第2話 疑問と絆

 これで何度目の点眼だろうか。5月ともなれば花粉の季節は終わりつつあるというのに妙に目がゴロゴロするのだ。点眼薬をかばんにしまい、個人に割り振られた事務机の引き出しを開け、手鏡を見ると下瞼したまぶたにクマがくっきりと出ており、眼球も充血している。


 「寝不足のせい……だなぁ……」


 笹栗視侑ささぐりみうは机上のパソコンから視線を外し、椅子を少し引いて肩を回す。腕、足、首のどこをとっても痩身そうしんな視侑は長い黒髪を仕事の邪魔にならぬようハーフアップのような格好で折り返している。華奢きゃしゃな肩からはゴリゴリと鈍い音がした。時計を見ると9時17分というなんとも半端な時間を指していた。重たい頭を自覚しつつ、一つ嘆息してからすぐにパソコンの画面とにらめっこが再開される。普段の業務に加え、一ヶ月ほど前から土円鉄平という医師の研究を手伝っているが、どんな内容の研究なのかは詳しく知らされていない。分かっていることは新薬の開発に繋がる研究であるということと、ラットに注射だの投薬だのをすることだけで、彼女が実際に行っている作業はラットへの投薬と鉄平が関わる書類のやり取りの窓口係だけだ。かといって通常の看護師としての仕事が減るわけではないので単純な負担増に変わりはない。その影響で睡眠時間も減っている。あくびを噛み殺すことに精一杯で、どうにも頭が働かない。数回頭を振り、意を決して重い腰を上げた。


 「ちょっと席外しまーす」


 机に書き置きをした上で、同僚看護師に一言告げてナースステーションを後にする。更衣室で薄手のジャケットを羽織はおり、ポケットにライターと6mgのパーラメントが数本残っていることを確認した。向かうは屋上の一角、関係者以外立ち入り禁止になっている喫煙スペースだ。といっても元々喫煙所として用意されたものではなく、高いフェンスでおおわれた屋上の一角に、いつからか水の入ったバケツが置かれており、喫煙者が交代で吸い殻の処理や水の張り替えなどをしているだけのものだ。利用者向けに整備された緑化スペースとは、室外機やダクトで隔絶されている。綺麗にニスの塗られた木材の壁の裏に年季の入った錆混さびまじりのそれらが鎮座することで、張り詰めた仕事の雰囲気を逸脱できる場としても重宝していた。まるで世界の裏側を自分だけが見ているように感じられるだけでなく、巨大な組織の中の歯車として動いている小さな存在だという自覚と、日頃の鬱憤うっぷんも自己嫌悪もまとめて忘れさせてくれるような不思議な解放感がどこか心地良かった。視侑自身、喫煙目的ではなく、たまに気持ちの切り替えのためだけに来ることもある。関係者専用エレベーターしかここには通じていないため、患者やその家族と鉢合わせることもない。使用頻度が低いゆえに当階に呼ぶまでもなく開いた扉から乗り込む。昇るエレベーターの重力を感じているとすぐさま意識が飛んでいく。

目標階に到着した時の身体が浮く感覚と扉が開く音で目が覚めた。まずい。本当に仮眠をとった方がよいかもしれない。そう思いながら誰もいないのをいいことに大きく欠伸あくびをして、短い廊下を抜け屋上への扉を開ける。

 とうに上がった陽の光が重たいまぶたを強烈に突き刺した。まるで夜勤帰りのように目が開いていない気がする。うぐぅ、と反射的にうめき声が出る。ジャケットを脱ぎたくなるような半端な蒸し暑さも浮かない気分に拍車をかけるようだ。てのひらひさしを作りながらとぼとぼとバケツの横へ向かう。ほぼ無意識に、流れるように1本取り出してくわえては火をつける。ほんのりと甘い香りとタバコ特有の苦味がバランスの良い喫味きつみを作り出すのと同時に、視侑の視界が一瞬ぼやけて、鮮明になっていく。9mgを吸っていた時期もあったが、さすがに匂いがきつすぎて患者や仲間に悪影響があってはならないので6mgに抑えている。それでも気分を落ち着けて切り替えるのには十分であった。一口吸っては、昼前というのに黄昏たそがれつつゆっくりと煙を吐き出す。フェンス越しに見える都市高速には、渋滞こそないものの忙しなく車が流れている。乗用車、高速バス、トラック、大型二輪……多種多様な車両が等間隔で、同じような速度で移動し続けるのは傍目はためから見ると芸術のようだ。開いているのかも怪しい細さで遠い目をしながらそれらを眺め、1本を吸い終え当然のように箱から出した2本目に指をかけたとき、ふと携帯が振動した。SNSのメッセージの差出人は中学生の頃から良縁の続く友人、萩峯はぎみね 優李ゆうりだった。


