雨は夕暮れ
増田朋美
雨は夕暮れ
そろそろ暑くなってきて、もうそろそろ半袖が必要かなと思われる日であった。杉ちゃんと、由紀子は一生懸命水穂さんにご飯を食べさせようと、躍起になっていたが、水穂さんはいくら食べさせても、咳き込んで吐いてしまうということを繰り返した。いくら食べないと本当にだめだと言い聞かせても食べないのであった。どうしてこんなにと思っても、食べないのであった。
「あーあ、どうしたらいいもんかなあ。今日も食べたのはたくあん一切れだよ。なんで、たくあん一切れで、終わっちゃうんだろうね。」
杉ちゃんは、大量の食べ物が乗った皿を見つめてそういうのであった。
一方の由紀子は、水穂さんの背中を擦ってあげながら、大丈夫、苦しい?と声掛けをしていた。
「もうどうするんだよ。ご飯を食べないんじゃ、これでは本当に、」
杉ちゃんがそういいかけると、由紀子は思わず、
「その先はやめて!」
と、杉ちゃんに言った。
「そうだけど。」
杉ちゃんはいうが、由紀子は、水穂さんの着物を掴んで涙を流してしまうのであった。
「そうだけどねえ。食べないとどうなっちまうかくらい、口で言えないと、大変なことになるわ。もっとしっかりしなくちゃ。」
杉ちゃんは泣いている由紀子にそう言うが、それと同時に、玄関のドアがガラッと開いた。
「杉ちゃんいる?私、浜島よ。ちょっと相談したいのよ。お願いしてもいい?」
浜島咲の声がした。
「すみません。ちょっと聞いていただきたいことがありまして。」
もう一人の女性の声がした。
「はあ、今頃誰だよう。」
杉ちゃんが言うと、咲ともう一人の女性は、よろしくお願いしますと言いながら、製鉄所の部屋へ入ってきた。製鉄所と言っても鉄を作るところではなくて、ワケアリの女性たちに部屋を貸している、民間の福祉施設である。
「彼女、早川八重さん。あたしのお琴教室に通っている人なんだけどねえ。」
咲は隣りにいる女性を顎で示してそう紹介した。特に変わったことのない、一見すると普通の女性であるように見えるのであるが、
「早川八重さんね、それで今日の相談ってのは、どういうことなのかな?」
杉ちゃんが聞くと、
「実は彼女ね、ご飯が食べられなくて困ってるのよ。杉ちゃんであれば、何かヒントをくれるんじゃないかと思ってさ。それで連れてきたわけ。杉ちゃんならお料理も上手だし、何でも作ってくれるからさあ。」
咲はできるだけ明るく言った。
「そうだったんだねえ。つまり彼女も、摂食障害なわけね。まあねえ、無理やり食べさせても仕方ないからさ、まず、食べ物が美味いってことを、伝えることだろうね。一体どうして、ご飯を食べなくなった?単にダイエット、痩せたいからじゃないよな。」
杉ちゃんはでかい声で言った。
「初めは、ダイエットからだった?」
「すみません。きっかけはダイエットと言うか、担任の先生が、ちょっと太ったなといっただけなんです。それと同時に痩せるようになったら、勉強ができるようになったから、それでこれはいいなと思うようになってしまって。」
八重さんはそういった。
「それが間違いだったって、何度も言ったんだけどねえ。でもご飯を食べないほうが勉強が捗ると思い込んでいるみたいでねえ。どうにもならないのよ。」
咲は、そう説明する。
「そうかも知れないけどねえ。人間は動物だから、食べないと駄目になるよ。」
杉ちゃんはそういうのであるが、
「でも食べないほうが、勉強も捗るし、部活や運動もできるっていいましたけど。」
t、八重さんは言った。
「そうか。それじゃあ教えてやる。今でこそ、順調なのかもしれないけどねえ。エネルギー不足であることは変わりない。きっとそのうち、ぶっ倒れて、動けなくなるだろう。それでそのうち、エネルギーが切れてさ。電池が切れたみたいに、命が途絶えてしまうのだろうね。そうなったら大変だよ。それでもいいのか?」
杉ちゃんはそういうのであるが、
「でも食べたら、勉強ができなくなってしまいます。」
「そんなもん、大嘘だ。勉強ができたのは、単なる言い訳。食べないと、本当にだめになっちまうぞ。」
「あたしとしては、本人だけではなく、周りの人間の事を考えてほしいわ。食べないで弱っていくのを見ているのは、本当に辛いわよ。」
杉ちゃんがそう言うと、由紀子もそういった。
「由紀子さんたまにはいいこと言うな。そうそう。周りの人間もご飯を食べないのを見ているのは辛いと思うよ。」
由紀子に続いて杉ちゃんがそう言うが、
