Let It Be

灯守 透

Let It Be

蝉がやかましく鳴いている。

冷房をつけ、遮光カーテンを引ききったこの薄暗い部屋にも、その喧騒は容赦なく届く。

ただ──もう二度とこの音を聞くことはないのかと思うと、不思議と煩わしさは薄れていた。

僕は、あらかじめ用意していた椅子にそっと足をかけた。

その時だった。

リビングの方から、ビートルズの『Let It Be』が流れてきた。

つけっぱなしにしていたテレビから。蝉の声を打ち消すためか、あるいは心を落ち着けたかったのか、自分でも理由ははっきりしない。

チャラチャラした歌詞の薄いバンド、見分けのつかない韓国アイドル、下品な言葉を撒き散らすラッパー──

そんな音楽ばかりが身のまわりにあふれていたからこそ、この曲はやけに懐かしく感じた。

そして──

その旋律とともに、僕の中で封じていた記憶がほどけていった。

それは、人生でいちばん綺麗だった夏。

すべてが新鮮で、胸が弾むようにワクワクしていた頃の、あの夏休みの記憶だった。


小学四年生の夏休み。

両親の仕事の都合で、僕はひと夏を田舎の祖父母の家で過ごすことになった。

家から車で二時間。

山に囲まれたその古い家を、僕は正直あまり好きではなかった。

祖父が冷房嫌いで、室内はいつも生ぬるい扇風機の風。

歩くたびに軋む廊下、そして何より、ぼっとん便所の存在が苦手だった。

子供ながらに「時代遅れ」と感じていたのだと思う。

いつも訪れるたびに、早く帰りたいと願いながらポケモンのレベル上げや、モンハンをひとりで黙々と進めていた。

だからその夏、親に「しばらく預ける」と言われた時、僕は我ながら驚くほど泣き叫んだ。

小さな身体と乏しい語彙を総動員しての、必死の抵抗だった。

初日の夜。

眠ったふりをしながら、母と祖母の会話を聞いてしまった。

「この子、頭がいいからなのか、変に達観しちゃっててね。友達もあまりいないの。ちゃんと学校でやっていけてるのか、心配なのよ……。もっと子どもらしく、子どもにしかない楽しさを、ちゃんと味わってほしいの」

