第2章 ― 彼女 ―

男が来るようになったのは、展示が始まって三日目のことだった。

最初は他の観客と変わらなかった。ただ立って、見て、時々写真を撮って、去っていく。それだけだった。

でも、彼は違った。

毎日、決まった時間に来た。朝と夕方。ガラスの向こうで、じっと私を見つめる。そして少しずつ、紙にメッセージを書くようになった。

「君は美しい」 「どうしてそんなことを?」 「本当に大丈夫か?」

そして今日──「助けてほしいか?」

私は笑いそうになった。乾いた唇の端が少しだけ上がるのを、自分で感じた。

彼は勘違いしている。

これは“囚われ”ではなく、“選択”なのだ。

私はここに自ら入った。誰に強制されたわけでもない。むしろ、この作品は私が自分の人生と向き合うための檻だ。水に打たれ続けることで、過去の後悔を身体に刻み込む。

だから「ノー」。

それ以外に言葉はなかった。

けれど──あの男の目が、日に日に変わっていくのがわかる。

最初はただの観客だった。その視線が今、誰よりも鋭く、危うく、まるで私の意志を否定するように感じられる。

彼がこのまま「観客」でいてくれるなら、それでいい。

でももし──境界を越えてきたなら。

そのとき、作品は終わる。

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