第2話 霊障の契約書
依頼を受けた翌日。
孔音は長谷川智之が入り浸っているという高級バーに足を運んだ。
派手なスーツに身を包んだ智之は、取り巻きのホステスを相手に上機嫌で10万以上もするシャンパンを開けていた。
その金の使い方は、確かに破滅的だった。
孔音はグラスを傾けながら、そっと天眼通を使うことにした。
【天眼通】
時空を超えて、あらゆる事象を見通すことができる力。
遠くの出来事、あるいは物事を、人の動きを見通してしまう。過去・未来の出来事を見ることもできる。
精神の視界を智之に合わせると、奇妙な光景が広がっていた。
智之の魂は、まるで二重写しの写真のようにブレて見える。
一つは、目の前で豪遊する無邪気で空虚な魂。
そしてもう一つ、彼の魂に張り付くように存在する、冷たく澱んだ影。
それは悪霊が持つような禍々しい怨念とは異質だった。
憎悪や悪意の炎ではなく、まるで分厚い氷のような、強固な『意思』だけがそこにあった。
「何だ。これは……」
孔音は呟く。
憑依ならば、憑かれた者の魂が押し込められ、本人の人格を歪ませるはずだ。
だが、これは違う。
まるで、智之という『器』を借りて、影が淡々と『業務』を遂行しているかのようだ。それは、今この場においてでもだ。
孔音はさらに深く、その影の正体を探ろうと天眼通を集中させた。
すると、脳内に奇妙なイメージが流れ込んでくる。
電卓を叩く。
万年筆がサインを走らせる。
そして、銀行で引き出される数十個に及ぶトランク。
全てが金にまつわる、無機質で乾いた映像の断片だった。
「……なるほど。これは単純な話しじゃないな」
孔音のぽつりと漏れた呟きは、重低音のBGMに溶けて消えていた。
智之が数十万の勘定をカード一枚で済ませ、満足げな顔で店を出る。その後を、孔音は間隔を保ちながら追った。
「――長谷川智之さん」
闇の中からかけられた声に、智之の肩がぴくりと震える。
ゆっくりと振り返ったその顔から、先程までの享楽的な表情は抜け落ちていた。代わりに浮かんでいるのは、夜の闇よりも深い、底冷えのするような無感動。
その瞳は、まるで古い井戸の底からこちらを覗き込んでいるかのようだ。
「少し、お話を良いですか?」
呼びかける孔音。
智之の目に、底知れない冷気が宿った。
「……何の用だ」
見た目は若者なのに、声は老年だ。落ち着き払っているが、その声には明確な拒絶が滲んでいる。
孔音の表情は、難解な詰将棋を前にした棋士のようであった。
「その身体に入り込んでいる、あなたに興味がありまして。随分としつこい感情を持ち込んでいるようですね」
孔音の言葉に、智之――いや、彼を操る《何か》は、初めて表情を歪ませた。智之の、それは嘲笑に近かった。
「邪魔をするな。これは俺と、長谷川和也との契約だ。他人が口を出す筋合いはない」
「契約? 随分と一方的な契約に見えますが?」
孔音は訝しむと、智之は苦笑した。
「一方的? 笑わせるな。貸したものを返してもらう。ただそれだけだ。ビジネスの基本だよ」
その言葉には、単なる悪意ではなく、揺るぎない『正当性』が宿っていた。
だが、その瞳は、もはや人間のそれではない。
長年の恨みと執念が凝り固まった、汚泥のような光を宿している。
孔音は怯まなかった。
「あなたの言い分は分かりました。でも僕も依頼人の人生がかかっていますから」
孔音が言い終わるか終わらないかのうちに、通りの空気が凍てついた。
「そうか。ならば力ずくだ。部外者は排除する」
智之が右手を振るうと、手から幾枚もの紙が出現する。
紙は、風にあおられたように一斉に孔音へと襲いかかった。
それは単なる幻ではない。
一枚一枚が、恨みを吸い込んだ呪いの刃だ。
孔音は身を翻し、紙の嵐を躱す。
紙は孔音の服を裂き、頬をかすめた一枚が、浅くではあるが確かな傷を残した。見た目は紙だが、カミソリのような切れ味をもっていた。
「厄介な」
孔音はフッと息を吐くと、右の人差し指と中指を揃え、自らの眉間に当てる。
「――天眼通」
その瞬間、孔音の瞳が蒼い光を放った。
彼の視界から、現実世界の色彩が消え失せる。代わりに、万物が持つエネルギーの流れや、存在の構造が、設計図のように透けて見え始めた。
智之の身体の背後にぴったりと張り付く、霊体。
その胸の中心に、他の部分とは比較にならないほど強く、黒く輝く一点が見えた。
執着。
復讐。
恨み。
そして生への未練が複雑に絡み合った、この霊体を維持するための《核》だ。
「そこが急所か」
孔音の瞳の変化に、智之は危険を察知した。
その間にも智之は自身が生み出した霊障を一つに集束させる。A3サイズどころかA2の大きな紙を形成し、孔音めがけて放つ。それは、絶望そのものを具現化したような、凄まじい負のエネルギーの塊だった。
だが、孔音は動じない。
眉間に当てていた指先を、まっすぐ前方の相沢の核へと向ける。
「借りたものは返すが道理。だが、やり方が回りくどすぎる。少し頭を冷やしてもらうぞ。――天眼通!」
孔音の指先から、一条の蒼い光が放たれた。
これは天眼通の「あらゆるものを見通す」力で、対象の最も脆い部分や、存在を維持するための核心を見抜き、そこをピンポイントで破壊する力として照射したのだ。
光は霊障が具現化した紙を貫き、空間を突き進む。紙は結束が解かれ、再び小さな紙へと戻る。
「なっ!?」
智之が驚愕の声を上げる暇もなく、蒼い光は彼の霊体の胸、孔音が見抜いた《核》へと、吸い込まれるように突き刺さった。
智之の霊体が激しく明滅し、内側から亀裂が走るような光を発する。
霊障の源である核を揺さぶられると、彼は通りを走って闇へと還るかの如く姿を消していた。
一人残された孔音は、眼の前を舞う霊障が具現化した紙の一枚を手にした。
そこには数字の羅列と共に、ある言葉が書かれていた。
「貸借契約?」
孔音が呟く中、紙は音もなく消えていった。
「……そう言うことか」
孔音は智之の正体を見抜いていた。
(第3話『討債鬼』に続く)
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