第5話
城主席から落ちてくる気遣いの視線と、左右から浴びせられる批難の視線。
その合間で鬱屈とした感情を押し殺しているジェロムであったが、そんな彼の思いにはまるで気づかぬ様子でラヴァンセン公がブランシェーヌの座す方とは反対側の後方に振り向いた。
「デュガン、遺体回収と現場検証の為の部隊を編成し、これを指揮してくれ」
「承知仕った」
この時ジェロムは初めて、そこに佇む巨漢の存在に気づいた。
初対面、ではない。それどころかこれまで何度も顔を合わせており、その身上についてもそれとなく聞いて知っている筈であった。
しかしジェロムは、この巨漢が一体いつからそこに居たのかと、思わず勘繰ってしまった。それほどまでにこの人物は空気そのものと化し、超然と仁王立ちになっていたのである。
見慣れない前合わせの黒衣姿で進み出てきたその姿は、さながら影が宙に浮き立ち、ひとりで歩いている様な錯覚を他者に覚えさせる。
癖のある長い黒髪と黒い瞳、そして妙に黄色味を帯びた不思議な肌の色の巨漢を、ジェロムはまるで初めて見るかのように呆然と眺めた。
見上げるほどの巨躯に加え、鍛えに鍛えられた筋肉の峰が全身あらゆる箇所に隆起しており、まさに生ける山脈とも呼ぶべき風貌であった。
彼の登場によって、室内の空気は一変していた。
それまではジェロムに対する批難の嵐ともいうべき攻撃的な視線が充満していたのであるが、デュガンなる漆黒の巨体が現れた瞬間には、畏れにも似た戸惑いの感情が人々の面に張りついていたのである。
「デュガン、場所は分かっておるな?」
「拙者にそれを問われるか、公」
巨漢が苦笑交じりに反問すると、ラヴァンセン公も釣られたように苦笑を浮かべた。
「これは失礼した。情報能力にかけては、この城でそなたの右に出る者はおらんのだったな。して、どれほどの時間を要するかね?」
「左様さな。半日ほど頂戴願いたい」
それだけいい残し、黒衣の巨漢デュガン・スキュルテインは公室を辞した。
ジェロムは、何ともいい難い不快感を覚えた。彼が死ぬ様な思いで逃げ帰ってきたあの地獄を、デュガンはまるで散歩にでも出かけるかの如き気軽さで、ぶらりと覗きに行こうとしているのではないか。
少なくともジェロムには、そのように思えてならなかった。
◆ ◇ ◆
ジェロムは礼服のまま、居館の大食堂に居た。そこは正面玄関から入ってすぐ左手に広がる、土間造りの室である。
食堂とはいっても主な利用者は騎士や城兵、城付きの家士、侍女などといった人々である。
その為、設備にしても構造にしても非常に簡素なもので占められていた。
テーブルや椅子は粗末な木製であり、床も土が剥き出しとなっている為、お世辞にも清潔的とはいえない。
夜を迎え、木窓の外はぬめる様な闇に支配されていた。大食堂内も決して明るい訳ではなく、ジェロムの後方で壁沿いに設置された暖炉に、残り火が僅かな光を放っているに過ぎなかった。
テーブル上で手を組み、ジェロムは何度目かになる溜息を漏らして俯いた。
ラヴァンセン公は、リュドヴィック討伐自体は果たされたのだという。しかしそれはあくまでも結果論だ。
ジェロムにしてみれば、パトリスや城兵達の死に際し、自分ひとりが屍肉の山の中でのうのうと寝惚けていたという事実の方が、遥かに問題であった。
(パトリス殿……)
十年以上、様々な面で世話になったベテラン騎士の名を、胸中で呟いた。
剣の技術を叩き込んでくれたのもパトリスだったし、叙任式に際して推薦人集めに奔走してくれたのもパトリスだった。騎士の何たるかを教えてくれたのも矢張り、パトリスだった。
(僕はこれから一体どうすれば……)
目頭が熱くなった。
何とか必死に堪えていたものが、ひとりで落ち着いた時間を持ってしまったが為に、抑え切れなくなりつつあった。
最初のうちは頬が濡れてもまるで気にせず、テーブル上で組んだ自身の両手を凝視し続けていた。
しかし大食堂の入り口付近に手燭の灯りらしき光点をみとめると、ジェロムは袖口で、両の瞼をごしごしと拭った。
どうせ家士か城兵辺りだろう。だがジェロムは、騎士たるものが安易に人前で涙を見せるものではないという教えを思い出した。彼は両目を真っ赤にしたまま、背筋を伸ばして毅然と座り直した。
やがてその手燭の光がジェロムの座すテーブル近くまで近づいてくると、ジェロムは度肝を抜かれた。彼は慌てて立ち上がると、すぐさま臣下の礼を取った。
現れたのはブランシェーヌであった。
彼女は手燭を持たせた中年の侍女をひとりだけ従えている。公室で見せたあの白い絹のローブ姿のままだった。貴族特有の上品なたたずまいが土臭い大食堂内では随分と浮いて見えた。
「こ、これは姫様……この様な下々の汚らしい場所へお越しくださるとは、その、勿体のうございます」
「あらジェロム。私がそういうことに無頓着なのは、貴方もよくご存知の筈でしょ?」
片膝立ちの姿勢でかしこまるジェロムをからかうように、ブランシェーヌは鈴の音を思わせる弾んだ声で、ころころと笑った。
背中や脇から噴き出してくる嫌な汗を感じながら、ジェロムは気が気ではなかった。泣いているところをブランシェーヌに見られたのではないか――そういう変な焦燥の念が、彼の頭の中を真っ白にしてしまっていた。
ブランシェーヌはジェロムのそんな心の乱れになど気づいた様子もなく、片膝立ちのままで固まっている若い騎士を可笑しそうに眺めていた。が、その柔らかな表情も長くは続かない。
彼女は面を引き締めて、ジェロムの肩に掌をそっと乗せた。
「グラビュ卿は残念でした。私も心から哀悼の意を捧げます」
ジェロムは貴婦人の繊細な指先から伝わる微かな震えを、自身の肩先で感じた。彼は唇を噛み締め、ブランシェーヌの硬い声にじっと聞き入る。
「ですがジェロム。私どもには悲しみに暮れ続けている暇はありません。知っての通り、我がアンジュー帝国はフランス王国との間で既に戦端を開いております。あなたが真にグラビュ卿への想いを抱いているのであれば、今こそ気を強く持ち、騎士の本分を尽くされることを願います。宜しいですね?」
「はい姫様。必ずや仰せのままに」
ジェロムは頭を深く垂れた。
と同時に、ブランシェーヌの心遣いに感謝もした。
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