第6話
次いでジェロムが顔を上げた時、彼の蒼い双眸には確固たる意志の力が灯っていた。
ブランシェーヌは満足したように頷いてから、踵を返した。大食堂を去る彼女の後に、手燭を掲げた侍女が音もなく付き従ってゆく。
大食堂内は再び、暖炉の残り火だけが支配する薄闇の空間と化した。
しかし今のジェロムは、先ほどまでの悔恨の色をその面から消し去っている。彼はゆっくり立ち上がると、まだ目尻に残る涙を手の甲で全て拭い去り、口元をぎゅっと結んだ。
(そうだよ……本当にその通りだよな)
ジェロムは木窓の外に広がる濃い闇の、更に向こう側へじっと目を凝らした。遥か東方、ブロワへと続く大地が稜線となって、漆黒の天と融合している。
その先には、尊厳王フィリップ二世領するフランス王国の領土が迫りつつあるのだ。
(申し訳ありません、パトリス殿。僕は……)
心の中で、ジェロムはその先の言葉を飲み込んだ。
ブランシェーヌのいう通り、呑気に泣いている暇はないのである。
獅子心王リチャード一世は十字軍遠征を終え、ドイツでの虜囚期間を経てから何とかイングランドに戻った。その後彼は大陸側に広がる英領、いわゆるアンジュー帝国の地を巡り、フランスの尊厳王フィリップ二世との戦いに身を投じていた。
ルゥレーンはそのアンジュー帝国の中でも、フランス王国の拠点のひとつブロワとは、目と鼻の先の位置にあるといって良い。獅子心王と尊厳王の戦いは未だこの地には及んでいないが、いずれ遠くない将来、戦乱の炎がルゥレーンにも到達するだろう。
ジェロムは再度、目元をごしごしと乱暴に拭ってから大食堂の出入り口に向かった。
デュガンが遺体回収と現場検証を終えて戻るのを待つ必要はない。
自身が領するメロドゥワ村の邸宅に戻り、次の任務に備えて武具を整えておく。騎士は命令ひとつで、いつでも全力を尽くせるようにしておかねばならないのだ。
廊下に出たところで、ジェロムは足を止めた。
彼の行く手に、城内用のローブに身を包む複数の影が立ちふさがっていたのである。ひとりが手燭を携えており、その集団が何者であるのか、ジェロムはすぐに理解した。
「これは、マルセラン殿」
ジェロムの呼びかけに、人だかりの中心に佇む長身の男が応じて一歩、進み出てきた。
デュガンほどの途轍もない巨躯とは比較にならないが、それでもジェロムより頭ひとつ分ほど背が高い人物であった。
マルセラン・ジェルキエール。
ルゥレーン伯に臣下の礼を取る騎士である。いってみれば、ジェロムの同僚である。
彼は闇よりも更に濃厚な色合いを誇る黒い瞳で、見下した様な視線を投げかけてきていた。
「パトリス殿を見殺しにした卑劣漢にしては、随分晴れやかな顔ではないか」
露骨なまでの厭味なひとことに、ジェロムはむっと押し黙った。
マルセランの周囲を取り巻く彼の家士兼私兵達も、主人の嘲笑が伝染したかの如く、それぞれが馬鹿にした調子で唇の端を吊り上げている。
ルゥレーン伯臣下の騎士の中では、ジェロムは最も新米であった。
騎士の誇りや騎士道といったものが、まだ確立されていない時代である。こういう場合、先輩格にあたるマルセランに対しては黙ってやり過ごす以外に方法はなかった。
ジェロムは一礼して、マルセラン達の脇をすり抜けようとした。が、マルセランの腕が伸びてきて、ジェロムの肩をぐっと握る。こうなると、ジェロムとしても足を止めざるを得ない。
「何か御用で?」
手燭の灯りだけという薄暗い空間の中、ジェロムは強張った表情で静かに問いかけた。
マルセランはそれまでの小馬鹿にした笑みを消し去り、据わった目つきでジェロムのまだ幼さを残す面をじろりと睨みつけてきた。
蛇を思わせる陰険な表情である。
「貴様に、城の皆を代表して意見を伝えてやろう」
「意見?」
小首を傾げてジェロムが聞き返した刹那、彼の腹に鈍痛が走った。
堪え切れずに両膝から崩れ落ちたところに、更なる衝撃が襲う。ジェロムは横っ面にも蹴りだか拳だかの一撃を食らって、廊下の壁に叩きつけられた。
腹部の鈍痛が吐き気を誘う上に、頭の中ではぐわんぐわんと鐘が鳴る様な響きが続く。
それでもジェロムは意志の力で自らを奮い起こし、手燭の茫漠とした灯り中でにやにやと笑うマルセランを睨みつけた。
「な、何を……」
ジェロムはようやく、唸るようにして抗議の声を搾り出した。
そこへ、マルセランの厚底のブーツが踏み下ろされてきて、ジェロムの脇腹をじりじりと圧迫した。
「姫様の幼馴染だからといって調子に乗るなよ、ジェロム」
マルセランの勝ち誇った声に、しかしジェロムは苦痛の呻きでしか応じられない。マルセランは酷薄そうな唇の端を吊り上げ、踏みつける足に一層の力を込めてきた。
「貴様がパトリス殿を見捨てて、尻尾を巻いた事実は変わらん。剣術鍛錬会で俺に勝った腕は認めてやるが、所詮貴様はそれだけの男だ。立場をわきまえるが良い」
「ち、違う、僕は」
ジェロムは反問を許されなかった。
マルセランの部下達が一斉に殴る蹴るの暴行を加え始め、最早議論どころではなくなってしまったのである。ジェロムは両腕で頭を抱えるようにして庇い、全身を小さく縮めて、連打の嵐に耐えるしかなかった。
(そうじゃない! 僕は……!)
必死に堪えながら、ジェロムは心のうちで叫ぶ。
僕は逃げたのではない、ただ、騎士として不甲斐なかっただけだ――しかしその一方で、そんな弁解など、結局はただのいい訳に過ぎないのではないかと断罪する声が、自分自身の中にあった。
あの時、どうすれば良かったのか。
集団暴行の嵐に見舞われる間も、ジェロムの自問は尽きなかった。
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