電子な彼女

三葉 空

原稿

      1




 深夜〇時を回った頃、神崎海斗(かんざき かいと)はとある公園できれいなお姉さんと密会をしていた。

「ごめんね、こんな時間に呼び出しちゃって」

「気にしなくても良いよ、美里姉さん。それで、俺に用事って言うのは?」

 海斗が問いかけると東雲美里(しののめ みさと)は伏し目がちになり、口をつぐんでしまう。いつもなら優しくこちらをリードしてくれる彼女が、この時ばかりは憶病な少女のように震えていた。そんな彼女の姿を見て海斗はごくりと生唾を飲み込み、心の中で「俺は男だ」と何度も唱える。意を決し口を開いた。

「あ、あのさ! 俺も美里姉さんに話したいことがあって……その、俺……美里姉さんのことが好きなんだ!」

 海斗は腹の底から叫んだ。

 直後、辺りはしんと静まり返る。美里は目を見開いたまま、海斗をじっと見つめていた。

(しまった、もしかして外したか……?)

 急激に不安な気持ちに苛まれ、海斗の脳裏には悲しい結末の光景が浮かぶ。

 もうダメだと思い目をぎゅっと閉じた。

「……ありがとう、嬉しい」

 ふいに美里が声を発したので、海斗は再び目を開ける。彼の目に飛び込んで来たのは、頬を赤らめて嬉しそうに微笑んでいる彼女の姿だった。

「私も海斗くんのことが好き」

 長年溜めてきた自らの心情を吐露するように、彼女は言った。

 そんな彼女に海斗はゆっくりと歩み寄り、そして抱き締める。

「夢みたいだよ、俺と美里姉さんが同じ気持ちだったなんて」

 感激のあまり涙が溢れそうになるのを堪えて海斗は言う。

「ううん、夢じゃない。私と海斗くんは確かに結ばれたんだよ」

 いつものように、いやそれ以上に彼女は優しく微笑む。

 気が付けば、二人はお互いにじっと見つめ合っている。

 そして月明かりに照らされる中で、ゆっくりと唇を重ねた――




「……くぅ~、最高だぜ!」

 椅子に座った状態で、海斗は歓喜の雄叫びを上げた。

〈海斗君、ずっと一緒だよ〉

 目の前にあるPCの画面には、愛しのヒロインと結ばれた主人公である自分の姿が映っている。ハッピーエンドにふさわしく華やかなメロディと共にエンドロールが流れて行く。その光景を目の当たりにすると、途方もない快感に溺れてしまいそうだ。

 海斗はいわゆる『ギャルゲー』をプレイしていた。二次元が大好きな彼はこれまで様々なギャルゲーをプレイして来たのだが、特にお気に入りなのがこの『姉萌え☆パラダイス』、通称『姉パラ』のヒロインである『東雲美里(しののめ みさと)』なのだ。彼女と迎えるクライマックスは深夜〇時に公園での告白。それに合わせて海斗は同じ時間に『姉パラ』をプレイした。二次元の世界とリンクをした感覚になり、テンションがますます上昇したのである。

 その時だった。

〈警告:不正アクセスを確認、直ちに戦闘モードへ移行せよ〉

 感動のエンディングシーンに覆いかぶさるようにして、PCの画面にエマージェンシーサインが表示される。海斗は眉をひそめて舌打ちをした。

「はあ……俺の幸せタイムを邪魔しやがって」

 怒りの混じったため息を漏らし、椅子をぐっと引いてPCのキーボードに指を這わせる。

 一瞬目を瞑りかっと見開いた直後には、もう彼の意識のギアは切り替わっていた。

「――ファイアウォールに攻撃(アタック)を仕掛けたウイルスを検出、すぐさまスキャンをしてプログラムコードを確認」

 口調は淡々としながらも、海斗の指先は凄まじい勢いでキーボードを連打していた。収納棚に置かれた巨大なマイサーバー並びにルーターが唸りを上げ、インターネットより侵入を目論むプログラムを捕捉しようとする。

 PCとインターネットが当たり前のように普及した現代において、コンピューターウイルスによる攻撃は避けて通れない。そのために市販、あるいはネット上でフリーのウイルス対策ソフトを手に入れることがマストである。

一方で、海斗は自分で作ったオリジナルのウイルス対策ソフトを使用していた。その特徴はウイルスがPCに攻撃を仕掛けて来た時、逐一報告をするように設定されていることだ。一般的なウイルス対策ソフトは、バックグラウンドで処理を済ませることがほとんどである。しかし、海斗はそのウイルスを自らチェックするようにしていた。それは彼のコンピュータープログラムに対する好奇心によるところが大きい。ただ、攻撃を仕掛けて来るウイルスの全てに対応していたらキリが無いのでマークしている危険ウイルス、あるいは初めて出会う新作ウイルスなどを中心にチェックするようにしている。そして、一度チェックをされたウイルスの攻撃は、堅牢なファイアウォールによって阻止されるのだ。

「不正アクセス強度は中の下……ちっ、この程度の実力で俺に挑むなっつーの」

 海斗はしかめ面で毒づき、より一層強くキーボードを叩く。

「ん、でも過去のウイルスとの類似性は極めて低い……ってことは新作のウイルスか? なるほど、とりあえず実験のつもりでネット上に放ったウイルスが、運悪くこの俺様のPCにたどり着いちゃった訳だ」

 海斗はちろりと舌で唇を舐めて、薄らと微笑む。

 相手がいたいけな新米ウイルスと分かり、海斗の溜飲は少しだけ下がった。

「いつもならプログラムコードだけ読み取って門前払いするところだけど……せっかくだからお客さんとして俺様のPCに招待してやろうか」

 海斗はキーを操作してファイアウォールの一部にわざと穴を開ける。そこから可愛い新米ウイルスをPCの中に招き入れた。

「あっちゃー、他の余計なウイルスまで付いて来ちゃったよ」

 思わず後頭部を掻いてしまう。ぶつぶつと文句を垂れながらも、汚れた泥のようにへばりついているウイルスを除去していく。肝心の新米ウイルスは傷付けないよう慎重に。次第に新米ウイルスの輪郭が明確になってくる。

「は……?」

作業が完了して現れたのは小さな少女の姿だった。Tシャツにデニムの短パンというラフな格好をしており、今は横たわった状態で瞳を閉じている。

 海斗は一瞬目を丸くしたが、すぐに冷静さを取り戻した。

「これはウイルス……っていうよりもまた別のプログラムだな」

 そう判断すると、海斗は手早く詳細情報を得るためにより精度の高いスキャンを開始する。少女の姿をしたプログラムを構成しているデータが浮かび上がった。

「あれ、一部のデータが飛んでいるなぁ。新米の上に出来損ないってか?」

 そう考えると、何だか擁護してあげたい気持ちなってしまう。強者は弱者に対して慈悲をくれてやるものだ。海斗はそのような優越感を覚える。

 すると、ふいに少女の姿をしたプログラムが瞼を開いた。

「……あれ、ここはどこ?」

 虚ろな眼をこすり、あどけない声で呟く。

 海斗は少し驚いた。その少女の姿をしたプログラムの仕草や声が、あまりにも人間ぽかったからだ。

「お前はもしかして、AIを搭載した電子体って奴か?」

 AIあるいは人工知能と呼ばれるそれは、コンピューターの演算機能を利用してあたかも生物のような振る舞いをさせる技術のことである。昨今では、それを搭載した電子体の開発も進んでいるとは聞いていたが。

「もしそうだとしたら、お前を造った奴はかなりの技術を持っているな。ここまでリアルに人間の言動を再現するAIなんて見たことがない」

 半ば興奮したように海斗が喋りかけると、少女の姿をしたプログラムは首を傾げた。

「あなたは誰?」

 少女の姿をしたプログラムは、小首を傾げて尋ねる。

「俺は神崎海斗、このPCの主だ」

 不敵な笑みを浮かべて海斗が答えると、少女の姿をしたプログラムは目をぱちくりとさせた。

「え、PC……? あれ、ここってもしかしてPCの中なの? そういう夢を見ているのかな?」

 少女の姿をしたプログラムはきょろきょろと辺りを見渡し、どこか困惑した様子である。恐らく一部のデータが欠けているせいで制御系にエラーでも生じているのだろうか。

「まあ、安心しろ。本当なら俺様のPCに勝手に侵入しようとするウイルスの類は問答無用で叩き潰すところだが……お前はどうやら悪質なウイルスじゃないようだし、仕方が無いから俺が保護してやるよ。恐らくはどこかの企業か団体のプログラムが何かの手違いで流出したんだろうなぁ」

「あたしのことを助けてくれるの?」

「まあな」

「わーい、ありがとう!」

 少女の姿をしたプログラムは、急に元気よく飛び跳ねた。

「ところで、お前の名前は?」

「あたし? あたしの名前はひなただよ」

 にこりと満面の笑みを浮かべて答える。

「へえ、ひなたね」

「あのね、ひなたは成績優秀で運動神経も抜群なスーパー女子高生って呼ばれているんだよ」

「ふーん、そういう設定なのか。にしても、女子高生にしてはちょっとロリ体型過ぎないか?」

「ロリ体型とか言わないで!」

 ひなたは頬を膨らませて言う。

「あー、ごめんごめん」

「もう、本当に悪いと思っているの!?」

 海斗がおざなりに謝ると、ひなたはますます怒ってしまう。

 すると海斗はおもむろにマウスに手を伸ばし、カーソルを動かしてひなたを小突く。

「痛い! ……ちょっと、やめてよ!」

 カチ、カチ。

「痛い、痛いよぉ!」

 カチ、カチ、ウイーン。

「持ち上げないでよぉ!」

 襟首をカーソルに掴まれた状態でひなたはジタバタと暴れる。そんな彼女の様子を見ていると、海斗は思わずにやけてしまう。

「何でそんな風に笑っているの?」

「いや、お前を苛めていると楽しいなと思って」

「何それ、離してよ変態! 鬼畜野郎!」

「あれぇ、そんなことを言っても良いのかな? 今のお前は俺様のPCで保護をされている身だ。文句ばかり言うなら追い出してやっても良いんだぜ? ただし、その先にあるのはとても危険なインターネットの世界、お前みたいなか弱い女の子はすぐに取って食われちまうぜ?」

 海斗がわざとらしく下卑た笑みを浮かべて言うと、ひなたの顔が青ざめた。

「……ごめんなさい、大人しくするから許して下さい」

 急に態度を変えてひなたは懇願する。

「やれやれ、仕方ないな」

 海斗はため息交じりにそう言って、ひなたを下ろしてやる。

「あー、怖かった」

 ひなたは小さな胸に手を置いて、ほっと一息を吐く。

「もう、あんまり苛めないでよね」

 若干潤んだ瞳を向けてくるひなたを見て、海斗は可愛いなぁと心の中で呟く。

海斗は基本的にお姉さんキャラをこよなく愛しているのだが、こういう元気なロリ系も案外悪くないと思った。か弱き者を苛める楽しみを存分に味わうことが出来る。

「あ、そうだ。あたしはあなたのことを何て呼べば良いの?」

 はたと気が付いたようにひなたが尋ねてくる。

「好きに呼んで良いよ」

「じゃあ、海斗って呼ぶね」

 年下の女子から呼び捨てにされる。それもアリだなと海斗は拳を握り締めた。

「ああ、良いぜ。俺もお前のことをひなたって呼ぶからよ」

「うん、そうして!」

 無邪気な笑みを浮かべてひなたは言った。海斗は感激して身震いをする。

「本当なら夜通しでひなたと遊んでいたいところだけど、俺はさっき美里姉さんと熱い時を過ごして体力を消耗しちまったから今日のところはもう寝るよ」

 そう言って、海斗はおもむろにマウスを動かしてPCの電源をオフにしようとする。

「え、ちょっと待って。電源オフにしちゃうの? 嫌だよ、ひなた暗いのは怖い……」

 本当に良く出来たAIである。海斗は思わず感心してしまった。

「ねえ、お願い」

 また潤んだ瞳で見つめられ、海斗は心を射抜かれた。

「分かったよ、このままPCの電源付けておいてやるから」

 海斗はPCを省電力モードに切り替えると、再びひなたの方を見た。

「じゃあ、俺はもう寝るから」

「うん、おやすみ海斗」

 満面の笑みでひなたに言われて、海斗はそのままベッドに倒れ込んで悶える。

「ちくしょう。可愛いな、おい」

 姉パラの美里といい、このひなたといい、本当に二次元美少女は最高だ。

 海斗は幸せな気持ちを抱きながら瞼を閉じた。




 カーテンの隙間から柔らかな朝の日差しが降り注ぐ。

 海斗はベッドの上で身じろぎをしてから、おもむろに瞼を開けた。

 いつもなら朝を迎えるとひたすらに憂鬱な気持ちになるのだが、今朝は不思議とスッキリ目覚めることが出来た。昨晩、幸せ成分を大量に補給したおかげだろうか。

 海斗はハッとして、昨晩から電源を入れっぱなしのPCを見る。その画面内では、例のAI少女であるひなたがすやすやと眠っていた。

「夢じゃ無かったんだな……」

 そう呟いて、海斗はマウスに手を添える。カーソルをひなたの頬に置いてクリックをした。

 カチッ。

「……ん」

 ひなたがぴくりと肩を揺らす。

 その様子を見て、もう一度クリックをする。

 カチッ。

「……んぅ」

 またひなたがぴくりと反応した。

 海斗はにやりとほくそ笑み、クリックを連打した。

 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。

「ん、や、あ、はぁ……」

 何だかエロいな。

 そんな感情を抱いて海斗がごくりと生唾を飲み込んだ時。

「うぅん……」

 ひなたがひときわ大きな唸り声を上げて、それから薄らと瞼を開く。

「よ、おはよう」

 PCの画面を覗き込みながら海斗はあいさつをした。

「……あれー、何で海斗がいるの? まだ夢の中なのかな?」

 起きたばかりなせいか、ひなたは上手く呂律が回っていない。

「どうしたー、まだ寝ぼけてんのか? これは夢じゃないぞー」

 ひらひらと手を振りながら海斗が言う。

それに対して、ひなたは未だに困惑した様子である。

 海斗はそんなひなたにふっと微笑みかけた。それから壁のフックにかけていた制服を手に取って着替えを始める。

「ちょっ、海斗! 何でいきなり着替えを始めるの?」

 ひなたが動揺したように声を発する。

「ん、ああ。AIとはいえ女の子だもんな。これは失礼」

 苦笑しながら、海斗はPCの画面を自分とは反対側に向かせる。ゆるりと着替えを済ませてから元に戻した。

「ねえねえ、それって高校の制服?」

「ああ、そうだよ」

「似合っているね」

 にこりと微笑みながらひなたが言う。

「サンキュ。じゃあ、俺は朝ごはんを食ってそのまま学校に行くから。またな」

「え、海斗行っちゃうの? 嫌だよ、寂しいよ」

 心細いのか、ひなたは泣きそうな顔でそう言った。

 あー、抱き締めてやりたいな。けれどもその願望は叶わないので、海斗はマウスでカーソルをひなたのおでこにやり、クリックをすることで小突いてやる。

「イタッ」

「あはは。心配しなくても、学校が終わったらちゃんと帰って来るから。PCの電源も付けておいてやるし。だから大人しく待っていろよ?」

「本当に?」

「ああ」

 海斗は優しく微笑みながらそう言った。可愛いAI少女のひなたとの会話を名残惜しく感じながらも部屋を後にする。階段を下りて、一階のリビングへと向かった。

そこには先客がいた。ふいに海斗と目線が合うなり眉をひそめる。

「……おはよう」

 海斗はぼそりとした声でそう言った。

「はあ? 何であんたがいんの?」

 とりあえずの礼儀として海斗があいさつをしたにも関わらず、その先客は無視をして代わりに辛辣な言葉を投げてきた。

「何でって……それは俺がお前の兄で一緒に暮らしているからであって……」

「私の兄は光矢兄さんだけよ。……ったく、いつもはチンタラ寝ているくせに何でこんな早く起きて来るのよ」

 そう毒づいてから、

「お母さーん、私朝ごはんコンビニで買って食べるからお金ちょうだーい」

 とキッチンに向かって叫ぶ。

「ちょっと樹里、あんた何言ってんのよ。海斗お兄ちゃんと一緒に食べなさい」

「嫌よ。こんな陰気なオタク野郎と一緒に朝ごはんを食べたら不味くなっちゃう」

 吐き捨てるように樹里が言った。そんな彼女に対して母が顔をしかめている。

「あの、さ……俺、朝ごはんコンビニで済ませるから良いよ」

 少しどもりながら、海斗は言った。

「あ、それ良いじゃん。そうしてくれると私も助かるわ~」

 樹里が嬉々とした表情を浮かべて言う。

「何言ってんの、海斗もきちんと家で朝ごはん食べなさい」

「良いんだよ、母さん。俺そんなにお腹空いてないから、コンビニで軽く済ませたいんだ。ああ、お金は自分で出すから……じゃあ、行ってきます」

「ちょっと、海斗!」

 母の制止する声を振り払い、海斗は静かにリビングを後にして玄関から外に飛び出した。

 空は快晴だ。雲がほとんど無いおかげで地上に温かな太陽の日差しが降り注ぐ。しかし、その天気に反比例するように海斗の心は沈んでいた。

 いつものことである。コンピューター、あるいは自分の部屋という世界では絶対的な強者である海斗も、一歩外に出れば途方もない弱者であった。妹の樹里が最後に海斗のことを兄と呼んだのはいつだっただろうか。母は海斗のことを擁護してくれるが、内心では情けない息子だと思っているに違いない。自分の家でありながら肩身の狭い思いをして、海斗の心は日々ひねくれて行くばかりである。

 通学路の途中にあるコンビニへと入り、おにぎりやパンが並ぶコーナーへと向かう。

 海斗がおもむろにツナマヨおにぎりに手を伸ばした時。

「よっ、海斗じゃん!」

 背後からいきなり肩を叩かれた。海斗はびくりと反応してしまう。

 慎重に振り返ると、快活な笑みを浮かべる少年がいた。

「……何だ、健吾かよ。脅かしやがって」

 海斗はまだ心臓が高鳴りつつも、そのように毒づいた。

「はは、悪い悪い。つーか、朝ごはんコンビニで買うのか?」

「まあな」

「そっか、俺もなんだよー」

 にこにこと笑いながら、健吾はおにぎり二個とパンを二個、それからレモンティーを手に取ってレジへと向かう。

「朝から食い過ぎじゃないのか?」

 海斗は半ばげんなりとしたように言う。

「つーか海斗こそ、おにぎり一個で足りんのかよ? もっと食わないと背もあそこもデカくなんねーぞ、アッハッハ!」

 朝っぱらのコンビニでそのような下ネタを口走る快活さが、羨ましいようで羨ましくない。

「良いんだよ、俺は小食だし。ずっと部屋に引きこもりっぱなしだから、動いて体力を消耗することもないし」

「何言ってんだよ、海斗ちゃん。部屋でやる激しい運動もあるだろう?」

「お前いい加減にしないと本気で怒られんぞ」

 そう言いつつ、海斗はきょろきょろと周りにいるお客や店員の顔色を伺う。比較的女性が多かったのでその反応に怯えていたのだ。というか、なぜ当人じゃなく海斗が怯えなくちゃいけないのだろうか。

しかし、予想に反して彼女達はさほど嫌な顔はしておらず、中には微笑んだり顔を赤らめたりする人もいた。

「……はあ、イケメンっていうのはお得な生き物だよな」

 コンビニの前でツナマヨおにぎりの袋を開けながら、海斗はため息交じりに呟く。

「ん、イケメンって俺のこと?」

 焼きそばパンを頬張る途中で、健吾は尋ねてくる。

「他に誰がいるんだよ」

「やだもう、海斗ってば照れるじゃーん」

「キャピキャピ女子みたいな反応すんじゃねえよ」

 海斗は辟易としながらペットボトルのお茶を一口飲む。

 この松田健吾(まつだ けんご)とは中学生の時からの付き合いだ。

 整った顔立ち、すらっと伸びた背丈、筋肉質、快活な性格、下ネタ好きなところがたまにキズ。健吾はそのようにハイスペックなイケメン君だ。

 しかし、そんな健吾も中学時代は海斗と同じオタク少年だった。いや、海斗以上に筋金入りのオタクだった。帰宅部で家に帰ってからは夕ご飯と風呂の時間以外はずっとギャルゲー。休日なんてそれこそ一日ギャルゲー。彼がプレイしたギャルゲーは数百本にも上るとか何とか。それが今やクラスの、ひいては学園の人気者である。

「なあ海斗、俺将来的に本を出そうと思ってんだよ。『オタク少年だった俺がなぜモテまくりになれたのか。それはギャルゲーをやりまくったおかげである!』……ってな感じでさ」

 突然、自信満々な様子で健吾が語り出す。

「はあ? ギャルゲーやったからって現実の恋愛が上手く行く訳ないだろ。むしろ、ギャルゲー世界でのテクニックを現実世界でやったらドン引きされるだろうが」

 海斗が眉をひそめて言うと、健吾は不敵な笑みを浮かべながら人差し指を立てた。

「チッチッチ。それがそうでもないんだな。ほら『君のパンツをゲッチュ!』で、主人公が風の如く女の子の脇を走り抜けてスカートをひらりさせて、『君のパンツをゲッチュ! ついでに君自身もゲッチュ!』『え、そんなどうしよう?』……っていうシーンがあっただろ?」

「ああ、そんなのあったなぁ」

 まさにギャルゲーならではの主人公とヒロインの頭の緩さで成り立つイベントである。

「それを現実(リアル)でやってみたんだけどさ」

「やったのかよ!?」

 何てチャレンジャーだ。彼は大事なネジが何本も抜け落ちているに違いない。

「おう。そしたら、『ギャハハ、マジ受けるんですけどぉ!』って爆笑されてなー」

「そりゃそうだ。つーか、怒って訴えられなかっただけ奇跡だろ」

「その流れで付き合うことになった」

「どの流れだよ!?」

 海斗はむせ返りながら突っ込む。

「だからさ、ギャルゲーのテクは現実でも十分通用するんだよ。海斗もやってみ?」

「いや、それはギャルゲー云々の以前に、お前だから成功したんだろ。つーか、もし俺が現実(リアル)でそれをやったら速攻でブタ箱行きだよ」

「まあ、そうかもなー」

 健吾は笑いながら言う。そうかもなーって。いい加減な答えにがっくりとしてしまう。

「とにかく仮にお前がその本を出した場合、多くの勘違いをしたオタク男子共がブタ箱行きになるからやめておけ」

 海斗がたしなめるように言うと、健吾は口の先を尖らせた。

「ちぇー……あ、そういえば海斗」

「何だよ?」

 また何かロクでもないことを喋るんだろうか。海斗が辟易した時。

「今朝のニュース見た?」

 意外にも、真っ当な話題を振ってきた。海斗は一瞬、呆然としてしまう。

「……いや、見てないけど」

「マジ? ちょっと面白いニュースがあってさ」

「面白いニュース?」

 海斗が首を傾げる。健吾のくせにきちんとニュースをチェックするなんて。意外過ぎる。

「そうそう、小比類彼方(こひるい かなた)っていう天才科学者が多くの人々を人体実験で殺したんだよ」

「人体実験?」

「何でもさ、『物質転送』の技術を使って人間が電子の世界に自由に出入りするのが目的らしくてさ。確か『電子人製造計画』だっけかな? んでさ、そいつが恐ろしいのは自分の娘も実験台にしたんだよ。マジ怖いよなー」

 健吾が大げさにぶるりと身を震わせる。対する海斗は、冷めた顔でため息を漏らす。

「バカバカしい。そもそも、最近やっと〈電脳アクセプター〉によって〈電脳空間〉に精神を飛ばせるようになったのに、そんな技術ありえねーよ」

「まあ、そうだよなー。あ、〈電脳空間〉と言えば、今日の放課後に〈DPG〉やりに行かないか?」

 DPG(電脳プレイングゲーム)とは、〈電脳空間〉を利用したオンラインゲームのことである。従来のオンラインゲームとの違いは、脳を〈電脳アクセプター〉によってコンピュータープログラムと接続することで、精神を〈電脳空間〉へと侵入させてよりリアルなゲームの世界を体感出来るということだ。ただ、〈電脳アクセプター〉は大型で高価なため一般家庭・個人用としてはまだ普及していない。だからプレイするためには、〈電脳センター〉という専門のゲーム施設に赴く必要があるのだ。

「あー……」

 海斗は口ごもった。オタク少年の海斗は当然DPGに興味がある。エルフやケモ耳などの異世界美少女達とイチャイチャしたいという願望は少なからずある。しかし、引きこもり属性の彼にとって自分の部屋以外でゲームをするのは落ち着かず不安な気持ちになってしまうのだ。

「悪い、今日は遠慮しておく。家に帰って美里姉さんとイチャイチャするから」

「お前本当に『姉パラ』の東雲美里が好きだなぁ。でも、あれって結構古いタイトルだろ?」

「バカ、最近リメイク版が出たんだよ。ヒロインと結ばれた後の甘々な生活を堪能出来るようになってんの」

「へー、そうなんだ。最近あまりギャルゲーやってないから分かんないや」

 健吾はからからと笑った。




 昼休みを告げるチャイムが鳴ると、教室内は一気に騒がしくなる。

「海斗ぉ、一緒にメシ食おうぜ!」

 窓際の隅っこの席で小さく丸まっていた海斗の下に、快活な声を上げながら健吾が駆け寄って来た。

「お、おう……」

 対する海斗はぎこちない返事をする。

健吾の後ろにはクラスでも目立つ男子達が立っていた。派手な髪形に、派手な制服の着こなし。いわゆるリア充という生き物である。彼らの姿を見ていると海斗のようないわゆる非リア充は自然と足がすくんでしまう。

 健吾は中学時代からの親友のため、当然のように海斗を昼ご飯に誘ってくれる。海斗もそんな健吾と昼ご飯を共にすることは決して嫌ではない。しかしスーパーリア充イケメンの健吾はリア充達とも友達のため、必然的にリア充達とも一緒に昼ご飯を食べることになってしまう。その時のいたたまれなさと言ったら半端ない。健吾の親友ということで何とか立場を保っているが、時折チクリと刺さる視線が痛くてたまらない。だから正直なところ、海斗は一人で昼休みを過ごした方がよっぽど気楽だと思っていた。ただ、もし健吾の気を悪くして唯一の友達を失ったらという恐怖から、海斗は仕方なく健吾withリア充達と昼ご飯を共にしているのだ。

「よーし、そんじゃ購買にパンを買いに行こうぜ!」

 健吾の号令に従って、リア充達はぞろぞろと歩き出す。そんな彼らの後ろで、小動物のように縮こまりながら海斗は渋々歩き始めた。

「おーい、神崎はいるか?」

 ふいに教室の入り口から顔を覗かせて声を発したのは、浅川高校二年一組の担任である田中正彦だった。太い眉毛に浅黒い肌。見るからに体育会系といった感じだ。

「あ、はい。何でしょうか?」

 海斗が少し困惑した様子で尋ねる。

「おー、神崎。ちょっと話があるんだが、一緒に来てくれるか?」

 田中はにかっと笑みを浮かべながら言った。

二年生に進級して一ヶ月ほど接してきたが、海斗は正直に言ってこの田中が苦手、というかうざったいと思っていた。しかし、今この場においては感謝した。気まずい昼ご飯タイムを断る口実が出来たのだ。

「あ、はい分かりました。……悪い、健吾。そう言う訳だから俺ちょっと行って来るよ」

 海斗はいかにも申し訳ない様子で言う。

「そっかー、分かった」

 残念といった表情を浮かべる健吾に背を向けて、海斗は田中の下へと向かう。

「よし、じゃあ行くか」

 田中の後を追って海斗は廊下を歩いて行く。他の生徒達とすれ違う度に「うわ田中だ、暑苦しい~」と囁く声が聞こえてきた。しかし当人は全く聞こえていない様子で、「おう、お前ら元気か?」とフレンドリーに声をかけている。何だか哀れだ。

 そうこうしている内にやって来たのは、進路指導室だった。

「さあ、入れ」

 海斗は首を傾げながらも、言われるがまま進路指導室に入った。それから田中と机を挟んで向かい合う形で座る。

「あの、先生。何で俺を進路指導室に呼び出したんですか? 進路調査はまだ先だったと思うんですが……」

「まあまあ、そうなんだけどな。ところで神崎、二年生に進級してからどうだ? 高校生活は楽しいか?」

「えーと……まあ、ボチボチ」

 本当は全然ボチボチでもないのだが、事を荒立てたくないのでそのように答えておく。

「そうか。いやな、クラスの様子を見ていると、神崎は松田としか話していないようだから少し気になったんだよ」

 クソ、体育会系で脳筋教師の癖に何でそんな察しが良いんだよ。

やっぱりうざったいな、こいつ。

 海斗は心の中で悪態をつく。

「はあ……まあ、健吾とは中学時代からの親友なんで必然的に話す回数も多いですが……」

「実はこの前その松田と少し話す機会があったんだが。その時に神崎の話題が出たんだよ」

「えっ?」

「単刀直入に聞くが、お前は現実の女には全く興味が無くてそのー……いわゆる二次元の女にしか興味が無いっていうのは本当か?」

 瞬間、海斗は巨大なハンマーで横殴りされたような衝撃を受けた。

「……は、はは。先生ってば突然何をおっしゃるんですか」

「いや、しかし松田がそう教えてくれたんだが」

 あのボケナスがぁ!

