『十二の時に満つるもの』
黒羽ユイ
第1部 第1話 落ちてきた空
夜勤明けの病院を出た瞬間、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
昨夜の激しい雨が原因だろう。舗装の甘い駐車場のあちこちに、水たまりができていた。
高坂綾乃は足元の水たまりを覗き込む。映った空は薄曇り。
だがその奥に、何かが揺らめいて見えた。
――まるで、今の私の心のようだ。
昨晩は救急搬送と訪問診療の緊急対応が重なり、慣れない当直医との連携も相まって神経をすり減らした。
朝の申し送りが終わったのは、定時を大きく過ぎた十時半。
疲労困憊のまま、綾乃は林に隣接する職員駐車場の奥へ向かった。昼間だからまだいいが、夜なら絶対に近づきたくない場所だった。
木々の向こうにある“森”の輪郭が、異様に感じられた。
車に乗り込みエンジンをかけたその時、背丈のある黒い影が目の前を横切った。
「……っ!」
反射的にブレーキを踏み、慌てて車外へ飛び出す。
しかし、そこには何もなかった。足音も、気配も、影さえも。
「……見間違い、だよね」
寝不足と疲労のせいにして、頬を軽く叩く。
買い物と銀行を済ませた後、綾乃は八階建てのマンションに帰宅した。
エントランスは吹き抜けで、天井には幾何学模様のステンドグラスがはめ込まれている。
陽光が差し込むと床に複雑な色彩模様を描き出す。
エレベーターのボタンを押す。
8、7、6、5――。
その間に、隅にある古びた柱時計が12時を告げる音を響かせた。
「チーン……チン、チン……」
やけに重く、耳に残る音だった。
「……やけに重たい音…」
綾乃がそう呟いた瞬間、
――どさり。
何かが上から落ちたような音が、エレベーター外から響いた。
振り向くが誰もおらず、物音の正体も見つからない。
だが、それは幻聴ではなかった。
その日の午後、マンションの中庭で身元不明の遺体が発見された――。
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