第12話 スリュール
その知らせは、アラベスクの厨房ではなく、領主館からもたらされた。
「イリアス様に、縁談の話が来たそうです」
そう侍女が口にしたとき、サラは一瞬手を止めた。
「……どこの家?」
「北方の……たしか、マリエル家っていう侯爵家みたいです。山の上の方の古い家柄で、領地もそれなりに大きくて。貿易よりも鉱山と織物のほうが強いらしいですよ」
「マリエル家……」
その名前には、確かに聞き覚えがあった。幼いころ、母が語ってくれた、山の銀糸と蜂蜜の話。寒冷地に咲く草花を織物の図案に使い、同じ香りを宿した蜜菓子を祝い事に供する風習。
「それで、彼女は?」
「昨日、もう城に入ったみたいです。でも……誰とも口を利かないらしいです。女官の話じゃ、挨拶も最低限で、あとはずっと無言。食事の時も黙ったまま、誰とも目を合わせず……」
「名前は?」
「クラウディア・マリエル。たしか二十歳。……あの、サラ様。もしかしたら……」
サラはゆっくりと頷いた。
「行ってみる。お兄様がどんな顔してるかも、気になるから」
ハルキオン領主館、北の客間。
その部屋は来賓用として整えられていたが、空気は凍っていた。
クラウディア・マリエル。背筋を伸ばし、机の上に組んだ手を置いたまま、一切表情を動かさない女性。
イリアスは対面の椅子に座り、やや疲れた顔で彼女を見ていた。
「……ご不自由なことがあれば、遠慮なく」
彼女は小さく頷いた。それだけだった。
サラが部屋に入ると、イリアスが目を上げた。
「来てくれたか」
「侍女から聞いた。……ずいぶん硬い空気ね」
「こっちが困っている」
イリアスは溜息をついた。
「まったく話そうとしない。礼儀は完璧だが、返事は最小限。意志があるのか、ないのかさえ見えない」
サラはクラウディアを見つめた。
(……これは、無関心じゃない。閉じているだけ。鍵がかかってるんだ)
「お兄様、彼女の故郷について、何か知ってる?」
「寒い、山の中、蜂蜜、絹、銀糸。それくらいか。詳しくは……」
「わかった。……私に、少し時間をちょうだい」
アラベスクに戻ったサラは、かつて読んだ地方の風習に関する記録を取り出した。
マリエル地方、標高二千メートル以上の高地。冬が長く、春の訪れは儀式に近いものとされる。春の初蜜で作られる花型の焼き菓子“スリュール”は、少女が大人になる節目や婚約時、また無事の祈願に供される。
蜜は芳香を含んだ寒咲きの草花から採取され、味は淡く、香りが先に鼻を抜ける。粉は白く軽い麦、卵は少なく、香草でほのかに風味づけされる。
(……これなら、きっと彼女の記憶に触れられる)
サラは市場で探し集めた材料をもとに、スリュールを再現し始めた。
生地をこねながら、花の型にひとつひとつ流し込む。
オーブンの中で焼きあがる香りは、アラベスクに馴染まない、けれどどこか“帰ってきたような”匂いだった。
翌日の午後、サラは領主館に訪れた。
「ティータイムに一品。……甘いものって、言葉より優しいのよ」
クラウディアの前に、花型の小さな菓子が置かれた。
彼女はそれを見た瞬間、はっと微かに瞳を揺らした。
香りが、彼女の記憶に届いたのだ。
ひとくち口にすると、ほんのわずか、表情が揺らいだ。
「……スリュール」
初めて発せられた、彼女の声だった。
サラは微笑んだ。
「ようこそ。ここにも、あなたの春は届いています」
クラウディアは、静かにサラを見つめた。
それはまだ、言葉にならない対話だったが——
“鍵”は、たしかに少しだけ回り始めていた。
クラウディア・マリエルが初めて発した言葉は、菓子の名だった。
スリュール。
それは彼女の故郷、北の山岳地帯で春の訪れとともに供される、花の形をした焼き菓子。
香り、形、温度、色。
それらすべてが、クラウディアの心の鍵をわずかに揺らした。
その日から、午後の客間にはお茶と菓子が並ぶようになった。
サラは毎日、わずかに材料を変えたスリュールを焼いた。
一度はミルクを足してより柔らかく、またある日は蜂蜜の種類を変え、時には花のかたちを星型にしてみた。
クラウディアは依然として多くを語らなかったが、それでもひとくちずつ、確かにそれを口にした。
ある日、サラが焼き上げたものに、淡いラベンダーの蜜を使ったとき——クラウディアはひとつ息を吸い、初めて微かに微笑んだ。
