タイトルはまだ決まっていません!(仮名)
Mr.シルクハット三世
第1話
地元の空は、思っていたよりもずっと白かった。
東京の灰色とは違って、どこまでも淡く、にじむような光の中で、田んぼと屋根の隙間を縫うように風が通り抜けていく。 坂の途中から見下ろした町並みは、昔のままだった。パチンコ屋の派手な看板も、スーパーの青い旗も、錆びかけたバス停も。 全部、変わっていない。
「....こっちは、やっぱ静かだな」
ぽつりとつぶやく。誰も聞いていないのを知っていて、それでもつぶやく。 言葉にすれば、少しは実感が湧く気がして。
僕は今日、都会の学校を辞めて、田舎の祖父母の家に戻ってきた。
理由は──簡単に言えば、ちょっと疲れたからだ。
あっちでは、いろいろあった。
人間関係、進路、生活のリズム。 何かひとつが崩れたわけじゃない。
ただ、静かに、ゆっくりと、全部が少しずつ軋んでいって。 気づいた時には、登校できなくなっていた。
「しばらく、田舎で暮らしてみたい」と自分で言ったとき、母さんは一瞬、目を見開いたけれど、すぐに「.....いいと思うよ」とうなずいてくれた。 祖母は電話越しに「あらあら、帰ってくるの? じゃあ好きなお菓子買っておかないとねえ」と嬉しそうに笑った。
大人たちは、案外あっさりと、僕の“撤退”を受け入れてくれた。
家に着いてすぐ、祖母から「これ、買ってきてくれる?」と手渡されたメモ用紙を握りしめて、僕は最寄りのスーパーへと向かっていた。
坂を下る途中にある、古びた商店街。 アーケードの屋根はところどころに穴があいていて、陽射しが斑に差し込んでくる。 湿気を含んだ風が通るたびに、七夕飾りの名残の紙片がカラカラと揺れた。
僕が出ていった後も、ここはずっと、変わらずにここにあったんだな。
そんなことを思いながら、スーパーの自動ドアをくぐった。
買い物かごには、牛乳と味噌、それに祖母の好物の醤油せんべいが入っていた。 レジの列に並ぼうとしたとき、不意に肩に何かが軽く触れた。
「.....あれ?もしかして.....悠真くん?」
その声を聞いた瞬間、時間が止まったような気がした。
振り向くと、そこに立っていたのは──忘れようにも忘れられない人だった。
「.....ステラ、さん?」
思わず口に出してしまってから、僕は息を呑んだ。
彼女は、くすんだグレーのTシャツに、色褪せたベージュのワイドパンツを履いていた。
足元はサンダル。 夏のスーパーにぴったりな、ごく普通のラフな格好。
だけど、それがどういうわけか、妙に“決まって”見える。
背が高くて、髪は後ろで緩く結ばれていて、肌は焼けていないのに白すぎるくらい白い。 その顔立ちは、十年前とまるで変わっていなかった。
「えぇ〜っと.....当たり? ちょっと自信なかってんけどなあ」
彼女──ステラさんは、少し照れくさそうに笑った。
「すごい、久しぶり.....ですよね。ていうか.....変わってない、っていうか.....その、まんま.....」
言葉がうまく出てこなかった。
混乱していた。
昔、よく遊んでもらっていたお姉さん。
年上で、きれいで、少し不思議で……。 でも、僕が中学を卒業してこの町を離れてから、時間は流れていたはずだ。
なのに、ステラさんは──変わっていなかった。
そのまま、スーパーの出口を抜け、坂道を一緒に歩く流れになった。 特に何か言い合うでもなく、自然と並んで歩いていた。
「いや〜、まさか悠真くんやったとはなあ。小さかったから、顔つき変わっとるし、背ぇもだいぶ伸びて.....」
「ステラさんは.....ほんと、まったく変わってませんね」
「ん〜、せやなあ.....いろいろと、“手入れ”がええんかなあ、ふふっ」
はぐらかすような笑い方。
でも、僕は気づいていた。
あれは“努力でどうにかなる変わらなさ”じゃない。
時間が彼女を通り過ぎていない、そんな感覚だった。
帰り道は、スーパーの袋を片手に坂を上るコース。 ステラさんは、すいすいと歩きながら、どうでもいい話をぽつぽつと続けていた。
「この道な、前より雑草生えとる気ぃせぇへん?うち、昨日ちょっとだけ草引いたんやけどなあ、焼け石に水やったな」
「はあ.....そうなんですね」
言葉を返しながら、僕の頭の中は別のことでいっぱいだった。
──彼女は、本当に変わっていない。
身長も、雰囲気も、声も。 10年前、僕がまだランドセルを背負っていた頃に見上げていたそのままの“お姉さん”が、今こうして横にいる。
あの頃、小さな僕の目には“すごく大人っぽくて綺麗な人”に映っていた。 そして今──高校生になった僕の目にも、“すごく大人っぽくて綺麗な人”にしか見えない。
『考えすぎか? 』
そう思いたかった。