母の声は小さかったが、ひとつひとつの言葉が胸に刺さった。

「僕がもっと馬鹿で、周りと騒げる子だったら、もっと愛されたのかな」

そんなことを考えて、布団の中で泣いた。

祖父母に悟られないよう、声を殺して。


少しはこの生活にも慣れ始めた頃だった。

祖母が、ぽつりと僕に言った。

「少し外で遊んでみたら?」

僕は顔を上げずに答えた。

「こんな田舎に友達なんていないし、家でゲームしたり本を読んだりしてる方が好きだよ。寂しいとか、思ってないから」

祖母のあの表情は、今でも忘れられない。

黙って僕の顔を見つめて、何か言いたそうに、でも言葉を選んでいるようだった。

「ジュース飲む? お金あげるから、買ってきたら?」

自販機は、そこそこ歩いた先にしかない。

それでも、少しでも外に出してやろうという意図が、幼い僕にもはっきり伝わってきた。

もうこれ以上、あの顔を見ていたくなかった僕は、素直に百円玉を受け取り、家を出た。

皮膚を刺すような日差し。

額をつたう汗。

遠くの空に浮かぶ入道雲。

どこまでも続く蝉の声。

歩くたびに喉が渇いていくのが分かった。

坂を下って大通りへ出て、そこからさらに十分ほど歩く。

ようやく辿り着いた自販機で、僕は百円のサイダーを買った。

祖父とこの道を歩いて、よくこのサイダーを飲みに来たことを思い出す。

隣にあったベンチに腰を下ろし、缶を開けた。

そのとき、背後から声がした。

「君、見ない顔だね。何してるの?」

振り返ると、麦わら帽子にタンクトップ、短パンにサンダルという、田舎らしさのかたまりのような少年が、そこに立っていた。

坊主頭に焼けた肌が、陽の光を照り返していた。


「夏休みの間、ばあちゃんちに預けられることになってさ」

僕は、目線を落としたままそう呟いた。

「へえ、そうなんだ! そのサイダー、美味しいよね!」

あいつは太陽みたいな笑顔で言った。

「じいちゃんがよく買ってくれたんだ」

「そうなんだ。今日ヒマだったら、ここら辺案内してあげるよ!」

「……ヒマじゃないよ。今日中にポケモンの四天王、倒したいんだ」

「ポケモン!? 見せて!」

好奇心に目を輝かせるあいつに、ちょっとだけ嬉しくなって、ポケットからDSを取り出して見せてやった。

「赤と黒のDS、かっこいいね! これで今から四天王に挑むの?」

「じいちゃんに買ってもらったんだ、これ。まだ挑まないよ。手前の洞窟でレベル上げしてるんだ。今のままだと勝てないからね」

「へえ、やってみたい! 教えて!」

その一言が嬉しくて、僕は得意げに説明を始めた。

こんなふうに、僕のちょっと捻くれた言い方を嫌がらずに、一緒に笑ってくれる子は初めてだった。

気がつけば、陽が傾いていた。

「そろそろ帰るね。ばあちゃんが心配するから」

「そっか! じゃあ、明日も遊ぼうな、太一!」

「……え、なんで名前、知ってるの?」

あいつはニヤニヤしながら、開きっぱなしのDSの画面を指さしていた。

そこには、僕のポケモンの主人公の名前——“太一”の文字。

自分でも分かるくらい、顔が真っ赤になっていた。

「君は? 名前、なんていうの?」

少しの間、考える素振りを見せたあと、あいつは笑顔で言った。

「かっちゃんって呼んで!」

そう言い残し、ひらひらと手を振りながら、駆けていった。


「ただいまー」

玄関の戸を開けると、ばあちゃんがニヤニヤしながら顔を出した。

