第三頁 陰の中の青

 ジルビには難しい話はよくわからない。彼女はまだ数えで十五歳。けれど集落では、夫を持ってもおかしくない年齢ではあった。彼女には幼馴染がいて――その幼馴染も、ほとんどジルビと血の似通った子供だったのだが――その子のお嫁さんになるのだろうと漠然と思っていた。けれど彼は、突然現れた侵略者に殺された。パン、とその心臓から血飛沫があがって、倒れた。なぜみんな死んでいるのか、俄にはわからなかった。子供のいる女も、子供のいない女も、一様に乱暴をされている。小刻みに震えるアビルの腕にぎゅっと抱きしめられたまま、地下室で彼らの悲鳴と嬌声を聞いていた。梯子を降りてきて、一番上の姉――ルベルが、「ここはもうだめよ」と短く言った。

「お姉さん!」

 アビルはか細い泣きそうな声を出した。

「今ここであの獣たちの慰み者になって、それでも生かしてもらう可能性に賭けるか、三人であいつらの船盗って、海に逃げるか。どっちがいい? どちらでも死ぬ可能性は高いよ」

 ルベルははきはきとした口調で一気にそう言った。アビルはぐすぐすと鼻を鳴らして、ルベルにしがみつくばかり。ジルビはすんと息を吸って、姉たちが欲しいであろう言葉を唇から漏らした。

「死んでもいいから、姉さんたちと死にたい」

 結局、たくさんの武器を持った男たちの立てた音で、ルベルの体もまたパン、と腰と心臓から血しぶきを上げたのだった。目に見えない速さで姉を貫通した何かが小舟を繋ぎとめていた最後の綱をも裂いたのは、幸運以外の何ものでもなかった。アビルは顔中を鼻水と涙でぐちゃぐちゃにしていたけれど、オールを漕いで海の中へ飛び出した。砂の海は、酷く泳ぎ辛かったが、沈まないように気をつけさえすれば砂のうねりに従って舟は勝手に進むのだと、しばらくして学んだ。元より、どこへ行けばいいのかもわからない。

 何度か、ジルビはこう呟いた。

「このまま、砂の中に飛び込んじゃおうか」

 その言葉が、姉の欲している言葉だとわかっていたから。けれどその言葉を聞く度、姉は頭を振って、「まだ、もう少し」と言うのだった。

 鮫に襲われた時も、死ぬところだった。姉はオールで鮫の舌を串刺すことで抵抗した。侵入者たちが村の人達をそうしたように、何度も何度も鮫の舌を串刺す姉の姿は、少しだけ怖かった。姉はあの時の自分のふがいなさに、鮫を痛めつけることで自分を傷つけているかのようだった。

 二人を乗せた舟は、オールでぱっかりと開けられたままの鮫の口から滑り込んで、一気に胃の中へと落ち込んだ。鮫の胃の中は、何故か花の甘い香りがした。船が鮫の骨に引っかかって止まったとたん、姉妹は状況を理解して、絶望した。これからどうすればいい? どうしたら、外に出られる?

 出なくてもいいのかもしれない、ともジルビは思い始めた。鮫は苦しげに蠢くけれど、その口の隙間から時々小さな砂まみれの魚が入ってくるのだ。鮫の胃液で砂を洗い流し、焼いてしまえば食べられないこともなかった。

 何日くらい経ったのだろう。腰の長さだったジルビの髪は、尾てい骨の辺りまで伸びていた。突如鮫の動きが不自然に左右に揺れはじめ、止まった。鮫の口がぱっかりと大きく開かれて、そこから眩い光が飛び込んでくる。もう拝むことはないと諦めていた陽の光だ。そこから現れたのは、姉と年端の近そうな男たちだった。