 海斗は心の中で怒りの雄叫びを上げる。

「……な、なな何で健吾の野郎はそんなことを言ったんでしょうね?」

「んー、何かお前のことを心配しているみたいだったぞ。神崎を二次元好きにしたのは自分のせいだからって」

「健吾がそんなことを……」

「ああ。その、松田のせいで神崎が二次元好きになったっていうのはどういうことなんだ?」

 田中が真剣な眼差しを海斗に向けた。

 海斗はぐっと口をつぐむ。

 中学生の頃、海斗には憧れていた近所のお姉さんがいた。年齢は二十代前半くらい。毎朝登校する時に会うと優しい笑みを浮かべて話しかけてくれる素敵なお姉さん。おまけにとても美人でスタイルも抜群。海斗はそんなお姉さんに対して淡い恋心を抱いていた。その思いは日を増すごとに強くなって行った。

 ある時、いつものように登校中に出会い、海斗とお姉さんは他愛もない会話をしていた。そんな彼らに一陣の風が吹き付けた。その瞬間、お姉さんのスカートがめくれ上がり、パンツがもろに見えてしまったのだ。海斗は驚いたが、反射的にじっとお姉さんのパンツを見てしまった。やがて風が止んでスカートが元の位置に戻ってからも、しばらく余韻に浸りながら海斗はじっとお姉さんのことを見つめていた。すると、お姉さんが海斗の方に振り向く。海斗は悪いことをしたと思ったが、きっと優しいお姉さんなら許してくれるだろうと期待していた。

「――ちょっと、ケダモノみたいな目で見ないでくれる? 気持ち悪いんだけど」

 海斗の予想に反して、お姉さんの口から出た言葉は辛辣なものだった。

 あまりのショックに、海斗はその日学校を休んだ。海斗のことを心配した健吾が電話をかけてきたので事のあらましを話した。すると、学校帰りに健吾が家にやって来て、海斗にある物を渡した。それがギャルゲーだった。当時バリバリオタクの健吾に対して、海斗はそこまでオタク趣味に興味がある訳ではなかった。ただPCには興味があった。健吾が持って来たギャルゲーはPC用だったので早速プレイすることにしたのだ。

 お姉さんの一件もあり、海斗は若干女性恐怖症になっていた。相手が二次元であっても怯えていた。しかし、一度プレイを始めてみるとゲームの中の女の子達は自分のことが大好きでずっと好意を向けてくれる。決定的だったのは、お姉さんの時と同じく風でスカートがめくれるイベントが起きた時。

「――きゃっ……今、私のパンツ見た? ……もう、バカ」

 頬を赤らめながらそんな事を言うヒロインを見た瞬間、海斗の中で何かがスパークした。凄まじい科学反応が起きた。衝撃を受けたのだ。

 それ以来、海斗はすっかりギャルゲーにはハマり、数多くのギャルゲーをプレイした。そして出会ったのが『姉パラ』の東雲美里、通称美里姉さんであった。

 ……とまあ、海斗が二次元にハマったいきさつは大体このような感じである。

 しかし、こんな話を担任の先生になんてしたくない。

「いや、まあ……色々あったんですよ」

 妙案が思いつかなかったので、海斗は曖昧に言葉を濁すことしか出来なかった。

 そんな海斗の様子を見て、田中が小さく吐息を漏らす。

「分かった、それ以上深く理由は聞かない」

 この暑苦しい体育会系教師は、意外と生徒と距離を測るのが上手いようだ。少し見直してしまう。

「ただ神崎がその二次元の女しか好きになれないというのは事実なんだろう? 先生はそこを何とかしてやりたいんだよ」

「はあ……」

 余計なお世話だよ。

「そこでな。お前にカウンセリングを勧めたいんだ」

「カウンセリング……ですか?」

 海斗はきょとんとする。

「そうだ。今度うちの学校でカウンセラーを雇う予定でな。そのカウンセラーは女性でしかもとびきりの美人らしい。きっとお前の二次元しか愛せないという性癖も治るだろう」

「いや、別に俺はその性癖を治したいとは思っていないんですけど……」

「とにかくそのカウンセラーが赴任したら、一度カウンセリングを受けてみろ」

 田中はまたにかっと笑みを浮かべて言う。

 そんな彼に対して、海斗は浮かない顔で俯くことしか出来なかった。




 放課後。

「海斗、本当に〈DPG〉やりに行かないのかよ?」

 自分の机で帰りの支度をしていた海斗に、健吾が声をかけてきた。

「行かないって言っただろうが。それよりも健吾。お前、田中に余計なこと吹き込んだだろ?」

「へ?」

「とぼけんな。俺が二次元の女しか愛せないってことをだよ」

「あー、そういえばそんなこと言ったような気がするよ。メンゴメンゴ」

 海斗は決して敵わないと分かっていても、この親友の腹を思い切り殴りたい衝動に駆られた。しかし、寸でのところで堪える。

「ったく……まあ、もう言っちまったことは仕方ないけどさ。おかげで面倒なことになったんだよ」

「面倒なことって?」

「今度うちの学校にカウンセラーが赴任するらしくてさ、お前もカウンセリングを受けろって田中に言われたんだよ」

 海斗は顔をしかめて言う。

「へー、良いじゃんカウンセリング。受けちゃえば」

「簡単に言うんじゃねえよ。しかもそのカウンセラーが女らしいんだ」

「マジで? 美人なの?」

 『女』というワードに反応した健吾が尋ねてくる。この色魔め。

「とびきりの美人らしい」

「へえ、良いじゃん!」

「良くねえよ! 三次元の女なんてみんなクソなんだ」

 海斗が嫌悪の念をたっぷり込めて言うと、健吾は「うわー」と若干引いたような顔つきになる。

「いやー、そこまでハッキリ言うなんて。俺ってば本当に責任を感じちゃうよ。ごめんな、お前をそこまでキモいオタク野郎にしちまって」

「そんな憐れむような目で俺を見るな」

 うっかり死にたくなってしまう。

「まあ、物は試しでカウンセリング受けてみれば良いじゃん」

 健吾はあくまでも軽い口調で言う。

「嫌だよ。俺はさっさと家に帰って美里姉さんとイチャイチャするんだよ」

「うわー。マジで気持ち悪いな、海斗くん」

「るせ」

 海斗は吐き捨てるように言って、教室から出て行った。




 帰り道を歩いている最中、海斗はふとAI少女であるひなたのことを思い出した。

 そうだ。今の海斗には『姉パラ』の美里だけでなく、あの可愛らしいAI少女もいるのだ。楽しみが二倍。そう考えると、沈んでいたテンションも否応無しに上がってくる。

「ただいま」

 家の玄関ドアを開けてぼそりと言う。この時間はまだ母も天敵の妹も帰って来ていない。学校から帰宅したこの夕方のわずかな時間、海斗は一階のリビングでくつろぐことが許される。別にその時間以外もくつろぐことを禁止されている訳ではないが暗黙の了解、あるいは無言のプレッシャーによって定まった神崎家のルールである。

 鞄をソファに放り投げて冷蔵庫へと向かう。冷たいウーロン茶をコップに注いで口に含む。テレビを付けて夕方のニュースをチェックする。今朝、健吾から聞いたマッドサイエンティストの報道がされていた。その内容はやはりバカバカしいと思った。

「……さてと」

 一旦リビングで過ごしたのは気を落ち着けるためだ。あまりテンション高く行っては美里もひなたも引いてしまうだろうからな。海斗は愛らしい二次元の彼女達との交流タイムに胸を躍らせながら意気揚々と二階へと駆け上がり、自分の部屋のドアを開ける。

「あ、お帰り海斗」

 そこには一人の少女がいた。

 小柄で華奢な身体をしている。肩まで伸びたセミロングの髪は艶やかで、肌は透き通るように白い。その澄んだ瞳で海斗のことをじっと見つめている。

 あまりにも衝撃を受け過ぎて、海斗は絶句する。息をすることさえ忘れていた。しばらく経った後、ようやく震えながらも声を発することが出来た。

「誰だ、お前は……?」

 驚きと恐怖が胸の内で綯い交ぜになり、海斗は激しく困惑していた。

「え? 誰って、ひなただよ?」

 少女は事もなげにそんなことを言う。

「はあ? お、お前何言ってんだよ? ひなたは二次元に存在する可愛いAI少女なんだ」

「あたしは人間だよ」

 少女は尚も平然とした様子である。

 ダメだ、話が全く噛み合わない。早くこの不法侵入をした愚か者を追い出さないと。海斗は焦りを感じていた。

「じゃあ、お前がひなただって言うならその証拠を見せてみろよ」

「良いよ」

 少女は意外にもあっさりと承諾した。

 愚か者が、さっさとその尻尾を出しやがれ。

 海斗は嫌悪感をたっぷり含ませた目で少女を睨む。

 すると少女はおもむろに着ていたTシャツの首の部分を引っ張り、胸元に手を突っ込んだ。

 その行為に対して海斗はにわかに動揺してひっくり返りそうになる。

 カチリ、とボタンを押すような音がした。

 直後、少女の身体から眩い光が迸る。

「うっ……」

 海斗はとっさに両腕で顔を覆い隠す。

 やがて光が収まり、海斗はおもむろに顔を上げた。

 そこには先ほどまでいた少女の姿は無かった。

「……逃げたのか?」

 そう呟いて海斗がきょろきょろと室内を見回していた時。

「おーい、海斗。こっちだよ!」

 急に元気な声が響いて、海斗はびくりと肩を震わせる。

 ゆっくりと声がした方に視線を向けると、そこには電源を入れっぱなしにしていたPCが置かれていた。PCの画面には、元気に飛び跳ねるAI少女のひなたが映っていた。

「お、おう、ひなた。さっきまでこの部屋に変な奴がいなかったか?」

 海斗が問いかけると、ひなたは首を横に振る。

「ううん、この部屋にいたのはあたしだけだよ」

「だよなー。きっと今のは幻覚だな。そうに違いない」

 自分に言い聞かせてあはは、と海斗は笑う。

「じゃあ、海斗。もう一度見せてあげるね」

「は?」

 ひなたはおもむろに着ていたTシャツの首の部分を引っ張り、胸元に手を突っ込んだ。

 その行為に対して海斗は首を傾げる。

 カチリ、とボタンを押すような音がした。

 直後、ひなたの身体から眩い光が迸る

「うっ……」

 海斗はとっさに両腕で顔を覆い隠す。

 やがて光が収まり、海斗はゆっくりと顔を上げようとした。

 その瞬間、肩の辺りをちょんと突かれる。

「海斗」

 おもむろに顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべる先ほどの少女がいた。

「なっ、お前また現れやがったのか!?」

「ノンノン、あたしはずっとここにいたよ」

 少女はPCの画面を指差している。そこにはつい先ほどまでいたはずのひなたの姿が無い。

「お前、まさか……どうやって?」

 海斗は驚愕に目を見開き、思わず後ずさりをしてしまう。

「何かね、この胸に付いている変なボタンを押したらPCの外に出て来られたの」

 少女は先ほどよりもぐっとTシャツを広げて、胸元を露わにする。海斗は動揺して思わず目を逸らしてしまう。

「どうしたの、海斗?」

 少女は小首を傾げる。

「お、お前がいきなりそんなことをするから……」

 そう言いつつ、ちらりと視線を少女の胸元に向けて海斗は息を呑んだ。

 少女の胸の真ん中辺りに、縦に並ぶ二つのボタンがあった。上のボタンが飛び出て下のボタンは引っ込んでいる。

「この上のボタンを押すとPCの中に入れて、下のボタンを押すと外に出られるの」

 にこにこと微笑みながら少女は言う。

 嘘だろ、これはきっと夢だ。悪夢だ。

 海斗はにわかに信じがたい事態に直面し激しくて動揺した。しかし、ふとある考えが脳裏をよぎり、おもむろに口を開く。

「……なあ、お前の名前は?」

「え、ひなただけど?」

 小首を傾げて少女が言う。

「そうじゃなくて、フルネームだよ」

 海斗が言うと、少女はぽんと手を叩いた。

「えーとね、あたしの名前は小比類ひなただよ」




























      2




 二次元と三次元の間には途方もない壁が立ちはだかっている。

 昨今では、〈電脳アクセプター〉のように科学技術の進歩でその壁は少しだけ壊されつつあるが、完全に両者が交じり合うことは無い。二次元の物は三次元に行くことが出来ず、三次元の物もまた二次元に行くことが出来ない。両者の壁を超えることなんてあり得ないのだ。

「どうしたの、海斗。ボーっとしちゃって?」

 目の前にいる小比類ひなたと名乗る少女は、俯いている海斗の顔をじっと覗きこんで来た。

「ねーねー、海斗。せっかくあたしが普通の人間に戻れたんだから、一緒にお話しようよ」

 せがむように言うひなたを見て、海斗は眉をひそめた。

 普通の人間? どう考えたって彼女は普通の人間じゃない。二次元と三次元を自由に行き来することが可能な存在が、普通の人間のはずがない。

 海斗はふらふらとした足取りで歩き、椅子に腰を掛けた。おもむろにポケットからケータイを取り出してメール画面を開く。文章を打ち込んで送信する。数分後、返信が来たのを確認すると、海斗はPCのキーボードを叩いた。

「何しているの?」

 不思議そうに尋ねてくるひなたを無視して、海斗はエンターキーを押した。画面にコールサインが浮かぶ。その間に、海斗は机の脇に置いてあったヘッドセットを装着する。それはヘッドホンとマイクが一体化した物だ。

 直後、コールサインが消えて一人の若い男の顔がPCの画面に映る。

『おう、どうした海斗?』

「ちょっと、兄貴に相談したいことがあるんだけど」

『ケータイじゃなくて、秘匿のIP電話を使うってことはよほど重要な案件なのか?』

 IP電話とは、インターネット回線を利用して音声通話を可能にするサービスのことだ。提供するのはプロバイダーや回線業者である。海斗も基本的には一般ユーザーと何ら変わりないプロバイダー並びに回線業者と契約しているが、密かに独自のプログラムを投入することで通常の何倍もセキュリティレベルを向上させた。そのため秘匿のIP電話なのである。

「まあ、そうだな」

『もしかして、海斗に彼女が出来たとか? カッコ三次元の』

「……やっぱり相談しなくて良いや」

『冗談だって、そうカッカするなよ』

 あはは、と若い男は笑う。

 彼は海斗の兄で神崎光矢(かんざき こうや)と言う。二十四歳の青年で、情報機関の〈ネクサス〉に所属している。

『でも俺は兄として、お前が二次元しか愛せないことを心配しているんだぜ? かなり本気で』

「ちっ、兄貴までそんなこと言うのかよ。田中もうるせえしよ」

『田中って……確か海斗のクラスの担任か?』

「ああ。健吾のアホがよりにもよってその田中に俺の二次元好きを話したらしくて、今度うちの学校でカウンセラーを雇うからカウンセリングを受けろって言われたよ」

『あはは、みんなから心配されて幸せ者じゃないか!』

 光矢が大きな笑い声を上げた。

「余計なお世話だ! ……そんなことよりも、ちょっと兄貴に見てもらいたい奴がいるんだけど」

 そう言ってから、海斗は後ろにいるひなたに手招きをして画面の前に顔を出させた。

「こいつなんだけどさ……」

 海斗が言いかけた時、

『あれ、何その女の子? おい海斗、もしかして何だかんだで彼女が出来たのか? しかも三次元の!』

「違えよ!」

『しかし、海斗は年上が好みだったはずだけど……もしかしてロリコンに目覚めたのか?』

「だから、違うって言ってんだろうが!」

『オーケー、オーケー。可愛い彼女の前で粋がりたい気持ちも分かるが、ここはきちんと兄である俺に対して敬意を表してもらおうか?』

 光矢はふふん、と不敵な笑みを浮かべる。

「ぐっ……お願いします、お兄様。ふざけないで話を聞いて下さい」

 海斗は卑屈な面持ちで頭を下げた。

『はいはい、分かったよ。それで、その女の子は何者なんだ?』

「こいつの名前は小比類ひなたって言うんだ」

『小比類ひなた……?』

 その名前を聞いて光矢は一瞬首を傾げたが、すぐに何かを察したような顔になる。

「今日ニュースになっていたマッドサイエンティストの名前って確か小比類彼方だよな? 自分の娘を『電子人製造計画』の実験台にした。そして、その娘っていうのがこいつなんじゃねえのか?」

『ちょっと待っていろ』

 そう言って、光矢は画面の向こうでキーボードに指を走らせる。

『……確かに、小比類彼方の娘の名前は小比類ひなただ。しかし、実験は失敗したはず……』

「でも現にその実験を受けたと思しき奴が、俺の所に流れて来たんだよ」

 海斗がひなたを指差しながら言うと、光矢は小難しい顔で唸った。

「あのさ、これってやっぱり警察に連絡した方が良かったのかな?」

 その問いかけに対して、光矢は首を小さく横に振った。

『……いや、初めに俺に相談したのは正しい判断だ。警察に連絡して彼女の身柄を引き渡せば、そこから情報が漏洩する恐れがある。その場合、彼女の身が危険だ』

「危険?」

『テロリストに狙われるかもしれないんだよ。今調べてみたんだが、小比類彼方は「ネオ・カタルシス」っていうテロ組織と手を組んでいたみたいだ』

「ネオ・カタルシス?」

『サイバーテロを得意とする組織だな。優れたハッカーが多く所属している。加えて、肉弾戦用の人員も充実している。まあ厄介なテロ組織だよ。奴らは天才科学者の小比類彼方と協力をして「電子人製造計画」を進めていたみたいだ。インターネットを初めとした「電子世界」を支配するために』

「じゃあ、警察がダメなら兄貴が所属するネクサスに……」

『任せておけ……と引き受けたいところだが。生憎うちも警察と変わらない。何せ、政府を初めとした機関から重要機密の保護を委託されているためか、日頃からハッカー達の攻撃が凄まじくてなぁ。まあ、うちのスタッフはみな優れた情報戦士だから問題はないんだが、万が一ということもある』

「だったら、どうすれば良いんだよ?」

 海斗が困惑しながら問いかけると、光矢がびしっと海斗に指を差した。

『そのまま海斗のところで預かれよ』

 海斗は数秒間、沈黙した。

「……は? 何で?」

『今言った通り、警察やネクサスに預けた場合情報が漏洩する可能性がある。そうなったら世間は騒ぐし、その子の身にも危険が及ぶ。だったら、ほとぼりが冷めるまでこの事実は俺とお前の二人だけで共有した方が良い。そして、あくまでも表向きは一般人であるお前のところにいた方が、敵に存在を察知されなくて済むかもしれない』

「ちょっと待てよ! 何で俺がそんな重要な任務を……」

『良いじゃないか。お前の力でその子を守ってあげろよ、天才ハッカー〈テラファング〉』

 海斗は自らのハッカーネームを出されて、思わず口ごもってしまう。

『将来的に俺の右腕として働いてもらうんだから、お姫様のナイトくらいはきっちりとこなしてもらわないとな』

 光矢が口の端を吊り上げて笑みを浮かべる。

「っておい、色々と勝手なこと言ってんじゃねーよ!」

『ところで、そこのお姫様は自分が今どういう状況にあるのか自覚しているのか?』

 海斗の訴えを無視して光矢が尋ねる。

「は? あー、いや。恐らく何で自分がこんな力を手に入れたかは分かっていないみたいだ」

『非道な科学者の父によって実験台にされたことも?』

 光矢の言葉を受け、海斗はヘッドセットを外してひなたに振り向く。

「なあ、お前さ……自分が父親に何をされたのか覚えているか?」

 やや慎重に海斗が問いかけると、ひなたは小首を傾げた。

「父親……?」

「そう、小比類彼方っていうのはお前の父親だろう?」

「小比類彼方……うっ!」

 直後、突然ひなたが頭を抱えてひざまずいた。

「おい、どうしたんだ?」

「うううぅ……」

 悲痛な呻き声を漏らすひなたを見て、海斗は動揺しながら声をかける。

「おい、しっかりしろってば!」

「うううぅ…………嘘だよん!」

 ひなたは頭からパッと手を離し、おどけた表情を浮かべた。

「はっ?」

「あはは、海斗おかしい!」

「……わ、笑ってんじゃねえよ! ふざけやがって!」

 海斗は怒りと気恥ずかしさが同時に込み上げて、顔を真っ赤に染めてしまう。

「きゃはは、苦しい~……ごめん、ごめん。でもね、よく覚えていないの」

 ひなたは小さな肩をすくめてそう言った。

 海斗はひなたに軽く睨みを利かせてから、再びヘッドセットを取り付ける。

『お姫様とのイチャイチャは楽しかったか?』

 開口一番、そんな軽口を光矢は言う。

「うるせ! そんなことよりもこいつは父親に実験台にされたことはおろか、父親の存在自体よく覚えていないみたいなんだ」

『記憶を失っているということか?』

 ふいに光矢は真剣な顔付きになり、眉をひそめる。

「ああ。こいつが俺のPCに流れ着いた時にスキャンしたら、データの一部が欠けていたんだ。恐らくそれがこいつの失った記憶なんだろう。ただまあ、自分の名前は覚えていたから全ての記憶を失った訳じゃないみたいだけどな」

『なるほど、とりわけ父親に関する記憶を失っているということか。……それはむしろ好都合かもしれないな』

「何でだよ?」

『考えてもみろ。年頃のいたいけな少女が実の父親によって改造人間にされたんだぞ。そんな記憶、彼女にとっても辛いものだろ?』

「改造人間……」

 そんな言葉はあくまでもマンガやアニメにしか存在しないと思っていた。だが、ひなたは間違いなく改造人間ということになるのだろう。

『……まあ、とにかくだ。そのお姫様はしばらく海斗が預かってくれよ。お姫様もお前のことが気に入っているみたいだしな』

「いや、でもさ……」

『そうそう、小比類彼方の「電子人製造計画」についてのデータも入手したら送ってやるから。お姫様を預かる身としてきちんと確認をしておいてくれ』

「そんなこと言われても……」

『じゃあ、俺は忙しいからそろそろ電話切るぞ。また何かあったら連絡してくれ』

「っておい、ちょっと待てよ兄貴!」

 プツン、と光矢を映していたモニターが消失した。

 海斗は一気に脱力して、目元を手で覆う。

「あの、クソ兄貴……!」

 海斗は脳裏に光矢のにやけ面を思い浮かべて、恨みがましい声を漏らす。

「ねえねえ、海斗」

 ひなたが肩を叩いて呼んだ。

「あぁ、何だよ?」

 海斗は不機嫌な声を発して振り向く。

「今の人って海斗のお兄さんなの?」

「それがどうしたよ?」

「すごいイケメンだったね。海斗と全然似ていない、あはは!」、

 先ほどと同じように爆笑するひなた。

「ちっ、うるせえよ。つーか、お前PCの中に戻れ」

「うーんとね……嫌だ」

 にこっと満面の笑みで言うひなたを見て、海斗はこめかみに青筋を立てた。

「良いから戻れよ、どちくしょうが」

「い・や・だ!」

 対するひなたも負けじと不敵な笑みを浮かべる。

 海斗の堪忍袋の緒が切れた。

「……上等だよ、この野郎」

海斗はゆらりと椅子から立ち上がる。こうなったら力づくだ。オタクでインドア派の海斗は当然ながら運動能力がそれほど高くない。しかし、こんな小さな少女相手には負ける気がしなかった。じりじりと、小首を傾げているひなたに近寄る。

 直後、海斗は床を強く踏み締めてひなたに飛びかかった。このまま飛び付いて押さえ込み、胸にあるあのボタンを押せば、この生意気な少女をPCの中へと封じ込めることが出来る。

 しかし、そんな海斗の思惑はあっさりと打ち砕かれる。

「ほっ」

 ひなたは軽やかな動きで海斗の突進をかわした。勢い余った海斗は危うくベッドに突っ込みそうになるが、寸でのところで堪えた。

「へへ、こっちだよー」

 また楽しそうに笑いながらひなたが言う。

「テメエ……」

 海斗は激しい苛立ちを感じて頬を引きつらせる。再びひなたに向かって飛びかかるが、またするりとかわされてしまう。

 その後も再三狭い部屋の中で追いかけっこをしたが、結局のところ海斗はひなたを捕まえることが出来なかった。

「くそ、ちょこまかと……」

 肩で大きく息をしながら、海斗は憎たらしいといった具合にひなたを睨む。

「えへへ、言ったでしょ? あたしって運動神経が良いから。海斗みたいな引きこもりのオタクになんて捕まらないよーだ」

 ひなたはあかんべーのポーズを取る。本人としては可愛らしいつもりでやっているのかもしれないが、その行為は海斗の怒りを煽るだけだった。

「……はあ、最悪だよ。可愛い二次元のAI美少女だと思っていたのに、まさかこんな暴れん坊な三次元のロリガキだったなんて。俺の一番嫌いなタイプじゃねえか」

 海斗はがっくりと肩を落とし、盛大にため息を漏らす。

「むっ、あたしガキじゃないもん。もう十五歳の高校一年生だもん」

「俺の一個下じゃねえか。じゃあ、ガキだなガキ」

 海斗が言うと、ひなたは頬を膨らませてこちらを睨んできた。その様子を見て、海斗はここぞとばかりに畳みかける。

「つーかそのロリ体型じゃ、一個どころか二個も三個も年下に見えるよ。下手したら小学生でも通用するんじゃないか?」

「むぅ~……」

 ひなたがさらに頬を膨らませて唸る。よし、もう一息だ。

「あーあ、もっと大人でセクシーなお姉さんだったら俺もテンションが上がるのに。こんなロリガキじゃあ、テンションだだ下がりだわー」

 ちらり、と小バカにするような視線を海斗が投げた時。

「もう怒ったぞぉ!」

 ひなたが叫び声を上げて海斗に向かって来る。そのまま勢い良く飛んでフライングアタックをした。

「ぐはっ!?」

 海斗は衝撃を受けて背中から床に倒れ込む。どしん、と大きな音が鳴った。それから海斗の上に跨ったひなたが、勝ち誇った笑みを浮かべる。

「どうだ参ったか? あたしのことをバカにするから痛い目を見るんだよ」

「かかったな」

 ふいに、海斗が微笑した。

「え?」

 直後、海斗は両腕でひなたの華奢な腰回りを掴み、ぐっと自分の方へと引き寄せる。それから両足を使ってその身体をがっちりとホールドした。

「ちょっと、何するの離してよ!?」

 ひなたは小さな手足をジタバタとさせて抵抗する。対する海斗はぐっと力を込めて何とか押さえ込む。海斗は狙いを定めるようにひなたの胸の辺りを見つめ、それから素早く右手を伸ばした。

「ここだ!」

 服の上からひなたの胸を押す。正確には、その胸にあるボタンを押した。カチッと音が鳴る。

 次の瞬間ひなたの身体が発光し、コードの羅列が浮かび上がる。

「おらぁ!」

 海斗は気合の声を上げて、ひなたをPCの方へと投げ飛ばした。

「うわぁ!」

 ひなたが悲鳴を上げる。

 直後、室内はしんと静まり返った。

 海斗は床から身体を起こして、ゆっくりとPCの画面を覗き込む。

「……イタタ」

 そこには、涙目で額を撫でているひなたがいた。

「大丈夫か?」

 少し乱暴が過ぎたかと思い海斗が問いかけると、

「大丈夫じゃないよ! 海斗の乱暴者!」

 ひなたはきっと目を尖らせて叫んだ。

「あー、悪かったな。けどまあ、助かったよ」

「何が?」

「お前の胸があまりにも小さい、というよりも無いに等しいから、すんなりボタンを押せたぜ。もしこれが巨乳のお姉さんだったらこうは行かないね」

 海斗は意地の悪い笑みを浮かべながらそう言った。

「この変態、スケベ、最低野郎!」

 ひなたが悔しそうな顔で思い切り叫ぶ。

「おいおい、そんなこと言って良いのかよ? お前は今この俺様のPCの中にいるんだぜ?」

 海斗が意味深な発言をすると、ひなたは眉をひそめた。

 すると、海斗はPCのキーを操作してとあるソフトウェアを立ち上げる。

「何をするつもり?」

 ひなたの問いかけを無視して、海斗はソフトの操作を続ける。

 数十秒後、海斗の指が止まる。

「よし、出来た」

 そう言って、海斗がほくそ笑んだ。カーソルによってひなたの両手を後ろに回させる。その後素早くキーを連打すると、ひなたの両手が縄で拘束された。

「えー、何これ!?」

 ひなたは驚いて目を丸くした。

「それは俺様のオリジナルソフトで作った物だよ。電子世界において、色々な物を作ることが出来るんだ」

「何であたしのことを縛ったの?」

「そうしておけばお前は胸のボタンを押せず、現実の世界に出て来られないだろう? つまり、俺様のPCの中に閉じ込めてやった訳だ」

「ど、どうして閉じ込めるの?」

「はあ? そんなの決まっているだろう? ……俺様の言うことを聞かないお前をたっぷり調教するためだよ」

 海斗は口の端を吊り上げてにやりと笑う。その目は怪しく輝いていた。

「ち、調教? 何それ、変態!」

「おいおい、そんなこと言って良いのかよ? 今この時に置いてどちらが優位に立っているか、賢いひなたちゃんなら分かるだろう?」

「うっ」

「さーてと、どうしてくれようかな。俺様のことを散々コケにしてくれたし、少しキツめのお仕置きでもしてやろうか」

 わざとらしく下卑た表情で海斗が言う。

「良いよな、お前もそれくらいの覚悟があって俺様のことをバカにしていたんだろ?」

 そう言って、海斗がゆっくりとひなたにカーソルを近付ける。

「ひっ! お願い、助けて……」

「おいおい、さっきまでの威勢はどこに行ったんだよ?」

 海斗はPC画面内のひなたを傲然と見下ろす。その間にも、じわりじわりとカーソルをひなたに近付けて行く。

「お願い、もう乱暴はしないで……」

 怯えるひなたの目にじんわりと涙が浮かび、目の端から雫がこぼれた。

 その表情を見た瞬間、海斗はカーソルの動きをぴたりと止める。

 しばらくの間じっとひなたのことを見つめ、少し罰の悪い顔になった。

「……ちっ」

 軽く舌打ちをして再びカーソルを動かす。ひなたの首根っこを掴んだ。

「きゃあっ!」

 ひなたが目をぎゅっと閉じて小さく悲鳴を上げる。

 直後、海斗はひなたを画面の隅に放り投げた。

「そこで大人しくしてろ」

 そう言ってキーを押し、ひなたを縛っていた縄を解いてやる。

 ひなたはきょとんとして、海斗を見つめた。

「どうして助けてくれたの?」

「うるせえ、黙ってろ」

 海斗は不機嫌に声を発して、素早く指を動かしてキーボードを叩いている。

 それから十分くらい経って、海斗の指が止まった。

「終わったの?」

 恐る恐る尋ねてくるひなたを無視して、海斗はマウスを握ってカーソルを動かす。先ほどと同じようにひなたの首根っこを掴んだ。

「え、何なに?」

 不安げな様子で声を漏らした直後、ひなたはとある空間へと放り投げられた。軽く尻もちをついてしまう。

「もう、いきなり何をするの!」

 ひなたは立ち上がって文句を言った直後、ふと周りの光景を見渡した。彼女がいるのは可愛らしい女の子の部屋であった。

「何これ……?」

 目を丸くしてひなたが驚きの声を漏らす。

「見りゃ分かんだろ。お前の部屋だよ」

 海斗が言う。

「あたしの部屋?」

「そうだ。いくら電子体って言っても、お前は元々人間なんだろ? だったら、そんな風に部屋があった方が良いんじゃないかと思ったんだ。その部屋は俺のマイサーバーに保存しておくから、PCの電源を消してもそっちで活動出来る。PCとマイサーバーの両方の電源を付けっぱなしにしておくと電気代がかさむからな」

「海斗……」

 ひなたが潤んだ瞳で海斗を見つめる。

「か、勘違いすんなよ。お前が俺の部屋で好き勝手に暴れ回るから、仕方なく作ってやったんだ。感謝しろよな」

 海斗がぶっきらぼうな調子で言うと、ひなたは先ほどとは打って変わって明るい笑みを浮かべ、胸に手をやった。彼女の身体が発光する。

「海斗ぉ!」

 次の瞬間、現実世界へと飛び出して来たひなたが海斗に抱き付いた。

「うおっ、何しやがる!」

「海斗、ありがとね!」

 ひなたは小さな身体でぎゅっと海斗を抱き締めて言う。

「う、うるせえな。さっさと離れてPCの中に戻りやがれ!」

「嫌だ、もう少しこうしている!」

「だあ、もういい加減にしろ!」

 しばらくの間、途方もない言い争いが続いた。




 夜もすっかり更けた頃。いつものようにギャルゲーをプレイしていた海斗の下に、兄の光矢から一通のメールが届いた。

「おぉ、ガチガチのプロテクトがかけられてんな」

 そう言いつつ、海斗は涼しい顔でそのメールに施されたプロテクトを解いて行く。そこには例の『電子人製造計画』について詳細が記されていた。



 電子人を製造するプロセスは主に三つある。


 一.〈高密度照射マシン〉で強く特殊な光エネルギーと電磁波により人体を解析する。その際に、人体の一部を電子データ化することで〈電子体質〉を造り上げる。また、〈電子ギア〉にも人体の解析データを送る。


