもっと、私に歯向かってくるはずだろ?」

 昴は言う。俺は一度口を閉ざした。

「……お前に一つ、報告しておくことがあるんだ」

「何だい急に真顔になって。似合わないからやめたまえ。君はもっとスケベな顔の方が似合っているぞ」

「俺さ、千夏と付き合うことになったんだ」

 昴の言葉に覆いかぶせるように、俺は言った。対する昴は、茶化す笑みを浮かべたままだった。しばらくして、その唇がかすかに動いた。

「……そうか、おめでとう」

 俺は目を見開いた。

「どうした、そんな驚いた顔をして」

「いや、あっさりしているなと思って。てっきり『ふっ、あんな粗暴な女のどこが良いんだい?』みたいなこと言われると思ったのに」

「君は赤川くんのことをそんな風に思っているのかい?」

「いや、そんなことはねえけど……」

「なら良いじゃないか。おめでとう、私は素直に祝福するよ」

 にこりと微笑んで昴は言う。俺はその笑顔を見て、なぜだか胸の奥が疼くのを感じた。だが、その理由が分からない。俺はそれ以上、昴の笑顔を直視することが出来なかった。

「……じゃ、じゃあ。俺はそろそろ帰るから」

「そうか。もう遅いし、君の安っぽいアパートまで送らせようか?」

「さりげにディスんな。心配いらねえよ」

「分かった。じゃあ、気を付けて帰りたまえ」

「ああ、またな」

 俺は薄らと微笑を残して、その場から立ち去ろうと歩みを進める。

「……今日は来てくれてありがとう」

 それはか細く弱々しい声だった。それでも、はっきりと俺の耳に届いた。

 足が止まる。とっさに振り向いた時、昴がベッドから上半身を起こしていた。そして、微笑みを浮かべていた。それは普段彼女が浮かべる笑みとは違った、どこか儚げで、可憐で、守ってあげたくなるような、そんな笑みだった。

 瞬間、俺の脳内で激しい奔流が生じた。過去の眩しい記憶が現在と交錯し、弾ける。

 にわかに唇が震え出した。

「……まさか、お前……」

 震える声で俺が言うと、昴は儚げな笑みのまま、その瞳に薄らと涙を浮かべて口を開く。

「……久しぶり、幹男くん」




      ◇




 優しい風が吹いて、公園の草木を揺らしていた。

「……助けてくれて、ありがとう」

 女の子は言う。

「どういたしまして。それよりも、ケガはないか?」

「うん、大丈夫」

「そっか、良かった」

「あ、あの……」

 女の子は両手を前で組んで、もじもじとする。

「ん、どうした?」

「その、名前を教えて欲しいの……」

「ん? 俺は幹男だよ」

「幹男……幹男くん」

 俺の名前を噛み締めるように言う少女を見て、嬉しくなった。

「ところで、君の名前は?」

 俺が尋ねると、少女は「え?」と目を丸くした。

「君の名前も教えてよ」

「それは……」

 少女は気恥ずかしそうに顔を俯けたまま、二の句を継ごうとしない。

 俺はそんな彼女の姿を見て、にこりと微笑んだ。

「あのさ、いきなりこんなこと言ったら嫌われちゃうかもしれないけど……」

 俺が語りかけると、少女は俯けていた顔を上げた。

「その……将来、俺と結婚して下さい」

「えっ?」

「ひ、ひとめぼれしたんだ。だから、俺と結婚して下さい!」

 青臭いガキの青臭い告白。今思い返せば、何と滑稽だったろうか。けれども、その純真さが、今の俺にとっては何よりも眩しい。

「……うん、良いよ」

「え、本当に?」

 少女はこくりと頷く。

「よっしゃあ!」

 天高く叫ぶ俺を見て、少女はくすりと笑みをこぼした。

柔らかな風に彼女の長い黒髪がなびく。とてもきれいだと思った。




      ◇




 ずっと大切に抱えていた記憶が、今この時、より鮮明に蘇った。

「……昴、お前があの時の女の子なのか?」

 俺が尋ねると、ベッドの上にいる昴はいつものように皮肉った笑みではなく、柔らかな微笑みを浮かべていた。髪はあの時よりもずっと短くなっているけれど、その面影は確かにあった。

「うん、そうだよ……あの時、あの公園で君が助けてくれたのは私……高良昴だよ」

 俺は激しく混乱していた。突如としてずっと思っていた女の子に会えたこと。それがこの昴だったということ。あらゆる事実を一気に飲み込むことは不可能だった。下手をすればパニック状態に陥りかねない。

「ごめんね、幹男くん」

 ふいに、昴が詫びてきた。

「え、何が?」

「あの後、幹男くんに会いに行けなくて」

 そう、可憐な少女……昴にプロポーズを受けてもらえた喜びと、それから幼いが故の無知さも相まって、当時の俺は彼女が良い所のお嬢様だということに気が付かなかった。だから普通の学校の友達に対するように「また明日」、なんて気軽に別れ文句を言って家に帰ってしまった。その結果、彼女とはずっと会うことが出来なかった。

「あの時は、駅前で買い物をするお父さんとお母さんに付いて行って、こっそり抜け出して公園に行ったの。そこで遊んでいた子供たちに苛められて、幹男くんに助けてもらって……その後、私は幹男くんにまた会うために家を抜け出そうとしたんだけど、上手く行かなくて……その後、何とか頼み込んであの公園に連れて行ってもらったけど、幹男くんに会うことは出来なかった」

