余談話:湯けむり、恋よりやさしい温度で

 金曜の夜、スケジュール調整の奇跡的な隙間を縫って、

 三人だけの“温泉旅行”が実現した。


 行き先は、山奥の静かな一軒宿。

 客室は、少し贅沢な離れ。

 部屋付きの露天風呂、檜の香り。

 そして、なにより――「携帯が通じない」。


「最高かも……」


 アキが荷物を置くなり、畳にごろんと寝転んだ。


 旅館の女将さんの説明もそこそこに、

 完全に気を抜いた顔になっている。


 ことはがその横にすとんと座り、アキの髪を撫でる。


「アキさんの、そういう顔……もっと見たいなあ」


「ん〜〜? なんか、今の声、色っぽくなかった?」


「気のせいじゃないよ」


 と、さやがゆっくりと浴衣姿で戻ってくる。

 手には、3人分のお茶を乗せたお盆。


「旅行だもん。ちょっとぐらい、いつもより“甘やかしレベル”上げても、いいよね」


「……なんかもう、怖いわ……この甘やかしコンビ……」


 でも、アキの声はもう完全に緩んでいた。

 旅の空気、ふたりの空気。

 心の鎧が、音もなく剥がれていくのが自分でもわかる。


「アキさん、夕食まで時間あるし、お風呂いきません?」


「え、もう? ていうか……ふたりで、先に入ってきていいよ?」


「やだよ、せっかくの温泉。3人で入るに決まってるじゃん」


「“癒し旅”でしょ?」


「……こっちの緊張が解ける暇ないな……」


 * 


 露天風呂。

 檜の縁に三人並んで座って、湯に肩まで浸かる。


 白く立ちのぼる湯気に、月の光がぼんやりと滲む。


 ことはが、アキの背後にそっと回る。


「髪、洗ってあげる」


「えっ……あ、うん……」


「泡立て方、変えたんだ。最近、香りが柔らかくなるやつ」


「うちの頭、商品テストに使わんでよ」


「アキさんは、特別なサンプルなんです」


 ぴたっと背中を寄せられて、思わず身体がびくりとする。


 温泉の熱よりも、

 その接触のほうがずっと火照らせる気がした。


 さやは、アキの左手を取って、自分の膝にのせる。


「……指、冷たくなってる」


「そりゃ、ふたりに囲まれてるんだから緊張もするよ……」


「じゃあ、温めてあげる」


 手を包み込む。

 まるで、そっと心臓を握られているようなやさしさ。


 3人の呼吸が、湯気に混ざる。


 ふたりの視線は、どこか穏やかで、でも確かに“狙っている”。


「アキさん、可愛いんだから、仕方ないよ」


「そうそう。“可愛い”のは罪」


「ちょっと、あんたたち……」


「ねえ、アキさん。今日、眠れるかな?」


「……それフラグやろ……」


 * 


 夕食も、いつもと違っていた。


 懐石の品々は、静かに湯気を立て、

 ことはとさやが、時折アキの皿にそっと料理を取り分ける。


 グラスがひとつ、空になるたびに、

 アキの頬の赤みが増していく。


 そして、ふとしたとき、

 さやの手が、アキの膝にぽんと触れる。


 ことはが、耳元でそっとささやく。


「今日のアキさん、……とても綺麗」


「お風呂上がりの髪、好きかも」


「酔わせる気、しかないやろ……」


「うん。少しだけ、酔わせたい」


 布団を敷いて、灯りを落としたあと。


 誰からともなく、アキを真ん中にする形で、三人は布団に潜り込んだ。


 


 暗がりの中で、

 ことはがアキの額に、そっとキスをする。


「おつかれさま」


 さやがその隣で、アキの唇の端に、静かに。


「今日も、だいすきですよ」


 そして、またことはが。

 今度は頬へ。

 さやが指先を撫でながら、首筋へ――


 やがて、アキはとろんとした目を閉じ、

 ふわりとした寝息を立て始める。


 その音に合わせるように、ふたりも静かにキスを重ねていく。


 交互に、代わりばんこに。


 まるで、子守唄みたいに。


“だいすき”のリズムで。


“あなたがここにいる”という証として。


 月の光が障子越しに差し込む中、

 静かな寝息と、やわらかなキスだけが夜を満たしていた。


(余談話:完)

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