第40話
毎日同じ時刻に起床して、同じ道順で学校へ向かう。教室に入れば、生徒の顔に名前のプレートが貼り付いていた。
その子の性格や抱える問題。教師になりたての頃は、キラキラとした理想を持ちながら熱心に対応していた。でも年を重ねるごとにそれが無意味なような気がしてきた。
聞けばくだらない悩みばかり。恋愛、親との些細な軋轢、部活動でレギュラーになれない、テストの点数が上がらないなど。生徒は入れ換わるが、抱える問題に大差はなかった。繰り返される単調な毎日。自分が行う授業内容も中高ともそれほど変化はない。
チャイムが鳴り教室に入って、制限時間内で授業を行う。特に質問もない。自分が朗読をして、時には生徒にも同じ事をさせる。それを何年も繰り返し、これからも同じ事を続けて行くのだろうか。そんな嫌気にも似た疑問を抱え過ごしていた。
それでも教師は聖職者であり、子供相手の職業。形ばかりにも生徒を相手しなければならない。心では煩わしいと思いながらも、親身な振りをしながら昔に使った答えを、使い回ししていた。疲れた心が枯れ、それに少しでも潤いを戻すために、暇を見つけては図書室で読書をしていた時だった。
「ここいいですか?」
座っていた席の向かいに、当時副担任をしていた特進クラスの野元(のもと)海人(うみと)が声を掛けてきた。担任とは付いてはいるが、滅多に副担任として教室に顔を出す事は無い。そのため中には、自分が副担任だと忘れている生徒もいる。私は軽く返事だけをした。本を読んでいると視線を感じ顔を上げると、野元くんがずっと私の方を見ていた。
「どうかした?」
「先生も読書が好きなんですか?」
「ええ、まあ」
「それ、シンデレラですよね?」
「ええ、よく分かったわね」
「童話が好きなんですか?」
「いい大人が変かしら?」
読書の邪魔をされて少し苛立った私は、放っておいてくれと言わんばかりに言い放った。
「すみません」
少し冷たくし過ぎたかも知れない、思い直して言葉を掛けようと彼とちゃんと向き合った。彼は肘を付きながら私をまだ見ていた。目が合うと陽だまりのように微笑む。眼鏡をかけ少し長めの髪は野暮ったい風に見えるが、よく見ると端正な顔立ちをしている。
この時、私は彼に心を持って行かれたのかもしれない。ただ私は恋愛に疎く経験はゼロに等しい。だからあの時の心臓が締め付けられる様なそれでいて、ほんのりと甘いお菓子を食べた時の小さな幸せが同時に襲って来た感覚が、疲れから来るものだと錯覚した。私は彼から目が離せなくなっていた。
「先生?」
彼が透き通るような声で自分の名前を呼ぶ。
「え? 何?」
「僕、昼休みには図書室にいるんです。先生は昼休み、何処にいるんですか?」
「私は、そうね。これから私も昼休みは図書室に来ようかしら。静かだし」
私は何も考えずでも、動物が本能で水場があるのを知っているかのように、彼の言葉に誘われように答えていた。それから私は昼休み、時間が出来ると図書室に足を運んでいた。通うにつれ足早に図書室へ向かっている自分がいた。どうしてそうなるのか、自分でも分からなかった。
中に入ると既に彼が本を読んでいる時もあった。彼が私に気が付いて、あの笑顔をくれる。私が先に着いた時は、彼の姿を探していた。互いに本を手にしながら、お勧めの作家や、今読んでいる物語の話し、彼の将来の話しをするようになっていた。
傍から見ればただの読書好きな教師と生徒の会話だったかもしれない。でも自分にとってはいつの間にか、彼と会う事と話す事が目的となっていて、若い子が騒ぐように心がうるさかった。
打ち解けていくうちに、彼が文芸部に所属し、公募した作品が賞を取った事も知った。お願いして読ませてもらったが、中学生の彼の今後が大いに期待できる作品だった。私が彼の作品を褒めると、白い肌が薄らと桜色をしたのを鮮明に覚えている。
いつからだったか、自分が彼に対して抱いている感情が恋心だと分かった時は戸惑った。年下、それも中学生の教え子。堕落した教師とはえ聖職者の端くれ。もう図書室に行くのも止める事も考えた。でもどうしても彼に会いたかった。授業中の彼だけでは足りない。近い距離で彼を見ていたかった。そうする事で自分の感情を保っていたのかもしれない。
彼はいつも輝いていた。紆余曲折をするかもしれないけど、これからもずっと彼には輝いていて欲しい。何か困った事があった時は、自分に相談してくれるだけでいい。初恋は実らないものだから。私は想いを募らせながら、教師と生徒の関係を続けていた。
それは高校に上がる少し前だった。まだ少し肌寒い空気と窓から射す温かい光が心地よかったのを覚えている。その日の図書室は私と彼しかいなくて、まるで世界に二人きりのようだった。だから息をする音さえ恥ずかしく思えた。
「先生」
「どうしたの?」
「好きです」
「え?」
「僕は先生の事が好きです。まだ先生から見れば子供かもしれません。でもこの気持ちは本物なんです」
いつもと変わりがない声のトーンで静かで、唐突な告白だった。それなのに一言毎に真剣さがあった。思わず立場を忘れて同じ気持ちだと、口から出てしまいそうになった。
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