「ああ……あの後、俺の親父の転勤が決まって引っ越しちゃったからな」

「ごめんね」

「いや、お前は悪くないよ。無計画だった俺が悪いんだ……」

 どうにも調子が狂ってしまう。皮肉も罵倒も何も返って来ない。とても謙虚な姿勢で可憐に佇んでいる。今目の前にいるのはまさにあの時、俺が惚れた可憐な女の子だった。

「そんなに見ないで、恥ずかしいから……」

「わ、悪い……」

 俺達は互いに頬を赤らめ、視線を逸らしてしまう。

「……なあ、一つ聞いても良いか?」

「うん、何?」

「昴は……俺のこと気が付いていたんだよな? 何ですぐに教えてくれなかったんだ?」

 俺が尋ねると、昴はにこやかな笑みを強張らせた。

「……仮面を外すのが怖かったの」

「仮面……」

 ――スバルンも、さっさと仮面を外しちゃえば良いのに。

「そう。私は高良家の跡取りとして、しっかりしなくちゃいけない。実は幹男くんにあの公園で助けてもらった後、そのことを両親に話したら、『何でそんないじめに屈したんだ』……って怒られたの。高良家の跡取りとして、もっと強い女性になりなさいって。元々私が弱々しい性格だったこともあって、両親はとてもプレッシャーをかけて来た。だから、私には仮面が必要だったの。華麗な強者の仮面が。どうしようもなく弱い私には必要だったの。私は両親と鑑賞に行った宝塚歌劇団の勇ましい男役を見本に、その仮面を作り上げたの」

 昴は瞳を閉じて語る。

「けど、本来の性格とは全く違う仮面を付けて生活することで、私は少なからずストレスが溜まって行った。そのせいで少しばかり感性も歪んじゃって、人に暴言を吐いてやりたいと思ってしまったの。けど、憶病な私はストレートにそんなことは言えない。だから、遠回しに相手の悪口を言う皮肉を覚えたの。そうやってストレスを解消していた。そしてあくまでも自分のストレスを解消するため、色々と工夫を凝らして皮肉を言っている内に、言われる相手もストレスを解消……デトックスされていることに気が付いた。これは前にも話したよね?」

「あ、ああ」

「私は気晴らし、あるいは遊びとして皮肉りデトックスを続けた。好きだった幹男くんと会えなくて結ばれることが出来ないなら、もうどうでも良いやって。自暴自棄になっていたのかもしれない」

 昴の声は少しささくれだっていた。

「……けど美礼学園に入学して、あの校門前であなたを見つけた時、本当に驚いた。すぐにあの時私を助けてくれた幹男くんだって気が付いた。大きくなって、色々と変わっちゃっている所もあったけど、それでも私の幹男くんだって分かったの。私はすぐにでも仮面を取り払ってあなたの胸に飛び込みたかった……けど、それが出来なかった。今更仮面を外すのが怖かったし、幹男くんがもう私のことなんて何とも思っていなかったらと思うと怖かったし……うん、とにかく臆病風に吹かれるばかりで、私は結局言い出せなかった」

 小刻みに肩を震わせる昴を見て、俺は一歩踏み出した。

「え……?」

 そして、両腕でぎゅっと彼女を抱き締めた。

「俺はずっとお前のことを思っていた。あの日からずっと、お前のことだけを思って来た」

「……本当に?」

「ああ。だから、もうそんな仮面を付ける必要はない。本来の昴に戻れば良い」

「幹男くん……」

 昴は俺の名を呼び、そして俺にひしっと抱き付いて来て――

「――ダメだよ」

 彼女の両腕が、俺を押し返す。

「え……?」

 俺は予想していなかった反応をされ、目を丸くした。

「何が……ダメなんだよ?」

「だって、今の幹男くんには赤川さんっていう彼女がいるでしょ?」

「……っ。た、確かにそうだけど……でも、あいつとは俺が好きな子が見つかるまで付き合うって約束で……それで、その好きな子が昴だって分かったからもう……」

「ダメだよ、そんないい加減なことしちゃ。赤川さんに失礼だよ。仮に赤川さんがそう提案したんだとしても、ダメだよ。可哀想だよ」

「それは、そうかもしれないけど……」

 俺は情けなくもうなだれてしまう。

「……幹男くん。私が赤川さんと別れるなって言うのは、ただ彼女が可哀想ってだけじゃない。あなたと彼女が互いに良い関係にあるからこそ、そう言っているんだよ」

 優しく語りかける昴の言葉を聞き、俺はおもむろに顔を上げる。

「赤川さんは素晴らしい人だと思う。何でも思ったことをストレートに言えて。そのせいで周りと摩擦を生んでしまうことも多々あるだろうけど、それでも己の真っ直ぐさを貫くあの姿勢が、私は羨ましかった。それから、少し嫉妬もしていた。彼女の言葉には力があるから。少し品に欠ける時はあるけど、それでも素晴らしい力を持っていると思う。私みたいに皮肉しか言えない女じゃ、到底及ばない」

「そんなことは……」

「そして、そんな真っ直ぐな彼女を、幹男くんは上手いことフォローしてあげる。時には、昔みたいな勇ましさを発揮して彼女を守る盾となる。コンビを組んで活動する二人を見て、私は息がバッチリ合っていると思った……お似合いだと思った。だから……」

 ふいに、昴が片手で顔面を覆った。

「――ここまで言えば愚かな君でも分かるだろう、柳田くん。今の私と君が結ばれることはない。君はあの粗暴ながらも力強い女と一緒に、精々有意義な人生を送ると良い」

 華麗な強者の仮面を身に付けた彼女は、無情にも俺に告げる。

「……さあ、話はもう以上だ。私は疲れたから寝る。それにいくら怠惰が売りの君とはいえ、家に帰ってやることはあるだろう? さあ、今すぐこの部屋から出て行きたまえ」

 その表情には先ほどまでの弱々しさは微塵も感じない。俺が美礼学園に入学して知り合った高良昴の顔だった。その顔で彼女は言うのだ。帰れと。

 俺はしばらくの間、足を杭で打たれたように動くことが出来なかった。その間も、昴の鋭い眼光が突き刺さっていた。躊躇する俺を見て彼女はほんの少し、口元を和らげる。

「心配するな、柳田くん。せっかくこうしてまた巡り合うことが出来たんだ。これからは同好会の良き友人として、仲良く付き合って行こうじゃないか。ただし、赤川くんとイチャつくのは程々にしてくれよ? 我が神聖なる言研の部屋が、甘ったるい空気で満たされるのは如何としがたいことだからな」

