第11章:世界が誤解しても、私だけは知ってる

「紅姉×ハル妹」――

 その単語は、ライブの翌朝には、X(旧Twitter)のトレンド一位に躍り出ていた。


 最初にバズったのは、ライブ会場の観客によるレポだった。


《紅ちゃんが「甘やかすのは紅だけや!」って叫んだ瞬間、

 ハルちゃんが“妹の顔”で見上げてたのまじでやばかった……エモすぎ……》


《え、逆じゃん!?》


《公式はずっとハル姉×紅妹だったけど、

 今夜のライブで世界が反転した》


《ハルちゃんが“妹属性”だったなんて、聞いてない!!!!》


 ツイートに添えられた写真やファンアートが次々に拡散され、

【#紅姉】

【#甘やかし独占宣言】

【#ふにゃ紅】

 など、

 新たなタグが生まれていった。


 数年前、誰が予想しただろう。

 月島ハルが、“甘えられる妹”として受け入れられる日が来るなんて。


 翌日、所属事務所は異例のスピードで広報対応を行った。


「Crimson Beat紅の発言をきっかけに、ファンの皆様から多数の反響をいただいております。

 今後、これまでとは異なる視点からの“ふたりの魅力”にも焦点を当ててまいります」


 つまり――


「逆のままで、行きます」


 と、公式が認めたということだった。


 番組出演、ラジオ、MVの演出方針……

 すべてが、“紅姉×ハル妹”仕様に調整され始めた。


 リリース予定だった新ビジュアルも急遽撮り直され、

 紅が後ろからハルを守るような構図が採用された。


 ファンはさらに熱狂した。


「紅ちゃんの、あの“絶対守る”みたいな目、たまらん」


「ハルちゃんが紅ちゃんの袖つかんでるの、ほんま妹すぎて泣いた」


「今までのイメージ崩れたけど、正直これが“本物”だと思ってる」


 もともと女性ファンが多いふたりのユニット。

 その中でも、“リアル”な関係性に飢えていたファン層にとって、

 今回の逆転は、“公式が差し出してくれた真実”のように受け取られていた。


 でも――


「……ねえ、これでいいのかな」


 マンションのベッドルーム。

 ふたりが並んで横になる深夜。


 ハルの声は、闇の中にぽつりと落ちた。


「うち、妹って言われて、別に嫌じゃないけど……

 なんか、“見られてる自分”と“ほんとの自分”が、

 もっとバラバラになってきた気がする」


 横にいた紅が、そっとハルの手を握る。


「……うちも、同じや。

“姉キャラ”で求められることが増えて、うれしいけど、

 ちょっと、こわいときある」


「でもさ」


 ハルは天井を見ながら、小さく笑う。


「紅が怒ってくれたとき、ほんとにうれしかった」


「……うん」


「誰にも言えない自分の“弱いとこ”、

 紅だけは知ってくれてるって思えて、

 そんで、“いい子や”って言ってくれたから、

 ……ああ、もうこの子に全部委ねていいやって思えた」


 紅は少しだけ照れたように笑って、ハルの手をぎゅっと握り直す。


「……うちも、甘えてもらえるの、すきやから。

 たぶん、うち、“お姉ちゃん”気質あるんやろな」


「ねえ、紅」


「ん?」


「うち、“営業”って言われるの、ほんとはこわかったんだ」


