『本番5秒前、キスして。』

鈑金屋

第1章:スターライト・リフレイン

 夜が、あたたかかった。


 山の影がゆっくりと降りて、空が群青に染まっていく。

 かすかに風が吹いて、木々がささやく音がする。

 虫の声が絶え間なく響く中、遠くの国道からたまに車の音が流れてくる。


 そんな田舎の夜に、ぽつりと一軒だけ、二階の窓に明かりが灯っていた。


 その部屋の真ん中、畳の上で、少女が座っている。


 小さなタブレットを膝にのせ、食い入るように画面を見つめていた。

 背筋はまっすぐ。まばたきも忘れている。


 画面の中では、華やかな舞台が広がっていた。

 キラキラとライトがまたたき、銀白の衣装を纏った一人の女性が、光の真ん中で踊っている。


 月島ハル。

 都会の大舞台で、まるで星みたいに瞬く存在。

 その動きはキレがあって、鋭くて、それでいてしなやかで、

 見ているだけで胸の奥がざわざわする。


 音楽が流れ、彼女が歌いはじめた瞬間、

 少女は思わず息を呑んだ。


 張りのある声。伸びのある高音。

 なのに、どこか脆くて、優しくて、

 聞いているだけで、泣きたくなるような気持ちになる。


「……すごい……」


 少女は、ぽつりとつぶやいた。

 その声は畳に吸い込まれて、すぐに消えていった。


 でも、その瞬間、何かが灯った。


 彼女は立ち上がり、画面を見ながら体を揺らした。

 足を出して、手をあげて、くるっと回ってみる。

 リズムも、ステップも、合っていない。

 けれど不思議と楽しかった。


 自分のなかに、音が流れている気がした。


「……こう、かな……?」


 誰に教わったわけでもないのに、

 彼女の体は、自然と動いていた。


「紅、なにしとるん?」


 襖がするりと開いて、母が顔を出した。

 紅はぴたりと動きを止める。


「……ダンス、しとった」


「動画のあの子か?」


 紅はコクリと頷き、タブレットを掲げた。


 画面には、ハルが笑顔で歌いながら踊る姿が映っている。


「月島ハルちゃん。すっごいんや。歌もダンスも、ぜんぶ」


 母は画面をのぞき込み、ふんわりと笑った。


「ほんまやな。きれいやなぁ」


「なあ、おかあさん。私、なりたい」


「……アイドルに?」


 紅は力強くうなずいた。


「うん。なりたい。あの人みたいに。……ならせて?」


 母は少しだけ驚いたように目を細め、そして、すぐにうなずいた。


「うん。本気でそう思うなら、応援する。

 踊りたいなら踊ったらええ。……あんたの夢、ちゃんと信じるよ」


 その言葉に、胸の奥がふわっとあたたかくなるのを感じた。


 母の声は、夜の静けさよりも、ずっとやさしかった。 


 次の日。

 学校でも踊っていた。


 音楽プレイヤーをポケットに入れて、

 イヤホンの片耳だけつけて、体育館の隅でステップを踏む。


 一緒に踊る友達はいない。

 全校生徒合わせて20人もいない学校。

 でも、紅は楽しそうに、一人で何度も何度も動きを繰り返す。


「また踊っとる〜」


「ほんまにアイドルなるつもりなんか?」


「ええやん、応援したるわ」


 からかいも混ざった声だったけど、

 ちょっと照れくさそうに笑った。


「うん。なりたいって、思っとるもん」


 その笑顔がまっすぐで、誰も何も言い返せなかった。


 夜。

 布団に入ってからも、紅はスマホを手にしていた。


「アイドル なりかた」


「地方 オーディション」


「ダンス 独学」


「レッスン経験 なし アイドル 可能性」


 検索履歴は夢だらけで埋まっていく。


 布団の中で、そっと画面を抱きしめながら、声を出してみる。


「……あたし、なる。絶対なる」


 誰にも聞かれていないはずなのに、

 その言葉は、部屋の空気に、確かに響いた気がした。


 夢を見るのは、怖かった。


 失敗するかもしれない。

 笑われるかもしれない。

 都会の子にかなうわけない。

 不安なんて、たくさんあった。


 それでも――


「ハルちゃんのとなりで、歌いたい」

 その気持ちは、何度言っても、胸の奥で光り続けた。


 山の向こうに星が滲んで、

 夜の川の音が小さく流れる。


 心のなかに、小さな火が灯った。

 それはちいさくて、静かで、でも絶対に消えない火だった。


 まだ名前も、歌も、ダンスも持たない少女が、

 その日――アイドルになろうと、決めた。


 *


「――続きましては、今をときめく2大ガールズグループによる、夢の対バンステージ!」


 MCの声が響くと同時に、会場が一気に沸いた。


 赤と白のライトが交差する瞬間、観客席に一斉にペンライトの光が揺れる。

 その揺らぎの向こう、ステージの両端には、すでに2組のアイドルグループがスタンバイしていた。


