チルチルウェイストランド
毛玉
1話:この荒野はしゃべる
「どうも、荒野です。今日も暇ですね」
荒野が私に気だるくしゃべりかける。
荒野は環境である。なるほど、環境がしゃべるとはなにごとか。
「そんなこと言ったって、あなたの荒野にはあなた以外だれもいない。いつものとおり無人です。それもこれもあなたが謎を適当に解いて、跡形もなくしてしまうから」
すぐに謎が解けるのは私のせいだろうか、いや断固として否である。
そもそも適当にも解いていない。
どちらかと言わずとも適当に見える程度の速度で消える謎のほうに問題がある。
「いやね、それはそれでいいんですけど。あなたの場合はそれでいて謎謎謎うるせえからいけねえんですよ。偏食家がグルメ気取るとロクなことにならねえです。ということで、そろそろ卒業式ですね」
この荒野、コミュニケーションに難がある。話題の切り替えが雑すぎる。
「自虐ですか。今日あたり来るとあなたが思ってるから言ってるわけですけど」
ちなみに荒野は昨日も似たようなことを言っていたが、私は1日本を読み、飽きたら学習に時間を充てた。
私が学習の時間を増やせば教師は安堵するかもしれないが、しかし、学習などというものは知識を得るために余った時間を充てるものであって、それ自体は目的ではない。
「学問に終わりはないですからね。そして謎も同様です。どれだけあなたがすぐに解いてしまったとしても、月日は百代の過客にして行き交う年もまた謎待ち」
こう見えて荒野は私の唯一の友人である。
比喩ではあるが、比喩ではない。
やつは私の中の荒野である。
なんとこの荒野、しゃべる。とでも言っておけば、やつの図々しさが際立つことであろう。
ちなみにあたりまえだがやつは私の一部であるので、私の思考は筒抜けである。
「さて、ドアが開く音が聞こえましたね。私はそろそろ黙ります。今日はいい謎だといいですねえ。またのちほど」
*
私立
文芸部だけではなく、部室棟すべてにエアコンがない。
何十年物かわからないボイラー暖房がときおりガタン、カコンとどこから出ているかもさだかではない音を出しながら、部屋を急いで温めている。
夏場は扇風機しかないが、立地が体感的にはとてつもない山の上(といって標高は100メートルそこそこのようだが)にあるので、開け放った窓と扇風機で事足りはする。いや、まだ春になったばかりである。夏の話はいまはいい。
いま着目すべきはドアの話だ。荒野が言うように、いままさに控え目だがちゃんと聞こえる程度に音をたてつつドアが開いた。
「しばっさん、時間にはすこしだけ早いね」と私は春の熊とゴロゴロする云々という箇所まで読んでいた本から目を離さずに言った。
「先生だ、先生。
白髪頭の細身の男がフランクな言葉遣いをされたことに、真剣ではない咎め方をする。
柴田哲朗。
九生高校社会科の教諭で、数十年にわたって文芸部の顧問をしているおっさんである。
九生高校では数年で顧問をローテートする傾向にあるが、とくに実績のある教師は部活動の結果が良好な限り長期政権を築く。吹奏楽部や競技かるた部も数十年顧問は変わっていないが、それぞれの顧問はその道でかつてそれなりに実績があり、年度によって差はあれど生徒たちからそれなりに支持を集めている。
結果が出ている限りご自由に。じつに私立らしい采配だ。
つまり、柴田哲朗には文芸方面でそれなりの力量と実績があると考えられていると言っていいだろう。
「まあいいじゃん、そういうの」
「よくないですよ」としばっさんは言った。
「で、呼び出したからにはまた頼みごとなんだろうね?」
「依頼するのは俺じゃないけどな」
「それもいつものことでしょ」
「ところで、なんでわかった?」
「今日はいつもとはちがって、話があるとしか言わなかったのに?」
「……俺はそこそこアタマがいいつもりでいたけど、おまえと出会ってからはもうアタマがいいと自称するのをやめた」
「先生でしょ。そもそも自称しないほうがいいと思うよ、教育上」
「まあいいじゃん、そういうの」
「まあいいけどね」と私はそれ以上読むのをあきらめて本を閉じる。「ぼくはひとの気持ちはわからないが、ひとの様子がわかる、それだけのことだよ」
「言ってないものはわからんだろ、ふつう」
「ぼくと宮田を呼んだら、なんであれそうだよ」
「でもいつもとはちがうと前置きはされる。難儀だ」
「いつもはもっと……おもちゃを買ってきた父親みたいな感じだよ、しばっさんは」
「なるほどね。今日は?」
「不倫の証拠の検分を子どもにさせる父親」