 "お疲れ〜。今時間空いてる?夜勤明けじゃないならちょっと聞いてほしいことがあるんだけど"


 もはや二人の間に絵文字など必要ない。空いてる、の4文字だけで返答を済ませ2本目に火を付けると、数秒して着信が来る。そのままくゆらせた煙を止めることなく通話ボタンを押すと、どちらも名乗るともなく会話が始まる。


 「もしもし?ごめんねお仕事中」

 「構わんさ、寝ぼけた頭をタバコで叩き起こしてたとこよ、そっちは?」

 「お、ヤニ休憩の最中だったか。じゃあちょうどよかったってことだ。こっちはもうすぐ家出るとこ。でもそれ大丈夫?最近あんまり寝れてないとか言ってたけど」

 「うーん……まあね。これでタダ働きだったら訴訟もんだけど、その分給料は弾んでるからどっこいどっこいかな。落ち着いた時にどこかでがっつり休ませてもらうとするよ。ところで話って?ついに彼女でもできた?それとも彼氏?」

 「ううん、どっちも出来てないし、今は作る気もない。前もその話しなかったっけ?」


 優李は半笑いで応じた。2つ下の優李も今年で25歳。かくいう視侑も"いい年なんだから彼氏の1人ぐらいいないのか、"と親からしばしば言われるが、お互いにこれと言って噂の一つも上がらない。第一、視侑に至ってはそもそも男に現を抜かす時間がない。


 「話ってのは、視侑の働いてる病院で今度治験があるらしいんだけどさ」

 「治験?……まあやってはいるだろうけど」


 視侑の勤める"学校法人麒麟学園 菊園きくぞの医科大学附属病院"は、大学病院らしく最新医療器具の導入や難病治療の研究など、医学発展のための研鑽けんさんが日夜行われている。治験もその一つだ。視侑も勤務以来幾度となく見かけてきたが、今のところ関わったことはない。加えて優李がそのような話を持ち出してくることなど想像もしなかったので、背後からいきなり殴られたような心持ちだ。


 「優李、治験なんか興味あったっけ?」

 「いや、今まではなかったんだけど、今回見かけたやつがあまりにも厚遇で怪しすぎてさあ、書いてることが本当なら最終的に300万貰えるらしいんだよね」

 「さ、さんびゃ―――」


 あまりにも非現実的な金額を耳にした視侑は煙をもろに吸い込んでしまい、き込んだ。ついでに半分ほど吸い進めた2本目も落としてしまう。この時だけは缶コーヒーを買っていなくて本当に良かったと思った。白衣もズボンもジャケットもクリーニングに出す羽目になっていただろう。電話越しに優李に心配されたが、せながらも"大丈夫"と返すと優李は話を続ける。


 「私もすげー怪しいなと思ってさ。視侑なら同じ病院だからなんか知らないかなと思ったんだけど、その感じだと知らないみたいだね」

 「うーん。院内治験って感じで、治験者になったことはあるけど、する側としては関わってこなかったからなあ……存在の認知はしてるけども、内容については全くと言っていいね。うちの病院でやるってんならこっちで調べてみようか。贔屓ひいきするわけじゃないけど、知り合いのいる病院なら少しは安心できるでしょ。なんか怪しいとこあったらあたしが分担医師見つけ出して言っとくよ」


 治験とは通常、治験全体の進行等に責任を持つ治験責任医師と、その補助をする治験分担医師という2種類の医師が共同で行う。責任医師ともなれば大層なベテランや優秀故に激務な医師であることが多い。一端の看護師である視侑が直接言葉を交わせる相手ではなかったりするのだ。一方、分担医師は補佐であるため、比較的若かったり、転院してきた医師などが担当することが多いらしい、ということは耳にしたことがある。


