第4章:首筋にキスを

「ハル、よくがんばったな。ドラマ、おつかれさん」


 そう言ったアキの声は、いつもより少しやさしかった。

 事務所の会議室、スケジュール表を前にして、ハルは思わず目を見張った。


「えっ……えっ、なに? なんかあるの?」


「ご褒美ってほどじゃないけど、明日、まるっとオフにしてやるよ」


 その言葉を聞いた瞬間、ハルの顔がパッと明るくなった。


「マジで!? やったあああああっ!!」


「うるさい。声がでかい。あと跳ねるな、跳ねるな」


 それでも跳ねながら、ハルはアキの腕にしがみついた。

 くるくる笑って、手をぱたぱた振って――

 完全に「テンションが上がりすぎた犬」だった。


 アキがため息をつきながら、腕時計に目をやる。


「で、帰って、寝るの?」


「ううん、紅の部屋いく!」


「……ですよね」


 けれどそのままドアに向かおうとするハルを、

 アキがひとつの言葉で止めた。


「紅ちゃんは、明日オフじゃないからね」


「……えっ」


 ぴた。


 止まった。


 ハルの肩が、明らかにしゅん、と落ちた。

 その姿を見たアキは、机に指をとんとんと当てる。


「なにその顔」


「……えー……いっしょに……お休みがいいなぁ……」


「知らない。あなたの仕事、終わったから休ませてるだけ」


「アキ〜〜〜〜〜〜っ!!」


 情けない声を上げて、ソファに倒れ込むハル。

 アキはそれを見て呆れながらも、ちらっと時計を見る。


「……はい、3秒見つめた。言いたいことあるなら言っていいよ」


「紅も一緒に休ませてください……! お願いしますアキ様……!

 あたし、ほんとに、ほんっとにがんばったから!!」


「うーん……どうするかなぁ……」


「ドラマがんばった!キスしなかった!棒読みだけど!雰囲気すごかったって言われた!

 ファンがみんな“紅と組ませて”って言ってた!これはもう、オフ!紅もオフ!!」


「詰め込み過ぎ。息継ぎしろ」


 アキは一度、書類を見て、それからゆっくりと息をついた。


「わかったよ。紅ちゃんもオフ、入れておく。ただし条件付き」


「!? なんでもする!!」


「外出するなら、必ず変装。最低でもマスクと帽子、サングラスも推奨。

 あと、プールとか人の集まる場所はNG。もし使うなら、マンション内の設備のみ」


「はい!」


「紅ちゃんにも、ちゃんと伝えて」


「は〜〜〜い……ありがとうアキ〜〜〜〜!」


 事務所を出たハルは、ダッシュでマンションに帰り、

 インターホンも押さず、ピンポン連打の勢いで紅の部屋を訪ねた。


 扉が開いた瞬間、紅は髪をくしゃくしゃとかきあげた寝起き姿だった。


「……どしたん?」


「紅ぃ!明日!オフ!あたしと一緒におやすみ!」


「……は?」


「アキが言ってた!いっしょにオフ!一緒に朝から晩まで甘やかしてもらうんだ!!」


「……甘やかす?」


 紅はまだ半分寝ているような声で、

 でもその口元に笑みが浮かんだ。


「うん。……いいよ。甘やかしてあげる」


「わ〜〜〜〜いっ!!」


 ハルは飛びついて、紅の腰に抱きついた。

 そのままクッションに転がり込むふたり。


 翌朝。

 日が差し込む紅の部屋。

 床のクッションにハルが寝転び、紅は髪をとかしていた。


「紅〜〜〜おなかすいた〜〜〜」


「朝ごはんは自分で作って」


「うぅ……食べさせて……もぐもぐさせて……」


「赤ちゃん?」


「今日だけ赤ちゃん……ご褒美だから……」


 ため息をつきながらも、紅はハルの髪をくしゃりと撫でた。


 朝食はハルのリクエストで、紅の得意な卵トースト。

 紅が焼いている間、ハルは後ろから抱きついてキッチンにくっついていた。


「熱いから、ちょっと離れて」


「でも、ぺたっとしてると、安心する……」


「ハルちゃん、甘えモード、フル解放だね」


「だって……ドラマ、がんばったから……」


 朝食後はふたりで軽くストレッチ。

 お風呂は交互に入る予定だったけれど、なぜか紅の後ろからハルがついてきて――


「え、いっしょに入るの?」


「いっしょがいいの!! ご褒美だから!!」


「言えばなんでも許されると思うな〜……もう」


 泡まみれの紅の背中をハルがこする。

 シャワーの音と、笑い声と、くすぐったい声が重なって、

 バスルームはやさしい湯気に包まれていった。


 そして――


 午後は、お出かけの計画を立てる。


 帽子、マスク、サングラス。

 おそろいっぽくない服装で、隣を歩くのに違和感がないように。


「ほんとに守れる?」と、アキに言われたその約束を守るために、

 ふたりは作戦会議を開きながら、

 またクッションに潜って、手を繋いで転がっていた。


「ねぇ、紅」


「ん?」


「紅がいれば、なんでもがんばれるよ。ほんとに」


「……なに、それ。急に」


「今日みたいな日があるだけで、世界って生きていけるんだな〜って思うの」


「……うん。わかるよ」


 ふたりの手が、指の間で優しく絡まる。


「明日からまた、外では“姉”やるけどさ」


「うん」


「紅の前では、甘えん坊でいるから、よろしく」


「……はいはい。甘やかしスイッチ、ONにしておく」


 その返事に、ハルがぎゅっと紅を抱きしめる。


 紅も、黙って頭を撫でる。


 日常にとろけるような、静かな甘さ。


 それがふたりにとって、いちばんの“ご褒美”だった。


 *


 マンションを出る直前、ふたりは鏡の前で最終確認をしていた。

 黒のキャップ、マスク、サングラス。

 あとは、服の色を地味めに合わせて、少しだけ雰囲気を崩す。


「これで……たぶん、大丈夫……?」


 紅が首を傾げて言う。

 ハルは隣で小さく頷いた。


「紅、いつもよりちょっとヤンチャに見えるかも」


「ハルちゃんは、あたしのボディーガード?」


「むしろ、紅がリードしてくれる感が強いけど!?」


 ふたりはマスク越しに笑い合う。


 エントランスを出ると、外の空気は春の香りがした。

 街は日曜の昼下がり。適度な人通りと、穏やかな日差し。


「手……どうする?」


「今はダメ。人多いし」


「むぅ……紅の手ぇ……」


「あとで、ね」


 まず向かったのは、小さなカフェだった。


 路地裏にひっそりとある古民家リノベ風の店。

 紅がこっそり調べておいたらしい。


「……ここ、ずっと気になってた」


「えっ、いつの間にチェックしてたの!? おしゃれっ!」


 店内はアンティーク調の照明と、静かな洋楽。

 ふたり並んで座れるカウンター席の奥に通されると、ハルはうれしそうにひそひそ声で言った。


「紅とカフェデート……初めてじゃない?」


「……かも」


「やばい、幸せ……店員さんの目がなかったらキスしてた……」


「しないの」


「ちぇっ」


 紅はオレンジティー、ハルはクリーム入りのカフェラテ。


 ドリンクが来るまでの間、ふたりは視線を合わせて、目だけで会話する。


 マスクをしててもわかる。

 紅の目が笑ってる。

 ハルのまぶたが少し下がって、うっとりしてる。


 その空気のやわらかさは、誰にも見せたことがないふたりだけの“隠し味”。


 カフェを出て、公園へ。


 人通りの少ない裏通りを選んで歩く。


「紅、どこ行くの?」


「ちょっとね、裏手に、桜が残ってる場所があるって」


「ほんと!? 行く行くっ」


 紅の後ろを歩くハルは、なぜかずっとドキドキしていた。


 こんなふうに、紅が自分をリードしてくれるのは、

 マンションの中でも珍しいことだった。


 でも今、外に出て“誰かわからない自分”になったことで、

 紅の“お姉さん”な面が自然と前に出てきた。


 その姿に、ハルは不思議なときめきを感じていた。


「ねぇ」


「ん?」


「……手、つないでもいい?」


「……人、いないから……」


 紅がそっと、片手を差し出す。

 ハルがそれを握る。


 サングラス越しでも、互いの頬が緩んでるのがわかる。


 ふたりの手は、

 ゆっくりと指を絡め合いながら、ぴたりと重なっていた。