「おかえり、太一。……なんだか良いことでもあったの?」

「ないよ、別に。ちょっと友達にポケモン教えてただけ」

そう答える僕の声が、どこか浮いていたのかもしれない。ばあちゃんはふふっと笑ったまま、台所に戻っていく。

「今日は太一の好きな卵焼きにしたよ」

「え、あの……甘いやつに醤油かけるやつ?」

つい、目がまあるくなってしまって、自分でもそれに気づいて恥ずかしくなった。

「じいちゃんのとこ、行ってくる」

「はーい」

じいちゃんの前に正座して、今日あったことを話した。

かっちゃんのこと、サイダーのこと、ポケモンのこと。

じいちゃんの写真が、いつもより少しだけ笑っているように見えた。

その夜は、不思議とぐっすり眠れた。

次の日。自販機の前まで行くと、かっちゃんはもうそこにいた。

「よぉ、太一!」

昨日と同じ笑顔で、手を振ってくる。

「なんでいるんだよ。別に待ち合わせしてないだろ」

「太一、そろそろ来る頃かなって思ってさ!……なぁ、太一、カブトムシ好きか?」

「カブトムシ? 小さい頃は好きだったけど、もうそういうのにワクワクする年じゃないよ」

かっちゃんはケラケラと笑った。

「ガキが何言ってんだよ!」

「かっちゃんだって変わんないだろ!」

ちょっとふてくされたように言い返すと、かっちゃんは胸を張って言った。

「いいから、カブトムシ取りに行こうぜ! ポケモン教えてもらったお礼に、俺がカブトムシの取り方教えてやるよ!」

「えぇ……」

口では嫌そうに言いながらも、足はかっちゃんについて坂を登っていた。

そして、僕たちはそのまま山へと入っていった。

森の中に入ると、空気が変わった。

冷たい風が汗ばんだ肌に当たって、心地よかった。

木々の間から差し込む光が、緑の葉に反射してきらきらしている。

「カブトムシって、昼間にいるの? 夜のイメージだけど」

前を歩くかっちゃんに声をかけると、彼は振り返りもせずに言った。

「たまにいるんだよ、蜜に夢中で夜が明けたのも気づいてないやつがさ! 蜜が出る木、何本か知ってるから、順番に回るぞ!」

「……えぇ」

渋い声を出したけれど、足は止まらなかった。

嫌そうなフリをしながら、どこか楽しかった。


「かっちゃん、いないじゃん……」

「諦めるなよ。絶対いるって!」

どこからその自信が湧いてくるのか、不思議だった。根拠のない言葉なのに、なぜか信じたくなる声だった。

「なあ、歌でも歌いながら探そうぜ。太一、好きな歌とかあるか?」

少し考えてから、僕は恥ずかしそうに口を開いた。

「……ちいさな頃には〜宝の地図が〜」

「知ってる、それ!」

かっちゃんはすぐに続きを歌い出す。

「頭の中に浮かんでいて〜いつでも探したキセキの場所を〜」

二人の声が、木々に反響しながら山道に溶けていった。

蝉の声と葉擦れの音に混じって、僕たちの歌が風に乗る。

「かっちゃんは? 好きな曲ないの?」

「うーん、太一も知ってそうな最近のやつだと……これかな」

彼は少し得意げに歌い出した。

「水芭蕉揺れる畦道〜」

「……夏、まだまだあるぞ? しかも、それ全然最近の曲じゃないし」

吹き出しそうになりながら僕が言うと、かっちゃんは急に振り返った。

「そうだよ! 夏は、まだまだ始まったばかりだ!」

どこまでも青く澄んだ空に、彼の声がまっすぐ突き抜けていった。

「夏の終わり〜」

僕はふざけて歌い返した。