 「そうかぁ、それは助かる」

 「そりゃどうも。てか優李、仮にあたしが止めようとしたって聞き入れるタイプじゃないじゃん」

 「あちゃあ、お見通しでしたか。どうしても気になっちゃったからね。あ、忙しいだろうから自分のこと優先で構わないからね!……でもそういえば」

 「ん?」

 「その治験の担当医師、パンフレットに名前書いてあったような……」

 「お、それだと話が早いな。なんて名前?」

 「えーと、確かね―――」


 優李の声が遠くなり、カバンらしきものを探っている音と、紙をめくる音が聞こえる。20秒ぐらいたったか、優李の声がスピーカーに戻ってくる。


 「あったあった、つちまる……、で良いのかな?つちまるてっぺい、だってさ。知ってる?―――おーい、視侑?」


 優李の5回目の呼び掛けで視侑はようやく我に返った。にわかに信じがたい情報である。まさか自分が現在進行形で手伝いをしている医師が治験をやろうとしていたとは。もしかすると今手伝っている研究とやらが優李の言う治験のものなのか。いや問題はそこではない。なぜその情報を、現在一番身近な存在であるはずの視侑に伝えていないのか。法外で莫大ばくだいな報酬の出処でどころはどこなのか。そして何より、これほど異質なものをどうして同じ院内にいながらに気づけなかったのか。あらゆる疑問が視侑の頭を駆け巡ると同時に、名状しがたい気味の悪さを覚えた。鉄平とは事務的な会話や挨拶はするものの、プライベートや他の仕事については興味もない。それは鉄平も同じようで、お互いに話題にも出すことはなかった。だからといって自身の治験の話を手伝ってもらっていながらその看護師に伝えないことなどあるのだろうか。ただ知っていると思われていたのか。それとも―――。何にせよ違和感がぬぐえない。こうなった以上、いち早く情報を集めたい。視侑の興味は最高潮に達していた。手っ取り早く済ませるなら、鉄平が部屋にいる時間帯を狙って根掘り葉掘り問いただすことももちろん可能だろう。ただ、そうしてはいけないと心の奥底で何かが告げている気がした。優李にも動揺を悟られないようにそれらしい話で乗り切ることにした。

 「あ、ああ。思い出すのに集中してた、ごめんごめん。名前に聞き覚えがあってね。何度か見かけたことはある人だけど、話聞けるかまでは分かんないな。時間かかるかも知んないけど、情報集めてみるよ」

 「ありがとう〜。でもくれぐれも無理はしないでね?」

 「お気遣きづかい痛み入ります」


 慇懃いんぎんな返答で電話を切った。そこで初めて、自分の心臓が大きく跳ねていることに気がついた。寝不足によるものもあるのかもしれないが、決してそれだけではないことは確信できていた。


                  *


 「うーん……なんかいつもの視侑らしくなかったなぁ」

 出勤直前、家の玄関で優李はぽつりと呟いた。女性らしさを感じない飄々ひょうひょうとした口調とやや掠れた声が視侑の特徴であるが、今日は所々歯切れが悪かったように感じる。眠気のせいだと思いたいが、どうもそれだけではなさそうなことは長年の付き合いで感じ取れた。

 

 「まあ、私は私で直接調べるとするかな。300万ってことは絶対裏があるだろうし」


 優李は鼻を鳴らし、通勤用のリュックを背負った。かくいう優李も中性的な顔つき、170cmに迫ろうかという女性らしからぬ上背うわぜい、そういうバンドマンがいることが想像に容易いようなセミロングウルフで、幾度となく男性に間違われた経験がある。優李自身に自覚はあまりないが十分に整った顔立ちで、今から向かう勤務先のカフェでは常連客の間でファンクラブのようなものが結成されているらしく、男性よりも女性ファンが多いらしい。靴紐を結び終えて立ち上がり、玄関の扉を開ける。9階建てのマンションの5階に優李の居室はある。家の前の通路は、初夏の昼前の強い陽光と外階段の拡張部で出来た日陰のコントラストで眼の順応じゅんのうが忙しい。地上の駐輪場までエレベーターで向かう中で、今度は視侑側からメッセージが来る。


 "今調べてみたら一応、応募サイトみたいなのは出てきた。まあそこで初めて知ったんだけども……。でもあまりにも怪しいからやっぱやめといた方がいいかもしれないとあたしは思う。もしそれでもやるってんなら仕方ない。だけど優李が怪しいと思った時点ですぐあたしに連絡して。それだけは約束してほしい"


 気持ちを尊重しつつも力になることを申し出てくれた視侑に、優李は目を閉じて携帯電話を胸に当て声に出さずにありがとうを呟き、SNSのスタンプを送った。危険そうな感じがするのは優李にも分かる。だからこそ、むしろ視侑に危険が迫った場合は自分が守ることまで考えていた。"女も強く生きる時代だ"とかなんとか言われ、親に半強制的に通わされた空手は2段まで登り詰めている。帰り道で酔っ払いの男3人に囲まれて返り討ちにしたこともある。自身の武の心得と、親友からのこまめな情報共有。強固な後ろ盾を持つ今の優李は懐疑心よりも好奇心のほうが大きく勝っていた。


 「絶対に300万手に入れて見せる。そして真相も突き止めたい。すべて分かった暁には視侑も喜ぶ何かをしてあげたいな」


 携帯の天気予報では真夏日だと言っていた。昼過ぎには涼を求めて客足も増えるだろう。治験の日には休みを取ったので、代わりに今日は頑張ろうと思う。優李は一つ深呼吸をし、自転車のストッパーを蹴り上げた。



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