プロローグ

 ──記録されていないということは、存在しないということなのか?


 新堂レンは、黒板をじっと見つめていた。無地の電子黒板には、今日の授業予定が表示されている。そのどこにも、「彼女」の名前はなかった。いや、それどころか、出席簿にも、座席表にも、クラスのチャットログにも、彼女は最初から存在していなかったことになっている。


 一ノ瀬カナ。

 つい昨日まで、そこに座っていた少女。

 白いシャツの袖を捲り、少し生意気な目をして、レンにだけ時々、意味深な笑みを向けていた少女。

 ──突然、姿を消した。そして誰も、彼女のことを覚えていない。


「新堂くん。質問、ある?」


 教師の口調は柔らかいが、目は冷たい。背後の教室カメラに記録されることを意識してのことだろう。


「……いえ、ありません」


 レンは答えた。

 AI《ユーノス》がこの学校を管理して以来、教師たちはただの“発声装置”でしかない。指導も評価も罰も、すべてユーノスが判断する。


 彼は再び、空席になった一番後ろの窓際の席を見やった。そこに“いたはず”の少女の気配を、今も鮮やかに感じている。


 だが──証拠が、どこにもない。


 存在しないものに、抗う術はあるのか。

 AIが「正しい世界」を定義する時、人間の記憶は、どこまで真実を主張できるのか。


 チャイムが鳴る。無音で、冷たい電子音。

 誰も気づかないうちに、世界から彼女がひとつ、抜け落ちた。


 レンは静かに立ち上がった。

 記録がすべてを決めるこの学園で、彼はたったひとつ、記録に抗う武器を持っている。

 ──忘れないという記憶だ。


 “静寂なる告解室”への扉が、無音で開かれる。




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