「そんなことは絶対にありません。むしろ困らせないと、私の方向いてくれなくなっちゃう。」
と、八重さんは言った。
「はあ、それどういう意味だ?困らせないと私の方向いてくれなくなっちゃうってのは。」
耳ざとい杉ちゃんは、そういうのである。すぐに、そう人の言うことに感づいてしまう。
「ちゃんと理由を言ってみな?初めから頼むよ。そして終わりまでちゃんとお話してもらおうな。こういうことはちゃんと、成文化してもらわないと、困ることだから、しっかり話してもらおうな。」
「そのほうが、八重さんも楽になるんじゃないですか。黙っていては、解決の糸口も見つかりませんよ。」
水穂さんもそう八重さんに言った。それを言われて八重さんは、そうしなければだめだと思ってくれたらしく、
「はい。私は、小さい頃、父が自殺して、その後は母と二人で暮らしてきましたが、母が勤めている会社の社長さんと、再婚することになりまして。そうしたら、私、母に捨てられてしまうのかなって。不用品として。」
と、ありのままを語ってくれた。
「それで、お母さんに捨てられないよう、ハンガーストライキでもやってるつもりか?まあ、無理な話だな。」
杉ちゃんがでかい声でそう言うと、
「お母様は、もう結婚することが決定しているのですか?式の日程とかも決まっているとか?」
由紀子はすぐ八重さんに聞いてみた。杉ちゃんの方は、無理な話だと何度か繰り返した。
「ええ、式も上げると考えているようです。相手の方が、節目になるからやろうって言ってるんですけど、私、どうしてもお母さんに捨てられちゃうんだって気持ちが取れなくて。」
「相手の方は、あなたの事を嫌っているとかそういうことはありますか?」
由紀子は、そういう八重さんに聞いた。
「そんなことありません。私のこと、心配してくれて、いい病院を探そうって言ってくれたんです。それくらい優しくて良い方なんです。そうやって、優しくしてくれるのに、私はどうしても、お母さんを取ってしまう気がしてならなくて。」
「はあ、新しいお父さんができて、嬉しいと思わないで、寂しいと思ってしまうのかなあ?まあでもさ、お母さんは、今までお前さんのことも含めて一生懸命努力してきたわけだから、お前さんのことを、捨てるということはないと思うよ。それよりもお前さんが、お母さんにこれからは新しいお父さんと一緒に幸せになってねと言ってあげてよ。」
杉ちゃんが、そうアドバイスするが、八重さんは、涙をこぼして泣き出してしまった。
「そうですか。それでもあなたは、お母さんに捨てられてしまうのではないかという気持ちが取れないんですね。多分、客観的に言ったら、杉ちゃんの言う通りになると思うんですけど、そう思えないのですよね。それに、甲乙も、善悪もありませんよ。事実は、事実ですから。」
水穂さんが、静かに優しく言ってくれた。
「とりあえず、事実として、お母さんに捨てられてしまうのが辛いんだと、自分の感情を素直に受け止めてあげてください。」
「そうかそうか。まずそこから始まるな。それを、自分の言葉で口に出して言うことが大事なんだぜ。」
「ありがとうございます。あたし、それを思っちゃいけないんだって、ずっと思ってたんです。みんな、お母さんのことを祝ってやってと言うばかりなのに、あたしの気持ちをそうやって、いいんだって言ってくれるなんて。」
杉ちゃんと水穂さんが、相次いでそう言うと、早川八重さんは、涙をタオルで拭いてそういうのであった。
「何でも、あなたが沿う感じているんじゃ、変えられないわよ。まあ、今は、お母さんに捨てられると思っているでしょうけどね。そのうち、そうじゃないんだってわかる日が来ると思うわ。それまでのんびり待ってたらって、あたし言ったんだけどなあ。」
咲は、杉ちゃんたちの答えを受けてそういった。
「でも、その間、ずっと辛い気持ちで過ごさなければならないんですね。」
早川八重さんが言うと、
「そうですね。でも、それだけつらい気持ちを感じることができるんだったら、嬉しい思いを感じることだってできるんじゃないですか。だから、そうなる日を待ってるんだって、今は思えばいいと思いますよ。いつでも能動的に動いていられる日々ばかりではないです。ときにはじっと待って、ひたすら待つしかできない日々もあると思います。いつまで続くかわからないけれど、そういう時期ってあると思うんですよね。だから、今は、新しいお父さんと一緒に暮らしてみて、新しいお父さんがいい人だって確信を持てるまで、待っている時期なんだと解釈すればいいんじゃないでしょうか?」