 二.〈電子体質〉を獲得したところで、その体内に〈電子ギア〉を埋め込む。


 三.〈電子ギア〉を起動させて、人体を電子データ化して電子世界に侵入出来たら成功である。


 製造プロセスはさほど多くはないがその途中で人体が耐え切れずに破壊、あるいは消滅してしまう場合がほとんどである。



 他にも色々と細かいことは書いてあるが、要するに電子人は身体の一部がデータ化されており、それを体内に埋め込まれた〈電子ギア〉のオン・オフによってコントロールすることにより、二次元と三次元を行き来することが可能なのだと言う。

なぜ、わざわざ電子人なるものを造ろうと思ったのか。海斗は何となく察しがついていた。

「高い学習能力か……」

 近年では、科学技術の発展によりAIの性能も随分と向上している。人間と同じようにしっかりとした学習能力を持つAIも開発されていた。だが、やはり本物の人間には及ばない。一から十まで教えるように、AIの場合は色々とプログラムを施してやらなければならないが、人間は自ら学ぶことが出来る。まさに一を知って十を知る。また、プログラムにはない柔軟性と臨機応変な対応力も強みだ。もし電子人が大量に造られた場合、電子世界に革新をもたらすかもしれない。ただまあ、その電子人となる人間の資質にもよるが。

 しかしこの計画を行っていた小比類彼方は、『ネオ・カタルシス』というテロ組織と手を組んでいた。つまりはテロ行為に使うために電子人を製造しようとしたのだ。二次元と三次元を行き来可能ということは、世界中に広がったインターネットを経由してあらゆる場所に潜入することも難しくない。強力なハッカーの後ろ盾があれば尚更だ。

 海斗は一旦メール画面を閉じて、マイサーバーにある『ひなたの部屋』をPCの画面上に呼び出す。

 海斗が作った女の子らしい部屋(その知識は主にギャルゲーで得た)のベッドで、ひなたはすやすやと寝息を立てていた。

 正直なところこの少しやかましい少女は、しかしかなりの美少女なのだ。三次元が嫌いな海斗もそれは認めている。こんな可愛い娘を実験台にするとは、天才と呼ばれる科学者の神経を疑う。ひなたもさぞかし傷ついたことだろう。身も心も。そう考えると光矢の言った通り、ひなたの父に関する記憶が消えていたことは好都合であったと思う。

 海斗はおもむろにマウスを持ってカーソルをひなたの頬に持って行く。クリックして突いてみた。

「……ん、やぁ」

 ひなたが小さく喘ぐような声を漏らして身じろぎをする。

 うーん、やはりエロいな。起きている時はやかましいだけでさほど色気はないロリガキだが、寝ている時はなかなかどうして色気がある。

「こいつ、このままずっと二次元にいてくんないかなー」

 そんな風に気持ち悪い自分の欲望を呟いてから、海斗はギャルゲーのプレイを再開した。




 まどろみの中で、海斗は頬をぷにぷにされていた。

「えいっ、えいっ」

 やめてくれ、と海斗は寝返りを打って回避する。今起きたところでまた辛辣なる妹と遭遇してその罵詈雑言によって心を打ち砕かれてしまう。そうならないためにも今はこうして時間ギリギリまでベッドで寝ていたいのだ。

「えいっ、えいっ」

 しかし、頬をぷにぷにする攻撃は止まらない。海斗が何度寝返りを打ってもしつこく攻めて来る。

「……だーっ、もういい加減にしろ!」

 とうとう我慢ならなくなった海斗はベッドから飛び起きた。

「あ、海斗おはよう」

 そこには朝から満面の笑みを浮かべるひなたがいた。

「は? お前何で外に出て来てんだよ? マイサーバーにある部屋にいたはずだろ?」

「うん、そうなんだけどね。早く起きて暇だったからPCの電源入れて出て来ちゃったの」

 ひなたに言われてPCに目をやった。寝る前にきちんと電源を落としたはずが、なぜか起動した状態になっている。

「お前、どうやって……」

「えへん、ひなたちゃんは賢いからこんなことすぐに覚えちゃったのです」

 小さな胸を張ってひなたは言った。海斗は苛立ちを覚える。

「つーか、お前よくも寝ている俺の頬を突いてくれたな」

 眉間にしわを寄せて海斗が言う。しかし、ひなたは笑みを崩さない。

「だって海斗も昨日、眠っているあたしの頬を突いたでしょ?」

 ギクリ、と海斗は顔を引きつらせる。

「何で知ってるんだ?」

「ん、その時に起きていたから。けど眠ったふりしていたんだよ」

「お、お前、卑怯だぞ!」

「卑怯なのは海斗だよ。眠っている乙女にいたずらをしてニヤニヤするなんて。正直に言って気持ちが悪いよ」

「いや、まあ……」

 明らかな正論をぶつけられて、海斗は言葉に詰まってしまう。

「最低だよ、変態だよ、痴漢野郎だよ」

「頼む、もうやめてくれ」

 海斗は悲痛な呻き声を漏らして懇願する。

「海斗ってメンタル弱いね」

「ああ、そうだよ。俺はしょせん豆腐メンタルだからな。優しい言葉をかけてもらわないとすぐに壊れちまうんだ」

 海斗が情けない声で言うと、ひなたは少し考える素振りを取った。

「う~ん……あっ、海斗大好き、ちゅっちゅっ!」

「なめてんのか」

 冷めた顔で海斗は言う。

「えー、何でぇ? せっかく海斗のこと大好きって言ってあげたのに~」

 ひなたは不満げに口の先を尖らせる。

「だから言っただろ? 俺は三次元の女が大嫌いなんだよ。俺をときめかせたいんなら二次元になって出直して来い」

 腕組みをしながら横柄に海斗が言うと、ひなたは少し間を置く。

「……分かったよ」

 口の先を尖らせながら言ってPCの前に立つ。電子ギアをオンにしてその中に入った。

「え~と……海斗大好き、ちゅっちゅっ!」

「うおおぉ可愛いな、おい!」

 海斗のテンションが急上昇した。ベッドから飛び降りて、食い入るようにPCの画面を覗き込む。

「な、なあ、頼むよ。もう一回言ってくれないか?」

 海斗は必死の形相になって懇願する。若干息が荒くなってしまう。ハア、ハア。

 対するひなたは、少し身を引いてからそっぽを向いた。

「嫌だ」

「えー、何でだよ。良いじゃん、もう一回言ってよー」

「い・や・だ。だって、今の海斗って物凄く気持ちが悪いもん」

 ツンと顎を反らせてひなたは不機嫌そうに言った。

「ガーン! 二次元美少女にそんなことを言われるなんて……」

 海斗はその場でがっくりとうなだれた。椅子に腰を沈めて放心状態になる。

「ちょっ、海斗?」

 すると、ひなたが困惑した様子で海斗を見つめた。

「俺はもうダメだ。二次元の美少女にさえ愛されないようじゃ、俺なんてもうこの世界に居場所が無いんだ。今日はもう学校を休もう……」

「うわー、本当にメンタル弱いなぁ」

 ひなたが半ば呆れたように声を漏らす。

「もう、仕方がないな……海斗は気持ち悪くなんかない、かっこいいよ!」

「……本当に?」

「うん、本当だよ。だから元気出して!」

 ひなたが飛び跳ねながらエールを送ると、それまで精気を失っていた海斗の目に光が宿った。

「おっしゃ、元気出たぞ!」

 海斗は椅子から勢いよく立ち上がり、ガッツポーズをする。

 それから海斗は俊敏な動きで制服に着替えた。

「サンキュー、ひなた愛しているぜ!」

 そう言い残して、颯爽と部屋から出て行った。

「……バカ」

 去り際にひなたが発したその言葉は、海斗に耳に届かなかった。




 今朝の自分はどうかしていた。

 教室で朝のHRを受けている間、海斗は自分の机に突っ伏していた。

 PCに入った二次元状態のひなたに辛辣な言葉をぶつけられてへこんだが、そもそも彼女は三次元の女なのだ。そんな奴に悪口を言われても、愛する二次元美少女に裏切られたという大ダメージを受ける必要はない。まあ、それでも悪口はへこむけど。

 そうこう思い悩んでいる内に朝のHRは終了した。今日は一限目から体育なのでひどく憂鬱な気分だ。わざわざ更衣室に移動して着替えなければならない。体育なんて科目はこの世から消滅すれば良い。リア充共々、滅びてしまえば良い。海斗の内で黒々とした怨念が湧き起こる。

「はあ……」

 妙にやるせない気持ちになり、海斗はため息を吐きながら椅子から立ち上がる。

「おい、神崎」

 すると、担任の田中が海斗のことを呼んだ。

「はい、何ですか?」

「ちょっと、こっちに来てくれ」

 手招きする田中の下に、海斗は首を傾げながら向かう。

「昨日カウンセラーのことを話しただろう?」 

「ええ、まあ」

「何か急遽予定が早まって今日赴任したらしいから、放課後に早速カウンセリングを受けて来いよ。一階の『相談室』ってところでやっているから」

 にこにこと笑いながら田中が言う。

「あー……分かりました、行ってみます」

 海斗はにこりと微笑んで素直に頷いた。

「そうか、そうか」

 そんな海斗の様子を見て、田中は満足げな笑みを浮かべていた。




 放課後、海斗は自宅に直行した。

自分の部屋に入ると即座にPCを起動して『姉パラ』のプレイを開始する。

「あ、海斗お帰り!」

ゲーム画面の背後からひょっこり顔を覗かせたのはひなただ。

「おう」

「何しているの?」

「見りゃ分かるだろ、ギャルゲーやってんだよ」

 海斗は視線をギャルゲーに向けたままそう言った。

「ふーん。ねえ、それよりもあたしと一緒に遊ぼうよ」

 ひなたが無邪気な笑みを浮かべて誘って来る。

「うるせえ、黙っていろ。今良いところなんだよ」

 今現在、ギャルゲーの中では海斗と名付けた主人公が愛しの美里と自宅のリビングでイチャついているところだった。

「うへへ、やっぱり美里姉さんは最高だな」

 海斗が頬を緩めて言う。

「何か海斗、すごく気持ち悪いよ」

「うるせえよ、バカ。そんなのどうだって良いんだ」

 やはり美里は素晴らしい。彼女と触れ合っている時、海斗はどのような罵詈雑言にも耐えることが出来る。女神の加護を受けて無敵のバリアーを展開することが出来る。これぞ愛の為せる技だろう。

「むぅ~……」

 そんな海斗の様子を見て面白くないのか、ひなたは頬を膨らませて彼のことを睨む。

「おっ、よっしゃ。このままの流れでキスだぁ!」

 ソファに並んで座った海斗と美里が互いに見つめ合った時、海斗のテンションが急上昇する。

 そして、二人の唇が重なり合う瞬間――

「てやっ!」

 小気味良いかけ声と共にひなたが蹴りを繰り出す。それがギャルゲーの画面を思い切り場外へと吹っ飛ばした。

「はああああぁ!?」

 海斗は両目を大きく見開いて絶叫する。

「お、お前! 何しやがるんだ!?」

「だって、海斗がゲームにばっかり集中してあたしのことを全然構ってくれないんだもん」

 拗ねた様子のひなたを一瞬鋭く睨み、海斗は慌てて吹っ飛ばされたギャルゲーの画面を元に戻す。

〈……えへへ、海斗君とキスしちゃった〉

 そこには、真っ赤に頬を染める美里の顔が映っていた。

「ノオオオオォ! 肝心のキスシーンが終わっちまったぁ!」

 海斗は両手で頭を抱えて大絶叫をする。その悲痛な叫びはあのムンクさえも超えるくらい凄まじい。

「……よくも」

 海斗はゆらりと肩を揺すり、血走った眼でひなたを見据える。

「やってくれたなこんちくしょおおおおぉ!」

 海斗はカーソルでひなたをがっちりと掴み、ぐるんぐるんと勢い良く振り回す。一切の手加減は無しだ。

「わあああああぁ!」

 ひなたはまるで絶叫マシンにでも乗っているような悲鳴を上げる。それくらい、海斗の振り回す力が凄まじいのだ。

「おらおらおらおらおらああああぁ!」

「きゃああああぁ!」

 海斗はそのままの勢いで、ひなたを思い切り投げ飛ばした。

 びゅうんっ、と風を切るような音を立ててひなたはPC画面の場外に吹っ飛ばされた。

 遠くの方でダン! と強く叩きつけられた音が響く。

「……うぅ、痛いよぉ」

 やがて、画面の隅からよろよろとひなたが歩いて来た。

「ふん、俺様の至福の時を邪魔した罰だ」

「うぅ~……」

「ったく、田中からは二次元好きを治すためにカウンセリングを受けろとか言われるし、本当にロクなことがねえな」

 海斗は深々と椅子に背中を預けて、ついつい愚痴をこぼしてしまう。

「田中って担任の先生だっけ?」

「そうだよ。俺が二次元を愛し三次元を嫌っていることを心配して、カウンセリングを受けろとか言われてんだ。全く、迷惑な話だぜ」

「海斗はそんなにカウンセリングを受けたくないの?」

「当たり前だろ。そのカウンセラーっていうのが女らしいんだが、そんな理由で相談したら絶対表面的には笑顔で接していても内心で『ぷっ、こいつマジでキモイんだけど』とか思ってんだよ、絶対」

「海斗って、すごいひねくれているね」

 ひなたが顔をしかめて言う。

「はっ、ひねくれ上等だよ。純真ですぐに騙されるバカより遥かにマシだ。とにかく、俺は二次元ラブのままで全然問題ない。だから、クソみたいな三次元女のカウンセリングなんて絶対に受けるつもりはない」

 海斗はきっぱりと言い切った。いっそ清々しいくらいの現実拒絶主義宣言である。

「ふーん……じゃあ、あたしで克服してみる?」

「は?」

 次の瞬間、ひなたの身体が発光した。突然の眩しさに海斗はPCの画面から顔を逸らす。

直後、膝の上に柔らかい感触が走った。気が付くと、ひなたが海斗の膝に跨っていた。

「うおっ!」

いきなりひなたが目の前に現れたので、海斗は思わずのけぞってしまう。

「あはは、海斗が驚いた」

ひなたは無邪気に笑う。

「お、お前、どど、どういうつもりだよ?」

「今言った通りだよ。あたしが海斗の三次元嫌いを直して上げようと思ったの。ほら、あたしって二次元でもあり三次元でもあるでしょ。そんなあたしと少しずつ慣らして行けば、三次元の女の子とも普通に接することが出来るようになるよ」

「い、言わんとすることは分かるが……つーか、邪魔だからどけよ!」

「ダメ。逃げてばかりじゃいつまで経っても解決しないよ」

そう言って、ひなたは自分の身体を海斗に預けた。正直ひなたの身体は起伏に乏しい。グラマーなお姉さん好きの海斗にとっては全く興奮しないはずなのに。こんな風に間近に迫られたら、さすがにドギマギしてしまう。

「ねえ、海斗。今どんな気持ち?」

 ひなたが耳元で囁く。彼女の柔らかな吐息が耳たぶに触れてくすぐったい。

「は、はん! 最悪だな! 三次元の、しかもロリガキになんか抱き付かれても全然興奮なんかしねえよ」

「むっ、そんなこと言っちゃうんだ……」

 ひなたは眉をひそめて言う。

「じゃあ、これならどう?」

 ふいに、ひなたが真正面から海斗のことを見つめてきた。彼女の小さくて白い顔がほのかに朱色に染まっていて、海斗はついつい見惚れてしまう。

「な、何を……」

 するつもりだと言いかけた時、ひなたが目を閉じて海斗に顔を寄せてくる。

彼女の薄い唇が、ゆっくりと海斗のそれに迫って――

 ピンポーン、と高い音が鳴った。玄関のチャイムの音だ。

 海斗とひなたは互いの唇が重なる寸前で静止していた。

「うわっ」

 海斗は思わずひなたを突き飛ばし、椅子から勢い良く立ち上がる。

「あーあ、もう少しだったのにね。残念」

 ひなたは小さく舌を出しておどけて見せる。

「バ、バカなこと言ってんじゃねえよ!」

「そんなことよりも良いの? 誰かお客さんが来ているみたいだけど?」

 ああ、そうだ。この時間は海斗しか家にいない。

 軽く舌打ちをしてから海斗は部屋を出て、階段を下りて玄関へと向かう。

「はいはい、どちらさんですか……」

 半ば投げやりな口調でドアを開けた時。

「――こんにちは、突然お訪ねして申し訳ありません」

 そこには一人の女性が立っていた。恐らく二十代前半くらいの、きれいなお姉さんだ。

 海斗は彼女を見た瞬間、大きく目を見開いたまま硬直する。

「美里姉さん……?」

 似ていたからだ。彼女が海斗の大好きな東雲美里に。そっくりだったのだ。


      3




 海斗は頭が真っ白になっていた。目の前に立っている女性に虚ろな視線を向けたまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。

「あの……もしかして神崎海斗君ですか?」

 その女性がどこか不安げな様子で尋ねてきた。

「……え、あ、はい。俺が神崎海斗です」

「あ、良かった。もしお家を間違えていたらどうしようかと思った」

 女性はほっと胸を撫で下ろしてから、改めてぽかんとしている海斗を見つめた。

「突然ごめんなさい、私は本日より浅川高校のカウンセラーを務めることになりました、良木美鈴(よしき みすず)と言います」

「カウンセラー……」

「田中先生から神崎海斗君をよろしくお願いしますと頼まれたので、『相談室』でずっと待っていたんです。でも、中々来ないので気になって自宅まで押しかけてしまいました」

「あ、そうなんですか……」

「ごめんなさい。図々しいですよね、こんな真似をして」

 美鈴が申し訳なさそうに謝る。

「い、いやそんなことないですよ。俺の方こそ、何かごめんなさい……」

「ううん、神崎君は悪くないの。ただ悩んでいることがあるなら、私に相談をして欲しいと思って」

 そう言う美鈴の瞳には、切実な思いが込められているような気がした。海斗はまともに目線を合わせることが出来ない。

「……わ、分かりました。今度相談に行きます」

「本当に? 良かった」

 美鈴がにこりと柔らかな笑みを浮かべた。海斗の心臓が高鳴る。

「じゃあ、明日の放課後に『相談室』で待っているね」

「あ、はい。分かりました」

 ぎこちない返事をする海斗にふっと微笑んで、美鈴はその場から去って行った。

 海斗は彼女の後ろ姿を、見えなくなるまでずっと見つめていた。




 その夜、海斗はなかなか眠ることが出来ずにいた。

 夕方頃、突然訪れたカウンセラーの良木美鈴と名乗る女性は驚くほど憧れの美里に似ていた。

 清楚で上品な顔立ち、ふんわりと柔らかい栗色のロングヘア、それでいて身体付きはグラマーなところも。本当によく似ていた。その上、名前まで似ている。

「……いやいや、でも所詮は三次元の女だから」

 海斗は自分に言い聞かせる。どんなに愛しの美里に似ていたとしても、彼女は三次元の女なのだ。忌むべき存在なのだ。

 ――待っているね。

 ふと、彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。海斗は胸がどきりと高鳴るのを感じた。ベッドの上で悶えてしまう。

「どうしたの、海斗?」

 いきなり頭上で声がした。

「うおっ!」

 ハッとして視線を向けると、いつの間にか三次元モードになったひなたがベッドの脇に立っていた。

「お前いきなり出て来るなよ! びっくりするだろうが!」

 海斗は先ほどとは別の意味で心臓がドキドキしていた。

「あのね、海斗にお願いがあるの」

 海斗の訴えを見事にスルーしてひなたが言う。

「お願い?」

「うん。あたし、お風呂に入りたいの」

「は?」

「お・ふ・ろ、に入りたいの!」

「えーでも、お前の部屋に一応風呂を作ってやっただろ?」

「でもあたしは現実のお風呂に入りたいの!」

 ひなたはぷりぷりとしながら言う。しかしよく考えてみると、ひなたは数日間まともに風呂に入っていないことになる。仮にも女の子としてそれは耐え難いことだろう。

「……分かったよ。あー、でも着替えが無いんだよな」

「海斗の妹に借りることは出来ないの?」

「何て言って借りれば良いんだよ。確実に『キモい、死ね』って言われるのが目に見えている」

「えー、じゃあお風呂入れないじゃん!」

 ひなたが頬を膨らませて不機嫌アピールをする。その様子を見て海斗は肩をすくめた。

「仕方ねえな。コンビニで買って来てやるよ」

「え、本当に?」

 すると、ひなたの表情が一転して明るくなった。

「ああ。その代わり、ここで大人しくしてろよ」

「うん、分かった!」

 海斗はジャンパーを羽織って、財布をズボンの尻ポケットに入れて部屋を後にした。

 初夏とは言え、夜風は少し冷たい。海斗はズボンのポケットに両手を突っ込み、いつも利用しているコンビニへと歩みを進める。

「いらっしゃいませー」

 海斗はコンビニに入ると、普段は決して行くことのない女性用品のコーナーへと赴く。

 そこには下着が置かれていた。最近のコンビニは本当に何でも置いてあり非常に便利である。

(つーか、ブラジャーとパンツの両方を買うのはさすがに恥ずかしいな。あー、でもあいつ胸はまな板だからブラジャーはいらないな。そうするとパンツだけで済むから俺のダメージも半減する、と。よし……!)

 そんなことを考えてから、海斗はおもむろに女性用のパンツを手に取った。

「あれ、海斗じゃん?」

 ふいに背後から声をかけられ、海斗はびくっと肩を震わせる。

 恐る恐る振り返ると、そこに立っているのは健吾だった。

「おま……何でここにいんだよ?」

 海斗は動揺して声が裏返りそうになる。

「え? いやー、夜中にちょっと小腹が空いてさ。そういう海斗こそ、何でコンビニにいるんだ?」

「俺は、その……」

 海斗は手に持った女物の下着を必死で背後に隠している。

「ん、何で女物の下着なんて持ってんだ?」

 しかし、健吾はあっさりと気が付いた。海斗は全身からどっと冷や汗が噴き出す。

「いや、これはその……そう、樹里に頼まれたんだよ!」

「え、でも海斗って樹里ちゃんにメチャクチャ嫌われてんじゃん」

 鋭い指摘を受けて、海斗は思わずうっと唸ってしまう。

「あー、いや、これは、えーと……」

 すっかりテンパってしまった海斗を見て、健吾が目を見開いた。

「まさか、お前自分の部屋に女を連れ込んでいるのか?」

「はっ?」

 まあ、確かに部屋に女はいるけど。そういうんじゃない。

「何だよ、海斗。やっぱりやることやってんじゃん」

 にやにやしながら、健吾が肘で海斗の脇を小突く。

「いやいや、違うから。あのー、これはその……一度で良いから頭に女のパンツを被ってみたいと思ったんだ!」

 もう訳が分からなくなった海斗はつい突拍子もないことを言ってしまう。そして、それは全く言い訳になっていない。というか、自分の株を大暴落させるような失言である。まあ、元々そんなに高い株ではないけれども。

 健吾は唖然として海斗を見つめていた。

「……さすがだな、海斗。お前が実はすごい変態嗜好を持っていることは俺も常々感じていたよ」

 健吾は腕組みをしながらうんうんと頷く。

「いや、あのな健吾……」

「みなまで言うな。俺は分かっている、何たって海斗の親友だからな。例えお前がどんなに変態的嗜好を持っていようとも、俺達の友情は変わらんさ」

「頼むからもう黙ってくれ」

 幸い深夜なので客は自分達以外にはいないが、海斗は顔から火が噴き出しそうだった。

 その後、海斗は非常に気まずい思いをしながらレジで女物のパンティーを買い、終始にやついていた健吾と別れて早歩きで自宅に戻った。

「お帰り!」

 部屋に戻ると、ご機嫌な様子でひなたが迎えてくれた。

「着替えの下着買って来てくれた?」

「ああ、買って来たよ。死ぬほど恥ずかしい思いをしてな」

「わあ、ありがとうー」

 海斗の憎悪に満ちた皮肉を華麗にスルーして、ひなたは下着が入った袋を受け取る。

「……あれ、ブラジャーが無いよ?」

 ひなたが首を傾げて言う。

「あー、お前は所詮まな板だから必要ないと思って買わなかったんだよ」

 という言葉を海斗はごくりと飲み込んだ。もしそんなことを言えば、またひなたがギャーギャーと騒いで面倒くさいことになる。

「あー……ブラジャーは売り切れていたんだよ」

 だから無難にそう言っておくことにした。

「そうなの? だったら仕方ないなー」

 ひなたは口の先を尖らせながらも、素直に受け入れた。単純な奴め。

「じゃあ、お風呂行こう!」

「ん。けどさ、お前本当に静かにしろよ? もうみんな寝ているけど、万が一起きて来られたら面倒だからな」

「もちろんだよ!」

 だから、さっきから声がでかいんだって。本当に分かってんのかよ、こいつ。

 海斗は小さく吐息を漏らして、ゆっくりと部屋のドアを開けた。ひなたを連れて慎重な足取りで階段を下り、脱衣所へと向かう。

「おい。俺のTシャツとズボンを貸してやるから、今日のところはこれで我慢しろ」

「あーあ、もっと女の子っぽい格好が良かったなー」

「文句言うな。それに、お前は元々ラフな格好だったじゃねえか」

「あ、それもそうだね」

 笑いながらひなたが着替えを始めたので、海斗は脱衣所の外に出た。

「はあ、疲れるわ……」

 海斗は脱衣所の扉にもたれかかり、盛大にため息を漏らす。

 家の中はしんと静まり返っていた。夜も遅いし誰も起きて来ないとは思うが、もし誰か起きて来たらどうしよう。海斗は内心で不安を抱いていた。

 ギシリ、と音がした。

 海斗はびくっと肩を震わせる。

「ふわぁ……」

 小さく欠伸を漏らしながら階段を下りて来たのは、妹の樹里だ。

「……ん?」

 薄暗い廊下で、海斗と樹里の視線がぶつかった。

 樹里は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに嫌悪の表情を浮かべる。

「は? あんたそこで何してんの?」

 海斗は小さく息を詰めてから、何とか声を発する。

「いや、まあちょっと……お前こそ何しに来たんだよ?」

「あたしはお風呂場にちょっと忘れ物をしちゃったから取りに来たのよ」

 そう言って、樹里はスタスタと脱衣所の方へと歩み寄って来た。

「ちょっと、そこどいてくんない?」

 脱衣所の入り口に立ったままの海斗に、樹里が刺すような目線を向けて言った。

 まずい。このまま樹里を通してしまえば、確実にひなたの存在がバレてしまう。海斗は頭をフル回転させて、何とか打開策を捻り出そうと試みる。

「ねえ、聞いている? マジでどいて欲しいんだけど」

 樹里が強引に海斗を押しのけようとする。

「――ちょっと待て!」

 海斗は叫んで樹里の腕を掴んだ。彼女はぎょっと目を剥く。

「はっ? 何で触ってんのよ、気色悪いわね!」

 樹里は露骨に嫌そうな顔付きになる。

「いや、あの……今風呂場は除菌中なんだ! あと十五分くらいは置いてないとダメだから、風呂場には入らないでくれ」

「はあ? 何であんたが風呂場の除菌なんてやってんのよ? しかも何でこんな時間に?」

 ごもっともな指摘を受けて、海斗は言葉に詰まってしまう。

「そ、それは……深夜にギャルゲーやってテンション上がっちまったから、心を落ち着けるために風呂場の除菌をやっていたんだよ!」

 我ながら何て無理のある言い訳をしているんだろうと、海斗は心の中で嘆いた。

「……うわー、マジで意味分かんないんだけどあんた。マジでキモいんだけど。風呂場よりもあんたを除菌した方が良いんじゃないの?」

 グサリ、と妹の辛辣な言葉が胸に突き刺さる。彼女は海斗をけなすことに関しては、誰よりも優れているのかもしれない。全く、どんだけ嫌われてんだ。うっかり死にたくなってしまう。

「あー、何かもう気持ち悪くて仕方がないわー」

 吐き捨てるように言い残して、樹里は二階の部屋へと戻って行く。

 その直後、脱衣場のドアが開いてひなたが出て来た。

「ふぅ、気持良かった~……あれ、海斗どうしたの? 何か疲れた顔してるね?」

 ひなたが不思議そうな顔を浮かべて言った。

「何でもねえよ……」

 海斗の投げやりな口調に対しても、ひなたは「そっか」と笑顔で答える。

「ねえねえ、この元々あたしが着ていた服とか下着を洗濯したいんだけど」

「あー、今度時間ある時にコインランドリーで洗ってやるから我慢しろ。うちの洗濯機を使うとさすがに母さんがおかしいって気付くからな」

 そんな会話をしつつ部屋に戻ると、海斗はほっと胸を撫で下ろす。ようやく、自分の領域(テリトリー)で激しく疲弊した心を休めることが出来るのだ。やっぱり自分の部屋は最高だぜ。

「何かもう疲れたから寝るわ」

 本当なら深夜のギャルゲータイムに突入するところであるが、さすがに色々とダメージを受け過ぎた。もうライフポイントは限りなくゼロに近い。

「あたしも寝ようっと」

 そう言って、ひなたは海斗のベッドに寝転がった。

「おい、何してやがるんだ?」

「え、何って寝ようとしているんだけど?」

「そこは俺のベッド。お前のベッドはあのPCの中にあるだろ」

「えー、良いじゃん。せっかくだから一緒のベッドで寝ようよ~」

 駄々をこねるひなたに対して、海斗は無性に苛立っていた。すでに疲労困憊であったが、最後の力を振り絞ってひなたをベッドから引きずり下ろしてPCの前に立たせた。

「ほら、さっさとこの中に入って大人しく寝ろ」

「むぅ~、海斗のいけず」

 不満声を漏らしながら、ひなたはTシャツの襟元から手を突っ込んで胸のボタンを押した。身体が発光し、PCの中へと飛び込む。

 ――そこで、ひなたは生まれたままの姿になっていた。

「はっ?」

「えっ?」

 海斗とひなたは同時に声を発する。お互いに、現状を把握するのに少し手間取ってしまう。

「……って、何でお前裸になってんだよ!?」

「し、知らないよぉ! あぁ、もう見ないで海斗のエッチ、スケベ、変態野郎ぉ!」

「はあ? 誰がお前みたいなロリガキのつるぺたボディで……ってあれ、何か鼻血が出ている」

「やっぱり変態じゃない!」

「違う、これは興奮した訳じゃなくて突然のことに動揺してだな……」

 ふと、海斗は自分の足元に目をやる。そこには先ほど風呂上がりにひなたが着ていた衣服が落ちていた。

「……もしかしたら、この衣服は電子世界に受け入れられないんじゃないか?」

「どういうこと?」

「お前が『電子人製造計画』による実験を受けた時……って言っても覚えていないだろうが。〈高密度照射マシン〉によって〈電子体質〉になることで、〈電子ギア〉の力を受けて二次元と三次元を行ったり来たりすることが可能になる。つまり、その時にお前が着ていた衣服は〈電子体質〉になっているから二次元でも三次元でも着ることが出来た。けど、さっき着替えた衣服はそんな処理はされていないから、二次元で着ることが出来ないんだ。あくまでも俺の推測だけど……」