 男、ということにジルビもアビルも身構えたけれど、彼らは二人の村を襲った輩とは随分と様相が違うようだった。好奇心を湛えた目でじろじろと見てくるけれど、危害を加えるつもりがないことだけは伝わってくる。その後、彼らの一人に指を切られたことも、姉は怯えたがジルビは何ともなかった。痛い、と思った。痛いと思って、まだ自分の中に、痛いと思える感情があることに驚いていた。

 ジルビもまた、目の前の出来事についていけていたわけではない。だからぼんやりとした頭で、手首に優しく重ねられたミヒオの手の温かさを、心地よいと思った。でもジルビの歩くのが遅かったから、その優しい手は枷になった。ジルビは泣きたかった。足が上手く動かないほど、自分はやはり怯えていたのだ。

 その時だ。誰かがそっと自分の靴底に手を当てて、上へと押し上げてくれたのは。

 はっとして振り返れば、フードを深く被り、顔を隠す誰かが見えた。キラキラ輝く青い宝石が彼の耳元で揺れているのが見えた。誰かは――【水曜日】は、ジルビがつまずく度に後ろから押し上げてくれた。

 【水曜日】もまた、ハダリーと同じ年頃に見えた。あるいは、少し年下かもしれない。真っ黒な瞳と、黒い髪。だがその髪は耳に揺れる宝石と同じ濃い青みがかっている。ハダリー以外で髪を染めているのは、【水曜日】だけだった。



「さっきはありがとう」

 宝石の仕分けをする【水曜日】の傍へ寄り、そう声をかけると、彼は頷くだけでまた作業に戻る。

「そいつ、ろくにしゃべれねえぞ」

 ハダリーが、短刀の縁で宝石を叩きながら静かにそう言った。音で宝石の硬さを判別しているらしかった。

「そうなの?」

「花の種がさ、そいつの喉に詰まっててな。声帯を圧迫してんだよ。触ってみ。てか触らせてみ。固いから。そこに、ここにあるのと同じ宝石がな、丁度詰まってる。だからほとんどしゃべれない。出そうと思えば短い音っぽいのは出るけど」

 【水曜日】はハダリーに視線を寄越してから、首元を寛げ顎を突き出して見せた。確かに彼の喉元はふっくらと腫れて見える。ジルビは恐る恐るそのふくらみを撫でてみた――弾力があるけれど、固い。特に固いところには、切って縫ったような傷の痕があった。

「これ、一回切ったの?」

「まあな」

 ハダリーが答える。

「酷いことするのね」

「そいつが自分でやったんだぜ。オレは縫っただけ」

「そう……早とちりしてごめんなさい」

「いーや」

 ハダリーは別に気にした様子もなかった。

「どうして、取ってあげなかったの? 宝石……取ってあげたら、また普通に話せるようになるかもしれないんでしょ?」

 気怠そうに欠伸をして、ハダリーは左右色違いの耳飾りを揺らして見せた。

「このピアスと一緒なの。脳に近いところに未熟な花の種を置いておくと、体内の花の成長が止まるらしいんだわ」

「らしいって……」

「まぁ、受け売りだし? 難しいことはオレわかんねえもん。でも実際、他のやつらと比べてオレたち三人の病状は悪かないから、当たってるんじゃねぇの」

「下にいる人たち、耳飾りしてないね」

「あいつらもう手遅れだもん。ゾンビゾンビ。オレの命令に従うだけのイエスマンだよ。それでも、あいつらを人間として死なせてやりたいから、まだ傍に置いてる。労働力は必要だしな」

「……そう。それで、耳飾りと同じように、病気の進行が止まるから、この実をそのままにしたの?」

「あんた、結構賢いな」

 ハダリーはにやりと笑った。

「あたし、これでも数えで十五だよ。おっとりさんのアビルと、ほんとは二つしか年変わらないもの」

「へえ。じゃあおチビさんじゃなくてお嬢さんか」

「うん」

 ハダリーは鼻で笑った。

「ついでに言うと、そいつの喉の宝石な、それ、そいつの体内でできた実じゃないぜ」

「え?」

 ジルビは眉根を寄せた。

「そいつがな、自分で喉を掻っ捌いて、他人の宝石を埋め込んだんだ。バカみたいだって思ったけどさ、そうした気持ち考えたらオレも何も言えねえや。だからオレは傷を塞いだだけ。狂ってるだろ」

