第一頁 鮫腹の中で

 ザア、ザア。ザア、ザア、ザア。

 船体に波が打ち寄せる。赤茶けた砂が、飛沫を上げて打ち寄せる。

 赤色の帆が揺れる。帆は色とりどりの染みで汚れている。染みの正体は、花弁だ。潮風が運んできた花弁が貼りついて、乾燥したまま剥がれなくなっている。雨で滲んだ花弁の色が、帆の白に色を与える。海賊船パパラチア号は、今日も汚れた帆を広げて荒れ狂う砂の海を泳ぐ。

 海の表層には時に、巨大な鮫が打ち上げられる。彼らはようやく見つけた人間という肉を喰らおうと口を開けひれをばたつかせるのだが、身をまとう水を吸った砂が重たくて、身動きできぬまま砂に飲まれてしまうのだ。海賊たちの仕事の一つが、そうして仮死状態に至った生き物の口から体内に侵入することだ。往々にして、彼らの体内には、美しい宝石が眠っているのである。

 海賊たちは海賊船から小舟を下ろして、ぱっかりと開かれた鮫の咥内へと竿を漕いだ。鮫の腹には、難破船が消化液の中でぷらぷらと浮かんでいた。宝石化が進んだ鮫には、それをうまく消化することができなかったらしい。鮫の胃粘膜、筋層、内臓――肉というすべての肉が、色とりどりに輝く宝石の集塊と化して鈍い輝きを放っていた。その宝石の壁が、鮫の呼吸に合わせて上下する。船員たちが肉壁の宝石を剥ぎ、難破船の中を漁る中、鮫の腹壁の動きを見つめてにやりと笑みを浮かべた人物がいた。海賊船――パパラチア号の船長、ハダリーである。

 ハダリーは数え年で十九、二十歳くらいのはずだが、暦が何の意味もなさないこの世界で年齢はさほどの意味を持たない。顎の下で揺れる程度の長さの真っ直ぐな茶髪に青みがかった緑色の目を持つ青年で、髪は宝石を潰した液で金色に染めている。金髪にこだわる理由は分からないが、金髪だと威厳があるだとか、その理由は案外本人の感覚的なものらしかった。

 ハダリーは二十一人の船員を抱えている。そして海賊を自称する。この食べ物もろくに残されていない大地で、人々から金品を強奪するのが生業だ。ことに彼は、宝石にこだわっているのだった。宝石で己を飾り、船員の全てに宝石を分け与える。

 さてそのハダリーが、歪曲した海賊刀で宝石の壁を引き裂いた。消化液がどろりと骨の見える空洞へ流れ込む。鮫の脇腹にも、骨に沿って美しい金色の宝石がたわわに実っていた。船員たちは歓声を上げてそれを刀で削り出す。ハダリーはといえば、鮫の腸を踏みつけ爪先で何かをまさぐっていた。やがて白く透けた拍動する管が現れる――鮫の血管だ。網目のように内臓の壁に張り巡らされている。

 ハダリーは口元に笑みを浮かべたまま、しばらくそれを凝視していた。二十一人の部下たちがあらかたの宝石を削り取った頃合いで、彼は一番太い血管を刀で裂いた。彼の肌を切るような勢いで、鮫の血管からは黄色と白の花弁が勢いよく噴き出した。中身を失った血管はやがて茶色く錆びて、腐っていく。ハダリーが腸を踏みつけるたび、船員たちがどこかの内臓や筋を踏むたび、鮫は体内で出血を起こした。否、出花、とでも言うべきか。鮫はやがて、ぴくりとも動かなくなった。こうなると、海賊たちの作業は大いにはかどるのである。

 体に宝石を実らせた生き物は全て、血液まで花に侵されている。宝石は花の実だ。熟す前は固く鉱石のようで、熟せば甘い芳香を放つ。生き物の血を流すべき管には全て花弁が押し込められている。血飛沫のように湧き上がる花吹雪は美しい光景だが、慣れてしまえば何の感動もない。

