第13話 トールリーフのパン

トルクがアラベスクに通うのは、もはや“習慣”を超えていた。


昼、任務帰りに。夜、仲間との集まりのあとに。ときには朝、荷運びの帰りにまで——


店の戸が開くたび、レナはちらりと目をやって「はいはい、お決まりのお客さま」と呟き、奥の厨房ではサラが「トルクさんですね」と、もう問われる前から鍋の火を調整していた。


「今日は……豆と根菜のスープでいいですか?」

「おっ、それだ。なぜかサラ嬢の豆スープは、俺の膝の軋みまでほぐれる」


その声に、厨房の火も柔らかく揺れるようだった。


そんなある日。


トルクが現れたのは、昼を少し回った頃。


他に客は少なく、アラベスクの店内はいつもより静かだった。


サラは彼のいつもの席に目を向け、淡く笑った。


「今日も、ですね」

「へへ、寄るつもりなかったんだけどな。気がついたら、足が勝手に……」


サラは笑いながら、鍋の火加減を確認し、まかない用のスープを少し味見する。


ふと、思った。


——この人の“好み”を、私はどれくらい知っているのだろう?


塩の強さ、香草の種類、煮込み時間、食感のバランス。


いつのまにか、彼の皿には“最適”がのるようになっていた。


(私……こんなに人の舌の記憶に、真剣だったっけ)


サラは少しだけ、火の前で目を伏せた。


トルクはスープをひと口飲んで、うなった。


「……これだ。今日のは特に、芯まで染みる」


「いつもより、塩をひとつまみだけ減らしたんです。少し肌寒かったから、油分を増やして」


トルクは驚いたように目を丸くした。


「そんなとこまで……見てるんだな」


「毎日、あなたが食べてくれるから、自然と……覚えるんですよ」


言ってから、サラは少しだけ顔を赤らめた。


トルクは、そんな彼女をじっと見つめ、にやりと笑った。


「じゃあ俺、毎日食べる価値あるってことだな」


「もう、からかわないでください」


「いや、本気で言ってる。……俺、サラ嬢の料理で、“生きてる”って感じてる。ちゃんと、食ってるって」


その言葉に、サラの指先が、鍋の柄を握りしめる。


「……ありがとう」


その夜、レナがこっそりとサラに言った。


「ねぇ、サラさん。最近……ちょっと、トルクさんと、いい感じ?」


「な、何言ってるの……」


「顔、赤いよ。耳も」


サラは湯気にかこつけて笑いながら、かき混ぜたスープを強火にしすぎて焦がしかけた。


「火加減、間違えた……」


「ね? ね? やっぱりね?」


「……もう、仕事に集中!」


その夜遅く、仕込みを終えた厨房に、トルクがふらりと戻ってきた。


「サラ嬢、まだいたのか。……これ、昼に渡しそびれてた」


差し出されたのは、小さな包み。中には、乾燥した山の香草。


「……この前、仲間と山地任務だったときに拾ったやつ。なんか、あんたの料理に合いそうで」


サラはそれをそっと受け取り、香りを嗅いだ。


ふわりと、かすかに甘く、あたたかな匂い。


「……ありがとう。すごく、嬉しい」


言葉はそれだけだったが、その夜の厨房には、ふたりの間だけに分かる火のぬくもりが残っていた。


翌朝、サラは香草の包みを持って厨房に立った。


トルクがくれた乾燥香草は、北方の山地に育つ“トールリーフ”という種に近かった。薄く削った根からは、火にかけるとバターのような甘い香りと、ほのかな渋みが出る。


「……これは、スープよりも、パンの生地に混ぜたほうが引き立ちそう」


サラは粉と水を量りながら、トルクの顔をふと思い浮かべた。


(あの人、どんな味を“懐かしい”って思うのかな)