 海斗が言うと、ひなたは動揺した顔付きになる。

「えー、そんなの嫌だ! 何とかしてよ、海斗!」

「いや、そんなこと言われてもな……」

 弱った海斗は後頭部を掻く。その時、ひなたの瞳が潤んでいるのを見て思わず胸が痛んだ。

「……あー、分かったよ。兄貴に相談してみるから、それまでは初めに着ていた服だけで我慢しろ」

「ちぇー、分かったよ」

 しょんぼりしながらも、ひなたは素直に頷いた。




「……とまあ、そういう訳なんだよ」

 翌朝、海斗は秘匿のIP電話を使って兄の光矢と話していた。

『なるほど。それは役得だったな』

「おい」

『冗談、それは不便だなー』

 昨晩発覚した事実を海斗が伝えると、光矢は腕組みをして頷いた。

「まあ、二次元で着る服なら俺のソフトで作ることも出来るけど……二次元と三次元の両方で着られる服はさすがに作れないからどうしたもんかと思って」

『ずっとPCの中にいさせれば良いんじゃないか?』

「いや、あいつ勝手にPCから出たり入ったりするから。仮にも女だし、ずっと同じ服を着させとくのも不憫だと思ってさ」

 海斗が言うと、光矢は口元で笑みを浮かべた。

『へえ、何だかんだで優しいじゃん。それなりに上手くやっているみたいだし。やっぱり海斗にひなたちゃんを預けて正解だったよ』

「人の気苦労も知らないで勝手なこと言ってんじゃねえよ」

 ため息交じりに海斗は言う。

『まあまあ、そう言うなって。ところで、ひなたちゃんが着る服に関してだけどな。〈高密度照射マシン〉を使って服を〈電子体質〉、というか〈電子物質〉に変えてしまえば、二次元でも三次元でも着ることが出来ると思うぞ』

「え、でもそれって使えんのかよ?」

『小比類彼方の実験に使われた機器は警察が管理しているということになっているが、実質その道の科学者達があれこれ分析しているみたいなんだ。俺のコネを使って何とか頼んでみるよ』

「頼りになるな、兄貴は。さすが〈シャドウリーダー〉だよ」

 海斗は、あえて光矢がかつて名乗っていたハッカーネームで呼んだ。光矢はハッキングの技術ももちろん優れていたが、特にウイルス作成の名手であった。その実力を買われて情報機関ネクサスで働くことになったのだが。

『おいおい、勘弁してくれよ。今の俺は真っ当に更生した社会人だぜ?』

「だったら、俺のことを〈テラファング〉って呼ぶのもやめろよ」

 つまりはお互い様である。

『お前はまだ若くて悪戯盛りのハッカーなんだから良いだろ?』

「けど、最近はそんなにハッカーとして活動なんてしていないぜ? 専らギャルゲーをプレイするので忙しいし」

『充実しているなぁ~……と言いたいところだが。二次元好きはいい加減直せよ』

「うるせ。まあ、でも今日カウンセリングを受けるんだけどな」

 海斗の言葉を受けて、光矢が目を丸くした。

『あれ、前にカウンセリング受けるのは嫌だって言っていなかったっけ? 何か心境の変化でもあったのか?』

 光矢に問われた瞬間、海斗の脳裏に柔らかな微笑みを浮かべる美鈴の顔が浮かんだ。

「べ、別に何でも良いだろ」

 ぶっきらぼうに言う海斗に対して、光矢は含み笑いを浮かべる。

『まあ良いけどさ。兄としては、可愛い弟に真っ当な道を歩いて欲しい訳よ』

「別に二次元好きが道を外れている訳じゃないだろ」

『はいはい。ああ話が逸れたけど、俺の方でひなたちゃんが着る服を用意しておくから』

「サンキュ」

 海斗がぼそりと礼を言うと、光矢は微笑した。

『そんじゃ、俺はこれからお仕事だから。またな』

 そこで光矢との通話は途切れた。




 放課後、海斗は一人で学校の廊下を歩いていた。

「ここか……」

 海斗はとある部屋の前で足を止めた。それは一階の奥まったところにある『相談室』と書かれた部屋である。

 気が付けば心臓が早鐘を打っていた。鎮めるために深呼吸をしてみるが、大して意味はなかった。

 それから海斗は意を決し、目の前のドアをノックする。

「はーい、どうぞ」

 部屋の中から澄んだきれいな声が響いて来た。

「し、失礼します」

 海斗はドギマギしながらドアを開けて部屋の中に入る。

「あら、神崎君。来てくれたのね」

 すると椅子に座った状態で、カウンセラーの美鈴が優しい笑みを浮かべて海斗のことを迎えてくれた。

「ええ、まあ。約束しましたから」

 気恥ずかしくて、海斗は俯き加減になってしまう。

「ありがとう。どうぞ、この椅子に座って」

「は、はい。ありがとうございます……」

 海斗はぎくしゃくとした動きで勧められた椅子に腰を掛ける。

「でも、嬉しいな」

「え?」

「やっと相談者が来てくれた。神崎君が第一号よ」

「あ、そうなんですか」

「うん」

 にこやかに笑う美鈴を見て、海斗はどきりとしてしまう。

 一見大人びているのに、時折可愛らしい少女のような笑みを浮かべるところも『姉パラ』の美里とそっくりだ。

「ん、どうしたの?」

 半ば呆然としていた海斗の顔を覗き込んで、美鈴が首を傾げる。

「い、いや……カウンセラーっていうから白衣を着ているのかと思ったんですけど。意外と普通の格好なんですね」

 口ごもりながら海斗は言った。目の前にいる美鈴はベージュを基調とした花柄模様のワンピースを身に纏っている。清楚な彼女によく似合った服装であるが、カウンセラーに見えるかと言われると疑問符が浮かんでしまう。

「そうなの。ほら、白衣を着ているとあからさまに偉い先生みたいな感じになっちゃうでしょ? そんなことじゃ相談者との間に壁が出来ちゃうから、あえて普通の格好をしているの。あ、もしかして神崎君は白衣の方が好みだった?」

「そ、そんなことないです」

 慌てて否定する海斗を見て、美鈴はくすりと笑みをこぼす。

「でも神崎君、全然普通じゃない」

 ふいに、美鈴がそんなことを言い出した。

「え?」

「普通に女子と話せているじゃない。神崎君はあまり女子が得意じゃないって聞いていたから」

「いやいや、全然普通じゃないです。さっきから緊張しっぱなしで……すみません」

「そんな謝らないで。私相手に、緊張しなくても良いんだよ?」

 あなた相手だからこそ、余計に緊張するんですよ。

 海斗は声を大にして叫びたかったが、ぐっと飲み込んだ。

「あ、でも私は女子なんて年じゃないわね。もう二十四歳だから、下手をしたらおばさんって言われちゃうかも」

 美鈴は苦笑しながら言う。『姉パラ』の美里と年齢まで一緒だ。

「そ、そんなことないです。良木先生はまだ十分お若いですよ……それに、俺は年上の女性の方が好きですし」

 言った直後、海斗はハッとした。思わず本音がこぼれてしまったのだ。いきなりそんなことを言ってしまい、美鈴に変な目で見られないか焦ってしまう。

「うふ、ありがとう。神崎君は優しいんだね」

 美鈴は微笑んだ。どうやら気分を害した様子はないらしい。海斗はホッと胸を撫で下ろす。

「でも、その良木先生って呼ばれるのはちょっと寂しいな」

「え?」

「先生って呼ばれると距離があるから、美鈴って呼んで欲しいな」

「いや、そんな恐れ多いですし」

「ダメなの?」

 美鈴が目尻を下げて少し悲しそうな顔になる。そんな顔をされたら決してノーとは言えない。問答無用でイエスマンになってしまう。

「わ、分かりました。美鈴さんって呼びます……」

 海斗が照れながら言うと、美鈴の顔がぱあっと晴れ上がった。

「本当に? 嬉しい。何だったら、美鈴姉さんって呼んでくれても良いんだよ?」

 美鈴は口元に指を置いておどけて見せた。

「へっ? いやいや、それはさすがに恥ずかしいですよ!」

 本当は願ったり叶ったりなんだけど、そんなことをしたら色々とまずい。

「うふふ、神崎君って面白いね。まるで弟が出来たみたい」

 その言葉は海斗にとって嬉しくもあり、また同時に切なくもあった。

 やはり、年下の自分は弟のような存在にしか思われない。そういえば『姉パラ』の美里とストーリーにおいても、初めは弟として見られていたのがいつの間にか男として見られるようになって、そのまま結ばれたんだっけ。

「神崎君、どうしたの?」

「あ、いや何でもないです」

「そう? ねえ、私も神崎君のことを下の名前で海斗君って呼んでも良い?」

「は、はい。どうぞ」

「うふ、ありがとう。それじゃあ、もう少しお喋りをしましょう? 海斗君」

 こくこくと頷く海斗を、美鈴が優しい笑みを浮かべて見つめていた。




 海斗は薄暗い夜道を歩いていた。

 その足取りは軽く、下手をすればそのまま道中で踊り出してしまいそうなくらいだ。

 あれから海斗は、本当にただ美鈴と楽しくお喋りをしただけだった。彼女は恐らく、担任の田中から海斗が二次元の女しか愛せないということを聞かされているはずだ。だが、彼女はその点には直接触れることはなく、それとは全く関係のないことばかりを話題に上げて純粋に海斗と会話をしてくれた。海斗が想像していたカウンセリングとはだいぶ違った。もっと海斗の情けない内心をさらけ出し、色々と問い詰められることを想像していたのに。本当にただ、きれいなお姉さんと話をしただけだったのだ。

「美鈴さん……美鈴姉さん」

 いやいや、その呼び方は本当に色々とまずい。そんな呼び方をしてしまったら、海斗は間違いなく彼女の魅力にはまり、抜け出せなくなってしまうだろう。

「あれは三次元、あれは三次元、あれは三次元……」

 ぴたりと足を止めて、自分に何度も言い聞かせる。

 ――美鈴姉さんって呼んでくれても良いんだよ?

「……えへへ、美鈴姉さん」

 数秒後には、また頬が緩み切った締まりのない顔になってしまう。

「いやいや、冷静になるんだ俺、冷静に」

 テンションが上がったり下がったり、今の海斗は情緒不安定も良いところだ。このまま行くと、本気で拷問のようなカウンセリングを受ける羽目になるかもしれない。

「ただいま」

 家に着いて玄関で靴を脱いでいた時、廊下を歩いていた樹里とバッタリと出くわしてしまう。

「うわ、キモい奴が来た……」

 樹里は露骨に嫌そうな顔で辛辣な言葉を吐く。どうやら昨晩の一件で余計に嫌われてしまったようだ。そんな彼女の態度によって、興奮状態にあった海斗の脳が一気に冷却され、落ち着きを取り戻す。

 ああ、そうだ。これが三次元、現実の女という奴だ。冴えない男に対してどこまでも冷たく辛く当たる。そういう生き物なのだ。

 本来なら兄に対して平然と罵詈雑言を吐く妹に叱責をするべきなのだろうが、海斗は胸の内で純粋に感謝をしてしまった。決してドMだからという訳ではない。辛い現実を体現することで海斗の浮かれ切った気持ちを落ち着かせてくれたことに対して感謝をしたのである。

「ちょっと海斗、夕ご飯は?」

 黙って階段を上る海斗に、母が尋ねてきた。

「あー、俺はいらない……」

 言いかけて海斗はあることを思い付き、母の方を見た。

「自分の部屋で食べるよ」

「何でそんなことをするのよ?」

「今日学校で課題がたくさん出てさ。自分の部屋にこもって集中したいから」

 海斗は階段を下りてリビングへと向かい、自分の分の食事をトレーに乗せた。

 そんな海斗の様子を樹里は黙って見つめていた。恐らくラッキーとでも思っているのだろう。

海斗は無言のまま自分の部屋へと向かう。

 部屋の隅に置いてある折り畳み式のテーブルに運んだ料理を置いてからPCを起動させる。マイサーバーにアクセスすると、自分の部屋で気持ち良さそうに眠っているひなたがいた。

「おい、起きろ」

 海斗がカーソルで頬をクリックして突くと、ひなたは身じろぎをしてゆっくりと目を開けた。

「……あれ、海斗帰って来たんだ?」

 ベッドから起き上がり、ひなたは小さく欠伸を漏らす。

「こっちに出て来い」

「へ?」

「夕飯にするぞ」

 海斗がテーブルに置いた料理を指し示すと、ひなたが目を丸くした。

「突然どうしたの?」

「まあ、その何だ……お前しばらくまともな飯を食っていないだろ?」

 ここで言うまともな飯とは、現実のご飯のことである。電子人として二次元にいる間、ひなたはそこから自然とエネルギーを獲得するようで空腹にはならなかった。けれども、先日の風呂と同じように、またちゃんとしたご飯が食べたいと駄々をこねるだろうと予見し、海斗はちゃんとした飯を用意したのだ。

 PCの画面が淡く発光して、ひなたが三次元へとやって来た。

「本当に食べて良いの?」

「そう言ってんだろ。冷めない内にさっさと食え」

 海斗は腕組みをしながら言う。

「わーい、ご飯だご飯だ!」

 ひなたは両手でバンザイをして目一杯の喜びを示し、ちょこんと床に座って箸を手に取った。

「いただきますくらい言えよ」

「あ、忘れてた。いただきまーす!」

「ったく、落ち着きのない奴だな」

 海斗はため息を漏らしながら椅子にどかっと座る。

「あれ、海斗は食べないの?」

 おかずのから揚げを頬張りながらひなたが尋ねる。

「ああ、俺はそんなに腹が減ってないからな」

「ふぅん? そういえば、今日は帰りが遅かったね。ずっと海斗が帰って来るのを待っていたのに。なかなか帰って来ないからあたし寝ちゃったもん」

 ひなたは少し不満げに頬を膨らませた。

「カウンセリングを受けて来たんだよ」

「あー、前に言っていた?」

「そうだよ」

「へぇ、どうだったの?」

 ひなたは興味津津といった具合だ。

「まあ、そうだな……夢みたいな時間だったよ」

「どういうこと?」

「似ていたんだよ、カウンセラーが美里姉さんに」

「美里姉さん……? それって、確か海斗が好きなギャルゲーに出て来る?」

 海斗はこくりと頷く。

「見た目も中身も、その他にも色々と共通点が多くてさ。本当に美里姉さんと話しているような感覚だったよ」

 椅子にもたれたまま、海斗は陶然とした様子で語る。

「まあでも、彼女はあくまでも三次元だ。内心では俺のことを二次元好きのキモオタ野郎ってバカにしているだろうな」

「ホント、海斗は卑屈だねー」

 ひなたが呆れたように言う。

「悪かったな。卑屈になって予防線を張っておかないと、いざって時に心が砕けちまうんだよ」

「そうなんだ。で、海斗は結局そのカウンセラーのお姉さんと、今後どうなりたいの?」

「さあな。まあ、あまり深入りはしないようにするさ」

 海斗は自嘲するように言った。

「そっか」

 ひなたはにこりと微笑んで、先ほどよりも勢い良くご飯をパクパクと食べていく。

「おい、そんなに慌てて食べると喉につかえるぞ」

「大丈夫だよ、そんなに心配しない……むぐっ!?」

「案の定、喉に詰まらせてんじゃねえか!」

 海斗は慌てて椅子から立ち上がり、コップにウーロン茶を注いでひなたに渡してやる。

「ほら、これで流し込め」

 ひなたは海斗からコップを受け取り、勢い良く傾けてウーロン茶を飲み込む。

「……ぷはっ! あー、死ぬかと思った」

 人心地ついたひなたは、安堵の息を漏らす。

「お前本当にアホだな」

「アホで結構、コケコッコー!」

「誰がそんな下らない時代遅れのギャグを言えと言った?」

 寒気と苛立ちが同時に押し寄せて、海斗は露骨に表情を歪めた。

「まあまあ、あたしは海斗に感謝をしているんだよ。命の恩人だからね」

「オーバーだな」

「お礼に何かしてあげるよ」

「はあ?」

「そうだなー……この前の続きでも良いよ」

「この前の続き?」

 海斗は眉をひそめて首を傾げる。

「この前、キスしそうになったでしょ?」

 そう言って、ひなたはぐっと海斗の顔を近付けた。

「このままキスしてあげようか?」

 ひなたが蠱惑的な笑みを浮かべる。しかし、海斗はあくまでも落ち着き払っていた。

「口の端にマヨネーズを付けた状態でか?」

「へっ?」

 海斗に指摘されたひなたは素っ頓狂な声を上げる。慌てて自分の口元を手で拭い、顔を真っ赤に染めた。

「海斗のバカ! 女の子に恥をかかせるとは何事か! ここはあえて指摘をせずにキスをしてあげるべきでしょうが!」

「いや、前にも言ったけど俺三次元のロリガキとか一番好みじゃないから。俺を誘惑したいなら、もっとセクシーなお姉さんになって出直して来いよ、カッコ二次元の」

「きーっ!」

 海斗の言葉を受けて、ひなたは増々顔を赤らめて怒りをヒートアップさせる。

「あんまり騒ぐなよ。母さんと樹里にお前の存在がバレちまうだろうが」

「良いじゃんバレたって。そうしたら、海斗の彼女だって言ってやるもん!」

「えー……」

「そんなに嫌そうな顔しなくたって良いじゃん!?」

 ひなたが顔を真っ赤にしたまま叫ぶ。

「……ぷっ」

 その時、ふいに海斗の口から笑い声が漏れた。

「あはは、お前って本当にバカだよな」

「なっ、バカじゃないもん! こう見えてもあたし学校の成績は優秀だったんだから!」

「はいはい、分かったよ」

 軽く受け流す海斗に対して、尚もひなたはぷりぷりと怒り続けている。その最中、海斗は自分がこんなに笑ったのはいつ以来だろうと思った。ギャルゲーをプレイしてにやにやすることはあっても、こんなに笑い声を上げることなんて無かった。

「……なあ、ちょっと聞いて良いか?」

「何?」

「お前さ、辛くないのか?」

「辛いって何が?」

「その……そんな風に身体を改造されちまったことだよ」

 海斗はずっと気になっていた。こんな風に改造されて、人ならざる力を手に入れてしまって。しかもひなたは年頃の女の子だ。精神的にダメージを受けていてもおかしくはない。

 本来であれば、和やかな食事の最中にするべき話では無いのかもしれない。しかし、海斗はあえてこの時に聞いてみたくなったのだ。こんな風に明るく振る舞い続ける彼女の姿を見ていたせいだろうか。心に引っかかる思いがあったのだ。

「うーん、確かに最初はちょっと戸惑ったけど……でも、そんなに辛くないよ」

「そうなのか?」

 海斗は思わず目を丸くした。

「うん! だって何かカッコいいでしょ? 二次元と三次元を自在に動き回る正義のヒーローみたいで!」

「まあ、ヒーローでは無いけど」

「じゃあ、ヒロイン」

「いや、ヒロインでも無いな」

「もう、そこは気分よく乗らせてよ! 海斗のバカ!」

 またもぷりぷりと怒ってしまったひなたに、海斗は苦笑する。

「悪かったって。まあ、その何だ」

「ん?」

「もし辛くなったら、その……相談しろよな。俺の出来る範囲でなら何とかしてやるから」

 ひなたが父親に関する記憶を失っているのは、恐らく『電子人製造計画』の実験台にされて大きなショックを受けたことが要因となっているのだろう。仮にも自分の父親からそのような仕打ちを受けて、意識的にしろ無意識的にしろ強い負の感情が湧いて、電子化した際にその記憶のデータが飛んだ。さほど理論的ではなく、どちらかと言えば感情的な話ではあるが、海斗はそのように考えていた。

「海斗……」

 ひなたの視線が真っ直ぐ海斗に向けられる。

 無性に照れ臭くなり、海斗はそっぽを向いた。

「……ほ、ほら、さっさと食えよ。まだメシが残ってんだろうが」

「うん、分かった。ねえ、やっぱり海斗も食べなよ」

「いや、俺はいらないから」

「そんなこと言わずに。ほら、あーん」

 ひなたが箸でおかずを掴み、海斗の口元に持って行く。

「変な真似してんじゃねーよ!」

「変な真似なんかじゃないもん」

 にこにこと楽しそうに笑うひなたを見て、海斗は小さくため息を漏らした。



























      4




 電子人のひなたが海斗の下にやって来てから数日が経過した頃。

 海斗が自室でギャルゲーをしているとピンポーンと、玄関のチャイムが鳴った。

 今日は日曜日なので、母が来客に対応してくれるだろう。海斗は特に気に留めることもなくギャルゲーを続行していたのだが。

「海斗ぉ! ちょっと来てちょうだい!」

 ドアの向こうから母親の大声が響いて来た。

「何だよ、今良いところなのに」

 海斗は片眉を上げて呟き、仕方なく椅子から立ち上がって部屋を出た。ダラダラと階段を下りて一階の廊下に立つ。

「母さん、一体何の用だよ?」

 海斗はあからさまに不満の声を漏らす。

「よう、海斗」

 気が付けば玄関に一人の男が立っていた。背丈が高く整った顔立ちのその男は、海斗に対して快活な笑みを浮かべていた。

「兄貴? どうしたんだよいきなり」

 やや困惑しながら海斗が尋ねた時、突然リビングのドアが開いた。

「あっ、やっぱり光矢兄さんだ!」

 喜色に満ちた表情で声を張り上げたのは樹里だ。彼女は光矢の下に駆け寄り、そのまま抱き付いた。

「おう、樹里久しぶりだな。元気にしていたか?」

「うん! でもびっくりした、いきなり帰って来るなんて。前もって連絡してくれれば良かったのに!」

 とても同一人物だとは思えない。海斗は普段自分と接する時には決して見ることのない樹里の顔を見て、内心でため息を漏らした。

「すまん、すまん、ちょっと驚かせてやろうと思ってな」

「もう、本当にびっくりしたんだから」

 樹里と仲睦まじくしていた光矢がふっと海斗の目線を向けた。

「海斗、お前に渡す物があるんだ」

「何?」

「ちょっとこっちに来てくれ」

 手招きする光矢の下に行くと、彼が脇に抱えていた袋を渡される。

「これは?」

「前に海斗から頼まれていた物を用意してやったんだよ」

 海斗は一瞬その意味が分からなかったが、すぐに察した。光矢がふっと笑みを浮かべる。

 海斗はその袋を受け取ると階段を上った。

「ねえ、光矢兄さん早く中に上がってよ。私がお茶を入れてあげるから」

「分かった、分かった。ちょっと待ってくれ」

 光矢は満面の笑みを浮かべる樹里に引っ張られてリビングに入って行った。その様子を見送り、海斗は自分の部屋に戻る。

 光矢からもらった袋の中身を確認すると、そこには数枚の衣服が入っていた。一緒にメモ紙が入っており『電子加工済み』と書かれている。

「どうかしたの?」

 PCの中にいるひなたが尋ねてきた。

「ああ、兄貴がお前のために服を持って来てくれたよ。二次元と三次元の両方で着られるやつ」

「え、本当に?」

 目を丸くして、ひなたはPCから飛び出して来た。

「ちょっと試しに着てみろよ。俺は一旦外に出ているから、着替え終わったら呼んでくれ」

「そんなこと言って、覗かないでよね」

「ガキの着替えを覗く趣味なんてねえよ」

「あたしガキじゃないもん!」

「分かった、分かった」

 きーっ! と怒るひなたを無視して、海斗は部屋の外に出る。

 ドアにもたれてひなたの着替えを待っていると、階段の軋む音が聞こえた。

「よっ」

 片手を上げてやって来たのは光矢だった。

「下で樹里の入れたお茶を飲んでいたんじゃないのか?」

「ちょっとお前達の様子が気になって見に来た。今はお姫様がお着替え中かい?」

「まあな。ただ、あいつはお姫様って柄じゃねえ。ただのお転婆娘だよ」

「あっはっは。お転婆娘で結構じゃないか」

「笑いごとじゃねえよ。俺はいつもいつも大変なんだ」

 海斗がしかめ面で文句を垂れた時、

「着替え終わったよー!」

 と部屋の中からひなたの声がした。

「ほら、お前のことを呼んでいるぞ」

「分かっているよ」

 むっつり顔でドアを開けて部屋に入ると、ブラウスに膝丈のスカートという女の子らしい格好をしたひなたがいた。

「どう、可愛いでしょ?」

 ふふん、と得意げな顔でひなたが言う。

「まあ、普通なんじゃねえの」

 対する海斗は少し冷めた様子で答えた。

「何よその言い方は! でも、あれだなー。もっとひらひらした、お姫様っぽい服が良かったな」

 ひなたは少し残念そうな顔した。

「それはすまなかったね」

 海斗の後ろに立っていた光矢が言うと、ひなたが「あっ」と声を上げた。

「海斗のお兄さんだ!」

「初めまして、ひなたちゃん。海斗の兄の光矢と言います。本当はもっと君に似合う様なお姫様っぽいドレスを用意してあげたかったんだけど、予算の都合上ちょっとね」

「予算って?」

 海斗が尋ねる。

「〈高密度照射マシン〉で物質を『電子物質』に変えるのは成功率が低いんだ。人間に比べれば成功率は高いが、それでも十パーセントが良いところだな。今回、五着の『電子物質』に変換した衣服を用意するために、だいたい五十着を必要としたからな」

「そうなのか?」

 海斗が驚いて目を丸くした。

「ああ。だから、後でお前に請求書を送るよ」

「マジでか?」

 にわかに海斗が焦りの表情を浮かべる。

「あはは、冗談だよ。まあでも、現状においてひなたちゃんには『電子物質』に変換した服が必要だ。ずっと海斗のPCに留まってくれれば話はまた別なんだが……」

「そんなの嫌だ! 息苦しいもん!」

 ひなたが叫んだ。

「まあ、そうだろうね。でも、今のひなたちゃんがずっと三次元にいるのも困るんだ。下手に出歩いて万が一テロ組織にでも目を付けられたら一大事だ。だから申し訳ないけど、ひなたちゃんは三次元に出るにしても海斗の部屋の中だけにして欲しいんだ」

「あー、実はこの前にこいつ家の風呂に入ったんだけど」

 海斗が渋い顔で言った。

「まあ、家の中ならまだ良い。その代わりに母さんと樹里には見つからないようにな」

「分かってるよ。ただ兄貴、俺はいつまでこいつを匿っていれば良いんだ?」

「何だ? ひなたちゃんがずっといると嫌なのか?」

 光矢が問いかけてくる。とっさに聞かれて海斗は返答に窮した。ちらりとひなたに視線をやると、どこか不安げな目で海斗を見つめている。

「……嫌とかそういう問題じゃなくて、このままの状態が続くのは良くないだろ。こいつだってずっと俺のPCと部屋の中に閉じ込められていたら、気が狂っちゃうかもしれないし」

 海斗は慎重に言葉を選びつつ言った。

「……そうだな。まあ、安心してくれ。俺もただ黙って今の状況を看過するつもりはない。水面下でひなたちゃんを保護するためのプランを計画中だ。けれども、そのためにはもう少し時間が必要になる。申し訳ないがそれまで待ってくれないか?」

 光矢は神妙な面持ちで、海斗とひなたを見つめて言った。

「いや、まあ俺は別に良いんだけどさ」

「あたしも大丈夫だよ。海斗といると楽しいもん」

 ふいに、ひなたが元気よくそのようなことを言った。

 海斗は反応に困り、顔をしかめてしまう。

「へえ、良かったじゃん海斗。こんな可愛い子に好かれて。興奮して襲ったりするなよ?」

 光矢がからかうように言った。

「う、うっせえよ。そもそも俺は年上のお姉さんが好みなんだ。こんなつるぺたのロリガキなんて興味ねえよ!」

「もう、海斗はまたそんなこと言ってー。本当はあたしの魅力にメロメロのくせに」

 ひなたが身をくねらせて言う。

「誰がメロメロだ! つーか、そんなことよりも早くその服が二次元でもちゃんと着られるか確かみろよ!」

「はいはい、分かったよ」

 喚く海斗をあしらう様にひなたが言う。なぜかいつもと立場が逆転してしまい、海斗は激しく舌打ちをしたい衝動に駆られるが、何とか我慢する。

 ひなたはおもむろにブラウスのボタンを外して胸元を開けた。その最中に前かがみになり、意味ありげな視線を海斗に向けてきた。

「ちらっ、ちらっ」

「その目線とか効果音とか、もう全部うざいからやめろ」

 海斗は冷たくバッサリと斬り捨てる。

「本当は嬉しいくせに。海斗のおたんこなす」

 ひなたはふくれっ面になって文句を垂れる。胸に付けられたボタンを押して、身体が発光する。PCの中へと飛び込んだ。

 その画面に現れたひなたは、きちんと服を着ていた。以前の時みたいに服だけが二次元に拒絶されて置き去りにされるという事態には陥らず、海斗は一安心する。

「どうやら成功したみたいだな」

 光矢が声をかけてきた。

「ああ、助かったよ兄貴。ほら、お前もお礼を言えよ」

「ありがとう、お兄さん」

「どういたしまして」

 光矢はにこりと微笑んだ。

「そうだ、海斗。さっき下で母さんと樹里と話していた時に、久しぶりに家族みんなでご飯でも食べようかってことになったんだけど。お前も行くだろ?」

「え? いや、でも……」

「ん、どうしたんだ?」

 光矢が首を傾げて尋ねてきた。

 海斗は視線をPCの中にいるひなたに向ける。彼女は棒立ちになって静かにこちらの様子を見つめていた。

「……俺は行かなくて良いや」

「え、何でだよ?」

「俺あまり腹減っていないし。それに、まだギャルゲーをプレイ中だったから」

「……そうか、分かったよ」

 光矢はそれ以上問い詰めることをせず、大人しく引き下がった。

「俺はご飯を食べたらそのまま家に寄らずに帰るからな」

「そっか」

「じゃあな、ひなたちゃんと仲良くやれよ」

 ひらひらと手を振って、光矢は部屋から出て行った。

 海斗は彼の後ろ姿を見送った状態で、しばらく固まっていた。

「ねえ、海斗」

 ひなたが呼んだ。

「何だよ?」

「もしかして、あたしに気を遣ってくれたの?」

「はあ? そんな訳ねえだろうが。今言った通り、俺はギャルゲーの続きがやりたかった。ただそれだけだ」

「そんなギャルゲーばかりやっていると、一生現実の彼女が出来ないよ?」

「はっ、上等だよ。こちとら最初(はな)からその覚悟なんだよ」

「あはは、全然かっこよくないね」

「うるせえよ」

「そうだ、海斗。また……」

 その時、再びピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。

 一瞬、光矢達が忘れ物をして取りに来たのかと思ったが、それなら自分達で鍵を持っているのだから、わざわざ玄関のチャイムを鳴らす必要はない。

「ったく、誰だよ」

 海斗は後頭部を掻いて椅子から立ち上がった。部屋を出て緩慢な動きで階段を下りる。

「はいはい、どちらさんですか?」

 投げやりな声を漏らしながら、海斗は玄関のドアを開けた。

「あ、海斗君。こんにちは」

 そこには、微笑みを浮かべる良木美鈴が立っていた。

「み、美鈴さん!?」

 衝撃のあまり、海斗は素っ頓狂な声を上げてしまう。

「ごめんね、お休みなのに押しかけちゃって」

「いや、別に良いんですけど……どうしたんですか突然?」

 海斗は必死で動揺する心を落ち着けながら、美鈴に問いかける。

「この前、一度私の所に来たきりずっと海斗君が来てくれなくなったから……」

 その言葉を聞いて、海斗は頬を引きつらせる。

 先日、美鈴と過ごした時間は本当に幸せだった。現実の世界で憧れの美里と話しているようで、本当に幸せな気持ちでいっぱいだった。だが所詮、彼女は三次元の女だ。ちょっとしたところからボロが出て、やがて崩壊してしまう。それが怖かった。そんな恐怖を味わうくらいなら、あの一度だけの楽しい思い出を胸にしまっておいた方が良いと思ったのだ。