 ジルビは何も言えなかった。穏やかな黒目が、ジルビを覗うように見つめている。ハダリーは、指先の宝石を手慰んで、握り潰した。

 ジルビは甲板を見下ろした。ハダリーたちが無造作に投げる宝石を砕いて、瓶に詰めて――時々味見さえして笑う彼らは、人間らしい。何が手遅れなのか、ジルビにはわからないのだった。

 視線を戻す。少しだけ合点がいった。宝石を身に纏う数は、きっとハダリーからの寵愛の深さだ。ゾンビと呼ばれた船員たちよりも、今この場にいるミヒオ、【水曜日】、そしてハダリーの方が宝石で着飾っていて、そして……

 【水曜日】の持つ宝飾は、特に多い。

「髪の毛を染めているのはどうして? それももしかして、実のジュースなの?」

「へぇ、本当に賢いんだな。そうだよ。未熟な果実を絞って出した果汁」

「ミヒオさんの髪は染めないの?」

「……未熟な果実は見つけにくいんだ。髪染めには結構な数を使う。もういいだろ」

「そろった、未熟」

 【水曜日】が、ほとんど遮るように言った。その手には、赤紫色の宝石が二つあった。

「おう、そんじゃ作ってやりな」

 ハダリーは立ち上がって腰を揉む。

「な? こんだけあって、見つかった未熟はそいつと緑のたった二個。少ねぇんだよ」

 ハダリーはそれ以上喋りたくなさそうだった。

 【水曜日】が、宝石を耳飾りに加工していくのをジルビは見守った。それは、ジルビの病気を遅らせるために作ってくれているらしかった。

 やがて完成させると、【水曜日】はジルビにそれを手渡し、ジルビもまた素直に耳朶につけた。【水曜日】は『新鮮』だと仕分けられた宝石の詰まった籠を肩に乗せ、立ち上がる。目を柔らかく細め、骨ばった手でジルビの頭を軽く撫でた後、梯子を降りてしまった。ジルビの隣で風が吹く。ハダリーも、彼を追いかけて降りて行った。

 ……子供じゃないって言ったのに。

 触れられた部分を押さえながら、取り残されていたジルビは考えていた。子ども扱いされる自分は、この船で一体何をすればいいのだろう。何ができるのだろう。助けてもらったのに――助けてもらった? 本当に助けてもらえたのかしら。ハダリーが姉に向かって呟いた【人間としての尊厳】と言う言葉が気になっていた。

 ジルビは姉の傍に駆け寄って、抱きついた。姉はハダリーの言葉を聞いて、何を考えただろう。つむじに雨のような温かい雫が降ってくる。本当に、泣き虫なお姉さん。そんな姉の隣で風を食べるように唇をはむはむと動かすミヒオは、どこか遠くを見つめていた。砂混じりの風が吹いて、アビルとミヒオの髪に纏わりつく。キラキラと、砂金のように輝いて。

「二人のことは、俺が絶対守るっすからね!」

 姉が泣き止んだ頃、不意にミヒオが、妙に明るい調子でそんなことを言った。ジルビも思わず、彼の顔を見上げた。

 ミヒオはにっと笑って歯を見せた。その笑顔に、姉はどこかぼうっとして見惚れている。

「二人の、人間としての尊厳は俺が守るっす! 命に代えても!」

 姉は安心したようだけれど、ジルビは心の奥に重りをつけられたような心地がした。

 ジルビは姉に一層強く抱きついた。

 この船の上では、命が転がされている。生き延びたかったら、あの人ハダリーの中で大切なものの一人にならなきゃいけないのかもしれない。



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