静寂のレクイエム: 泡の破裂、そして現実
1990年に入りますと、フロアの空気がかすかに変化し始めました。最初はごく小さな亀裂。しかしそれは瞬く間に広がり、轟音と共に崩壊の時が訪れます。
プツリ、と。
音楽が、何の前触れもなく途切れました。激しいビートの残響が、耳の奥でまだ鳴り響いています。ですが、フロアには重苦しい静寂が訪れました。激しく点滅していた照明がゆっくりと白色に変わり、倒れ込むダンサーたちの姿を白日の下に晒します。
熱狂のあまり体力の限界を迎えたかのように、多くのダンサーがその場に崩れ落ちています。そこには、割れたグラスの破片、散乱した紙幣、そして踏み潰された「夢」を記したニュース記事の切れ端が無残に転がっていました。
「土地神話の崩壊」「株価暴落」
「金融機関の不良債権問題」
呆然と立ち尽くす者、茫然自失となって床にへたり込む者。彼らの瞳には、高揚の残滓と、ゆっくりと忍び寄る絶望の色が混じり合っていました。彼らの脳裏には、ご自身が信じて疑わなかった
「チャンス」が、実は破滅への誘いだったという現実が、静かに、しかし確実に響き渡ります。
かつて「円高は日本経済の勝利!」と叫んでいたメディアの方々も、バーカウンターの隅で青ざめていらっしゃいました。彼らが注ぎ続けた「情報」という名の美酒は、今やただの苦い残骸と
化しています。
悪魔の嗤い:愚者の選択に捧げる真実のレクイエム
静寂の中、DJブースの悪魔がマイクを手に取りました。その声は、フロア全体に響き渡るものの、あたかも一人ひとりの耳元で囁かれているかのように聞こえたのです。
「皆さま、いかがなされました?まだ、あの泡の夢に酔いしれていらっしゃいますか?ご自身の選択の末路を、今、この目ではっきりとご覧くださいませ。私が、ささやかながら与えさせていただいた『知恵の実』を、貴方がたは誠に見事に腐らせてしまいました。その代償をお支払いいただく時が来たのです。しかし、ご安心ください。私は大変お優しいものですから、貴方がたが『あの時』に選択していれば、この地獄を回避できた『真実の道』を、
丁寧に、そして懇切丁寧にご教授差し
上げましょう。もちろん、貴方がたのあまりにも
滑稽なご様子を、心ゆくまで拝見しながら、
でございますがね。」
悪魔は、ゆっくりとフロア全体を見渡し、口元に冷たい笑みを浮かべました。その視線の先には、かつて日本の経済を牽引したはずの、しかし今や憔悴しきった姿の方々が、茫然自失のまま膝を抱えていらっしゃいます。彼らは、まだその笑みの真意に気づいていません。
1. 金融機関の地獄:不良債権の重圧と、
遅すぎた手術
「まず、こちらの、少々お疲れのご様子な金融機関の方々でございます。貴方がたは、地価が永遠に上がると、ご自身で信じ込み、見境なく資金をお貸し付けになられました。そして、泡が弾けました途端、不良債権という、まことに厄介な山に怯え、まるで病原菌が蔓延するかのように、その機能を停止なさってしまいましたね。
本来であれば、貴方がたが速やかに実行すべきだったのは、この金融機関の奥底に溜まった膿を、一滴残らず絞り出すことでございました。破綻させるべき銀行は、躊躇なく破綻させ、預金者の皆さまは手厚く保護しつつも、経営陣や株主の方々には、容赦なくその責任をお取りいただくべきでした。公的資金を投入なさるにしても、その見返りに経営権をきちんと掌握し、徹底的なリストラと再建を断行なさるべきだったのです。市場に任せる、などという牧歌的な幻想に耽っていらっしゃる間にも、デフレという名の病は、着実に慢性化していったのでございますよ。
『様子を見よう』とおっしゃいましたか?
