静寂の世界
リベルテが砂に突っ伏した。怪物の頭を支える、首と言えなくもない円柱から水色の気体が発される。シューッと勢い良く噴出されたそれは溜息のようだ。怪物は呆れた目でリベルテを見下ろす。そんな視線にも気付かぬ彼女は何事も無かったかのように立ち上がり、少しするとまた倒れる。
「おい。何もそんなに急ぐことは無いだろう」
リベルテが何度も転ける理由は明らかだった。ただでさえ足を取られる砂漠で、目も見えないのに速く速く歩こうとしている。バランスを崩すなという方が無理な話である。リベルテは怪物の方を向き頭を垂れた。
「だって……わたしの歩く速度に合わせてたらクラージュが疲れるでしょう? 大丈夫。暗闇にはすっかり慣れたもの」
水色の気体が桃色の空に解けた。クラージュはリベルテの前に腕を差し出した。気づかず歩くリベルテが腕にぶつかりよろけた。クラージュの腕に倒れ込む。砂とは程遠い硬い感触に首を傾げるリベルテにクラージュは言う。
「乗れ」
「え、これクラージュなの?」
ぺたぺたと巨大な丸太のようなクラージュの腕に触る。樹皮はゴツゴツと凹凸があり登りやすそうではある。
「分からないけど、腕にも目があるんじゃない?」
「全て閉じてある」
リベルテはそう言われても触れているものを念入りに確認する。弧状に曲がる長い溝が幾つかあった。これが目なのかと問われ、クラージュはそうだと答える。クラージュの目を踏んずけてしまう心配はなさそうだと、リベルテは安心して手足を掛けた。もう一本の腕を用いたクラージュの補助を受けながら何とか居場所を見つけて腰を落ち着ける。
クラージュがゆっくりと腕を持ち上げる。リベルテは強い風に吹かれてバランスを崩しそうになった。髪が乱れて顔にかかる。咄嗟に目を閉じ髪を払った。目を開いて映る虚無を見て憂いを帯びた笑みを浮かべる。
「きっと、良い景色なんでしょうね」
リベルテにしては弱々しい声だった。暗闇に慣れたとは言うが、それでも色彩に溢れる世界が恋しいのだろう。クラージュにとっては見飽きた光景だとしてもリベルテにとっては心打たれる光景に違いない。リベルテが元々住んでいた世界がどんなだったか、クラージュには想像もつかないが。
「ここら一帯は紫色の砂漠が広がっている」
クラージュが二十の目に映るままを語る。
「空は桃色。歌が聞こえる方には黄金に輝く球体がある――果てしなく遠い場所に」
リベルテは数秒の沈黙の後、口を開く。
「……わたしが知っている砂漠は黄色よ。空は青いの。輝く球体、太陽は、白よ」
「なら此処は、お前にとっての異世界なんだろう。お前のような異邦人は稀に現れる」
クラージュはこれまでに現れた『陽炎』を思い返す。言葉を話す者もいたし、姿すら見えない者も居た。しかし向こうからはクラージュが見えたらしい。十人現れれば十人がクラージュの姿を見て悲鳴を上げる。それで彼は来訪者に気づく。そして来訪者に共通する前兆の『揺らぎ』を発見してから、クラージュは彼らに見つからないよう息を潜めるようになった。
「そういうのは放っとけばいつの間にか消えていた。きっとお前もその内帰れる」
リベルテは悪戯っぽく笑う。
「それが分かっていたのに、どうしてわたしのお願い聞いてくれたの?」
クラージュは頭部の巨大な眼球を厚い樹皮で覆った。
「さあな」
「それはそれとして」リベルテの声色が変わった。炎と見紛う唐紅の眼光がやけに冷たい。
「わたしはリベルテよ。お前じゃないわ。そんなふうに呼ばれたら悲しくなっちゃう」
「何故オレはクラージュなんだ?」
リベルテはむっと頬を膨らませた。そっぽを向いて尖った唇から不満の音色の滲む言葉を吐いた。
「知らない。クラージュって顔してるからじゃない?」
クラージュ。そう少女に名を与えられた元名無しの怪物は腕にくっついた目で自分の頭部を見た。凹凸の多い岩のような色と形をしたそれを見てもいまいちピンとこない。クラージュ。クラージュ。何度も頭の中で同じ単語を往復する。そうしているうちにふと気づいた。
「お前、オレの顔見えてないだろ」
「うん」
「……」
