第2話『老婆は喝采を欲している』
深い霧が孤島を飲み込み、船のマストさえも白く霞んでいる。
第二次試験の舞台へ向かう船上は、第一次試験を突破した者たちの、野心と猜疑心が入り混じった重い沈黙に支配されていた。
その中で、ひときわ華やかな一角があった。
豪奢な絹のドレスをまとった、名門侯爵家の令嬢、エレオノーラとセレスティーナの姉妹だ。
姉のエレオノーラが、扇子で口元を隠しながら、カイとリオのいる方角に侮蔑の視線を向ける。
「第一次試験は、随分と品のないやり方で突破なさった方がいらっしゃるようね。所詮は平民の浅知恵ですわ」
妹のセレスティーナも、同調してクスクスと笑う。
「お姉様、あの者たちですわね。一人は詐術で、一人は当てずっぽうの鑑定で… 。本物の《価値》を知らぬ者に、この先が務まるはずもございません」
その時、船の中ほどで小さな騒ぎが起きた。
一人の貧しい老婆が、重そうな木箱を抱えてよろめき、甲板に中身をぶちまけてしまったのだ。
姉妹が顔をしかめてそっぽを向く中、カイは小さく舌打ちすると、さっと駆け寄って老婆の荷物を手際よく拾い集め始める。
「婆さん、大丈夫か? 船酔いなら俺の干し肉、食うか?」
「……おお、すまないねぇ、若い衆。あんた、優しいんだねぇ…」
リオはその光景を遠巻きに眺めていた。
彼の鑑定眼が、ある真実を捉えている。
(……この老婆、全身を覆う魔力の流れが、老いた肉体のそれとは明らかに違う)
気づいたリオは、静かに眉をひそめた。
*
打ち捨てられた、古い劇場。
第二次試験の舞台だ。
試験官は舞台上に置かれた一体の人形――『嘆きの人形』を指し、受験者たちに告げた。
「この人形が“欲しているモノ”を提示せよ。それが課題だ」
「欲していないモノを提示したらその時点で即失格だ」
試験が始まると、多くの受験者が劇場内に残されたヒント――破れた恋文や色褪せた楽譜――を手に、「悲恋の物語」に飛びついた。
「この人形は、恋人が作ったこのオルゴールを欲しているに違いない!」
しかし、彼らが意気揚々と提示した「思い出の品」は、試験官に「欲していないモノ」と判定され、次々と失格になっていく。
「なぜだ!? 思い出の品ではダメなのか!」
会場に混乱が広がる。
悲恋物語は、受験者をふるいにかける巧妙な罠だったのだ。
その様子を見ていたリオは、人形から放たれるオーラに「悲しみ」の色が一切ないことを見抜いていた。
「カイ……この人形は悲しんではいない。もっと、ギラギラした……乾いた欲望の色しか見えない」
同じ頃、ライバルのエレオノーラも、文献知識から正解にたどり着きつつあった。
「この人形師には稀代の詐欺師という説もある……まさか!」
試験の本当の「正解」。
それは、詐欺師が作った人形だからこそ、感傷的な品ではなく、単純な「金目のもの」を欲しているというものだった。
気づいた者たちが、今度は劇場内に隠された燭台や銀食器といった金目のものを探し始める。
エレオノーラとセレスティーナの姉妹は、価値の高い「舞台衣装に使われていたダイヤモンドのブローチ」を提示し、高得点で早々に合格を決めてしまった。
他の者たちもそれに続き、カイとリオが探索を始める頃には、劇場内に残された「金目のもの」は、ほとんど価値のない鉄クズのようなものばかりになっていた。
「くそっ、もうめぼしいもんは全部、他の奴らに持ってかれちまった!」
「これでは、どうやってもスコアが足りない……」
二人の顔に、絶望の色が浮かんだ。
*
「もう打つ手がない……」
リオが諦めかけたその時、カイは審査員席で退屈そうにあくびをしている、あの船の「老婆」の姿を捉え、ニヤリと笑った。
「いや……手は一つだけある。最高にリスキーで、最高に面白い手がな」
カイは、物理的な「品」の価値で勝負することを捨てた。