二人で交互に歌いながら歩いた、木漏れ日の差す山道。あのときの光も、風も、今でも鮮明に思い出せる。

「おっ! いたぞ!」

かっちゃんの声に驚いて、視線を先の木へ向けた。

その樹の幹には、黒光りするカブトムシが何匹も、蜜に群がっていた。

「うわ……すげぇ……!」

思わず声が漏れた、

「な? 言ったろ。絶対いるって」

かっちゃんは自慢げに胸を張った。

しばらく、僕らはその木の前で静かに見入っていた。言葉はいらなかった。ただ、目の前の光景がすべてだった。

「何匹か持って帰ろうぜ。あのデカいの、皆に自慢できるぞ!」

「……いや、ばあちゃん、田舎者なのになぜか虫嫌いなんだ」

少しうつむきながら答えると、かっちゃんは「ああ〜」と苦笑して、微妙な表情を浮かべた。


そんな日々を繰り返しているうちに、気づけば僕らは毎日のように一緒に遊ぶようになっていた。

昼になると、祖母が茹ですぎてふやけた素麺を出してくれる。それをすすりながら、いつもどおりテレビの音が遠くで響いていた。

「とっても仲の良いお友達ができたんだね。今日も遊ぶんでしょ?」

祖母は嬉しそうに、けれどどこか安心したような顔で言った。

「うん。今日こそ、二人で四天王倒すんだ」

「学校でも、同じように友達できるといいね」

「学校の奴らと違って、かっちゃんは話が合うんだよ。ちゃんと話が通じるっていうか……」

「でも、もう少し太一の方から歩み寄ってみたら?」

その一言で、喉に引っかかっていた素麺が重くなった。

僕は箸を置き、言葉もなく立ち上がった。

「もう行くね。かっちゃん、もう来てるだろうし」

祖母の言葉が続く前に、僕は玄関を飛び出した。

自販機のある坂道の先、いつもの場所。

かっちゃんが手を振って待っていた。

「どうした? なんか、嫌なことあった?」

僕は驚いた。そんなに顔に出ていたんだろうか。

「……僕さ、学校で友達できなくて。放課後も一人でゲームしたり、本を読んだりしてるだけだから……家族に心配されてる」

自分でも驚くほどすんなりと、言葉がこぼれた。

親にも話したことのないことなのに、なぜか、かっちゃんには言えた。

「そうか……そうか」

かっちゃんは、眉を寄せながら、真剣な顔で頷いた。

「学校のやつら、嫌な奴ばっかなんだ。僕のこと『ガリ勉』とか『根暗』とかって言ってきて……」

「それは……ぶっ飛ばしてやりたいくらいだな」

「でしょ? なのに親は、僕が変わらなきゃいけないって言うんだ。僕がもっと、普通になれって」

そのときの、かっちゃんのまっすぐな目を、僕は今でも忘れない。

「太一は、そのままでいいんだよ。ありのままでさ」

そう言って、かっちゃんは言葉を選ぶように続けた。

「周りに合わせることが、いつも正しいわけじゃない。太一のよさ、俺はちゃんと分かってる。きっと太一の“そのまま”を好きになってくれる友達に、いつか必ず出会うよ。だから大丈夫。今の太一のままでいて」

言葉を受け取った瞬間、堪えていた何かが崩れた。

気づけば涙が頬をつたっていた。

バレたくなくて、僕はそっぽを向きながら、袖で乱暴にぬぐった。

「……かっちゃんが、ずっと一緒にいてくれたらいいのに」

そうつぶやくと、かっちゃんは少し黙ってから笑った。

「俺もそうしたい。でも、太一は帰るんだろ? しっかりしろよ。太一なら絶対に大丈夫だ。太一のことを大切に思ってくれる友達ができたら、ちゃんとその子のことも大切にするんだぞ。じゃないと……俺が怒るからな!」