「……この香り。家の、廊下の窓辺に咲いていた……」
サラはその言葉に静かに頷いた。
「記憶の中にある味は、いつか帰りたくなる場所でもあると思ってます」
クラウディアは、それ以上何も言わなかったが、カップを持つ手の震えが止まっていた。
イリアスはそれを廊下から見ていた。
静かな部屋。サラとクラウディアの間に、花の形をした菓子と湯気の立つティーカップがある。
それはまるで、言葉にしない会話。
夕食の席で、イリアスはサラに訊ねた。
「……あの菓子は、いつから知っていた?」
「昔、母様が話してくれたの。北の山の春は、花と蜜でできているって。銀の皿にのせた小さな焼き菓子が、女の子の“未来の鍵”になるって」
イリアスはその言葉にしばらく黙ってから、短く呟いた。
「未来の鍵、か」
「クラウディアさんがここに来たのは、お兄様にとって“未来の道”かもしれない。でも、彼女自身の未来も、ちゃんとここで生まれてほしいと思ってる」
イリアスは頷いた。
「……彼女が、笑うと、少しだけこの館が温かくなった気がした」
次の日の午後。
クラウディアが部屋の隅に置かれていた古びたリュートを見て、小さく首を傾げた。
「……これは、使っていいの?」
それはこの館に何代も置かれていた装飾品だったが、音が鳴るかは誰も知らなかった。
サラが笑った。
「ぜひ」
クラウディアは戸惑いながらも、それを膝に置いた。
そして、ゆっくりと弦を弾いた。
音が鳴った。
かすれながらも確かに——それは、クラウディアの声よりも早く、彼女の心を語っていた。
午後の陽射しの中、ティーカップと菓子の皿の間に、小さな旋律が溶け込んでいった。
サラはその音を聴きながら、次に焼く菓子に加えるハーブのことを考えていた。
“もっと、軽やかに。もっと、心の中まで甘さが届くように”。
スリュールのバリエーションは、もう八種目になろうとしていた。
クラウディアがリュートを弾いたその日以降、午後の客間はわずかに色づき始めた。
弦をはじく音は控えめながらも柔らかく、窓辺を撫でる風とともに漂い、部屋の空気を少しずつ和らげていた。
サラはその変化を感じながら、次のスリュールに新たな風味を加えることを思いついた。
今度は、マリエル地方の民謡に使われる“ベルナ草”という香草を再現するため、アラベスクの香草庫をひとつひとつ開けては香りを比べ、最も近いものを見つけて焼き上げた。
その香りをまとった菓子を、クラウディアは目を閉じて口に含み、静かに呟いた。
「……歌を、思い出しました」
「どんな歌?」
「春が来ると、雪が落ちる音に合わせて、母が歌ってくれた歌。……花が咲くとは限らないけれど、風だけはいつも吹いていたから」
その言葉に、サラはそっとティーポットに手を添えながら言った。
「では、その風を、このお茶の香りに閉じ込めてみましょう」
その日は、ミントとレモンバームをブレンドした、すっきりとしたハーブティーを添えた。
クラウディアはそれを啜ると、ふっと口元にわずかな微笑を浮かべた。
サラは毎日、菓子とお茶のノートをつけていた。
『第9日目:レモンバームと青ミントのスリュール、やわらかく香る。
クラウディア、ほほえむ。風の記憶と歌の断片。』
彼女は言葉がなくとも、菓子と香りを通じて、クラウディアの“記憶の芯”に触れているのだと実感していた。
午後の客間は、かつての重苦しさをわずかに手放し、ほのかな静けさに満ちていた。
そしてある日、クラウディアがふいにサラへ尋ねた。
「……あなたは、どうして料理をするの?」
その問いに、サラは少し驚いたように目を見開いた。
「どうして……ですか?」
クラウディアは視線を外し、遠くの窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「あなたの料理は、鍵を差し出すような優しさがある。……でも、誰のために、何を開きたいの?」
サラはしばらく黙ってから、微笑んで答えた。
「誰かが、自分の中に閉じ込めたものに手を伸ばせるように、でしょうか。私が料理を作るのは、その“瞬間”に出会うためです」
クラウディアは、その答えをしばらく胸にしまうように黙っていた。
その晩、クラウディアの侍女が、こっそりサラのもとを訪ねた。
「ありがとうございます。……お嬢様、今夜初めて、ご自分から“眠れそう”と言われました」