彼の過去について、サラはほとんど知らなかった。


ただ、かつてぽつりと語ったことがある。


「食べ物に“記憶”が宿るってのは、ほんとかもしれんな。俺、母親の顔は思い出せねぇけど……干した肉を焼いた匂いだけは、今でも忘れてねぇ」


それが、どこか寂しくて、どこか強い記憶だった。


サラはその香草を、今日のパンの生地と、ほんの少しスープにも加えることに決めた。


香りが、心をつなぐ橋になることを願って。


昼時、アラベスクにトルクが現れた。


「おう、来たぞ!今日も何か染みるもん、頼む!」


サラはパンの皿を差し出しながら微笑んだ。


「今日は新作です。香草を練り込んだパンと、それに合わせたクリームスープ」


トルクは一口食べて、驚いたように顔を上げた。


「……なんだこれ。懐かしい……いや、初めてなのに、懐かしい……」


サラは、胸の奥が小さく震えたのを感じながら言った。


「昨日、あなたがくれた香草を使ってみました。……トルクさんの“記憶の味”に、少しでも近づけたならいいなと思って」


トルクはスプーンを止め、しばらく何も言わなかった。


そして、ぽつりとつぶやいた。


「……サラ嬢、あんた……怖いくらい、優しいな」


サラは、少しだけ俯いた。


「料理しかできないから、せめて……食べることで、誰かの疲れを少しでもほどけたらと思って」


トルクはスープを飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。


「……今度、俺にも作らせてくれよ。飯じゃなくていい。なんかこう……サラ嬢のための、何かを」


サラは思わず微笑んだ。


「じゃあ……食器を拭いてくれるだけで、充分です」


「よっしゃ、それなら得意だ。斧より軽いもんな」


その日の午後、トルクは厨房の裏で本当に皿を拭いていた。


レナが横目でそれを見て、サラにそっと囁く。


「サラさん、あれ絶対“恋してる人の動き”ですよ……」


「しーっ!」


「でも、すごく優しい目してました。あんな顔、戦場じゃ絶対見られないって、トルクさんの仲間が言ってた」


サラは照れ隠しにバターを混ぜる手に力を込めすぎて、音を立ててボウルを鳴らした。


「……レナ、混ぜるの手伝って」


「はいはい、こっちも“火加減”見ときますよ」


翌日も、トルクは厨房裏で皿を拭いていた。


昼食後の静けさの中、アラベスクの厨房には食器を洗う水音と、布が陶器を拭うかすかな音が響いていた。


「……サラ嬢、これ、ここに戻してよかったか?」


「うん、合ってます。さすがですね」


「へへ。斧の柄を整えるのと、皿の収まり、ちょっと似てるかもな」


その言葉に、サラは笑って言いながら、次の皿を手渡した。


「たぶん、初めて聞いた比喩ですけど、妙に納得しました」


夕方。


サラはパンを仕込んでいた。厨房には、麦と発酵の香りがふわりと漂っていた。


その香りをトルクは、少し離れた椅子で静かに吸い込んでいた。


「……俺、昔はパンって“贅沢”だと思ってたんだ」


「え?」


「小さいころ、施設にいたからな。基本は粥と干し物。パンが出るのは、収穫の手伝いとか、街の祭りのときくらいだった」


サラは、手を止めて彼を見つめた。


「……じゃあ、パンの匂いって、特別なんですね」


