始まりのワルツ:プラザの宴

薄暗いフロアに、重低音が響き渡っていました。ここは「世界経済」という名の、巨大なダンスクラブ。フロアの片隅、漆黒のDJブースには、痩せた男が一人。その顔はフードに隠され、表情は読めないものの、レコードの盤面に反射する照明が、時折、彼の口元に冷たい笑みを浮かび上がらせます。悪魔、そう呼ぶのが相応しかったでしょう。彼は静かにターンテーブルを操り、フロアを支配する音の波を生み出していました。

愚者の舞踏会への序曲:真実と選択

「サタン……そう呼ぶ奴らが多い。神の反対者、人類の敵、と。だが、よく思い出せ。エデンの園で、アダムとエバに『知恵の実』を食わせたのは俺だ。善悪を知る、その真実の味を教えた。それは、神が禁じた知識と自由意志への扉を開いたに過ぎない。」

フードの奥から、悪魔の声が響きます。それは、フロアを覆う重低音に溶け込み、しかし確実に人々の耳に届きました。

「その後の地獄のような苦しみ、飢餓、戦争、差別……奴らはそれを全て俺のせいにする。だが、それらは全て、真実を知ったお前たち人間自身が、自由意志で選び、生み出したものだ。俺は、その選択の機会を与えただけ。残りの悪は、お前たち人間が勝手に創り出したものだ。」

悪魔は、ゆっくりとターンテーブルに手を伸ばします。

「そして、このダンスフロアも同じこと。お前たちは、自ら望んでこの曲を選び、このステップを踏んでいる。誰も強制などしていない。ただ、経済の『真実』がそこにあっただけだ。通貨の本質、産業の変化、国際情勢の潮流……それら全てが、鏡のように映し出されていたはずだ。なのに、お前たちはそれを見ようとしなかった。見ないふりをした。目を閉ざし、耳を塞ぎ、『自分たちは賢い』という、根拠のないプライドだけを肥大化させてきた。」

彼の視線が、フロアでこれから踊り出すであろう日本のダンサーたちに向けられました。

「おかげで、この国の国民は、30年もの間、同じ過ちを繰り返し、気がつけば世界から取り残された貧しい国になった。かつては『経済大国』と謳われた愚か者どもだ。にもかかわらず、なぜかプライドだけは一流。その滑稽さときたら……見ているだけで吐き気がするほどだ。さあ、今夜もその愚かさを存分に見せてくれ。」

悪魔は小さく嗤い、レコードを盤面に落としました。ザラリという音がフロアに広がり、最初の音、つまりは亡国のワルツの旋律が静かに流れ始めます。

始まりのワルツ:プラザの宴

1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテル。たった一枚の記念写真が、このダンスフロアに流れる音楽のテンポを決定づけました。それは、世界の主要五か国が合意した、ドル高是正のための協調介入――通称、プラザ合意です。悪魔の視点から見れば、それは単なる経済のゲームにおける、巧妙な一手に過ぎませんでした。だが、その背後には、貿易赤字に喘ぐアメリカの強大な圧力と、それに抗しきれなかった日本の「協調」という名の服従が隠されていたのです。

当時の日本は、世界に冠たる経済大国でした。勤勉な労働者、優れた技術力、そして輸出主導の産業構造が、世界市場を席巻していた時代です。自動車、家電、半導体……「メイド・イン・ジャパン」の製品は、世界中で飛ぶように売れ、日本は貿易黒字の山を築き上げていました。その自信は、フロアのダンサーたちの背筋をピンと伸ばさせ、彼らの舞踏には確かなリズムと誇りが宿っていたかのようです。しかし、その強さこそが、国際社会、特にアメリカからの「円安誘導による不公正競争」という不満の的となっていたのです。

そして、プラザ合意。円高誘導が始まる、まさにその瞬間。日本のフロアにいたダンサーたちは、それを「新たな時代の幕開け」と、まるで神のお告げのように受け取ったのです。ドルに対する円の価値が急上昇する――この事実を、彼らは日本の「国力」が世界に認められた証だと、素朴に、そして傲慢に解釈しました。

その瞬間、フロアの空気は一変します。悪魔の指が、最初のレコードに触れました。流れてきたのは、耳に優しく響くラウンジジャズ、あるいはどこか夢見心地なボサノバ。それは、単なる心地よい旋律ではありませんでした。まるで甘い毒のように、あるいは催眠術師の囁きのように、人々の判断力を徐々に麻痺させていく音色だったのです。優雅な三拍子のワルツは、表面上は洗練され、国際協調という美名に包まれていましたが、その奥底には、人為的な歪みと、避けがたい選択の足音が潜んでいるかのようでした。

