30話:名探偵は怒る

 職員室に入ると私は入口付近にあるクリップボードに挟まれた鍵管理のシートをとって、しばっさんの席に向かう。


「ホントにすぐだったな」とクリップボードを受け取りながらしばっさんは言った。

「まあね」と私は室内を見渡して言う。「だれもいないね」

「今週は有給推奨だからな。顧問やってなかったらたいてい休む。平日に何日も休めねえからな。ほかに有給の使いどころがないんだよ」

「意外とちゃんと働いている」

「そりゃそうだろ。明日も来るのか?」としばっさんはシートに印を押した。「ほい」

「明日はそもそも活動日だろ。川口さんが来いってうるさい」と私はクリップボードを受け取る。

「まあ、おつかれ。今日は変なことに付き合わせて悪かったな。今日のことは感謝する」

「プレイヤー・オブ・ザ・マッチは宮田しかいないから、それは宮田に言うべきだ」

「まあ、そうかもしれないな。あいつはふだんから相当カムフラージュしてるってわかったよ」

「それは本人がいままでにも散々言ってきたことだろ」

「思ってたよりずっとだ。とらえどころのないやつだしな。でも、今日ほど鋭かったことはなかったと思うけどな」

「ぼくが今日は頼りなかったと言わざるをえない」

「まあ、いつもとはちがった」としばっさんは認める。「ただ頼りないかどうかは主観だろ? まあ、宮田を褒めたら丸いか」

「そうだね。もしぼくがいなかったら、頭脳という観点においていまこの学校でもっとも有名だったのは宮田だっただろうということは再確認できた」

「おまえがいなくても開校以来の天才とは呼ばれなかっただろうが、天才とは呼ばれたかもしれん」

「宮田はあくまで比較論だが、現状においてはあまりにぼくに近すぎて、異物という感じがしない」

「言ってやればよろこぶのに」

「いや、表面上はよろこぶだろうが、おそらくロクなことにならない。たぶんあいつはぼくと同じで褒められなれすぎている」

「そうか? よろこびそうだが……」

「たとえば釘嶋が早い球を投げて褒められてよろこぶか?」

「釘嶋?」

「野球部エースのことを知らない教員には愛校心を感じないな」

「ないからな」

「まあ、だろうね。釘嶋は130キロ近い球を投げられる。これは一般的に2年生の高校球児にしてはかなり早いほうだ。本人は大学に行ってプロを目指すつもりらしい。中学でも当然のようにエースだったし、九生にもスポーツ推薦で入ってるし、野球に関しては褒められなれている。ただその釘嶋が、釘嶋くんすごい早い球投げるね、って言ってきた女子にとんでもない顔をして礼を言ったのをぼくは忘れない」

「それは関係性もあるだろうよ」

「たいてい他人を手放しで褒める人間は門外漢だろ」

「こと宮田については褒めるならの話だよ」

「それはぼくが普段褒めないからの話だよ。ぼくが褒める行為自体は宮田にとってはなんの意味もない」

「今日は褒められてよろこんでたな、たしかに」

「だから、実感の問題だよ」

「ひとのこころがわからないを自称するのに」

「例外的に宮田のこころはすこしわかる」

「ありていに言えば信頼?」

「ありていに言えばそう」

「そうか。それなら助手を褒めるとしよう。でも、名探偵はご不満か?」

「まあ、依頼としてはカタがついたから満足ではあるよ」

「そのわりには気分が晴れない様子だが?」

「細かいことはいいんですよ」

「よくねえし、細かくねえよ」

「ぼくの感情なんて些事だよ。ぼくはふだん、他人の感情や事情を些事と切り捨てているわけだからね。ぼく自身の感情も些事としなければ、フェアネスが保てない」

「なにと戦ってるんだ、おまえは」としばっさんは笑った。

「世界だよ、もちろん」

「おまえらしいが、共存という選択肢がないことは手落ちでもあるぞ。人生経験上の話だが」

「共存か。まあ、今回はそうなるんじゃない? どうにも解決済みとして処理するのは難しいこともある」

「探偵が謎を残す」

「まあ、そうだね」と私は言った。「とにかく今日は名探偵とその助手にカンパイでもしておいて」

「まだなにも晴れてねえ顔して言うなよ」としばっさんは苦笑いした。

「そんなことは……まあ、ないでもない」と私は認めた。「ひとつ確認したいことがある」

「依頼関連で?」

「そのものというよりは経緯かな。この依頼を安賀多先輩から聞いたとき、しばっさんには重要な感情が芽生えたはずだ」

「どんな感情を想定してる?」

「淡田彗星は安賀多先輩に原稿を見せることには抵抗がないね? そして、早瀬莉子の原稿は持っていないのだから見せられない。だから、安賀多先輩から聞いた時点では隠すことはなにもないはずなんだよ。意味のない秘匿だとは言ったけど、安賀多先輩に対して秘匿すると意味が出来てしまう。まあ、当時の自分の感情をそのときから述べるつもりだったならべつだが。おそらく、ぼくに依頼するときまでそのつもりはなかったはずだ」

「それはそのとおりだな。俺の感情についてはしゃべる気はあまりなかった」

「しかし、しばっさんは原稿開示をいったん保留した。なぜか」

「俺の感情を言う必要があるか確認したかったからだよ、それは」

「だから、そうじゃないといまさっき言ったばかりじゃないか。安賀多先輩から話が来た時点ではなにもない」

「おまえが言ってなかったか? 客観性だよ。おまえは私情を挟まずに事実を伝えるから最適だと思っただけだ」

「結果はそうはならなかったけど」と私は言った。「淡田彗星に対しての配慮自体はすでに言及してるよ。そうじゃなくて」

「安賀多にとって莉子の心象が悪いと思った、と言えということか?」

「そうなるね。安賀多先輩からしてみれば、名前も知らない父親の新しい相手なんて、憎しみの対象でしかない。今日の段階でも早瀬莉子に対する感情はいいとは決して言えなかった。