「そうですか……」
「お菓子のせいでしょうか?」
サラは首を振った。
「それもあります。でも、たぶんそれ以上に——“誰かにほどかれていい”と思えたことが、心の疲れをやわらげたんだと思います」
侍女は深く頷いた。
「お嬢様は……笑うことが許されない場所で育ちました。侯爵家の者としての重圧の中で、“笑顔は軽薄”と教えられて」
「——なら、菓子がその教えを、甘く包んでくれればいい」
その言葉を口にしたとき、サラの心の奥に、ある決意が芽生え始めていた。
(彼女がここに来た意味は、ただの婚姻のためじゃない。笑っていい場所に出会うためだったんだ)
その日、サラは特別な材料を手に入れた。
市場の裏通りで偶然見つけた、北方産の“霧の実”。外皮は淡い緑灰色で、中の果肉は薄い金色をしており、噛むとほのかに甘酸っぱく、最後にわずかに苦みが残る。
クラウディアのふるさと、マリエル領で春の山道を登った者だけが採れるといわれる、特別な果実。
「霧の実……本当に手に入るなんて」
サラはその香りを確かめながら、心の奥で小さな確信を得た。
(これが、“鍵”になるかもしれない)
その日の午後、客間にはいつもよりも淡く香る菓子が置かれた。
それはスリュールの派生ではなく、新しい一皿だった。
霧の実と蜂蜜を煮詰めて作ったシロップを、ごく薄い生地で包み、焼き上げた“雲菓(くもがし)”。
外はかすかにパリッと、中はとろり。
ひと口で、淡い甘み、やわらかな酸味、最後にふっと残る優しい渋みが口の奥に広がる。
クラウディアは、それを手に取ると、まるで何かを見つめるようにじっと菓子を見つめた。
「……この形、山道の花に似てる」
「ええ。高地に咲く“ベイルの星花”のつもりで包みました」
クラウディアはひとくち、口に運んだ。
その瞬間、彼女の喉が震え、目元がふっと揺れた。
「……これ……私の、母の味」
サラはただ、黙って彼女の目を見つめていた。
「母は……とても厳しい人でした。でも、この果実だけは、私にだけこっそり分けてくれたの。……春の初め、山の見回りから戻った日……」
クラウディアの目から、涙がひとすじ、頬を伝った。
「……もう、忘れたと思ってたのに」
サラはそっとティーカップを差し出した。
「忘れたくても、忘れられないものは、きっと“灯”なんです。記憶というより、生きてきた証」
クラウディアはその言葉に、ふっと力を抜いた。
そして、はじめて——本当に、はじめて——笑った。
わずかに、けれど確かに口角が上がり、目元がやわらかくほどけていた。
「……わたし、いま、笑ってますか?」
「ええ。とても、きれいに」
その夜、サラは厨房の帳面にこう記した。
『“鍵”は、必ずしも金属でできているとは限らない。時にそれは、母の果実の香り。時に、それは誰かの差し出すお茶の湯気。今日、彼女の心にひとつ灯がともった。』
帳面の角には、霧の実を模した形のスケッチが添えられていた。
笑顔は、日常を連れてくる。
クラウディア・マリエルがふと微笑んだその日を境に、領主館の客間にはささやかな変化が現れ始めた。
彼女は毎日の午後、必ず客間に現れるようになった。
サラが淹れるハーブティーの香りに、わずかに眉を上げ、「今日のはラベンダー?それともローズマリー?」と当ててみるようになった。
菓子の香りには、「あ、これは杏の皮を使ったわね?」と反応し、時には「焼き加減が昨日よりもカリッとしてて、いいかも」と冗談めかした感想すら口にするようになった。
——この小さな変化が、サラにとってはどれほどの“春”だったか。
そしてある日、クラウディアはぽつりと語り出した。
「サラさん。わたし、ここに来たとき、心の中が真っ白だったんです」
「真っ白?」
「何も考えられなくて、感じることも、動くことも、言葉を出すことも。……ただ、失敗しないようにだけ、それだけを考えてました」
「それは……とても息が詰まりそう」
「はい。でも、あなたのお菓子は、私に“舌”があるって思い出させてくれた」
「舌、ですか?」
「味があるってことは、選んでいいってことです。『好き』『嫌い』『これがいい』『これはまだ』——それを感じるのは、生きるってことなんだなって」
サラはその言葉に、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