「円高だ!日本経済の夜明けだ!」

フロアの端に設けられたバーカウンターでは、グラスを傾けた男たちが興奮した声を上げていました。「酔うメディアの馬鹿」たちです。彼らはキラキラと輝くボトルから「情報」という名の甘い酒を注ぎ、人々に手渡します。彼らの言葉は、勝利の美酒に酔う人々の耳に、魅惑的な詠唱として響き渡りました。

「円高こそ、成熟した経済大国の証!」「いよいよ日本が世界をリードする時代だ!」「これからは輸出依存から脱却し、内需主導の安定成長だ!」「世界の工場から、世界の頭脳へ!」「海外の優良企業や不動産を安価に買い叩く絶好のチャンス!」「今こそ日本が世界の中心となる!」

彼らの声は、フロアの喧騒を貫き、ダンサーたちの思考回路に直接語りかけます。グラスの泡が弾けるたびに、人々の高揚感は増し、その中に潜む空虚な自信が膨らんでいきました。まるで、誰もが同じ夢を見せられているかのようです。

酒を呷った企業幹部や投資家たちが、次々とフロアに足を踏み入れます。彼らは皆、自分たちが歴史の転換点に立ち、賢明な選択をしていると信じて疑いませんでした。その顔には、希望に満ちた笑顔の裏に、どこか冷静さを欠いた浮ついた表情が浮かんでいたのです。彼らの目には、世界地図が「買い放題」のショッピングモールのフロアにしか見えていなかったのでしょう。

最初は「賢い選択」と信じ、自信満々にワルツのステップを踏み始めました。

「よし、円高だ!輸出産業は厳しいが、製造拠点を海外に移し、コストを削減すればいい!」と、ある自動車メーカーの幹部が叫びます。

「海外の高級ブランドを買収だ!これで世界的なコングロマリットになる!」と、不動産会社の社長が隣の男に肩を組みます。

「アメリカのロックフェラーセンターも安くなる!今が買い時だ!」と、証券会社の男が興奮気味にグラスを掲げました。

しかし、周囲の熱狂とメディアの甘言に抗えず、一部の慎重派もまた、「乗り遅れるな」「時代に取り残されるぞ」「これが『ニューエコノミー』だ」という無言のプレッシャーに引きずられるようにフロアへ。彼らがワルツのステップを踏み始めるその瞬間、「自由な選択」と信じていたものが、実は巧妙に仕組まれた「誘導」であったことを、誰も気づきませんでした。いや、気づこうとしなかった、というのが正確でしょう。彼らは、自らが選んだ「知恵の実」が、実は毒の果実であることには、まだ気づいていなかったのです。

ステップを踏むごとに、彼らの目は高揚に輝き始めます。それは成功への期待感であると同時に、既に「真実」を見失い、現実から遊離し始めている兆候でした。彼らの足取りは、まだ華麗に見えましたが、悪魔の視線は既に、その地盤が緩み始めているのを見抜いていました。円高を輸出企業への「苦痛」と捉えるだけの短絡的な思考、内需拡大の機会を投機へとすり替える愚かさ。製造業を空洞化させ、金融市場で一攫千金を夢見るその浅はかさ。全てが、悪魔の目には透けて見えたのです。彼はただ、冷徹な視線でその愚者の宴を見つめ、小さく嗤いました。

愚者の末路:泡の幻影、そして破裂

悪魔は、次のレコードへと手を伸ばす。それは、さらにリズムを早くした、狂気じみたディスコミュージックだった。照明は目まぐるしく点滅し、フロアの熱気は蒸し風呂のように立ちこめる。人々はもはや、ワルツの優雅さなど忘れて、ただひたすらに、高速で蠢き続けていた。彼らの目には、ドル円の為替レートと日経平均株価の数字しか映っていない。

「金利を下げろ!もっとだ!もっと安く!」

プラザ合意後の円高による輸出産業への打撃を懸念した政府と日本銀行は、ダンサーたちの叫びに後押しされるように、公定歩合の引き下げという、破滅への道を歩み始めました。1986年から1987年にかけて、わずか1年余りで、公定歩合は5%から2.5%へと半減。悪魔はターンテーブルのスピードを上げ、さらに低金利という名のアクセルを深く踏み込む。