「もしかして、この前お話した時に私のことが嫌いになっちゃったの? 私結構、図々しく海斗君に接しちゃったから……」

「い、いやそんなことはないです。俺は美鈴さんのことを嫌ってなんていません」

「本当に?」

「はい。ただ、その……ちょっと学校の課題が忙しかったものですから」

 我ながら苦し紛れの言い訳だなと内心で自嘲してしまう。

「あ、そうなんだ。良かったぁ、海斗君に嫌われちゃったと思って本当に不安だったの」

 美鈴は両手を胸に置いてほっと息を吐いた。

「いやいや、そんなことないですよ」

 海斗は慌てて両手を振る。

「ところで、今お家にご家族の方はいらっしゃるのかしら?」

「あー、いや。今他の家族は出かけているんですよ。今家にいるのは俺……だけです」

「そうなんだ。あのね不躾なお願いで申し訳ないんだけど、良かったら海斗君の家にお邪魔させてもらえないかな?」

「えっ?」

「ダメ……かな?」

 また少女のように潤んだ瞳で美鈴が見つめてくる。この表情に海斗は滅法弱いのだ。

「そんなダメってことはないです……どうぞ、中に入って下さい」

 海斗がそのように言うと、美鈴は朗らかな笑みを浮かべる。

「ありがとう、海斗君」

 美鈴は海斗に誘われて玄関から家の中に入った。

「立派なお家ね。ご両親はどんなお仕事をされているのかしら?」

「父は海外に出張中のサラリーマンで、母は専業主婦です。後は兄もIT関係の仕事をしています」

「へえ、そうなんだ。あ、ごめんなさい。いきなりこんなこと聞いてはしたないわね」

 美鈴はとっさに手で口元を押さえる。

「いえ、気にしないで下さい」

 海斗は微笑しながら言った。

「ところで海斗君、もうお昼ご飯は食べたの?」

「え? いや、お昼ご飯は食べてないです。あまり腹も空いていないし良いかなーって思って」

 あはは、と海斗が空笑いをしながら言った。

「ダメだよ、きちんとご飯を食べなきゃ」

 すると、美鈴が少し眉を吊り上げて注意した。

「はあ、すみません……」

 海斗は首を縮めて謝る。

「そうだ、良かったら私がお昼ご飯を作ってあげる」

「へっ? いやいや、そんなの悪いですよ」

「遠慮しないで。これでも料理の腕には自信があるんだから」

 美鈴は腕をぐっと曲げてアピールをするように言った。

「そう、なんですか……」

「うん。じゃあ、早速作りましょうか。キッチンと冷蔵庫の食材使わせてもらうね」

 困惑する海斗の返事を待つことなく、美鈴は早速行動を開始した。

 清楚でしとやかな見かけに寄らず、意外と強引なところも美里にそっくりだ。

 海斗はぼんやりとそんなことを考えたが、ぶんぶんと頭を振って邪念を振り払う。

「あの、やっぱり申し訳ないですよ。せめて俺も一緒に手伝います」

「良いの。ここはお姉さんに任せておきなさい」

 海斗は自分のことを『お姉さん』とか言っちゃうお姉さんが大好きだった。

 これ以上やり取りをしても仕方がないので、海斗は大人しくリビングのソファに腰を下ろす。

「待っていてね、すぐに作っちゃうから。ここにあるエプロン借りても良いかしら?」

「あ、はいどうぞ」

 美鈴はにこりと微笑み、エプロンを身に纏った。

 冷蔵庫の中身を確認して材料を用意し、軽く腕をまくって調理を開始する。

「海斗君って何か苦手な食べ物はある?」

「えーと、ピーマンが苦手です」

「分かったわ」

 トントン、と小気味の良い音がキッチンから響いてくる。

 年上のきれいなお姉さんが、自分のために料理を作ってくれている。

 海斗はエプロン姿でキッチンに立つ美鈴に視線が釘付けになっていた。

 ふいに、顔を上げた美鈴と視線がぶつかる。

「ん、どうしたの?」

「あ、いや何でもないです」

「そう?」

 にこりと微笑んで、美鈴は再び調理に集中する。

 いかん、このままではまた自分は惑わされてしまう。彼女はあくまでも三次元の女なんだ。オタクの海斗を拒絶し、見下す悪魔のような存在なのだ。

「はい、お待たせ」

 頭を抱える海斗の目の前に置かれたのは、オムライスだった。

そこにはケチャップで『海斗君♡』と書かれていた。

「あ、あの……これは?」

「どう? 頑張って漢字で書いてみたんだけど、上手く出来ているかな?」

 いや、漢字とかそういう問題では無くて。

「このハートマークは?」

「ん? 可愛いでしょ?」

 美鈴はにこりと微笑んで、海斗にスプーンを渡してきた。

「はい、どうぞ召し上がれ」

「あ、いただきます」

 海斗は混乱状態のままスプーンでオムライスを一口すくい、ゆっくりと口に運んだ。

 その瞬間、海斗は目を見開いた。

 美味い。卵がふわふわとして柔らかい。それでいて、中身のチキンライスをしっかりと包み込んでいる。まるで母性溢れる優しいお姉さんのようだ。一口食べただけで、これほどまでに幸せな気持ちになるなんて。

「味はどうかな?」

 美鈴が海斗の顔を覗きこんで尋ねてくる。

「あ、その……美味いです」

「本当に? 良かった、もし変な味とかしたらどうしようって思っていたの」

「いや、本当に美味しいですよ。こんなオムライスだったら毎日食べたいくらい……」

 海斗は言いかけてハッとした。

 いかん、このままでは本当に美鈴の魅力にハマってしまう。このオムライスを一口食べるごとに、海斗の気持ちは彼女に奪われてしまう。彼女は三次元なのだ。二次元とは違い、ハマったら大やけどを負うことは目に見えている。これはトラップだ。ハニートラップなのだ。

「あ、海斗くん」

 美鈴はハッと気付いた様子でハンカチを手に取り、海斗の口元を拭いた。

「口の端に、ケチャップが付いていたよ」

「え? ああ、すみません」

「うふふ、どういたしまして」

 ああ、ヤバい。この微笑みを見ていると海斗は理性が吹っ飛び、幸せいっぱいの快楽の世界に沈んでしまいそうになる。そんなことが許されるのは二次元だけなのだ。三次元でそんな状態に陥れば、とてつもないダメージを負う結果になってしまう。

「海斗君、どうしたの? さっきから何か考え事をしているみたいだけど」

「へっ?」

「何か悩み事があるなら、遠慮なく私に相談をして」

 そう言って、美鈴が海斗の手に触れた。

彼女の柔らかい指先の感触が海斗の理性を掻き乱す。

「――こほん」

 ふいに、咳払いが聞こえた。

「あれ、美鈴さん。今何か言いましたか?」

「ううん、私は何も言ってないけど?」

「え、じゃあ今のは……」

「こほん、こほん」

 海斗はその声が、自分のズボンのポケットから聞こえていることに気が付いた。もっと言えば、そこに入れていたケータイから声が聞こえていた。

 海斗はおもむろにケータイを取り出して画面を覗き込むと、そこには二次元化したひなたがいた。

 突然のことに海斗はぎょっと目を剥いて思わず叫びそうになるが、とっさに口を押えた。

「す、すみません。ちょっと電話がかかってきたみたいなんで」

 海斗は美鈴に断りを入れて、そそくさと廊下に出た。

「……おい! 何でお前が俺のケータイにいるんだよ?」

 海斗はひなたに詰問するように言った。

「前に海斗が眠っていた時、こっそり海斗のケータイに入ってみたらPCと繋がっていることに気が付いて。今PCから移動して来たんだよ」

 確かに、海斗はPCとケータイの回線をリンクしている。時折、自分が留守の間にPCに良からぬウイルスが攻撃を仕掛けていないかチェックをするためだ。しかし、まさかひなたがその回線を利用してPCとケータイの間を移動するなんて予想外だった。

「お前、基本俺のPCと部屋から出るなって言っただろうが」

「だって、海斗がいつまで経っても戻って来ないんだもん。気になって様子を見に来れば、何か知らない女の人とイチャついているし。一体どういうことなの?」

 ひなたは腕を組んで海斗を睨み付ける。

「なっ、別にイチャついてなんかいねえよ。あの人は良木美鈴さんって言って、俺の学校のカウンセラーだよ。ほら、前に話しただろ?」

「ふぅん、あの人がそうなんだ。海斗は所詮三次元の女だから絶対に心を開かないみたいなことを言っていたのに、何か随分鼻の下を伸ばしてデレデレしちゃっていない?」

「は、はあ? 俺が三次元の女にそんなデレる訳が……」

 その時、突然リビングのドアが開いた。

「ねえ、海斗君」

「うわっ、美鈴さん!?」

「電話まだ長引きそう? 出来れば、温かい内にオムライスを食べて欲しいと思って……」

 美鈴は遠慮がちな瞳を海斗に向けながら言う。

「あ、はいごめんなさい。すぐに戻ります」

 海斗は慌ててそう言い、ケータイにいるひなたに視線を戻す。

「とにかく、お前は大人しくPCに戻っていろ」

「嫌だ」

「はあ? 何でだよ?」

「このままケータイの中にいて、海斗の様子を観察する」

「あのなぁ……」

「海斗くぅん?」

「あ、はーい。すぐに行きます! ……あー、もう分かった。ケータイにいても良いから、その代わり大人しくしてろよ?」

 海斗が釘を差すように言うと、ひなたはにこりと微笑んだ。

「うん、分かった。あ、今度はポケットにしまわないで、ケータイをテーブルの上に置いてね。あたしが見やすいように何かに立てかける感じで」

「お前ワガママぶっこいてんじゃねえよ」

「そうしてくれないと、今すぐケータイから飛び出して暴れちゃうよ?」

 ひなたがどこか挑発的な笑みを浮かべる。

 脅すとは小癪な。海斗は苛立ちを覚えながらも小さくため息を漏らし、仕方なくひなたの要求を飲むことにした。

「すみません。せっかくご飯を作ってくれたのに、途中で席を立っちゃって」

 リビングに戻るなり、海斗は美鈴に詫びた。

「ううん、私の方こそワガママを言ってごめんね」

 美鈴はにこりと微笑んで言う。

 海斗はその笑みを見てほっと胸を撫で下ろし、ソファに座る。すると、その隣に美鈴も腰を下ろした。

「えっ?」

「ん、どうしたの?」

「あ、いや。何でもないです……」

 海斗は慌てて口ごもる。

「こほん、こほん」

 ケータイにいるひなたが咳払いをする。海斗はどきりとするが、幸い美鈴は気が付いていない。

「そういえば海斗君。他のご家族は出かけているって言ったでしょ?」

「あ、はい。そうです」

「海斗君はどうして一人家でお留守番をしているの?」

 ふいにそんなことを尋ねられて、海斗は返事に窮してしまう。そんな彼の様子を見て、

「ごめんなさい、軽々しくプライベートのことを聞くなんて失礼よね」

 美鈴はしゅんと落ち込んで様子で海斗に謝る。

「いえ、そんな気にしないで下さい。……その、兄が帰って来たんです。社会人になってからは一人暮らしをしていたんですけど。そうしたら妹がすごく喜んで。兄がせっかくだから久しぶりに家族でご飯でも食べに行こうって誘ってくれたんです」

 美鈴は黙って海斗の言葉に耳を傾けている。

「正直に言うと、俺って妹から大分嫌われているんです。兄は見た目も中身も完璧な超人で昔からモテまくり。それに引き換え、俺はちょっとPCが得意なだけの冴えないオタク野郎で。そんなんだから、妹は兄のことを好いて俺のことは毛嫌いしているんです。母も内心では俺なんかよりも兄にそばにいて欲しいんですよ。父が海外出張でいない今、この家を守れるのは兄のような頼れる男ですからね。俺みたいな引きこもりのオタク野郎じゃ頼りにならないでしょうし。……まあ、そういった経緯もあって、何となく遠慮しちゃったんですよ。俺がいない方が楽しい家族の団欒になるだろうって」

「そんな、海斗君……」

 美鈴の目に悲哀の色が浮かぶ。

「ついでに話すと、俺って自分の名前が嫌いなんですよ。両親が海のように大きな男になって欲しいと願って『海斗』って名前をもらった。けど、俺はそんな大きな男にはなれなかった。肉体的にも精神的にも。ひょろくて情けない。じゃあ名字で呼んでもらおうにも、『神崎』っていう名字も俺にふさわしくない。ぶっちゃけ、俺って完全に名前負けしているんですよ。本当にどうしようもなく情けない男で……」

 その瞬間、海斗の身体を柔らかい感触が包み込んだ。

「……え?」

「ダメだよ、海斗君。そんな風に自分を追い込んだら」

 気が付けば、海斗は美鈴に優しく抱き締められていた。ふわりと柔らかいその感触に海斗は思わず身を委ねそうになってしまう。だが、ハッとして目を見開く。

「え、あの……美鈴さん?」

 困惑の色を見せる海斗を、美鈴は優しく抱き締めたまま口を開く。

「海斗君は情けない男なんかじゃない。私には分かるよ、海斗君は不器用だけど本当はとても優しい子なんだって。その良さを周りが、何より海斗君自身が理解してあげないと」

「美鈴さん……」

 ふと、海斗は自分の目に何かがじんわりと込み上げるのを感じた。目頭が熱い。一筋の涙が頬を伝っていた。

「海斗君、もっと自信を持って良いんだよ。もしどうしても持てないようだったら……私がこうやって何度でも励ましてあげるから」

 その言葉は優しく海斗の胸に溶けて行く。その温もりが海斗のことを包み込んだ。

「はい……ありがとうございます」

 海斗は涙に濡れた声でそう言った。




 空は柔らかな赤色に染まっていた。雲も同じようにほのかな赤色を帯びて、夕風によりゆっくりと流れて行く。

「今日はありがとう。突然お邪魔しちゃってごめんね」

 髪を指で梳きながら微笑み、美鈴が言った。

「いえ、そんなこと無いです。俺の方こそ、何か恥ずかしいところを見せちゃって……」

「良いのよ、私はカウンセラーだから」

「あ、そうですよね……」

 海斗は苦笑する。

 そうだ。三次元がどうこうの前に美鈴はカウンセラーであり、あくまでも仕事として海斗の悩みを聞いて励ましてくれたのだ。それにも関わらず、彼女の優しさに包まれてついつい勘違いをしてしまいそうになった。何とも恥ずかしい話である。

「じゃあ、私はもう帰るね」

「あ、はい」

 次の瞬間、美鈴が海斗に顔を近付けて――頬に唇で触れた。

「……えっ?」

 美鈴は余韻を感じるようにゆっくりと海斗から離れて、にこりと微笑んだ。

「それじゃあ、海斗君。また明日学校でね」

 笑顔のまま手を振りながら、美鈴は去って行った。夕日に照らされていたせいか、彼女の頬が赤く染まっていたような気がした。

 しばらく放心状態で立ち尽くしていた海斗は、そのままぎこちない動きで家の中に入り、リビングへと戻った。ソファに身を預けて、またボーっとする。

 そっと頬を撫でると、まだ美鈴の柔らかな唇の感触が残っているようだった。

「ねえ、海斗」

 ケータイの中にいるひなたが呼んだ。ゆっくりと振り向くと、彼女はどこか萎んだような顔をしている。

「どうした?」

 海斗が問いかけると、ひなたは気まずそうな顔で口を開く。

「あのね、こんな事を言うのはおかしいって分かっているんだけど……あたし、海斗が家族に気を遣って家に残ったって話を聞いてがっかりしたの」

「え?」

「あたしはてっきり、海斗があたしに気を遣って家に残ってくれたと思っていたから……」

「お前……」

「あ、全然気にしなくても良いよ。そうだよねー、あたしの事なんか別に気にかけないよね」

 あはは、とひなたは空笑いをする。

 その様子を見て、海斗は小さく肩をすくめた。

「……母さんと樹里、たぶんまだ帰って来ないと思うんだ。だから気兼ねなく風呂に入れよ。そしたら俺の部屋で遊ぼうぜ」

「え? あたしと遊んでくれるの?」

「ああ。PCの中にいるお前を、俺がカーソルでいじめまくる遊びだ」

「何それ、ひどい!」

 ひなたが抗議するように叫んだ。

「冗談だよ。良いからさっさと入って来い。まあ、別に入りたくないんだったら構わないけど」

「ううん、入りたい! 待っていて、すぐに支度をして来るから!」

 そう言ってひなたはケータイから飛び出し、勢い良く階段を上って行った。そのまま回線リンクでPCに移動すれば良いものを。風呂に入れる喜びのあまりつい忘れてしまったのだろうか。

「さてと……」

 海斗はおもむろにソファから立ち上がり、風呂を沸かすために給湯器のボタンを押しに向かった。























      5




 昼休み、海斗は一人で廊下を歩いていた。

 幸いなことに今日は健吾withリア充達から昼ご飯の誘いを受けなかったため、一人で過ごす時間を獲得出来たのだ。彼が目指している場所は一階にある『相談室』、つまりは美鈴の下である。

 昨日、帰り際に美鈴は海斗の頬にキスをした。あれからひたすら悶々として考えた末に、どうしてもその意味が知りたくなったのだ。

 やがて『相談室』の前にたどり着きドアをノックしようとした時、中から賑やかな声が聞こえて来た。首を傾げた海斗は、ゆっくりとドアを開いて中の様子を伺う。

「いやー、しかし良木先生は本当に美人ですね」

 快活な口調で話すのは健吾だった。よく見ると、その周りにリア充達も数人集まっている。

「なあ、お前達もそう思うだろ?」

 健吾が呼びかけると、リア充達は一様に頷き「マジで美人っすよー」と口々に言う。

「うふ、ありがとう」

 美鈴はにこりと微笑みながらそう答えた。

「ちなみに良木先生って彼氏とかいるんすか?」

 リア充の一人が問いかける。

「うーん、残念ながら彼氏はいないかな」

「マジっすか? じゃあ、俺と付き合って下さいよ!」

「はあ? お前何抜け駆けしようとしてんだよ。俺と付き合って下さい!」

「いやいや、俺と!」

 リア充達が我先にと美鈴に対してアピールをしている。一人の清楚な美女に群がる彼らは、まさにリア獣である。汚らわしい。

「おいおい、お前ら。あまりがっついちゃ良木先生が引いちゃうだろうが……という訳で、俺なんてどうですか?」

 健吾が恭しく頭を下げてにこりと微笑んだ。

「まあ、松田君って面白いのね」

 くすくすと笑う美鈴の顔を見て、海斗は胸がずきりと痛んだ。

「それよりもみんな、あまりここでお喋りをしているとお昼ご飯を食べる時間が無くなっちゃうわよ?」

「あっ、いけね。良木先生があまりに美人なものだから、ついつい時間を忘れちゃいましたよ」

「あら、嬉しいこと言ってくれるのね」

「はは、それじゃまた来ます」

 健吾は爽やかな笑みでそう言って、ドアの方に歩いて来る。海斗は慌てて曲がり角の陰に隠れて健吾達をやり過ごした。彼らが去ったのを確認すると、海斗はふらふらとした足取りで『相談室』の入り口に立った。

「あ、海斗君。お昼休みに来るなんて珍しいわね」

 にこりと優しい微笑みを浮かべて、美鈴が迎えてくれた。

 対する海斗は、入口に立ったままボーっとしている。

「どうしたの? さあ、ここに座って」

 美鈴は自分の向かい側に椅子を置いてそう言った。

 海斗は無言のままその椅子に座り、そのまま俯く。

「今、健吾達がここに来ていましたよね?」

「健吾? ああ、松田君のこと? ええ、来ていたわよ。何でも、海斗君がここに来ているって話を聞きつけて、ちょっと様子を見に来たみたい」

「そう……ですか。何か随分と楽しそうでしたね」

「え?」

「まあ健吾は明るくて話も面白いし、人好きする性格ですからね。本当にあんな出来た親友を持つと、こちとら劣等感ばかり抱いてどうしようもなくなっちゃいますよ」

 今の自分は最高にダサい。美鈴が健吾達と楽しそうに話していたことに嫉妬して、ふて腐れたような態度を取ってしまっている。彼女はあくまでも学校が雇っているカウンセラーであり、生徒の悩みを聞くのが仕事だ。だから、当然海斗以外の生徒とも接する。海斗だけの物ではないのだ。そんなことは分かっている。だったら……

「……何でキスなんてしたんですか?」

 海斗の口を突いて出た言葉に、美鈴は目を見開いた。

「昨日の帰り際、何で俺にキスなんてしたんですか? 分かっていますよ、本気じゃないってことは。勘違いとかしたりしないんで安心してください。ただ、あまり考え無しにああいったことをされると、こちらとしても……」

 言いかけて、目の前にいる美鈴がとても悲しそうな顔をしていることに気が付いた。その目はかすかに潤み、下手をすれば涙がこぼれてしまいそうである。

「あ……」

 海斗は頬を引きつらせる。

「……何でキスをしたのか、その理由をわざわざ言わないとダメかな?」

 潤んだ瞳のまま、美鈴がじっと海斗のことを見つめてきた。

「え、いや、その……」

 海斗は困惑して口ごもってしまう。

 すると、美鈴がくすりと笑った。

「……なんて。ごめんね、突然こんなことを言っちゃって。私ってば変な女よね」

「美鈴さん……」

「昨日、海斗君にキスをしたのは……そう、私がキス魔だからかな。私って実はお酒に酔うとキス魔になっちゃうの。たぶん、その癖が出ちゃったの」

「はっ?」

「なんて冗談、冗談」

 うふふ、と美鈴は微笑む。それにつられて海斗も乾いた笑い声を漏らす。

 何だか上手いこと誤魔化された気もするが、まあ良いか。このまま暗い雰囲気になるよりはずっとマシだ。海斗は内心でそう呟いた。

「そういえば、海斗君ってアルバイトはやったことある?」

 唐突に、美鈴が尋ねてきた。

「いや、バイトはしたことないですけど……」

「そっか。あのね、実は私が前にカウンセラーとして面倒を見ていた子がハンバーガーショップでアルバイトをしているの。それで最近人がやめちゃって代わりのアルバイトを探しているみたいでね。もし良かったら、海斗君そこでアルバイトをしてみない?」

「え、俺がですか?」

 海斗は目をぱちくりとさせる。

「うん。きっと、海斗君にとってもいい経験になると思うの」

 美鈴は微笑んで言う。

「いやいや、そんな無理ですよ。俺みたいな奴がアルバイト、しかも接客業なんて……」

 海斗は力なく呟いて顔を俯けようとする。

「海斗君」

 美鈴に呼ばれて海斗は顔を上げる。すると、彼女が少し怒ったような顔をしていた。

「昨日も言ったでしょ、そんな風に自分をダメみたいに言わないでって。海斗君はやれば出来る子だよ。私はそう信じているの」

「美鈴さん……」

「だからね、怖いかもしれないけどチャレンジして欲しいの。そして、新しい自分の可能性に気が付いて欲しいの。これって私のわがままなのかな?」

 美鈴の寂しげな表情が海斗の心を揺さぶる。こんなきれいなお姉さんにそこまで言われては、卑屈な海斗も立ち上がらない訳にはいかない。

「……わ、分かりました。俺で良ければそのアルバイトやってみます」

 海斗が喉の奥から搾り出すようにしてそう言うと、美鈴の表情が晴れ上がった。

「本当に? ありがとう、海斗君」

 美鈴の笑顔を見ていると妙に照れ臭くて、海斗は思わず視線を逸らしてしまう。

「じゃあ早速で悪いんだけど、今日の放課後にそのお店に行ってもらっても良いかな? 私の方から話は通しておくから」

「わ、分かりました」

 海斗はこくりと頷いた。

「そういえば海斗君、もうお昼ご飯は食べたの?」

「あ、そういえばまだです。購買でパンか何かを買わないと」

 海斗が椅子から立ち上がりかけた時、

「ちょっと待って」

 美鈴が呼び止めて、おもむろにデスクの上に置いてある鞄を開けて何かを取り出した。

「はい、良かったらこれを食べて」

 包みを開いて容器のふたを開けると、そこには色とりどりのおかずが入っていた。

「これはお弁当ですか?」

「うん、そうよ」

「でも、これって美鈴さんが食べる分なんじゃ」

「そんな遠慮しないで。若くて食べ盛りなんだから」

 美鈴に笑みを浮かべながら言われると、元来小食の海斗も若い男子高生らしく食欲が湧いて来るようだった。

「じゃ、じゃあ。遠慮なくいただきます」

「はい、どうぞ」

 美鈴の優しい笑顔に見守られながら、海斗は温かなお弁当を口に運んだ。




 隣町の駅前は多くの人々が行き交いとても賑わっていた。放課後ということもあり、制服を着た高校生の姿も多く見受けられる。

「えーと、確かこの辺りだよな……」

 海斗は美鈴のきれいな手書きの地図を頼りに駅前を歩いていた。やがて赤と白のコントラストが眩しい店が目に入った。そこには『エンジョイバーガー』という看板が立っている。

「あそこかな……?」

 海斗はとても緊張していた。今までにアルバイトの経験などなく、しかも普段来ることのない隣町の駅という不慣れな環境に置かれているからだ。油断をすると、その辺で嘔吐をしてしまうかもしれない。ただ、そんなことをすれば間違いなく社会のクズ認定されてしまうので、海斗は押し寄せる吐き気をぐっと飲み込み、その『エンジョイバーガー』へと向かう。入口の前に立ち、一度深呼吸をする。意を決し店内に足を踏み入れた。

「いらっしゃいませー、エンジョイバーガーへようこそ!」

 すると、いきなり威勢の良い声に出迎えられた。海斗はびくりと肩を震わせてしまう。店内は活気に満ちており、普段決してこのような店に立ち寄らない海斗は足がすくんでしまう。しかしこのまま固まっていても仕方がないので、ゆっくりとレジの方へと向かい店員に声をかけた。

「あの、すいません……」

 今にも消え入りそうな海斗の声に対して、

「はい、いらっしゃいませー!」

 相手の店員は大きく伸びやかな声でそう言った。若い女の子だ。恐らく、海斗と同じ年くらいの。高校生のアルバイトだろうか。

「あっ、あの。良木美鈴さんの紹介で来た者ですが……」

 若干キョドりながら海斗が言う。

「あー、あなたが美鈴さんの! かしこまりました、少々お待ちください」

 にこりと笑みを浮かべて、その女子店員はバックヤードへと姿を消した。

 数分後、彼女は中年の男性と共に海斗の下に戻って来た。

「店長、こちらが美鈴さんの紹介で来た人です」

「初めまして。店長の黒岩(くろいわ)と言います。早速だけど、事務所の方に来てもらっても良いかな?」

「は、はい」

 海斗はその黒岩に付いてバックヤードに入り、そのまま事務所に連れて行かれた。

「じゃあ、そこに座って」

 黒岩が指し示した椅子に海斗は腰を下ろす。テーブルを挟んで向かい側に黒岩と女子店員も座った。

「えーと初めに、君の名前を聞かせてもらっても良いかな?」

「あ、はい。神崎海斗です」

「神崎君ね。話は良木先生から聞いているよ。君をぜひ雇ってくれってね。それでどうだい、君自身はこの店で働く気はあるのかい?」

 そう問われて海斗は一瞬躊躇したが、

「は、はい。あります」

 と答えた。

「それならよろしい。君を採用しよう。早速だけど、ユニフォームに着替えて仕事をしてもらっても良いかな? 初めは簡単な掃除からで構わないから」

「わ、分かりました」

 正直に言っていきなり働くのかよと思ったが、海斗は努めて笑みを浮かべて頷いた。

「よし決まりだ。じゃあ、由香ちゃん。彼の面倒を見てやって」

「はーい、了解しました」

 そう言って、女子店員は立ち上がった。

「初めまして。私はアルバイトの軽井由香(かるい ゆか)です。昔、君と同じように美鈴さんにお世話になっていたんだよ」

「あ、そうなんですか……」

「そうそう。じゃあ、早速ユニフォームに着替えて仕事しちゃおっか」

「分かりました」

 海斗は立ち上がり、案内された更衣室でユニフォームに着替えた。

「おー、中々似合ってるじゃない」

 海斗のユニフォーム姿を見て、由香がそう言った。

「あ、そうですか?」

 海斗は思わず照れて、頬を指で掻いてしまう。

「それじゃあ、私に付いて来て!」

 スタスタと歩く由香の後を、海斗は急いで追った。

「ここに清掃道具があるからこれを持ってバックヤードとかトイレとか、後お客さんが少ない時はフロアのテーブルもきれいにするんだよ。ちょうど今はお客さんが少ないから、フロアの掃除をしよっか」

 そう言って、由香は海斗に布巾を手渡して来た。

「わ、分かりました」

「ねえ、神崎君って高校二年生だよね?」

「あ、そうです」

「じゃあ、私とタメじゃん。そんなかしこまって敬語を使わなくても良いよー」

「はあ」

「私のことは由香って呼んで。その代わり、私も君のことを海斗君って呼ぶね」

「あ、はい」

「また敬語になっている~」

 由香は頬を膨らませた。

「あ、ごめん」

「よし、じゃあお掃除しますか」

 満面の笑みを浮かべる由香に対して、海斗もぎこちなく笑みを返した。




 バイトを終えて店を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。

「お疲れ!」

 後ろからポンと肩を叩かれる。振り返ると、由香がにっこりと笑みを浮かべていた。

「あ、お疲れ……」

「どうだった、初めてのバイトは?」

「うーん、そうだね。正直ちょっと疲れたかな。まさか調理までするとは思わなかったから」

「あはは、まあうちの店はとりあえずチャレンジしてみようってノリだから。ミスを恐れずどんどん仕事にチャレンジして行こうよ」

「うん、分かったよ」

 二人並んで歩いていると、駅前の自動販売機の前を通りかかった。

「そういえば海斗君、喉渇いてない?」

 言われてみればバイト中はずっと緊張状態で気が付かなかったが、驚くほどに喉が渇いていた。

「よし、じゃあ初バイトってことで私がジュースをおごってあげるよ」

「いや、そんな悪いよ」

「良いの、良いの。ちょっと待っててね」

 由香はさっと自動販売機でジュースを買って戻って来た。

「海斗君、オレンジジュースとイチゴジュース、どっちが良い?」

 両方甘い系だな。しかし、奢ってもらう立場で文句を言うのは忍びない。

「じゃあ、オレンジジュースで」

「はいよ」

「あ、ありがとう」

 海斗にオレンジジュースを手渡すと、由香は自分のイチゴジュースを開けて、ゴクゴクと勢い良く飲み始めた。

「……ぷはぁっ! バイト終わりにこの一本はたまらないね!」

「何か仕事終わりのサラリーマンみたいだな」

 思わずその言葉が口を突いて出た。海斗はとっさに口を押える。

「えー、ひどい。私はうら若き乙女だよ。そんな中年サラリーマンと一緒にしないで」

 しかし由香は特に気分を害した様子もなく、むしろ笑いながら海斗の肩をパンパンと叩いた。

 由香は特別美少女という訳ではないが、愛嬌があって何か普通っぽいところが魅力的だ。思えば、海斗はこんな風に同じ年の女子と話をしたのは初めてかもしれない。

「ん、どうしたの? 私の顔に何か付いている?」

「い、いや、何でもないよ。……そういえば、由香ちゃんは前に美鈴さんのカウンセリングを受けていたんだよね?」

「うん、そうだよ」

「ちなみにどんな理由で? あっ、いきなりこんなことを聞いたら失礼だよな。ごめん」

 慌てて海斗が言うと、由香は首を横に振った。

「ううん、別に良いよ。何て言うかまあ……思春期にありがちな友人関係のいざこざで悩んでいたんだよね。ちょっとした行き違いで口論になって、気まずい関係になっちゃって。そんな時に美鈴さんが優しく相談に乗ってくれてさ。カウンセリングっていうより、優しいお姉さんと話をしたって感じだったけど」

