夜の声

いつものように職場を出たのは、22時をまわった頃だった。

駐車場の蛍光灯の下、車に乗り込もうとして、ふと足が止まった。


空が、妙に澄んでいた。


いつもなら疲れた目でスマホの通知をチェックするだけだったのに、なぜかその夜だけは、視線が上に向いた。


夜空の真ん中に、星がひときわ強く光っていた。


「あ、あれ…」


ぼんやりと見上げる。

その星は、ベガだった。

こと座のベガ。夏の大三角のひとつ。


目を凝らせば、すぐ近くにアルタイルもあった。

東の空に、デネブも。

ああ、いつの間にか、星座が夏になっていた。


ほんの数週間前まで、オリオン座が見えていた気がする。

気づけば夜の空気も、蒸し暑さを含んでいた。


「…季節、変わってたんだな」


ぽつりとつぶやいたそのとき


ゲッ、ゲッ、ゲエェ、グワッ


不意に、カエルの声が耳に飛び込んできた。

まるで一斉に、あちこちの田んぼから競い合うように鳴いている。


うるさいな、と思った。

でも、それは一瞬だった。


…ちがう、うるさくない。

今までずっと耳をふさいでいたんだ。


残業、資料、会議、寝不足、食事も適当。

「聞こえないふり」がいつの間にか、「本当に聞こえない」になっていた。


カエルはずっと、鳴いていたのに。


夜風が吹いて、シャツの背中に汗が冷える。

星と星をつなぐ線を、頭のなかで引いてみる。


ベガ、アルタイル、デネブ。

夏の大三角。

誰にも教えられてないのに、指が自然と動く。


子どもの頃、祖父と一緒に見た星座を思い出す。

あの頃は、夜の空がもっと近かった気がした。


気づけば、深呼吸していた。


草の匂い。湿気の匂い。

そして、夜。


線路もない、少しだけ山に近いこの町。

何もないけれど、夜空がある。


エンジンをかける前に、車のボンネットに肘をついて、しばらくのあいだ、星とカエルの声に身をまかせた。


明日も、残業かもしれない。

でも、空は変わる。季節も変わる。

気づく心さえ、なくさなければ。


それが、ここに暮らすということかもしれない。

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