第4話 もう絶体絶命だと思ったときになんか番狂わせがあって助かるのが主人公ってわけだろ、なあ?

 薄紫の光が俺の中に浸透していく。今何かを忘れた。知識。記憶。経験。その全てが目の前に現れては薄れていく。父親に殴られたこと、母親に泣かれたこと。弟を殴ったこと。全部が、その全部が消えていく。

 ――嫌だ。

 しがみつきたい。ろくでもない記憶なのに。その全てを手放したくない。記憶は、俺が俺であるために必要だからだ。少しでもかけてしまうと俺は俺でなくなってしまうのだ。そのことを、俺は分かっていなかった。世界がとられてしまうことの意味を。奪われることの悲しさを。

 ――やめてくれ!

 ――峰岸!

「辞めるわけねえだろうが! この瞬間こそ至福なのよ。アッハーン?」

 逃げなきゃ。

 俺は両手をばたつかせた。痺れ切ってはいない。両手は動いた。

「大人しくしなさい! 兵隊が撃ち殺すわよ!」

「ああああ!」

 俺は暴れた。

「撃て!」

 ビーッ。地味な音だった。しけたレストランの呼び鈴みたいな。だが、その音がした直後、俺に異変が起きた。

 左足が冷たくなった瞬間、俺は崩れ落ちていた。ガラス瓶が割れる音がして、ワインの酸っぱい匂いが広がる。床の上に倒れたんだ。視界が紫色のままだから分からないが、きっと俺の左足が消し飛ばされたに違いない!

「痛ってえええ!」

 大人しくしていたほうがいいのか。このまま殺されるよりは。

 ――殺される?

 ――俺は殺されようとしてるんだっけ?


「気をつけなさいヨォ! 割れたらどうすんの! アンタらはスーツ着てるからいいけどアタシは剥き身なのヨォ!」

 峰岸が怒鳴り散らした。

「大人しくなったわね、ボウヤ。今度こそその記憶まるっと食べてあげるワァん!」

 峰岸が、俺の『世界』を奪うのを再開させる。走馬灯のように俺の脳内を記憶が駆け巡っていく。

「いやだああああ!」

 両手と両足(いや、片足か)をじたばたさせてれば、何とかなるなんて思っていたわけじゃない。最後の無駄な足掻きに過ぎなかったのだが、なんとそれが功を奏してしまった。偶然って怖いものだ。


 俺が手を振り上げた時、落ちていたワインか焼酎の瓶を跳ね上げてしまった。そしたら、それが中身を撒き散らしながら宙を舞い、俺の目の前に立っている人間に――いや悪魔に――ぶっかかってしまったんだな。

「きゃああああ!」

 けたたましい悲鳴だった。きっと東京中に聞こえたことだろう。悲鳴が聞こえたと同時に、俺の視界は回復した。見れば、ピンクモヒカンの大男が頭を抱え、背を曲げている。顔は床とキスしそうなくらい近づいていて、その苦しみが相当なものであることを伝えてきた。

 後ろの黒づくめたちは、夢のように消えていた。ピンクモヒカンの力が弱まると消える存在なのかもしれない。知らんけど。


 左足はちぎれてはいなかった。光線が走って出血した後はあったが、あとは至って無事だった。

 俺は立ち上がり、酒瓶――それも中身の入っているやつ――を片っ端から持ってきた。

「オラッ! たっぷり浴びやがれ!」

「やめろォォォォォォォ!」

 峰岸の悲鳴を聞きながら、俺は酒をかけまくった。ホップの香るビール、香り深いアイラ島のウイスキー、イギリスの伝統的なジン、ロシア人もビックリな高濃度のウォッカ、冬の中で貯蔵された味わい深い日本酒、新婚旅行で中国に行った友人が買ってきてくれた紹興酒――とにかく全部。

 辺りはすごい臭いになった。酒の臭いに加え、硫黄が溶け出すような臭いが混じる。峰岸は、硫黄の黄色い煙を立てて、じわじわとこの世から消えていった。酒に使った俺の『世界売却契約書』も同じように消えていった。


 部屋に充満した黄色い煙が、俺をとりかこんだと。まさか、峰岸の野郎の魂じゃないよな。まだ生きてやがんのか――。一瞬警戒したが、違った。黄色い煙はスクリーンのように、なにか映像を映し出した。何人、いや何百人、いや何千人、何億人もの人間がそのなかにいた。

「これ……この人たちの『世界』か……!」

 うさぎに向けて弓を射るネイティブ・アメリカン、黄色い旗を掲げ屈強な兵隊へ立ち向かっていく中国の農民、敵の眠る要塞に侵入するヘブライ人、党の中でソクラテスの古書を読みふける中世イタリア人修道士、目隠しした捕虜にマシンガンを向けるコンゴの軍人、歌いながらピアノを弾くオーストラリアの日系人家族……何億何千もの世界。


 いまこそ分かる。

 これが峰岸の持っていた力だ。

 ランプの魔人と呼ばれ、悪魔と呼ばれた音のもつ万能の力だ。何億何千もの『世界』こそその栄養源だったのだ。

 俺はその力をいま手にした。

 やることと言ったら……とりあえず酒と女だろ……。

 いや、それでいいのか、本当に、俺?


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