「……クラウディアさん。もしよかったら、今度一緒に何か作ってみませんか?たとえば……あなたの家でよく出たお茶とか」
クラウディアはわずかに目を見開いた後、ゆっくりと頷いた。
「……よろしいのですか?」
「もちろん。料理は“誰かのため”にもなるけれど、自分のために作ってもいいんです」
その翌日、客間には即席の小さな調理台が運び込まれた。
クラウディアが持参した布袋の中には、マリエル家特製の乾燥茶葉と、手帳に写し取ったという古いレシピがあった。
その茶は“銀花茶(ぎんかちゃ)”と呼ばれ、繊細な味と、体をじんわり温める性質を持つ。
「この茶葉、熱湯ではなく、少し冷ましたお湯でゆっくり……そう、八分目まで注いで……」
クラウディアが説明し、サラが補助しながら作業が進む。
お湯が茶葉に触れるたび、かすかな白い香りが室内に漂った。
「この香り……」
「マリエルの春、です」
出来上がった銀花茶と、サラの焼いたほんのり苦みのある“クルニスの葉菓子”が並ぶと、それはまるで——二人の心が調和した、静かな会話のようだった。
その様子を遠目から見ていたイリアスは、参謀に静かに言った。
「……彼女は“政略”の駒ではなく、“暮らし”を持っている人間だ」
「はっ。……ご縁談の話は、どういたしましょう?」
「急ぐ必要はない。まずは“この街で、彼女がどう息をしていくか”を見届けるべきだ」
「……イリアス様らしいお言葉です」
イリアスは、遠くの笑い声を聞きながら、静かに応えた。
「いや。あれは、サラが教えてくれたんだ」
午後の陽が傾く頃、クラウディアは久しぶりにひとりで客間の庭に出た。
木陰の石畳に腰を下ろし、手のひらに昨日サラと一緒に焼いた“クルニスの葉菓子”を乗せていた。
その味は、もう彼女にとって“他人の街”のものではなかった。
そこには記憶と、香りと、言葉にならないやりとりがあった。静かに、けれど確かに——居場所の輪郭が生まれていた。
その日の夕方、サラが客間を訪れると、クラウディアは正面から立ち上がり、まっすぐに頭を下げた。
「……サラさん。ありがとうございました」
「どうかしたんですか?」
クラウディアは息を吸い、ゆっくりと告げた。
「わたし、イリアス様と……正式に“話し合い”を申し込みました。婚姻のことだけでなく、自分の言葉で、この地での暮らしについて伝えたいと思ったからです」
サラは、その決意のこもった声に、ゆっくりと微笑んだ。
「それは……とても嬉しいことです」
「……この街で、誰かとお茶を飲む未来を想像できるなんて、ここに来た初日は思いもしなかった」
「クラウディアさんがそう思ってくれたなら、それだけで、わたしは報われます」
翌日、イリアスとクラウディアは館の小会議室で対面した。
彼女の声は静かだったが、その内容は明確だった。
「イリアス様。政略のことは、理解しています。けれど、私は“家”の名だけでここにいるのではありません。……生きる場所として、この街を選べるか、自分で判断したいのです」
「その判断の基準は?」
「……わたしが、“笑っていられるかどうか”です」
イリアスは黙ってそれを聞き、やがて小さく頷いた。
「それならば、我々の関係もまた、“協定”ではなく“関係性”として築くことができるかもしれない」
「……はい」
季節が夏へと移ろう頃、アラベスクの一角には、新たな茶菓子の札が掲げられていた。
『クラウディアのお茶会菓子セット』
銀花茶と、霧の実の葉菓子、スリュール風の軽焼き菓子。
客たちはそれを楽しみに訪れ、ときおり、領主館からも使いがやってくるようになった。
クラウディアは、週に一度、アラベスクの奥の静かな席でお茶を飲むのが習慣になっていた。
彼女の笑顔は、もう控えめなものではなく、誰かの一日をあたためる“窓”のようだった。
サラと向かい合いながら、彼女は言った。
「わたし、やっと“ここにいる”って言えるようになりました」
サラは静かに湯を注ぎながら、微笑んで答えた。
「ようこそ、ハルキオンへ。そして、アラベスクへ」
風が吹き抜け、客間の窓辺に飾られた押し花が、そっと揺れた。
それは春を越えて、生まれたばかりの“誰かの場所”だった。
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