「ロクでもねえな」
「そうは外れてないと思うよ。このぼくをもってしても言語化ははばかられるけど」
「人生には多少の謎があったほうがいい」
「同意だね。ぼくの前にある謎はすぐに消えすぎる。果たして愛すべき退屈な日常だ」
「満足いただける謎になるかはわからんが、不倫おじさんは依頼者を紹介していいか?」
「受けるよ。おそらくそうだな……時期的にしばっちゃんのオム・ファタールがらみだろ? ぼくは
さて、ここでしばっさんの依頼者を私がなぜ特定できたのかを諸兄に伝えねばならないだろう。
フェアネスはいつだって世界を平和にする。
しばっさんは文芸部の顧問をして数十年になるが、そもそも最初に文芸部の顧問に配置されたのは、大きな出版社のそれほど注目されていない賞をとった過去があるからだ。優秀賞だったか奨励賞だったかで正賞ではなかったが、高校の文芸部顧問としては申し分ないくらいの実績だ。
ただ、いま現在、しばっさんの文芸部での実績は、過去の生徒のひとりがとてつもなく文芸の道で成功したことだと言える。
淡田彗星。
いわゆるエンターテイメント小説の最高峰的文学賞のうちのひとつを受賞しているベストセラー作家さまだ。
九生高校の玄関付近、校長室と受付の前にトロフィーやアチーブメントを飾っているガラスケースがあるが、吹奏楽や運動部のトロフィーにまぎれて、4、5年ほど前に行われた淡田彗星の受賞記念講演会の写真も飾られている。
図書室には寄贈本コーナーもあり、インタビューや著作の売れ行きが記事になったときのスクラップさえ用意されている。
中核都市でもない地方の寂れた都市の偏差値が言うほどではない程度の進学校にしてみれば、とてつもなく誇っていい卒業生にはなるのだろう。
正直に言えば御大層な扱いだなとは思うが、誇れるものは誇っておけというのはわからなくもない。
じつのところ私は淡田彗星自体にはさしたる興味はないが。
ただ、淡田彗星の名前を聞いたことがない生徒はおそらく校内にはいないし、しばっさんにとってもっとも印象深い生徒であることもまちがいないということは事実だ。
だから、柴田哲朗にとって、淡田彗星はオム・ファタールだ。
「あ、いつも言ってるけど、聞かれそうなところでは敬語使えよ」
「いまさらだけど、そのようなミスをしないことがぼくの信条なんですよ、先生」
「さようか」
「さようじゃ。そして、おそらくこれから来る依頼者の前ではその懸念はいらない。つまりいまのは余計なひとことだ」
しばっさんはなにも言わないが、おそらく私とTPOということばはこの世でもっとも相性の悪い組み合わせのひとつだと確信していることだろう。
ああ、わかってないと言わざるをえない。
「入ってもらったら?」と私は言った。
「部室に許可なく部外者を入れるなってうるさいだろ」
「依頼者様は関係者だ」
「すぐに謎ですらないとか罵倒するくせに」としばっさんはドアをあけた。「入っていいって」
ドアから入ってきたのは女生徒だった。
上履きのラインが赤。九生高校のルールでもうじき卒業する3年生であることがわかる。
髪は肩よりほんのすこし短く、手入れされていることが端的に主張されている。
背は155センチくらいで、やや小さいように見えるが痩せても太ってもいない。
全体的に柔和でおぼろげな感じではあるが、目からは気弱な印象は受けない。
春休みらしくジーンズとパーカーというラフさだが、それでもその容姿にはとりたてた欠点が見当たらない。
彼女のことをファム・ファタールだと呼ぶひとがいてもおかしくはないだろう。
ありていに言えばたいへん好ましい見た目だと言わざるを得ないが、ルッキズムへの傾倒は品性を欠くのでこれ以上は止す。依頼者の容姿で依頼に影響が出ることはありえないが、露ほどの疑念ももらいたくはない。
「おはよう」とはっきりとした通る声で女生徒は言った。
「どうも、先輩」と私は言う。「はじめましてですね?」
「だと思うよ。わたしはきみのことを知ってるけど」
「なるほど?」
「有名人だからね、きみは。九生高校で2人目の天才だって」
「解釈のちがいでしょう。学力については初めての天才だと思いますよ」
「分野のちがいはあるけど、ってことよ。いきなりだね、きみは」と女生徒は苦笑いする。
「まあ、つまり、あなたが
安賀多先輩はあきらかに驚いた表情を見せる。
な、言っただろ、と言わんばかりにしばっさんが安賀多先輩を見る。
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