「船長ー!」

 不意に、音太い声が船の残骸から放たれ、鮫の腹壁で乱反射した。

「生存者いまっす!」

 声の主、黒髪のミヒオリズという青年が筋肉質な細い腕をぶんぶんと振ってハダリーに位置を示した。ミヒオはハダリーの片腕だ。黒曜石のような濃いブラウンの目は、左の方が失われて義眼らしい。その義眼は常に眼帯で隠されて見えないし、ハダリーはその義眼に興味を向けたことすらない。

 ハダリーは、華奢な足を揺らして爪先立ちで骨と肉と花弁の瓦礫を上っていった。船の残骸の縁に立って、ミヒオの指差した先――船員の一人が掲げた松明の光の向こう側を凝視した。

「ああ、ほんとだ、人間だ。よく生きてたね」

 ハダリーは、気の抜けたような、のんびりとした声を出した。見つかった二人の少女は、抱き合って震えていた。燃えるようなオレンジ色の赤毛がそっくりな姉妹だ。大きい方の少女は白葡萄のような淡い緑の目で、小さい方の少女はその緑に僅かに茶色も混ざった珍しい色合いの目をしている。二人とも、金箔をたくさん散らしたようなそばかすが白い肌の至る場所で煌めいていた。

 ハダリーはにっこりと笑って、海賊刀の切っ先を姉妹に向けた。

「お名前は? 言葉、わかる?」

「わ、私たち、貴方たちに奪われるものはもう何も持っていない」

 姉の方が、擦れた声で応えた。

「それとも、助けてくれる気があるの? だから名前を聞くの?」

「ここは素直に答えておいた方が無難っすよ」

 ミヒオが耳打ちすれば、彼女はびくりと肩を揺らした。長い赤毛が逆立つほどに揺れた。そうすると、妹の方が静かに答えた。

「あたし、ジルビ。こっちはアビル姉さんだよ。私たち、故郷から逃げて来て、鮫に飲みこまれたの」

 ハダリーは「いい子だ」と言って、ジルビの長い髪の房をとった。ジルビは僅かに肩を揺らすも、唇をきゅっと引き結んで耐えた。

「故郷……ねえ。もうこの世界に故郷なんて言える代物はないんじゃなかったっけ」

 ハダリーは人差し指の上で刀をくるくると振り回した。

「いいえ」

 アビルが首を振る。

「私たちの故郷はかつて山奥にあった。大地が下から海に溶けて崩れていくうち、私たちの故郷――居住域だけが残ったのよ。そこではまだ、地上で生き延びるだけの土地も食料もあった。花も……咲いていた。こんな気味の悪い花ではなく」

 アビルは、足元で散った黄色の花弁を撫でた。

「へえ、でも逃げてきたって。そいつは興味深いね。一つ聞かせてくれない? その理由とやらをさ」

 ハダリーは鼻を鳴らして歌うようにそう言った。

「……言ったら、助けてくれるの? せめて、妹だけでも……」

 アビルは俯き、ハダリーは刀の縁でそっとアビルの顎を持ち上げた。

「そういう、頭のよくない駆け引きは似合ってないよ。女の子は素直が一番だ」

 アビルの双瞼には涙が零れんばかりに溢れている。

「頭で考えなければ、生き抜けないのよ、この世界は」

「そりゃ同感だけど」

 ハダリーはアビルから手を離す。ハダリーの耳元では、小さな緑の宝石が大きく揺れて煌めくのだった。

「時間がないんだ。直にここも波に飲みこまれちまう。そうしたらオレらはそろって船に戻れず、砂の海に逆戻り。二度と太陽は拝めねえな。さて、とっとと話したほうが無難だと思わない?」

「お姉さん、話そう。あたし、外の空気が吸いたいの」

 ジルビはアビルの袖を引いた後、ハダリーを真っ直ぐに見て、話し始める。

「侵入者が来たの。男の子はみんな串刺し。女の子たちも襲われた。食べ物も全部食い荒らされてね。あたしたちは三姉妹だったけど、一番上のお姉さんがおとりになって、あたしたちを逃がした……小さな舟だよ。あっという間に波に飲まれて、気づいたら鮫に食べられていた。よかったのか……どっちにしろ不運なのか、よくわからない。とりあえず、今までは生きてこられた」

