名無しの怪物

樹暁

盲目の少女

 何処からか、歌が聞こえてくる。見渡す限り淡い紫色の砂漠と建築物らしきものの灰色の残骸や瓦礫が続くこの世界でそれだけが心の安らぎだった。瓦礫の傍で、数十の目を持つ怪物は微睡み歌に耳を傾ける。ゆらり、陽炎が見えた。怪物は目を伏せる。世界と同化する。他の瓦礫と同じく大昔からそこに存在していた無機物のように。

 砂漠を足で踏む音がした。一歩一歩の音の間隔が長く歩くのに苦戦しているらしい。怪物は目を伏せたままだ。

 人を縦に三つ積み重ねたような巨体に単眼の頭、枯れ枝に見える四本の腕と三本の無骨な鳥の足。体中に張り巡らされた目はぎょろぎょろと四方八方へ視線を送る。人間が見れば顔中から液体を垂れ流し悲鳴を上げるだろう。怪物はそんな光景を何度も見てきた。だから怪物は息を潜める。幸い怪物の体は瓦礫と同色で、遠目から見ればそれが異形だとは気付かない。――あくまで遠目から見ればである。

 砂の音が近づいてくる。怪物は息を止める。砂の音が近づいてくる。怪物は思考を止める。砂の音が止まった。

「こんにちは」

 まるで歌っているような心地の良い声だった。高く澄んだ少女の声だった。少女は間違いなく怪物を意識してそう言ったのだが怪物は何も応えない。

「あれ? こんにちは」

 少女はもう一度言った。やはり怪物は答えない。うーんと少女の困ったような声が歌声に乗って怪物に届く。脳が蕩ける甘い声に絆されそうになるが怪物は己を律する。少女は怪物の周りをぐるりと歩いた。

「怖くないよ」

 少女はそっと怪物に触れる。瓦礫とも砂とも違う柔らかな感触が怪物を襲った。驚いて頭の目を開ける。しまったと思う怪物の視界に少女が映る。少女の真っ白な長髪が揺らいでいるのを見て初めて怪物はこの世界に風が吹いていることを知った。同じく真っ白なワンピースを身に纏う、白色の少女。唯一色を持った深紅の瞳が怪物を燃やす。こんなにも激しい色彩を見たのもまた初めてだった。少女は怪物が目を開いたことに気付かず声を掛け続けている。こんにちは、怖くないよ、驚かせてごめんね。少女に対し不信感を募らせるが怪物は何も言わない。いや、言えない。驚きと興奮で声を発することも出来ず、目を閉じることも出来ない怪物はただじっと少女の動きを目で追った。

 唐突に少女が顔を上げた。怪物と目が合う。少女はにこっと笑う。

「こんにちは」

 怪物は観念して少女に返事をする。

「……ア…………ウ」

 出てきた声とも呼べぬノイズは途切れ途切れで掠れていて少女の美しい声とは懸け離れた酷いものだった。会話という概念すら大昔に忘れたきりだった怪物は、最初これが自分の声だと分からなかった。声を出そうとするたびに不快な雑音が聞こえてきて、漸く怪物は理解する。それでも少女は嬉しそうに微笑んだ。怪物は違和感を覚える。

「初めまして。わたしはリベルテ。あなたのお名前は?」

 怪物は再びノイズを発する。怪物がリベルテを威嚇しているようにも見えたがリベルテは黙って微笑んでいた。怪物が必死に言葉を絞り出そうとしていることを理解しているかのように。

「オ、まえ、わ」

 強いノイズの混ざった音だがなんとか言葉として聞き取れる。リベルテは口元に笑みを残したまま首を傾げた。怪物は焦点の合わぬ小さな紅玉を見つめる。

「オレが、こワくな、イのカ」

 リベルテは首を振る。

「ちっとも」

 怪物は己の体に埋め込まれた全ての目を開いた。リベルテの顔色は変わらない。ただ笑っている。

「見えないものは怖がりようがないもの」

 目が見えないのだと思って見てみれば、リベルテは怪物が初めて反応した時から顔の位置を変えていない。怪物の頭が見えているのではなくそこに怪物の頭があると判断したからリベルテはそちらを向いているのだ。怪物には少女の見る世界が想像もつかなかった。体をぐるりと覆う大量の目玉から浴びる情報の渦。それが無いとはつまりどういうことか。