 そう言って、昴はにこりと微笑んだ。

 完璧なまでの仮面だ。それは固く彼女の顔を覆って、離れない。彼女自身も離さない。

 俺は今ほど、自分の無力さを感じたことはなかった。












      第八話「引き剥がす」




 静かな夜だった。いや、そもそも一人暮らしを始めてから、静かな夜が続いている。実家で暮らしていた頃は、自分の部屋にいてもテレビを見る家族の笑い声が響いて来たものだ。今はそれがない。そして幸いなことに、このアパートの住人はみなマナーが良い人ばかりなようで、やかましく騒ぎ立てることもない。そう、後は自分が黙っているだけで、静かなる夜が完成するのだ。そして静かなる夜というのは、取り留めもない思考するのには打って付けだ。

 俺は今日、長年追い求めて来た女の子と再会し、お互いに思い合っていたことを知って歓喜した。俺は神なんてロクに信じていないが、その時ばかりは「おお神よ」などと思ってしまった。だがしかし、やはり神は甘くなかった。有頂天に上り詰めた俺は、あろうことかその女の子にフラれてしまった。まさに天国から地獄。神様は上げて落とすスタイルがお好きなのだろうか。見事にしてやられた。そして俺は、為すすべなくこうやってしょぼいアパートのしょぼい六畳間に敷いたしょぼい布団で寝転がっている。

「はあ……」

 ため息を吐くと幸せが逃げると言うが、今の俺は既に人生最大の幸福を逃したばかり。後は野となれ山となれ。煮るなり焼くなりして美味しく食べて欲しい。だが、こんな腐れ野郎の俺を食してくれる危篤な奴はいないだろう。ていうか、そんな俺の思考がヤバ過ぎる。

「マジでへこんでいるな……」

 胸がじくりと痛む。人はいくらでも眠れる。取り分け、苦痛に苛まれた時、それから逃れるために睡眠機能が働く。つまり、このまま行けば俺は眠ってしまう。だから、電気を消すべきなのだが、部屋の明かりを消してしまうと本当にそのまま深い闇に落ちてしまいそうで、情けなくもためらってしまう。暗いのが怖いとか小学生か。かと言って、このまま電気を付けっぱなしにしていると、またぞろそのまま眠ってしまい、中途半端な睡眠によって良いこと全くなしのロクでもない結果を迎えることになってしまう。完全に手詰まりの状態だった。

 その時、ふいにテーブルの上で俺のケータイがブイン、ブインと暴れ出した。

「……んだよ」

 そのまま無視しようかと思ったが、やかましいので電源を切ってやろうとケータイを手に取ると、ディスプレイに千夏の名前が表示されていたので俺は通話ボタンをプッシュした。

「もしもし……」

『出るのが遅い! 彼女からの電話は三秒以内に取りなさいよ!』

 開口一番、千夏は叫んだ。俺は耳がキーンとなった。

「悪い、ちょっと寝っ転がって寝そうになっていたんだ」

『ったく、相変わらずだらしないんだから。もっとシャキッとしなさいよね』

「悪い……」

『何で謝ってばかりいんのよ』

「悪い……」

 指摘されながらも、バカみたいに同じ言葉を繰り返してしまう。俺の頭脳はこんなにも出来が悪かっただろうか。

『……あんたさ、今日あの性悪女の所に行ったんでしょ?』

 ふいに喉元を突かれたようで、俺は動揺してしまう。

「な……何で分かったんだ?」

『バカ。あんたの様子見ていれば分かるわよ。あの性悪女が休んでいるって聞いて、明らかに動揺してソワソワしていたじゃない』

「それは……」

『……まあ良いわ。これ以上は何も聞かない』

 千夏は言う。

「ありがとう……そうだ、何か用事があって電話して来たんじゃないのか?」

 俺はふと思い至り、問いかける。

『ううん、用事なんてないわ。ただあんたの声を聞きたかっただけだから』

「へっ……?」

『何よ、呆けた声出しちゃって。嬉しくないの?』

「いや、何て言うか……むしろ驚いて」

『あっそう……まあ、そういう訳だから、もう切るわね。あんたも眠たそうだし』

「お、おう。そっか。悪いな気を遣ってもらって」

『別に、気にすることじゃないわ。……じゃあ、おやすみ』

「あ、ああ。おやすみ」

 通話を終えると、俺はケータイを手に持ったまま宙をぼんやりと見つめていた。

 千夏は良い女だ。見た目だけでなく、性格も良い。ストレート過ぎる物言いが玉にきずだが、それさえも長所であり、つまりは素晴らしい女なのだ。そんな彼女を、俺は大事にしなければならない。

「……そうだよな」

 俺は呟き、口元で笑みを浮かべた。




      ◇




 良く晴れた空の下で頬張るパンは美味い。合間に飲むお茶もまた美味である。

「悪いな、今日も買って来てもらっちゃって」

 俺は隣に座っている千夏に言った。

「別に構わないわ。それにあんたはボケっとしているから、熾烈な購買戦争で勝てる訳がないし」

「はは、この学園はお上品さがウリだけど、購買戦争は普通に勃発するからな。おっしゃる通り、俺なんて呆気なく敗北者になっちまうだろうよ。その点、お前はマジで強そうだよな」

