神仙グルメ『乙巳』
青王我
第1話
距離感というのは人による。特に手が届く範囲というのは敏感だ。パーソナル・スペースだとかパーソナル・ディスタンスだとか言われているが、いずれにせよ、この範囲に入られるのは不快と感じる距離がある。
居酒屋とかバーとかにはカウンター席があり、よほどお高い店でもなければ隣席は手が届く範囲になる。だからこそ普通はひとつふたつと空けて席につくものだ。
「なぁに固い顔してんのよ。あたしと居たくないの?」
「いやいや、そんなそんな」
たまにはこんな風に距離感がおかしい人もいる。不快に思う距離が極端に短いか、あるいは存在しないのだ。
のっけから私に絡むこの女性は、自らを巳の仙人と名乗った。自らの椅子を私の椅子へぴったりくっつけ、のみならず自分の身体を私の身体へしなだれかからせていた。
右手にコップ酒を持ち、左手で山盛りに盛られた煮卵をつまんでいる。女は小玉の煮卵をぱくりと咥えると、そのままこれ見よがしに丸呑みした。ごくりと呑み込まれる煮卵が女の喉を動かしていくさまはどこか妖艶だ。
「真似しちゃダメよ? あたしは特別な訓練をしてるんだからね」
煮卵を呑み込むさまをうっかり見つめていた私に、女はたしなめるような声色で囁く。
そもそも女はキャバ嬢のような際どい赤ラメドレスを着込んでいて目のやり場に苦労する。胸元はV字にヘソまでがっつり開いてるし、そもそも女の胸はそんなドレスに収めるには大きすぎる。それでいて身体そのものは絞ったように細い。魅力的という言葉でまとめるには勿体ないからこそ、まじまじと見るわけにはいかない。
「いつにも増して機嫌が良いですねえ」
何やら生肉を切ったり叩いたりしている大将が、作業を続けながら巳の仙人へ話しかける。どうやら助け舟を出してくれたようだ。
「そりゃあ今年は乙巳だからね」
乙巳、キノトミと読むそれは、乙が陰の木、巳が陰の火で木生火の関係にある。つまるところ上がり調子というわけだ。どうも干支の具合と歳神の気分は比例するらしい。
目線こそ大将の方を向いた巳の仙人だが、身体の方はむしろ悪化している。彼女の長くしなやかな脚は私の脚に絡みつき、さながらツタに絡みつかれる木のようだ。
「ねえねえ、今晩一緒にどう?」
「いやいやいやいや……」
ほとんど唇がつきそうなほど顔を寄せて、巳の仙人は私に甘い声を囁く。ほんの僅かに香る動物的な香りの香水と、甘く芳しい日本酒の香りが私の鼻腔をくすぐっていく。
立場さえなければ、いや立場があっても乗ってしまいそうなほどに魅力的な誘いだ。私は必死になって手元の盃を見つめているが、一度彼女の方を向いてしまえば、文字通り蛇に睨まれた蛙のように、言いなりになってしまうだろう。
「食われちまいますよ」
「余計なことを言わないの」
下拵えを済ませた生肉を焼き始めた大将が、見かねた様子で声を掛けてくれる。邪魔をされた巳の仙人はぷうと頬をふくらませて抗議したあと、コップに残った日本酒を一息に飲み干した。
巳は、その頭の形状から鏃に例えられる。つまり矢に代表される男性的な攻めの一面があるのだ。その一方で、とぐろを巻いた形状からは的に例えられる。つまり女性的な受けの一面もある。
「ゆえに巳の仙人は両性具有なのよ」
心を見透かしたように巳の仙人からねっとりと囁かれた。仮に彼女がヘビの特徴を備えているならば――と、その先を見透かされたくない私は考えるのを辞める。
私の方を見ながら次の煮卵を掴もうとした巳の仙人の手は、残念ながら空を切った。はた、はた、と皿の上を彼女の手が探るものの、無いものは掴めない。
「ねえ、皿が空いたわ」
「はいはい、ただいま」
巳の仙人の空いた皿を掴んだ大将は、入れ替わりに次の皿を提供する。届いたのはグリル盛り合わせで、大きめの木製の土台に鉄板が乗ったファミレス定番のスタイルだ。さっきまで大将が仕込んでいたのはこれだったようだ。
鉄板の上にはところ狭しと具材が並んでいるが、どう見積もっても全部肉のように見える。
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