水穂さんが彼女にそう言ってくれた。
「待っている日ですか?」
八重さんがそういう。
「具体的には、何をしていたらいいでしょう?」
「そうだねえ。お前さんは今、学生さん?」
杉ちゃんは聞いた。八重さんが、支援学校に通っているというと、
「そういうことなら、学生らしく、いつも通りに勉強して、いつも通りに学校に通って過ごせばいい。まあ、日々一日一日、一生懸命過ごせばそれでいいと思わなくちゃ。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「きっとね、お母さんは、あなたのことを捨てるなんて、これっぽっちも思ってないと、あたしも思うわよ。だから、もうハンガーストライキはやめて、お母さんと、新しいお父さんのところで、幸せになってね。」
咲が、優しくそう彼女に言った。八重さんは、にこやかに笑って、
「はい。わかりました。食べるように努力します。」
と、涙を拭いていった。それと同時に、製鉄所に設置されている柱時計が、音を立ててなった。
「ああ、もうこんな時間。もう帰らなくちゃ。杉ちゃん今日は相談に乗ってくれてどうもありがとう。やっぱり人に話すと、気持ちが違うでしょう。」
咲はそう言って、早川八重さんの肩を叩いた。
「そうですね。私の、お母さんに捨てられるのではないかという気持ちを、受け止めてくれて、本当に嬉しかった。私は、だめな人間だと思っていましたが、それはちゃんとした私の気持ちなんだって、聞いてくれて嬉しかったです。」
八重さんはにこやかに笑った。
「そうだねえ。まず、自分の気持ちに素直になろうって考えることが、大事なのかなあ。」
咲はやっと、気が楽になったという気持ちがして、大きなため息を付いた。そして二人は、ありがとうございましたと言って、にこやかに笑って、製鉄所を出ていった。
由紀子は、それを眺めながら、自由にハンガーストライキができるんだなって、羨ましい気持ちになってしまった。それは本当は思ってはいけないことなのかもしれないけど、由紀子はそう思ってしまうのであった。
それからしばらくして、柱時計が、五回鳴ると、製鉄所は閉所時刻になり、間借りをしている利用者以外は、家に帰っていくのである。今のところ、間借りをしている利用者は、水穂さんだけであった。由紀子は、夕食を食べてもらってから帰ろうと思って、杉ちゃんが作ってくれた、野菜だけを入れたバケットサンドの皿を持って、水穂さんの部屋に行った。
「さあ水穂さん食べよう。」
由紀子は、水穂さんの前にお皿をおいた。水穂さんはよろよろと布団の上に置きた。
「ほら、食べるの。今日の八重さんのこともあるでしょう。あれだけ八重さんに優しくしておいて、水穂さんが食べないのではどうするの?」
由紀子は、そう言って水穂さんにサンドイッチを差し出した。水穂さんはそれを受け取って、口に入れてくれて、なんとか噛み砕いて飲み込んでくれようとしているのであるが、同時に咳き込んでしまう。それは、嚥下障害があって、飲み込めないというのではなくて、食べ物を受け付けないというところだった。結局、食べたサンドイッチは、咳き込んで吐き出してしまった。咳き込むとそれが刺激されて、同時に血液も出てしまうのであった。由紀子が、水穂さん大丈夫と声をかけたのであるが、水穂さんは、返事をする代わりに、生臭い液体を吐き出してしまった。
「もう何をやってるんだ。お前さんはいつもこれだよ。もうなんとかしようと言う意識を持ってよ!」
杉ちゃんがでかい声でそう言うが、由紀子はどうしても、水穂さんのことを、責める気にはなれなかった。それよりも、一緒に悩んでやりたいと言う気持ちがしてしまった。
「これじゃあ、いくら作っても意味がないか。これでは、どうなっちまうか、しれたもんじゃないな。」
そういう杉ちゃんに、由紀子は、ちょっと彼を睨みつけた。布団を血まみれにしてしまうと、由紀子は、水穂さんにこれ以上食べろという気にもならなくなってしまう。
「でもねえ。僕もさっきの女性にそういったんだけどねえ。お前さんだって同じことだぜ。お前さんも、おんなじように動物だから、エネルギーが切れると退化する。それは忘れないでいてほしい。お前さんもさあ、食べようというか、そういう気持ち持ってよ。」
「ごめんなさい。」
水穂さんは、杉ちゃんにそういう事を言ったのであるが、杉ちゃんは話を続けた。