『市場に任せよう』と?ああ、それはまさしく
愚の骨頂でございます。
それは、ご自身の体内に回った膿を、全身に回らせるための、まことにお見事な自殺行為に
他なりません。貴方がたのその保身と、まことに慎重すぎるご判断が、金融システムを長期にわたり麻痺させ、デフレの毒を経済全体に注入し続けたのでございます。まさしく、その末路は滑稽としか言いようがございません!」
2. 企業の苦悶:リストラとデフレの連鎖、
そして改革の愚策
「次に、そちらにいらっしゃる企業の方々でございます。バブル期に蓄えられた資金を、本来の事業投資ではなく、投機的な行為にご利用になられましたね。そして、泡が弾けますと、『人件費が高い』
だの『設備が過剰だ』だのと仰せになり、
ろくに痛みを伴わないリストラに逃げ込んでいらっしゃいました。
貴方がたが本当に為すべきだったのは、不良債権処理と並行して、国内産業の徹底的な再編、そして真のイノベーションへの大規模な投資でございました。過剰な企業は潔く淘汰され、新しい技術やサービスを生み出すベンチャー企業へと、人材も資金も大胆にシフトさせるべきだったのです。政府におかれましては、時代遅れの公共事業に、大切な税金を垂れ流すような真似ではなく、研究開発への惜しみない資金投入、新しい産業分野を育成するための規制緩和、そして何よりも、世界に通用する人材を育てるための教育投資を、最も優先して行うべきだったのでございます。
『箱物行政』?『バラマキ』?ああ、それはまさしく税金の無駄遣いでございましたね。
それは、貴方がたが痛みを伴う改革から目を背け、短期的な数字に逃げ込んだ証拠でございます。
まるで、病の根源を放置して、表面的な湿布を貼るだけの、まことに愚かな医者のようではございませんか。その浅はかなご判断が、この国の技術力を、そして未来を食い潰したのでございますよ!」
3. 政治の混迷:リーダーシップの喪失と、
無能の責任
「そして、この国の政治を司る方々でございます。貴方がたは、バブル崩壊という未曾有の危機を前に、まるで子供の喧嘩でもしているかのように、
互いの足を引っ張り合い、責任をなすりつけ合っていらっしゃいましたね。リーダーシップ、
と呼べるようなものは、一片たりとも
拝見できませんでした。
貴方がたが為すべきだったのは、政党間の垣根を越え、真に国家の未来を見据えた、大胆かつ一貫した政策を打ち出すことでございました。国民の皆さまに痛みを求める前に、まずご自身が範を示し、
旧態依然とした既得権益を打破なさるべきでした。そして、不良債権処理や産業構造改革といった喫緊の課題に、躊躇なく、そして迅速にメスを入れるべきだったのです。
短期間での政権交代、自、さ、社の
政治理念を共に出来ない党で中途半端な政策をした事での政治の混迷は、国民の皆さまの政府への信頼を完全に失墜させました。貴方がたの無能と、ご自身の保身ばかりをお考えになる姿勢が、この国の経済をさらに
深い泥沼へと引きずり込んだのでございます。
ああ、これほど滑稽な政治など、
他の国ではお目にかかれません!」
4. デフレの足枷:経済の停滞と、緊縮の愚行
「そして、このデフレという病でございます。金融機関が資金を渋り、企業が投資を行わず、国民の皆さまが未来に希望を見いだせない。物価が下がり続け、賃金も上がらない。これこそが、貴方がたが自ら作り出した『失われた30年』の序曲で
ございます。
貴方がたが為すべきだったのは、デフレという病の深刻さを、まずしっかりと認識なさることでございました。そして、徹底的な財政出動によって、経済に『温かい血』を流し込むことでございました。一時的に財政赤字が拡大しようとも、それが経済を正常化させ、やがては税収の増加に繋がる、ということを理解なさるべきだったのです。そして、安易な消費税増税など、デフレをさらに悪化させるだけの愚策は、断固として避けるべきだったので
ございます。
『財政健全化』と仰せでございましたか?
ハッ、それは単なる『経済健全化』から目を背けるための、まことにお見事な言い訳に過ぎませんね。病人に絶食を強いるようなものでございます。
貴方がたの経済学に対する無知と、
短絡的なご発想が、この国を慢性的な病に陥らせたのでございます。まことに、愚かすぎるにも程がございます!