「……うん」


「でも、“ほんとだよ”って、誰かに言ってもらえたら、

 それだけで救われる気がする。

 だから――ありがとね」


 沈黙が、部屋の中をやさしく包む。


 外では、ファンの熱狂が続いている。

 SNSでは今も、ふたりの逆転カプに対する考察や萌え語りが止まらない。


 それでも、ベッドの上で手を繋いでいるこのふたりだけは、

 どこにも見せない、どこにも見せられない、

“ほんとうの形”で繋がっていた。


「世界がどう言おうと、紅が知っててくれたら、それでいい」


 ハルの言葉に、紅は小さくうなずいた。


「うちも、そう思っとる」


「じゃあ、もうちょっとだけ、妹やらせてもらおっかな」


「しゃあないなあ、甘えた妹ちゃんやなあ」


「……んふふ……」


 夜の闇の中、ふたりの笑い声が、ふっと静かに溶けていった。


 * 


 本番20分前。

 控室の空気は、いつになく静かだった。


 Crimson BeatとStella☆Nova、ふたつのグループが並んで入るこの楽屋は、

 いつもなら笑いやメイク道具の音でざわめいている。


 けれど今日は、なぜか誰もが声を潜めていた。


 理由は明白だった。


 ステージでの“あの事件”――

 紅の咆哮によって、ふたりの関係性が一気に再定義されたライブから、まだ数日。


 事務所は対応に追われながらも、広報の方向性を「逆転百合カプ」へと大きく舵を切った。


 新しいビジュアル、トーク内容、SNSの投稿。

 どれもこれも、「紅姉×ハル妹」前提で動いていた。


 ファンの熱狂も止まらない。


 逆に、ふたり自身の心の静けさが際立っていた。


「……静かだね、今日」


 ハルが、紅のすぐ横でつぶやく。


 膝の上で手を組み、視線は足元に向けたまま。

 でも、その声はわずかに揺れていた。


「……うん。なんか、変に気ぃ遣われとる気がするな」


 紅も、小さく笑って応じた。

 けれど、その指先は、やはり少し強張っていた。


 ハルは、おもむろに椅子から立ち上がり、

 紅の隣の鏡の前に歩いていく。


「紅」


「ん?」


「今、ほんとのこと、言っていい?」


 紅はすぐに顔を上げた。

 ハルが“本音を言うとき”の声を、紅は知っていた。


 鏡越しに、目が合う。


 ハルの表情は、少しだけ寂しげで、でも澄んでいた。


「……あたし、ずっとね、“姉キャラ”頑張ってるの、

 ちょっとしんどかったよ」


「……そっか」


「でも、それ以上に、

“ああ、もう誰に何言われてもいいや”って思える瞬間があって」


 紅は、立ち上がる。


 ハルの横に立ち、正面からその目を見た。


「それはね、紅がいるから」


 静かな声だった。

 でも、迷いのない言葉だった。


「誰に何を言われても、

 あたし、紅が“好き”って言ってくれたら、

 それで全部、報われる気がするの」


 紅は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 目の奥が、じんと熱い。


(なんやろ……)


(うちのほうこそ、ずっと、救われとるのに)


