第4話 揺らぐ境界
丸の内、高層ビル37階。
深夜11時43分。
山田誠司、34歳。
システムエンジニア。
画面に向かい、コードを書き続けている。
残業。
でも、それを苦痛とは感じない。
この世界では、個人の感情という概念が希薄だから。
カタカタと、キーボードを打つ音——
いや、音はしない。
ただ、指が規則的にキーを押す動作があるだけ。
ふと、視線を上げる。
窓ガラスに、自分の姿が映っている。
無表情な顔。場に同期した、効率的な動き。
その時だった。
窓ガラスが、微かに震えた。
誠司の手が止まる。
15年前から、こんなことは起きていない。
地磁気が安定してから、あらゆる振動は消えたはずなのに。
見つめていると、また震えた。
今度は、もっとはっきりと。
立ち上がり、窓に近づく。
手のひらを、ガラスに当てる。
冷たい表面。
でも、その奥に——
微かな、脈動を感じる。
コツ、コツ、コツ。
リズミカルな振動。
まるで、誰かがノックしているような——
『お父さん』
誠司の全身が硬直した。
今、確かに——
でも、それは不可能だ。
この世界に、そんな呼びかけは存在しない。
震える手で、デスクの引き出しを開ける。
奥深くに、一枚の写真が眠っていた。
妻と娘。
15年前の写真。
まだ音があった頃の、最後の家族写真。
3歳だった娘は、今は18歳。
妻と娘は、同じマンションにいる。
毎日顔を合わせている。
でも——
『対話』はない。
ただ、場の流れの中で、必要最小限の情報交換があるだけ。
写真の中の娘が、笑っている。
「パパ、だっこ!」と言いながら、両手を広げている。
だっこ。
その言葉の意味を、誠司はもう15年間、考えたことがなかった。
窓ガラスが、また震える。
今度は、もっと強く。
そして、反射の中に——
赤い影が、映った。
振り返る。
誰もいない。
でも、確かに見た。一瞬だけ。
もう一度窓を見る。
今度は、別の光景が映っていた。
自宅のリビング。
妻が、ソファに座っている。
娘が、その隣で本を読んでいる。
二人とも、無表情。
場に同期した、静かな夜。
でも——
娘の指が、微かに震えている。
ページをめくる動作が、わずかにぎこちない。
まるで、何かに抗うように。
誠司は、自分の胸に手を当てた。
そこに、小さな振動を感じる。
鼓動。
でも、それ以上の何か。
デスクに戻り、キーボードに向かう。
しかし、今度は違うものを打ち始めた。
仕事のコードではない。
メッセージ。
15年ぶりの、個人的なメッセージ。
『今日、不思議なことがあった』
送信先は、自宅。
でも、このシステムでは個人宛のメッセージは存在しない。
場全体への情報として、流れるだけ。
それでも、誠司は打ち続けた。
『窓ガラスが震えた。君の声が聞こえた気がした』
エンターキーを押す。
メッセージは、夜の静寂に溶けていく。
数分後。
画面に、返信が表示された。
『私も、聞こえた』
誠司の手が震える。
これは、妻からなのか?
それとも——
『パパ?』
涙が、頬を伝った。
15年ぶりの、涙。
その時、オフィスのドアが開いた。
警備員でも、同僚でもない。
赤いジャケットの女性。
ノイズ。
「家族を、思い出したのね」
彼女の「声」は、空気を震わせない。
でも、確かに伝わってくる。
「帰りなさい」
ノイズが言う。
「本当の家族の元へ」
誠司は立ち上がった。
15年間、毎日同じ時間に退社していた。
場の流れに従って。
でも今夜は違う。
自分の意志で、帰るのだ。
エレベーターに向かう。
ノイズの姿は、もうない。
でも、彼女が残した波動は、確かに誠司の中で響いている。
1階のロビー。
自動ドアを抜ける。
夜の街。
静寂に包まれた、無音の世界。
でも、誠司には聞こえる。
風の音。
自分の足音。
そして、遠くから聞こえてくる——
家族の、鼓動。
急ぎ足で、家路につく。
15年ぶりに、「帰りたい」と思いながら。
マンションのドアを開ける。
リビングに、妻と娘がいた。
二人とも、誠司を見ている。
そして——
娘が、ゆっくりと立ち上がった。
18歳。もう子供ではない。
彼女の瞳に、戸惑いが浮かんでいる。
15年間、感じたことのない何かに、混乱しているような。
「......お父さん?」
声ではない。
でも、唇の動きが、確かにその形を作っていた。
誠司も戸惑っていた。
写真の中の3歳の娘と、目の前の18歳の娘。
その間の15年間が、急に重みを持って迫ってくる。
娘は一歩近づき、そして立ち止まった。
手を、ぎこちなく差し出す。
「今日、学校で変なことがあって」
彼女の指が、微かに震えている。
「急に、昔のことを思い出したの。お父さんと一緒に、歌を歌ったこと」
歌。
そんなものは、この世界には存在しない。
でも——
妻も立ち上がった。
そして、二人の間に立つ。
「私も」
妻が言う。
「今日、料理をしていて。急に、あなたの好きだった歌を口ずさみそうになった」
三人は、ぎこちなく向き合っている。
15年ぶりの、「家族」として。
娘が、そっと誠司の手に触れた。
大人になった手。でも、確かに覚えのある温もり。
「変だよね。でも、なんか......嬉しい」
三人の手が、自然に重なった。
抱擁ではない。
でも、15年ぶりの、意識的な触れ合い。
その瞬間、小さな共鳴が生まれた。
三つの鼓動が、別々のリズムを刻みながら、
でも確かに、呼応し合っている。
窓の外を、赤い影が通り過ぎていく。
ノイズ。
彼女は振り返ることなく、次の場所へと向かっていった。
残された家族は、まだぎこちない。
でも、確かに何かが変わり始めている。
静寂の世界に、新しい音楽が——
それは激しい旋律ではなく、
ゆっくりとした、でも確かな鼓動として——
生まれようとしていた。
(第四話・了)
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