「昔は見えていたんだけどね。今はもう、ちっとも」

「……オレには目が二十ある」

「そうなの? 羨ましい」

 リベルテは笑うだけだった。怪物はそんな彼女を不気味に感じた。姿が見えずともおぞましい姿を想像することは出来るだろうに。他にもあなたのことを教えてとリベルテが言うので怪物は話してやった。どれだけ自分の姿が彼女のものとかけ離れているか、どれだけ自分が醜いか、どれだけ自分が恐ろしいか。リベルテはやはり笑って頷くばかりだった。楽し気に目を細める。

「オレが怖くないのか」

 怪物はもう一度リベルテに問う。その掠れ声は幾分かノイズが取れていたがお世辞にも聞き心地が良いとは言えない。

「だから言ったでしょ? わたしはあなたが見えないのにどうして怖がられると思うの?」

 心底不思議そうな顔をするリベルテ。怪物は考える。怪物の持つ声だけでもこの小さな少女に恐怖心を植え付けるのは容易だろうと。まさか壊れたスピーカーから音が出ているのだとは思うまい。リベルテはちゃんとこの声が怪物のものだと理解しているように見える。

「おまエは、何処から来た」

 怪物の声が徐々に安定する。人間と懸け離れた風貌の怪物だが、人間と近しい部分もあるらしい。

 怪物は少女に興味を持った。するとリベルテは表情を曇らせ俯いた。言葉を探すように、見えてもいないのに四方へ視線を泳がせる。目が見えていた頃の癖が残っているのだろうか。おずおずと口を開いた。

「……分からないの。気付いたらここに居たわ」

 リベルテは顔を上げる。怪物の顔よりやや右寄りの方向を見て言った。

「お願い。わたしがここから帰るのを手伝ってもらえないかしら?」

 怪物は腕の一本をリベルテが見ている方へ伸ばし、視線を合わせた。強い力を持った瞳があった。どんよりと濁り、見た者を深淵へ引きずり込んでしまいそうな怪物の目を見ても彼女は顔色一つ変えない。当然だ、見えていないのだから。怪物は首を振って邪念を落とした。

「……オレは、何をしたらいい」

 リベルテの顔に花が咲く。彼女が感謝の言葉を繰り返す度に怪物は先の言葉を取り消したい衝動に駆られた。なんだかこそばゆい。しかしリベルテの喜ぶ顔を見ると悪い気はしなかった。

 白く細い指が世界の果ての光源を指した。地平線の際で黄金色に輝くその光は世界を優しく包み込んでいる。直視しても目が痛むことはなく寧ろ穏やかな感情を与えた。こちらへおいでと囁かれているような錯覚を起こす。怪物は恍惚の色の浮かんだ無数の目でそれを眺めた。

「貴方にも歌が聞こえるでしょう? あそこまでわたしを連れて行って欲しいの」

 リベルテの言う通り、歌と光の源は同じ場所だった。少なくとも怪物はそう感じていた。「何故?」怪物は問う。答えは分かりきっているというのに。

「あそこへ行けばすべて上手くいく。そんな気がするの」

 熱のこもったリベルテの声を怪物は頭の中で繰り返し再生する。やはりそうだった。リベルテも怪物と同じことを考えていた。一人と一体の心を引き付けてやまないのは光ではなくあの歌である。だが怪物の考えは否定的だった。

「あの場所へは、どうやっても辿り着けない」

 俯く怪物の姿はリベルテには見ることが出来ない。それをいいことに、怪物は落胆を隠すことなく言葉を続ける。

「オレはあの光を目指して長く移動した。けれど歌の聞こえ方は変わらないし、光も一向に近づく気配がない」

「二人ならきっと辿り着けるわ」

 リベルテは迷い無く言い切る。は、と顔を上げた怪物はリベルテの瞳を凝視した。何物も映さぬその瞳に確かに宿る紅蓮の炎を見た。

 どうしてそんな目が出来るのか。怪物は、不思議でたまらなかった。


 知りたいと、思った。この小さな少女のことを。


「ねぇ。たくさん質問に答えたわ。今度は貴方のことを教えて。貴方のお名前は?」

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