「そう。だからたぶん、アラベスクの香りって、それだけで“祭り”みたいなもんなんだ、俺には」


サラは、その言葉を聞いて、じんわり胸が熱くなった。


「……ありがとう。そう言ってもらえるの、すごく、嬉しい」


トルクは急に照れたように立ち上がり、鍋のほうに近づいた。


「……それで。今度さ、あんたと、どっか出かけたりしてみたいなって、思ってて」


「出かける?」


「ああ。任務とか、料理の仕入れとかじゃなくて、なんていうか、ほら……普通に」


サラは思わず微笑んだ。


「“普通に”って、案外難しいですね」


「でも、サラ嬢となら、なんかいつもより飯が美味くなりそうな気がして」


言い終えて、トルクは視線をそらした。


サラは少し黙ってから、パン生地に打ち粉をかける。


「わたしも、出かけてみたいです。……たまには厨房以外でも、火を感じてみたいなって」


トルクが再び彼女の方を見て、ゆっくりと頷いた。


夜、レナが掃除をしながらつぶやいた。


「明日は、サラさんお休みでもいいんじゃないですか?」


「え、なんで?」


「“外の火加減”もたまには見てきたほうがいいかも。……誰かと、ね?」


「レナ……それは、たまたまの話です」


「でも、“たまたま”が積み重なると、いつか“当たり前”になるんですよ」


サラは笑いながら。


「……じゃあ、明日はちょっと、火を“外”に連れ出してみようかな」


レナはにんまりと笑って、もう何も言わなかった。


その朝、アラベスクの厨房にはサラの姿がなかった。


代わりにレナが早起きし、パンの仕込みを任されていた。


「……がんばれ、わたし。今日はサラさんの分まで、“火”を守るんだから」


そう自分に言い聞かせながら、生地をこねる。


一方、サラはまだ薄い朝霧が街を包む時間、トルクとともにアラベスクの裏手から歩き出していた。


「行き先、どこだか言ってくれないんですか?」


「それは“任務外”だから、ちょっとしたサプライズってことで」


サラは笑いながら、そのペースについていった。


着いたのは、街の東、丘のふもとにある小さな野原だった。


季節の草が揺れ、朝露がキラキラと光っている。


そこには石のベンチと、風除けの古木がひとつ。


「……ここ、初めて来ました」


「昔、ギルドの先輩に教わったんだ。よく訓練の後、ここで干し肉をかじりながら寝転がってた」


「へぇ……。トルクさんにも、こういう“静かな時間”があったんですね」


「むしろ、そういう時間を思い出させてくれるのが、サラ嬢なんだよな」


サラは顔を赤らめながら、手提げの布を広げた。


中から取り出されたのは、サンドイッチと、野菜のピクルス、果物のコンポート。それと、昨日焼いた“トールリーフのパン”。


トルクは驚いたように目を見開き、それからにやりと笑った。


「それは……“ご馳走”ってやつだな」


風が草を揺らし、鳥のさえずりが響く中、ふたりは黙々と食べた。


トルクはピクルスを口にしてから言った。


「……こういう、何も起きない時間、すごく貴重だよな」


「料理してても思うんです。何も“事件”がない日って、じつはすごく“満ちてる”って」


「俺も、昔は“冒険”ばっかりが生きてる証だと思ってた。でも最近、毎日アラベスクで飯食って、サラ嬢の声聞いて、皿拭いて……それが妙に、“明日”に繋がってる気がする」


サラは、トルクの言葉に静かに頷いた。


「明日がくる料理……なんだか、それって素敵ですね」


「それを毎日作ってるあんたは、すごいと思う」


ふたりはしばらく、風に吹かれながら黙って座っていた。


そして、トルクがポケットから何かを取り出した。


「これ、前に手に入れてたやつ。いつ渡すか迷ってたんだけど……今日が、いい日な気がして」


差し出されたのは、金属細工の小さなスプーンだった。


柄の先に、小さな葉のモチーフがあしらわれている。


「旅先の職人が作ったやつ。“一匙の休息”って名がついてた」


サラは、手のひらでそれを受け取った。


「あったかい……」


「火と同じで、金属も持ち方で温度が変わるらしい。だから、このスプーンは“誰かに渡すと温かくなる”んだと」


サラはその言葉を胸にしまい、ゆっくりと微笑んだ。


「じゃあ、今日はこのスプーンで、お茶を飲みましょう」


ふたりの間にあった距離が、ひと匙分だけ、近づいた気がした。


翌朝、サラが厨房に戻ると、レナが張り切った表情で待っていた。


「おかえりなさい!昨日のパン、ちゃんと焼けてましたよ!」


「ありがとう。……どう? 火、うまく扱えた?」


「うん。サラさんが言ってた通り、“焦らず”がいちばん大事ですね」


ふたりのやり取りを見ていたオスカーが、ニヤリと笑って言った。


「火加減も恋加減も、焦ると焦げるんだよ」


「オスカーさんっ!」


サラは慌てて言ったが、レナはくすくす笑いながらトレーを運んでいた。


厨房に戻ったサラは、昨日もらった“一匙の休息”のスプーンを棚の上に丁寧に置いた。


それは、ただの飾りではなく、“今日”を始める合図のような存在になっていた。


それから数日。


アラベスクの日常は穏やかに続いていた。


けれど、サラの中には、確かに何かが変わっていた。


パンを焼くとき、スープを仕込むとき、サラダの酸味を決めるとき——“誰がそれを食べるか”を以前よりも強く思い描くようになっていた。


トルクが来る日は、スープにほんの少しだけ火を通しすぎないように。


ピクルスの酸味を一滴だけ和らげて。


そして何より、厨房の奥にある空き瓶の棚に、ひとつだけ香草瓶を増やした。中には、彼がくれたトールリーフが乾燥保存されている。


「これがあると、火のそばに彼がいる気がする」


そう思ってしまった時、自分でも驚いた。


ある夜、トルクが店に顔を出した。


「……これ、今日の任務帰りに拾ったんだ」


差し出されたのは、小さな花束。草花を無造作に束ねただけのものだったが、そこにひとつだけ、“山でしか咲かない花”が混じっていた。


「この花、知ってる?」


「……ベリル草。山の中、風の強い場所じゃないと咲かないって」


「なんか、あんたっぽいなって思った」


サラは、それ以上言葉を返せなかった。


でも、静かにその花を受け取った。


その夜。


厨房でひとり、パンの仕込みをしながら、サラはふと呟いた。


「恋って……こんなふうに、静かにやってくるんだ」


火の揺れる音だけが応える。


サラは粉の中に手を入れながら、火を見つめた。


「焦らず、でも、冷まさず。……それが、火加減」


“今日”と“誰か”のことを思いながら焼くパンが、いつもより少しだけ、香ばしく焼けたような気がした。




アラベスクの厨房には、いつも通りの火が灯っていた。


パンが焼け、スープが煮え、香草が湯気に乗ってふわりと漂う。


けれど、その中にいるサラの心には、以前にはなかった“揺らぎ”があった。


それはトルクが差し出した小さな花束のせいだった。


言葉以上に素朴で、けれどまっすぐで——その花が乾いてゆくたびに、気持ちが静かに染み込んでくる。


「……はぁ」


サラがひとつ息をついたとき、背後からレナの声がした。


「その溜め息、どう考えても“しあわせ成分”です」


「レナ……!」


「はいはい、否定しなくていいですよ。わたしの目は誤魔化せません」


サラは、レナが焼いたパンを見て話を逸らそうとしたが、レナはまったく動じなかった。


「サラさん、いま、すごく“味がやわらかい”んです。料理って、心が移るでしょ?わたし、それで気づいたんです」


「気づいた、って?」


