トロッコ問題

@sorabo_coffeeholic

第1話 墓前の誓い

 「レアチーズケーキなら食べられるんじゃないかな」


 苦肉の策。個人的にはそう思った。


 「そうね。何を買えば、なんて悩まなくて済むから良いんじゃない?」


 初めて話した時と変わらない笑顔。相手の気持ちに寄り添い、柔らかく照らしてくれるような、月のような明るく優しい笑顔。だがもちろん出会った頃から変わったものもいくつかある。二人の年齢、住所、彼女の苗字。そして―――


 「……後一日早ければ、食べられたんだろうな」


 姿形も。そのケーキを彼女は食べなかった。否、食べることが叶わなかった。そしてそれが最後の会話になった。彼女はもう生身の人間ではなく、彼の記憶の中の存在となってしまった。今、男は脳天を焼くような日差しもいとわず、額に滲む汗もそのままに、かつての最も愛した人の墓前に座っている。


 妻の美月みづきが虹の橋を渡ってから5年が経った。当時は喪主もしゅとして親族への対応や病院、火葬場など多方面への調整に追われ、悲しむ暇もなく放心のままに法事をすませた。その数日後、抑圧されていたものが決壊したかのように溢れそうになるのを感じた。あまりにも大きく空いた心の隙間を少しでも埋めるように吸い始めた紙煙草も、墓前、殊更ことさら妻の前では全く吸う気になどならない。今し方丹念に掃除し磨き終えた椿石つばきいしの墓誌には「土円つちまる 美月みづき」の文字が刻まれている。しっかりと水を含んだ墓石は、行きがけにはちらほら見えていたはずの雲を完全に押しのけた陽光を受け、眩しいほどに輝いている。地球温暖化などと騒がれている昨今の気温上昇の影響で、五月晴さつきばれですらもだるような暑さだ。彼がうつむいているのは亡くなった妻への哀悼あいとうの意とこの初夏を通知せずで特急列車で通り過ぎたような気候のせいだが、それだけというわけでもない。ジッポで煙草の代わりに線香に火をつけ、墓前にしゃがむと両の掌を合わせ、静かに目を閉じる。


 「本当は毎回、結亜ゆあも連れて来たいんだが……すまない」


 土円 鉄平はそうひとりごちた。長身痩躯ちょうしんそうくの物静かな男で、普段は伸び切った髪と最低限剃っただけのひげが近寄りがたい雰囲気をかもし出している。何年も着続け色褪いろあせたジーパンと安物の襟付えりつきシャツが普段着だ。しかし今だけは、亡き妻への墓参りだけは、髪も切り髭もきれいに剃り落とし、スーツで行くことにしている。誰に頼まれたでもなく、鉄平自身がそうしたいから、そうしないといけないと思っているからである。愛した妻の前だから、というよりもそうすることでまだ人間としての矜持きょうじが保たれていると感じる―――そんな強迫観念に近しいものが動機の根幹であった。

 長かったとは言えない夫婦の生活。その中で授かった一人娘の結亜。いつも心の支え、癒しであり、鉄平が最も好きだった妻の笑顔をそのまま引き継いだかのような輝く笑顔を振りまいてくれる、かけがえのない可愛い一人娘だ。しかし美月が間接的に亡くなる原因となった遺伝性の指定難病を結亜も引き継いでしまい、発症したのが2年前。というのも、自覚症状の訴えが本人よりあったのがその時だ、というだけで正確な発症時期は分からない。かの病気は遺伝確率も高く、先天性疾患であった可能性が高い、というのが鉄平自身からも他の医師からも出た意見だ。

容態が非常に変化しやすく、病院の敷地内から出ることもままならない難病。車での遠出などもっての外だ。合わせた手を降ろし目を開けると、かばんに手を入れ小さな封筒を取り出した。

 「だからせめてこれだけは……」

 娘から預かった手紙を2通、鞄から取り出して置く。雨の日でも濡れないよう、風にも飛ばされないよう固定をした引き出し付きのプラスチック製の棚をレターケースとして墓前に置き、そこに入れているのだ。人は亡くなっても数日は耳が聞こえる―――などというが、重く暗い石の中で、骨だけになってまで聞こえるわけがなく、ましてや文字など読めない。それでも結亜は手紙を書き続ける。一つは院内生活や日常の些事さじしたためたもので、いわば日記のようなものだ。もう一つは見るな、と強く念を押されているため、中身は見ないままケースにしまっている。墓前に置くまでは鉄平しか触れないので別に中身を見ることは可能であるが、結亜の気持ちを踏みにじるだけでなく、美月にどこからか見張られている気がするので未開封の手紙はたまっていくばかりだ。この手紙が現状、美月と結亜を繋ぐ唯一の証といっても差し支えない。


花瓶の水を捨て、車で向かう道中にコンビニで買ったペットボトルの水と入れ替えると、3輪の白い花を花瓶に差す。いつだったか、妻に好きな花を聞いた。アングレカムという名の花がある……らしい、と。医師という仕事柄、ヒトとラット以外の生物などまるで興味も縁もない人生を過ごしてきた鉄平には、花に詳しい美月に一種の尊敬に近い感情を覚えていたし、花について話している時は殊更ことさら彼女が心から笑っているように見えた。花に理解は示せなくても、彼女が花を好きであることに理解は示せる。だからこそ、病気のせいで好き勝手に院内を歩くことすら出来なくなった彼女のためにと、仕事で遠方に行った時は必ず写真を兎角撮って回ったものだ。美月はその持ち帰った写真を見ては、何とかという花だ、花言葉はこうだ、などを語ってくれた。―――仕事に忙殺される今となってはその写真を見返しても何の花だったかも思い返すこともままならないが。"これは咲いている"と素人にも判別できるような名もわからぬ花を選んでいたら、


「ピントが合ってなくて何の花か分からないのもあるんだけど」

 

と笑う一方、


「でもきちんと咲いてるものばかりね。分からないなりに少しでも良いものを、と考えてくれるところが好きよ」


 と言われ赤面したことは鮮明に覚えている。その時の彼女の笑顔がどの花よりも美しかった。思わずカメラを構えると少し恥ずかしそうに口を尖らせながら、最後は最高の笑顔で撮らせてくれた。その笑顔は今も遺影として、この墓前、自宅、研究室の机にそれぞれ飾ってある。


 あれやこれやと過去の物思いにふけるうちに、線香の灰はとうに燃え落ちていた。持ってきた新しい線香を箱から取り出し、火を点けて再び供え、手を合わせる。ジリジリと照りつける太陽が黒髪を焼かんとする前に、鉄平はすっと立ち上がった。家名が刻まれた墓石の一点を見つめ、目を細めながら呟く。


「まだ終わってない。……なんなら始まってもいない。必ず結亜だけは助けてみせる。……だから見守っていてほしい」


美月を代弁したのだろうか、やにわに飛び立った名の知らぬ野鳥の鳴き声だけが遠ざかっていく。持ってきた荷物と御供え物を綺麗に整えて、鉄平はきびすを返し、日陰を縫うように帰り道を選んで歩く。汗をにじませながら少し離れたコインパーキングにたどり着くと精算を済ませ、たどり着くとすぐさま車内の空調を全開にした。跳ね上げ式のフラップ板が戻らないようすぐに車を出し、墓石を後にする。

信号で停止すると、待ちわびていたかのように煙草に火をつけた。一仕事を終えた感覚がする。今日は休暇を取っているがやり忘れていたことがあるので少しだけ研究室に戻ろう、そう決めて自宅ではなく病院への道へ車を走らせる。


開け放った車窓からはタバコの煙が、美月の元には杉線香の煙が棚引いていた。

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