夢幻走

某キタムラ

夢幻走






 目が覚めると、10歳になった恵太郎は、眩しいほどの月光の差す校庭に、ひとり横たわっていた。

 おもむろに立ち上がって周りを見渡してみると、そこはいつも通っている小学校だった。何ら変化はない。ただ、それ以外に、大きな違いがあった。小学校の外にあるものが、月以外はすべてなくなっていることだ。下町の風景の中にひときわ目立って見えるタワーマンションも虚無に帰している。恵太郎は、虚無の空に浮かび、虚無の海に沈んでいた。

 恵太郎は、存在しない永遠に閉じこまれてしまったような気がして、そして、あの虚無に飲み込まれそうな気がして、ただそこにうずくまることしかできなかった。


「ママ、パパ、助けて......こんなの、いや。ずっとここにいるのは」


すすり泣きながら、恵太郎は、搾り出すようにして掠れた声を出した。その時、深く、優しい男の声が聞こえてきた。


「もう、大丈夫。顔をあげて」


 顔を上げると、鮮やかな赤色の花が恵太郎の周りを囲むようにして生えていた。美しい花びらが取り囲む内側には、目玉があった。びっくりして目を背けてしまったが、もう一度見てみるとそれは雄蕊と柱頭だった。葉っぱはギザギザしていて、触ると指の腹を切ってしまいそうだった。

 ただ、声の主はどこにもいない。直接そばで語りかけているようなのに。


「だれ?これはだれなの?」


 恵太郎の目はまだ赤かった。


「まあまあ、まずは落ち着いてさ。そんなんじゃ走れないよ、坊や」


 男の声は、恵太郎を抱擁するように暖かかった。


「走るの?走ったらここから出られるの?」

「うん。出られる。だから安心して」


 男の声が聞こえてからひと時の沈黙をおいて、校庭に石灰の白線が滑らかに引かれ始めた。しかし、あの赤いライン引きはない。2つのラインが、平行にかけっこをするかのようにぐんぐん伸びていった。楕円を描いたラインは、やがて一周した。


「坊やには、このラインの内側を10周走ってもらう。できるよね、学校でもやってるでしょ?」


 冬場には、朝の集会で校庭に集まって、4年生以上は持久走をするというものがあった。10周くらい、全然楽勝だ。

 早速恵太郎は、ちょうどラインが1周したところに向かって走るの始めようとした。

 その時、遠くから近づくように、何かの無機質な音が繰り返し聞こえてきた。


「カチッ、カチッ、カチッ」


「そのメトロノームの音に合わせて走っていって。それが条件」


 メトロノームの音は、恵太郎が走るには到底無理な速さだった。でも、走らなければここから出られない。恵太郎は、全速力で走る決意をして、思いっきり地を踏み出し、進み始めた。






 次の瞬間、太陽が飛び起きたかのように急に明るくなり始めた。そして、淡い幻が周りに現れ始めた。広がったのは真っ白な壁の空間で、少し息苦しさを感じるほどに清潔だった。そこから聞こえてくる、赤ちゃんの甲高い泣き声。うるさかった。それを抱いているのは、恵太郎の母だった。今はつけている黒縁の丸眼鏡も、この時はまだつけていないようだった。母は、普段あまり見ることのない柔和な笑顔を浮かべて、ただ赤ちゃんを見つめていた。


 家の中へと幻が移り変わった。父が、その赤ちゃんをあやしていた。赤ちゃんは、笑いながら、「あー、うー」と声を発していた。父もまた、あの時の母と同じ表情をしていた。

 赤子は、あらゆるもので飽和するこの世界で、「愛」というものをはじめて知った。






 幻の中で走っている。走っているけれども、不思議と全く疲れを感じなかった。それどころか、暖かい浴槽のなかでだらんと脱力しているかのような心地よさがあった。

 メトロノームの音は、少しだけ遅くなっていた。それでも、まだまだテンポは速い。

 また幻が移り変わる。






 さっきの赤ちゃんは、首もすわって、積み木を自分で積み上げて遊ぶようになっていた。そこに母がしゃがんで話しかけた。


「積み木楽しい?」

「んー、ま。ママ」


母は、目を見開いて輝かせた。


「しゃべれるようになったのね!恵太郎」


 それは、言葉という媒介を通じて、はじめて世界と繋がった瞬間だった。






 幻が矢継ぎ早に現れては消えていくのにも慣れて、恵太郎は走り続けた。走り続けるごとに、メトロノームもまた遅くなっていった。少しまた走っていくと、覚えのある出来事も幻に現れるようになってきた。