「トルクさんと一緒にいる時間を思い出しながら味を調えると、サラさんの料理が……ちょっとだけ“やさしすぎる”くらいになるんです」


サラは、頬を赤らめた。


「……そんなに、わかるものかな」


「わかりますとも。だって、火がやわらかくなってますもん」


その日の夜。


トルクがアラベスクに顔を出した。


「サラ嬢、これ……また山の香草。今度はちょっと珍しいやつでな」


「わ……ありがとうございます」


「あと、えっと……今度また、あの丘に行かねぇか?この前のやつ、なんかよかったからさ」


「もちろん。……でも、あの場所は“あなたの記憶”の場所でしょう?」


「だったら今度は、“サラ嬢との記憶”を重ねればいいだけだ」


その言葉に、サラは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


言葉は少ない。けれど、そのひとつひとつが、真っ直ぐで、心を包むようにあたたかい。


「……じゃあ、次は、わたしが“お弁当”を作ります」


「うぉ、そりゃもう、最高だな」


「でも、ちゃんと運ぶの手伝ってくださいね?」


「もちろん。俺の役目は、火の見張りと、荷物持ちだからな」


ふたりは笑い合い、その夜のアラベスクは、少しだけ湯気が長く揺れていた。




ふたりで再び丘へ向かったのは、春が夏へと静かに背を向け始めた日だった。


空は高く、風はまだ柔らかい。


アラベスクの朝仕込みを終えたサラは、用意していた弁当箱をそっと布に包み、厨房の火をレナに託した。


「行ってらっしゃい、サラさん。“焦がさず、でも火を絶やさず”ですよ」


「ええ、“心地よい火加減”でね」


野原は変わらず静かだった。


けれど、前回と違ったのは——ふたりが“少し近く”に腰かけたことだった。


「……これが、今日のお弁当です」


布を開くと、サンドイッチ、冷製スープ、ハーブバターを塗ったトールリーフのパン、そして小さな果物のコンポートが並んでいた。


トルクは一品ずつ驚きの声を上げながら、それらを味わった。


「……全部、すげぇな。なんで毎回、俺の“ちょうど”に合うんだろう」


「あなたの“ちょうど”を、わたしが覚えたからです」


「そっか。……じゃあ、俺もサラ嬢の“ちょうど”を、知っていきたいな」


サラはその言葉に一瞬戸惑いながらも、微笑んで頷いた。


食後、ふたりは風に吹かれながら、草の上に並んで座った。


トルクが、ぽつりと語り始めた。


「俺、実はな。昔、ギルドを抜けようと思ったことがある」


「えっ……」


「理由は単純でさ。毎回戦って、誰かの“明日”を作るはずなのに、自分の“明日”が見えなくなってきたんだ」


サラはその言葉を静かに受け止めながら、耳を傾けた。


「でも、アラベスクに通うようになって、ふと気づいたんだ。——“誰かのための場所”に、自分も座っていいんだって」


「……それは、料理人として、とても嬉しい言葉です」


「違うよ。これは……“男”としての話だ」


サラの目が、ふと揺れた。


「……あんたと、こうして並んでる時間が、俺にとっての“帰り道”になってる。サラ嬢、俺は……」


サラは、ゆっくりと手を差し出した。


「“料理”みたいに、ゆっくり火を通してもらっていいですか?」


トルクは笑って、その手をそっと取った。


「もちろん。焦がしたら、もったいないからな」


帰り道、丘を下りながら、サラはそっと言った。


「ねぇ……次は、わたしに“あなたの好きなもの”を教えてください」


「じゃあ今度、俺の思い出の“干し肉とじゃがいもの煮込み”を一緒に作ろうぜ」


「ええ、楽しみにしてます。火加減と、一匙分のあなたの記憶を、ちゃんと教えてくださいね」


風が背中を押すように、ふたりを照らしていた。




アラベスクの厨房に、今日も穏やかな香りが流れていた。


だがその中心には、いつもと違う“鍋”があった。


「……じゃがいもはもう少し厚め。干し肉は、焼かずにそのまま煮込むのが“あの味”なんだ」


「はい……でも、この脂、出すタイミングを間違えるとスープが濁ります」


「だよな。だから……火を落とす直前に一度取り除いて、あとで戻す。うちの爺さんがやってた」


サラとトルク、ふたりでひとつの鍋を前に並んで立っていた。


メニューは、トルクの記憶にある“干し肉とじゃがいもの煮込み”。