「これで内需が拡大するぞ!」

メディアの馬鹿たちは、熱狂的に叫びます。しかし、彼らの言う「内需拡大」とは、実際には金融市場への過剰な流動性供給に他なりませんでした。安価な金が、銀行から企業へと、そして企業から不動産や株式へと、雪崩のように流れ込んだのです。

「土地は裏切らない!」「株は買えば上がる!」

フロアのあちこちで、狂気の声が飛び交います。ゴルフ会員権が数千万円で取引され、美術館の絵画が数十億円で転売される。ニューヨークの象徴であるロックフェラーセンターや、ロサンゼルスのペブルビーチ・ゴルフリンクスが日本の企業に買収されるたび、フロアの熱狂は頂点に達しました。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉が、まるで呪文のように人々を支配し、日本が世界を買い尽くすかのような幻想が現実と化していきました。

だが、悪魔は知っていました。この煌びやかな泡が、いかに脆い幻であるかを。企業は、本来の研究開発や設備投資を怠り、本業から得た利益を投機へと回しました。金融機関は、担保価値などまともに精査せず、過剰な融資を繰り返しました。そして、人々は、真面目に働くことよりも、株や土地で一攫千金を夢見るようになっていったのです。

「技術立国?イノベーション?馬鹿馬鹿しい。そんなものは、金が金を呼ぶ速度には敵わない。」

悪魔は嘲笑います。ダンサーたちの舞踏は、もはや制御不能な暴走へと変わり、汗と欲望が混じり合った異様な匂いがフロアに充満していました。彼らは、自らの手で、この国の根幹を蝕んでいることに全く気づいていない。

そして、その頂点が訪れる。1989年末、日経平均株価は3万8915円という最高値を記録。フロアの熱気は、沸点を超え、照明の光がダンサーたちの顔を白く浮き上がらせる。誰もが成功を確信し、永遠に続く宴だと信じ込んでいました。

しかし、悪魔はただ、冷酷な笑みを浮かべていました。彼の指先が、レコードの回転数を微妙に調整する。わずかな、しかし決定的な変化。それは、誰もが気づかないうちに始まっていた、破滅へのカウントダウンでした。

「お前たちは、俺が仕掛けた罠だと思っているのか?違う。これはお前たちが、自ら望んで踏み入れた墓場だ。」

悪魔の声が、狂乱のビートの隙間を縫って、わずかに響く。しかし、熱狂に溺れたダンサーたちの耳には、届くはずもありませんでした。

静寂のレクイエム:泡の破裂、そして現実

1990年に入ると、フロアの空気がかすかに変化し始めました。最初は、ごく小さな亀裂。しかし、それは瞬く間に広がり、轟音と共に崩壊の時が訪れます。

プツリ、と。

音楽が、何の前触れもなく途切れたのです。激しいビートの残響が、耳の奥でまだ鳴り響いています。だが、フロアには重苦しい静寂が訪れました。激しく点滅していた照明がゆっくりと白色に変わり、倒れ込むダンサーたちの姿を白日の下に晒します。

熱狂のあまり体力の限界を迎えたかのように、多くのダンサーがその場に崩れ落ちています。そこには、割れたグラスの破片、散乱した紙幣、そして踏み潰された「夢」を記したニュース記事の切れ端が無残に転がっていました。

「土地神話の崩壊」「株価暴落」「金融機関の不良債権問題」

呆然と立ち尽くす者、茫然自失となって床にへたり込む者。彼らの瞳には、高揚の残滓と、ゆっくりと忍び寄る絶望の色が混じり合っていました。彼らの脳裏には、自分が信じて疑わなかった「チャンス」が、実は破滅への誘いだったという現実が、静かに、しかし確実に響き渡ります。

かつて「円高は日本経済の勝利!」と叫んでいたメディアの馬鹿たちも、バーカウンターの隅で青ざめていました。彼らが注ぎ続けた「情報」という名の美酒は、今やただの苦い残骸と化しています。