「あ、俺もそう思った。あまりカウンセリングって感じしなかった」

「だから私も気負わずに話して、そのおかげで悩みもすっきり解決しちゃったんだよね」

「へー、そうなんだ」

「ところでさ、海斗君って美鈴さんのことをどう思っているの?」

 いきなりそのようなことを聞かれて、海斗は思わずむせてしまう。

「ちょっと、大丈夫?」

「……大丈夫。まあ、優しいお姉さんのようだと思っているよ」

「それだけ?」

「え、どういう意味?」

 海斗はドキリとしてしまう。

「さあねー。まあ、美鈴さんはきれいだから、憧れちゃう気持ちも分かるよ」

 由香がいたずらな笑みを浮かべて言った。

「いや、俺は別に……」

「はいはい、その反応を見ただけで私は満足でございます」

 ぺこりと頭を下げて、由香はバス停の方に向かった。

「じゃあ、私はあのバスで帰るから。海斗君は電車だっけ?」

「うん」

「そっか。じゃあ、また明日バイトでね」

 笑顔で手を振って、由香は去って行く。その後ろ姿を見送った後、海斗もゆっくりと駅の改札口へと向かった。






      6




 日曜日の午前中。

「ねえ、海斗。今日もまたバイトなの?」

 PCの中にいるひなたが眉をひそめて尋ねる。

「まあな」

 海斗は肩にジャンパーを引っかけながら答えた。

 すると、ひなたはどこか不機嫌そうに頬を膨らませて海斗を睨む。

「最近ずっとバイトばかりじゃん。たまにはあたしと遊んでよ!」

「うるせえな、そんなの俺の勝手だろ。それにお前が来てから電気代が上がってんだよ。母さんにもそのことを注意されたから、バイトで金稼いで払わないと」

「でも……」

 ひなたは不満が収まらないようで、尚も食い下がろうとする。

「あぁ、もう分かったよ。バイト代が入ったらお前に何か買ってやる」

 その場を切り抜けるために適当に言ったのだが、ひなたは途端に目を輝かせた。

「本当に? じゃあ、可愛い服買って!」

「ああ」

「約束だよ? 絶対だよ?」

「しつこいな。俺はもう行くぞ」

「うん、行ってらっしゃい!」

 すっかり機嫌を直したひなたに見送られて、海斗は家を出た。

 海斗がエンジョイバーガーでバイトを始めてから一週間ほど経っていた。初めは分からないことだらけで困惑していたが、今はある程度仕事も覚えて慣れてきた。

「海斗君、チーズバーガーワン、ビッグエンジョイバーガーワン、プリーズ!」

 レジで接客をしている由香から威勢の良い指示が飛んで来る。

「はい」

 彼女の威勢には及ばないものの、海斗も初日に比べれば大分声が出るようになった。喋り初めでどもることも少なくなり、それなりに円滑にコミュニケーションも取れる。海斗は手早く注文の品を用意すると、レジへと走った。

「チーズバーガーワン、ビッグエンジョイバーガーワンです」

「ありがとうございます!」

 その瞬間由香と目が合い、彼女はにこりと微笑んだ。

「お待たせいたしました。こちらチーズバーガーとビッグエンジョイバーガーの各セットでございまーす!」

 バイト中は時間の流れが早い。目の前の仕事を必死でこなしている内に、あっという間に上がりの時間を迎えた。

「ふぅ……」

 海斗は休憩室の椅子に座ってぐったりとしていた。仕事中は無我夢中なので気が付かないが、解放された後にどっと疲労感が押し寄せて来る。

「けど、不思議と嫌な気分じゃないな」

 海斗がぽつりと呟いた時、休憩室のドアが開いた。

「よっ、海斗君お疲れ!」

「あ、由香ちゃんお疲れ」

「いやー、今日もよく働きましたなー」

 同じ時間働いていたというのに、由香はにこにこと元気なままだ。

「由香ちゃんって体力あるよね」

「えー、何それ。私のこと体力バカって言いたいの?」

「いや、そんなつもりは……」

 海斗がうろたえると、由香は悪戯な笑みを浮かべる。

「冗談だよ。まあでも実際、私は中学までバリバリのスポーツ少女だったからね。高校になったらやめちゃったけど、まだまだ体力は衰えていないよ」

「今はもうスポーツやっていないの?」

「うん。ほら前にちらっと言ったけど、ちょっとした友達との仲違いが原因でね……」

「あ、ごめん」

 ふいに沈んだ由香の顔を見て、海斗は慌てて謝る。

「ううん、気にしないで。その代わりにこのバイトを初めてまた色々と新しいことを経験出来たから、私は良かったと思っているよ」

「前向きなんだね、由香ちゃんは」

「いえいえ。それにしても、海斗君って仕事覚えが早いよね。たった一週間ちょいでもう普通にハンバーガー作れるし」

「いや、別にそんなことはないよ」

 海斗は少し照れ臭そうに言う。

「私、頭の良い人って憧れちゃうな」

 由香は頬杖を突いて、にこにこと海斗のことを見つめてきた。今まで同年代の女子からは蔑みの目しか向けられたことがない。こんな風に好意的に接してもらえるなんて、正直嬉しくなってしまう。

 その時、休憩室のドアがノックされた。

「はーい、どうぞ」

 由香が返事をすると、ゆっくりとドアが開いた。

「二人ともお疲れさま」

 微笑みを浮かべながら現れたのは美鈴だった。

彼女の姿を見た瞬間、海斗は思わず姿勢を正してしまう。

「あ、美鈴さん。どうしたんですか?」

 由香はあっけらかんとして尋ねる。

「今日はちょうどお休みだし、二人の様子が気になって見に来たの。けど二人ともいつの間にか仲良くなって、もしかしてお邪魔だったかしら?」

 口元に手を添えながら美鈴が言う。

「そうですよー、美鈴さん。私と海斗君のラブラブタイムを邪魔しないで下さいよー」

「あら、ごめんなさい」

 美鈴と由香のやり取りがあまりにも滑らかだったので、海斗が口を挟む隙は無かった。まあ、由香はあくまでもノリでそう言っただけだろうし、真剣に受け止める必要もないだろう。

「さてと、そんじゃ私は帰ろうかな。海斗君」

 由香は椅子から立ち上がり、海斗の方を見た。

「ん、何?」

「美鈴さんと帰る方向一緒でしょ? 私はこれからちょっと用事があるから、美鈴さんを送ってあげなよ」

「え? あ、うん……分かったよ」

 海斗はちらり、と美鈴を見た。すると海斗の視線に気付いた美鈴がにこりと微笑む。

「じゃあ、一緒に帰ろうか。海斗君」




 店の前で由香と別れた後、海斗と美鈴は二人並んで駅へと向かった。

 切符を買い、改札口を通って、ちょうど駅のホームにやって来た電車に乗り込む。

 日曜日ということもあり、電車の中は混み合っていた。まさにすし詰め状態である。

「混んでいるね」

 苦笑しながら美鈴が言った。

「そ、そうですね」

 海斗は答える。電車内は混み合っているため、必然的に海斗と美鈴は密着していた。向かい合って立っているため、美鈴の豊かな胸が押し付けられて、非常に落ち着かない気分になってしまう。おまけに良い匂いまで漂ってくる。

「……あの、美鈴さん。大丈夫ですか?」

 無言のままでいると気が変になってしまいそうなので、海斗はそのように尋ねた。

「うん、大丈夫だよ。ありがとう……」

 その瞬間、美鈴の表情が強張った。

「美鈴さん?」

 海斗が問いかけるも、美鈴は返事をしない。俯いたまま、かすかにその唇が震えている。どこか顔も青ざめているようだ。

 不審に思った海斗はおもむろに美鈴の背後の様子を伺った。

 美鈴の背後には一人の男が立っていた。その男はフードを被っており、右手で美鈴の腰回りを撫でていた。その手付きは嫌らしく執拗に絡みつく蛇のようで、ゆっくりと美鈴の身体を蹂躙して行く。

 海斗は一瞬頭が真っ白になった。その間にも、男の手がじわりと美鈴の綺麗な身体を汚して行く。

 止めなきゃ、助けなきゃ。心の中で強く叫ぶが、海斗は足が震えて思うように動けない。気持ちばかりが先走って身体が追い付いて来ない。もどかしい、目の前で憧れの美鈴が見知らぬ男に汚されているというのに、自分は臆病風に吹かれるばかりで何もすることが出来ないのか。海斗は口惜しさのあまり唇を噛み締める。

 男は美鈴の腰と尻を一通り撫で回した後、今度はゆっくりと彼女の豊かな胸を鷲掴みにし、さらに首筋に口を寄せる。そこから汚れた舌が伸びて、ゆっくりと彼女の首筋を舐めた。びくん、と彼女の身体が震える。

「…………けて」

 掠れるような吐息と共に美鈴が声を漏らす。

「……助けて」

 震える美鈴の声を聞いた瞬間、海斗の中で何かが弾けた。

「――おい」

 低くくぐもった声を発し、海斗は男の腕を掴んだ。男は一瞬動きを止めて、じろりと海斗の方を見る。フードの奥にあるその目は据わっており、異様な迫力を放っていた。海斗は思わず怯みそうになるが、意を決し口を開く。

「お、お前。女の人にそんなことをするなんて最低だぞ。美鈴さんから離れろ!」

 恐怖で声が裏返りそうになるのを必死で堪えながら、海斗は叫んだ。目の前にいる大切な人を守るために、必死で叫んだ。

 すると、海斗の叫びに反応して周りがざわつき始めた。

「何だ痴漢か?」「えー、本当に?」「おい、車掌さん呼べ!」

 するとフードの男はとっさに美鈴から離れて、混み合った電車内を強引に押し進み、そのまま姿を消した。それと同時にちょうど電車が目的の駅にたどり着き、海斗は美鈴を支えながら歩く。周りの乗客が気を遣ってくれたので降りるのに苦労はしなかった。

「美鈴さん、大丈夫ですか?」

 海斗が問いかけると、美鈴はまだ表情が青ざめながらも笑みを作って頷いた。

「うん、ありがとう海斗君」

「歩けますか?」

 力なく美鈴は頷く。

 海斗は美鈴を支えたまま歩いて改札口を抜けて駅を出た。辺りはすっかり暗くなっている。

 どこか落ち着いて休めるところは無いだろうかと思案を巡らせ、海斗はふと近くに公園があることを思い出す。

「海斗君、もう一人で歩けるから大丈夫よ」

「ダメですよ。まだ顔が青いじゃないですか。今は俺に頼って下さい」

 海斗が力強く言うと、美鈴は一瞬目を丸くして頷いた。

「……うん」

 それからしばらく歩いて、海斗達は住宅街の一角にある公園にたどり着いた。その公園は日中に多くの親子連れが訪れていたのだろう。砂場が荒れて、恐らく忘れ物と思しき遊び道具が放置されていた。

 海斗は街灯の下にあるベンチを見つけると、そこに美鈴を座らせる。それでもまだ彼女の顔色は優れない。呼吸も乱れている。そんな彼女の姿を見て、海斗はきゅっと唇を噛み締めた。

「何か飲み物を買って来ましょうか?」

 海斗が言うと、美鈴はふるふると首を振った。

「大丈夫。それよりも、今はそばにいて欲しいの……」

 潤んだ瞳でそう言われて、海斗は不謹慎ながらも胸がドキリと高鳴った。それから言われた通りに、美鈴の隣に座る。

「もっとそばに来て」

「え、あ、はい」

 海斗は躊躇しながらも、美鈴の方に身体を寄せた。すると、美鈴が首を傾けて海斗の肩にもたれかかる。またしても心臓が高鳴ってしまう。

 それから無言のまま、静かな時が流れる。

 何か喋った方が良いのだろうか、と海斗は逡巡していた。

「……私ね、過去にも痴漢に遭っているの」

 ふいに、美鈴が語り始めた。

「初めて痴漢に遭ったのは高校生の時かな。学校の帰りに一人で電車に乗っていた時にお尻を触られて。叫んで助けを求めようと思ったんだけど、怖くて声が出なくて……それからも電車で何度か痴漢をされる内にすっかりトラウマになっちゃって。だから、本当はあまり電車には乗りたくないの。まあ、そういう訳にも行かないんだけどね」

 美鈴は苦笑する。

「じゃあ、もしかして男性も苦手だったりするんですか?」

 海斗が問いかける。

「うん、実を言うと少し怖かったりする。けど、男性がみんなそんなことをする訳じゃないって分かっているよ」

 そう言って、美鈴はじっと海斗のことを見つめる。

「例えば、私のことを守ってくれる素敵な男の子がいるから」

「み、美鈴さん……」

 海斗も美鈴を見つめて、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「ねえ、海斗君。この前、何で私が海斗君にキスをしたのかって聞いたよね? それはね、私が海斗君のことを――」

 美鈴が言葉を発する途中、海斗は慌てて口を開いた。

「ち、ちょっと待ってください!」

 すると、美鈴は言葉をぴたりと止めて海斗を見つめた。

「こ、こういうことは、やっぱり男から言うべきだと思うんで」

 激しい動悸に苛まれながらも、海斗は必死に心を落ち着けるよう努める。

 そして、意を決し言葉を放つ。

「――俺は美鈴さんのことが好きです。初めて会った時からずっと好きでした」

 その直後、辺りはしんと静まり返る。沈黙の時の中で、海斗はひどく焦った。

 もしかしたら、自分は早とちりをしてしまったのかもしれない。情けないことに、早くも告白したことに対して後悔の念を抱き始めた。

「…………はい」

 美鈴が小さく声を発した。

「へっ?」

 海斗は素っ頓狂な声を上げる。

「私も……海斗君のことが好きです。私を海斗君の彼女にして下さい」

 こんな幸せなことがあるだろうか。憧れのお姉さんキャラに似た女性が現実の世界にいて、しかもその女性と結ばれるなんて。今の自分はきっと夢を見ているのだろう。海斗はそう思って頬を思い切りつねる。

「……痛い。夢じゃない」

「もう、海斗君ったら何をやっているの?」

 美鈴が口元に手を当ててくすくすと笑う。釣られて海斗も笑った。

 ふと互いに笑みを止めた。じっと互いを見つめ合う。ゆっくりと互いの顔が近付き合う。

 月明かりに照らされる中で、二人は唇を重ね合った。

 時計の針はちょうど深夜〇時を指していた。































      7




 神崎海斗、十六歳。彼は二次元を愛し、三次元を憎むどうしようもないオタク野郎であった。つい先日までは。

「んでさー」「えー、マジかよ?」「本当だって」「つーか、購買のパンまだ残っているかな?」

 昼休み、海斗は健吾withリア充達と共に、購買を目指して廊下を歩いていた。

「あれ、良木先生じゃん」

 健吾が声を上げる。廊下の向こう側から、美鈴が歩いて来るところだった。

「良木先生、相変わらずおきれいですね!」

 健吾がお得意の軽口を叩くと、美鈴は上品に微笑む。

「あら、ありがとう」

 他のリア充、いやリア獣達も美鈴に群がって言葉を交わそうとする。その最中、一人でぽつんと立っていた海斗に美鈴が視線を向けた。それは他の男子達には見せない女としての目だった。

「それじゃ、私は用事があるから」

「良木先生、また今度お話しましょうね!」

 美鈴はにこりと微笑んで、去って行った。

「はー、相変わらずきれいだったなー」

 健吾とリア獣達が口々に言う。

 その時、ズボンのポケットで海斗のケータイが震えた。おもむろに取り出し、画面を開く。

「……健吾、悪い。俺ちょっとトイレに行って来るわ」

「ん、そうか? じゃあ俺ら先に行っているぞ」

 そう言って、健吾はリア獣達を引きつれて購買へと向かった。一方、海斗はくるりと踵を返して歩き、トイレの個室に入った。改めてケータイの画面を開く。



『海斗君へ

今度の日曜日にデートをしませんか? デート、したいなぁ……

美鈴』


 

 嬉しい、そして可愛すぎる。美鈴は大人な美人だけど可愛すぎる。

 海斗はすぐさま返信を打ち返す。もちろんですと。

『嬉しい。じゃあ、駅前で待ち合わせをしましょう』

 そのメールを見た瞬間、便座に座った状態でガッツポーズをした。




 その日の朝、海斗は以上なまでに早起きをした。

 美鈴とデートをするということで興奮冷めやらぬ状態を落ち着けるため、普段なら絶対にすることのないランニングをするくらい、今日の海斗は平常ではなかった。

 ランニングをした後は入念にシャワーを浴び、精一杯のおしゃれをする。

「ねえねえ、海斗」

 PCの中にいるひなたが声をかけてきた。

「何だ? 俺は今忙しいんだ」

 姿見鏡の前でおかしいところがないかチェックをしていた海斗はそう言った。

「バイト代って貯まった?」

「ん? ああ、頑張って働いたからそれなりにもらえたよ」

「じゃあ、あたしの服を買ってよ! 約束したでしょ?」

 海斗はぴたりと動きを止める。

「あー、その約束だけどさ。無かったことにしてもらえないかな?」

「え、何で?」

 ひなたが眉をひそめて尋ねた。

「実は俺、美鈴さんと付き合うことになったんだ。バイトで稼いだ金は彼女のために遣いたいから、悪いけどお前のためには使えない」

 海斗の言葉を受けて、ひなたは絶句していた。

「……嘘つき。約束を破るなんて最低だよ」

 しばらくして、ひなたが掠れるような声でそう言った。

「仕方ないだろ。俺だって憧れの人と付き合えて今が大事な時なんだ。可愛い服もお前じゃなくて美鈴さんのために買ってあげたいし」

「海斗のおたんこなす!」

 ひなたが叫んだ。

「引きこもり、ニート、二次元ラブのキモオタ野郎!」

「はっ、そのどれもが今の俺には当てはまらないな」

 海斗はあえて、シニカルな笑みを浮かべて見せる。

「ひどいよ、最低だよ……海斗なんて、その美鈴さんにフラれちゃえ! バーカ、バーカ!」

「お前、黙って聞いていれば……何様のつもりなんだよ。お前みたいな厄介な奴をわざわざ匿ってやっている俺の身にもなれよ。お前の相手をしていると疲れるんだよ。俺も大好きな大人のお姉さんとイチャラブして癒されたいんだよ!」

 それまでの海斗にはありえないくらい、鋭い舌鋒だった。

「……何でそんなこと言うの? 海斗はあたしのことが嫌いなの?」

 震える声でひなたが問いかける。

「ああ、嫌いだよ。もう顔も見たくないね」

 吐き捨てるように海斗は言って、PCの前に立った。その中にいるひなたを険のこもった目で睨み付け、彼女が何か言おうとするのを遮るように電源を切った。マイサーバーの電源も落とす。多少苦い思いはあるが、今の海斗はそんなことに構っている余裕は無かった。




 待ち合わせの駅前にたどり着いた。

「海斗君」

 柔らかな声に呼ばれて振り向く。そこにはまさにどんな美しい花も恥じらう、素晴らしい乙女がいた。普段は清楚でしとやかな彼女が、今日は少し華やかな服を身に纏っている。ほんのりと化粧もしている。しかし、彼女の清楚な美しさは損なわれていない。

「もう、海斗君。何か言ってくれないの?」

 すると、美鈴が拗ねたように口を尖らせる。

「あ、すみません。美鈴さんがあまりにもきれいだったから、つい見惚れて言葉を失ってしまいました……」

 照れながら海斗が言うと、美鈴は目を丸くした。それから、ふっと微笑む。

「ありがとう」

「い、いえ。本当のことですから……ところで、本当に電車の移動で大丈夫ですか? 何だったらバスでも……」

「大丈夫。だって、今日は私のことを守ってくれるナイトがいるから」

 美鈴がちょっぴりいたずらな笑みを浮かべて言った。

「わ、分かりました。お守りします」

「うふ、頼りにしているよ」

 美鈴と一緒にいるだけで海斗はまるで夢心地だ。周りの景色がふわふわとして見え、とても落ち着かない気持ちになってしまう。

「美鈴さん、ちょっとお願いがあるんですけど」

「ん、何?」

 美鈴が小首を傾げる。

「前に美鈴姉さんって呼んでも良いって言いましたよね? だから、その……美鈴姉さんって呼んでも良いですか?」

 海斗が尋ねると、美鈴はにこりと微笑んだ。

「ダメ」

「え、何でですか?」

 海斗はにわかに焦ってしまう。

「だって、海斗君はもう私の彼氏だもの。姉さんなんて付けないで……」

 頬を赤く染めて、美鈴は熱っぽい目で海斗を見つめた。

「美鈴さん……分かりました」

「それから、敬語は禁止だよ」

 美鈴は口元に指を置いておどけたように言う。

「わ、分かりまし……分かった」

「うん、良く出来ました」

ああ、彼女が発する言葉の一つ一つがとても甘美でたまらない。

 二人は都心の方へ向かうために電車に乗った。また満員状態である。海斗は固く口元を引き締めて、辺りを警戒するように睨み付けていた。また美鈴が痴漢に襲われないためにも、自分がしっかりしなければ。確かな決意を抱いていた。

「海斗君」

 そんな時、美鈴がおもむろに海斗を呼んだ。その呼びかけに、海斗はふっと顔を上げる。

「さっきから顔が怖いよ?」

「あ、ごめん……その、俺が美鈴さんを守らなくちゃと思って……」

 少し苦い表情で海斗が言う。すると、美鈴は一瞬目を丸くしてから、くすりと笑った。

「大丈夫。海斗君がそばにいてくれるだけで、私は安心出来るから」

 柔らかな笑顔を浮かべて美鈴は言う。海斗はこの笑顔を例え自分が死んでも守らなければ、と強い使命感を抱いた。

 やがて、目的の駅に電車が到着した。電車に乗っている間、美鈴が痴漢に襲われることはなかった。それが自分のおかげかどうかは分からないが、海斗はとりあえずホッと胸を撫で下ろす。

「海斗君、どこに行こうか?」

 駅の改札を抜けて外に出ると、青空の下で天高く伸びる高層ビル群が目に飛び込んで来た。それはまるで雄大な山脈が連なっているようで、ついつい尻込みをしてしまう。海斗が住んでいる場所も決して田舎では無いが、やはり都心ともなるとレベルが違う。何より普段滅多に訪れることが無いので、何がどこにあるのかさっぱり分からない。何となくノリでこの場所で美鈴とデートをすることに決めてしまったが、果たして自分は彼女をきちんとエスコートすることが出来るのだろうか。海斗はむしろこれからが本当の闘いだということで、先ほど以上に緊張感に包まれていた。

 ちょんちょん、と肩を突かれた。

 慌てて振り向くと、美鈴が優しく微笑みを浮かべていた。

「ねえ、海斗君。私行きたい所があるんだけど、付き合ってもらえるかな?」

「え、あ、うん」

「よし、じゃあ行きましょう」

 にこりと笑みを浮かべたまま、美鈴は自然に海斗と腕を組んだ。柔らかな彼女の肌の感触が衣服越しに伝わって来てドギマギしてしまう。対する美鈴は、やはり大人の女性だけあって全く焦った様子はない。自然体でこのお洒落で活気に満ちた都心の街並みを楽しんでいるようだ。

「あ、あのお店」

 しばらく歩いていると、美鈴が足を止めて指を差した。そこには黒とピンクの絶妙なコントラストが目を引く服屋がある。『ハニーズ』と看板に書かれていた。

「雑誌で見たんだけどね、シックな服から可愛い服まで何でもあるんだって」

「へ、へえ。そうなんだ」

「行きましょう」

 曖昧な返事をする海斗の腕を再びぎゅっと握り、美鈴は意気揚々と『ハニーズ』へと向かって行く。海斗は若干戸惑いながらも、彼女と一緒に足を踏み入れた。

 端的に言えば、そこはとてもオシャレな雰囲気の漂う服屋であった。美鈴が言ったように、大人の女性が着るようなシックなドレスから、若い女子が好んで着そうなポップなデザインのTシャツまで、実に品ぞろえが豊富だ。

「わあ、素敵なお洋服がたくさん」

 店に入った途端、美鈴の目がきらきらと輝いた。やはり女性は衣服を初めとしたオシャレに対する関心の度合いが高い。以前の海斗なら「ハッ、これだから三次元のクソビッチ共は」と内心で嫌悪感たっぷりに叫んでいた。しかし、今はそんな風にオシャレを楽しもうとする女性を温かい目で見つめることが出来る。それは相手が美鈴だからこそ抱く感情かもしれないが。

 美鈴は広い店内にある色とりどりのお洒落な服を見て回り、時には手に取って自分の身体に当ててみる。

「どう、似合っているかな?」

「う、うん。似合っているよ」

「うふ、ありがとう」

 微笑むと、美鈴は服を元の場所に戻して海斗の腕をぎゅっと掴んで再び歩き出す。その度にドキッとしてしまうのだから心臓に悪い事この上ない。

 ふと、美鈴が足を止めた。何やら真剣な眼差しをある一点に向けている。海斗がその視線を追ってみると、そこには淡いピンク色のドレスがしとやかに、かつ堂々と佇んでいた。

 美鈴はハンガーにかかった状態のまま手に取る。また先ほどと同じように自分の身体に合わせてみた。

「どう、かな?」

 今までよりも明らかに高級感の漂う服のためか、美鈴はどこかはにかむように尋ねてきた。

 その問いかけに対して、海斗は答えなかった。いや、答えることが出来なかった。

 あまりにも似合っていたから。大人の妖艶な雰囲気が漂いながらも、どこか少女を思わせる可憐さも兼ね備えていて。まるで彼女のためにあるようなドレスだった。

「海斗君……?」

 美鈴が不安げな表情で海斗を呼んだ。

「……買おう」

 ふいに、海斗がぽつりと呟く。

「このドレス、買おう。いや、俺が美鈴さんのためにプレゼントするよ」

「え、そんな悪いよ。だって、このドレス高いよ?」

「大丈夫。俺は美鈴さんの彼氏だから。美鈴さんのためなら喜んで買うよ」

「けど、このドレス十万円よ」

「えっ?」

 思わず素っ頓狂な声を出していた。

 海斗は今日のデートに際して、バイトで稼いだお金とそれから今までの貯金を合わせてそれなりの金額を用意していた。しかし、さすがに十万もの大金をポンと出す余裕は無い。

 完全に勢いを削がれた海斗は、どうすることも出来ず口をパクパクとさせる。それからすぐに途方もない無力感に襲われる。自分は彼氏として、彼女が欲しがる物の一つもプレゼントすることが出来ないのか。

 がっくりと海斗がうなだれていると、美鈴が「あっ」と声を上げた。

「ねえ、海斗君。ちょっと来て」

 美鈴に優しく指先を掴まれて、海斗はよろよろと歩き出す。彼女に連れられてやって来たのは、色とりどりの服が並ぶスペースから外れたところにある、アクセサリー売り場だった。

「これ、可愛い」

 そう言って美鈴が手に取ったのは、ハート型のネックレスだった。見ると、確かにシンプルで中々オシャレである。

「私、このネックレスが欲しいな」

 美鈴に言われてそばにあった値札を見ると、三千円と書かれていた。

「いや、確かに可愛いかもしれないけど。いくら何でも三千円なんて……」

 そんなショボイ値段のネックレスをプレゼントするなんて何か気が引けてしまう。

 すると、海斗の心の声を聞き取ったかのように美鈴首を横に振った。

「値段なんて関係ないの。海斗君が私にプレゼントしてくれる。それだけでどんな高価なドレスや宝石なんかよりも、ずっと価値があるんだよ」

「美鈴さん……」

 海斗はしばらく無言で美鈴を見つめる。意を決しそのネックレスを手に取った。

 会計を済ませて店の外に出ると、美鈴が「ねえ、海斗君」と呼んだ。

「そのネックレス、今すぐに付けても良いかな?」

「え?」

「ダメ、かな……?」

 上目遣いで美鈴が言う。

 そんな風に言われて断る理由など無く、海斗は今しがた買ったばかりのネックレスを美鈴に差し出す。

「海斗君が付けて?」

 その言葉に、海斗は一瞬目を丸くした。

「わ、分かった」

 ドギマギしながらも、海斗は美鈴の首にそのハートのネックレスを付けてあげた。

 彼女はすっとそのハートのネックレスを持ち上げて、にこりと微笑んだ。

「何だか、恋人って感じだね」

「そ、そうだね……」

 直後、二人同時に照れて俯いてしまう。

 美鈴に言われて改めて実感する。そうだ、海斗と美鈴は恋人同士なのだ。お互いに恋し合って、楽しくデートをする。そういった関係なのだ。それは何とも幸せなことだ。

 しかし、そこでふっと思い至る。そもそも自分と美鈴は付き合っても良いのだろうか。いや、それは釣り合いが取れているとかそういうことでは無く(もちろんそれも大いに重要な事なのだが)、仮にも学校の生徒と先生という立場にある両者が付き合うのは、世間的に御法度なのでは無いだろうか。

「あの、美鈴さん……」

「ん、どうしたの?」

 にこりと微笑む美鈴の顔を見た瞬間、胸の内に湧きあがった不安な気持ちは霧散した。

 もう良いや、そんな事は。こんな素敵な人と付き合えるのなら、例え世間から抹殺されようが構わない。とことん、その快楽に溺れてしまいたいと思ってしまう。

 気が付けば、海斗は真剣な眼差しで美鈴を見つめていた。そんな海斗の様子を感じ取ったのか、美鈴も真剣な顔付きになる。

 そのままゆっくりと、二人の唇が重なろうとして――

「ダメよ」

 海斗の唇に柔らかい美鈴の感触が伝わった。しかし、それは彼女の唇ではなく、指先のものだった。海斗は口を塞がれたまま、目で「なぜ?」と問いかける。

「だって、こんな街中じゃ恥ずかしいよ……」

 言われてふと辺りを見渡すと、通りを行き交う多くの人々が目に入った。中には海斗達の様子をちらちらと見ている者達もいる。海斗はハッと我に返り、顔を真っ赤にした。

「ご、ごめん……」

 肩を落として謝る海斗に対して、美鈴は優しく微笑む。

「ううん、大丈夫。あ、今度はあのお店に行ってみましょう」

 ぎゅっと腕を組んでくる美鈴の笑顔を見て、海斗は気を取り直して歩き始めた。




その後も美鈴との幸せなデートは続いた。気負いすぎて終始緊張気味の海斗を、美鈴がさり気なくフォローしてくれた。それはとても嬉しいが、早く彼女をエスコートできるような立派な男になりたい。海斗は強く思った。