「……ハルちゃん、うちも」


 紅の声が震えた。


「うちも、“妹役”って言われるの、ちょっときつかった。

“紅ちゃん、守られてるね”って言われるたび、

 ほんまは、うちが守っとるつもりやったのにって、

 なんか、心のどっかが、ぎゅって痛かった」


 ハルが、そっと手を伸ばして、紅の手を握る。


「でもな、ハルちゃんが泣いたとき、

 うちのひざでぐすぐすしてたとき、

 あのとき、“ああ、うち、ちゃんとハルちゃんのこと支えとるんやな”って思えた。

 そんで、安心した」


 ふたりは、手を繋いだまま、ゆっくりと鏡の前で見つめ合う。


「だから、うちも言うわ」


 紅は、ハルの目をまっすぐ見て、言った。


「誰に何を言われても、

 うちは、ハルちゃんが一番好きや」


 ハルの目に、涙が浮かぶ。


 それを拭うことなく、笑いながら囁いた。


「紅、それ、また泣いちゃうやつだよ……」


「泣いてええよ、妹やから」


「も〜〜〜……」


 ふたりはそのまま、そっと額を合わせる。


 舞台袖からスタッフの呼び声が届いた。


「5分前です、出番準備お願いします!」


 ふたりは顔を上げ、深呼吸をする。


「いくよ、紅」


「うん、一緒に」


 ふたりの手は、まだ繋がれていた。


 その指先の熱だけが、

“誰にも説明できない本当の気持ち”を確かに伝えてくれる。


 世界がどう見ようと、誤解されようと、

 自分たちだけが知っていれば、それでいい。


 ふたりだけの形を、ふたりだけで守っていく。


 その決意が、いま、また一歩――

 ステージの光の中へ、踏み出そうとしていた。


 舞台直前の確かめ合うような甘いキス。

 今日のステージが幕を開けた。


 * 


 アンコールが鳴り止まないステージ。


 光の洪水のようなライトの中で、

 ふたりは並んで立っていた。


 ハルと紅。

 Stella☆NovaとCrimson Beat。

 グループは違っても、ファンの意識の中では、

 もうふたりは“ペア”として完全に定着していた。


 しかも――


「紅姉〜〜!」「ハル妹〜〜!!」


「紅ちゃん甘やかし最高〜〜!!」


「ハルちゃん、もっと甘えた顔して〜〜〜!!」


 そんなコールが、客席から飛ぶ。


 ステージの上のハルは、ちょっとだけ頬を染めて、苦笑いを浮かべた。


 横に立つ紅が、その様子を見て、にやりと口角を上げる。


「どないしたん、妹ちゃん?」


「……うるさい」


「さっき、袖で手ぎゅってしてきたやろ?」


「してないもん……」


 客席から、きゃーっ!と歓声が上がる。


 ファンはもう完全にノリノリだ。

 ふたりのやり取りを見守るように、照明も柔らかく演出されていた。


 ラストの曲が終わり、MCタイムも終盤。


 それぞれのグループメンバーがファンに向けて感謝の言葉を贈る中、

 ハルと紅は、最後の一言だけを“ふたりで”話すことになっていた。


 紅が一歩前に出る。

 その背中を、ハルが少し後ろから見つめていた。


「今日は、ほんまにありがとうございました」


 紅の声が、マイクを通して澄んだまま客席へと届く。


「うちら、グループも年齢も違うけど、

 こうして一緒にライブできて、嬉しかったです。

 ……ほんで、まあ、最近いろいろありましたけど」


 観客が笑い声を上げる。


 紅は、一瞬だけハルを振り返って、目を合わせた。


「いろんな意見、あると思います。

“演出”や、“営業”や、

 ……“本物じゃない”って言われることも、きっと、これからもあると思う」


 ハルの表情が、ほんの少しだけ揺れる。


 紅はそれを感じ取ったうえで、続けた。


「でも、うちらは、ちゃんと“うちらの関係”を信じてます。

 名前とか、キャラとか、どっちが姉とか妹とか、

 そんなの関係なくて」


 紅のマイクを、ハルがそっと受け取った。


「私たちは、ただ“ふたり”として、

 ステージの上でも、下でも――

 ちゃんと、支え合ってます」


 一瞬、客席が静まり返った。


 そのあと、拍手がゆっくりと広がり、

 まるで波のように会場を包み込んでいく。


 ふたりは、手を繋いで深くお辞儀をした。


 指先が、しっかりと絡み合っていた。


 * 


 夜。


 マンションの一室。

 お風呂上がり、髪をタオルで拭きながら、

 ソファに寝転がるハルが、ふにゃりと微笑む。


「なんか、いろいろあったけど……やっと落ち着いたね」


 紅は、隣に座りながら、冷たい麦茶をひと口飲む。


「せやな。でも、たぶん、また言われるやろな」


「“営業だ”とか?」


「うん。“やってるフリでしょ”とか、“イメージ戦略”とか」


 ハルは、ため息をついたあと、笑った。


「……言わせとけばいいよ」


「うん。うちらが知っとるなら、それでええよな」


「うん。紅が、知ってくれてたら、それでいい」


 ふたりは自然に、手を伸ばして繋いだ。


 何も飾らないその行為が、

 いちばん“特別”だった。


 ハルが、ソファに横になりながら、紅の膝に頭をのせる。


「……妹でいいよ、あたし」


「うん、ずっと甘えてええよ」


「ありがとう、“お姉ちゃん”」



 紅は、やわらかく笑って、

 ハルの髪をそっと撫でた。


 外の世界が、ふたりをどうラベリングしようと、

 この温度だけは、誰にも偽れない。


 誰かの期待でも、事務所の戦略でもない。


 これは、“ふたりだけの関係”――


 ふたりだけが信じる、たしかな愛のかたちだった。

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