第3話
目を覚ましたイシュマエルは、ヤコブよりも早くに起きて、ペコペコのお腹に昨日の夕飯を詰め込みました。そうして彼が起きてくるよりも前に、作業着に着替えて、仕事を始めました。その背後には、「あいつだけ得するなんて! こうなったら、オレンジをめちゃめちゃにしてやる」という利己的なたくらみがありました。そして、彼は果実を収穫するわけでもなく、たわわに実ったそれをいたずらに摘み取り、地面に落としました。
イシュマエルが邪魔をし終えたころ、畑に出てきたヤコブは惨状を目にしました。日頃より愛情を注いでいた数えきれないオレンジの大半は、地面に落とされ、踏みつぶされていました。
甘酸っぱい匂いがヤコブの鼻腔に充満しました。
麗らかな日差しと新鮮な香り、その中でヤコブは言葉を失い、呆然としながら周囲を見渡しました。それは悲しみに満たされた胸中に芽吹いた感情が起こした行動でした。
憤りの視線の先に映ったのは、イシュマエルの笑っている顔です。
二日前から常に不機嫌であったのにもかかわらず、同居人は愉快そう(楽しそうではありません)に笑っていました。ヤコブは「彼がやったわけがないだろう?」と思いましたが、彼のもとに近づいていくごとにより強くなっていくオレンジの香りに、友情によって担保された確信は猜疑へ変わっていきました。
「おはよう、イシュマエル」
「おはよう」
猜疑心は徐々にもう一つの確信に変わっていきました。
ヤコブとは異なり、心から滲み出る喜びがイシュマエルのぶっきらぼうな挨拶を彩っていました。
「僕のオレンジひどいことになってるよ」
「それは大変だ。稼ぎが少なくなる」
立ち上がったイシュマエルは、腰を摩りながらニタリと笑みを浮かべました。汗と土で汚れた彼の顔に、それはあまりに似合っていません。
もじゃもじゃの髭を摩るイシュマエルに、ヤコブは「そういうことじゃないよ。犯人を捕まえないと」と、半信半疑に言いました。
「そうだな。でもオレンジがああなったのは、自業自得かもしれないぜ」
勧善懲悪の態度ではなく、被害者にも非があるという態度にヤコブの猜疑は確信に変わりました。彼は「そうだね。確かにそうだ」と言い、イシュマエルに背を向けて踏みつぶされたオレンジを回収しに向かいました。
復讐の情を抱くヤコブの背に、イシュマエルは悪意の微笑を注ぎました。
別個の意味を持つ仕事は、別個の作業で片付けられました。イシュマエルは一人で樽の中に球根を詰め、ヤコブは樽の中に潰されたオレンジを詰めて堆肥置き場に捨てました。
牛車の音が近づいてきました。
一人で樽を軒先に運び、イシュマエルはおじいさんから銀貨一枚を受取りました。彼の心持ちとしては「ざまあみろ」と、先に家に戻った同居人に対する悪意が大半でした。ほんの一部分に申し訳なさはありましたが、自身の感情に基づく仕事が成就した喜びと比較すれば塵みたいなものでした。
家に入ったイシュマエルは、お風呂から上がったヤコブと顔を合わせました。髭は水をたっぷり吸って、顎先からだらりと垂れていました。彼の顔もそれに似て活力と言うものが、一切籠っていませんでした。
「どのくらいで売れた?」
「銀貨一枚さ」
ヤコブは嫌味を存分に含め「安いね」と呟くと、食卓に一人分の夕食を用意し始めました。
「それでも稼ぎは稼ぎさ」
同居人の嫌味に苛立ったイシュマエルは、足音をわざと大きく立ててお風呂場に向かいました。
別々に夕食を食べ終えた二人は、顔を合わせることなく寝る支度を済ませ、各々の部屋に戻りました。そうして狭い部屋に置かれた古い机に肘を立て、同じように祈りを捧げるのです。
二重の仕事を成就させたイシュマエルは部屋の吊り電灯を消して、ベッドへ横になりました。疲れ果てた体は早急な睡眠を求め、瞼を重くさせました。彼は閉じた瞼の裏に、日中、ヤコブの顔を見て覚えた罪悪感を思い出しました。達成感によって存在を消されていた感情の種は胸中で芽吹き、繁茂し、彼の心を支配していたのです。そのために彼は自分自身に対する不信を抱き、胸がやけに重くなりました。
イシュマエルは眠いのにも関わらず、不信感が胸から溢れて寝付けませんでした。明日も仕事をしなければならないのに、入眠できない状況は彼を焦らせ、さらに睡眠から遠ざけました。
イシュマエルはこの状態を打開する術を昔の経験から学んでいました。
彼らの幼かったころ、二人は羊の玩具(ままごとに使うほんの小さな木の羊です)を取り合ってひどい喧嘩をしました。仲介してくれる人がいなかったので、罵詈雑言を吐き合い、互いがひどく消耗するまで喧嘩は続き、最終的に「絶交する!」と言い合いました。
ですが、小さな子供の二人っきりの生活です。口を利かなくなってから数時間後には、心が痛くなる寂しさが襲ってきました。それは時間が経つごとに強まっていき、二人は自分の部屋で涙を零してしまいました。そして、それにどうしても耐えきれなかった二人は自室を出て、一階に下りて食卓を囲みました。はじめは言葉がなく、つらい沈黙が二人を包みましたが、「今日はごめんなさい」とイシュマエルが言うと、空気は途端に変わり、ヤコブも泣きそうな顔をしながら「ごめん」と返しました。この謝罪は痛みに沈む心を癒し、二人に再び言葉を与えました。
この幼い日の経験に従えば、素直に謝ることで胸中の不安を取り除けられます。イシュマエルはそのように思い立ち、ベッドから体を起こしました。
その瞬間です。
昨夜と同じ壁を叩く音が今度はイシュマエルの部屋に満ちました。彼は「謝りに行ってやろうと思ったのに!」と、胸の中で叫ぶと再びベッドに横たわりました。
繁茂した不安を焼き尽くす烈火の如き激情は、イシュマエルの体に眠りを与えました。雑音は疲労のたまった体には子守歌に過ぎません。
重い瞼をその動きに任せて閉じたイシュマエルは、その脳裏にヤコブへの憤りを描きながら深い眠りに落ちました。もっとも、焼き尽くされたはずの罪悪感の一部は、彼に根付いていたのですが。
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