 楽しい時が経つのはあっという間で、気付けば辺りは薄暗くなっていた。

「ねえ、海斗君」

待ち合わせた駅前に戻って来た時、美鈴が海斗を呼んだ。

「どうしたの?」

「これから、海斗君の家に行っても良い?」

「えっ?」

 突然の申し出に海斗は困惑してしまう。

「ダメかな……?」

 そんな少女のように潤んだ瞳で見つめられたら断る訳にはいかない。

「わ、分かった。あ、でも家には母と妹がいるけど……」

「じゃあ、私のことを彼女だって紹介して」

 その大胆な物言いに、海斗は黙って頷くしかなかった。

 それから二人は無言で歩いた。その最中も、海斗の胸の鼓動は止まらなかった。

 家にたどり着くと、電気が点いていない。

「ただいま……ん?」

 玄関から中に入ると、そこにメモ書きが置かれていた。その内容は、この前家に来た兄の光矢が忘れ物をしたため取りに来て、そのついでにまたご飯を食べに行くことになったというものだった。

 くそ、あくまでも家族の一員である自分をのけ者にしやがって……とは思わない。むしろ好都合だと思った。

「じゃあ、リビングの方に……」

 歩きかけた海斗の肩を、美鈴が指で突いた。

「リビングじゃなくて、海斗君の部屋に行こ」

「俺の部屋?」

 美鈴はこくりと頷く。海斗はごくりと生唾を飲み込んだ。

 二人はそのまま二階へと上がり、海斗の部屋に入った。

「ここが海斗君の部屋なんだ……」

 美鈴が感慨深そうに言った。

「ごめん、少し散らかっているから片付けるよ」

 海斗が部屋の電気を付けようとした時。

「――そんなことよりも」

 ふいに、美鈴が海斗に抱き付いた。海斗は一瞬、思考が停止してしまう。

「え、あの……」

「海斗君、もう分かるでしょ? この前の告白の時みたいに海斗君の方から……お願い」

 美鈴の甘い吐息が首筋に触れた瞬間、海斗の理性は吹き飛んだ。

「み、美鈴さん!」

 海斗は思い切って、美鈴をベッドに押し倒した。

「きゃっ」

 美鈴が小さく悲鳴を上げる。

「か、海斗君。ちょっと乱暴だよ」

「あ、ごめんなさい」

「もう、そんなに慌てないで。優しくして……」

 ベッドに四肢を投げ出した状態で美鈴が言った。

『姉パラ』は全年齢版しか発売されていない。海斗は今、憧れの東雲美里にそっくりな美鈴と結ばれ、十八禁の世界を体験してしまうのだ。いや、そんな風に考えるのは良くない。今目の前にいるのは東雲美里ではなく、良木美鈴という一人の女性だ。三次元の、現実世界の素敵な女性なのだ。

彼女の口元が妖艶な雰囲気を放ち、海斗のことを誘惑する。今日のデート中、良い感じになってキスをしそうになったが、その時は周りの人目が気になると言われておあずけにされてしまった。しかし、今ついに普段よりも色っぽい彼女の唇に、自分のそれを重ねることが出来るのだ。

「美鈴さん……」

 海斗は静かに彼女の名前を呼び、ゆっくりと顔を近付け、そのままキスをした。

「……ねえ、海斗君。今どんな気持ち?」

 キスを終えた後、頬を紅潮させて美鈴が聞いた。

「もちろん最高だよ。まるで夢を見ているみたいだ」

「そう、それは良かった」

 ふいに美鈴が微笑んだ。海斗は一瞬その意味が分からず首を傾げるが、彼女の優しい微笑みを見ていると次第に意識が遠のいた。




 ハッとして目が覚めた。海斗の部屋は暗いままだ。

「美鈴さん……?」

 辺りに目を凝らして見るが、美鈴の姿は無い。ベッドから下りて部屋の電気を点ける。

「……トイレにでも行ったのかな?」

 海斗はぽつりと呟く。

 ふと、机の上にあるPCに目が行った。なぜか電源が起動されていたのだ。海斗はおもむろにマウスを握って操作をし、マイサーバーにあるひなたの部屋を開く。今朝がたケンカをしたため少々気まずい思いだ。

 電子世界に作られたその部屋はもぬけの殻だった。そこには騒がしい少女の姿は無い。

「……はは、嘘だろ?」

 海斗はにわかに声が震える。

 その時右手に何かが当たり、カサリと音が鳴る。目を向けるとそこには一枚の手紙が置かれていた。



『あなたと恋人でいたのはほんの短い間。けれども、あなたは私に素敵なプレゼントをくれました。ありがとう、そして……さようなら。


良木美鈴、改め「ネオ・カタルシス」幹部、〈シーフル〉』



 気が付けば海斗は激しい動悸に襲われていた。

胸が苦しい。胃酸が喉元まで込み上げて来る。

「……あ、あぁ」

 今思えば、全てが上手く行き過ぎていた。憧れのお姉さんキャラに似た女性が現実の世界に現れて、自分とどんどん関係が進んでそのまま付き合って……全てが仕組まれたように上手く行き過ぎていたのだ。

 それもそのはず。なぜなら彼女はテロリストだった。電子人のひなたを奪うために海斗を籠絡したのだ。恐らくハッカーとして電子世界で勝負を挑まれたら、相手がテロ組織だろうと海斗は負けない。しかし、PCを介さない海斗はただの弱者でしかない。ひなたを守る上で海斗のPCは堅牢であるが、海斗自身は最大のセキュリティホールだったのだ。

 海斗は床にひざまずき、そして両手を思い切り床に叩きつける。

「……ちくしょう。やっぱり三次元の女なんてクソだあああああああぁ!!」

海斗は絶望の鳴き声を上げる。まるで狼のように、窓の外で美しく輝く月に向かって吠えた。




 死にたい。今まで何度も思ったことはあるが、今回はその比ではない。本気で死にたい。

 ベッドの中でうずくまり、海斗は身悶えをしていた。

 あれから一週間、海斗はずっとそうやって無為な時を過ごしている。

『……エンジョイバーガーの店長、黒岩です。ちょっと神崎君、無断欠勤をするなんて本当に迷惑な話だよ。一度くらいなら理由次第では許そうと思ったけどもう限界です。君にはがっかりだ。なぜか由香ちゃんも来なくなっちゃうし……はあ、所詮最近の若い奴なんてそんなもんなんだな。もう来なくて良いから』

 ケータイの留守電を聞いて海斗は力なく天井を見つめる。あの夜、海斗は深い絶望を味わった。だから今更、周りにどんな罵詈雑言を浴びせられようが全然平気だ。何も感じない。一度空いた穴が大きすぎて何も響いてこない。完全に麻痺している。

「……とうとう詰んだな」

 そうだ、海斗の人生はもう終わったも同然だ。初めて三次元の女性を愛して、海斗は生まれ変わることが出来るかもしれないと自分に期待した。それがこのザマだ。笑ってしまう。あまりにも絶望し過ぎて、もう涙すら出て来ない。本当に負け犬だ。〈テラファング〉なんてご立派なハッカーネームを名乗ってネット上で威張っていた自分が恥ずかしい。自分のことを買ってくれていた光矢も、今回の件ですっかり愛想を尽かしたことだろう。

「はは、俺ってばダサ過ぎ……」

 自嘲するように言った。

 ――ねえ、海斗!

 ふいに、明るい声が胸の内で響いた。それはひなたの声だった。

 ――ねえ、海斗ってば!

 テロリストにさらわれていなくなったというのに、ひなたは未だに海斗の心に住み着いて、時々こんな風に幻聴を聞かせてくる。全く鬱陶しいことこの上ない。

「ちっ、うるせえな」

 海斗は苛立って舌打ちをする。

 ――何でそんなことを言うの?

 その瞬間、悲しみに暮れるひなたの顔が脳裏に浮かんだ。

直後、海斗はふっと目を見開いた。

 そういえば、ひなたとは結局仲直りも出来ないまま別れることになってしまった。

「……ふん、別にあんな奴となんて仲直りする必要なんてない。あんな奴いなくたって構わないさ」

 海斗は吐き捨てるように言う。

 だがその時、初めてひなたと出会った時からの出来事が走馬灯のように脳内を駆け巡った。

 騒がしくてわがままで鬱陶しくて。けれども、そんな彼女のことが決して嫌いじゃなかった。一緒にいて楽しいと思う時もあった。

 気が付けば、海斗はベッドから起き上がってPCを起動していた。

 思えばずっと心に引っかかっていた。ひなたの欠けたデータ、恐らく父親に関する記憶。それを見つけたところでどうなる訳でもない。ただ、このまま何もせず無為な時を過ごすよりはマシだと考えた。

 インターネットは広大だ。その中から失われた記憶のデータを探すなんて、砂漠の中で失くした宝石を見つけるくらい困難を極める。しかし海斗には考えがあった。

 海斗はとある個人のコンピューターにハッキングを仕掛けた。それは名のあるハッカーの一人だ。いきなりPCに侵入されたせいかひどく焦っているようだ。画面に表示されるコードの羅列からその様子が手に取るように分かる。

〈俺様はテラファング。貴様はこれから俺様の言うことを聞かなければならない。断わるようなら、貴様の情報を根こそぎ奪った上でネット上にばらまく〉

 単調で何のひねりもない脅し文句だ。だが相手はあっさりと屈服した。

ネット上で〈テラファング〉となった海斗は怖い物知らずなのだ。

〈よし、これから俺様の指示に従って動け。まず、大勢の仲間を集めろ〉

 海斗は、〈テラファング〉として横柄に命令した。

 それからネット上で大規模な捜索隊が結成された。失われたひなたの記憶のデータを捜索することを目的としている。ただし、彼らには電子人に関する情報は与えていない。それは伏せた上で捜索を依頼した……いや命令した。

ネットに精通した選りすぐりのエキスパート達の力をもってしても、捜索は難航を極めた。海斗自身も黙って見守る訳ではなく、むしろ陣頭指揮を取る勢いで猛烈に電子世界を駆け巡った。その間、海斗は現実の生活を捨てていた。部屋にずっとこもりきりで、学校には行かず風呂にも入っていない。時折、母が用意してくれるご飯をほんの少しかじる程度で、後はネット上の捜索活動に没頭した。

 そんな生活を二週間以上続けた時、海斗の下に吉報が届いた。

 捜索隊がネット上に無造作に捨てられているデータを見つけたという。海斗は早速そのデータを受け取りコードを解析すると、ひなたのそれと一致することが判明した。

〈ご苦労だった〉

 その一声で捜索隊は解散となった。

 海斗は自室で一人静かに、その記憶のデータを見つめる。

 少しためらった後に、マウスでクリックをしてデータを開いて再生した。




「パパ、これ見て!」

 可愛らしい小さな少女が、白衣を着た男の下に駆け寄る。

「どれどれ……おお、これはきれいなお花だね」

「えへへ、パパのために摘んできたの」

「そうか、ありがとう」

 白衣の男は微笑んだ。

「なあ、ひなた。ママがいなくなって寂しくないか?」

「うん、寂しい。けど、パパがいてくれるから大丈夫だよ!」

 小さな少女は無垢な笑みを浮かべて微笑んだ。

「ひなた、ありがとう」

 白衣の男は優しい微笑みを浮かべてそう言った。




「やめてくれ、それだけは嫌だ!」

 白衣の男は悲痛な叫びを漏らす。

「小比類博士、そんなことを言っている場合では無いんです。大人しく娘さんを実験台にして下さいよ」

 黒スーツに身を包んだ男が言う。

「お前達は私が計画に協力すればひなたには手を出さないと言った。約束が違うぞ!」

「しかし、そのための実験が上手く行かない。そこで私達は考えました。大切な娘を実験台にすれば、あなたも必死になって実験は成功するだろうと。これは組織の意向だ」

「ふざけるな! 絶対にひなたを実験台になんかしないぞ」

「そうですか。では、あなた達親子を殺すしかありませんね」

 黒スーツの男は胸に手を突っ込んだ。拳銃を取り出そうとする。

「待って!」

 その時、一人の少女が叫んだ。

「あたし、その実験台になっても構わない」

「ひなた、何を言っているんだ? この実験で既に百人以上が死んでいるんだぞ? とてもじゃないがこんな実験は成功しないんだ」

「でも、このままじゃあたしとパパは殺されちゃう。だったら、あたしはその実験台になる。大丈夫だよ、パパならきっと成功させてくれるって信じているから」

 少女はにこりと笑って言った。

「ほら、娘が腹を括っているんだ。あなたも覚悟を決めて下さい、小比類博士」

「…………くそ」

 白衣の男は力なく頷いた。




「さあ、後は最終段階を残すのみだ。素晴らしいよ小比類博士。もうすぐ偉大な実験が完成しようとしている」

 黒スーツの男が不敵な笑みを浮かべて言う。

「……ひなた、大丈夫か?」

 黒スーツの男の言葉を無視して、白衣の男は少女に問いかける。

「うん、大丈夫。この胸にあるボタンを押せば良いんだよね?」

「ああ、そうだよ……ひなた、すまない。大切なお前の身体をそんな風に改造してしまって」

「良いんだよ、パパ。そんなこと気にしないで。この実験が成功したら、二人でどっかにお出かけしよう?」

 少女にこりと微笑んだ。

「じゃあ、行って来るね」

 直後、眩い閃光が放たれる――




 そこで、映像が途切れた。画面は真っ黒い闇に支配されている。

「……どういうことだ?」

 しばらく硬直していた海斗が、ぽつりと言葉を吐く。

 天才科学者の小比類彼方は、凶悪なテロ組織ネオ・カタルシスと手を組んで『電子人製造計画』を行った。それが海斗の知っている情報であった。しかし、真実は違った。

 海斗は黙ってPCの画面を見つめていた。やがて、ぎゅっと唇を噛み締める。血が出るくらい強く。睡眠不足でクマが出来ているその目には、しかし静かな決意の炎が宿っていた。




























      8




 淡く発光する電子世界の風景を、虚ろな眼差しで見つめていた。

 一体自分はいつからここにいるのだろうか。

 そうだ。海斗とケンカをして塞ぎこんでいた自分を、あの美鈴という女が連れ去ったのだ。為す術もなく、というよりも思考をする前に捕まり、そしてここに連れて来られた。普段の自分なら騒ぎ立てるところだろうが、なぜかその気力も湧かない。

「はあ……」

 後ろ手に縛られた状態で、ひなたはため息を漏らす。

〈――ご機嫌はいかがかしら?〉

 ふいに声が響いた。顔は見えないが、その声には聞き覚えがあった。

「……その声は、海斗をたぶらかした美鈴さん」

〈正解。まあ、その名前は偽名だけど。ネオ・カタルシスの幹部としての名はシーフルよ〉

「そんなのどっちだって良いよ」

〈あらあら、どうやらご機嫌斜めのようね〉

 美鈴――シーフルはくすりと笑い声を漏らす。

「あたしを捕まえて、どうするつもりなの?」

〈もちろん、私達の目的のために働いてもらうわ。電子世界を支配し、行く行くはそのまま現実世界をも手に入れる。それが私達ネオ・カタルシスの目的よ。それに、電子人として成功したあなたをサンプルにすれば、今後多くの電子人を生み出すことも可能だわ〉

「ふん、そんな事のためにあたしは協力なんてしないもん」

〈言うことを聞かなかったら、殺すわよ〉

 あっさりとした口調で言われた。ひなたは思わず息を詰める。

〈うふ、冗談よ。貴重な電子人のあなたを簡単に殺したりしないわ。けれどもあまり聞き分けが悪いようだと、ちょっと痛い目を見るかもしれないわよ?〉

 シーフルは顔が見えず声しか聞こえないので、その語りが不気味に響く。

 ふいに恐怖に駆られたひなたは、海斗が助けてくれると叫ぼうとして、その言葉を飲み込んだ。そう、自分と海斗はケンカをしたまま引き離されてしまった。海斗は自分のことを相当鬱陶しく思っていたようだし、きっと助けには来てくれないだろう。そう思うと切なくて、寂しくて、涙がこぼれそうになってしまう。

〈残念ね。あなたのナイトは私が奪い、そして牙をもがせてもらったから。きっと助けには来ないわよ〉

 意地の悪い笑い声がひなたの鼓膜を不快に揺さぶる。

 何であたしがこんな辛い思いをしなければならないのだろう。誰か助けて。

〈――誰の牙がもがれたって?〉

 低く唸るような声が聞こえた。それはまるで獰猛な獣のようで、それでいて聞き覚えのある温もりを感じた。

「……海斗?」

 ひなたが掠れるような声で呼んだ。

〈違うな。今の俺はテラファング。電子世界において最強、ありとあらゆる物を狩る存在だ。取り分け今回の獲物は大きそうだ。なあ、ネオ・カタルシスさんよ?〉

 その時、ひなたは目の前に勇ましい狼の姿を見たような気がした。

〈どういうこと? なぜこの場所が分かったの?〉

 それまで余裕だったシーフルが、にわかに焦った声を発する。

〈俺の兄貴は抜け目がないからな。ひなたに服をくれた時、それに発信機を付けておいたんだよ。おかげで、すんなりとお前らのコンピューターを見つけることが出来た〉

〈けれども、場所が分かってもそう簡単に侵入出来るはずが……〉

〈一流のハッカーっていうのは、相手に気づかれずにコンピューターに侵入することなんて容易いんだよ。風の如く侵入し、風の如く去る。相手に決して気付かせない。けどまあ、今回はちょっとばかし用事があったから、IP電話の技術を応用してわざわざお前らに語りかけて存在を示した訳だ〉

〈その用事っていうのは?〉

〈お前らをぶっ飛ばす。そして、まあ……そこにいる騒がしい奴を連れて帰る〉

 最後の一言を、ぼそりと呟いた。

「海斗……何であたしのことを助けに来てくれたの?」

 騒がしい奴と呼ばれていつもなら怒るところであるが、ひなたはむしろ泣きそうな声で尋ねた。

〈別に、ただプライドが許さなかっただけだ。現実世界の神崎海斗はどうしようもないクソ野郎だが、電子世界のテラファングは気高き狼でなければならない。そこにいる美しい泥棒さんにはたっぷりと仕返しをしてやらないとな〉

〈あらあら、随分と怖いことを言われちゃったわ。けれども、あなたの相手をするのは私ではないの〉

 シーフルはくすりと不敵な笑い声をこぼす。

〈じゃあ、誰が相手をしてくれるんだ?〉

 海斗が強気な姿勢で問い質した時。

〈――我輩ガ、貴様ノ相手ダ〉

 妙に不快で電子的な声が響いた。

〈誰だ?〉

 海斗が警戒するように言った。

 すると、ひなたのすぐそばで禍々しい黒い塊が現れる。

〈我輩ノ名ハ、クジュード。貴様ヲ食イ殺スタメニ作ラレタ、AI搭載型ノ高性能ウイルスダ〉

 黒い塊がそのように言うと、海斗がふっと笑った。

〈なるほどな。けれどもAIを搭載してお喋りだけ達者になって、肝心のウイルスとしての力が弱いようじゃ話にならないぜ?〉

〈我輩ヲ舐メルナヨ?〉

〈舐めたりはしねえよ。ただ、噛み砕くだけだ〉

〈貴様ハ、問答無用デ始末スル〉

 クジュードの瞳が怪しく光った。




 一体自分は何をやっているんだろうな。海斗は自嘲するように心の中で呟いた。

 奪われたヒロインを取り戻すために凶悪な敵に立ち向かう。まるでマンガやアニメの主人公みたいだ。

テラファングなんて言うと荒くれ者みたいだが、海斗のハッキングは本来もっとスマートだ。音もなく相手のコンピューターに侵入して一切の痕跡もなく立ち去る。時には貴重なデータを奪ったりもした。

ただ、先日の捜索隊を作った時のように力づくで相手を屈服させることもある。それは必要性を感じた時だけだ。だから、今回は力づくで行く必要性を感じたんだろう。

「ただひなたを取り返すだけならもっと上手いやり方もあった。それがわざわざこうやって姿を見せてケンカを売っているのは俺のエゴだ。お前らをぶっ飛ばしたいっていう俺のエゴだ」

 海斗はすっと瞳を閉じて、直後かっと見開いた。

「俺は……お前らを噛み砕く!」

 その言葉を皮切りに、海斗は戦闘モードに切り替わる。

 目にも止まらぬスピードでキーボードを叩き始めた。

まずは相手のデータを把握し、それから噛み付く。いきなり核となるデータを奪えば理想だがなかなかそうも行かない。相手は仮にも凶悪なサイバーテロ組織が造り出したウイルスだ。油断は出来ない。だから少しずつ周りから攻め立てて行くのが定石だろう。自分のデータは食われないよう上手いことかわしながら、相手のデータだけを奪い、場合によってはネット上に流す。

しかし、今回はあえてそのような措置は取らない。ただ無償に相手を噛み砕きたい。なぜ今の自分はこんなにも気持ちが荒ぶっているのか、海斗はよく分からなかった。いや、今はそんなことを考えている暇はない。ただ目の前の敵を噛み砕く。それだけに集中しよう。

「データをスキャン、捕捉してからぶち壊す」

 荒ぶるテラファングの牙によって、クジュードのデータが削られる。向こうも反撃しようと襲いかかって来るが、海斗は巧みにダミーデータを緩衝材として挟み自身は無傷のままだ。

〈貴様、サキホドカラ小賢シイゾ〉

「じゃあ、今度はもっと派手に決めてやろうか?」

 海斗は不敵な笑みを浮かべて言う。

 直後、クジュードに接近してそのプログラムの核となる部分を噛み砕いた。

〈ウグッ!〉

 クジュードの悲痛な叫び声が上がる。

 海斗は攻撃の手を一切緩めない。獰猛な狼のように、相手の骨の髄まで食らい尽くす。テラファングとして圧倒的な力を誇る海斗の前に、クジュードは為す術もなくその身を噛み砕かれていく。

〈グアアアアアアアァ!〉

 けたたましい断末魔の悲鳴が上がった。クジュードの身体が明滅し、崩壊の一途をたどる。

そして、彼は無残にも散った。

〈……勝ったの? 海斗が勝ったの?〉

 ひなたが力の抜けたような声で言った。

「当たり前だろ。俺様の手にかかれば、例えテロ組織のウイルスだろうと余裕で倒せるんだよ」

 海斗は勝ち誇るように言った。

〈すごい、海斗かっこいい!〉

 ひなたの無邪気な笑いを見て、海斗は無性に照れ臭くなった。

「ほら、さっさと帰るぞ。今その縄を解いてやるから」

 海斗はひなたに歩み寄り、自身のPCにダウンロードの要領で取り戻そうとする。

〈――海斗、危ない!〉

 はっとして海斗は辺りの様子を伺う。いつの間にか、背後に消滅したはずのクジュードが迫っていた。

 しまったと思った時、深い闇色のクジュードが海斗に――テラファングに覆いかぶさった。

「くそ!」

 海斗は机を拳で叩いた。一瞬でも油断をした自分が憎くてたまらない。

〈ククク。我輩ハコノコンピューターニイル限リ、何度デモ蘇ルコトガ出来ルノダ〉

 クジュードは低くくぐもった声を発する。その瞳はぎらぎらと光っていた。

 海斗は急いで捕縛された状態から脱出を試みるが、電子世界での分身であるテラファングはがっちりとホールドをされたまま身動きが取れない。

〈大人シク降参シロ〉

「はっ、嫌なこった」

 吐き捨てるように海斗は言う。

〈降参シナイナラ貴様ノ個人情報ヲ奪ッテ、ネット上ニバラマク。ソウナレバ、貴様ハ終ワリダ〉

 クジュードの脅しに対して海斗は無言のままだ。

するとクジュードの闇色がきらめき、怪しく発光した。

「なっ」

 海斗のPCの画面上で無数のコードの羅列が浮かぶ。物凄いスピードで、海斗の個人情報が抜き取られている。慌てて阻止しようと試みるが、クジュードが情報を食らうスピードの方が上回った。

〈テラファングノ全情報ヲ獲得。バックアップ完了。コレヨリ他ノネットワークニ放出スル〉

「やめろ……それだけはやめてくれ!」

 海斗は狼狽した様子で叫ぶ。

〈モウ遅イ〉

 直後、クジュードの身体から無数のコードが溢れ出し、他のネットワークに海斗の個人情報が流れて行った。

「あ、ああ……俺はもう終わりだ」

 海斗はうなだれて、絶望の声を漏らす。

〈クク、大人シク我輩に従ッテオケバ良イモノヲ〉

 クジュードは冷徹に言った。機械的ではあるが、どことなく勝ち誇ったような雰囲気を纏っている。高度なAIの為せる技だろう。

「…………なんちゃって」

 海斗はにやりとほくそ笑んだ。うなだれた状態からすっと身体を起こしてキーボードに指を置いた。

「この俺様が、そう簡単に個人情報を流出させる訳ないだろうが」

〈ナニ? ドウイウコトダ?〉

 クジュードが疑問の声を上げる。

「ボットだよ」

 海斗は端的に答えた。

〈ボット、第三者ノPCヲ制御スルプログラム。ソレガドウシタ?〉

「ネオ・カタルシスのコンピューターに攻め込む前に、俺は予め周辺のPCにボットを仕込み、ボットネットを作っておいた。だから、今しがたお前が流した俺の個人情報は、そのボットネットによって拾われている。だから、インターネットには流出していない」

〈クソ、ヤハリ貴様ハ小賢シイ〉

「おいおい、そんなこと言って良いのかよ? お前らは今完全に包囲されているんだぜ?」

〈ナンダト?〉

「DDoS(ディードス)攻撃って言えば分かんだろ? 俺のボットネットを形成するPCは数千台にも及ぶ。それだけのPCが一度にアクセスを仕掛ければ……」

〈マサカ、我々ノコンピューターヲダウンサセル気カ?〉

「ご名答。それじゃあ、集中砲火まで二十秒前」

 海斗はにやりとほくそ笑み、意気揚々とカウントダウンを始める。

〈マ、待テ。モシソンナコトヲスレバ貴様ハトモカク、アノ電子人ノ少女モダメージヲ受ケテシマウ。下手ヲスレバ消滅シテシマウカモシレナインダゾ?〉

「その点は心配ご無用だ」

 海斗は不敵に微笑む。

「ひなた」

 海斗が呼びかけると、ひなたがぴくりと反応した。

「お前を重要プログラムとして俺のPCに超高速ダウンロードする。少し目が回るけど我慢しろよな」

〈へっ?〉

 直後、海斗は凄まじいスピードでキーボードを叩く。

「準備完了。ついでに集中砲火まであと五秒。そして一足先にダウンロード!」

 海斗は力強くエンターキーを押した。

 直後、ひなたが超高速でネット回線を移動し、海斗のPCに流れ着く。それと同時に、ネオ・カタルシスのコンピューターの反応が消失した。

「おい、生きてるか?」

 海斗はPCの画面内で目を回してへたりこんでいるひなたに声をかける。

「う~ん……」

「ほら、しっかりしろ」

 海斗はカーソルを操作してひなたの頬をつつく。すると、ひなたはハッとして顔を上げた。

「ここは……海斗のPC?」

「ああ、そうだよ」

 超高速で移動したせいでまだ酔っているのだろうか。ひなたはどこか上の空である。

「……海斗。何で、あたしのことを助けに来てくれたの?」

 ひなたが問いかける。海斗は一瞬答えに迷ったが、

「お前に渡さなきゃいけない物があるから」

 海斗はマイサーバーにアクセスして、大切にプロテクトをかけていたデータをひなたの前に置いた。

「これは?」

 ひなたが小首を傾げる。

「お前の失った記憶だよ」

 海斗が言うと、ひなたは大きく目を見開く。

「え、どうして海斗がそれを……もしかして、わざわざ探してくれたの?」

 海斗はその問いかけに答えず、データのプロテクトを解いた。

「これはお前にとって大切な記憶であると同時に、とても辛い記憶でもある。それでも受け入れる覚悟があるなら、受け取ってくれ」

 突然そのようなことを聞かれてひなたは困惑しているようだった。

だが、やがて決意の表情を浮かべて口を開く。

「うん、受け入れるよ」

「……そうか。じゃあ、じっとしていろ」

 海斗はひなたの記憶のデータを、彼女自身に送り込む。

 一瞬びくりと反応してから、ひなたは顔を俯けた。

「……思い出したよ、海斗。パパのことを。……良かった、この思い出を失わないで」

 ひなたは自らの心情を吐露しながら、ぽろぽろと涙を流した。

 海斗はそんな彼女の姿をしばらく黙って見つめる。無言の時の中で、ひなたのすすり泣く声だけが聞こえていた。

 それからしばらくして、海斗はおもむろに口を開く。

「じゃあ、そろそろ出かけるか」

「出かけるってどこに?」

 指先で涙を拭いながらひなたが言った。

「お前の父親のところだよ」




 都心の一角に大きな総合病院がある。白く巨大なその建物に海斗は入って行った。

「小比類彼方さんの病室はどこですか?」

 受付けの看護師に海斗は尋ねる。

「失礼ですが、あなたと小比類彼方さんのご関係は?」

「赤の他人です」

 海斗が言うと、看護師は小さく眉をひそめた。

「申し訳ございません。面会謝絶の状態です」

 そして、冷たい口調で言う。

 やはりそうか。海斗は看護師の答えを予測していたので特に腹を立てることも無かった。凶悪な人体実験を行ったとされている小比類彼方は、警察や情報機関ネクサスなどの担当者しか面会することを許されていない。

「そうですか。一応、許可証をもらっているんですけどね」

 海斗はズボンのポケットから一枚の紙を取り出して、看護師の前に差し出した。それは兄の光矢に頼んでそのツテで発行してもらったものだ。

 看護師はその許可証を胡乱げな瞳で見つめてから、改めて海斗の方に視線を向ける。

「……かしこまりました。小比類彼方さんの病室はこちらです」

 口には出さずメモ用紙にその病室を記す。『特別療養室』と書かれていた。

「ただ小比類彼方さんは意識不明の状態ですので、お話することは出来ませんよ」

「そうですか。けど、もしかしたら目を覚ますかもしれませんよ?」

「は?」

 海斗は小さく頭を下げて、受付を後にした。

 その特別療養室は病院の本棟とはまた別の特別棟にあるようだ。海斗は無言のまま歩きその場所を目指す。

 やがて、目的の特別療養室にたどり着いた。

 海斗はゆっくりと扉を開いて中に入る。

 そこにはベッドに横たわる一人の男がいた。弱々しく不安定な呼吸をしている。その顔は青白く、ほとんど生気を感じられない。自らの実験で娘を失い、その興奮(カタルシス)によって意識不明に陥ったマッドサイエンティスト――とてもそんな風には見えない。

 海斗はポケットに手を入れて、ケータイを取り出した。

「もう、出ても良いぞ」

 そっと囁きかけるとケータイの画面が淡く発光し、そこからひなたが飛び出した。

 彼女は意識を現実の世界に切り替えるために首を振った。それから目の前でベッドに横たわる男――小比類彼方の方を見た。

「……パパ」

 ひなたは小さく声を漏らす。そのままゆっくりと彼方の方へと歩き、その手を握った。

「パパの指、こんなに細くなっちゃって。辛かったんだよね。あんな実験をさせられたことが」

 自らもその被験者でありながら、ひなたは深く同情するように言った。自分のことよりも愛する父の方がよほど心配なのだ。彼女にはこんな一面もあるのだと海斗は少し意外に思った。