「……分かったよ」

不思議だった。

さっきまであんなに重かった心が、少しだけ、軽くなっていた。


僕らは数々の激戦を乗り越え、ついに殿堂入りを果たした。

最後の画面に「おめでとう!」と表示された瞬間、僕とかっちゃんは顔を見合わせて笑った。

「な? 言っただろ? 今回は勝てるって!」

かっちゃんが声を弾ませる。

「毎回言ってたくせに」

僕も笑いながら、手を差し出した。

乾いた掌同士が勢いよく打ち合わさる。

じんわりと痺れるようなあの痛みと熱は、今でも手のひらに残っている気がする。

「なぁ、太一。暑いし、川に泳ぎに行こうぜ!」

「え、僕あんまり泳げないんだけど……」

「教えてやるって! いいから来い!」

かっちゃんに手を引かれるまま、僕は川へと連れていかれた。

「びびってねーで入れ!」

浅瀬の縁でためらっていると、かっちゃんが思いきり背中を押してきた。

頭までずぶ濡れになって、僕は川底に手をついた。

水面から顔を上げると、かっちゃんが太陽みたいな笑顔でこちらを見下ろしていた。

照り返す日差し、きらきらと反射する水の粒、じりじりと焼けた肌を冷やすような冷たい流れ――

すべてが、気持ちよかった。

「やったな!」

僕は反撃とばかりに、水をすくってかっちゃんにぶつけた。

「やめろってば!」

笑いながら顔を覆うかっちゃんの姿が、妙に可笑しくて、僕もまた笑った。

そのあとは、かっちゃんのスパルタ指導が始まった。

「違う違う! そこで息継ぎだっての!」

何度も沈みかけながらも、気づけば僕は、短い距離なら泳げるようになっていた。

「……はぁ、疲れたなぁ」

水から上がって石を投げ、水切りをしながら僕が言うと、

「若いんだから、疲れたなんて言うなよ!」

かっちゃんは同い年のくせに、ときどき年寄りみたいなことを言う。

「なぁ太一、ビートルズって知ってるか?」

「知らない」

「たぶん家にカセットあると思うから、帰ったら聞いてみろよ。“レット・イット・ビー”って曲だ」

「なんでうちにあるってわかるんだよ」

「だいたいどこの家にもあるんだって、ビートルズは!」

「ほんとかよ」

「ほんと。いい曲なんだ。『あるがままに』って意味だぜ。今の太一に、きっと合うと思う」

「ふーん……」

「絶対、帰ったら聞けよ。約束な」

「わかったよ……」

僕はめんどくさそうに返事をしながら、でもそのとき、なんだか少し胸が熱くなっていた。


風呂上がり、体を拭きながら僕は祖母に聞いてみた。

「ばあちゃん、レット・イット・ビーって曲、聴いてみたい。かっちゃんが、聴けって言っててさ」

「まぁ、お友達ずいぶん古い曲知ってるのねぇ。親御さんが好きなのかしら……あるわよ、たしか。力さんが好きだったの、ビートルズ」

そう言って、祖母は立ち上がった。

力(ちから)。三年前に亡くなった、僕の祖父だ。

思えば僕がこういう性格になったのも、あのときからかもしれない。

葬式の日、取り乱す母の姿を見て、子どもながらに「自分がしっかりしなきゃ」と思った。

「泣いちゃだめだ」って、葬儀の間ずっと太ももをつねってた。

それでも抑えきれずに、頬が濡れたとき――

「太一は、あんなに仲良かったのに悲しくないの?」

母にそう言われた言葉は、今も耳に残っている。

「見つけたわよ」

祖母が、年季の入ったラジカセと一緒に戻ってきた。

「ねえ、ばあちゃん。エアコン、つけないの?」

「力さんが嫌いだったからね。慣れちゃったのよ、私も」

カセットを入れるカチッという音と共に、レット・イット・ビーが流れ出した。

祖母と僕は、言葉を交わさず、蝉の声が混じる部屋でじっとその音楽に耳を澄ませた。

窓から吹き込むぬるい風と、汗の引いていく感覚。

目を閉じれば、じいちゃんがいた頃の居間の匂いまで蘇ってくる気がした。

あれは、いい夜だった。

翌日、いつもの自販機の前でかっちゃんに言った。

「いい曲だったよ、レット・イット・ビー」

かっちゃんは目を輝かせて、「ばあちゃん、なんか言ってた?」と聞いた。

「少し涙ぐんでた。じいちゃんのこと、思い出したのかも」

そう伝えると、かっちゃんは少しだけ照れたように、でもとても嬉しそうに笑った。


「今日は俺の秘密基地、教えてやる!」

かっちゃんが得意げにそう言った。

「秘密基地?」

ついていくと、かなり歩いた先に、ぽつんと小さな校舎が現れた。

