第2話 疑問と絆
これで何度目の点眼だろうか。5月ともなれば花粉の季節は終わりつつあるというのに妙に目がゴロゴロするのだ。点眼薬を
「寝不足のせい……だなぁ……」
「ちょっと席外しまーす」
机に書き置きをした上で、同僚看護師に一言告げてナースステーションを後にする。更衣室で薄手のジャケットを
目標階に到着した時の身体が浮く感覚と扉が開く音で目が覚めた。まずい。本当に仮眠をとった方がよいかもしれない。そう思いながら誰もいないのをいいことに大きく
とうに上がった陽の光が重たい
"お疲れ〜。今時間空いてる?夜勤明けじゃないならちょっと聞いてほしいことがあるんだけど"
もはや二人の間に絵文字など必要ない。空いてる、の4文字だけで返答を済ませ2本目に火を付けると、数秒して着信が来る。そのまま
「もしもし?ごめんねお仕事中」
「構わんさ、寝ぼけた頭をタバコで叩き起こしてたとこよ、そっちは?」
「お、ヤニ休憩の最中だったか。じゃあちょうどよかったってことだ。こっちはもうすぐ家出るとこ。でもそれ大丈夫?最近あんまり寝れてないとか言ってたけど」
「うーん……まあね。これでタダ働きだったら訴訟もんだけど、その分給料は弾んでるからどっこいどっこいかな。落ち着いた時にどこかでがっつり休ませてもらうとするよ。ところで話って?ついに彼女でもできた?それとも彼氏?」
「ううん、どっちも出来てないし、今は作る気もない。前もその話しなかったっけ?」
優李は半笑いで応じた。2つ下の優李も今年で25歳。かくいう視侑も"いい年なんだから彼氏の1人ぐらいいないのか、"と親からしばしば言われるが、お互いにこれと言って噂の一つも上がらない。第一、視侑に至ってはそもそも男に現を抜かす時間がない。
「話ってのは、視侑の働いてる病院で今度治験があるらしいんだけどさ」
「治験?……まあやってはいるだろうけど」
視侑の勤める"学校法人麒麟学園
「優李、治験なんか興味あったっけ?」
「いや、今まではなかったんだけど、今回見かけたやつがあまりにも厚遇で怪しすぎてさあ、書いてることが本当なら最終的に300万貰えるらしいんだよね」
「さ、さんびゃ―――」
あまりにも非現実的な金額を耳にした視侑は煙をもろに吸い込んでしまい、
「私もすげー怪しいなと思ってさ。視侑なら同じ病院だからなんか知らないかなと思ったんだけど、その感じだと知らないみたいだね」
「うーん。院内治験って感じで、治験者になったことはあるけど、する側としては関わってこなかったからなあ……存在の認知はしてるけども、内容については全くと言っていいね。うちの病院でやるってんならこっちで調べてみようか。
治験とは通常、治験全体の進行等に責任を持つ治験責任医師と、その補助をする治験分担医師という2種類の医師が共同で行う。責任医師ともなれば大層なベテランや優秀故に激務な医師であることが多い。一端の看護師である視侑が直接言葉を交わせる相手ではなかったりするのだ。一方、分担医師は補佐であるため、比較的若かったり、転院してきた医師などが担当することが多いらしい、ということは耳にしたことがある。
「そうかぁ、それは助かる」
「そりゃどうも。てか優李、仮にあたしが止めようとしたって聞き入れるタイプじゃないじゃん」
「あちゃあ、お見通しでしたか。どうしても気になっちゃったからね。あ、忙しいだろうから自分のこと優先で構わないからね!……でもそういえば」
「ん?」
「その治験の担当医師、パンフレットに名前書いてあったような……」
「お、それだと話が早いな。なんて名前?」
「えーと、確かね―――」
優李の声が遠くなり、カバンらしきものを探っている音と、紙を
「あったあった、つちまる……、で良いのかな?つちまるてっぺい、だってさ。知ってる?―――おーい、視侑?」
優李の5回目の呼び掛けで視侑はようやく我に返った。にわかに信じがたい情報である。まさか自分が現在進行形で手伝いをしている医師が治験をやろうとしていたとは。もしかすると今手伝っている研究とやらが優李の言う治験のものなのか。いや問題はそこではない。なぜその情報を、現在一番身近な存在であるはずの視侑に伝えていないのか。法外で
「あ、ああ。思い出すのに集中してた、ごめんごめん。名前に聞き覚えがあってね。何度か見かけたことはある人だけど、話聞けるかまでは分かんないな。時間かかるかも知んないけど、情報集めてみるよ」
「ありがとう〜。でもくれぐれも無理はしないでね?」
「お
*
「うーん……なんかいつもの視侑らしくなかったなぁ」
出勤直前、家の玄関で優李はぽつりと呟いた。女性らしさを感じない
「まあ、私は私で直接調べるとするかな。300万ってことは絶対裏があるだろうし」
優李は鼻を鳴らし、通勤用のリュックを背負った。かくいう優李も中性的な顔つき、170cmに迫ろうかという女性らしからぬ
"今調べてみたら一応、応募サイトみたいなのは出てきた。まあそこで初めて知ったんだけども……。でもあまりにも怪しいからやっぱやめといた方がいいかもしれないとあたしは思う。もしそれでもやるってんなら仕方ない。だけど優李が怪しいと思った時点ですぐあたしに連絡して。それだけは約束してほしい"
気持ちを尊重しつつも力になることを申し出てくれた視侑に、優李は目を閉じて携帯電話を胸に当て声に出さずにありがとうを呟き、SNSのスタンプを送った。危険そうな感じがするのは優李にも分かる。だからこそ、むしろ視侑に危険が迫った場合は自分が守ることまで考えていた。"女も強く生きる時代だ"とかなんとか言われ、親に半強制的に通わされた空手は2段まで登り詰めている。帰り道で酔っ払いの男3人に囲まれて返り討ちにしたこともある。自身の武の心得と、親友からのこまめな情報共有。強固な後ろ盾を持つ今の優李は懐疑心よりも好奇心のほうが大きく勝っていた。
「絶対に300万手に入れて見せる。そして真相も突き止めたい。すべて分かった暁には視侑も喜ぶ何かをしてあげたいな」
携帯の天気予報では真夏日だと言っていた。昼過ぎには涼を求めて客足も増えるだろう。治験の日には休みを取ったので、代わりに今日は頑張ろうと思う。優李は一つ深呼吸をし、自転車のストッパーを蹴り上げた。
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