「ごめんなさいじゃないよ。なにか、理由を話してくれないかな?お前さんもしてるの?ハンガーストライキ。」
「そういうわけではないわよね。水穂さん。ねえ、なにか言って。食べない理由を言って。決してあの人と同じで、捨てられてしまうのが怖くて、ハンガーストライキをしているわけではないって、ちゃんと言って。」
由紀子は、水穂さんにそう言ったけれど、水穂さんは咳き込んでしまってその先が言えなかった。
「どうもなあ。こういう言い方はしたくないけどさあ。そうやって、ご飯を食べるたんびに咳き込んで吐いちまうって、なんか甘えているというか、わざとらしい気もする。」
杉ちゃんがそう言うので、由紀子は思わず、
「違うわ!」
と言ってしまった。
「うん、それはわかる。わかるんだけど、そう思っちゃうんだよ。」
足の悪い杉ちゃんなのでそう言ってくれるのであるが、一般的な人であれば、そういう感情が発生してしまっても不思議ではなかった。それくらい、水穂さんが、ご飯を食べないで、吐き出してしまう日々が続いているからだ。
「こういうのは、医療関係者ではなくて、別の人に相談するほうがいいかもしれないな。」
「別の人。」
由紀子は、ピンとこなかった。
とりあえず、咳き込んでしまう水穂さんには薬を飲んで眠ってもらい、杉ちゃんと由紀子も自宅へ帰った。杉ちゃんはいつもの通り、介護タクシーを使って車椅子で帰っていき、由紀子は、自分の軽自動車で帰っていくのである。
運転しながら、由紀子は涙が止まらなかった。なぜかフロントガラスから景色が見えなくなって、ワイパーを付けてしまった。こんな晴れた夜なのにワイパーを付けてしまうなんて、変なやつだと思われても仕方なかった。
まっすぐ家に帰る気分にはならなかった。今日あったことを、誰かに聞いてほしかった。由紀子はいつも帰る道とは違う道を選んで、車を走らせた。由紀子が行ったのは、興徳寺という、由緒あるお寺。ここであれば、悩みも相談に乗ってくれると、杉ちゃんに聞いたことがある。由紀子は、そこの寺の前で、駐車違反などどうでもいいから、車を停めて、寺の中に入った。
「あの、すみません。」
由紀子は、そういいながら、寺の敷地内に入った。寺の前には、庵主様と呼ばれている女性の僧侶がいて、庭を掃除していた。薄暗い夜でも、頭がはげているから、月明かりでいることが確認できるのである。
「あら、どうされたんですか。」
庵主さまは、由紀子に前置きも何も聞かずそう聞いてくれた。由紀子は、どうしても辛いことがあるというと、庵主さまは黙っていては辛いだけだから話してしまいなさいといった。
「あたしが、世の中で一番好きな人がいるんですが、どうしてもその人が、ご飯を食べてくれないので、生きてほしいって言う気持ちが、伝わらないんです。あたしがこれほどまで、あの人のこと、好きなのに、それがどうしても伝わらない。あたしがいるから、生きるんだって気持ちには、あの人はなってくれないんですね。でもあたしにはあの人しかいない。だから、それが本当に辛いんです。」
由紀子は、涙ながらにそう言ってしまった。
「口に出して言えたら、どんなにいいかと思うんですけど、あの人が、そう思ってはいけないこともあたし知ってるから、本当に辛いんです。解決するには、同和問題がない国家へ逃げることだって、言われました。できることなら、そうしてしまいたいけど、あたしにはできないから。本当に、答えがわかってるから、辛いものがありますよね。」
「そこまで、その人の事を思ってあげられるのね。」
由紀子がそう言うと、庵主さまは、そういった。
「その人も思ってくれて、幸せなのでしょうね。」
由紀子は、庵主さまがそう言ってくれて、やっと自分の事をわかってもらった気がした。
「その人もあなたも、お互いを好きになれて、幸せなのでしょう?」
由紀子は、改めてそうなんだと思った。
「ごめんなさい私、」
「いいえ、お互い自分の気持ちに素直になって、それを具体的な行動に表して行けるというのが、一番いいのよ。」
由紀子はそれを聞いてそうなのだと思った。涙を拭いて、改めて、水穂さんに気持ちを伝えていかなければなと思った。ありがとうございますと一言言って、由紀子は、またいつもと同じ自分の車に乗り込んでいった。きっとなにか、支えてくれるものがあれば、人間は生きていけるんだと思いながら。
雨は夕暮れ 増田朋美 @masubuchi4996
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