「もう廃校になった小学校だ!」

手入れのされていない遊具が錆びついていて、校舎の壁はところどころひび割れている。ほんの少し風が吹くだけで、崩れてしまいそうだった。

「でもさ、遊べるもん結構残ってるんだぞ」

そう言って案内された体育館の倉庫には、使い古された野球グローブ、へこみのあるサッカーボール、色褪せた跳び箱なんかが雑然と積まれていた。

「太一、野球できるか?」

「うーん……昔、ちょっとだけ。じいちゃんとキャッチボールしたくらいかな」

「じゃあ、やるぞ!」

ボロボロのグローブをはめて、二人でキャッチボールを始めた。革の音が乾いた空にパシンと響く。

「太一、好きな子とかいんのか?」

唐突にかっちゃんが聞いた。

「いないよ」

「恋はいいぞ。守りたいって思う存在がいるとさ、人生がぱあっと明るくなるんだ」

また始まった――同い年のくせに、妙に大人びたことを言う。

「まだよくわかんないよ。気になる子ならいるけど」

「ほぉ、聞かせてくれよ」

「同じクラスの子でさ。いつも僕と同じで、窓際で本を読んでる。一人で、静かに」

「……いいじゃないか」

かっちゃんは、にこっと笑った。やけに嬉しそうだった。

「その子を見てるとさ、時間が止まってるみたいに感じるんだ」

「それ、好きってことだぞ。青春だなぁ~

俺なんか、好きな子にはストレートに言ったもんだぜ。好きだって。まっすぐ」

「かっちゃんならそういうの似合うよ。でも僕は違うんだ。クラスで噂されたら、その子に迷惑かけちゃうし」

「気にすんなよ。人の“好き”って気持ちを笑う奴は、心が乏しいんだ。相手にすんな」

そのときのかっちゃんは、不思議なほど真剣な顔をしていた。

――あのときの言葉を信じた自分を、いまなら笑える。いや、笑えないかもしれない。数ヶ月後、僕はかっちゃんの言葉をそのまま信じて、そして傷ついた。

できることなら、このときに戻って、かっちゃんの肩でも思いきり叩いてやりたい。

廃校のあるこの小学校は、少し高台にあって、そこから夕日に照らされた街並みが見渡せた。

壊れかけた校舎の壁も、赤く染まりながら、どこか懐かしい景色の一部になっていた。


僕らは、数日間その廃校で遊び倒した。

サッカーや野球に興じ、ゲームもした。埃まみれの体育館は、いつしか僕らだけの秘密基地になっていた。

その日も、いつものように体育館の隅に腰を下ろすと、僕はポケットからPSPを取り出した。

「今日はモンハンやろうよ。かっちゃんも早く買ってもらってよ。本当はこのゲーム、みんなでやるもんなんだからさ」

「いやー、うちは両親が厳しくてさ。ゲームとか買ってもらえないんだよね」

「嘘つけよ。厳しい親がいたら、かっちゃんみたいな性格には育たないでしょ」

僕がふてくされたように言うと、かっちゃんは少しばつの悪そうな顔をして、苦笑した。

「それより、今日こそジンオウガ倒そうぜ。交換プレイで。今日こそ、あの犬っころをこらしめてやんだ!」

「かっちゃん、下手くそだから無理だよ」

僕がからかうように言うと、かっちゃんは「なんだとー!」と叫んで、僕の肩を叩いてきた。

「見とけよ、今日こそ倒してやるからな!」

悔しそうな顔でPSPを握りしめたかっちゃんは、幾度も挑戦を繰り返した。そしてついに、ジンオウガの咆哮が途絶えたとき、かっちゃんの声が体育館に響いた。

「やったぞ、太一!だから言ったろ!諦めなければ、なんとかなるんだって!」

「……僕が夜なべして揃えた武器と防具のおかげだけどね」

僕がわざと横目で言うと、かっちゃんは満面の笑みを浮かべた。

「そうだ!太一と俺のおかげだ。ありがとうな、太一。俺を勝たせるために、夜中までかけて装備作ってくれたんだろ?」

そのまっすぐな言葉に、僕は思わず口をつぐんだ。意地悪のつもりで言ったはずなのに、まっすぐな光で返されると、なんだか自分が照れくさくなる。

かっちゃんの笑顔が、夕陽を浴びた校舎の壁に反射して、ふいに眩しかった。


「帰ったら、友達にモンハン教えてやれよ。太一、強いんだからさ」

「……みんな弱くて、一緒にやるレベルじゃないよ」

僕はそっぽを向いて、ぼそっと答えた。

「俺には教えてくれただろ?太一は優しい子だ。できるって」

かっちゃんのまっすぐな眼差しが眩しくて、仕方なく僕はうなずいた。

「わかったよ」

嫌そうに返事をしたけれど、それから数ヶ月後、僕は「モンハンのお助け役」としてクラスでちょっとした人気者になっていた。