 しばっさんは早瀬莉子と淡田彗星側の立場なんだよ、どこまでもね。30年くらいの付き合いになるわけだしね。仕方がないことではあるけど、安賀多先輩よりも、淡田彗星側に立っている。

 だから、しばっさんはある程度、早瀬莉子と安賀多先輩の関係改善を望んでいる。

 わざわざセッティングしたのはそういうこと。そして、自分が語るよりもぼくから客観的に語られたほうがよかった。


 結果、ぼくは話すことを選択したが、補強材料である、淡田彗星の作家性の回復についても、話してほしかったんだろう?

 ぼくはあまりそれに乗り気ではなかったが、しばっさんはできるだけ安賀多先輩にと思ってほしかった。

 早瀬莉子の価値を認めて、もちろん好きにはなれないが仕方がない、という状態にしたかったんだよ。

 そのことについては、ややぼくはしばっさんを軽蔑はするよ」

「いいわけのしようもない」

「いいわけできるならして欲しいとさえ思っている。だれがこの結論を望んだっていうんだ」

「怒ってるのか、おまえは」

「ぼくが……? なぜ?」

「一般的に怒りだと思うぜ。まあ、俺は娘のほうの安賀多に怒られるのはしょうがないと思うが、おまえが怒るのはやや意外だった」

「ぼくは怒らないだろう? 怒る理由がない」

「うん、だからそう言っている。が、おまえはたぶんいま怒っている」


 なるほど、納得が行かない。


「怒りはないよ。ない。すべて解決した。補強材料も出したし、おそらく登場人物の大多数にとっていい決着だろう。淡田彗星にとっても、早瀬莉子にとっても、安賀多先輩の母親にとっても、最善ではないが満足はいく着地だ」

「なるほど。安賀多瀬名をのぞいて、という部分か」としばっさんは言った。

「安賀多先輩だけはただ余計な情報を得ただけだ。本人はそれでいいと言っていたが、その情報を出されればその結論しか出ない。恋愛感情という尺で測り続けていた中に、唐突に作家性などというさもかのようなべつの規格を入れられるのはアンフェアだ。ぼくの倫理に大きく反する」

「やっぱり怒ってるじゃないか」

「ぼくには怒る権利はない。情報を依頼者に提供しただけで、ぼくは安賀多先輩の家庭の事情に関しては100%部外者だ」


 いや、怒りであった。

 たしかに私は怒っているのだ。

 なんのために?


「怒り自体は妥当だね」とひとり荒野の第4謎が言った。「もちろん、それは私の名前ではないけど、きみはもう怒るしかないんだよ」


 いや、そんなことはないだろう?

 怒りの目的がわからない。


「いや、もう整理すればわかるレベルだよ、鴫沼住春。きみはもうほとんど自覚している」と第4の謎はいかにも優しそうに告げる。


「安賀多が怒るのは権利のあるなしじゃない、って今日言ってただろ」

「かりに怒りだとしてもフェアじゃない」

「フェアネスを欠いたとしても、だろう。言っておくが、おまえが俺に怒るのはべつに不当じゃないぞ。意外だと言っただけだ。

 あとは舞台に上がるか上がらないか、おまえの問題だ。25年前の俺とは逆に、おまえは舞台に上がれるのに上がりたがらないように見えるね」

「その場合、舞台に上がる資格というのは個人の感情の問題だろう」と私は言った。「ぼくにはそれに類する感情が――」

「なかないだろ、たぶん」としばっさんは言った。


 私が黙ったので、しばっさんは時計を見て言う。

 17時前だ。あと30分もすれば下校時間になる。


「俺は安賀多に怒られても仕方ないという点は、あますところなく受け入れるつもりだが、結果として安賀多と賢章や莉子の関係はおそらく悪いものにはならない。おまえがどう思うかはべつとして、最上級のソフトランディングだよ」

「お望みどおりの着地にできて探偵冥利につきるよ」

「こころにもなさそうな」

「今日の依頼は一定の満足感はあったよ。このぼくをもってしても、新鮮な体験がいくつもあった」

「だから、怒ってても平気ってことか? おまえの感覚はわからんな」

「他人の感覚がわからないことはぼくにとっては普通だ」

「それな、俺にもわからんよ。本当のところは。安賀多も似たようなことを言ってたけどな」

「そんなことはぼくにだってわかってるよ。おそらくだれも他人の感情や感覚なんて理解できない。ただ一般的には理解できるテイを装うから、ぼくはだれも他人の気持ちなんてわからないだろうと断言できないだけだ」

「それはもうフェアというより世渡り下手だろ」

「世渡りくらい下手じゃないと、世界はぼくに甘すぎる」

「そうでもないさ。いろいろな可能性が世界にはある」

「一般論として」

「ただ一般論には。なにかを感じる相手というのは、たいていだれにでもいるものだ」

「さすが淡田彗星の師匠らしい総括だ」

「嫌味か?」

「いや、興味だよ。そのことばに実感が持てれば、ぼくにとって世界はもうすこしおもしろくなるかもしれない」

「本当に今日はめずらしいことを言うなあ」としばっさんはひとりごとのように言った。

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