巻きついた針金

白霞

巻きついた針金

 急に明日明後日は休みだという話になった。どうにも会社の設備の一部が破損しており、仕事にもならない状態だからいっそのこと休めということらしい。普段の業務ができないにしても今だからできることもあるだろうと思っていたのだが、上司は休めと頑なであった。


「普段から休日出勤を繰り返しているのだから、そんなことを考えずに休め。必要なことがあれば、俺の方でうまく対処してやるから」


 上司は繰り返しそう言い、どうあっても私が出社させたくないのだと強く感じる。今回はなかなか頑なに休むように言われており、佐藤さんにしては珍しい。普段、休日に部下の子達がやらかしたことやフォローの準備で会社によく行っていたことを会社から何か言われたのかもしれない。ここまで言われて出社するのは上司との関係を悪化させることも考えられる。今回は言われたように出社するのはやめたほうがいいだろう。


 上司との話が終わると妻も興味があったのだろう。その場で聞き耳を立てていた妻が事情を聞いてきた。


「設備が壊れて業務にならないらしい。明日明後日で急な点検を行うことになったんだとか。それで他のことでもしようと思っていたのだけど、佐藤さんには休めと言われてしまってね」


 妻は得心したように頷いていた。


「普段から休みでも会社によく行っていたものね。せっかくなのだから休みなさいな」

「君も佐藤さんと同じようなことを言うな」

「佐藤さんもよくあなたのことを見ているのよ。だから佐藤さんがあなたを昇進するよう会社に提言してくれたのでしょう」


 確かに上司の佐藤さんのおかげで私は昇進し、ボーナスも多く貰えている。普段からよく見てくれているのは間違いない。今回、私に休めと仰ったのも当然だと、妻の言葉に納得した。しかし、そうなると今回の休みをどのように使おうかと悩む。普段のサイクルが崩れるとやるべきことがなかなか思いつかない。


「せっかくなのだから、明日明後日はあなたが昔、よく行っていたあのホテルにでも泊まってきたらどうかしら」

「あそこか。しかし、せっかく休みなのだから君の買い物に付き合うくらいはできるよ」

「それじゃ佐藤さんが休めって言った意味がなくなるわ。あなたは家にいたら何か作業しようとしちゃうんだから、せっかくだからきっちり休んできなさいな」


 普段から家事をしてくれている妻にホテルに泊まってこいと言われてしまった。まあ、普段と違う曜日に急に夫が家にいるというのも対処に困るだろう。


 そう納得して、妻のおすすめ通りに昔よく言っていたホテルの予約をとることにした。幸いホテルは平日だったのもあり、部屋が空いているようだった。泊まれる部屋は作業机もあるからせっかくだし普段あまり時間の取れていなかった勉強に使うことにしょう。内心そう思いながら、部屋が‘とれたことを妻に告げ、準備をするために部屋に戻ることにした。


 朝になり、起床した。普段と変わらない朝だったため、早速着替えようとスーツを手に取り着替えてから朝食を取りに台所に向かうと妻が妙な目を向けてきていた。


「あなた、今日は休みと言っていたでしょう」

「そうだったね、忘れていたよ」


 完全に忘れていた。今日は休みだった。妻も思わずといった表情で苦笑していた。少し羞恥心を感じながらスーツから私服に着替えに部屋に戻った。着替えたあと、妻は普段通りに朝食を作ってくれていたから朝食を摂り、少し時間を置いてから出発することにした。


「どうせ、ホテルに着いてから勉強するのでしょうけど、ご飯とお風呂と夜寝るのはちゃんとしてくださいね」


 私がホテルでどう過ごそうとしているのかは普通にバレていたようだ。気をつけると告げ、駅に向かった。雀の鳴く声がする中、駅に向かう。普段と変わらない風景だが、雀の声などが普段よりも元気よく鳴いているように聞こえる。

 これから二日間は普段と異なる日であると少し胸が踊る。実りのある休日にしたい。


 駅で普段とは逆方向の電車に向かうと時間はすでに10時を回っているから通勤ラッシュも終わり、それなりに車内は空いていた。会社員はほとんどおらず、私服の人間が多い。皆、私のように休みというわけではないだろうが、普段のスーツだけの時間と比べると私自身が私服であることも含めて解放されたような心地になる。


 電車を降り、少し歩くとホテルに到着した。昔とそこまで変わっていない景色で懐かしさが込み上げてくる。妻と結婚してからは会社か家で過ごし、たまに外食をする程度だったため、ほとんど外泊したこともなかった。今回の休みは急だったから仕方がないが、そのうち妻と一緒に久々の旅行に行きたい。そう思いながら、ホテルでチェックインの手続きをし、部屋に入った。


 部屋の中は丁寧に清掃され、落ち着いて過ごしやすい状態だ。昔、泊まった時は部屋に入り次第、ベッドの上に荷物を置いたものだが、こうも綺麗にしてもらっているとそうしてベッドにシワを作ることも気が引ける。寝る時までベッドは綺麗にしておこうと思い、荷物は隅に起き、早速勉強をすることにした。


 作業机は十分な広さがあり、インスタントコーヒーも準備してくれている。これほど勉強しやすい環境もないだろう。早速本を広げ、ペンを片手にノートにメモをとって勉強していく。本を捲る音、ペンで文字を書く音以外何もない環境で普段と同じ集中力で持って知りたいことを調べていく。いつの間にか音も気にならなくなり、気がつくと右手がペンのインクで真っ黒になっていた。


 本も予定していた8割くらいは読み切っていた。これなら明日チェックアウトの時間まで大幅に時間が余るくらいだろう。そう思いながら筋肉の固まりをほぐしていく。長時間同じ姿勢だったため、腰が特に固まっている。ストレッチでほぐし楽になったのを感じると腹がなる。そういえば昼食すら摂っていなかった。これで夕食も面倒くさがって適当に済ませると妻に怒られるなと妻の顔を思い浮かべ、何を食べようか考える。昔馴染みのホテルに泊まったのだから、昔よく食べにっていた料理を食べたいと今回の旅行では徹底的に昔馴染みに拘ってみようと思いついた。


 早速、よく夜に食べに行っていた居酒屋に行くことにした。それなりに安いのに店主の腕が尋常ではなく美味い店だった。今もやっていることを祈りつつ、ホテルを出て店に向かっていく。街自体は静かだが、大通りであるためにそれなりに車が走っている音がする。昔はこの音を聞きながら予約の電話もせずに席が空いていれば良いなと思いながら店に向かっていた。結構人気のある店だから、予約した方がいいのだろうが昔を思い返すと予約する気が起きなかった。店が潰れていると嫌だなという思いもあったからではあるが。


 しばらく歩いて店に到着すると店に電気がついていた。看板も変わっていないから潰れていなかったらしい。あとは席が空いていることを祈るばかりである。果たしてと店を開けると席がほとんど空いていた。今日はちょうど良い日だったようだ。女将に確認すると快く席に案内してくれた。


 昔よく頼んでいたメニューを注文し、しばらくするとビールを女将が運んできてくれた。


「お久しぶりですね。もう7年ほどになりますか」

「おひしぶりです。よく私のことを覚えていてくださいましたね」

「私どものような職ですと来ていただいた方のお顔を覚えるのも大事なことですから」


 まさか、5年以上来てなかった私のことを覚えていてくださるとは思ってもいなかった。昔から丁寧な接客をしてくれる店ではあったが、想像もしていない細やかな接客だったようで驚きながらも覚えていてくれたことに嬉しさを感じる。今度、妻と一緒に来たいと女将と話していると大将が料理を持ってキレてくれた。


 大将も私のことを覚えていてくれたようで、料理に舌鼓を打ちながら昔の話や今の私について話を巡らせていく。他の客が早々にいなくなったことで話をしやすく、昔を思い出す良い旅行だと満足感を覚えた。酒もそこそこ飲み、満足したところで会計を済ませてホテルに帰ることにした。思いかけない休日も良いものだと思いながらホテルでパッとシャワーを浴び、酔いに身を任せながらベッドに横たわる。ベッドに体が吸い付いてくるような心地を感じながらいつの間にか意識がなくなっていた。


 気がつくとベッド脇の電気だけが灯っていた。そういえばカーテン閉め切ってるから明かりが入ってくるはずもないと時計を確認すると8時になっていた。普段より大幅に遅い時間に驚きつつ、体が重いのを感じる。昨日酒を飲みすぎたのだろうかと疑念に思いながら、今回ホテルの温泉に一度も入っていなかったことを思い出す。せっかく泊まったのだから温泉に入らないと勿体無いだろうと温泉に向かい、温泉に入ると体の芯にあった重い感じが湯に溶けていくのを感じていた。


 温泉のような普段関わりのないものを体験するとやはり体もそれを実感するのだろうかと思いながらゆっくり湯に浸かってから出たのだが、まだ30分程度しか経っていなかった。そのあと昨日と同じようなメニューで朝食をとり、チェックアウトまで勉強していようと本を開く。本を閉じ切るとそろそろ良い時間になっていたため、荷物をまとめ手続きを済ませるとホテルを出た。


 家に帰っても良いのだが、妻の手間を増やすだけだ。それにどうせだから昔、たまに食べに行っていた穴子丼を食べたいと人気のない路地にある店に向かうことにした。この店は昨日、食事帰りに店があることを見ていたから安心していける。そう思っていたのだが、店に到着すると今日は仕入れの関係で急遽休みにするとの張り紙があった。残念ではあるが、自分もそもそも急な休みだったからなと納得させつつ、他に行っていた店に行くことにした。

 そこは牡蠣が有名な店で、昔から牡蠣も穴子に次いで好きだったし、体の芯が疲れているようだったから元気になる食材として牡蠣も良いだろうと寄ってみるとちょうど客が1組帰るところだったようで、少しすると案内できると言ってもらえた。片付けが終わり席に案内してもらい、メニューを見る。昔はいつもこの店で同じものばかり頼んでいたのを思い出すとそれにしようかと考える。しかし、せっかくだしたまには冒険してみるかと別の会席を頼むことにした。


 しばらく待っていると料理が運ばれてきて、牡蠣尽くしの料理を楽しんでいると焼き牡蠣を持ってきてもらった。焼き牡蠣も入っていたのかと驚きながら牡蠣を剥き、身に齧り付くと牡蠣の臭いが尋常ではなく思わず吐き気が込み上げてきた。口に含んだものを吐き出し、茶で口を洗うと今まで気にしていなかった臭いが焼き牡蠣から漂っていることに気付く。


 調理していただいたのだから食べるべきだろうと思うものの、あまりの臭気に食欲が全くわかず、店員に謝罪しつつ下げてもらった。


 その後、ご飯を食べ会計に向かうと店員に謝罪された。こちらこそ申し訳ないと謝罪しあい、会計を済まし店から出て、駅に向かった。旅行の最後にケチがついたな、と残念な気持ちになるが充実した2泊だったからまあ良いと気持ちを切り替えて駅に到着した電車に乗り家に帰った。


 家に入るとどうやら妻は出かけているようだ。誰もいない静けさに満ちた家に入り、自室に戻ると妻が花を飾ってくれていたらしい。花の良い香りを嗅ぎ、とんでもない目にあったなと苦笑しながら服を変え、ベッドに横たわるといつの間にか気を失っていた。

 起きると窓の外は暗く、長い時間寝ていたようだった。台所に向かうと妻が料理を作ってるらしく、鍋の音や包丁で食材を切る音がしていた。


「おはよう。ぐっすり寝ていたわね」

「ああ、どうやら思っていたより小旅行で疲れたらしい。おはよう」

「旅の疲れより普段から疲れが溜まっていたのではないの。休日にもよく会社に行っていたのだし」


 妻は普段からよく見てくれていると思い、料理を手伝おうと言ったものの、休日なのだからゆっくりしているよう言われ大人しく席に着き、料理ができるのを待つことになった。料理ができると一緒に食べながらこの小旅行であったことの話をする。最後の災難を笑いながら、普段同じようなことで忙しくしていたことを思い出し、それでも頑張っていけたのは妻が支えてくれていたこと、佐藤さんが上司としてしっかり見てくれていたからだとふと思う。


 自分だけではできないことを周りに支えてもらい、続けることができた。その幸運を料理とともに噛み締め、明日からまた日常が始まることを楽しみに感じその日を終えた。

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巻きついた針金 白霞 @shirokasumi1

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