 もう恵太郎は歩けるようになっていて、身の回りのことはある程度一人でできるようになった。恵太郎は紺色の制服を身にまとい、母と手をつないで桜舞う幼稚園の門をくぐった。門をくぐった先には、園長先生がいた。恵太郎は、手をつないだまま、園長先生と話す母のことを見上げていた。

 話が終わると突然、母は手を放し、踵を返した。


「じゃあね、頑張るんだよ!恵太郎」


 恵太郎には、いつもそばにいてくれたはずの母が自分を置いていってしまうという状況が全く理解できなかった。それでいて母の足取りは少し軽快にも見えて、それが少し不気味だった。


「ママ!、おいてかないで、ママ!」


 その背中を追いかけようとしたが、園長先生に抱っこで持ち上げられていった。

 それは、家庭という無償性の愛で溢れた閉鎖的な世界を飛び出し、疑似的な社会へと飛び出す第一歩だった。


 幼稚園時代の幻は見るに堪えなかった。漏らすわ、騒ぎ立てるわで、まさに「破天荒」という言葉が似合っていた。途中から恵太郎は、幻を見ないように、半目になって走った。






 そのまましばらく走っていると、あどけなさが残るものの、段違いに凛々しくなった恵太郎の姿があった。ランドセルを背負い、黄色い帽子を被った恵太郎は、ハイエースの止まる横断歩道を、手を挙げて渡っていった。煌びやかな太陽の光を反射した水たまりを踏んで白い靴下に水がはねても、お構いなしにずんずんと歩いて行った。


「あのさ、恵太郎って〇×児童館っしょ」

「うん、そうだよ」


 有哉が、恵太郎の席にやってきていきなりそう言った。有哉は5分休みのドッジボールでよく一緒のグループで遊ぶのだが、よく互いのことは知らない。細身の体に不釣り合いなふっくらとした顔に乗っかった坊主頭を眺めながら、恵太郎はそう返した。


「じゃあ、今日一緒に児童館まで行こ」


 恵太郎の母は仕事に完全復帰したため、家には誰もいなかった。小学1年生をひとり留守にしておくわけにも行かないので、学校から直接児童館に行き、母の迎えを待つことになっていた。有哉も同じで、直接児童館まで行っていた。


「そうだね、行こう」


 断る理由もなかったので、快諾した。

 いつものところはひとりでこの道を通るのだが、今回は横にもうひとりいる。有哉は横でスキップしていて、スニーカーの銀色のストラップが光を跳ね返していた。恵太郎も有哉に倣ってスキップをしようとしたが、後ろ足がつっかえてその勢いで前に転びそうになった。



――その光景と、俯瞰と主観の狭間で走る少年が一瞬連動した。後ろ足が置いて行かれたまま、慣性の法則は無慈悲にも少年を前へと引っ張り出す。間に合わないと分かっていながらも、本能は腕を前に突き出させた。ただ、その必要はなかった。お腹あたりをきつく持ち上げられた感触が、そのまま少年を支えた。



 やれやれと言わんばかりに有哉はこちらを見た。

 「まったく、できねぇんだな。教えてやるよ。スキップのやり方を」


 有哉は顔にえくぼを浮かべたが、その言葉には蔑みの意味はなく、ただ恵太郎にものを教えてやろうという単純な動機しか読み取れなかった。


「でもさ、幼稚園のころからどうしてもできなくて......」

「絶対できる。児童館に着くまでにできるようになる」


 そう言って有哉は、恵太郎の左足のかかとを触った。ここから始まった特訓のせいで、児童館までの道のりを、ぎこちない足取りのスキップとも言えないスキップで進んだ。そしてついに。