リベルテの行動はあまりに自然だ。話すときはクラージュの顔を見て話すし、景色の話をする時は世界の広がりに向けて目を輝かせる。そのせいでクラージュは、リベルテが盲目であることをしばしば忘れていた。
「だから教えて。この世界はどうなっているの?」
何故『見えているふり』なんてするのか。クラージュには分からない。クラージュは自分の姿以上に恐ろしいものなど何処にも存在しないと思っていたが、存外そんなこともないのかもしれない。それでも怪物は紅玉の瞳の少女を腕から払い落とす気にはなれなかった。感情の見えにくいその燃えるような赤に、好奇心という名の星が瞬く様をもっと見ていたいと、そう思った。
「さっき言ったのとそう変わらない。紫色の砂漠があって――ああ、灰色の瓦礫がある」
「瓦礫? どうしてそんなものがあるの?」
「知らない。オレが元々居た場所にはなかった。この辺に来て初めて見たんだ」
瓦礫は紫の砂に埋まり、その全貌を知ることは出来ない。ふうんと興味なさげにリベルテが息を吐く。
「そっか、クラージュってもっと離れた場所に居たんだっけ。そこはどういうところだったの?」
所々クラージュの巨体が通れない箇所を迂回しつつ瓦礫の森を歩く。瓦礫は密集している所もあればまばらに散っていることもあり簡単には法則性は見つけられない。長い木の根のような足が瓦礫に絡みつく度に一度動きを止め慎重に剥がした。その繰り返し。
「あまり覚えていない。遥かに昔の、昔のことだから」
クラージュは過去を思い返そうと試みる。しかしどうやら記憶の箱に蜘蛛の巣が張っているようで中を見ることは叶わなかった。箱をひっくり返そうにもそもそも手が届かない。クラージュは背後を見た。彼がこれまで歩いてきた道のりを振り返る。
『あそこへ行けばすべて上手くいく。そんな気がするの』
リベルテと同じ思いで歌の源を目指していたのは覚えているが――何を上手くしたかったのだろうか。それすら覚えていなかった。ただ世界の果てで輝くあの光に、そこから聞こえてくる歌声に強く焦がれて歩いてきた。歩いて歩いて、歩き疲れて、リベルテと出会ったあの場所で長く留まっていた。
「こことは全然違う場所だった気もするし、ずっと同じような景色を見ていた気もする」
「……そっか」
リベルテは人形のように変わらない笑顔をクラージュへ贈る。
「なら、無理に思い出さなくても良いんじゃない?」
その含みのある言い方が妙に引っかかった。クラージュは少女に問う。
「どういうことだ」
「思い出したくない記憶って、あるもの。わたしだってある」
リベルテの赤い瞳に影が差す。そっと伏せられた瞼から涙が零れることこそなかったが、彼女から溢れる悲しげな雰囲気がクラージュの居心地を悪くした。
しん、と静かな空気の中。クラージュは瓦礫と瓦礫の狭間に揺らぎを見つけた。咄嗟に動きを止め、全ての目を閉じる。リベルテを初めて見た時と同じように世界と同化する。そんなクラージュの様子に気づかないリベルテは無理やり口角を持ち上げクラージュの頭があるはずの方向へ顔を向けた。
「ごめんなさい。しんみりしちゃった、気にしないで?」
クラージュからの返答はない。リベルテは眉を八の字に曲げてもう一度言う。
「ごめんなさい。気分を悪くしちゃったかしら」
やはりクラージュからの返答はない。その代わりリベルテは激しく脳を揺らす歌声を聞いた。咄嗟に耳を塞いだリベルテは顔を顰める。あの光から聞こえる歌と同じものだったが、音量が桁違いだ。クラージュも微動だにしなかったものの、恒常の世界に訪れた変化に驚愕していた。大音量で世界に響き渡る歌声は二人に不快感を与えた。聞いていると自然と胸のあたりがざわざわと波を立て、無意識の内に足を後ろへ動かしたくなる。それでも歌は甘く甘く、思考を蕩けさせる。
耐えかねてクラージュはそっと目を一つだけ開けた。先程目にした小さな揺らぎに――異邦人に気づかれぬように。自分が辺りに散乱する瓦礫の一つではなく異形であることを悟らせぬように。