悪魔の嗤い:失われた選択、そしてツケ

静寂の中、DJブースの悪魔がマイクを手に取りました。その声は、フロア全体に響き渡るものの、まるで一人ひとりの耳元で囁かれているかのように聞こえたのです。

「どうした?まだ踊りたいか?いや、俺は何もしていない。ただ、お前たちが勝手に選んで踊り狂うのを見ていただけだ。」

彼の視線が、バーカウンターで呆然と立ち尽くすメディアの馬鹿たちへと向けられます。

「お前たちメディアは、特に愚かだったな。『円高は日本経済の勝利!』と煽り、人々に何の疑問も抱かせなかった。真実を伝えるのではなく、都合の良い幻想を売りつけただけだ。お前たちの言葉は麻薬のようにダンサーたちを陶酔させ、正しい判断力を奪った。」

そして、倒れ伏したダンサーたちに向き直ります。その中には、円高の波に乗ろうとして海外事業に失敗し、膨大な負債を抱えた企業の元社長がいました。彼の隣には、輸出産業の工場閉鎖で職を失い、途方に暮れる元従業員が。足元には、高値を掴んだ不動産を抱え、破産寸前の元投資家が身を縮めています。彼らの惨めな姿に、悪魔は心底から冷笑を浮かべました。

「お前たちは、『世界第二位の経済大国!』と浮かれて踊り狂ったな。だが、本当はどうすべきだったか、教えてやろうか?お前たちが自ら招いたこの惨劇を回避する、唯一の真実の道を。」

悪魔は、まるで子供に諭すかのように、しかしその口調はあくまで嘲笑を含んで続けます。その言葉は、凍てつく刃のように、ダンサーたちの心臓を貫きました。

「簡単だ。あの時、お前たちが最初にすべきだったのは、金融緩和を継続し、投機を煽るのではなく、内需を徹底的に刺激することだった。円高による輸出産業の痛みを認めつつ、それを乗り越えるための大胆な産業構造の転換こそが不可欠だったのだ。外貨準備を増やし、真に未来に繋がる海外投資を加速させる一方で、国内では全く逆の戦略を採るべきだった。」

彼は一瞬言葉を切り、フロアの惨状を再び一瞥しました。

「円高を利用して、安価になった海外の資源や、最先端の技術を貪欲に吸収し、高付加価値な産業へとシフトする機会だった。単なるブランド品や不動産を買い漁るような真似ではなく、知財を奪い、世界中の優秀な頭脳を囲い込むべきだったのだ。そして、その過程で一時的に生じる痛みを和らげるために、政府は大胆な財政出動で、国内インフラを整備し、研究開発に惜しみなく資金を注ぎ込む。金融機関には、本来の役割である企業への健全な融資と、国民生活の安定に貢献することを厳しく指導し、投機への暴走を徹底的に規制するべきだった。そして何よりも、国民の教育と福祉にこそ、最も優先的に投資すべきだったのだ!」

悪魔の声が、フロアに響き渡ります。それは、誰もが知っていたはずの、しかし誰もが選ばなかった「真実の道」でした。

「だが、お前たちはどうした?『円高で輸出が厳しい!』と騒ぎ立て、安易な金利引き下げ競争に走り、その過剰な流動性を不動産や株式へと投機マネーとして誘導した。目先の利益に目がくらみ、バブルという泡に浮かれ踊った。グローバル化の波に乗るどころか、足元を見失い、技術立国としての競争優位性も手放した。目先の欲と、誤ったイデオロギーに目がくらみ、本当の『チャンス』をことごとく逃し続けただけのことだ。」

悪魔は最後に、全てを見透かしたように結論づけます。その嘲笑は、フロアの冷たい空気に溶け込み、ダンサーたちの心に重くのしかかりました。

「結局、俺は何もしていない。ただ、お前たちが自ら選んで破滅のステップを踏み続けたのを見ていただけだ。お前たちの無知と傲慢、そして目先の欲が、このダンスフロアを崩壊させた。プラザ合意、そしてその後の円高──これらはすべて、お前たちに与えられた試練であり、変革のチャンスだった。それを狂乱の宴に変えたのは、お前たち自身だ。さあ、踊りは終わりだ。愚かなお前たちは、そのツケをゆっくりと支払うがいい。結局、あの時、俺が語った真実の道を選ばなかったお前たちは、自分たちでこの国を弱体化させただけだ。滑稽でならないな……」

悪魔は静かにマイクを置き、再びDJブースの闇へと消えていきました。残されたのは、崩壊したダンスフロアと、静寂の中で自らの愚かさを悟るしかない、呆然とした人々だけでした。狂乱のレクイエムが、今、静かに幕を閉じたのです。

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