「ねえ、できるようになった!」


 恵太郎は滑らかなステップで、踊るように進めるようになっていた。しかし、児童館前の段差に足を引掛け、すっころんでしまった。


「いてて......」


 恵太郎は、手を差し伸べてきた有哉に向かってはにかんだ。背の高い有哉と太陽が重なる。起き上がった恵太郎は、改まって口を開く。


「あのさ、友達になろ!」


 このときはまだ、友達になるには形式的な言葉が必要だと思っていた。


「もちろん!いいぜ」


 はにかみ続けていた恵太郎は、また違う色の笑顔になった。


「それじゃあ、これからケイって呼ぶね」


 恵太郎は、その呼び方に何の意味があるのかわからなかったが、なんだか嬉しかった。

 何にも抑圧されない、それでいて無限の延伸性を持つ「絆」という糸で結ばれた「親友」という間柄の存在をはじめて知った瞬間だった。




ここからはもうほとんどの出来事を覚えていて、これといった驚きも感じなくなった。メトロノームの音はついに安定してきて、最初のころと比べるとだいぶゆっくりになってきた。ゆったり走り続けると、ついに今日の出来事までたどり着いた。





「なんで俺らのチームから抜けるんだよ!」


有哉が声を荒らげた。


「そりゃ、有哉たちの足を引っ張りたくないからだよ。」

「わがままって言うんだぜ、それ。ケイがいてこそチームなのに」


 この一週間前、有哉から児童館で行われるドッジボール大会のチームに誘われた。チームは10人構成で、ほかのところからも有力な人を集めていた。ただ、恵太郎は、有哉をはじめとしたメンバーに比べて圧倒的に実力がなかった。運動神経が皆無の恵太郎は、いつも真っ先に当てられてしまう。


「有哉のほうがわがままだよ」

「なんだよ、お前。いいよ、他の奴いるから」



 恵太郎は、帰りの足取りが重かった。

――いいよ、他の奴いるから。

 あの言葉がずっと心に引っかかる。引っ張り出そうとすると、その言葉の棘が返し針になって心が痛む。

 でも、家に帰ったら誕生日ケーキがある。たぶん、大好物のシチューもある。それを考えると、心と足取りが軽くなったような気がした。

 暖色の照明が、リビング全体を照らしている。その光の暖かさが、そのままこの家庭を表しているように思えた。シチューを二杯も平らげて、もうこれ以上ない満足感があった。ただ、冷蔵庫から出されたチョコレートケーキを見て、そんな感覚はどこかへ飛んでいった。年の数だけ置かれたろうそくにバーナーで火が灯され、部屋の電気が消される。


 

「この前生まれたと思ったらもう10歳かー。早いねぇ。子供の成長って」

「確かに早いわねぇ。もう10年たったらはたちよ」


 両親は微笑んだ。いつもは厳しい両親も、まるで生まれたばかりのあの時のようだった。

 バースデーソングを歌ったあと、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。吐き出した息は、淡い幻ごとろうそくの炎を吹き飛ばした。






 恵太郎は声の主に声を掛けた。


「これで終わり?」

「まだだよ。坊やはずっと走り続ける」

「いつまで?」

「メトロノームがやむまで」


 ただ、メトロノームはまだ鳴り続けていた。


「帰れないじゃんか!そしたら」

「帰れるよ。走るのは帰ってから。ところで、幻に映っていたのは坊や自身だったかい?」

「当たり前じゃん。なんでそんなこと聞くの?」

「それはね、これからの坊やはそれで苦しむかもしれないから。坊やは今まで、そこにあったレーンに従って走ってきた。でも成長すれば、過去の自分が嫌になって望む自分を探すようになる。たとえコースをショートカットしたり、それたりしようともね。それじゃあ、元の自分すらわからなくなる。大人と子供の狭間で必死に走っているんだ」

「何を言っているの?」

「いずれ分かるよ」


 目の前に黒い縁の白いドアが現れた。間違いなく、家の玄関のドアだった。

 ドアノブに手をかけると、大事なことを思い出したかのように声が語りかけてきた。


「坊や、全てはでできているよ。苦しんでいる何かも、きっと坊やにとってのになって、坊やのためになるよ」

「うん」

 

 恵太郎はドアを開き、まばゆい閃光に包まれていった。






 目覚まし時計が鳴っていた。AM7:00のベルを右手で停止させて、上体を起こした。外の光と部屋の闇が混ざりあった空気の中で自分の胸元をしばらく見てから、寝起きのおぼつかない足取りでリビングへと向かった。








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