でも、スーパーで声をかけられた瞬間の“空気の止まり方”を、僕はまだ引きずっていた。
彼女は本当に僕を一目で見分けたのか? いや、それよりも、彼女が....変わらなすぎることの方が怖い。
町の人たちは、なぜあんなに自然に接していたんだろう? 店員も、すれ違う人も、誰一人として疑問を持っていないように見えた。 まるで──彼女が“昔からずっとそうだった”という記憶を書き換えられているかのように。
その時だった。
「悠真くん、ちょっと寄ってこか」
ステラさんが指差したのは、神社の裏手に続く、小さな参道だった。 鬱蒼とした木々の間を縫うように、細い階段が奥へと続いている。
かつて虫取り網を持って通ったこの場所も、今は落ち葉と静寂に包まれていた。 日差しの届かないその小道は、空気が少しだけ、冷たい。
「ここ、まだあったんだ.....」
「せやな。うちもちょくちょく来るんよ。静かやし」
言葉は柔らかいのに、彼女の背中からは、なぜか笑いの気配が消えていた。 石段を上りきると、小さな石のベンチが今も残っていて、二人でそこに腰を下ろす。
蝉の声は遠ざかり、葉のこすれる音だけが耳に残る。
ステラさんは、缶コーヒーをひとくち飲んだあと──ゆっくりと、僕の方を見た。
「悠真くん」
「はい?」
「──キミ、気づいとるやろ?」
.....胸の奥が、きゅっと縮まる感覚。
「.....え?」
「誤魔化さんでええよ」 「うち、さっきから見とったけど、ずっと“変わってない”って顔しとった」
「........」
「そらそうや。うちは“変わってへん”からな」
僕は、なんとか笑ってみせた。
「いや.....そんな。ちょっと、懐かしさでびっくりしただけですよ」
「ふーん.....なら、もうちょい話すか」
そう言って、ステラは髪をかき上げ、帽子を取った。
その下から覗いたのは──わずかに尖った耳だった。 風に揺れる銀色の髪の奥で、はっきりと形を持ったそれが、現実感を静かに揺るがす。
「.....うち、エルフやねん」
「.....え?」
「魔法も使える。寿命も長い。見た目も、変わらん」 「ほんでな、この町の人間には“うちが人間に見える魔法”をかけとるんよ。もう何十年も前からな」
「.....」
「でも悠真くんには、その魔法、ちょっとだけ効いてへんかったみたいやなあ」
笑顔だけが、変わらずそこにあった。
静寂が、周囲を包んだ。 音はしているはずなのに、僕の耳には何も届いてこなかった。
「.....どうして、僕には.....?」
「さぁな〜。たぶん、そういう“縁”なんやと思う。うちは長いこと生きとるけど、魔法が効かんかった人間なんて初めてやし」
「それって、危ないとかじゃなく.....?」
「ちゃうちゃう。むしろ、ありがたい。キミが“ほんまのうち”を見てくれるってことやからな」
空気は穏やかだった。
でもその奥には、言いようのない重さがあった。 僕は、ステラさんを見た。
ステラさんも、まっすぐ僕を見ていた。
──まるで、“誰かに何かを託そうとしている人”のような目で。
「そんなこと、言われても.....すぐには、信じられないですよ」
自分でもわかっていた。
信じたくないわけじゃない。
ただ──現実との距離が、急に変わりすぎた。
「ほんま、それでええんよ。すぐ信じる人なんて、逆に怖いからな」
ステラは缶コーヒーを飲み干し、空を見上げた。
「でもな、悠真くん。たまにこういうことって、あるんよ。“なんでかわからんけど、目の前にいる”っちゅう存在」
「....僕が?」
「うん。うちがこの町におって、キミがこの町に戻ってきて、たまたま今日出会った──それがもう、十分不思議やろ?」
蝉の声が戻ってくる。 風が木々をゆらし、どこか遠くで子どもの笑い声が聞こえた。
現実が、少しずつ戻ってくる。
「キミには、何かが欠けてるように見える。....いや、違うな。何かが止まったまま、って感じや」
「........」
「けど、止まったもんは、ゆっくりでもまた動く。──誰かと一緒に、時間を過ごすうちにな」
その言葉が、胸の奥にすっと入り込んできた。
ステラさんはベンチから立ち上がると、ポケットからレシートを取り出して、ひらひらと振って見せた。
「よし、買い物したし、任務完了やな。悠真くんも、重いもん持って偉い偉い」
「はぁ....」
「ま、またヒマやったら、来ぃや。うちはいつもこのへんウロウロしとるし」
僕はうなずいた。 深く考える前に、自然に身体がそう動いていた。
ステラさんは、今日もそこにいた それだけで、ちょっとだけ、呼吸がしやすくなった気がした
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます