世界と、そこにいるあなた

@eva00801

第0話



「愛しい人、起きる時間よ。」


ぼんやりとした意識の中に、甘くて馴染み深い声が染み込んでくる。姉の声だ。温かく甘い香りが鼻腔を満たし、顔にかかる何かがくすぐったい。姉の髪が、サラリと僕の顔に垂れているのだろう。その香りが徐々に近づき、しっとりとした温もりさえも感じられるようになった。


僕はまだ半分寝ぼけた頭で、この状況を当然のように受け入れていた。……ん? 待てよ。『愛しい人』? 僕のことか? 妙な呼び方だ。それより、姉がどうして僕の部屋に? 確か鍵は……。脳がゆっくりと覚醒を始めた。


ゆっくりと瞼を開ける。朝の光はまだ顔を照らしていない。視界が徐々にクリアになり、目の前の光景が浮かび上がる。


──息を呑むほど美しい顔だった。


透けるように白い肌。高くすっと通った鼻筋。そして、柔らかな琥珀色をしたその瞳は、見つめる者の魂ごと優しく包み込みそうな温もりをたたえている。長すぎず、けれども主張を忘れないまつ毛。心臓が、ドクンと大きく跳ねた。あまりの光景に、僕は完全に目を覚ました。


「おはよう、愛しい人。」

「え、おはよう……姉さん? ちょ、ちょっと待ってよ、姉さん。その変な呼び方、どういうこと?」


「ん? 変かな?」姉は可愛らしく首をかしげた。「愛しい人、嫌?」

「……姉さんがそう呼びたいなら、別にいいけど」


「うん。愛しい人は、いい子ね」

「あの……姉さん。そろそろ洗顔に行っていい? 何だか、ずっと近くにいるし……」


「ふぅ……わかったわ。だって、私は愛しい人が大好きだから、無理強いはしないもの」姉がようやく顔を離し、僕はゆっくりと上半身を起こした。

「先に朝ごはんの準備をするね。愛しい人は、遅れないでおいで?」

そう言うと、姉は優しく──まるで小さな子どもを撫でるように──僕の頭を撫でて、部屋を後にした。

その背中に向かって、かすかに呟く声が聞こえた。

「……ちっ、もうちょっとでキスできたのに」


(聞かなかったことにしよう……)


洗面を済ませ、ダイニングに着くと、姉はもう食卓を整えていた。

「塵くん、早く食べて。遅刻しちゃうよ」

「やっと普通に呼んでくれたんだ、姉さん」


「愛しい人、今日は緊張してる?」

(……来た。いつものパターンだ)


「別に。普通の入学式みたいなものだろ?」僕は姉の手作り朝食を口に運んだ。うん、相変わらず美味しい。

「緊張してないならいいけど……でもね、少しは『危機感』を持っていた方が、いいかもよ?」姉は優しい──しかしどこか含みのある──眼差しで僕を見つめた。


今日は、僕が『鴻舟(こうしゅう)』に入る日だ。

鴻舟は、この地域で『銘使い(めいづかい)』を管理する機関。銘使いに学びの場を提供すると同時に、彼らを集め、『逆(ぎゃく)』と呼ばれる存在と戦う拠点でもある。

姉も、かつては優秀な銘使いだった。しかし今は、何らかの理由で『銘(めい)』の力を失ってしまっている。

姉と僕には、血の繋がりはない。僕は姉に引き取られた子供だ。なぜ僕を選んだのか、何度も尋ねたことがある。

「だって、あなたが好きだからよ」

姉はいつも、そう笑って答える。僕のどこに、そんな価値があるのだろう。未だに、答えは見つからない。


「愛しい人、行ってらっしゃい。おうちで、帰りを待ってるからね」

姉の唇が、そっと僕の額に触れた。その温もりを感じながら、僕は家を出た。鴻舟行きのバスに乗り込む。

今日という日は、あらゆる意味で──僕の新しい一日の始まりだった。

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