「物語」の価値で審査員の心を直接ハックする――一世一代のギャンブルを決意したのだ。
カイは壇上に手ぶらで立つ。
会場から失笑が漏れる。
しかし、彼が口を開いた瞬間、劇場の空気が変わった。その声は、ただの若者のそれではなく、百の物語を知る吟遊詩人のように、深く、そして優しく響き渡る。
「あるところに、不器用な人形師がおりました。彼が恋をしたのは、天上の歌声を持つ一人の歌姫。言葉で想いを伝えられぬ男は、己が魂の全てを、一本のノミに、一本の木に、託したのでございます……」
カイは語る。来る日も来る日も、彼は削り続けた。彼女の微笑みを、憂いを、その指先の震えさえも、木の人形に刻み込むために。それは祈りだった。永遠に色褪せぬ愛の形を求める、悲しい男の祈りだった、と。
「だが、男は知っていた。人は老い、美しさは失われる。男は、彼女の永遠の輝きを求め、禁断の果実…不老長寿の実を探す旅に出た。必ず戻ると、この人形に誓いを残して…」
その熱のこもった語りに、失笑していた審査員たちも、次第に身を乗り出して聞き入っている。一人がハンカチで目頭を押さえた。
「――そして、長い、長い年月の果てに、男は戻ってきた。しかし、愛する女の姿はどこにもない。彼女もまた、男を探す旅に出てしまっていたのです。すれ違い、時が二人を分かち、男は絶望の果てに、その魂を天に返したのでございます。愛する人のいない永遠など、意味がないと悟って…」
カイの声が、悲しみと共に劇場に響き渡る。
「そのわずか七日後、奇しくも歌姫がこの劇場に戻って参りました。しかし、彼女を待っていたのは、冷たくなった男の姿と、テーブルに置かれた一つの赤い果実…」
「彼女は悟ってしまった。『ああ、この人は私を永遠にするために旅立ち、叶わぬと知ってこの実で命を絶ったのだ』と。…ええ、みなさんのご想像通り。彼女は泣きながら、後を追うように、その実を口にしたのでございます…!」
語り終えたカイは、静かに目を閉じた。
会場のあちこちから、鼻をすする音が聞こえる。
物語は完全に、聴衆の心を支配していた。
一呼吸おいて、カイはゆっくりと目を開く。
今度は力強く、希望に満ちた声で言った。
「…悲しい物語だ、と、そう思いますか? いいえ、違います! この物語はまだ終わっていない! なぜなら、男が残した実は、毒などではなかったのですから!」
そして、カイは叫ぶ。
「この人形が本当に欲しているのは、金でも思い出でもない! それは…歌姫、あなた自身の永遠だ!」
「歌姫なんてどこにいる!」と会場がざわめく中、カイは審査員席の老婆を真っ直ぐ指さし、大声で語りかけた。
「そこにいるじゃないですか! あなたが、その歌姫でしょう? 男が残した長寿の実を食べた、ただ一人の…!」
これは、カイのハッタリだった。
老婆が自分の話に乗ってくれることに全てを賭けた、無謀な賭け。
他の審査員たちが「何をバカなことを」と呆れる。
全ての視線が老婆に集まる。
老婆は、船上でのカイの優しさと、この土壇場で見せた彼の心意気、そして何より、観客としてこの上なく面白い「物語」に心を動かされていた。
彼女は、この面白い若者の「賭け」に、最高の形で乗ることを決めたのだ。
ふっ、と老婆の口元が緩む。
「…小僧、一つ間違いがある」
老婆は静かに立ち上がり、その言葉は威厳を持って響き渡った。
「あれはただの長寿の実じゃない。――不老長寿の実だよ」
その瞬間、老婆の姿が淡い光の粒子に包まれた。
腰は伸び、皺は消え、白髪は艶やかな黒髪へと変わっていく。
そして、光が収まった時、そこに立っていたのは、舞台上の人形と瓜二つの、時を超えた美しさを持つ若い歌姫の姿だった。
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