「ええ、そうね。上級生相手だろうと手加減はしないわ」

「お前、本当に怖い物知らずだな」

「当たり前でしょ。ビビっていたら、何も出来やしないわ」

 そう言って、千夏は手に持っていたパンをひとかじりする。

「……そうだよな。千夏の言う通りだ」

 俺が呟くと、千夏は眉をひそめた。

「なあ、千夏。話があるんだけど、良いか?」

「嫌だって言ったら?」

「……きちんと聞いて欲しい」

 俺は声のトーンを落とし、重々しく言った。千夏はそんな俺を、鋭い視線で見つめていた。情けなくもたじろいでしまうが、ここまで来たら止まる訳にはいかない。

「千夏、俺と別れてくれ」

 誤魔化しても仕方がない。俺は今の自分の正直な気持ちを伝えた。

「……もしかして、あんたが好きだっていう子が見つかったの?」

「ああ、見つかったよ」

 俺が答えると、千夏は目を丸くした。

「本当に? もしかして、この学園の生徒?」

「そうだよ」

「誰なの?」

「お前もよく知っている奴だよ」

「何よ、もったい付けないで教えなさいよ!」

 目を尖らせて千夏が言う。俺は数拍間を置いて、口を開いた。

「……昴だ」

 まるで図った様に風が凪ぎ、沈黙が舞い降りた。千夏はその青みがかった瞳を、目一杯開いていた。

「冗談でしょ……?」

「ああ。冗談みたいな、本当の話だよ」

 千夏はあんぐりと口を開けている。

「……あんた、何で今まで気が付かなかったの?」

「あいつ、仮面を付けていたから」

「仮面?」

 俺はこくりと頷く。千夏はそれ以上追及しなかった。

「……千夏。改めて言うけど、俺と別れてくれ」

 苦虫を噛み潰すような思いだった。自分に好意を寄せて、そばに寄り添ってくれる女の子に別れを告げることがこんなにも辛いことだなんて知らなかった。しかも、こんな風に都合よく別れを切り出して。確かに彼女は好きな子が見つかるまで付き合ってと言ったが、だからと言ってその甘い条件に全面的に寄りかかって良い訳はない。仮にも男として、それなりにけじめをつけなければならない。

「ムカツクよな、俺のこと。良いぜ、思い切り殴ってくれ。いや、殴って下さい」

 俺は地べたに座ったまま、深々と頭を下げた。

「あんた……」

 千夏が声を発すると、俺はビクリと肩を震わせた。

「……やっぱりMなの?」

「は?」

「いや、だって自分から殴ってくれとか。ていうか、殴って下さいとか。とんだM野郎じゃない」

「いやいや、違うんだ。俺は決してそんなつもりで言った訳じゃない!」

 俺は両手を振り、慌てて否定をした。

「じゃあ、どういうつもりで言ったの?」

「それは、男としてけじめをつけるためっていうか……」

 俺は口ごもってしまう。

「そう、男としてけじめを付けたいんだ。だったら……」

 千夏の目が鋭く光る。俺は殴られることを覚悟し、目をぎゅっと閉じた。

 直後、顎をぐいと持ち上げられた。

「……だったらそんなしょげた顔していないで、好きな子にきちんと思いを伝えなさい」

 その真っ直ぐな瞳が、言葉が、俺に突き刺さった。

「千夏……お前、やっぱり良い女だな」

「はあ? いちいち当たり前のこと言わないでくれる?」

「だよな、悪い」

 俺は自然と笑みをこぼした。それから、おもむろに空を見上げる。

 ここまで来たら、やるしかない。確かな決意を胸に抱いていた。




      ◇




 放課後になると、静まり返っていた学園内がにわかに活気づく。部活動に行く者、友達と連れだって遊びに行く者、あるいは真面目に勉強会を開く者。そんな生徒達の喧騒を脇目に俺は一人廊下を歩いて行く。やがて突き当りにたどり着くと、そこには今の俺の居場所である言研の部屋がある。その扉の前に立つと、軽く息を吐いた。意を決して扉を開く。

「やあ、柳田くん。来たね」

 そこにはいつも通り、我らが言研の長である昴がいた。相変わらず椅子に腰かけて佇む様は凛としており、学園の女子達から「スバル様」と呼ばれるのも納得が行く。

「もう体調は大丈夫なのか?」

「ああ、おかげ様でね」

 昴は微笑んで言う。その隣には麻帆里が座っていた。いつもなら「やっほー、ミッキー」なんて気軽に声をかけて来るが、今日はその目でじっと俺を見つめているだけだ。あどけないようでいて、その瞳でしっかりと物事の真実を見つめて来たんだろう。分かっている、そんな風に見つめなくても。俺がやるべきことはもう決まっているんだ。

「どうした、柳田くん? そんな風に突っ立ってないで、椅子に掛けたまえ」

「そうだな」

 俺は昴に促されて、素直に座った。そして、彼女を見つめた。

「……しかし、本当に出来の良い仮面だな」

 強者に挑む際、不意の先手必勝は有効な一手となり得る。堂々と挑むことなんてない。こっちから勝負を吹っかけて、相手が戦闘モードに入る前に押し切ってしまえば良い。

「それだけ出来の良い仮面を作るのに、お前はどれだけの苦労を重ねて来たんだろうな? 想像するだけで、ゾッとしちゃうな」

「……君は、いきなり何を言っているんだい?」

 昴は微笑みながら聞き返して来る。

「とぼけるなよ。昨日、お前が話してくれたことじゃないか。まさか、普段賢ぶって偉そうな態度を取っておきながら、実は昨日の自分の発言も思い出せないくらいに残念なおつむの持ち主なのか?」

「はは、どうした柳田くん? 今日は君の分際でやたら歯向かって来るじゃないか」

「当たり前だろ。俺は今日、決着を付けるためにここに来たんだ」

「決着って、何のことだい?」

「恋の決着だ」

 俺が言い放つと、昴は一度目を丸くし、それから大仰に笑った。

「あはは! おいおい柳田くん、来て早々、君は何を口走っているんだい?」

「青臭いとでも言いたいのか?」

「ああ、臭いね。君の汗よりもよっぽど臭い。鼻がへし折れてしまいそうだ」

「そうか、そりゃ良かった。俺はお前の鼻っ柱をへし折りたいからな」

 俺はにやりと口の端を上げて笑って見せる。

「……なるほど。私は今、君にケンカを売られている訳だね?」

「ようやく気が付いたか。お前にしちゃ察しが悪いな」

「いや、君程度の男がまさかこの私に挑んで来るなんて思ってもみなかったからね」

 昴は指先でテーブルをトンと叩く。

「柳田くん、一つだけ忠告しておこう。今なら君がまたぞろアホなことを口走ったということで見逃してやろう。春の陽気に煽られてついつい調子に乗ってしまったと」

「俺は至って冷静で、真面目だぜ」

「君は愚かだな。私の好意を無下にするなんて」

「そうだな、俺は愚かだ。まあ、お前ほどじゃないけどな」

 またしても不敵な笑みを浮かべる俺を見て、昴はため息を吐いた。

「そうか、分かった……じゃあ、君を本気でいたぶっても良いということなんだな?」

「良いぜ。まあ、そんなこと言って返り討ちに遭っても知らねえけどな」

「ふふ、今日の君はいつにもまして生意気で可愛いね。可愛くて、可愛くて……捻り潰してやりたいよ」

 瞬間、室内の空気がピンと張りつめたような錯覚を得た。目の前の昴は先ほどまでと変わらぬ姿勢で佇んでいる。しかし、その背後からただならぬオーラが発せられているようで、俺は思わず息を呑んだ。ダメだ、怯むな。向かって行くんだ。