「なんかさ……不思議だよね」


「なにが?」


「こうやって、変装して他人のふりして歩いてるのに、

 今がいちばん、“わたしたちらしい”って思えるの」


「……わかるかも」


 紅の声が、少し優しくなった。


「表で演じてるのも、仕事としては好きだけど……

 でも、いま手をつないでるこの時間が、いちばん本音っていうか、ね」


「うん……このままずっと、桜の下歩いてたい」


「ハルちゃん、詩人みたい」


「詩人になってでも、紅を口説きたい」


「口説かなくても、ずっと隣にいるけど」


「そーゆーの!そーゆーのがすきー!!」


 ふたりは笑いながら、

 桜の花びらが舞う並木道を抜けていく。


 手をつないでいるだけなのに、世界がとろけていくようだった。


 途中、小さな本屋の前で立ち止まり、

 同じ雑誌の表紙に載った自分たちの顔を見つけてこっそり顔を見合わせる。


「この中のふたり、今あたしたちがここにいるって思わないだろうね」


「ふふ、ちょっとしたスパイごっこだ」


「紅、案外こういうの、好きでしょ?」


「……まあ、嫌いじゃない」


「今度、マフィア映画とか一緒に見よ?」


「なんでそうなる」


「だって紅、スーツ似合いそうだもん……! かっこよ……!」


「褒めても何も出ない」


「愛を……愛をください……」


「はいはい」


 紅がハルの頭をぽんぽんと撫でる。


 それだけで、ハルは口元をゆるませてふにゃりと笑う。


 街の片隅、春の午後。

 誰も気づかない、誰にも見られない、

 ふたりだけの恋人時間が、静かに流れていた。


 *


「ちょっとだけ、泳ぎたいかも」


 マンションに戻るエレベーターの中、紅がつぶやいた。

 ハルはすぐに目を輝かせて、紅の手をぎゅっと握る。


「え、プール!? いくいくいく! 入ろう、今すぐ!!」


「うん、でも……」


 ふたりが向かったのは、住民専用の地下フロア。

 静かな廊下の先、予約制のプールブース。


 メインエリアとは別に、

 完全個室の水遊びルームがいくつか用意されていて、

 誰にも見られずに使えるという“理想の隠れ家”だった。


 受付端末で予約を済ませ、タオルとロッカーキーを受け取る。

 着替えを終えて合流したハルは、先に水着姿を披露してきた。


「じゃじゃーん♪」


 純白のビキニ。

 裾にひらっとレースの入ったショートパンツタイプで、

 ほどよくセクシーで、それでいて上品。


「……スタイル、良すぎじゃない?」


 紅が、ぽつりと呟く。


「ふふっ、見惚れてる〜? 紅〜?」


「う、うるさい……」


 紅は、まだバスローブを羽織ったままだった。

 その下には赤い水着――

 可愛さとちょっと大人っぽさのあるワンピースタイプ。

 胸元は控えめで、全体のバランスもよく似合っている。


 けれど、紅はずっと胸の前で手を組んで、

 ハルの視線をまともに受け止められないまま、うつむいていた。


「……やっぱ、だめかも。恥ずかしい」


「紅?」


「……あたし、やっぱり、こういうの、苦手」


 胸が小さいこと、

 ハルと比べて“女の子らしさ”が足りないこと。


 自分ではどうしようもないのに、

 どうしても気になってしまう。


 目をそらしたまま、小さくつぶやく。


「……やっぱ、水着の上にTシャツ、脱がなくていい?」


 その言葉に、ハルはゆっくりと紅に近づいて、

 そっと、バスローブの上から抱きしめた。


「……紅、かわいいよ。めちゃくちゃ、かわいい」


「……でも、ハルちゃんは、もっと……」


「紅は、紅のかわいさがあるの。

 あたし、誰かと比べたりしない。

 だって、紅がいちばん、好きだから」


 その声に、紅がそっと顔を上げる。


「……ほんとに?」


「ほんとに。Tシャツの下に隠してる、それもぜんぶ、好きだよ」


 紅の耳まで赤くなった。


 ハルが優しく手を取り、個室ブースの中へと連れていく。


 部屋の中には、ガラス張りの小さなプールと、

 ジャグジー風の湯船、濡れても大丈夫なソファがひとつ。


 照明は控えめで、心地よい静けさが満ちている。


 紅はそっとTシャツの裾をつかんで――

 一度だけ、ハルを見つめた。


「……見ないで」


「見ちゃうよ。好きだもん」


 しぶしぶ脱いだTシャツの下。

 露わになった紅の赤い水着姿に、ハルは目を見開いた。


「……やば……かわいすぎる」


「や、やっぱ見ないでってば!」


「紅、ほんと……それ、最高すぎる……」


「も、もうっ……」


 紅が顔を覆って縮こまる。


 ハルはそっと近づいて、その手を外して――

 額に、そっと口づけた。


「大好き。……かわいくて、かっこよくて、全部紅らしくて、最高」


 プールの水面に足を浸すふたり。

 指先が触れあい、そっと手をつなぐ。


 水音が静かに響くなか、

 ふたりの距離が、じわりと縮まっていく。


 紅がハルの頬にそっと触れると、

 ハルが目を閉じた。


「紅、キスして?」


「……うん」


 唇が重なり合う。

 最初はそっと。

 それから少しずつ深く。


 水の音も、照明の明滅も、すべてが遠のいていくような甘さ。


 手のひらで感じるぬくもり、

 水のひんやりとした感触。


 唇だけじゃなく、呼吸や想いまでも溶けあうような、

 とろけるキスだった。


 息を継ぎながら、ハルがふわっと笑う。


「もう……全部とけそう……」


「……ハルちゃん、顔、真っ赤」


「だって、紅がかわいすぎるんだもん……

 あ、もう一回だけ、キス、してもいい?」


「……もう、何回でも、して」


 その言葉に、ハルはそっと顔を寄せ、

 紅の――首筋に、口づけを落とした。


「……んっ……」


 ぴくりと肩をすくめた紅の体が、

 ふにゃりと力を抜いて、ハルに寄りかかる。


「紅、今の、めっちゃかわいかった」


「……もう……ハルちゃん、ずるい……」


 抱きしめ合うふたり。

 水に濡れて、頬も、髪も、ぬくもりに溶けていく。


 この時間は、誰にも見せない。

 ふたりだけの秘密のサイン。


 それが、首筋のキス。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る