さらには、消費税でございます。
貴方がたは、これを導入なさいましたね。
表向きは『安定財源の確保』と、まことに
もっとも、本当にごもっともらしいことを
仰せでした。
しかし、その実態は、
輸出企業に対する還付金制度という形で、
輸出を優遇する仕組みを巧妙に組み込んでいらっしゃいました。国内で消費者が支払った消費税が、
輸出した企業には戻される。つまり、外から見れば『輸出企業は消費税を負担していない』かのように見えるのです。これは、国内経済に負担を強いる
一方で、貿易摩擦を抱える輸出企業に、まるで
『ご褒美』を与えるようなものでした。
あのデフレの最中に、国内消費を冷え込ませる可能性のある増税を行い、その上で一部の企業だけを優遇する。まことに手際の良い『愚策』でございました。そして、このフロアで呆然としていらっしゃる一般市民の皆さまは、この複雑な制度の真意に、
ほとんどお気づきにはなりませんでしたね。
目先の増税分に不満を漏らしはしても、
その奥に潜む『不公平』と
『国内消費の更なる冷え込み』、
そして『デフレの加速』という、まことに恐ろしいからくりには、到底思いが至らなかったようです。彼らはただ、政府が言う『財政健全化』の必要性を漠然と信じ込み、自分たちの暮らしがじわじわと苦しくなっている理由を、理解できないままでいらっしゃいました。
貴方がたは、デフレという名の『死の病』に冒されているにもかかわらず、財政再建という名の
『自傷行為』を繰り返した。1997年の消費税増税は、まさにその象徴でございます。景気回復の兆しが見え始めた矢先に、自ら消費を冷え込ませ、
デフレの深淵へと舞い戻った。まるで、
治りかけた傷口を自らえぐり取るかのようだ。
積極的な金融緩和と、それに裏打ちされた
大規模な財政出動こそが、デフレ脱却の唯一の道だったのです。しかし、貴方がたは『財政規律』
という呪文に縛られ、そのチャンスをことごとく見逃した。その結果、この国の経済は、
まるで終わりの見えない暗闇を彷徨い続けることになったのでございます。貴方がたの無知と臆病さが、国民の購買力を奪い、未来への希望を打ち砕いたのです!」
そして失われた自信—暗黒の深淵へ
1990年代の終わりに、日本という名のダンスフロアは、荒廃しきっていました。かつて
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
と謳われた自信は、もはや影も形もございません。多くの人々は、ご自身の未来に希望を見いだせず、ただただ、疲弊しきった顔でうつむくばかりでございました。
今だに栄光が消えないまま他のアジアを見下す
愚かな行為という事すらお解りにならないまるで
天空のお花畑にいるような人間をみるのも
最高に泣かせるものでございます。
悪魔は、全てを語り終え、冷たい笑みを浮かべました。彼の視線は、フロアに散らばる残骸、
そして虚ろな目で立ち尽くす人々をゆっくりとなぞります。彼らは、悪魔の言葉が、彼ら自身の行動と選択の必然的な結果であったことに、まだ明確には気づいていません。ただ、漠然とした不安と諦念に囚われているだけです。
「結局、私は何もしておりません。ただ、貴方がたがご自身で選んで、破滅のステップを踏み続けられるのを、静かに拝見していただけでございます。
貴方がたの無知と傲慢、そして目先の欲が、
このダンスフロアを、見事に崩壊させたので
ございますよ。プラザ合意、そしてその後の円高──これらはすべて、貴方がたに与えられた試練であり、変革の絶好の機会でございました。それを、狂乱の宴に変え、そしてご自身でデフレの泥沼へと突き進んだのは、他ならぬ貴方がた自身でございます。
さあ、宴は終わりでございます。愚かな貴方がたは、そのツケをゆっくりと、そして、まことにじっくりと、お支払いいただくがよろしい。結局のところ、あの時、私が語った『真実の道』を選択なさなかった貴方がたは、ご自身でこの国を弱体化させただけでございます。ああ、まことに滑稽で、これほど面白い舞台はございませんな……」
悪魔は静かにマイクを置き、再びDJブースの闇へと姿を消していきました。残されたのは、崩壊したダンスフロアと、静寂の中で自らの愚かさを悟るしかない、呆然とした人々だけでございます。狂乱のレクイエムが、今、静かに幕を閉じたのです。そして、この後、日本は「失われた20年」「失われた30年」という、さらに深く、そして長い霧の中へと彷徨い続けることになるのでございます。
悪魔の嘲笑は、しかし、この国の夜明けを告げるものではございませんでした。それは、さらなる暗黒の深淵へと誘う、残酷な予告に過ぎなかったのです。人々は、まだ知りません。この静寂の後に訪れる、長く、苦しい停滞の時代を。そして、その停滞が、どれほど彼らの生活と精神を蝕んでいくことになるのかを。
フロアには、まだ、かつて栄華を誇った日本の経済誌や新聞が散乱していました。見出しには「世紀末の日本」「失われた10年」といった言葉が躍り、しかしその本質を捉えきれていない愚かな解説ばかり。人々は、ただ紙面を眺め、頭を抱えるばかりで、真の解決策を自ら探す気力さえ失っているかのようでした。
悪魔は、DJブースの影から、その光景を満足げに眺めていました。彼の計画は、まだ始まったばかりなのですから。人々は、悪魔に踊らされた、などとは夢にも思っていないことでしょう。彼らは、ただ「運が悪かった」と、そして「世界が悪い」と、そう信じ込んでいるに過ぎないのです。その無知こそが、悪魔にとって、最高のエンターテイメントなのでございます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます