四柱目、欲望の神・禍創夜

第24話 恋の目覚め

 采女は、瞼をゆっくりと開いた。

 見覚えのある天井が見える。采女は、周囲を見回した。

 そこは、御殿にある采女の部屋だった。彼女は布団に寝かされていた。

 優しい陽気が円窓から降り注ぎ、外では小鳥が鳴いている。

 麗らかな昼下がりだ。采女は、ちょっと笑って視線を上げた。

 猛雄がいた。

 後ろに小さな女中毛羽毛現も控えている。

 采女が、目を丸くする。彼は、布団のそばにあぐらをかいて座っていて、うつらうつらと船をこいでいる。

 彼の髷は少し歪んでいて、くたびれていた。


(また、結い直してあげなくちゃ)


 采女は、布団の中に寝そべったまま、猛雄の膝に手を伸ばした。着物の膝に、采女の手が触れる。

 猛雄が、寝ぼけまなこで目覚めて、ぼんやりと采女を見つめる。目の焦点があい、彼は猛然と布団ににじり寄ると、采女の手を取った。


采女うねめ!」

「猛雄……」


 猛雄が目の下に皺を作って、切なげに破顔した。


「良かった……本当に良かった……このまま目覚めないかと思ったぞ……!」

「そんな……長いこと寝てた……?」

「三日は寝込んでいた」

「そっか……看病してくれて、ありがとう。猛雄」


 うつむいて、猛雄の顔が安堵でほころぶ。采女はその顔をじっと見つめた。


(ああ、好きだ)


 猛雄が好きだ。と思った。とても好きだと思った。

 彼といると、心がふわふわと丸くなっていくのを感じる。鞠のようになった心は跳ねはじめて、いつしか高く飛んで行く。

 この気持ちを、なんと言おう。


「猛雄」

「……なんだ」

「好きよ」

「な……っ」


 猛雄が面食らって顔を上げる。視線が交差して、浅黒い肌が、ぽっと赤みを帯びた。


(そうだね……そうだ)


 今まで、髷を結うことが、自分の使命だと思っていた。夫婦になったのだって、契約だから。恋心は二の次だった。


(でも、この気持ちは、契約で夫婦になったから、じゃないよ)


 猛雄に口づけられた時、もう恋は淡く始まっていたのかも知れなかった。それは契約の上でのほんの淡い気持ちだと思っていた。けれども、一緒に過ごして、二人で歩んで、助けて、助けられて。そしたら、こんなに強い気持ちが生まれた。


「好きよ猛雄。とても好き」


 それは、采女の心からの気持ちだった。猛雄の瞳がかすかに潤んでいた。


「俺だって……俺だって好きだ!」


 猛雄の顔が真っ赤になる。


「最初は気恥ずかしくて……素直になれなかった……照れて名前もまともに呼べず、お前を……采女を傷つけるようなことばかり言ってしまった……」


 采女が目を丸くする。照れてたのか。あれは。


「采女が、奴に攫われそうになって、失いたくないと思った。はじめて素直に、名前を呼べた。いまなら、言える」


 猛雄が、采女を真っすぐに見つめた。


「お前が好きだ、采女うねめ。契約した妻だったからではない。たとえ妻でなくても、一人のおなごとして」


 猛雄の指先が熱を帯びる。彼の手が、采女の手をあたたかく包んでいた。


「強く、お前が欲しいと思う……采女」


 采女の眼に涙が滲む。彼女はその手を握り返すと、気恥ずかしそうに微笑んで言った。


「……ありがとう……」


 二人がもう一度見つめ合う。


「ちょ、押してはなりませぬ!なりませぬ!」


 遠くから、こしょこしょ話の小声が聞こえてくる。采女と猛雄は、部屋の入り口、障子戸の方を振り向いた。


「フ、フモーッ!!」


 障子が凄い勢いで開いて、女中毛羽毛現が転がり出てくる。

 その後ろから早足で涙月が部屋に入り込んで来た。食事の膳を持った畏見もいる。


「邪魔したね」


 涙月が憮然とした表情で猛雄を睨みつける。猛雄は、きょとんとした後、バツが悪そうに頭を掻いた。布団の反対側に、涙月が正座で静かに座った。

 涙月が、静かに口を開いた。その声は、いつもより幾分か、温度が低いように感じられた。


「僕をさしおいて、猛雄ったら……」


 そう言われて、采女はちょっと驚いた。

 涙月の言葉の響きは、彼もまた采女に、好意を抱いていることを示唆していた。

 采女は、ふと、この神々のことを改めて考えた。

 彼らは、毛羽毛現が言ったように、元々は一つの存在だったという。しかし、今は個別の顔を持ち、個別の感情を抱き、個別の意思を持つ、まさしく独立した「神格」なのだ。猛雄は猛雄、涙月は涙月、畏見は畏見。

 それぞれが、それぞれの……生きる道を歩んでいる。だからこそ、彼ら一人ひとりの心持ちを、尊重してやらねばならないだろう。それは、彼らの髷を一本一本丁寧に結うのと同じだ。


 采女は、涙月を傷つけないように、言葉を選んだ。


「うーん、あのね、涙月」


 采女は、真剣なおももちで彼を見つめた。


「貴方の気持ちは、とても嬉しいんだ。本当に、ありがとう。でも……その、なんて言うか……」


 采女の言葉の続きを、涙月は静かに待った。彼の表情は、相変わらず穏やかだが、その瞳の奥には、確かな切なさが滲んでいた。


「……僕だっておんなじ存在だったんだけどな……」


 采女の言葉を遮るように、涙月がふうと、諦めにも似たため息をついた。


「……まあ、采女を困らせるのは本意じゃないからさ」


 そう言って、涙月は静かに目を伏せた。彼の言葉は、采女の感情を尊重しようとしている。采女は、彼の優しさに、胸の奥が温かくなるのを感じた。

 畏見が膳を持って采女の枕元にやって来た。膳の上には、湯気が立つ粥と、小鉢がいくつか並べられている。


「采女さん、何か召し上がれますか?」


 畏見の声は、以前のような金切声ではなく、穏やかで落ち着いていた。

 しかし、その顔をよく見ると、彼の髷は、先日采女が結い直した文金風のものではなく、ひどく荒れていて、見るからに元気が無さげだった。細い髪は、あちこちにはね、その美しさは失われている。


「ど、どうしたの、それ」


 采女は、思わず身を起こしながら尋ねた。

 畏見は、困ったように眉を下げた。


「その……ゆめはみの、よだれをおとして、そのままなんです。ゆめはみたちがついて来てしまい……毎日よだれを垂らされて……一応、湯に入って水髪にはしておいたが、どうにも……」


 畏見の言葉に、采女は思わず笑みがこぼれた。ゆめはみたちが、畏見の髷の上で舞い、彼の悪夢によだれを垂らしたりする姿を想像すると、どこか微笑ましい。


「あのう……もし、もしよろしければ……」


 畏見は、采女の顔色を窺うように、おずおずと口にした。


「また、私の髪を、結っていただけないでしょうか……?」


 采女は、迷うことなく快諾した。


「もちろん!喜んで!」


 采女は、そう言って、にこやかに微笑んだ。

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