「……ていうか、昴よ。お前は仮面を作り、それを身に付けているとか言ったけどさ。それって痛々しくないか。まるで中二病みたいでさ」

「中二病とは何だい?」

「は? そんなことも知らないのか? 賢い昴のくせに」

「生憎、そんな低俗な言葉なんて知らないからね」

「いや、その物言いからして絶対に知っているだろ? それをわざわざ隠すとか、実は隠れオタクだったりするのか?」

「残念ながらそういった趣味嗜好はなくてね。しかし、私は自らの見聞を広めるためにも、種々雑多な知識も仕入れておきたい。ここは一つ、その中二病という言葉に関してご教授願えないだろうか、柳田先生」

「せ、先生?」

 俺はうっかり素っ頓狂な声を上げてしまう。

「ああ、柳田先生。さあ、その中二病という言葉の意味を教えてくれないか?」

 いかん、思わず毛躓いてしまったが、このまますってんころりんと転ぶ訳にはいかない。

「はあ、仕方ないな。そこまで言うなら教えてやるよ。中二病ってのはな、マンガやアニメ、小説などに出て来る主人公を初めとしたカッコイイ存在になりきっちゃうことだ」

「ふむ。つまり、演技をするということか?」

「その通り。まさに、今のお前のことだな」

 俺はさりげに良いパンチを放ったと思った。しかし、昴は一切動じた素振りを見せない。俺はそんな彼女を見て、逆に心が乱れてしまう。

「ま、まあ、簡単に説明するとそんな感じだ。頭脳明晰なお前なら、もう理解出来ただろ?」

 俺は軽く鼻を鳴らして問いかける。

「いや、すまない。まだ理解が十分じゃないんだ。だから、もっと分かりやすく説明してくれ」

「は?」

「物事を説明する時は一般的な概略だけでなく、本人の実体験を下に説明すればより分かりやすくなるはずだ」

「何が言いたいんだ……?」

 俺はかすかに声が震えた。

「つまり、君が中二病にかかったエピソードを聞かせてくれて言っているんだ」

 そう言って、昴は口元に不敵な微笑を浮かべた。

「……いや、俺はそんなものにかかったことねえから」

「本当かい?」

 ずい、と昴がテーブルに身を乗り出して来る。俺は少しだけ身を引いた。

「本当に、君は中二病にかかったことがないのかい?」

 昴の瞳が逃げ惑う俺の瞳を追いかけて来る。まるで心臓を鷲掴みにされているようなプレッシャーを感じた。

「君は今この場において、私の先生だ。先生が嘘を吐いても良いのかな? そんなことでは、先生失格じゃないのか?」

「別に、俺は自ら望んで先生になった訳じゃねえよ」

「そんなこと言いつつ、さっきは随分と得意げに胸を張り、私に講釈を垂れてくれたじゃないか。えぇ、柳田先生?」

「うっ……」

「さあ、教えてくれよ。私は知りたいんだよ、君のことが。さあ、早く」

 囁くような声で昴は言う。それは荒ぶる怒声よりも、有無を言わさぬ迫力に満ちていた。

「……中学生の頃に、一度だけ」

「うん?」

「一度だけ、無敵のヒーローになり切ったことがある」

 俺が恥ずかしい過去を吐露した直後、昴が露骨に顔を歪めて身を引いた。

「うわ、ごめん。冗談で聞いたつもりだったのに、まさか本当にそんな過去があったなんて。いやはや、私としたことが気遣いが足りなかったようだ。しかし君も大概気持ち悪いことで私に不快感を与えたからおあいこってことにしれくれよな」

 昴は猛烈な早口で言った。それが無性にムカついた。

「うるせえよ! 確かに気持ち悪いかもしれないけど、その訳を聞いてくれよ」

「嫌だ、私は聞きたくない。他人様の黒歴史を聞いて喜ぶほど性格歪んでいないから勘弁してくれたまえ」

「良いから聞けって!」

 俺が怒鳴ると、昴は肩をすくめた。

「分かった、分かったよ。哀れな君の話を聞いてあげよう。さあ、必死に考えた言い訳を今ここで並べたまえ。私はそれらをドミノの要領で倒してやろう」

「お前本当に減らず口だな。逆に感心するわ」

 俺は大きくため息を吐く。

「……昔、俺はお前をいじめっ子たちから助けただろ? 可憐な女の子を悪い奴らから救い、その上結婚の約束までした。そんな自分は実は選ばれたヒーローなんじゃないかって、ふと思ったんだ。それで舞い上がって、無敵のヒーローになりきったんだ」

 訥々と自らの恥ずかしい過去を吐露する俺を、昴はあくまでも冷ややかな視線で見ていた。

「なるほどね……こんなことを言うのは何だけど、実におぞましいな。どこかの赤川くん風に言うならば、キモ……って感じだ」

 いくら賢しく生意気な仮面を付けているとはいえ、相手は自分が心底惚れ、長年思って来た女の子だ。そんな彼女からキモなんて言われたら、俺の精神が大きく揺らいでしまう。現に激しいショックを受けて俺は倒壊寸前のアパートもかくやという風体だった。

「……さて、茶番もこの辺りで潮時かな。柳田くん、君のチャレンジ精神は買うがこの私にケンカを売るなんて百年早いよ。来世になったら出直してくると良い。まあもっとも、君のような愚かな人間は来世でも人間になれる保証はないがな。アリンコ辺りにでもなれば気ままな生活を送れるんじゃないか?」