「うん、おりこうさんだ。事情は理解したよ」

 ハダリーはもう一度ジルビの髪を一房とって、くるくると指に巻きつける。彼女の胆力がお気に召したのだろうか。

 しばらく目を細めた後、ハダリーは俊敏な動作で刀を逆手に持ち替え、二人の少女の指に小さな切り傷をつけたのだった。アビルは小さな悲鳴を上げ、ジルビは我慢した。二人の指先からは、赤い血の雫が膨らんで、つうと爪を伝って零れた。

「君たち、血の通った人間なんすね」

 ミヒオは息を吞んだ後、声を弾ませた。

「何……何をするの……どういうこと、人間に決まってるじゃない……」

 アルビは困惑をありありと顔に浮かべている。ミヒオが目を輝かせているのと対照的である。

「人間! 嬉しいなぁ、俺もなんすよ。俺も血の通った人間なんです。やっべえなあ、ね、ね! すごく嬉しいや。まだ俺の他にも残ってたんだ! ね、船長、二人とも連れ帰っていいですよね? もちろん保護しますよね?」

「食料調達はお前がしろよー。オレらには必要ねえんだからさ」

 気怠そうにそう答え話を終わらせると、ハダリーはつま先立ちで軽やかに跳ね、鮫の喉元へと向かった。宝石を山と回収した船員たちも、その後に続く。ミヒオは船の残骸から魚の塩漬けが詰まっているらしき錆びた缶詰をいくつか身繕って懐に入れた。そうして姉妹に声をかける。

「さ、行きましょ行きましょ! 俺らパパラチア号の海賊は、血の流れる人間を保護するんす。今俺が決めたし」

 可哀想なアビルは、ずうっと困惑している。

「よく……わからない。話についていけないのだけど」

「まあまあ! ついてきてください!」

 ミヒオは姉妹の手を引いて鼻歌を口遊んだ。ミヒオの歩幅が広いから、ジルビは何度か鮫の内臓でつまずいた。その足を誰かがそっと持ち上げて、小さな身体を押し上げてやった。

 ジルビは振り返って、その誰かを見た。けれど目を合わせる間もなく、誰かはすぐに通り過ぎてしまった。彼もまた、二十一人の一人、しがない船員の一人だったのである。黒い、目。

 ジルビの目の前で、アビルとミヒオがかみ合わない会話をしている。アビルは泣きそうで、ミヒオは心底嬉しそうだった。ミヒオが声を出す度、両耳に飾り付けた紫色の宝石がキラキラと揺れ、その豪快な笑い声が鮫の腹壁に反響した。会話の中には何度も何度も【血の流れた人間】という言葉が挟まれた。そのことに違和を覚えて、ジルビは尋ねた。

「血の流れた人間って、何……? 人間は皆、血が通ってるよね……?」

 しかしその呟きは、鮫の喉から吹き込む腐敗臭を纏った海風にかき消されたのだった。答えがなくむっとしてジルビは唇を噛み、小さな鞄を腕の中にぎゅっとして閉じ込めた。中には、故郷の土が入っているのだった。

 鮫の体内に満ちた花の匂いを、すうと大きく吸い込んで、ジルビは大きく足を踏み出した。また何度もつまずいたけれど、誰かはその度に足を止め、ジルビの足を支えてくれた。ミヒオの手に引かれ、少女たちは光の中に帰る。

 赤毛の姉妹を含め、二十四名。

 全ての人員がパパラチア号に乗り込んだ頃、砂で汚れた鮫の死体はずぶずぶと波に攫われ沈んでいった。後に残されたのは、黄色と白の花弁だけだ。今日も何かの生き物がどこかで死んで、血の代わりに花弁をまき散らかす。砂の海は、色とりどりの花弁を浮かべてさざ波を立てる。砂の粒で引っ掻かれた花弁たちは、この赤い海に煌めく小さな色の粒であった。まるで星屑のようだ。

 夜空に星さえ見えなくなって久しい。砂めいた空気は空さえ濁らせているのだ。だから砂海の花弁は、汚らしいけれど、みすぼらしいけれど、船の上でしか生きられない人間たちの僅かに残された慰みなのである。


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