第5話 地下の鼓動
深夜2時17分。
渋谷の地下深く、忘れられた空間がある。
かつて防空壕として使われ、
その後は地下鉄の保守用通路となり、
今は誰も立ち入らない、都市の記憶の片隅。
しかし今夜、そこに人影があった。
真理子、健一、そして誠司。
年齢も背景も異なる三人が、なぜかこの場所に導かれていた。
「不思議な感じ」
真理子が呟く。
21歳の彼女にとって、見知らぬ人と言葉を交わすこと自体が、生まれて初めての経験に近い。
「昨日まで、こんなこと想像もしなかった」
健一が頷く。
20歳の大学生。まだ戸惑いの中にいる。
誠司は、二人を見ていた。
34歳。社会人として15年。
でも、この二人の若者の方が、何か大切なものを持っているような気がする。
地下通路の奥から、振動が伝わってくる。
低い、持続的な響き。
地下鉄?いや、違う。もっと有機的な——
「ここよ」
声がして、三人は振り返った。
ノイズが立っている。
赤いジャケットが、薄暗い通路でも鮮やかに映える。
彼女は奥へと歩き始めた。
三人は、従うしかなかった。
通路は次第に広くなり、
そして突然、巨大な空間に出た。
地下の大聖堂、とでも呼ぶべき場所。
高い天井。コンクリートの柱。
そして——
人々がいた。
老若男女、様々な世代の人間たち。
皆、静かに座っている。
目を閉じて、何かに耳を傾けるように。
「歓迎するよ」
声の主は、初老の男性だった。
藤原大の叔父、藤原老人。
「君たちも、聞こえ始めたんだね」
真理子が問う。
「何が、聞こえるんですか?」
老人は微笑んだ。
「地球の鼓動さ」
彼は床を指差す。
「ここは、都市の最深部。地下60メートル」
「そして、ここでは——」
老人が手を挙げると、
集まっていた人々が、ゆっくりと立ち上がった。
そして、足踏みを始めた。
ドン、ドン、ドン。
規則的なリズム。
でも、場の調和とは違う。
もっと原始的で、もっと生命的な——
「昔の人々は知っていた」
老人が説明する。
「大地には固有の振動がある。地球の鼓動」
「地磁気の変化で、表面の音は消えた。でも、深層の振動は残っている」
三人も、自然に身体を揺らし始めていた。
床から伝わる振動が、身体の奥深くに響いてくる。
「ノイズは」
老人が続ける。
「その振動を、地上に運ぶ者」
赤いジャケットの女性を見る。
彼女は静かに立っているだけなのに、
周囲の空気が、確かに震えている。
「でも、なぜ今?」
誠司が問う。
「15年間、何も起きなかったのに」
老人の表情が、少し翳った。
「臨界点、という言葉を知っているかい?」
健一が答える。
「相転移が起きる、境界点」
「その通り」
老人は頷く。
「15年間、抑圧された波動は消えたわけじゃない」
「蓄積され、圧縮され、そして——」
その時、地面が大きく震えた。
地震?
いや、もっと深いところから来る——
「始まったか」
老人が呟く。
真理子は、恐怖より先に、解放感を覚えた。
何かが解き放たれようとしている。
15年間の沈黙が、終わろうとしている。
でも、それは破壊ではない。
むしろ——
「新生」
ノイズが、初めて明確に言葉を発した。
その声は、空気を震わせた。
15年ぶりに、「音」として。
人々が息を呑む。
そして、一人、また一人と声を上げ始めた。
「あ......」
「ああ......」
「あああ......」
不器用な、でも確かな音。
15年ぶりの、人間の声。
真理子も、健一も、誠司も、
自然に声を出していた。
それは歌でも言葉でもない。
ただ、存在そのものの叫び。
地下の大聖堂に、原初の音楽が生まれていく。
それは、やがて地上へと——
いや、もっと大きな何かへと——
繋がっていくのだろう。
老人は、満足そうに微笑んでいた。
「これが、僕たちが待っていたもの」
ノイズは、ただ静かに立っている。
でも、彼女の瞳には、
もっと遠くを見つめる光があった。
新しい世界の、最初の鼓動。
それは今、確かに始まったのだ。
(第五話・了)
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