 立て板に水の如く喋る昴の言葉が、虚しく耳を通過して行く。空っぽになった胸に虚しく反響するばかりである。

「ふう、ようやく終わったな。すまないね、麻帆里。見苦しい所を見せてしまって」

「スバルン……」

 麻帆里はどこか悲しげな瞳で、昴を見つめた。

「さてと、じゃあ気晴らしに飲み物でも買いに行こうかな」

 そう言って、昴が椅子から立ち上がった直後、突如として扉が開け放たれた。

「――どこに行くつもりよ、性悪女」

 その場にいた全員の視線を一手に集めたのは、千夏だった。彼女はその青みがかった瞳で昴を睨んでいる。

「おやおや誰かと思えば、愚かな柳田くんの彼女である赤川くんではないか。どうしたんだい、そんなに勢い切って。愛しの彼氏に会いにでも来たのかい?」

 微笑みながら昴が声をかける。

「言っておくけど、あたしと幹男は別れたから」

「おや、そうなのかい?」

 昴は目を丸くした。

「ええ。幹男から別れを切り出して、あたしがそれを了承した。今日の昼休みのことよ」

「何と、それでは君達は別れたてホヤホヤのカップルという訳か」

「だから、カップルじゃないって言ってんでしょ」

「しかし愚かだね、柳田くん。確かに赤川くんは粗暴な女だが、その見た目とスタイルの良さはこの私もミジンコ程度には認めている。君のように冴えない男にはそれなりにもったいない相手だと思うが。なぜ振ったんだい?」

 昴は顔だけこちらに向けて言う。その向こう側で、千夏が俺に対して頷いていた。

「……お前は賢ぶっているくせに、本当にバカだな」

 俺は椅子から立ち上がる。

「何だって?」

「そんなの、お前が好きだからに決まってんだろ」

 それまでにこやかに微笑んでいた昴の表情に、わずかながら亀裂が生じたように見えた。

「……そうか、ありがとう。私も君のことが好きだよ。実にいたぶりがいのある男だからね。下僕として、君ほど最適な男はいないよ」

「俺は一人の女として、お前のことが好きだって言ってるんだ」

 椅子から立ち上がって俺が言うと、それまで饒舌だった昴は口をつぐんだ。

「あんた、いい加減素直になりなさいよ」

 千夏が言った。

「本当は幹男のことが好きでたまらないんでしょ? だったら、素直にそう言いなさいよ」

 すると、昴は肩をすくめた。

「これは参ったね。愚かなコンビに挟み撃ちにされてしまったよ。そうやって私を打ち負かすつもりかい? 言っておくけど、この程度のことで私は揺るがないからね。何たって、私は華麗な強者なのだから」

 昴は前髪を掻き上げ、誇らしげに言う。

「確かにお前は強者だ。でも、ずっと強者でいることって疲れないか? それが作り上げたものなら、尚更。俺ならそんな面倒くさいこと到底出来ないね」

「それは君が救いがたいほどに怠惰な奴だからだろう? 生憎、私は名家・高良家の跡継ぎなものでね。君のようにダラダラと毎日を過ごすことが出来ないんだ」

「まあ、そうだな。正直、俺ってこんなに怠惰な奴だったのかって自分で思う時も多々あるよ。けどさ、たまにはそんな風に過ごすのも悪くないぜ? 一緒に怠惰な時を過ごさないか?」

「はは、冗談はよしてくれよ。私の貴重な時間を、君のような男と怠惰に過ごすために使えだと? 良いかい怠惰ってのはかの七大罪に上げられるほど大きな罪なんだ。生憎、私はそんな悪党になるつもりはないんでね」

「いや、あんたも大概悪党でしょ。ていうか、マジで性悪だし」

 千夏が露骨に片頬を歪めて言う。

「ふっ、君に言われたくないな。人の好きな男を奪う奴に……」

 言いかけて、昴はハッと目を見開く。その時、俺は千夏と視線が合った。そして、互いに頷く。仮面を被った昴がボロを出した。ここが攻め所だ。

「そうよ、あたしも嫌な女よ。だって、あんたの大好きな幹男をほんの一時だけど奪ったんだから。あんたと幹男の関係を知ったのはついさっきだけど、あんたが幹男に対して特別な感情を抱いていることは何となく察していてから、私はそれを知ったうえで幹男とコンビを組んで、そしてイチャ付きもした。ごめんなさいね、嫌な女で」

 千夏にしては珍しく、ねちっこく嫌味ったらしい物言いだった。

「幹男ってば、デートしている時ずっとあたしの胸を見ていたのよ。おかげで、ちょっとうずうずしちゃった。その点、あんたの胸はストンと真っ平だから見られる心配もないわね」

 昴が小さく唇を噛み締めた。

「……赤川くんの分際で、随分なことを言ってくれるじゃないか」

「あら、怒っちゃった? ごめんなさいね」

「別に私は怒ってなどいないよ」

 昴はあくまでも澄ました顔でいる。

「ふぅん、あっそう。ちなみに、あたしは幹男とキスをしたから」

 瞬間、昴の眉がぴくりと跳ねた。

「……へ、へえ。そうなんだ。まあ、思春期のおめでたいカップルなら当然、そういった行為に走るだろうね。うん、ごく自然なことだ」

「あんた、やっぱり怒っているでしょ?」

 千夏が少し意地悪く尋ねると、昴は満面の笑みを浮かべた。

「いや、私は全然怒っていないよ」

「そう、私はめちゃくちゃ怒っているけどね」

 瞬間、千夏がきっと目を尖らせた。昴は軽く身じろぎする。

「あんたは好きな相手から好きだと言われて、それを受け入れないでいる。変なプライドか何かに邪魔されて。それがすごいムカツク。あたしだって幹男のことが好きなのに、結ばれたくても結ばれなくて……あんたのその余裕ぶちかましている感じがムカツクのよ!」

「私は別に余裕などかましていない。余裕なんてありはしない。今の自分を保つことで精一杯だ。だから、彼と結ばれることは出来ない」

「だったらそんな仮初の自分なんてとっとと捨てちゃえば良いじゃない。そして、好きな人の胸に飛び込めば良いでしょ!」

「簡単に言うな。君に私の何が分かるって言うんだ……」

 昴は俯き、その拳をぎゅっと握り締めた。

「あんたねえ……」

 続けて言葉を放とうとする千夏を、俺は手で制した。

「……なあ、昴」

 俺が呼びかけると、昴は顔を上げた。

「こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど……俺、お前がその仮面を外したがらない気持ち、分かるんだ」