「あたしは大丈夫だから。ちゃんと生きているから。だからお願い、目を覚まして」

 ひなたは願う。小さな手で弱り切った彼方の手を握り、精一杯願った。

 海斗は神様なんてロクに信じてはいないが、これだけ純粋な願いが届かないのであれば、そんな存在はクソ食らえと強く思った。

 その時、骨ばった彼方の指先がぴくりと動いた。

 ひなたがハッとして彼方の顔を見つめる。

苦悶の表情を浮かべた後に、ゆっくりとその目が開かれた。

「パパ!」

 ひなたが叫んだ。先ほどよりも強く彼方の手を握り締める。

「…………ひなた?」

 そう言った彼方の声はひどく掠れていた。久方ぶりに声を発したせいだろう。

「何でお前が……私の愚かな実験のせいでお前は……」

「あたしは生きているよ!」

 ひなたは力強くそう言った。

「だから安心して、パパ」

 そして両目に涙を浮かべる。

 ひなたの涙に誘われて、彼方の目にもじんわりと涙が込み上げてきた。それが目尻からこぼれ落ちて枕に染み渡る。

「うぅ、良かった……お前が生きていて本当に良かった」

 それは心の底から娘を愛する父の言葉だった。確かな芯が込められた温もりが、海斗にも伝わって来る。

 そこでふと、彼方は海斗の方を見た。

「ところで……そこにいる彼は?」

「ん? あ、この人は海斗って言うの。あたしのことを助けてくれたんだよ」

 にこりと微笑んでひなたが言う。

「そうなのか?」

 そんな親子のやり取りを見て、海斗はおもむろに口を開く。

「初めまして、小比類博士。神崎海斗と言う者です。今日はあなたとひなたを再会させるために付き添いでやって来ました」

「そうか……詳しいことはよく分からないが、娘が世話になったね」

「いえ、それほどでも……それでは、俺はこの辺で失礼させていただきます」

「え、海斗もう帰っちゃうの?」

 ひなたが目を丸くした。

「言っただろ、俺は付き添いだって。久しぶりに再会したんだ。親子水入らずの方が良いだろ?」

「海斗……そんな風に気を遣えるんだね。見直したよ」

「うるせえよ、バカ。とにかく俺はもう帰るからな」

 海斗は踵を返して病室の扉へと向かう。

「海斗、ありがとう」

 背後でひなたの声がした。

 海斗は無言のまま、病室を後にした。




 情報機関ネクサス、その本部の廊下を海斗は歩いていた。

 その廊下は天井が高く、ガラス張りのため解放感がある。ただ重要機密の保護も請け負っている癖に、なぜそのように外部から様子を伺いやすい造りにしたのかはいささか疑問だ。まあ、強者はあえて包み隠さず己をさらけ出す。それと同じ原理かどうかは定かではないが。

 そんな取り留めもないことを考えている内に、とある部屋の前にたどり着く。

 ドアをノックすると、中から返事が聞こえた。

「おう、来たか海斗」

 開口一番、兄の光矢はいつものように軽い感じで言う。恐らく二十畳はあるその部屋には、高価なサーバーやルーターが複数台置かれている。周りを固める周辺機器も大変充実しており、海斗はつい羨ましいと胸の内で呟いてしまう。そんなハイテクサイバー機器に囲まれた状態で、光矢は悠然とデスクに腰を掛けて海斗に微笑みかけていた。

「つーか、これって本当に個室か? 無駄に広すぎるだろ」

「まあこれでも一応、俺はサイバーテロ対策部のリーダーだからな」

「さすがだな、兄貴」

「はは。まあ、立っていないで座れよ」

 海斗は光矢に勧められてソファに座る。テーブルを挟んで向かい側のソファに光矢も腰を掛けた。

「それにしても海斗、今回はお手柄だったな。あのネオ・カタルシスを相手によくやったよ」

「別に、自分で自分の尻拭いをしただけだ。そんな大したことはしていない」

「またそんな風に謙遜して。お前のハッキング技術がなければ、あのままひなたちゃんはネオ・カタルシスの物になり、厄介な事態に発展するところだった」

 光矢はにこりと笑みを浮かべて言った。

「そうか。褒めてもらえて光栄だよ〈シャドウリーダー〉」

 海斗が静かな口調で言うと、光矢の笑みが一瞬固まった。

「おいおい、そのハッカーネームで呼ぶのはやめてくれよ。前にも言ったと思うが、今の俺は世のため人のために働く高潔な情報戦士なんだぜ?」

「……ネオ・カタルシスのウイルス、クジュードをスキャンした時に見えたコードの羅列。そこで随所に〈シャドウリーダー〉のアナグラムが散りばめられていた」

 海斗は静かな声で淡々と言った。

「……なるほど、それで俺が事件の黒幕だと?」

 光矢は口元に薄らと笑みを浮かべる。

「いや、それだけじゃない。そもそも、ひなたの件を警察はおろか自分が所属する組織にすら伝えず、俺に預けようとした点でおかしいと思った。兄貴はひなたを俺の下に預けることで、いつでもさらえる状態を作っておいたんだ。そこへカウンセラーの良木美鈴が現れた。兄貴が情報操作か何かをして、本来うちの学校に赴任するはずだったカウンセラーの代わりに、彼女をカウンセラーとして寄越したんだろう。そして俺は彼女がテロ組織の一員だなんて知らず、まんまと籠絡されてひなたを奪われた」

 光矢は言葉を発しない。海斗は続ける。

「ただ一つ疑問なのは、なぜ俺から連絡を受けた時点ですぐにひなたを自分の物にしなかったのかということだ。わざわざ回りくどい手段で俺からひなたを奪った。それはなぜだ?」

 光矢が小さく息を吐いた。薄らと浮かべる笑みを崩さぬまま、海斗を見つめる。

「俺は電子世界、引いては現実世界を支配したいと考えている。そのために電子人という存在が必要だった。お前もすでにその有用性は理解しているだろう? そこで俺は天才科学者と呼び声の高い小比類博士に依頼して『電子人製造計画』を行った」

「依頼した? 脅したの間違いなんじゃないのか?」

 海斗がぎろりと睨む。光矢は苦笑した。

「手厳しいな、弟よ。ただ、実験は中々上手く行かなくてな。ついには小比類博士の娘であるひなたちゃんを実験台にするように指示を出した。愛娘が実験台となれば、彼も必死で成功させようとすることを期待したんだ。しかし、残念なことに結果は失敗に終わってしまった……かに思われた」

「だが、実際には成功していた」

「そう。実験の結果が芳しくなく、肝心の小比類博士もショックで倒れて意識不明の状態に陥ってしまった。俺は落胆していたが、そんな時にお前から吉報が届いた。俺は一瞬、すぐにひなたちゃんを受け取ろうと思った。警察やネクサスには伝えず、そのままネオ・カタルシスの物にすることは容易かった。しかしその時、俺の頭の中であるシナリオが浮かんだんだ」

「シナリオ……だと?」

 海斗は眉をひそめた。

「そう、お前とひなたちゃんを主人公とヒロインにしたシナリオだ」

 光矢の言葉を受けて、海斗は唇をぎゅっと噛み締める。

「何のために、そんなシナリオを作った?」

「海斗とひなたちゃんの間に絆を作るためだよ」

 兄の言葉の意味が分からず、海斗は首を傾げる。

「俺が世界を支配するために必要な手駒。それは電子人と……優れたハッカーだ。電子人は単独でもその活躍を見込めるが、優れたハッカーと組むことでより一層力を発揮することが出来る。つまり俺は海斗とひなたちゃんを最強のタッグとしたい。そのためには二人の間に絆が必要だ。だからそれを作るために俺はこのシナリオを立てた。お前は見事に主人公を演じ、ヒロインのひなたちゃんを悪の組織から救った。素晴らしいよ」

「ふざけんな!」

 海斗は右手で思い切りテーブルを叩く。衝撃で骨が軋むが、そんなことを気にしている余裕は無かった。

「何が手駒だよ……兄貴は俺のことを弟としてじゃなく、ずっとそんな風に見ていたのかよ?」

 海斗は声に怒りが滲むのを抑えることが出来ない。

「いやいや、お前は俺にとって可愛い弟だよ。俺はお前の将来のことを考えて、道を示してやっているんだ」

「どういうことだ?」

「お前の技術があればネクサス、またそれ以外の組織でも情報戦士として活躍できるだろう。それなりの成功を手に入れて、それなりに幸せに暮らせる」

「俺はそれで十分だ」

「本当にそう思うのか?」

 光矢の目の奥が怪しく光った。

「ハッカーっていう人種は多かれ少なかれみんな強欲だ。自分の優れた技術をひけらかしたくてうずうずしている。そして、自分の技術で何もかもを支配したいとさえ考える」

「俺はそんな愚かなことは考えない。どんな天才ハッカーも、犯罪行為に手を染めればいずれ必ず捕まってしまう。それに俺はPCがなければどうしようもない弱者だ」

「だからこそ、ネオ・カタルシスという組織の存在が大きいんだ。物理的に外部から攻撃を仕掛けて来る相手には、そのために訓練された部隊をぶつければ良い。お前は彼らに守られた中で絶対強者となれる電子世界に没入し、そこで全てを支配するんだ」

「バカげている。世界を支配するとか、マンガやアニメの悪役じゃないんだぞ」

「電子世界で他の奴を屈服させた時、お前は何を感じる?」

 ふいに光矢の真剣な眼差しが海斗に突き刺さる。

「圧倒的な優越感を覚えないか? 周りの全てが自分に対してひれ伏す感覚に、お前は酔いしれないのか?」

「……っ」

 海斗はわずかに唇を噛み締める。

「しかしPCから離れて一歩外の現実世界に出た時、どうしようもない弱者に成り下がる自分に対して途方もない虚しさを感じないか? そのギャップに苦しむことはないか?」

「やめろ……」

「現実世界のお前は二次元の美少女にハアハアしているようなキモオタ野郎だ。しかし電子世界では絶対強者の〈テラファング〉として兆大な牙を持つ存在。今の世の中はIT化が進み、電子世界と密接な関係にある。いや、電子世界なしでは生活が成り立たなくなっている。つまり電子世界を支配すれば、必然的に現実世界も支配することが出来る。お前にはそれだけの力があるんだ。使わない手は無いだろう?」

「俺は、そんな……」

 力なく海斗が顔を俯けた時、光矢がおもむろに指を鳴らした。

すると室内にあった入り口とは別のドアから、一人の女性が姿を現す。

「――海斗君」

 その柔らかな声を聞いた瞬間、海斗はハッとして目を見開く。

 そこに立っていたのは海斗を希望へと導き、そして絶望へと叩き落とした女性。

「美鈴さ……」

 呼びかけて、海斗は口をつぐんだ。

「どうしたの、海斗君? いつもみたいに私のことを呼んでよ?」

 美鈴は小首を傾げて、愛らしい笑みを浮かべながら海斗に対して言う。

「……やめてくれ。あんたは、俺を騙すためにそのキャラを作って俺に近付いた。良木美鈴なんて所詮は虚構の存在なんだ」

 海斗は視線を逸らし、苦悶の表情で言った。

「けれども、私はここにいるよ」

 彼女の甘い声がまた海斗の理性をかき乱す。頭では彼女が虚構の存在だと分かっていても、心が彼女と過ごした時間をかけがえのない物だと感じている。美人で優しいお姉さん。そんな理想の存在が三次元に現れた奇跡を、海斗はまだ引きずっているのだ。

「海斗、確かに彼女はお前を騙すために俺が差し向けた刺客だ。けれども、彼女はお前と過ごした時間は中々に楽しかったと言っている」

「え……?」

 海斗は目を丸くして美鈴の方を見た。

「本当よ、海斗君。だって、海斗君はとても可愛いんだもの。確かにちょっとオタクかもしれないけど、顔も実はお兄さんと同じようにイケメンだったりするし。もしお兄さんの言うことを聞いてネオ・カタルシスの一員として活躍してくれるのなら……」

 ふいに、海斗のそばで甘い香りが漂った。

「私は海斗君の物になっても良いよ。この唇も、胸も、腰も、お尻も。望むなら大事なところも全部海斗君にあげる」

「な、何言ってるんだよあんたは!」

「あんたなんて呼ばないで。寂しいよ……」

 大人な笑みを崩し、まるで少女のように弱々しい顔つきになる。

分かっている、この表情は何から何まで全部作り物だって。

「ねえ、ほら見て。あの時、海斗君に買ってもらったこのネックレス、今でも大事に付けているんだよ?」

 そう言って彼女は胸元できらめくハートのネックレスを手に取り、にこりと微笑む。

……それでも、自分の願望が確かな形となって現実に現れたら、海斗は為す術もなくそれに溺れるしかなくて――

「こら、海斗のおバカ!」

 突然、甲高い声が室内に響き渡った。

 海斗だけでなく、他の二人も同様に驚いた顔をしている。

 その時、海斗はハッとしてズボンのポケットからケータイを取り出した。

「…………っ!」

 その画面には、いつの間にかひなたが現れていた。

「お前、何でここに? 病院にいたはずだろ?」

「うん、そうなんだけど。海斗の様子が少し変だったから、心配になって飛んで来たの」

 ひなたはそう言って、ケータイの中から飛び出した。

「ちょっとあなた。海斗から離れてよ。どうせまた海斗のことを騙して傷付けるつもりなんでしょ?」

 そして、ひなたは険のこもった瞳で美鈴を睨む。

「あらやだ、もしかして嫉妬しているの? 可愛いわね、ひなたちゃん」

「気安く名前で呼ばないで! あたしは海斗をたぶらかしたあなたが大嫌いなんだから!」

 ひなたは頬を膨らませて怒りを露わにする。

「いやはや、これは素晴らしいな。俺の狙い通り、海斗とひなたちゃんは確かな絆で結ばれたようだ。良いなー、海斗。二人の異なるタイプの美女を侍らして。兄として俺は誇らしいぞ」

 光矢が軽口を叩くと、ひなたの怒りの矛先がそちらに向かう。

「あなたが海斗を、パパを苦しめた張本人なんだよね?」

 対する光矢は、目を丸くした。

「父親の記憶を取り戻したのか?」

「海斗が見つけてくれたんだよ」

 ひなたは毅然とした態度のまま言う。

「そうか。まさかそこまでしてやるとは、海斗はよほどひなたちゃんのことが好きなんだな」

 光矢がにこりと微笑んで言うと、海斗は無言で彼を睨みつける。

「まあしかし、小比類博士が意識を失うほどショックを受けたのは悪かったと思っているよ」

「パパはあたしと再会して目を覚ましたよ」

「何と、それは本当かい? 良かった。正直な話、彼ほどの優秀な科学者は滅多に現れないからね。また是非とも我々に協力をしていただきたい」

 すると、ひなたがかっと目を見開く。

「お断りよ! パパも、そして海斗もあなた達になんて協力しないもん!」

 叫んでひなたが海斗に顔を向ける。

「ねえ、海斗。そうだよね?」

 声はしっかりと張り上げているものの、ひなたはどこか不安げな瞳で海斗を見つめている。もしかしたらまた海斗が美鈴に籠絡され、黒幕の兄の言いなりになってしまうのではと不安に思っているのかもしれない。今まで起きた一連の流れは全て光矢によって仕組まれたものだ。多くの嘘にまみれて、全てが都合よく回っていた。けれどもそんな中で、ひなたとの関わりだけは嘘偽りはなかった。海斗とひなたの二人は基本的にケンカをしながらも、共にかけがえのない時を過ごして来たのだ。

「……なあ、ひなた」

 海斗が呼んだ。

「何?」

「俺さ、この二人を殴りたいんだ。けれども、現実世界の俺はどうしようもなく貧弱だから、お前に協力して欲しい。仮にも女のお前にそんなことを頼むのもなんだけどさ……」

「仮にもは余計だよ。あたしは歴とした女の子だもん」

 一瞬ぷんと怒った顔をして、ひなたはすぐに笑みを浮かべた。

「良いよ、一緒にこの二人をぶっ飛ばそう!」

 ひなたが元気よく拳を突き上げたので、海斗は場違いにも大声で笑ってしまう。

「おいおい、殴るなんて穏やかじゃないな。お前達はきちんとした大人になるためにも、話し合いで解決する術を身に付けようじゃないか、なあ?」

 光矢が二人をたしなめるように言う。

「こんな風にテロ組織と関わっている時点で、兄貴はきちんとした大人なんかじゃねえよ」

 海斗が吐き捨てるように言った。

「言うじゃないか、海斗のくせに。今まで可愛がってきた弟にそんなことを言われて、俺は悲しいよ」

「本当に俺のことを可愛がるならもっと真っ当な道を示せよ。クソ兄貴が」

「海斗、聞き分けの悪い弟は嫌いだな……シーフル」

 光矢がその名を呼ぶと、美鈴は薄らと口元に笑みを浮かべながらその手にナイフを握った。清楚な佇まいのままで凶器を持つ彼女の姿を見て、海斗は恐怖と共に切なさに苛まれる。

「やっぱり、あなたはテロリストなんですね」

「うふ、素敵でしょう?」

 美鈴――シーフルはおどけて見せる。以前なら愛らしいと思ったその仕草も、今はただ悪寒を覚えるばかりだ。非常に空々しい。

「海斗、下がって」

 ひなたが一歩前に進み出て言った。

「いや、お前を盾にするようなことは……」

「大丈夫。あたしはとても運動神経が良いから。海斗もよく知っているでしょう?」

 確かに、ひなたは海斗よりもずっと運動能力に優れている。力はともかく、動きの柔軟さや俊敏性は遥かに上だろう。

「はは、威勢が良いな。シーフル、決して殺さない程度に可愛がってやれ」

「了解しました、シャドウリーダー」

 シーフルはにこりと微笑んだ。

「余裕をかましていられるのも今の内だよ!」

 ひなたは鋭く叫んでシーフルに向かって突進する。彼女がナイフを持っているにも関わらず、全く怯えた様子はない。

「本当に元気が良いわね」

 猛烈な勢いで向かって来るひなたに対して、シーフルは軽やかな身のこなしでかわす。そのままひなたの背後を取った。

「肩なら刺しても死にはしないわよね」

 そう言って、一切の迷いなくひなたの華奢な右肩に凶刃を振り下ろす。

 ひなたはとっさに危険を察知し、身体を捻ってかわす。その勢いを利用してシーフルの懐に飛び込んだ。

「てやっ!」

 気合の入った掛け声と共に右拳を繰り出した。シーフルの腹部を狙う。

「うふ、可愛らしい」

 しかし、シーフルは余裕の笑みを崩さぬままひなたの拳を受け止めた。そして、そのままひなたの右腕を捻り上げて再び背後に回った。首筋にナイフを突きつける。流れるように美しい動きだった。

「惜しかったわね。素人にしては素晴らしい。けれども、お姉さんはあくまでもプロだから」

「…………っ」

 さすがのひなたも、この時ばかりは焦りの表情を浮かべる。

「ひなた!」

 海斗は思わず叫んでいた。

「近付いちゃダメよ、海斗君。お姉さんは案外嫉妬深いから、この子のことを心配して果敢に立ち向かわれると、ついつい命令を無視して殺しちゃうかもしれないわ」

「くっ……」

 海斗は奥歯を強く噛み締めた。シーフルの軽口はともかく、ひなたの身に危険が差し迫っていることは確かだ。ひなたは貴重な電子人のため殺すようなことはしないだろうが、しかし死なないまでも一生残るような傷を負わされてしまうかもしれない。それは絶対に避けなければならない。これ以上、彼女を傷つける訳にはいかないから。

「そいつを離してやってくれ……あんたらの言うことを聞くから」

 海斗は喉の奥から搾り出すようにしてそう言った。

「さすが俺の弟だ。物分かりが良くて助かる」

 悠然とソファに腰をかけたまま、光矢が言った。

「ううん、その必要はないよ」

 すると、ひなたが声を発した。

「こんな奴らに屈する必要なんてないんだよ、海斗」

「けどお前、この状況じゃ……」

「大丈夫」

 そう言ってひなたはおもむろに胸元に左手をやり、指先で押した。

 直後、ひなたの身体が眩い光に包まれる。無数のコードの羅列が浮かび上がり明滅した。

「電子ギアをオンにしたのか? しかし、彼女のそばに電子世界へと飛び込む端末も何も無い……」

 そう呟いてから、光矢がハッとした顔になる。

「止めさせろ! 電子ギアをオンにしたまま現実世界に長く留まったら、電子化した身体が耐え切れずに崩壊してしまう!」

 その言葉を聞いて、シーフルだけでなく海斗も目を見開いた。

「おい、ひなた……」

 海斗が慌ててひなたの方に振り向く。ひなたはにこりと微笑んだ。

 次の瞬間、彼女の身体は細かい粒子となって霧散した。一切の痕跡も残さずに完全に消失してしまった。

「……嘘だろ?」

 海斗は口を半開きにして、愕然と声を漏らす。

「あのバカが消滅するなんて、そんなことある訳ないよな……」

 自分に必死に言い聞かせる。しかし、もうひなたの声を聞くことは出来なかった。

「しまった、俺としたことが……貴重な電子人が消滅してしまうなんて」

 光矢は額を押さえて深くため息を漏らす。

 そんな彼の様子を見て、海斗はぴくりと頬を引きつらせた。

「何だよ、その言い草は? 兄貴は結局、あいつのことをただの便利な道具としか思っていないのかよ? 電子人の前に、あいつは小比類ひなたっていう一人の人間なんだ。そんなひなたが死んじまったっていうのに、何だよその言い草は!」

 気が付けば海斗は光矢に詰め寄り、思い切りその顔を睨み付けていた。

「そうカッカするなよ。お前、ひなたちゃんと関わったせいかちょっと暑苦しくなったな」

「テメエ……!」

 海斗の激情がピークに達し、思い切り拳を振り上げた。

「――大丈夫だよ、海斗」

 ふいに、ひなたの声が聞こえた。海斗は慌てて周りを見渡すがその姿は見えない。

 しかし次の瞬間、シーフルの頭上から突如としてひなたが姿を現した。

「なっ……!?」

 それまで余裕だったシーフルの表情が歪む。とっさに戦闘姿勢に入ろうとするが、その前にひなたの踵落としが彼女の右肩に炸裂した。

「うっ」

 シーフルは呻き声を上げる。その右手からナイフがこぼれ落ちた。

「はい、これ没収」

 ひなたは得意げな顔でそのナイフを拾い上げる。

「お前、無事だったのか?」

 海斗が震える声で尋ねると、ひなたは一瞬きょとんとした。

「うん、あたしは全然平気だよ」

「だって、そばに電子世界に侵入出来る端末が無い状態で電子化をしたから……」

「ああ。確かにPCとかケータイはそばに無かったけど、電波はあるから」

「は? 電波?」

 そこで海斗はハッとした。

「……そうか、無線LANの電波に乗ったんだな?」

「うん。現代はよほど山奥にでも行かない限り無線LANの電波が飛び交っているから、そばにPCやケータイみたいな端末が無くても電子世界に侵入出来るってパパが教えてくれたの」

「はは、そうだったのかよ。俺はてっきり、お前が消えちまったと思って……」

「え、何なに? もしかしてあたしの事を心配してくれたの?」

 ひなたが嬉々とした表情で尋ねる。海斗はしまったと思い口を手で押さえた。

「べ、別に心配なんかしてねえよ! お前みたいなあっけらかんとした奴は、そう簡単には死んだりしねえからな」

「もう海斗ったら素直じゃないんだから」

「うるせえよ」

 海斗は頬を紅潮させながら言った。

「そんなことよりも、さっさと決着を付けようぜ。なあ、兄貴?」

 海斗がぐりんと首を向けると、光矢はどこか呆気に取られた顔をしている。

「とりあえず、一発殴らせてくれ」

 言うなり海斗はスタスタと歩み寄って、光矢の頬を思い切り殴り飛ばした。

「……痛いな」

 光矢は殴られた頬を押さえて、ぽつりと呟く。

「痛いのはこっちの方だ」

「俺を殴った拳が痛いって言うのか?」

「違えよ……心が痛いんだよ」

 海斗は拳を握り締めたまま、光矢を見つめる。

「正直な話、俺は今まで兄貴に嫉妬していた。明るく快活で、周りの誰からも好かれて。キモオタ野郎の俺なんかとは大違いだ……けれども、俺はそんな兄貴を尊敬していたんだ。もしかしたら、俺もいつか兄貴みたいになれるんじゃないかって思ったりもした。それなのに……兄貴は裏切ったんだ。周りのみんなを……俺のことを裏切ったんだ! 最低だよ、バカ野郎!」

 いつの間にか、海斗の目からは一筋の涙がこぼれていた。

そんな彼の悲痛な叫び声を聞いて、光矢はどこか罰の悪い様子で押し黙っている。

「……ひなた、次はお前の番だ」

 海斗はひなたに振り向いて言った。

「この大バカ野郎を殴るなり蹴るなり好きにしてくれ。何だったら、さっき奪ったナイフで刺しちまっても良い。この大バカ野郎はお前にそれだけのことをしたんだ。そんな改造人間にされたことを憎く思うなら、ひと思いにやってくれ」

 海斗に言われて、ひなたは右手に持っているナイフをじっと見つめる。

「……うん、分かったよ」

 ひなたは静かに頷き、ゆっくりと光矢の下に近付く。

「あなたはパパを苦しめ、あたしをこんな身体にした張本人。だからあなたのことが憎いし、絶対に許せない。だから――」

 ひなたはナイフを振り上げた。光矢は口を半開きにして、その様を見つめている。

 直後、鋭利な切っ先が振り下ろされる――ザクリ、と音を立ててソファに突き刺さった。

 光矢は自分の顔のすぐ隣に突き立てられたナイフを一瞬見つめ、おもむろに視線をひなたに戻す。

「……俺のことを殺さないのか?」

 問われて、ひなたはこくりと頷いた。

「殺さない。あなたには生きてしっかりと罪を償ってもらう。きちんとした大人なら、それくらい出来るでしょ?」

「……こんな小さい女の子にそんな風に諭されるなんて、俺も落ちたな」

 光矢は自嘲するように言った。

 すると、ひなたが海斗の方に振り向く。

「海斗、終わったよ」

「ああ、良くやったな」

 そう言って、海斗は自然とひなたの頭を撫でていた。

 ひなたは一瞬驚いた表情を浮かべるが、直後にはにこりと無邪気な笑みを浮かべて海斗に寄り添っていた。
























      エピローグ




 総合病院のロビーで海斗はソファに座っていた。

 エレベーターが下りて来て、一人の男が姿を現した。

 海斗はすっとソファから立ち上がり、男の下へと向かう。

「やあ、海斗君……だよね?」

「はい。退院おめでとうございます、小比類博士」

 海斗が呼ぶと、彼方はにこりと微笑んだ。

「ありがとう」

「あ、ちょっと待ってください」

 そう言って、海斗はポケットからケータイを取り出す。

「やっほー、パパ。退院おめでとう」

 その中に入っているひなたが言った。

「ありがとう、ひなた」

「あの、小比類博士」

「ん、何だい?」

「その……色々と申し訳ありませんでした。俺の兄貴のせいであなた達親子が苦しむことになって」

「君が謝る必要はないさ。何よりも君はひなたの事を救ってくれた。感謝することはあれど、憎むことなんてありえないさ」

 彼方の優しい声を聞いて、海斗は少しだけ安堵の息を漏らす。

「ありがとうございます。けれども、事件が解決した後もあなたはマッドサイエンティストのレッテルを貼られたままで、ひなたも自由に現実の世界で歩き回ることが出来ないし……」

 海斗はぎゅっと拳を握り締めた。

 あの後、光矢の身柄は警察に確保された。表向きはネクサスの一員でありながら、裏ではテロ組織のネオ・カタルシスと共謀、というよりも実質大分上の方に君臨していたことの罪は重い。その事実を知った母と妹の樹里は驚愕し、そして悲しんでいた。やはり光矢のやったことは許されない。ちなみに彼の部下であった美鈴――シーフルは姿をくらましてしまった。ある意味一番罪深い彼女が捕まらなかったことは、海斗にとっては残念なことなのかそれとも……彼女に対する気持ちはまだ完全に整理が付いていない。これからゆっくりと時間をかけて克服をして行く必要があるのかもしれない。

 その事件の調査過程で、彼方が無実であることは証明された。しかし、電子人の存在が公になると色々と問題が起きてしまう。何より、今後サイバーテロ対策としてその力を貸して欲しいという警察、並びにネクサスからの依頼があり、ひなたの存在は世間に公表しない運びとなった。そのため、彼方は娘を殺したマッドサイエンティストのレッテルを貼られたままなのだ。

「良いんですか、本当に? ひなたの存在を公表しないのはいわば警察とネクサスのエゴだ。奴らはひなたの力を自分達の仕事に役立てるために、あなた達に不自由な生活を送るように強いているんですよ?」

 海斗が切実な目で訴えると、彼方はふっと微笑んだ。

「構わないよ。私はひなたが生きてくれているだけで幸せだ。世間的にはバッシングを受け続けるだろうが、実際に刑務所に放り込まれることはないから、これからも科学者として生きることが出来る」

「けど……」

「あたしも平気だよ」

 海斗の言葉を遮るようにして、ひなたが言った。

「確かに現実世界で自由に動き回れないのはちょっと嫌だけど、でも海斗がずっと一緒にいてくれるならそれで良い」

 そう、今回の一件で改めて優秀なハッカーとして認められた海斗は、警察とネクサスより有事の際はひなたと組んでサイバー事件解決のために動いて欲しいと依頼された。これはひなたが海斗と離れるのが嫌だと言った結果でもある。

「それとも、海斗はあたしと一緒にいるのは嫌?」

 少し潤んだ瞳で、ひなたは上目遣いに見つめてくる。

「別に、嫌じゃねえけどよ……」

「じゃあ、これからもずっと一緒だね!」

 こいつはよくもまあ、そんな恥ずかしい事を堂々と言えるもんだ。

海斗は半ば呆れたようにため息を漏らす。

「……さてと、私はそろそろ行くよ。研究所に戻って色々とやることがあるからね」

 そう言って、彼方は出口の方へと歩き出した。途中でぴたりと足を止める。

「海斗君、ひなたの事をよろしく頼んだよ」

 にこりと微笑む彼方に対して、海斗は一瞬困惑しながらも力強く頷く。

彼方は笑みを浮かべたまま前の方に向き直り、その場から去って行った。

「じゃあ、俺達も行くか」

「うん」

 病院の外に出ると空は雲一つなく、どこまでも青色が続いていた。

「……なあ、ひなた」

「どうしたの?」

 ひなたが小首を傾げる。

「その……これから服でも買いに行くか?」

 少し照れくさく思いながら海斗が言う。すると、ひなたが目を丸くした。

「本当に? 可愛い服買ってくれるの?」

「ああ、良いよ」

「わーい、海斗大好き!」

 ケータイの中でひなたはぴょんと飛び跳ねて言う。

「バカなこと言ってんじゃねえよ……」

 海斗は赤面しながら呟く。

「もう、海斗は照れ屋さんなんだから。あ、そうだ。服屋さんに行ったら、ケータイから出て試着しても良い?」

 ひなたが海斗に抱き付いたまま、小首を傾げて尋ねる。

「いや、それはちょっと面倒なことになるからやめろ」

「えー、じゃあもし買ってサイズが合わなかったらどうするの?」

「その時はあきらめろ」

「そんなの嫌だよ!」

「あー、うるせえ。とにかく行くぞ」

 これからも、彼女とこんなやり取りを繰り返して行くのだろうか。

 海斗はやや辟易としながらも、ほんのりと胸が温かくなっているのを感じていた。




(了)

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電子な彼女 三葉 空 @mitsuba_sora

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