第15話 境界の溶解
世界中から人々が集まり始めて一週間。
皇居周辺は、静かな巡礼地となっていた。
各国の人々が、言葉を交わすことなく、
しかし深い理解で繋がっている。
波音とエコーの前に、新しい変化が現れ始めていた。
「見て」
波音が池の水面を指す。
そこには、現在世界各地で起きている現象が映し出されていた。
ロンドンの大英博物館。
古い石器が、微かに光を放っている。
来館者たちは、その光に吸い寄せられるように近づき、
石器から古代人の記憶を感じ取っている。
パリのルーヴル美術館。
モナリザの前で、鑑賞者が涙を流している。
絵画から、ダ・ヴィンチの創作への愛が、
直接心に伝わってくるのだ。
エジプトのピラミッド。
石積みの一つ一つから、建設者たちの想いが蘇り、
訪問者は数千年前の労働歌を「聞いて」いる。
「物質に宿る記憶が、覚醒してる」
エコーが分析する。
「人間の意識が敏感になったことで、
物質の中に蓄積された情報にアクセスできるようになった」
健一が興奮して報告する。
「研究室でも同じことが!」
「古い実験器具から、過去の研究者の想いが感じられるんです」
「まるで、器具が実験の歴史を記憶しているみたい」
真理子も頷く。
「図書館の本も」
「著者の想いが、ページから直接伝わってくる」
「活字を読むんじゃなくて、心を読んでる感じ」
誠司が付け加える。
「オフィスの古いパソコンからも」
「過去に使っていた人たちの仕事への想いが」
老人が深く頷く。
「これが、本来の世界だったのです」
「すべての物質が、情報を記憶している」
「人間が、それを読み取る能力を失っていただけ」
その時、池の向こうから一人の女性が現れた。
インドの伝統的な衣装を身に着けた、中年の女性。
彼女は池のほとりに座ると、
サンスクリット語で何かを唱え始めた。
音は出ない。
しかし、その口の動きが作る波動が、
空間に美しい模様を描いていく。
「マントラの力」
老人が説明する。
「古代の叡智が、新しい形で蘇っている」
インドの女性の隣に、チベットの僧侶が座る。
彼も無音でマントラを唱える。
すると、二つの波動が重なり合い、
より複雑で美しいパターンが生まれた。
続いて、キリスト教の神父、イスラムの導師、
ユダヤ教のラビ——
様々な宗教の聖職者たちが、
それぞれの祈りを捧げ始めた。
しかし、不思議なことに、
すべての祈りが調和していた。
「宗教の違いを超えてる」
波音が感動する。
「根源は同じだから」
エコーが理解する。
「すべての祈りが、愛と平和を願っている」
「形は違っても、本質は一つ」
科学者たちも集まり始めた。
物理学者、化学者、生物学者——
彼らは実験器具を持参せず、
ただ手のひらを空中にかざしている。
「何をしてるの?」
真理子が疑問に思う。
「宇宙の根本法則を、直接感じ取ろうとしてる」
健一が答える。
「数式や理論じゃなくて、存在そのものとして」
実際、科学者たちの表情は恍惚としていた。
彼らは、宇宙の美しい秩序を、
全身で体験していた。
アーティストたちも現れた。
画家、彫刻家、音楽家、詩人——
彼らは作品を作るのではなく、
自分自身が作品になっていた。
画家は空中に手を動かし、
見えない絵を描いている。
音楽家は楽器なしで演奏し、
無音の音楽を奏でている。
詩人は口を動かすことなく、
心の詩を朗読している。
「表現の新しい形」
波音が理解する。
「物質的な媒体を必要としない創作」
子供たちも集まってきた。
彼らは大人たちよりも自然に、
この新しい世界に適応していた。
石ころと会話し、
花と友達になり、
雲と一緒に遊んでいる。
「子供たちが一番敏感ね」
真理子が微笑む。
「固定観念がないから」
老人が答える。
「大人は『石は話さない』と思い込んでいる」
「子供は、そんな制限がない」
その時、池の水面に大きな変化が起きた。
世界中の聖地、研究機関、美術館、学校——
すべてが光の線で繋がっている映像が現れた。
「グローバル・ネットワーク」
エコーが驚く。
「意識のインターネットが形成されてる」
確かに、情報が光の速度で世界中を駆け巡っている。
しかし、それはデジタル信号ではない。
純粋な意識の波動。
「これで、全人類が繋がった」
波音が深く息を吸う。
「次の段階の準備が整った」
「次の段階って?」
全員が注目する。
波音とエコーは顔を見合わせ、
そして静かに微笑んだ。
「個と全体の完全な調和」
「すべての存在が、一つの巨大な意識体として機能しながら」
「それぞれの個性を失わない状態」
池の水面に、最後の映像が浮かぶ。
それは、地球全体が一つの生命体として輝いている光景。
しかし、その中で人間も動物も植物も鉱物も、
それぞれが独自の美しさを保っている。
「調和の完成」
全員が理解した。
そして、その瞬間が、もうすぐ訪れることも。
(第15話・了)
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