「え……?」

「お前、怖いって言っていたもんな。本来臆病者のお前が、名家の跡取りとなるために必死で作り上げたその華麗な強者の仮面。今更それを取るなんて、中々出来ないよな。それにもしお前がその仮面を外した所で、俺はお前を守ってやれるかどうか、正直自信がない。無知だったガキの頃と違って、今は少しだけ賢しくなって、自分のちっぽけさを痛感しているからな。本当に、情けない話だけど」

 昴は黙って俺の言葉に耳を傾けている。

「……けどさ、俺もいつまでも情けない自分のままでいるつもりはない。いっぱい勉強して、色々なことを知って、そして強くなりたいと思っている。強くなって行きたいと思っている」

 俺はそこで改めて、昴を見つめた。

「昴、今はその仮面を外さなくても良い。俺がいつか強くなってお前を守れるようになった時に、外してくれれば良いよ」

「……っ」

 一瞬、昴の瞳が揺れた。

「だからこんなケンカはもうおしまいにしよう。俺から仕掛けておいてなんだけどさ」

 俺は乾いた苦笑を漏らす。

「…………嫌だ」

 ふいに、昴が震える声を漏らした。

「昴?」

 俺は首を傾げる。

「……君が強くなるまで待つなんて、嫌だ」

 俺はその言葉を聞いて、暗にフラれてしまったのだと思い、にわかに絶望へと突き落とされそうになる。

 だがその直後、途端に駆け出した昴が俺に抱き付いて来た。

「うおっ……昴?」

 昴は俺の胸に顔をうずめていた。

「……嫌だ、君が強くなるまで待つなんて、嫌だ」

「そっか……そうだよな」

「……だから、私も一緒に強くなる」

「え?」

 俺は戸惑った。次の瞬間、昴が顔を上げた。

「私は……私は幹男くんと一緒に強くなる! だって、ずっと一緒にいたいから。ずっとそばにいたいから。だから……」

 固い仮面はいつの間にか剥がれ落ちていた。

 大粒の涙を流すその可憐な顔は、間違いなく俺が惚れた女、高良昴の素顔だった。

 そんな彼女が愛おしくて、俺は思わず抱き締めていた。

「……幹男くん、好き。大好きなの……」

 涙に濡れたその顔はぐちゃぐちゃになっていて、でもそれがまたたまらなく愛おしい。

「俺も、昴のことが大好きだよ」

 優しい声で囁き、俺は涙を流し続ける彼女を抱き締めていた。

 強く、強く。二度と手放さないように。





      エピローグ




 桜前線が日本列島を過ぎ去り、町を薄桃色に彩っていた桜の花びらが散って行くと、ほのかに初夏の香りが漂って来るようだった。

 散り行く桜を見て、人々は春との別れを感じ、多かれ少なかれ感傷に浸るだろう。俺も毎年この時期はそのように感傷に浸っていたが、今年はそうならなかった。俺はそれよりももっと大切な人と再会し、そして結ばれたのだから。

 高校に入学してから大方怠惰であった俺が、今朝は珍しく早起きをして、拙くも朝食を作り、きちんと歯磨きやら何やらを済ませて、六畳間のアパートを後にした。この暮らしぶりを見れば、息子の一人暮らしを案じている両親も幾分か安心してくれるだろう。まあ、後はきちんと継続できるかどうかだけが問題だが。とりあえず、三日坊主だけは避けるようにしよう。

 いつもより軽快な足取りで、俺は美礼学園にたどり着いた。入学したばかりでどこかふわふわしていた一年生も、この時期になるとある程度学園生活にも慣れて、地に足が付いているようだ。俺もまた同じだった。最も入学早々から少なからず厄介な目に遭って来たので、他の一年生達よりも強いハートを身に付けている自信があった。

 昇降口を上がり一年E組の教室へと向かう。いつもは欠伸をしながら自分の席へと向かうが、今の俺は登校して来た時の軽やかな歩調を維持している。ああ、何て気持ちの良い朝なんだろうか。

「おはよう」

 声をかけられて振り向くと、そこには千夏がいた。

「おう、おはよう」

「何か今日のあんた、いつもと雰囲気が違うわね」

「まあな。俺は改心して、これからはキビキビと学園生活を送ることにしたんだ」

「ふぅん、あっそ。何かいつもと違ってキモいわね」

「おいおい、千夏。人のことをそんなキモいキモいって言っちゃダメだぞ」

 暴言を吐かれた俺はしかし、にこやかに返した。そんなことをしているとやっぱりMなのと言われてしまいそうだが、それは大いに違う。今の俺の心は澄んでいる。ほんのちょっと罵倒されたくらいで怒ったり悲しんだりするようなヤワなメンタルではないのだ。