 舞台袖からそっと漏れ出す光が、観客の胸を打つ。

 拍手と歓声が、波のように広がっていく。


 『 Stella☆Nova 』

 月島ハルがリーダーを務める、王道アイドルグループ。

 白を基調とした衣装に、洗練されたフォーメーションダンス。

 一糸乱れぬパフォーマンスと、完璧に作られた“カッコいい”キャラ。

 どこまでも正統派で、まさに“王子様系アイドル”。


 彼女たちのファン層は、圧倒的に女性が多い。

 特にハルのファンには「王子様」「お姉様」「キレ顔尊い」と叫ぶ層が厚く、

 中にはガチ恋としか思えないような視線を送るファンもちらほら。


 ペンライトを振る手が震えているファンもいるほど、

 ハルの“ステージ上の存在感”は抜群だった。


 『 Crimson Beat 』

 黒瀬くろせべにをセンターに据える、赤をテーマにしたエッジ系ユニット。

 衣装は少しゴシック寄りで、フレアの広がるミニスカート。

 不思議な存在感と、掴みどころのない言動で観客を引き込む演出が得意。


 紅のファン層もまた、女性が圧倒的。

 だが、こちらは“可愛い妹”を甘やかしたいタイプのお姉様たちが中心だ。


「紅ちゃん、今日もお膝乗りなさい……」


「かわいいねぇ、ずっと見てるよ」


「守りたいこの笑顔(でもほんとは甘えられたい)」


 ……と、表面上は“甘やかし”を掲げているが、

 その実、全員が“紅に甘やかされている”ことに、あまり気づいていない。


 会場の左右で、白と赤の歓声がぶつかる。

 けれど、それは敵意ではなく、熱気の交差。


 そして――ステージ中央に、二人の姿が現れた。


 月島ハル。

 白いジャケットを翻し、堂々とした足取りでステージに歩を進める。

 その一歩ごとにスポットライトが動き、王子様の登場を演出する。


「オマエら、今日は絶対負けないからね?」


 ステージ用の低く少し舌足らずなトーン。

 挑発的なセリフに、観客が一斉に「キャーーーー!!!」と叫ぶ。


 けれど、表情は完璧に作られた“キレ顔”。

 わずかに顎を上げた姿勢が、観客の妄想を刺激する。



 そして紅。

 ゆっくりとした足取り、無表情に近い微笑。

 ポニーテールがふわりと揺れ、赤のライトが髪に反射する。


「ふふ。今日くらいは、譲らないですから」


 静かな口調、読み取れない感情。

 だが、その声の裏には、確かな自信が滲んでいた。


 客席から

「紅ちゃん、つよい……」


「やば、今日の紅、完全に姫」


「甘やかしたいけど、甘やかされたい……!!」


 といった声が漏れる。


 モニターには、二人の顔がアップで映る。


 ハルの鋭い視線と、紅の淡い笑み。

 それはまるで剣と霞。

 まったく違う存在でありながら、舞台の中心でしっかりと交差している。


 この“対比構図”に、ファンたちは悲鳴を上げる。

 SNSのトレンドには、すでに「ハル紅尊い」「ハル姉と紅ちゃん」「ステ紅」などの文字が浮上していた。


 でも――観客が見ているのは、あくまで“仮面”。


 実際の二人は、ほんの一瞬だけ視線を交わし、

 ハルがほんのり口元を緩め、紅がわずかにまつ毛を伏せる。


 それだけで、「がんばってね」と「任せて」のやり取りが完了していた。


 音楽が鳴る。


 イントロが鳴り響くと、二人はすっと背を向け、所定の位置へ。


 ダンスが始まり、フォーメーションが回る。

 Crimson Beatの紅は、最前で鋭いステップを刻みながら、

 観客にまるで何かを誘うような視線を送る。


 一方、ハルは、センターのポジションから少し外れた斜めの位置で、

 全体を引っ張るような動きを見せていた。


 ふたりの距離は、絶妙にすれ違うように構成されている。

 視線が交わるタイミングも、わざとわずかに外している。

 けれど、たまに重なる瞬間があるたびに、観客は「今!目が合った!!」と騒ぎ、

 そのたびに「やっぱ仲良しでは?」という考察が飛び交う。


 パフォーマンスの最後、

 ふたりが並んで正面を向く。


 ハルが力強く拳を掲げ、紅が静かに笑う。

 カメラがもう一度寄る。


 そこには、仮面をかぶったまま、心で繋がるふたりの姿があった。


 拍手が鳴る。

 ライトが揺れ、歓声がこだまする。


 観客の誰もが、ふたりを“ライバル”として見る。

 でも――ふたりだけは、知っている。


 この関係の“本当の形”を。


 *


 幕が下りた瞬間、会場に余韻のような歓声が響き渡った。


 Stella☆NovaとCrimson Beat、

 2大グループの“夢の対バン”は大成功だった。


 控室に戻ったふたりは、

 まだ胸の奥に熱を抱えながら、深く息を吐く。


 ステージ衣装のまま、ペットボトルの水を開けて、

 軽く口をつけたハルが、ぽそりとつぶやいた。