こっちはかっちゃんの言葉を信じて、正解だった。

その夜、祖母の携帯に母から連絡が入った。

「明日迎えに行くから」と、

あんなに嫌だった祖父母の家が、今では愛おしかった。

茹ですぎて、ふにゃふにゃになった素麺も。

祖父がよく作ってくれた、甘い卵焼きに醤油を垂らして食べるやつも。

全てが恋しくて、胸の奥がじんわりと熱くなった。

「帰りたくないよ……」

布団の中で声を押し殺して泣く僕を、祖母はそっと抱きしめてくれた。

そのぬくもりに包まれながら、ようやく眠りについた。

次の日、自販機の前へ行くと、かっちゃんが先に来ていて、サイダーを飲んでいた。

「来たか。はい、これ」

そう言ってサイダーの缶を僕に差し出すと、かっちゃんは静かに訊ねてきた。

「今日、帰るんだろ?」

「……なんでわかるの?」

「太一が、そんな寂しそうな顔してたらわかるよ」

僕は俯いたまま、小さく答えた。

「帰りたくない。……あの街に戻るのが怖い。友達もいないし、学校も始まる」

かっちゃんは何も言わず、僕の頭をそっと撫でた。その手の温かさが、どうしようもなく沁みた。

「ちょっと歩こうぜ」

そう言って、かっちゃんはいつもの坂道とは逆の、山の方へ歩き出した。

僕はただ、無言でその背中を追った。

しばらくして、かっちゃんが立ち止まる。

「太一、顔を上げてみろ。うつむいてたら、見えるものも見えないぜ」

言われるままに顔を上げると、目の前には広がる景色。

山と山のあいだに開けた街並み。その上には、眩しいほどの朝日。

髪をくしゃくしゃに撫でる風が吹き抜け、空はどこまでも青かった。

何も言えず、ただその風景に見入っていた。


「綺麗だろ。ここが、この街で俺の一番好きな場所なんだ」

かっちゃんの横顔が、朝日に照らされていた。

金色の光がその輪郭を淡く包んで、まるでそこにいるのが、本当に“ただの少年”じゃないような気がした。

「……なんで今まで教えてくれなかったの?」

「太一が帰る日に、二人で見るって決めてたんだ」

そう言って、かっちゃんはまっすぐ僕の目を見てきた。

その瞳は、不思議なほどに大人びていて、どこか寂しげだった。

「太一。世界に絶望しそうになったら、この景色を思い出せ。

 思い出すたびに、世界は綺麗だって、何度だって信じ直せるはずだ」

「……また、かっちゃんと一緒に見られるかな」

声が震えて、喉の奥が痛くなる。

鼻の奥がつんとして、目の縁がじんわりと滲んでいく。

かっちゃんは、ほんの一瞬だけ困ったように笑って、それから静かに言った。

「俺は、いつだって太一のそばにいるよ。

 目を閉じて、この夏を思い出してみな?

 ほら、すぐそこに俺がいるだろ?」

「……そんなこと言わないでよ。また会えるって、言ってよ」

そう縋るように言った僕に、かっちゃんはゆっくりと、けれど優しく答えた。

「大丈夫だ、太一。お前なら、きっと大丈夫になる。

 辛くなったら、目を閉じてみろ。そしたら、そこに俺はいるから」

僕が涙をこらえきれずにうつむいたそのとき、

かっちゃんがそっと僕の手を握った。

その手のぬくもりを感じながら、僕は何も言わず、かっちゃんに引かれるまま帰り道を歩いた。


帰りの車の中、僕はずっと、かっちゃんの話をしていた。

川で泳いだこと、虫を捕まえたこと、ゲームで勝った時のこと——。

母は、うんうんと頷きながら、どんな話にも楽しそうに耳を傾けてくれていた。

それから数年、祖父母の家に遊びに行くたび、僕は必ずあの自販機の前に立った。

日差しが強い日も、風の冷たい日も、サイダーを飲みながら、かっちゃんを待った。

けれど——

かっちゃんが現れることは、二度となかった。

サイダーが百円ではなくなってしまうまで、僕はそこで立ち尽くしていた。

中学でも高校でも、どうしてもうまくいかない日があると、僕は心の中でかっちゃんに会いに行った。

記憶の中のその笑顔に何度も救われた。

でも、社会に出て、仕事に追われるようになってからは——

そんなことも、いつしか忘れていた。

リビングのテレビから、「Let It Be」が流れ終わる。

遮光カーテンの隙間から、ほんの少しだけ光が差していた。

僕は足を椅子にかけたまま、静かに目を開けた。


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