彼が育った施設で、冬の終わりに必ず出てきた一品。


粗末な材料。決して贅沢ではない。だが、腹にしみる“生きてきた味”。


レナが厨房を覗いて言った。


「ふたりとも、真剣すぎて声かけづらい……」


「ごめんなさい、レナ。あともう少しで煮込み終わります」


「じゃあ、わたしはパンとサラダ、仕上げておきますね」




サラとトルクは顔を見合わせて、小さく頷いた。


完成した煮込みを器に盛る。


色は薄く、けれど表面にかすかに脂の膜が浮かび、湯気の中に甘く懐かしい香りが立ちのぼる。


トルクがひとくち、口に運んだ。


「……ああ、これだ」


「ほんとうに?」


「“あのころの味”そのままだ……でも、不思議だな。サラ嬢と一緒に作ったからか、心まで温かくなる」


サラもひとくち味見して、そっと言った。


「たしかに……どこかで知ってたような味。だけど、きっと今この瞬間だけの“わたしたちの味”なんですね」


まかないを食べ終えたあと、ふたりはテーブルを片付けながら、並んで湯飲みにお茶を注いだ。


「トルクさんは、これからも冒険を続けるんですか?」


「たぶん、そうだろうな。あれが“俺の生き方”だから。でも……」


「でも?」


「その途中に“帰ってくる場所”があるって、すごく大きい」


サラは、トールリーフの瓶が並ぶ棚を見上げながら、ぽつりと言った。


「わたしも、誰かのために作ることが、こんなにも“待つ”ことになるなんて……思ってなかった」


トルクは湯飲みを握りしめながら、ゆっくりと口を開いた。


「なあ、サラ嬢。いつか……ほんとにいつかでいい。俺が斧を置くときがきたら、そのときは……一緒に鍋、作らないか?」


サラは、頬を赤らめたまま、ゆっくりと頷いた。


「……もちろん。きっと、その火は絶やさずに待ってます」


ふたりの間に流れる時間が、言葉よりも深く、静かに“未来”の輪郭を照らしていた。




数日後のアラベスクは、少しだけ“特別な日”だった。


厨房では、サラが小さな鉄鍋にそっと火を入れていた。


「今日は、トルクさんのための“まかない”じゃなくて——“未来の一品”を仕込みます」


レナが笑いながら応える。


「じゃあ、私は“ふたりのためのテーブル”を整えておきますね」


サラは頷き、鍋の中に玉ねぎと香草を丁寧に重ねていく。


火加減は、迷いのないやわらかさだった。


その日の午後、トルクはいつもより早く現れた。


扉を開けて厨房を覗くと、サラが手を振る。


「おかえりなさい。今日は早かったですね」


「明日の任務が伸びてな。……でもなんか、俺の中で今日のほうが“大事”な気がして」


「ふふ、それならちょうどよかったです」


ふたりはカウンターの奥、サラがレナに頼んで準備させた席に座った。


そこには、鍋ひとつと、パンとサラダ、そしてハーブティーのセット。


「今日は……“結びの煮込み”です」


「結び?」


「あなたとわたしの間に積み重ねてきた、ひと匙ひと匙を全部煮込んだら、どんな味になるかなって」


トルクは笑いながらスプーンを手に取り、一口食べた。


そして、言葉を失った。


塩気、香草、素材の旨み。それはどれも控えめなのに、確かに“サラの味”であり、同時に“トルクの記憶”も宿していた。


「……これ、反則だろ」


「え?」


「こんな味出されたら、“明日”が待ち遠しくなる」


サラは頬を染めながら、真っ直ぐに言った。


「……トルクさん。わたし、あなたとこれからも、“火を分け合う関係”でいたいです」


トルクは鍋の中を見つめながら、ゆっくりと頷いた。


「俺もだ。冒険も、食事も、しんどい日も、笑う日も。全部、サラ嬢とわけたい」


「じゃあ……次の“まかない”は、いっしょに考えましょう」


「最高だな、それ」


その夜、アラベスクの火は、ふたりの姿を照らしていた。


まかないが“心の距離”を少しずつ埋めていったように、鍋の中の湯気は未来を少しずつ温めていた。


ふたりが笑い合う時間も、沈黙をわけあう時間も、きっとどれもが“今日をつくる一匙”になる。


そう信じられるほど、厨房の空気はやさしく、静かに灯っていた。

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