 そんな俺の様子を見て、千夏は少しばかり顔を引きつらせている。

「まあ、あんたが張り切る気持ちも分かるけど……いつまで続くのかしらね」

「何を言っているんだ。俺はこれからずっとこの状態を維持して行く。もっと強くて良い男になるんだ」

 拳を握り締めて息巻く俺を見て、千夏は軽くため息を吐き、自分の席へと戻って行った。




 放課後になると、俺は速やかに席から立ち上がる。それから、ちょうど対角線上に位置する千夏の席に向かった。

「おい、千夏。早く言研に行こうぜ」

 俺が言うと、千夏は眉をひそめた。

「分かったわよ、落ち着きなさい」

 以前はどちらかといえば俺が千夏をたしなめる立場であった。しかし、昨日の一件をきっかけに、その立場はすっかり逆転してしまったようだ。

「そうだ、千夏。ありがとうな」

「何よ、突然」

「昨日のこと。お前が来てくれなかったら、俺はきっと昴の仮面を剥がすことは出来なかったと思う。だから、本当にありがとうな」

「そうよ、感謝しなさい。大体、好きな男が自分じゃない他の女と結ばれるための手助けをするとか、あたしも大概アホよね」

 千夏は大きくため息を吐く。

「そんなことねえよ。お前は本当に良い奴だ。良い女だと思う」

「そんなこと言って、もうあたしを彼女にはしてくれないんでしょ?」

 俺は一瞬言葉に詰まるが、

「ああ、ごめん。それは出来ないよ」

「知っている。言ってみただけ。まあ、あんなアホみたいな提案をして一時だけ彼女にしてもらったのは私自身だから、あんたはそんな負い目に感じることはないわ」

「千夏……ありがとう」

「別に、何度もお礼言わなくても良いわよ。キモいから」

「はは、お前本当にひどいな」

 俺達は並んでそんな会話をしながら廊下を歩いて行く。やがて、突き当りにある言研の部屋にたどり着いた。

 この扉を開いた先に、彼女がいる。そう思うと、胸が高鳴った。俺は彼女のために強くなると決めた。先は長いかもしれないけど、彼女を守れるくらい強い男になるんだ。

 軽く息を整えた後に、がらりと扉を開いた。

「やあ、来たね君達」

 扉を開くと、椅子に腰を掛けて凛と佇む昴がいた。俺はそのいつも通りの光景を見て、あんぐりと口を開けてしまう。

「おいおい、どうしたんだ柳田くん。そんな風に口を開けて。ここは動物園じゃないし君も動物じゃない。だから、エサを期待しても無駄だよ」

 昴は相変わらず軽やかに俺を皮肉ってみせる。

「いや、そうじゃなくて……お前どうしたんだよ」

「ん、どうしたって? 私はいつも通りじゃないか」

「違うだろ。だって昨日、俺はお前の仮面を剥ぎ取ったんだ。それなのに何で……」

 半ば呆然として俺が問いかけると、昴はふっと笑みをこぼした。

「うむ。実は今朝、仮面を外した素の私の状態で教室に行ったんだが……そうしたら『え、誰?』みたいなことを言われてしまったんだ。なあ、麻帆里?」

 昴が言うと、彼女の隣にちょこんと腰かけていた麻帆里は「うん、みんなスバルンって分からなかった」と言う。

「そうしたら、私は何だか無性に恥ずかしくなってね。仕方ないから、また仮面を付けることにしたのさ」

「何だそれ!? 昨日の俺達の苦労は何だったんだよ!?」

 俺は声を大にして叫ぶ。

「あはは。まあ、君には悪いと思うが、やはりもうしばらくこの仮面を付けていることにしたよ。ほら、君もまだ外さなくて良いって言ってくれただろ?」

「それは……」

 それまで俺を高めていたモチベーションが一気に崩れ去った。ついでに、何だかとても横になりたい気分。そのまま溶けてなくなってしまいたい。

「ちっ、結局こいつ性悪女のままか。昨日の泣きっ面した状態は、少しだけ可愛いと思ったのに」

 吐き捨てるように千夏が言った。

「あはは、そんな風に思ってくれていたんだ。赤川くんのくせに見る目あるな」

「うっさい、ぶっ飛ばすわよ」

 千夏がぐっと拳を握り締める。

「まあまあ、落ち着きたまえ。我々は『言語研究会』の一員だ。そんな暴力ではなく、言語力を身に付けようではないか。取り分け、上質で美しい皮肉について」

「ちっ、何が上質で美しい皮肉よ……」

「はは。まあ、赤川くんみたいな勇ましいゴリラ女には無理だと思うけど」

「誰がゴリラ女ですってぇ!?」

「はいはい、スバルン。わたしも皮肉言えるようになりたーい」

「あはは。麻帆里はそのままで良いんだよ。その天然ぶりが何よりも愛らしいのだから」

「わーい、スバルンに褒められた」

 そんな風に会話を繰り広げる彼女達を、俺は虚ろな目で見つめていた。

「さてと、それじゃあいくつか依頼も来ていることだし、早速実践と行こうか。麻帆里、赤川くん、準備をしたまえ」

「はーい」

「ちっ、仕方がないわね」

 女子達が移動を開始したにも関わらず、俺は呆然と佇んでいた。

「おい、柳田くん。そんな所で何を呆けている。そのまま置き物にでもなりたいのか?」

 気が付けば、昴がそばに来ていた。

「まあ、大したインテリアにはならなそうだけどな」

「うるせえよ、バカ」

「あはは、バカにバカと言われるなんて、私もヤキが回ったもんだ」

「本当に減らず口だな、おい……」

 俺は辟易として言う。

「……なあ、柳田くん」

「あ、何だよ?」

「やっぱり、こんな私は嫌いかい?」

「え?」

「こんな皮肉ばかりでキザったらしい私なんか、嫌いかい?」

 昴はじっと俺を見つめて尋ねてくる。すると、虚ろだった俺の心情が色味を帯びた。

「……いや、そんなことないよ。だって、俺は入学した時、今のお前につい見惚れちまったんだから。確かに俺が惚れて大好きなのは素の可憐なお前だけど、でも今のお前も好きだぞ。ていうか、俺は昴の全てが好きだから」

 俺が言うと、昴は小さく顔を俯けた。

「全く、よく言うよ。今しがた再び仮面を付けた私に対して落胆していたくせに」

「うっ、それは……」

「でも、嬉しいな……」

 ふいに、昴の声色が柔らかくなった。彼女は右手で顔を覆い、何かを取り払う仕草を見せた。

「……ありがとう、幹男くん。私もあなたの全部が大好きだよ」

 可憐に、儚げに彼女は微笑む。そして、そこには昔は感じられなかった力強さもあった。

「ちょっと、あんた達何してんの? 早くしなさいよ」

「おーい、スバルン。早く早く~」

 開け放った扉の付近で、千夏と麻帆里が声をかけてくる。

 すると、昴は再び仮面を付けた。

「分かった、すぐ行く」

 そう言って、昴は再びこちらに振り向いた。

「じゃあ、行こうか。幹男くん」

「……ああ」

 俺は力強く頷き、昴と並んで歩き出した。




(了)

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皮肉りデトックス 三葉 空 @mitsuba_sora

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