「……やっぱ、本番って……すごいね」


 その隣で、紅は黙って頷く。


 ふたりの間には言葉が少ない。

 でも、伝わっている。

 たくさんの汗と視線と、

“仮面をかぶりながらも、本音を交わした時間”があったから。


 ハルはぐっと顔を上げた。


「……行こっか、ちゃんと」


「うん」


 ふたりは衣装を着直し、簡単に髪とメイクを整えてから、

 しっかりスタッフと共演者への挨拶にまわる。


 すれ違うスタッフたちに、丁寧に頭を下げ、

 共演したメンバーひとりひとりに「お疲れさまでした」と笑顔を見せる。


 ハルの言葉は、ほんの少し棒読み気味。

 でも、笑顔は本物だった。


 紅は終始静かに微笑んでいた。

 言葉は少ないけれど、ちゃんと礼儀を尽くす姿に、周囲も自然と心を寄せる。


 ふたりは、最後まで会場に残る。


 自分たちのグループのメンバーが楽屋を出るまで、

 ずっと見届けている。


「じゃあねー!」

「おつかれ〜!ハル姉、最高だったよー!」


 そんな声を背に、

 ハルは小さく笑いながら手を振る。


 その横で、紅がそっと手を差し出した。


 ハルは誰にも見られないように、そっとその手を握る。


 こっそり繋がれた手のぬくもりが、何よりのご褒美だった。


 ステージ裏の熱と光が消えて、

 マンションの静けさに包まれる頃。

 ふたりは同じエレベーターに乗って、

 同じフロアの向かい合った部屋へと帰ってきていた。


「……紅の部屋、行っていい?」


「うん。……おいで」


 紅の部屋は、シンプルだった。


 大きなクッションがいくつか床に置かれていて、

 壁一面が鏡になっている。テレビはない。

 あくまで、レッスンとリラックスのための空間。


 ハルはその部屋に入るたび、落ち着く気がしていた。


 紅がいる空間、というだけで、空気がやわらかくなる。


「ちょっとだけ着替えてくるね」


 紅が言って、奥のドアへ消える。


 その間に、ハルは床のクッションに倒れ込んだ。


「ふああ〜〜〜〜〜疲れたぁ……」


 声には出すけれど、疲れの本体は体じゃない。

“頑張ったふりをした心”が、一番疲れていた。


 ステージで、演じる自分。

 リーダーとして、強くてカッコよくて、完璧でいること。


 それを求められるから、背負う。

 でもほんとは、誰かに頭を撫でてほしかった。


「……おまたせ」


 紅が戻ってきた。

 淡い色のワンピースパジャマ姿。

 その瞬間、ハルは頭から崩れ落ちた。


「紅ぃ〜〜〜っ、好きぃ〜〜〜っ!!」


 とろけるように抱きつき、

 そのままクッションごと床に転がる。


「ハルちゃん、おつかれさま」


 紅は笑って、

 年上のハルの髪をなでる。


 ごしごし、ではなく、さらさら。

 指の腹でやさしく撫でてくれるだけで、

 ハルの体から、何かがふっと抜けていく。


「ん〜〜〜……そこ、もっと……」


「ここ?」


「うん……そこが、今日いちばんつらかったとこ……」


「よしよし。よくがんばったね、ハルちゃん」


 ハルはもう、完全にとろけきっていた。


 ふたりはそのままお風呂へ。

 紅の部屋のバスルームには、小さなシャンプーが3種類並んでいて、

 そのうちのひとつが「ハル専用」になっているのは、秘密。


 湯船に浸かりながら、

 紅がハルの背中を流してくれる。


 ハルはほとんど喋らない。

 言葉を話すより先に、

 心がゆるんで、眠気が来てしまう。


 パジャマも紅のものを借りた。


 もちろん、サイズが小さいので、胸も腰もパツパツ。


「ちょっとこれ、紅ぃ……キツい〜〜〜〜」


「……似合ってるけど?」


「ぜったいわざとぉ……っ」


 紅は悪戯っぽく笑う。

 その笑顔に、ハルは逆らえない。


 そして、布団。


 紅の部屋に並べて敷かれた寝具に、

 ふたり並んで潜り込む。


「紅ぃ……」


「うん?」


「今日、ホントにありがと。おかげで……ううん、紅のおかげで、生きて帰ってこれた……」


「うん。……おかえり、ハルちゃん」


 布団の中で、そっと手を繋ぐ。


 ぬくもりが伝わって、やわらかく指が絡んだ。


「……紅ぃ、手あったかい……」


「ハルちゃんの手、ちょっと冷たい。……でも、すぐぬくもるね」


 あたたかい手。やさしい声。安心できる匂い。


 誰にも見せない、自分だけの居場所がここにある。


 それが、いまのハルにとって、

 何よりも誇らしい“自慢”だった。


 目を閉じる。


 眠気が、やさしく襲ってくる。


「おやすみ、紅……」


「うん、おやすみ……ハルちゃん」


 ふたりの手は、

 眠っても、ほどけなかった。

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