そしてクラージュは、リベルテが天へ向かって何かを叫んでいるのを見た。無機質なルビーの目は極限まで見開かれ、頬にはじんわりと汗が滲んでいる。肌は青白く、逆にきつく握った手は真っ赤だった。前のめりになって倒れそうになったリベルテをクラージュは慌てて支えた。ずっと穏やかな笑みを浮かべていた彼女のものとは思えない切迫した表情で、大声で叫んでいることだけは伝わった。しかしクラージュにはリベルテが何を言っているのかはわからない。彼女の声は歌声に搔き消されていた。クラージュは自分の耳が何処にあるのかを知らない。だから耳を澄ますことは出来ず、代わりに二十の目で天を見た。リベルテが何を見てそんな顔をしているのかを知りたかった。
結論から言えば、クラージュはそこにあるものが何か理解することは出来なかった。遥か上空に黒粒のようなものが駆けていく。人のようにも見えるしボールのようにも見えた。それを中心として桃色の空に模様がついている。薄い雲のようだった。見たことがある気がする、なんだったか……。黒粒が遠ざかっていくにつれて歌が小さくなっていくので、クラージュは突然聞こえてきた歌声があの黒粒からのものだったと知った。
――ああそうだ、あの模様。翼によく似ていた。空を飛ぶ鳥の、英雄を背に乗せて走るペガサスの、神話に出てくる天使の。クラージュは一瞬何かを思い出しそうになった。だがすぐに靄がかかり思い出せない。
「もう……もうっ!」
リベルテはクラージュの腕に拳を振り下ろした。何度も何度も叩きつけられたがクラージュは痛みを感じない。リベルテは我を忘れて苛立ちを露わにした。
「おい、どうしたんだ」
「どうしたもこうしたも!」
リベルテはクラージュへ目をやった。怒りで朱色に染まった目は吊り上がりなんとも迫力がある。だがその色は直ぐに消えた。宝石を彷彿とさせる冷たい静穏がリベルテの目に戻ったのを見てクラージュは体の力を抜いた。直後ハッとして周囲へ目をやる。異邦人の訪れの予兆であるあの揺らぎは一体何だったのか。クラージュの目は彼の知らない誰かの姿を見つけ出さなかった。それにクラージュの姿を見て恐怖する悲鳴も聞こえない。二度も連続してリベルテのような変人が来ることもあるまい。どうやらあの揺らぎは甘美な喧噪がもたらした空気の震えだったらしい。
「ごめんなさい、貴方に八つ当たりしちゃ駄目よね、一番辛いのは貴方なのに、ごめんなさい」
一番辛いのが自分とはどういうことか、クラージュはリベルテに尋ねたかった。しかし彼から真っ先に発された言葉は疑問ではない。
「謝るな。一体どうしたんだ」
感情の起伏が感じられない、ノイズの混ざったクラージュの声。それでもリベルテはその中に自分を案じる気持ちがあることに気づいた。見えてもいないのに目線を右往左往させ、クラージュを見上げる。とても言いづらそうに、おずおずと口を開いた。
「……いいえ、わたし、貴方に謝らなくちゃいけないの」
シュー、とクラージュの首元から水色の空気が噴射される。
「どういうことだ」
リベルテは目を閉じた。
「ねぇ、クラージュ。あの天使はどっちへ飛んで行ったの?」
「天使?」
「さっきの歌声。あっち?」
そう言ってリベルテは彼らが目指している光源と反対方向へ指を伸ばした。
「ああ、そうだ」
リベルテは肩を落とす。
「何が言いたい」
クラージュはリベルテを促す。
桃色の巨大な石塊が、彼らの頭上に迫った。
「避けてッ!」
リベルテが叫ぶよりも先にそれに気づいたクラージュは三本の足を大きく動かした。その内の一本が瓦礫に絡まり、引きちぎって闇雲に走る。振り落とされぬようリベルテも懸命にクラージュの腕にしがみつく。
岩石は空から次々と落下してくる。何処からやってくるのかと再び天を仰ぎ見る。そして彼の無数の目は全て驚愕の一色に染まり切った。
桃色の空に大きな亀裂が走っていた。岩石は、空の破片だったのだ。大きな亀裂から小さな亀裂が生まれ、塊となり降ってくる。砂漠に落下した桃色の塊はその瞬間に瓦解し砂と化し。その奇怪な現象に、紫と桃の色でまだら模様になった砂漠に、見覚えがあることをクラージュは思い出した。
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