トロッコ問題
@sorabo_coffeeholic
第1話 墓前の誓い
「レアチーズケーキなら食べられるんじゃないかな」
苦肉の策。個人的にはそう思った。
「そうね。何を買えば、なんて悩まなくて済むから良いんじゃない?」
初めて話した時と変わらない笑顔。相手の気持ちに寄り添い、柔らかく照らしてくれるような、月のような明るく優しい笑顔。だがもちろん出会った頃から変わったものもいくつかある。二人の年齢、住所、彼女の苗字。そして―――
「……後一日早ければ、食べられたんだろうな」
姿形も。そのケーキを彼女は食べなかった。否、食べることが叶わなかった。そしてそれが最後の会話になった。彼女はもう生身の人間ではなく、彼の記憶の中の存在となってしまった。今、男は脳天を焼くような日差しも
妻の
「本当は毎回、
土円 鉄平はそうひとりごちた。
長かったとは言えない夫婦の生活。その中で授かった一人娘の結亜。いつも心の支え、癒しであり、鉄平が最も好きだった妻の笑顔をそのまま引き継いだかのような輝く笑顔を振りまいてくれる、かけがえのない可愛い一人娘だ。しかし美月が間接的に亡くなる原因となった遺伝性の指定難病を結亜も引き継いでしまい、発症したのが2年前。というのも、自覚症状の訴えが本人よりあったのがその時だ、というだけで正確な発症時期は分からない。かの病気は遺伝確率も高く、先天性疾患であった可能性が高い、というのが鉄平自身からも他の医師からも出た意見だ。
容態が非常に変化しやすく、病院の敷地内から出ることもままならない難病。車での遠出など
「だからせめてこれだけは……」
娘から預かった手紙を2通、鞄から取り出して置く。雨の日でも濡れないよう、風にも飛ばされないよう固定をした引き出し付きのプラスチック製の棚をレターケースとして墓前に置き、そこに入れているのだ。人は亡くなっても数日は耳が聞こえる―――などというが、重く暗い石の中で、骨だけになってまで聞こえるわけがなく、ましてや文字など読めない。それでも結亜は手紙を書き続ける。一つは院内生活や日常の
花瓶の水を捨て、車で向かう道中にコンビニで買ったペットボトルの水と入れ替えると、3輪の白い花を花瓶に差す。いつだったか、妻に好きな花を聞いた。アングレカムという名の花がある……らしい、と。医師という仕事柄、ヒトとラット以外の生物などまるで興味も縁もない人生を過ごしてきた鉄平には、花に詳しい美月に一種の尊敬に近い感情を覚えていたし、花について話している時は
「ピントが合ってなくて何の花か分からないのもあるんだけど」
と笑う一方、
「でもきちんと咲いてるものばかりね。分からないなりに少しでも良いものを、と考えてくれるところが好きよ」
と言われ赤面したことは鮮明に覚えている。その時の彼女の笑顔がどの花よりも美しかった。思わずカメラを構えると少し恥ずかしそうに口を尖らせながら、最後は最高の笑顔で撮らせてくれた。その笑顔は今も遺影として、この墓前、自宅、研究室の机にそれぞれ飾ってある。
あれやこれやと過去の物思いに
「まだ終わってない。……なんなら始まってもいない。必ず結亜だけは助けてみせる。……だから見守っていてほしい」
美月を代弁したのだろうか、やにわに飛び立った名の知らぬ野鳥の鳴き声だけが遠ざかっていく。持ってきた荷物と御供え物を綺麗に整えて、鉄平は
信号で停止すると、待ちわびていたかのように煙草に火をつけた。一仕事を終えた感覚がする。今日は休暇を取っているがやり忘れていたことがあるので少しだけ研究室に戻ろう、そう決めて自宅ではなく病院への道へ車を走らせる。
開け放った車窓からはタバコの煙が、美月の元には杉線香の煙が棚引いていた。
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